2012年02月01日
今日は風が騒がしいな
ショーン・タンの『遠い町から来た話』を読んだ。
ショーン・タンの『アライバル』は、昨年、大人が読んでも楽しい絵本という記事で紹介した。『アライバル』は活字のない絵本だったが、『遠い町から来た話』は絵と文章とで綴られた本。この絵の部分だが、単なる挿絵というのとは違い、文章で書かれた物語のオチが絵で描かれていたりしている。
15の短いお話が載っているが、ひとつひとつがゆっくり噛み締めたいようなお話で、ひとつ読んでは余韻に浸りたくて、そして次を読むのがもったいなくて本を閉じるということを繰り返し、すぐに読めてしまう内容なのに、じっくりじっくり時間をかけて楽しんだ。
話の核心には触れないように注意しつつ、ご紹介。
特に印象に残った話は3つ。
じわっと涙が出るほど感動してしまったのは、「エリック」。
エリックは、異次元からホームステイでやってきた小さな留学生。名前が難しくて、誰も発音できないからと付けられた愛称が”エリック”。彼が気に入った居場所は、台所の戸棚の中。受け入れたホスト・ファミリーは、エリックに異国のなんやかやを経験させようと連れまわしてみたりする。映画館の椅子で、自分の頭ほどのポップコーンを頬張っている小さなエリックがキュート。どこかに出かければ、落ちている小さなゴミに興味を持って持ち帰った。瓶の王冠とか、キャンディの包み紙、ボタンなど。
ホスト・ファミリーは、そんなエリックがちゃんと楽しんでくれているのか心配していた。
そのエリックが、ある日突然「ごきげんよう」と帰って行ってしまう。
自分が暮らしていた戸棚の中に、すばらしいプレゼントを残して……
何度読んでも、紙面いっぱいに描かれたこのプレゼントに感動して泣いてしまう。
興味深い話だったのが、「壊れたおもちゃ」。この本の表紙は、このお話のものだ。
フジツボだらけのクラシカルな潜水服を来た人が出てくる。その人は、ニホンゴを話した……
お話はさておき、ショーン・タンはオーストラリアの人。父は中国系マレーシア人、母はアイルランド・イギリス系移民3世だそうだ。
訳者のあとがきで、オーストラリアで19世紀の真珠産業を支えたのは日本人潜水夫だったという事実を知った。調べてみると、農業移民に先駆けて、この真珠貝採取のための2、3年の短期契約移民がいたのだそうだ。ニューギニアとの間にある島、木曜島がその中心地で、主に和歌山県からの移民だったらしい。
真珠採取のためと言われているが、その実は高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝などを装飾の素材として獲るのが主だったらしく、それらはほぼボタンに使われたとのこと。
日本人潜水夫は働きに働いて、潜水病などで700人もの死者が出たという。
この日本人潜水夫たちについて、司馬遼太郎が『木曜島の夜会』という作品を書いているというのを知ったので、近々読んでみようと思う。
それにしても、日本人の自分が知らない日本人の歴史を、他の国の人に教えてもらうというのは不思議なものだ。
もうひとつ、「遠くに降る雨」。
この本を最初に書店で手にしたとき、パラパラとめくる中でこのお話が目に止まり、これは読まなくてはいけないと早速図書館に予約したという経緯がある。「なぜ買わない?」というツッコミは勘弁してください(笑)
このお話は、私にとってはラストはどうでもよくて、導入部分がとても気に入った作品。
詩の一部が書かれた紙片がたくさん集まって構成されている。ビリビリに破かれた紙片に書いてある単語を切り張りして作ってあるような。
人々が書いた詩は、ほとんど人の目に触れることなく、捨てられたり、隠されたりしているものだ、と。中には、タンスの平行を取るために折りたたまれて噛ませてあったり。限りなく人の目に触れる可能性を少なくしたカタチで、それでありながらどこかで誰かが読んでくれたらという希望も捨ててはいない。たいしたことが書けるわけでもないという謙遜や、単純に恥ずかしいという思い、伝えたいけど直接は伝えられない思いだったり。
ブログで文章を晒している以上、そういった気持ちは痛いほどわかる。
でも、そんななんでもないような言葉にこそ、力があることを思い知らされるようなお話。
余談だけれど、図書館で本を借りていると、たまに誰かが栞代わりに挟んだ紙片と出くわすことがある。レシートだったり、ちょっとしたメモだったりするのだけれども、それを自分が処分する気にはなれず、いつもそっと本に挟んだまま図書館に返却してしまう。
それはさほど意味を持たない紙くずであるはずなのだけれど、紙片を挟んだ借主の生活や思いがなんとなく伝わってきて、どうにも処分する気になれないのだ。そのまま、本と共に旅をお続けなさい。そう思って、紙片を送り出すような気分になる。
装丁が凝っている本で、最後の1ページには裏の見返しが模してあり、「遠い町公立図書館」の貸し出しカードが張ってある。そこには、本を書くにあたっての協力者リストが書かれているのだけれども、名前と日付が羅列してあって、まさしく図書の貸し出し記録のよう。
英文だから自分が使っていたものとは趣がだいぶ違うけれども、これが妙に懐かしい。
小学校の図書室から借りていた本を思い出す。お気に入りの本には、図書カードに自分の名前がずらずらと並んでいたものだ。
さて、話は少々変わる。
先日、とある番組で東洋と西洋のものごとの捉え方の違いというようなものをやっていた。韓国のテレビ番組を紹介したもので、ここでいう東洋とは韓国・中国・日本、西洋とはアメリカ・イギリスあたりを言っているらしい。
例えば、風船が浮かんでいて、それが急に飛び去ったとする。それはどうしてだったかと問うと、西洋人は「風船の中の空気が漏れてその勢いで飛んでいった」と答え、東洋人は「風が吹いて飛ばされていった」と答えるという。
どういうことかというと、西洋人はものそれ自体のことを考え、東洋人は周囲との関連性を考えるという傾向があるらしい。
自分でも「風船は風で飛ばされた」と自然に考えたけれども、それは自分にすでに東洋人としての考えが根付いているということで、意識せずともそのような考えに至ることを客観的に考えたときに、刷り込まれてきたことの大きさを知ったわけだ。
この話を広げるとまとまらなくなりそうなので、畳むとして、ショーン・タンの作品を読んで、東洋的な匂いを感じ取ってきたわけなのだけれども、それはやはり親近感につながっていたと思う。逆に、西洋の作家さんの本を読んで、なんとなく違和感を感じるというか、自分のいる世界と違う世界での出来事という感じが付きまとうことも体験しているし、この感覚の違いというのは案外大きなものなのだというのを再認識した。
お話に出てくる生活スタイルは、どうみても西洋のそれなのだけれども、それでも東洋の雰囲気を感じるのだから、ショーン・タンの作品は多分に東洋的なのだと思う。東洋と西洋なんて、ずいぶんと乱暴なくくり方ではあるのだけれど。
今放送中のアニメ『男子高校生の日常』の中に、文学少女が出てきて、風について語るシーンがある。
→YouTube 5:50あたりから「男子高校生と文学少女」(リンク切れの際はご容赦ください)
この面白さは、西洋の方には伝わりにくいのではないかと想像するのだが、実際はどうなんだろうか。
ショーン・タンの『アライバル』は、昨年、大人が読んでも楽しい絵本という記事で紹介した。『アライバル』は活字のない絵本だったが、『遠い町から来た話』は絵と文章とで綴られた本。この絵の部分だが、単なる挿絵というのとは違い、文章で書かれた物語のオチが絵で描かれていたりしている。
15の短いお話が載っているが、ひとつひとつがゆっくり噛み締めたいようなお話で、ひとつ読んでは余韻に浸りたくて、そして次を読むのがもったいなくて本を閉じるということを繰り返し、すぐに読めてしまう内容なのに、じっくりじっくり時間をかけて楽しんだ。
話の核心には触れないように注意しつつ、ご紹介。
特に印象に残った話は3つ。
じわっと涙が出るほど感動してしまったのは、「エリック」。
エリックは、異次元からホームステイでやってきた小さな留学生。名前が難しくて、誰も発音できないからと付けられた愛称が”エリック”。彼が気に入った居場所は、台所の戸棚の中。受け入れたホスト・ファミリーは、エリックに異国のなんやかやを経験させようと連れまわしてみたりする。映画館の椅子で、自分の頭ほどのポップコーンを頬張っている小さなエリックがキュート。どこかに出かければ、落ちている小さなゴミに興味を持って持ち帰った。瓶の王冠とか、キャンディの包み紙、ボタンなど。
ホスト・ファミリーは、そんなエリックがちゃんと楽しんでくれているのか心配していた。
そのエリックが、ある日突然「ごきげんよう」と帰って行ってしまう。
自分が暮らしていた戸棚の中に、すばらしいプレゼントを残して……
何度読んでも、紙面いっぱいに描かれたこのプレゼントに感動して泣いてしまう。
興味深い話だったのが、「壊れたおもちゃ」。この本の表紙は、このお話のものだ。
フジツボだらけのクラシカルな潜水服を来た人が出てくる。その人は、ニホンゴを話した……
お話はさておき、ショーン・タンはオーストラリアの人。父は中国系マレーシア人、母はアイルランド・イギリス系移民3世だそうだ。
訳者のあとがきで、オーストラリアで19世紀の真珠産業を支えたのは日本人潜水夫だったという事実を知った。調べてみると、農業移民に先駆けて、この真珠貝採取のための2、3年の短期契約移民がいたのだそうだ。ニューギニアとの間にある島、木曜島がその中心地で、主に和歌山県からの移民だったらしい。
真珠採取のためと言われているが、その実は高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝などを装飾の素材として獲るのが主だったらしく、それらはほぼボタンに使われたとのこと。
日本人潜水夫は働きに働いて、潜水病などで700人もの死者が出たという。
この日本人潜水夫たちについて、司馬遼太郎が『木曜島の夜会』という作品を書いているというのを知ったので、近々読んでみようと思う。
それにしても、日本人の自分が知らない日本人の歴史を、他の国の人に教えてもらうというのは不思議なものだ。
もうひとつ、「遠くに降る雨」。
この本を最初に書店で手にしたとき、パラパラとめくる中でこのお話が目に止まり、これは読まなくてはいけないと早速図書館に予約したという経緯がある。「なぜ買わない?」というツッコミは勘弁してください(笑)
このお話は、私にとってはラストはどうでもよくて、導入部分がとても気に入った作品。
詩の一部が書かれた紙片がたくさん集まって構成されている。ビリビリに破かれた紙片に書いてある単語を切り張りして作ってあるような。
人々が書いた詩は、ほとんど人の目に触れることなく、捨てられたり、隠されたりしているものだ、と。中には、タンスの平行を取るために折りたたまれて噛ませてあったり。限りなく人の目に触れる可能性を少なくしたカタチで、それでありながらどこかで誰かが読んでくれたらという希望も捨ててはいない。たいしたことが書けるわけでもないという謙遜や、単純に恥ずかしいという思い、伝えたいけど直接は伝えられない思いだったり。
ブログで文章を晒している以上、そういった気持ちは痛いほどわかる。
でも、そんななんでもないような言葉にこそ、力があることを思い知らされるようなお話。
余談だけれど、図書館で本を借りていると、たまに誰かが栞代わりに挟んだ紙片と出くわすことがある。レシートだったり、ちょっとしたメモだったりするのだけれども、それを自分が処分する気にはなれず、いつもそっと本に挟んだまま図書館に返却してしまう。
それはさほど意味を持たない紙くずであるはずなのだけれど、紙片を挟んだ借主の生活や思いがなんとなく伝わってきて、どうにも処分する気になれないのだ。そのまま、本と共に旅をお続けなさい。そう思って、紙片を送り出すような気分になる。
装丁が凝っている本で、最後の1ページには裏の見返しが模してあり、「遠い町公立図書館」の貸し出しカードが張ってある。そこには、本を書くにあたっての協力者リストが書かれているのだけれども、名前と日付が羅列してあって、まさしく図書の貸し出し記録のよう。
英文だから自分が使っていたものとは趣がだいぶ違うけれども、これが妙に懐かしい。
小学校の図書室から借りていた本を思い出す。お気に入りの本には、図書カードに自分の名前がずらずらと並んでいたものだ。
さて、話は少々変わる。
先日、とある番組で東洋と西洋のものごとの捉え方の違いというようなものをやっていた。韓国のテレビ番組を紹介したもので、ここでいう東洋とは韓国・中国・日本、西洋とはアメリカ・イギリスあたりを言っているらしい。
例えば、風船が浮かんでいて、それが急に飛び去ったとする。それはどうしてだったかと問うと、西洋人は「風船の中の空気が漏れてその勢いで飛んでいった」と答え、東洋人は「風が吹いて飛ばされていった」と答えるという。
どういうことかというと、西洋人はものそれ自体のことを考え、東洋人は周囲との関連性を考えるという傾向があるらしい。
自分でも「風船は風で飛ばされた」と自然に考えたけれども、それは自分にすでに東洋人としての考えが根付いているということで、意識せずともそのような考えに至ることを客観的に考えたときに、刷り込まれてきたことの大きさを知ったわけだ。
この話を広げるとまとまらなくなりそうなので、畳むとして、ショーン・タンの作品を読んで、東洋的な匂いを感じ取ってきたわけなのだけれども、それはやはり親近感につながっていたと思う。逆に、西洋の作家さんの本を読んで、なんとなく違和感を感じるというか、自分のいる世界と違う世界での出来事という感じが付きまとうことも体験しているし、この感覚の違いというのは案外大きなものなのだというのを再認識した。
お話に出てくる生活スタイルは、どうみても西洋のそれなのだけれども、それでも東洋の雰囲気を感じるのだから、ショーン・タンの作品は多分に東洋的なのだと思う。東洋と西洋なんて、ずいぶんと乱暴なくくり方ではあるのだけれど。
今放送中のアニメ『男子高校生の日常』の中に、文学少女が出てきて、風について語るシーンがある。
→YouTube 5:50あたりから「男子高校生と文学少女」(リンク切れの際はご容赦ください)
この面白さは、西洋の方には伝わりにくいのではないかと想像するのだが、実際はどうなんだろうか。
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この記事へのコメント
その人にアイデンティティがないと
それは
寂しいものになるでしょう
風船の絵が
それを手繰り寄せる切っ掛けになったとは・・
思考回路は
生活する民族の和で変わっていくんですね
呼び名も
本名で呼ばれないと
その和の中では変化するのでしょうか
ちなみに
プリュムの名は英語圏では発音しにくいものです
横文字の呼び名がつくのかしらん
それは
寂しいものになるでしょう
風船の絵が
それを手繰り寄せる切っ掛けになったとは・・
思考回路は
生活する民族の和で変わっていくんですね
呼び名も
本名で呼ばれないと
その和の中では変化するのでしょうか
ちなみに
プリュムの名は英語圏では発音しにくいものです
横文字の呼び名がつくのかしらん
Posted by プリュム at 2012年02月01日 20:03
プリュム 様
不思議なものですね。
自分が意識しないところでしっかり染み付いた思考があるとは。
海外で活躍するスポーツ選手などを見ていると
やはり呼びやすい愛称がつきますね。
例えば、仏語ではHの発音ができないので
「はひふへほ」が付く名前だと「あいうえお」で読み替えられてしまうし。
日本語ほど単純な発音はないと言われる一方で
実はこれもやはり無意識のうちに複雑な発音を使い分けしているようで。
「エリック」には、「お国柄ね」という言葉が何度も出てくるのですが
ほんとに「お国柄」ですね(笑)
不思議なものですね。
自分が意識しないところでしっかり染み付いた思考があるとは。
海外で活躍するスポーツ選手などを見ていると
やはり呼びやすい愛称がつきますね。
例えば、仏語ではHの発音ができないので
「はひふへほ」が付く名前だと「あいうえお」で読み替えられてしまうし。
日本語ほど単純な発音はないと言われる一方で
実はこれもやはり無意識のうちに複雑な発音を使い分けしているようで。
「エリック」には、「お国柄ね」という言葉が何度も出てくるのですが
ほんとに「お国柄」ですね(笑)
Posted by nbm at 2012年02月02日 09:02
読みたいと思った本は、まず図書館に予約しますよ。
もし区内の図書館にないときは「リクエスト」という方法があって、たいていは時間はかかっても購入してもらえます。
読んでみて、これは、と思ったものだけ買うことにしています。そうしないと、狭い我が家はそこらじゅう本棚だらけになってしまいます、、、
で、早速「木曜島の夜会」を予約しました。
もし区内の図書館にないときは「リクエスト」という方法があって、たいていは時間はかかっても購入してもらえます。
読んでみて、これは、と思ったものだけ買うことにしています。そうしないと、狭い我が家はそこらじゅう本棚だらけになってしまいます、、、
で、早速「木曜島の夜会」を予約しました。
Posted by 葛の葉 at 2012年02月02日 20:28
葛の葉 様
私も地元図書館にない本はリクエストすることがあります。
こちらでは、県内の他の図書館を探してくれます。
それでもない場合には購入となるのか、そこまでになったことはありませんが。
公共の図書館にはまず置かないだろうという本だけ購入します。
以前はやはり本を処分するのが大変で(笑)
人にあげたり古本屋に持っていったりしたものです。
本って重いですよね。運ぶのが大変で、買取に来てもらったことも。
友人に大学教授夫人がいるのですが
本の重さで家の床が抜けそうだとこぼしてました。
『木曜島の夜会』はどうでしょうね。
司馬遼太郎にしては珍しい作風だという評判なのですが。
私もすぐにでも読みたいのですが、手元にまだ本が山積みで(苦笑)
少しそれらを消化してからにしようと思います。
私も地元図書館にない本はリクエストすることがあります。
こちらでは、県内の他の図書館を探してくれます。
それでもない場合には購入となるのか、そこまでになったことはありませんが。
公共の図書館にはまず置かないだろうという本だけ購入します。
以前はやはり本を処分するのが大変で(笑)
人にあげたり古本屋に持っていったりしたものです。
本って重いですよね。運ぶのが大変で、買取に来てもらったことも。
友人に大学教授夫人がいるのですが
本の重さで家の床が抜けそうだとこぼしてました。
『木曜島の夜会』はどうでしょうね。
司馬遼太郎にしては珍しい作風だという評判なのですが。
私もすぐにでも読みたいのですが、手元にまだ本が山積みで(苦笑)
少しそれらを消化してからにしようと思います。
Posted by nbm at 2012年02月02日 21:44
図書館ってすごいと思う。あれだけの浩瀚な書が、ぜーんぶタダで読めるんですよ。
愚輩、家の中にモノが増えるのが嫌なので、本当に気に入った図書しか買わないのです。
太宰治は蔵書が無かったそうですよ。どんな本を読んでいるのか他人に知られるのが嫌だったさふです。さすが天下のナルシスト。
青空の下と旗亭こそ我が書斎‥、なーんて生き方が好きです。
愚輩、家の中にモノが増えるのが嫌なので、本当に気に入った図書しか買わないのです。
太宰治は蔵書が無かったそうですよ。どんな本を読んでいるのか他人に知られるのが嫌だったさふです。さすが天下のナルシスト。
青空の下と旗亭こそ我が書斎‥、なーんて生き方が好きです。
Posted by オスカーさん at 2012年02月02日 23:18
オスカーさん 様
”浩瀚”という表現を知りませんでした。勉強になります!
図書館や書店で棚を回る度に
一生かけてもほんの少しの本しか読めないことに気づかされ愕然とします。
買わなければ作家さんのためにならないという考えもあるでしょうが
図書館を使い出したら様々便利で。
お金がかからないのはもちろんですが、場所をとらない上に
返却期限が限られるので”積読”にならずに読めるんです。
新刊にスポットが当たる書店とは違い、古い本があるのも魅力です。
古い本が多いせいか、意外性のある出会いも多いです。
へぇ〜、太宰が蔵書を持たなかったというのも面白い話ですね。
私も大好きな本だけは少しだけ手元にとってあります。
とっておいても、読みたい本が次から次へと出てくるので
結局再読などできないわけなのですが。
”旗亭”というのも知らない言葉でした。ほんとに勉強になります!
”浩瀚”という表現を知りませんでした。勉強になります!
図書館や書店で棚を回る度に
一生かけてもほんの少しの本しか読めないことに気づかされ愕然とします。
買わなければ作家さんのためにならないという考えもあるでしょうが
図書館を使い出したら様々便利で。
お金がかからないのはもちろんですが、場所をとらない上に
返却期限が限られるので”積読”にならずに読めるんです。
新刊にスポットが当たる書店とは違い、古い本があるのも魅力です。
古い本が多いせいか、意外性のある出会いも多いです。
へぇ〜、太宰が蔵書を持たなかったというのも面白い話ですね。
私も大好きな本だけは少しだけ手元にとってあります。
とっておいても、読みたい本が次から次へと出てくるので
結局再読などできないわけなのですが。
”旗亭”というのも知らない言葉でした。ほんとに勉強になります!
Posted by nbm at 2012年02月03日 00:14
「文学少女」のアニメを観ました。
ボブ・ディランの『風に吹かれて』という有名な曲がありますが、
あれの「答えは風に吹かれている」というのを、
ちょっと思い出しました...。
この曲は、私には、はっきりした意味がよくわからないのですが、
そうしたよくわからない、曖昧な(文学的な)表現を使うことで、
様々な答えは、そうそう容易く見つかるものではなくて、
よくわからないものなんだ、ということが、
かえって、強く表現されているように、個人的には感じています。
この歌詞のような、
不明瞭で、ちょっと曖昧な感じは、
nbmさんのおっしゃる東洋的な感じに入りますか?
私は、ちょっと近いのかな、と感じたのですが、
この曲の当時は、
西洋の考え方がいろいろと反省されていた時期のように思いますので、
そのために、こうした「東洋的な感覚」がうたわれたのかな、
と感じました...。
そんなことを思うと、こうした感覚は、西洋の方でも、
それなりに共有されているのではないか、と思いました。
ただ、このアニメにあるような、
そうした言葉にまつわる微妙な照れみたいなものまでが、
きちんと伝わるのかどうかが難しいところのような気がしました。
なんか理屈っぽくなった...。
失礼しました。
ボブ・ディランの『風に吹かれて』という有名な曲がありますが、
あれの「答えは風に吹かれている」というのを、
ちょっと思い出しました...。
この曲は、私には、はっきりした意味がよくわからないのですが、
そうしたよくわからない、曖昧な(文学的な)表現を使うことで、
様々な答えは、そうそう容易く見つかるものではなくて、
よくわからないものなんだ、ということが、
かえって、強く表現されているように、個人的には感じています。
この歌詞のような、
不明瞭で、ちょっと曖昧な感じは、
nbmさんのおっしゃる東洋的な感じに入りますか?
私は、ちょっと近いのかな、と感じたのですが、
この曲の当時は、
西洋の考え方がいろいろと反省されていた時期のように思いますので、
そのために、こうした「東洋的な感覚」がうたわれたのかな、
と感じました...。
そんなことを思うと、こうした感覚は、西洋の方でも、
それなりに共有されているのではないか、と思いました。
ただ、このアニメにあるような、
そうした言葉にまつわる微妙な照れみたいなものまでが、
きちんと伝わるのかどうかが難しいところのような気がしました。
なんか理屈っぽくなった...。
失礼しました。
Posted by k_nakama at 2012年02月03日 16:23
k_nakama 様
ボブ・ディランの『風に吹かれて』については
詩の内容をよく知らないので、訳詩を探して読んでみました。
Wikipediaで紹介されているディラン本人のコメントを読んだら
まさに上記の『遠い町から来た話』の中の
「遠くに降る雨」と似たような意味を含んでいるようですね。
ことばが風に乗って飛んでいってしまうという点では共通しています。
「遠くに降る雨」では、打ち捨てられた詩のかけらたちが遠くに届き
雨のように降りそそいで、その地の人を癒すというような内容でした。
『風に吹かれて』の場合は、「どうせ届かないだろう」的な否定的な内容のようですが。
公民権運動のテーマソングのようになったという話ですから
歌にして”届けよう”と考えたのでしょうね。
くだんの韓国のテレビ番組で語られていたことは
あくまでも「東洋人は対象を周囲のものと関連付けて見ている」という主張で
『風に吹かれて』の場合は、対象である”詩”がただ風に吹かれて届かない
というだけなので、この観点からはちょっと外れる気がします。
番組で紹介されていたもうひとつの例を挙げましょう。
2枚のイラストの話です。
中央に男性がいて、彼を挟んで5、6人の人が横並びになっている構図。
中央の男性以外の人々の表情がポイントで
1枚は普通の表情、もう1枚は怒っているような不満そうな顔をしています。
このとき、中央の男性の表情は普通で、2枚とも変わりません。
この2枚のイラストを見て、「中央の男性は幸せそうに見えるか」と質問します。
東洋人は、他の人が怒っているように見えていると
中央の男性は幸せそうには見えないと判断します。
西洋人は周囲の人間の表情にはお構いなしで
2枚とも中央の男性は表情が変わらないのだから
2枚とも中央の男性は幸せそうに見えると答える傾向にありました。
「風に吹かれて」では、結論がないままなので
そういう曖昧さを残しているという意味では
東洋的というよりも日本的な感覚に近いのかもしれませんね。
『男子高校生の日常』の「文学少女」のくだりでは
風自体が”泣いている”と感じたり
”悪いものを運んでくる”と捉えたりしているあたりが
風と周囲の出来事との関連を語っているわけで
その辺が東洋的といえるのかもしれないと思いました。
そして、nakamaさんがおっしゃるように
”微妙な照れ”のニュアンスが伝わりにくいだろうなと。
コメントをいただいて
私ももう一歩深く考えることができた気がします。
興味深いコメントをありがとうございました!
ボブ・ディランの『風に吹かれて』については
詩の内容をよく知らないので、訳詩を探して読んでみました。
Wikipediaで紹介されているディラン本人のコメントを読んだら
まさに上記の『遠い町から来た話』の中の
「遠くに降る雨」と似たような意味を含んでいるようですね。
ことばが風に乗って飛んでいってしまうという点では共通しています。
「遠くに降る雨」では、打ち捨てられた詩のかけらたちが遠くに届き
雨のように降りそそいで、その地の人を癒すというような内容でした。
『風に吹かれて』の場合は、「どうせ届かないだろう」的な否定的な内容のようですが。
公民権運動のテーマソングのようになったという話ですから
歌にして”届けよう”と考えたのでしょうね。
くだんの韓国のテレビ番組で語られていたことは
あくまでも「東洋人は対象を周囲のものと関連付けて見ている」という主張で
『風に吹かれて』の場合は、対象である”詩”がただ風に吹かれて届かない
というだけなので、この観点からはちょっと外れる気がします。
番組で紹介されていたもうひとつの例を挙げましょう。
2枚のイラストの話です。
中央に男性がいて、彼を挟んで5、6人の人が横並びになっている構図。
中央の男性以外の人々の表情がポイントで
1枚は普通の表情、もう1枚は怒っているような不満そうな顔をしています。
このとき、中央の男性の表情は普通で、2枚とも変わりません。
この2枚のイラストを見て、「中央の男性は幸せそうに見えるか」と質問します。
東洋人は、他の人が怒っているように見えていると
中央の男性は幸せそうには見えないと判断します。
西洋人は周囲の人間の表情にはお構いなしで
2枚とも中央の男性は表情が変わらないのだから
2枚とも中央の男性は幸せそうに見えると答える傾向にありました。
「風に吹かれて」では、結論がないままなので
そういう曖昧さを残しているという意味では
東洋的というよりも日本的な感覚に近いのかもしれませんね。
『男子高校生の日常』の「文学少女」のくだりでは
風自体が”泣いている”と感じたり
”悪いものを運んでくる”と捉えたりしているあたりが
風と周囲の出来事との関連を語っているわけで
その辺が東洋的といえるのかもしれないと思いました。
そして、nakamaさんがおっしゃるように
”微妙な照れ”のニュアンスが伝わりにくいだろうなと。
コメントをいただいて
私ももう一歩深く考えることができた気がします。
興味深いコメントをありがとうございました!
Posted by nbm at 2012年02月04日 09:15

