2012年02月08日

優曇華教講義19

「許容する社会」「許容せぬ社会」。「許容」の基準を「宗教」という。
「許容する社会」に「宗教」はない。
「許容する社会」には「宗教」を名乗るものはいくつでもある。

…「許容せぬこと」を「慈悲」という。


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2012年02月05日

近況

ひたすら眠い一週間であった。さほど疲れる要素があったとは思えぬのだが…。
週刊ポスト。連載中の池田大作論「化城の人」。三谷素啓なる人物について。…私がこの名を最初に知ったのは中学生の頃のことだった。
この連載を読む限りでは、かなり人間性に問題のある人物、ということになる。
次にこの名に私が出会ったのは、私が日蓮正宗とかかわりのできた頃のこと。創価学会正史では、極力この名を伏せようとする。名前そのものは初代会長と日蓮正宗とを繋いだ人物としての関わりにおいて記せざるを得ぬが、その名以上には何も書かれない。牧口は三谷とは、ごく短期間の関係の後に絶縁し、さらに三谷は間もなく死去した。この連載によって、私はようやくその構図にけりがついた。ただ、何故今池田大作論なのか。もはや池田は、あるいはその周辺は、このような評論に不快感を示す力を保持できないということなのか。…今後二代会長戸田、そして三代目池田へと、胡散臭い人物群の系譜を、この連載は書き続けることができるだろうか。それとも…。
三谷素啓。ある日の美術の時間、だしぬけに中学の美術教師が仏教の話を始めた。そこへのきっかけが何であったのかが、どうしてもわからない。とにかくそこにこの名が出て来たのだ。…尊敬すべき宗教家…。知られざる賢聖…。私にとって、この名は登場すべくして登場した、ということだ。
「化城の人」では三谷について、詐欺師的要素を印象づける書き方をする。
月曜日に手にした週刊誌に、一応眼を通すのに一週間を要した。とにかく眠たかった。


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2012年02月02日

優曇華教講義18

「…何故なれば、彼等は意志の成就と清浄な姿を達成する資質を賦与されているからである。」

「ブッダの智慧をさとらせるために、自ら生じた者」。この言い方は非常にねじくれている。「さとらせる」対象は「自ら生じた者」自身であるからだ。先日の「年老いた自分に逢った」というのは、それをわかりやすく教示する方便であったのだろう。だが、凡夫中の凡夫、凡夫を絵に描いて額に入れたが如き半覚斎、これに気付くのに半世紀を費やしてしまった。…よく憶えていたものだ。そのことに自分で感心しているほどだ。ここで「前世」や「輪廻」がおぼろげに姿を見せるが、なに、そんなものはさして重要なことではない。…人は理屈を要するのだ。納得できそうな理屈を…。
「自ら生じた者」とは「人」として「人の中に」生まれる。…これも理屈。ここで理屈に合わぬ生まれ方をしようものなら、誰がまともにこのことを考えるだろう。そこのところ、大乗経典は間違っている。覚者を棚上げするが為、その神格化を無理押しする大乗経典は、とんでもない誕生譚を創作する。…だから仏教は滅びるのだ。
覚者たる釈迦は、そんなことはしてもいないし、言ってもいない。
そもそもが、仏教の元来の目的は「ブッダの智慧をさとること」である。ここに「さとらせる」という表現が用いられるのは「自ら生じた者」が「人」として「一衆生」として生まれた者であるからだ。…であるなら、それは「衆生一般」にも悉くあてはまることであろう。…かと言って、元来の仏教は「覚者が他の衆生を教化する目的で説いたものである」と考えてはならない。いや、そう考えられることは確かであり、だからこそ「大乗」という誤ったレールへと仏教は迷い込むのだ。
このことが、前回の「最上の委嘱」とつながる。
「最上の委嘱」が「最低の結果」であろうが、それに口ははさまない。…ただし当の覚者自身が方向を誤ったとすれば、すべては瓦解する。…瓦解とは「誓願が達成されない」という事態である。その轍を踏まぬがための「教え」を読み取ることができるか。これも覚者に要求される「修行」。それをひっくるめて明かされるのが「優曇華教」という「教え」。…もはや私は「仏教」から遥か彼方へと歩いてきた。それに伴ない、いよいよこの世界は昏迷へと向かっている。

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2012年02月01日

最上の恵み、最上の委嘱

憐れみと慈しみ。恵みとはそういうことだ。「如来は求道者・すぐれた人々を最上の恵みでつつんでいる。如来は求道者・すぐれた人々に最上の委嘱を与えている。」…先日まで書いていた「金剛般若経」最初の部分だ。

人には役割がある。…こう書いたとき、人はそれをどう受け止めるだろうか。私は戦後の道徳教育の実験期に初等教育を、しかも学芸大(現・教育大)附属小学校という教育実験を目的としている場で受けた。あの時機の浅薄にして実のない道徳学習において、第三国人的狡猾さを発揮し、労せずして文化破壊の主導権を手に入れた変節教師なら、この言葉をどう説明しただろうか。思い起こすだけでも気分が悪い。

人には役割がある。…如来はそれを「最上の委嘱」と言う。如来は何を、どのように、人に委嘱しているのか。「最上の恵み」によって包まれねばならぬ「人の意味」の発揮を、如来は人に委嘱するのだ。
スブーティが感涙に咽びながら、シュラーヴァスティ市のジュータ林の、孤独な人々に食を給する「長者の園」での修行僧達の生活が「如来によって最上の恵みに包まれ、如来によって最上の委嘱が与えられていることはすばらしい」と言うのとは、全く違う意味で、如来は同じ言葉を返す。ただし「すばらしいことである」とは一言も言ってはいない。

教師が妙に高揚し、薄気味の悪い笑顔を浮かべているのは、それが彼の晴れ舞台である「公開授業」であったからだ。彼は高らかに「人権尊重の時代の開幕」を宣言する。昭和の20年代が、ようやく終わりに近づいた頃のことだ。
人には役割がある。…教室の後ろだけではなく、生徒達の両脇にもガリ版刷りのわら半紙の資料を持ち、手帳に何やら書き込みながら、その授業を参観する文部省(現・文部科学省)の関係者がびっしりと並んでいる。かねてより内々に打ち合わせてあったとおりに、教師は一部の生徒に発言をうながす。何と理路整然とした発言であったことか。…私はその日の授業が午前中で終わることだけが嬉しかった。授業の内容など糞喰らえである。…貧相な者達の威厳など、どこからか漂ってくる「仁丹」の匂い程度のものである。

人は「最上の委嘱」によって「大乗」を選んだ。まさに憐れむべきことである。
私がものごころのついた頃には、破壊はおおかた終わり、再生が模索されていたのであろう。守旧勢力は表面上一掃されていた。明治維新は革命だなどと言えるものではない。あれはクーデターというのだ。革命は敗戦によって起こった。起こったのではなく、革命状態に投げ出されたのだ。マッカーサーの前で天皇が直立不動の姿勢で撮影に応じている。…全知全能の創造神の押さえをはずした民主主義というもの。宗教というバックボーンなき社会における、その宗教に代わるもの。…それは成り立ち得るものであろうか。…それも「最上の委嘱」であろう。

その頃、後の如来はまだようやく「誓願」を夜毎口ずさんでいる状態であった。


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2012年01月31日

優曇華教講義17

ブッダの実人生と観念の事蹟とは、まるで違ったものであろう。…ということを、ふと思う。
霊鷲山での説法の場面には、おそらく当時で考えられる世界中の者達が書き込まれている。そして、その説法の場には誰もいないのだ。「全てがいる」とは「誰もいない」と同じ。…それは誰も知らず、そして全てが影響を受けるということである。…もしもそれが起こっていたのなら。
これはフィクション。観念の描写。
…こればかりはわからない。未だかつて、この世界で「それ」は起こったことがないのだから。ただ「それ」は誰もいないところで始まるだろう。そして終わったなら、そこには本当に誰もいない。…であれば、あのように世界中の者が集まっているという書き方は、その物語を語る手法とすれば効果的であろう。…そう、ただそれだけのことなのだ。ではブッダは孤独であっただろうか。
…そういうことを、ふと思ったのだ。それを菩薩が解説するというやり方は失敗だった。話がいかにも嘘であるかのようになってしまった。…ま、これも試行錯誤の範囲か。
自分のこととして、私はそれを思い出すのだ。私は未来を思い出すようになった…(誰でもやっていることだ。ただそれをダイレクトには言わぬだけ)。…そのとき私は孤独であっただろうか。…その慈悲の実現の時に…。





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2012年01月28日

優曇華教講義16

…いつだったか年老いた自分に出会った話を書いた。ちょうど何もわけのわからないまま、あの誓願の言葉を毎夜布団に入ってから呟いていた頃、私が七歳の頃のことだ。あれから半世紀がとうに過ぎた。「数え」でいうなら私は還暦なのだ。…もっともその自覚はないが…。

「輪廻」というのは、現代インドの諸語では「世界」を意味するらしい。「世界」とは転生であり流転であるのだろうか。だとすれば、そこには「場」のニュアンスは乏しい。「時空」と言うときの「時」が「世界」なのだろうか。…それも魅力的な捉え方だな。
それでは「我」はどこにあるのだろう。

これもいつか書いたことだが「川の理論」。その一瞬を見極めようとするなら、世界は消え去り、何者かが佇んでいることになる。その何者かの構造・性質を探ろうが、世界はそのどこにもない。
…流れ往くものが「世界」であるなら、その一瞬である「今」、世界は消え去る。…ファンタジーだな。

子供である自分が、年老いた自分と出会う。実にわかりやすい「方便」である。…そのようにして私は「託された者」となった。年老いた私は、こう言ったのだ。
「望んだとおりになるだろう…」
まさにそこから、世界の色合いが変わった。
後に母が述懐した言葉を憶えている。
「いつの頃だったか、そこから何もかもがうまくいかなくなった…」
さて「世界」とは何を指す言葉なのだろう。「世界」は「輪廻」と同義であるか。

「自分の心に通暁すること」と「輪廻からの解脱」が同じものであるとするのが「如来蔵思想」であれば、それ以外の「仏教」とはあり得るか。「Upaka,Ajivika」…もいかい氏のブログより。
…私は、それは視点が逆だと思う。衆生に如来は胚胎する。そうではない。「仏性論」でいうところの「所摂蔵(衆生は法身に包摂される)」という言い方(ただしこれも正鵠を得た表現ではないが…)。すなわち「如来を蔵する衆生」ではなく「如来が(の)蔵する衆生」。「蔵」はここでも「場」ではなく「時」。

「輪廻」という考え方は、古代ギリシャ、古代エジプトにも認められるものである。「不死の獲得」とは人類の究極の願望なのか。「輪廻」とはそれの普遍的「偶像化」であるのか。








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2012年01月27日

優曇華教講義15

「世界人類が平和でありますように…」という言葉を、街角で見た覚えがあるだろう。
世界人類を平和なる境地へと導く力は、どこからどのようにして生ずるのだろう。世界人類にそれが出来たためしはない。争いと災害は絶えたことがなく、それどころか個々の世界人類は「生老病死」の苦悩に追いまくられている。安らかで変わりのないことを希望したところで、それは最初から実現せぬものであることを、当の世界人類が百も承知ではないか。…仏教は、そこのところを何とかできないものだろうかという発想から出発したに違いない。そして、未だにそれは出発点から一歩も前へは進んでいない。…一歩も前へ進めないのは何故だろうか。何が欠けているからなのか。
「世界人類に平和はあり得ない…」。もうそろそろそれを認めた方がいいのではないのか。そうすれば、この行き詰まり感は打開できるかもしれない。

…健康を望む者は健康ではない。健康である者は健康を意識しない。健康を意識せぬ者が健康であったのだ。…これが「信」であり、これが「悟」である。






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2012年01月26日

優曇華教講義14

「講義13」で中途半端な終わり方をしたまま、間があいてしまった。「時の意味」が絡んでくるのは、むしろ「講義13」の先の部分である。

スブーティの問いかけ
「第二の五百年代に、このような教えが説かれたとして、それを真実と受け止める人がいるでしょうか。」
第二の五百年代とは、釈迦滅後五百年を経過した後に起こるとされた宗教的変動のことであると註釈にある。それが大乗の興起であるとするのが一般的な見方であろう。大乗の勃興とは仏教の滅亡である。これほど大きく、また確かな変動はない。
経典の言葉を素直に読むならば、それは未来の事として書かれている。だが師の返答には、そういう要素はない。人の理法から離れた者だけが求道者であったことになるということを言う。この場合の理法から離れるとは、法の否定ではない。「法を客観視する」と言えば、そのニュアンスが伝わるだろうか。
実はこのことが「初期閑時種」の中心テーマであった。それを「立場」として立て分けてきたのが半覚斎の主張だった。それは始まりとしては妥当な展開であったと思う。そこから「優曇華教」に導かれたと感ずる者は事実相当な数にのぼるだろう。何故なら、それは「教え」として受け取るに、余計な抵抗がないから。ただし、そこから「時の意味」への繋ぎが難しい。…最も簡単なゆくえは大乗であろう。たとえスタートのレールが引かれていたにせよ、気付けば方向の違う大乗のレールを走っている。ここに違和感を持ち得ない者は、「優曇華教」をただ仏教に似て非なるものと考える。それは根源がどこにあったかを知らぬ者。知ろうとすることのできない者であろう。
だが、このことを問う立場のスブーティですら「第二の五百年代」について言及しているではないか。それは仏教の滅亡のことなのだ。大乗への発展的解消と見るのは、あくまで大乗の立場。

今回で「金剛般若経」解題から離れる。…それはもう飽きた。
私は最近こう思う。…私に逢いに来なさい。私の居所を知ろうとすれば、それだけの熱意があったならば、それはわりと簡単にできることだろう、と…。



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2012年01月21日

優曇華教講義13

あの当時、自分の言葉に、ざっと訳したテキストはあるが、これまでは「金剛般若経」について詳しく話したことはない。岩波文庫版の訳文は、日本語としてまともに通用するものではない。訳者は果たして原文の意味を理解しようとしたのだろうか。それともただ機械的に置き換えたのだろうか。

私が「誓願」というものが仏教の絶対的条件であることに気付いたのは、この「金剛般若経」の最初の部分でだった。そこからほつれて玉になった糸がほどけるように、色々なことが組み合わさっていった。そういう意味では、もっと「金剛般若経」を使いこなせばよかったようなものであるが、いかんせんあれは日本語として読めるものではない。もちろん原文に余計なものを加えたり、何かを引き去ったのであれば、それはおおいに問題であるが、結果として意味が通じないのも困ったものだ。

今回、じっくりと「金剛般若経」に張り付いてみて新たな発見もある。ただ、これを全文解説していくことはしない。…私は飽きっぽい人間だから。とりあえず最初の段落に集注しよう。

「如来は特徴をそなえたものと見るべきであろうか。」
「施し」についての次の文である。これに対するスブーティの答え。
「師よ、そう見るべきではありません。如来は特徴をそなえたものと見てはならないのです。何故なら、特徴をそなえているということは、特徴をそなえていないことだと、如来が仰せられたからです。」
…この手のやりとりが、以下延々と続く。私のように飽きっぽくない者であろうと、投げ出すに違いない。スブーティは自分の言っていることがわかっているのだろうか。
さらにこれに対する師の言葉。
「特徴をそなえているといえば、それは偽りであり、特徴をそなえていないといえば、それは偽りではない。だから、特徴があるということと、特徴がないということと、その両方から如来を見なければならないのだ。」

「特徴」…これについての註釈「仏の特徴といわれる三十二相。仏にのみ存し、凡夫にはない三十二の身体的特徴」。…この問答はそういうことを言っているのだろうか。

漢文ではこの部分、どう訳されているだろうか。
「身相を以って如来を見るべきや否や。」
「否なり。身相を以って如来を見ることを得べからず。何を以っての故に。如来の説き給える所の身相は、すなわち身相にあらざればなり。」
「およそあらゆる相は皆これ虚妄なり。もし諸相は相にあらずと見るときは、すなわち如来を見る。」

何かが違っていることに気付いただろうか。
「如来」とは何か。…「さとり」を得た者のことをそう呼ぶ。いわゆる「覚者(ブッダ)」。「如来」とは、「さとり」による考え方を持った人である。それは到底理解不能な考え方であるがゆえに、彼岸からやって来たが如しと言われ、それで「如来」である。(今様に表現すれば「宇宙人」であろうと、この前書いた。)あくまで「人」として存在する。

「特徴をそなえているということは、特徴をそなえていないということだと如来が言うから…」
「如来の言う特徴とは、特徴ではないから…」
…どっちもどっち。これでは何を言っているのか皆目見当がつかない。

如来とは、どのような存在として見えるだろうか。見る限りは、ただの人である。如来という名について、当の如来が語ったとすれば、そこに何ら「如来の特徴」なるものは存在しない。もし仮にそれをわかりやすい言葉で言ったなら「如来の特徴とは、如来の特徴がないということだ」…になるだろうか。
そういうことを聞きかじったスブーティが、師の問いかけに答えたのだろうか。

「(如来は如来としての)特徴をそなえた存在ではない」=「特徴をそなえていないといえば偽りではない」…そうなのか?そういうことがこの問答の意味なのだろうか。…ではあの註釈は何なのか。嘘か?間違いか?

スタート地点へ戻ろう。
最初の問いは「求道者への道へ向かう者の心得について」であった。「その生活、その行動、その心の保ち方について話そう」というのが答え。
「求道者への道へ向かうには、生きるものすべてを永遠の平安の境地へと導こうという考えを持たねばならない。」
「だが、その境地へと導かれるものはない。」
「求道者たるには、生きるものが実体として存在することがないという考えに至らねばならないからだ」
「求道者とは、彼が認識してきたいっさいの事物に制約されなかった者のことを、そう呼ぶのだ。」
…つまり、求道者というものは今ここに実在することがない。

「え?」

「優曇華教」では次のように、このことを説く。
「求道者とは、さとりを得た者の、さとりを得る前を指す名である。…よって、今ここに求道者という存在はない。」…昨日の私は実体とはならない。

ここまで来て、さて今回の部分である。
視点が移動する。「如来をどう見るか」がテーマだ。見るのは誰だ。
同じく「優曇華教」では、このことをこう説く。
「如来とはどのような存在なのか、さとりとはどういうことなのか。…さとりを未だ得ぬ者の想い描く如来とは、実体になり得ない。」…明日の私は実体とはならない。

「え?」そんな話だったのか?




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2012年01月20日

優曇華教講義12

「求道者は、ものにとらわれて施しをしてはならない。何かにとらわれて施しをしてはならない。声や香りや味、触覚の対象や意の対象にとらわれて施しをしてはならない。求道者は、跡を残したいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならない。何故ならば、求道者がとらわれることなく施しをすれば、その功徳が積み重なって、たやすく計り知られないほどになるからだ。虚空の量が計り知ることができぬように、その功徳の積み重なりはたやすくは計り知られない。求道者の道に向かう者は、このように跡を残したいという思いにとらわれないようにして施しをしなければならないのだ。」

註釈によると、チベット訳では「求道者は、ものにとらわれることなしに施しをする。いかなる法にもとらわれることなしに施しをし、形にもとらわれることなしに施しをする。何故ならば、求道者がとらわれることのない施しをすれば…」となっているらしい。

さて「施し」とは何か。「広く影響を及ぼすこと」。「恵み与える」という意味は、付け足しのようなもの。私はこの「施し」という言葉に「行」の意味を見る。…五蘊のところで私は「行」とは「意思的形成作用」と言った。この「行」は「受」と対をなす。「受」は「意味の構成作用」。「意味の構成」とはまた「意味を実体へと翻訳すること」であり、「意思的形成」とは「翻訳・構成された意味の評価」である。
「もの(法)にとらわれず、形にとらわれず」に「行」を為すのが求道者である。…これがこの部分の大意である。それによって、そこから全ての関係性が生ずる。すなわち「広く影響を及ぼす」のである。「影響を及ぼすこと」には、完全な妥当性を担保はしないまでも「恵み与える」という表現を使い得る。ただし、これには別のニュアンスが強すぎる。

「優曇華教」によって「金剛般若経」を読解する試みを書いている。「優曇華教」は仏教をも包含する根本義であるという立場から、いわゆる「初期大乗経典」であるところの「金剛般若経」が、その表現においてすでに見失ったものを表相に浮かび上がらせることができる。…これは、その試みとして書いている。



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2012年01月19日

優曇華教講義11

「金剛般若経」の場面設定はこうだ。
…あるとき、師は1250人もの修行僧とともに、シュラーヴァスティー市のジュータ林、孤独な人々に食を給する長者の園に滞在していた…。師は朝に托鉢に歩き、食事を終えると瞑想に入る姿勢で坐る。
ここでスブーティが師のかたわらに近づき、ひとしきり感慨を述べたあとに、求道者の道へ向かう者の心得を尋ねる。
「師よ、素晴らしいことです。如来によって求道者が最上の恵みに包まれているということは…。如来によって求道者が最上の委嘱を与えられているということは…。」
これは、その朝のシュラーヴァスティー市のジュータ林「孤独な人々に食を給する長者の園」の光景についての感慨ではないか。
こんなにも多くの修行僧の集う場が、師の威光によって確保され、修行僧達は、師によって統御されているわけではなく、それぞれに、しかも統制のとれた思い思いの行動を起こしている。スブーティは、教団のこのような在り方、わけても修行僧(求道者)達の真摯な求道の姿勢に感激している。
そして、彼等に続く次代の求道者育成のための指導を仰いだのだ。
「師よ、求道者の道へ向かおうとする者達は、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保つべきでしょうか。」

これに対し師は、全く別のことを説こうとしている。
「まことにあなたの言うとおり、如来は求道者を最上の恵みで包んでいる。如来は求道者に最上の委嘱を与えている。だから聞くがよい。よくよく考えるがよい。求道者の道へ向かう者は、どのように生活し、どのように行動し、どのように心を保つべきであるかを、私はあなたに話して聞かせよう。」

スブーティは「師よ」という呼びかけを行なう。師とはこの場合、覚者(ブッダ)であり如来である。如来であるならば、その発想は「さとりの智慧」をもととしていると考えなければならない。…つまり如来は教団も修行僧達も「実体」として捉えてはいないのだ。
「最上の恵みで包む」とは「如来の想起する環境」。「最上の委嘱を与える」とは「如来の設定する意味の範囲」。つまり「師」はスブーティの感慨とは全く別のことを前提として話そうとしているのだ。




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2012年01月18日

優曇華教講義10

「金剛般若経」は面白い。最近そう思う。これまでは、これほど苛立つ文章はないと思っていた。実際今でも苛立たぬわけではない。経文の和訳とは、大変な作業なのだろう。訳者は、そこに書かれた本当の意味を知らない(知っているつもりかもしれないが…)。知らぬままに、ただ文法的に、また単語の辞書的解釈によって、和文を作っていかねばならぬのだ。それがまともな文章になるわけがない。…そのまともでなさが面白い。

1 求道者の道へと向かう者は、「およそ生きものの仲間に含められる限りの、生きとし生けるもの、卵から生まれたもの、母胎から生まれたもの、湿気から生まれたもの、托する所なしに忽然として生まれたもの、形のあるもの、形のないもの、表象作用のあるもの、表象作用のないもの、表象作用があるのでもないのでもないもの、その他生きものの仲間として考えられる限り考えられた生きとし生けるもの、それらのありとあらゆるものを、私は悩みのない永遠の平安という境地に導き入れなければならない」と考えて生活し、行動し、心を保たねばならない。

2 「しかし、このように無数の生きとし生けるものを、永遠の平安に導き入れたとしても、実は誰ひとりとして永遠の平安に導き入れられたものはないのだ」。…それは何故か。

3 もしも求道者が「実体として生きているものが存在すると考えているなら、彼は求道者とは呼ばれない」だろうし、「自我という思い、その個別の生命、またその主体的人格などという考えを起こす者は、求道者とは呼ばれない」からだ。

1は「求道者の道へと向かう者」、3は「求道者と呼ばれる者」。その間の2は何か。
これが「金剛般若経」の説法のスタート部分である。いきなりこれでは、心の準備もあったものではない。ただし、この説法には面白い伏線がある。

説法の聞き手であるスブーティがこう言う。
「如来によって求道者が最上の恵みに包まれているということ、如来によって求道者が最上の委嘱を与えられているということは、素晴らしいことです。」
師が応える。
「その通り、如来は求道者を最上の恵みで包んでいる、如来は求道者に最上の委嘱を与えている。」
…それぞれの意味は同じだろうか。

前段で私が言ったこと。もし訳者が全てを知っているのなら、こういう文章にはならないだろう、ということである。これは文章作成の技巧の問題ではない。その証拠に原文では、接続詞の用法が著しく不適切である。説法が一連のものとしての意味を成さない。(この項、つづく)尚、原文は岩波文庫「般若心経・金剛般若経」にて確認することを勧める。







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2012年01月17日

優曇華教講義9

あのやたら理屈っぽい日蓮の伝承の中で、ただ一点、しかもとてつもなく大事な場面での、合理性に欠けた出来事が起こる。「龍ノ口の法難」。日蓮が斬首されようとしたとき、白く光るものが現われ、闇夜を明るく照らし出し、武士達は恐れ慄き、結局日蓮は斬首をまぬがれる。この話を知ったとき私は失望した。それについての説明は一切なされない。ただそういうことが起こったというだけ。日蓮の信者は、このことを突っ込んで考えることをしない。日蓮の伝承では、それが当たり前のように記されているだけ。

日蓮の仏教を深く知る以前に、私はすでに失望し始めていた。あれだけ細かく経典に根拠を求め、理に適った解釈を示してみせた日蓮の、まさに最大の危機が、夜の闇の中に白く明るく光る物体が飛来したことによって回避されたというのだ。私はこのことについて、別に誰にも問いかけることをしなかった。宗教とはそんなものだろうと思っただけだ。その程度のものだ、と。

それを信ずるのが信者なのだとすれば、私はついに日蓮の信者にはなれなかったが、それからもずいぶん長い間、日蓮仏教の影響は受けていた。佐渡流罪から帰還した後の日蓮について、日蓮信者はあまり多くを語らない。すでにやるべきことはやったということなのか、それ以後権威に楯突いたという話は出て来ない。では、念仏は滅びたか、禅は廃れたか。真言は捨てられたか。…何も変わってはいない。流罪によって日蓮は、体力も気力も失われたのだろうか。それとも考えが変わったのか。

日蓮は白く光るものによって死を免れた。だが私は思う。日蓮を信じた者達は、あまりにも多く、その信仰のために犠牲になっている。…日蓮は生き延び、信者は殺される。これが果たして宗教の正しい在りようであろうか、と。…そういう疑問は、日蓮信者には起こらぬものであろうか、と。

私は日蓮の経文解釈への執念に影響され、そして、そのやり方によって、ついに日蓮を完全に否定する結果となった。日蓮の命であった「法華経」は、そのほとんどが偽経であることを知った。この「ほとんどが…」というところがもっとも悪質である。それを信じ込んでしまった日蓮は、悪意のないままに詐欺の片棒を担いだようなものか。

もはやこの国が「仏教国」であるとは、誰も真剣には思ってはいまい。かつて仏教国であろうとした残滓が、今に至っても生き永らえているに過ぎない。「神の国」といえば非難され「無宗教」といえばみっともないので、とりあえず「仏教国」であるということにしている。…その程度だろう。仏教はいまや、葬儀屋であり、墓地の運営管理業である。…さて、どこかに前半生の日蓮の如きパッションを以って仏教を再興しようとする者は現われるだろうか。





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2012年01月14日

優曇華教講義8

「観自在」なる境地とは結果論である。その意味で「般若心経」の書き出しには特段の注意が必要である。私が「観自在」と「菩薩行」とを引き離したのは、そのような理由によるものである。…もちろん想像上の存在である「観音」が衆生救済の象徴となるには、まずその存在自体の矛盾を解消せねばなるまい。
…なに、他愛も無いことなのだ。想像は自在に膨らむ。窓の水滴が、大輪の花が咲くが如くに拡張しつつも精緻さを一挙に獲得して氷結するさまを見るようだ。求道者には衆生救済の心がなければならぬ。ただし求道者にはその方策がないことを、それは前提としていることを忘れてはならない。
何度も私はこう言ってきた。「人には人は救えない」。…とすれば観音という存在は実体と成りようがない。
「観自在」なる境地を得るのは「さとり」を得てからであろう。しかも求道者がそれを得るのはあくまで副次的なものとしてなのである。…時折私は、こんなことを言っても通じないだろうという憂鬱にかられ、説明するのも面倒に思って口を閉ざすことがあった。…では「観自在なる菩薩行」といった場合、一体どこからその言葉は出てきたのだろう。…出所はひとつしかない。
この場合の「観自在」とは、けっして「柔軟な発想による視点を持つこと」程度の意味ではない。
「般若心経」が説いていることとは、まさに「さとり」の瞬間なのだ。…もとはそうだった、と言うべきか。あの短い経文は、けっして今理解されているような場面設定から生まれたものではない。こう言えば冷笑するやからが出て来るだろう。あれは般若経典のダイジェスト、ずっと後の世に綴られた文章であることを知らないのか、と。…それこそが「愚の骨頂」。「時の意味」を知らぬという証し。
いかに文法的に正確に、いかに緻密に言語を解釈しようが、経典の説く意味は探れない。もちろんそういう作業は大切であろう。出鱈目な解釈を並べることに較べるならば…。
「出所はひとつしかない」。このことを熟考すべきである。…今、私が言っていることがわからぬとも、半覚斎がこういうことを言った、ということは記憶に留めておけばよい。そして、個々にそれを秘匿しておくこと。「如是我聞」などと言い出せば、また「教え」は滅ぶ。



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2012年01月13日

優曇華教講義7

「仏教」とは何か。その答えは「誰もが想像もしなかった論理体系」である。私はあの六年前の朝、そのことを確信した。あの朝全ての価値観が、いとも簡単にひっくり返った。即座に私はこう思った。…これが「さとり」だ。

これを元に「法華経」を読み返すと、何が隠され、何が誤解されてきたのかの全体像が浮かび上がる。
それを当時聞いた者達が、一様に何とも言い難い表情で黙ってしまったあの直観。「法華経」は私が説いたものをベースに、さまざまな迷彩をほどこしたものだ、という言葉。さすがにこれは鉄格子付きの病院に放り込まれなくてよかった、と後になって考えた。
「さとり」というものを誰も知らぬ以上、うっかりしたことは言うべきではない。…ということは、最期までこれは黙っているべきことなのか。
確かに「法華経」には、どこにも「さとり」の内容は書かれていない。

さて、そうなると「仏教」は本来の方向から、別の方向へシフトせざるを得なくなる。核心をはずして周辺をいじることになる。…それが結局「人の道=仏教」であろう。
そうなると「(いわゆる)仏の道」として「仏教」以外の名が必要。それがこの「優曇華教」である。
はっきり言うなら「優曇華教」は誰の役にも立つものではない。…「さとり」がどういうものであるのかを知らなければ、聞いても理解できるようなものではないからだ。

私がすでに、こうして「人として」存在し、この教えについて語っているのであるから、少なくともこれまで「仏教」が纏っていたイメージはもう変わっている。今こうして「優曇華教」が語られているときにこれを聴ける者は、それこそガンジスの全ての砂粒の中の、たった一握りのようなものであろうが、彼等は色褪せた「仏教」にうろたえることのない者となるだろう。朝の陽光に掻き消えてゆく夜霧の如き「救済」と「利得」への夢を捨て去る者となるだろう。彼等こそが、怯えることなく「誓願の達成」を見守る者達である。
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2012年01月12日

優曇華教講義6

「そうであるに決まっていること」は、そうなっている。願望ではなく「そうなるに決まっていること」。それも一種の「信仰」であろう。…いや、それが「信仰」なのかもしれない。我々が「信仰」と言って思い浮かべているようなことは、取るに足らない、どうでもいいことなのかもしれない。
人は何を信じて生きるのだろう。…「自分という存在があるという前提」。まずそれが「信仰」である。…この場合の「ある」とは、全ての出発点である。「ない」ということは「あることがない」のであって、そういう「ない」は「ある」の範疇に入ることなのだ。…つまり本来の「ない」ということは想像すらできない。…それを私は「意味」という言葉で説明している。「(あることがないを含めた)ある」は、動かしようのない「信仰」であろう。信じなくともそれはそうなっていて動かしようがない。誰も「自分という存在があるという前提」から逃れることはできない。絶対にできない。
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2012年01月11日

優曇華教講義5

「法華経」の眼目は「如来寿量品」にあるというのは、半ば常識のようになっているようだ。その理由は「そこで仏の生命が永遠であることが説かれたからである」。…あのさぁ、仏教徒って、そこまで嘗められて何ともないわけ?…それが私のかねてよりの感想である。…それで納得できるなら、馬鹿だよね。

思えば滅茶苦茶な話ではないか。まず「仏」って何?…で「生命」って何?…さらに「永遠」って何?
何ひとつとっても曖昧である。わかったふりはもうやめよう。商売仏教に利用されるだけだから。…もしそんな話をする者に出会ったなら、どこまでも追求してみよう。「仏」って何?「生命」って何?「永遠」って何?…。本当に納得できるまで、とことん追及しよう。「折伏」ってものは、そういうものだ。「折って伏せしむる」。「折伏」は宗教団体加入の勧誘ではない。叩き潰すことだ。二度と起き上がれないほどに…。

「あなたの生きる姿に感動しました」って?。それと宗教と、どう結び付く?
「宗教」と聞けばフリーズする。一切無批判。一切言われるがまま。思考停止で棚上げ。…国家神道のトラウマですか?聖徳太子の呪縛ですか?宗教を名乗れば、やりたい放題。

…それでいいのか?





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2012年01月10日

優曇華教講義4

私は最近になって「仏教」というものには二種類のものがあって、それははっきりと区分けするべきだと思うようになった。結局そういう区分けがなかったからこそ「仏教」全体が「何でもあり」になってしまうのだ。…「法句経」など読んでいると、むしろ「仏教」とは論理以外「何もなし」で完結するものであることがわかる。それは草創期の「仏教」が、ただ覚者と求道を志す者との架け橋であるからだろう。…それは例の「筏」であるのかもしれない。…そうだな、「筏」の方が相応しい。「筏」は捨て去ることが簡単だ。
二種類の「仏教」とは、そのひとつは「求道者以前」から「求道者」までを対象とする「人の道」を説くもの。もうひとつは「求道者」から「覚者」までを対象とする「(いわゆる)仏の道」を説くもの。その区分けなしに教えが散在するから、誤解曲解がまかり通る。…で、「仏教」というものは、もうそのはじめの方の「人の道」のことであると決めてしまえばいいのだ。人にとっての「世界」というカオス、森羅万象の混沌は「仏教」にまかせよう、と…。
「優曇華教」という名は、折に触れてこれまでも登場させてきたが、もともと冗談で言ってきたものだ。「優曇華教」の経典が「妙法優曇華経」、これを「題目」として唱えるなら、「なむみょうほううどんげきょう」、この「どん」のところにアクセントを置けば自然と「妙法」という部分がつながる。今、唱えられている「法華経」の題目では「みょう」と「ほう」が切れている。これが「仏教」の現状を象徴しているのだ、と勝手な屁理屈をこねていたのだ。
そして私は、最近になって「優曇華教」とは後の方の「仏教」、「(いわゆる)仏の道」を説くものの名として定めようと決めた。
「仏教経典」には、「さとり以後」が欠落している。そのわけは簡単なこと、それが誰にも理解されなかったから…。「如来」という名は、今で言う「宇宙人」のようなもの。「さとりを得た者」の言うことは、それが「人の道」についてのものであれば理解できても「(いわゆる)仏の道」となると、わけがわからない。わからないものは捨て去られる。…そして私はわずかなその痕跡を拾い集めようとしてきた。
「優曇華教」は、そういう意味ではこれまでにはなかったものだ。これが集約できれば、あの釈迦の挫折の原因がどこにあったのかがわかる。…少し前に「妙法優曇華経・試案」を書いたが、あれはほんの取っ掛かりに過ぎない。まず何らかの「叩き台」を構えましょうというもの。…これこそ「なまらはんかくさい」という侮蔑の言葉に由来する「半覚斎」にしかできないこと。「優曇華教」を説く者は、半覚斎をおいて他にはない。


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2012年01月09日

状況報告

「au-one-net」への移行が不調で、ずいぶん手間取っていました。まだどこか「だましだまし」やっているようなところ。pcの設定自体に問題があるのですが、どうもそれを根本のところから改変できていないようで、いろいろいじっていると事態は泥沼化していきます。ま、そのうちこれにも慣れることと思いますが…。
Posted by 半覚斎 at 13:30  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月07日

優曇華教講義3

あり得ぬ慈悲と理解不能な智慧。仏教はこの二つを基本としている。そして人はそれをすでに獲得しているという曲解に基づいて仏教を捉えてきた。…都合の良いマッチングがあったものだ。マッチングはあったが、それによって仏教は滅びた。人は相変わらず図太く生き残っている。…もっとも誰も仏教が滅びたなどと言いはしない。人がそう呼ぶ「仏教」は世界にはびこっている。仏教の出鱈目と対峙することで私が多くのことを知ることができたのは、果たして幸運であったと言うべきなのか…。
幸運不運ではなく、私にとっての(いわゆる)仏教とは、そういう役割を持つものとしてあった、ということだろう。今でこそ笑って見ていられるが、ここまで来るのにずいぶん苦しめられたものだ。





Posted by 半覚斎 at 08:02  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする