2010年07月30日

身の苦・人の苦・財の苦

人である限り、苦から逃れる術はない。生きるものすべては苦の中にあるもの、それが誓願の定めた意味である。

死してなお、人は苦から解放されることがない。人としての死は、意味の解消にはならないからである。
人には「仏」への道を達成できる、あらゆるものが備わっているのだが、それを使う者はいない。
「仏」は、人の中から生まれるとは、そのことを言う。

「仏」を念ずることは求道者にとっては必要なことであろう。だが「仏」を他者として念ずるのであれば、そこには何も起こらない。「仏」は極楽浄土への案内人ではない。何を捧げようが、何を祀ろうが、何も起らない。
かと言って、この身の内には「仏」の神通力が潜在的に備わっているのだ、などと思うなら、それも大きな勘違いである。

如何な高僧であろうと、僧侶とは仏法の倉庫番にすぎない。その役割は心して果たすべきである。ただし道を求めようと思うのなら、それは一からの出直しである。努々(ゆめゆめ)自身が仏法を心得ているかの如き慢心を持ってはならない。

今は「如来の時」である。「如来の時」とは、この世界で如来が法を説いている時である。
三千年に一度しか咲くことのないと言われた優曇華の花の咲いているときが今なのだ。
「如来の時」には、人の思いは速やかに、しかも明瞭に形となる。それが善であろうが悪であろうが…。
何故ならば如来は、この世界の構造を明かす者であるからだ。如来の修行によって、それは確かなものとなってゆく。

人が、その持って生まれた「仏」への道を求めるのには、今ほどの機会はないだろう。この三千年の間に失なわれ、壊され、捨て去られた仏法が、その本来の形で、手の届くところにあるのだ。

えてしてこういう時ほど、強く法に背く輩が勢力を持つものである。それも、それぞれの思いがはっきりと形になる「如来の時」であるからだ。
如来の慈悲というものは、広く平等にそそがれるものであって、たとえ仏法の怨敵であろうが除外するようなものではない。求めぬ者に護法を強要するようなものでもない。

如来は、ただ明瞭になってゆくそれぞれの思いを見ているだけだ。如来は「大きな船」の船頭ではないし、個別の苦を聞き取るカウンセラーでもない。
それは、強い志を持って「仏」の道を求めた者にしかわからない境地であろう。
そして、今であれば、人は容易に求道の成果を我が身に顕わすことができるだろう。
如来は今、人の手の届くところにいるのだから…。








Posted by 半覚斎 at 07:07  |Comments(2)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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この記事へのコメント
この頃、信仰が無いとか失ったとかの表明をする人の話をいくつか読んでいまして。何となく理解したのは、彼らの言う信仰なるものがほぼ「布教の意志を保つこと」に同じらしい、と。まあ、意味は分かりますし、釈尊もメンドクセーとか云いつつやっておりますけども。僕の感覚や体験からはついスッポ抜けてくるもので…。まあ、色色あるとは思いますが。
で、思ったのは。そういう人達、一面ひどく救済的な概念に拘るのだが、じっさい一度きりの人生、自己の救いなんぞの確認に関わって過ごすことが耐えられないのだろうな、と…。
僕がわめくところの輪廻や、ある人種(悪い意味で)にとっての学問もまた、なにか自己の遍在化、一時的自由ということでもあるのだろう、と。
…とっちらかった話で恐縮です。「強い志」という部分、また「見ているだけ」の下り、何となく腑に落ちる気がしたのて書いてみました。
Posted by もいかい at 2010年07月31日 04:45
暑中お見舞い申し上げます。仏教とは、とてつもなくわかりやすい教えです。わかりやすい、とは、まさにあなたの言う「腑に落ちる」ということです。捻じ曲げられて恐喝されて信じます、なんてものでは、全くない。「布教の意志」とは目的ではなく、実は「自身の論理構築手段」の異名なのですが、それは「菩薩道」ではない。「求道者である菩薩」にそれが課せられるわけがないのです。かくの如く、いわゆる仏教にはでたらめが横行しているわけです。
Posted by 半覚斎 at 2010年07月31日 09:27
 
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