2010年08月04日
即身成仏について(仕切り直し)
仏陀の根本的立場に於いて、仏教の宗教理想は出家修行による輪廻としてのこの世界から解脱し、涅槃に帰滅することであった。
しかしこの厳格な出家・禁欲主義は大多数の民衆の堪えざるものであり、そこから人間の現世的生を肯定しようとする大乗仏教運動が興った。
大乗では、仏陀自身の過去の長い輪廻の生は、その成仏にとって必須のものであったと解釈し、仏陀と同じ成仏の境地を宗教理想とし、その長遠な理想に向けて現在の生を規整するなら、やがてその成仏の境地に到達できるものと考え、三劫にわたる智慧の練磨、慈悲の利他行、菩薩行の蓄積という理念を形成した。
しかしやがて、三劫という長い時間の観念にも堪えられなくなった人々は、三劫をかけずとも何らかの宗教理想に到れるはずであると考え、現在生に於いて成仏に到る方途を模索した。
そしてそれは金剛頂経に於いて、大乗の三劫に菩提心を浄める過程を、発菩提心真言を誦するという象徴行為によって代替するという構想に於いて提示され、ここに純然たる密教が成立した。
その即身成仏思想は、日本では空海によって確立された。
これは六大・四曼・三密の体系によって、即身成仏を可能とするものである。
他方、同時期に最澄によっても即身成仏が説かれる。
これは密教ではなく、法華経提婆達多品に於ける竜女成仏を典拠とするもので、この説が密教系の即身成仏思想と習合し、即身成仏の思想は広まっていった。
天台に学んだ日蓮もまた、法華経信仰による即身成仏を説く。」(岩波仏教辞典より大意抜粋)
残念だったな。提婆達多品は、いわゆる法華経には属さない。これは天台の時代に何らかの意図によって編入された、法華経とは無縁の文書である。
これによって、最澄〜日蓮のラインでの法華経を典拠とする即身成仏説は崩壊する。
では真言系はどうか。
これはそもそも前提において誤謬がある。それは「成仏」を「如来の立場にある者の境地」と捉えている点にある。
基本となるべき「成仏」という言葉の解釈を、その前段階の「悟りを得た者の境地」としか理解し得なかったことによって、すでに大乗の諸考察の基礎は瓦解する。それに乗じて興った密教による即身成仏への方途探求も、当然砂上の楼閣、せっかくの「修行の手抜き」は水泡に帰するのである。
「即身成仏」という言葉自体に矛盾があると、名だたる仏教家は思い至らないのだろうか。
「人が、その肉身のままで仏になること」(広辞苑)などという説明を聞くだに、情けなさに笑うしかないではないか。
それを説いて何の違和感も持てない空海、最澄はじめ、燦然と居並ぶ高僧、偽教祖どもの皆さんは、どう取り繕うつもりだろう。
ましてや、真言宗の伝承では空海自身が即身成仏したとまで言っているのだ。
もう消去してしまったが、前回はこのことを、もっと穏やかな表現で書いたのだ。
ふと半覚斎は、この内容がどこかの禁忌に触れて「文字化け」という結果になったのかと思ってしまった。
だとすると、多少は楽しくなるではないか。
「かかってこい!」
もはや半覚斎、仏法のためには言葉を選ぶつもりはない。
しかしこの厳格な出家・禁欲主義は大多数の民衆の堪えざるものであり、そこから人間の現世的生を肯定しようとする大乗仏教運動が興った。
大乗では、仏陀自身の過去の長い輪廻の生は、その成仏にとって必須のものであったと解釈し、仏陀と同じ成仏の境地を宗教理想とし、その長遠な理想に向けて現在の生を規整するなら、やがてその成仏の境地に到達できるものと考え、三劫にわたる智慧の練磨、慈悲の利他行、菩薩行の蓄積という理念を形成した。
しかしやがて、三劫という長い時間の観念にも堪えられなくなった人々は、三劫をかけずとも何らかの宗教理想に到れるはずであると考え、現在生に於いて成仏に到る方途を模索した。
そしてそれは金剛頂経に於いて、大乗の三劫に菩提心を浄める過程を、発菩提心真言を誦するという象徴行為によって代替するという構想に於いて提示され、ここに純然たる密教が成立した。
その即身成仏思想は、日本では空海によって確立された。
これは六大・四曼・三密の体系によって、即身成仏を可能とするものである。
他方、同時期に最澄によっても即身成仏が説かれる。
これは密教ではなく、法華経提婆達多品に於ける竜女成仏を典拠とするもので、この説が密教系の即身成仏思想と習合し、即身成仏の思想は広まっていった。
天台に学んだ日蓮もまた、法華経信仰による即身成仏を説く。」(岩波仏教辞典より大意抜粋)
残念だったな。提婆達多品は、いわゆる法華経には属さない。これは天台の時代に何らかの意図によって編入された、法華経とは無縁の文書である。
これによって、最澄〜日蓮のラインでの法華経を典拠とする即身成仏説は崩壊する。
では真言系はどうか。
これはそもそも前提において誤謬がある。それは「成仏」を「如来の立場にある者の境地」と捉えている点にある。
基本となるべき「成仏」という言葉の解釈を、その前段階の「悟りを得た者の境地」としか理解し得なかったことによって、すでに大乗の諸考察の基礎は瓦解する。それに乗じて興った密教による即身成仏への方途探求も、当然砂上の楼閣、せっかくの「修行の手抜き」は水泡に帰するのである。
「即身成仏」という言葉自体に矛盾があると、名だたる仏教家は思い至らないのだろうか。
「人が、その肉身のままで仏になること」(広辞苑)などという説明を聞くだに、情けなさに笑うしかないではないか。
それを説いて何の違和感も持てない空海、最澄はじめ、燦然と居並ぶ高僧、偽教祖どもの皆さんは、どう取り繕うつもりだろう。
ましてや、真言宗の伝承では空海自身が即身成仏したとまで言っているのだ。
もう消去してしまったが、前回はこのことを、もっと穏やかな表現で書いたのだ。
ふと半覚斎は、この内容がどこかの禁忌に触れて「文字化け」という結果になったのかと思ってしまった。
だとすると、多少は楽しくなるではないか。
「かかってこい!」
もはや半覚斎、仏法のためには言葉を選ぶつもりはない。
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