2010年11月09日

「無問自説」9

人としての自身の意味を消していく道程にあると、それなりに葛藤も生ずる。それが一気に起るならいいのだが、まだまだその境地には程遠い。
思ったとおり、それによって苦しむところからじわじわと事態は動き出している。
この世界のメルトダウンも、ゆるやかに、しかし確実に始まっている。
この状態について、前例はない。

どうやら釈迦は自身の意味を希薄化するのではなく、むしろその逆へと進んだようだ。それが中途半端なところでタイムリミットを迎えたことによって「教え」を台無しにしてしまった。
私は、そう解釈している。

「誓願」の達成を、切実に待つ者達についての記述が経典には表わされず、授記を喜ぶような連中を組織して教団を運営している様子が綴られているのであれば、それは「教え」に対する変節でしかない。

それも教訓と見れば、私には釈迦の一代記は、それなりの意味を持つ。
思えば、宝塔の中で次にこの「教え」に到達する者を待ち続けた先代の「覚者」・燃燈仏もまた何かしらの失敗をした者であったのだろう。確かにニ仏並坐とは、坐棺を二つ並べたかの如き様相ではある。




Posted by 半覚斎 at 07:42  |Comments(2)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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この記事へのコメント
道元にはそんな印象があります。それで嫌いなのだが。日蓮や他の祖師方にはあまり感じませんね。
Posted by moikai at 2010年11月10日 14:20
もいかいさん、こんにちは。今日は「色は匂えど」に時間がかかりすぎ、「閑時種」さぼりました。こういう時も「ページビュウカウンター」が上がっているのを見ると、申し訳ないことだと思います。
道元については、(説明としては曖昧な言い方ですが)生理的に近寄れないのか、あるいは何らかの遠ざけようとするものがそこにあるのか、はたまた「今、必要ではない」のか、いずれにせよ、関わったことが殆どありません。
そういえば、そんなものだらけですが…。
Posted by 半覚斎 at 2010年11月10日 16:28
 
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