2011年12月27日

妙法優曇華経・巻下の試案5

さて、認識した対象の「ありのまま」の状態・性質を表現するものが「意味」であり、認識した対象と主体との関係性を「評価のうえ」表現するものが「価値」であるが、「意味」の普遍性と客観性、「価値」の特殊性と主観性から見ると、このふたつの定義は並立するのではなく、「意味」という大きな領域の中に「価値」という領域が存在するものと考えられる。つまり、「意味」という言葉をひとつの円で表わすと、その円の中にそれより小さい「価値」の円を描いた状態である。これを言葉で表わすなら、「価値がなかろうと意味はあるが、意味のない価値はない」「価値があって意味のないことはなく、意味があるならそこに価値はあり得る」…。
「意味」という言葉にふたつの定義があるのならば、日常表現における「意味」は、表現に矛盾がない限り、その両方を含んでいるはずである。「意味がない」という表現は、対象の内容が著しく乏しいから「価値がない」のか、あるいは内容的には充実していても「勝ちがない」ということを示す。いずれにしても、そこに「意味」はあるのだ。
以上、「意味」という言葉のふたつの定義について、それぞれの概念を考えてきたが、その中であえて検証することなく「認識」という言葉を用いた。本来の定義では「認識」とは「事物の意味を知ること」である。だが一般的には「事物を確認・識別すること」の意味で用いられているので、その用法に従ったが、対象の「確認・識別」は「意味」によってなされ、その上に「価値」が判断されて「認識」されるという構造を仮定する。
「認識」という言葉の本来の定義は「事物の意味を知ること」。一般的用法では「事物を確認し識別すること」。前段で、「意味」という言葉に「対象である事物の共通相・普遍性・質的等同性を客観的に表現するもの」と「対象である事物の個別相・特殊性・量的可変性を主観的に表現するもの」が含まれ、前者を「意味」、後者を「価値」として、「意味」という言葉の構造を「意味」という領域の中に「価値」という領域があるのではないかとした。そこで「意味」という言葉が「意味」と「価値」の二重構造をもつことにより、「事物の意味を知る」という定義をもつ「認識」もまた必然的に二重構造をもつのではないか。「事物の表わす内容・性質を知る」とは「事物を確認・識別すること」であり、「事物のもつ価値を知る」とは「事物を評価すること」である。「意味」の二重構造が「認識」を「確認・識別」と「評価」という二重構造にしているのではないか。
ではそれぞれの概念を検討してみよう。
「確認・識別」とは、対象の性質・状態を捕捉することである。それは主体と対象との関係性によって生ずる現象の質的捕捉であり、客観的な標準をもつものであるが、「評価」とは、対象の主体に対する関係性の量的判断であり、客観的基準はもち得ない。
これをまた「意味」と「価値」の面から言い換えると、「確認・識別」の結果によって捕捉される主体と対象相互間との関係性によって生ずる現象に対する客観的標準を有する質的概念が「意味」であり、「評価」の結果によって判断される主体と対象間との関係性によって生ずる現象の、主体への影響の度合の主観的・量的概念が「価値」である。
「意味」は「価値」を内包するのであれば、「認識」もまた「意味」の構造に準拠して「確認・識別」に「評価」を内包するのではないか。

「意味と認識」後段は、原文のまま引き写した。さて、当時私は二重の円を描いて、この「意味」と「価値」の説明をしてから、外側の円の外を示してこう言った
「これが空である。」
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2011年12月25日

妙法優曇華経・巻下の試案4

「意味」という言葉にはふたつの定義がある。ひとつは「事物が表わす形状・内容・性質」であり、もうひとつは「事物のもつ価値」である。便宜的にここで前者を「意味」と限定し、後者を「価値」とすることで、それぞれについて検討してみる。
「意味」とは、対象についての一様平等な共通相・普遍性を把握したものであり、主体と対象間、あるいは対象相互間の関係によって生ずる現象から、対象の質的等同性を客観的に表現したものであるのに対し、「価値」とは、対象のもつ、それ自体の個別相・特殊性を、主体との関係性の上で明らかにしたものであり、対象との間の関係性によって生ずる現象の、主体への影響の度合を表現した量的可変性をもつ概念である。

「巻下の試案3」の最後に述べた「想とは意味の構成、識とは評価」との関係、さらには巻上の解題6の「改編9 それを定める者というのがブッダの意味である」との関係から、ここに「意味と認識」の前段をダイジェスト版にして引き写した。
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2011年12月23日

妙法優曇華経・巻下の試案3

「存在するものには五つの構成要素がある。これらの構成要素は、その本性から言うと実体のないものである。」
「五蘊」についての、この「般若心経」の記述は、私には到底納得のゆくものではない。それはあきらかに「変だ」。「変なもの」に関わっていても仕方がない。「色・想・識」という以下の文章は、私が随分前に書いたものである。検証を含めて、それを元のままで提示する。あの頃と今では、考え方の異なっている点もあると思う。…それは書いているうちに見つかるだろう。

「色・想・識(五蘊について)」
「色」とは「様子・趣・彩り」である。漠然とした雰囲気、気配、またはそこから受ける影響を「色」という。影響とは主体と対象との関係性である。関係性によって、認識は常に変化する。関係性によって認識は常に変化する。評価は、対象の意味、すなわち対象の表わす内容・性質である意味が把握されることによって、対象が自我と識別されることを前提として為される。それはまた、主体と対象とが、関係性の成り立つ領域に並立していることでもある。その領域を、人は「世界」と呼ぶ。そして主体を自我という。「色」とは主体と対象とが同次元にあり、かつ自我と世界という二元的存在であるという条件を満たすことによって、主体が対象から受ける影響、主体と対象との関係性として現れ、それは常に変化するのである。
「想」とは「心の中にものの姿を見る」という意味である。それは主体の意味を基準とする対象の意味の集約であり、意味の構成である。
「識」とは「認識」である。対象が主体に及ぼす影響の意味を主体の基準で構成し、そこに対象の価値による評価が為されることが「識」である。
「受」とは「把握」である。「行」とは「意思的形成を為す作用」である。「受」と「行」とは双方向に作用する。

「存在するものの五つの構成要素」という説明は、まるで当を得ていないことが、上記の文章から多少なりとも感じられただろうか。
「五蘊」とは「構成要素」であろうか。「五蘊」とは「認識の作用」であって、それを「構成要素」とは表現しない。
「色」とは認識の結果であり、また認識を促すきっかけでもある。
「想」とは「意味の構成」、「識」とは「評価」である。



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2011年12月21日

妙法優曇華経・巻下の試案2

「聖観自在菩薩深般若波羅蜜多行行時等観五蘊等自性空見」
前回の原文が、これである。梵字の行間に漢訳語が比定されている「般若心経」。玄奘訳の、広く知られた「般若心経」に較べ、非常にシャープな印象を受ける。それは訳者の影が付き纏わないからである。ここには比定された漢字が並ぶだけである。尚、この前に「帰命一切智」がかぶさり、全30文字。とりあえず「般若心経」のエッセンスは、これだけである。


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2011年12月20日

妙法優曇華経・巻下の試案1

「妙法優曇華経・巻上」はもうここまででいいだろう。「妙法蓮華経」が求道者(菩薩)への道を説くものとすれば、「妙法優曇華経」は覚者(如来)への道を説く経典であると、私は位置付けている。「優曇華経」では「方便」は用いない。ストレートに知り得たことを説く。先人の轍を踏まぬために…。

ここからは巻下に入る。…まずその導入部分から…。

「おのずと在る」ということの本性を見極めようとする求道者の思考の意思的形成が深遠なる智慧に到るとき、存在とはその自性において空なることを見るであろう。

これは「般若心経」の冒頭部分の訳の一例である。






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2011年12月19日

妙法優曇華経・巻上の解題7

(原文9)によって「この世界には誰もいないのだ」で突き放したところで、ここまでの一連の説法の流れは途切れる。第七節(原文10)から第十七節までは、聴衆を意識した語りかけになっている。

私は釈迦が、これからその80歳の生涯を終えるまで、どうしても拭いきれぬ疑念を持ち続けたであろうと思う。仏教ははたして万民に希望を与え得る教えであろうか。むしろ釈迦はそれを否定的にとらえていたはずだ。だからこそ彼はその生涯を布教の旅とした。この逆説的な行動は、止むに止まれぬものだったのではないだろうか。…そして案に相違せず仏教は再び穏滅した。釈迦はその誓願を達することがないままその生涯を閉じた。
Posted by 半覚斎 at 15:55  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

妙法優曇華経・巻上の解題6

前回(原文6)で区切ったのは、「また他の、世間の指導者達も知っている」について、よくよく考えるべきであると思ったからだ。これはまさに混乱をきたす言葉である。ここで生じた混乱は、仏教をすっかり別物としてしまうほど根源的なものになる。逆に言えば、これをクリアできたなら、そこから先はずいぶん楽になるだろう。

(改編6)の最後の部分に私はこう書いた。
「それがブッダと呼ばれる者の意味である。」
これが原文の「また他の、世間の指導者達も知っている」に相応する言葉である。…何のことはない。他にブッダがいるのかとか、衆生世間がどうだとか、そういうことはここにはまるで含まれはしないのだ。

先へ進もう。
(原文7)それがどのようなものか、何であるか、はたまた、その特徴がどのようであるかを。

これは本来(原文6)に組み込まれる部分である。
「私は、それがどのようなものか、何であるか、はたまた、その特徴がどのようであるかを知っており、また他の、世間の指導者(ブッダ)達も知っている。」
これがふたつの文に切り離されているのは、上記の「それがブッダと呼ばれる者の意味である」に重きを置くがゆえである。
さて、「それが」の「それ」とは何か。
「奥深く微妙な、理解し難くまた見極め難い(ブッダの)所行」である。「ブッダ」を存在として見るとき、「その所行」という言葉が使われる。ここではまだ「ブッダ」の意味については明かされない。つまりここで言う「ブッダ」とは「覚者」である。「さとりを得た者」それだけの意味。

(原文8)それを示すことはできないし、それを表現する言葉もない。
(原文9)また、それができるような人は、この世界に誰もいないのだ。

今度の「それ」は覚者の得たもの、すなわち「さとり」である。
(原文9)の「また、それができるような人は、」の後に「その覚者をおいて他には」を入れたなら、一応この文の意味は全体の中で矛盾することがなくなる、と考えたなら、またそこで迷宮に陥ることになる。
「示すこともできず、それを表現する言葉もない」とは、どういうことだろうか。
意味が定まっていないということだ。
「それができるような人は、この世界に誰もいない」とは、どういうことだろうか。
このポイントは「この世界には」である。これまで何度か書いてきた「いわゆる世界」と「この世界」との立て分けが、ここで要求される。「立場の違い」と私がこれまで言ってきたのは、このことである。

(原文8)と(原文9)の改編は、このような問題を含んでいるため、意訳に頼らざるを得ない。そのまま書いたのでは意味をなさない。
(改編8)「ブッダの所有するものがいかなるものか、誰も知ることはできない(原文3)」のであるから、それ(ブッダの得たもの=さとり)は示しようがなく、示そうにもその意味を伝える言葉が定まってはいないのだ。
(改編9)それを定める者というのがブッダの意味である。

つまり(改編6)と(改編9)のふたつの文が「ブッダの意味」ということを言っている。
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2011年12月18日

妙法優曇華経・巻上の解題5

第一節と第二節の三本の文を書き換えよう。

(原文1)神と人間のともに住む世界において、偉大なる勇士(ブッダ)は数知れず。
(原文2)この世に存在するすべての者が、指導者達をすべて知ることはできない。
(原文3)彼等の力、迷いからの脱出、また自信がいかなるものか、ブッダの所有するものがいかなるものか、誰も知ることはできない。

原文1の「偉大なる勇士」に「(ブッダ)」と書き込んだのは、この文の訳者であろう。「偉大なる勇士」はそのまま「偉大なる勇士」でいいのではないだろうか。つまりこれを「ブッダ」としたことによって、全体の意味が不可解になってしまっている。

(改編1)神と人間のともに住む世界において、偉大なる勇士(と呼ばれる者)は数知れず。
(改編2)この世に存在するすべての者が、彼等(偉大なる勇士達)の力、迷いからの脱出、また自信がいかなるものかをすべて知ることはできない。
(改編3)(そのように)ブッダについても、その所有する力、迷いからの脱出、また自信がいかなるものか、誰も知ることはできない。

これをもとに、使われている言葉を整理してゆく。

(再改編1)人が想い描いている世界において、偉大なる者は数知れず存在するであろう。
(再改編2)この世界に存在するすべての人が、彼等が偉大なる者と呼ぶ存在について、その能力と力量、何事かを決断する知恵と勇気、またその矜持と自信のすべてを知るわけではない。
(再改編3)そのように彼等がブッダと呼ぶ存在についても、誰もが(そのすべてを)知ることはできない。

全体としては、「偉大なる者(勇士でも指導者でもいい)として崇められている者であっても、人は彼等のすべてを知ることはできない。ましてやブッダ(覚者)と人が呼ぶ存在となれば、いったい彼が何を得た者なのかさえも知らないのだ。」と、こういう意味になる。
ここで「人が想い描いている世界」の「人」と、「この世界に存在するすべての人」の「人」の用法の違いを見落としてはならない。ここに「いわゆる世界」と「この世界」が説き分けられる鍵が隠されている。

さて、これで第三節へ進むことができる。

(原文4)かつて幾千万のブッダの傍らで、奥深くてかつ微妙な、理解し難くまた見極め難い所行を私は修めた。
(原文5)この所行を、考えられないほどの幾千万カルパの間私は修めて、さとりの壇において、それが実にいかなるものであるかを見たのは、私の果報である。
(原文6)私はそれを知っており、また他の、世間の指導者(ブッダ)達も知っている。

ここで不可解なのは(原文6)の後半である。
「また他の、世間の指導者(ブッダ)」。この読点を見落としてはならない。また「世間」という言葉の使われている意味。「世間」とは「社会」である。関係性によって成り立つ領域。(再改編1および2)で使われる「世界」と、この「世間」を混同してはならない。あくまで、ここでは「世間」なのだ。
では「世間の指導者(ブッダ)」とはどういうことか。ここに「ブッダ」という存在を定義する鍵がある。しかも「また他の」がそれを駄目押ししている。念を押しているのだ。これが(原文4)の「幾千万のブッダ」という部分に反映してくる。
詳細はまだ語らない。ここでは「読み」を固めておこう。

(改編4)かつて(私は)、幾千万ものブッダを想起し、その奥深くかつ微妙な、理解し難くまた見極め難い「(ブッダというものの)行ない・ふるまい」の意味を求め続けた。
(改編5)それを、考えられぬほどの期間求め続けて、ついに「さとりの高み」によりそれが実にいかなるものであるのかを知り得たのは、まさに果報というものである。
(改編6)私はそれ(ブッダの意味)を知る者であることによって、世界の成り立ちを知る者であり、関係性によって生じた社会という領域を決定し、導く者である。それが「ブッダ」と呼ばれる者の意味である。

「この項続く」


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2011年12月17日

妙法優曇華経・巻上の試案4

彼は「ブッダ」と呼ばれた。彼は「目覚めた人」と呼ばれた。彼の得たことを知るものはない。
第一節では「覚者は無数にいる」とある。第二節では「覚者の所有するものが如何なるものかを、誰も知ることはできない」とある。この書き出しですでに文意は混乱している。

「覚者」と呼ばれる者は幾らでもいる。人が想い描いている世界では…。
混乱に拍車をかけるのは、釈迦が王家の跡取りであったことによる先入観ではないだろうか。今現在「ブッダ」と言えば、それは釈迦を指す。この文章が釈迦の無問自説であるなら、「ブッダ(覚者)」はそういう意味には使われていない。
第三節「かつて無数のブッダの傍らで…」。もうこの辺で取り返しがつかない。となると、釈迦自身が「ブッダ」の意味を整理できずにいることになる。であれば、それぞれの言外のニュアンスを拾い出さねばなるまい。
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2011年12月16日

妙法優曇華経・巻上の解題3

最も早い時機に私が「仏」という言葉と対面したのは、あれは小学校へ入った頃だっただろうか。私の家には仏壇はなく、私はキリスト教会の附属幼稚園に通っていたので、仏教とは私にとって全く未知のものだった。私の育った北海道には親戚もなく、身近に人の死を見聞することもなかったので、寺というものがどういう所なのかも知らなかった。

「仏」とは「神」のようなものなのか。何故かは知らぬが、私は偶像というものがその存在そのものであるような認識を持っていなかった。それはインドという遠い国で遠い昔に考えられた「神」の姿を模したもの。どういう仏像の写真を見たのかは記憶にないが、それは結構不気味なものに思えたのは確かである。なにより私は、それに手を合わせて拝むということを全く知らなかった。私は「そういう常識」とは縁のない生活を送っていたのだ。

そういう知識がぼちぼち入ってきた頃、私はキリスト教のいう「神」とともに「仏」というものにも同様に祈っておこうと思った。私は「神」を崇拝する気持ちもはっきりとは持てなかった。祈らないよりは祈った方がいい程度に思っていた。そこで私は「神やら仏やら」という言い方で祈ることにした。何とも罰当たりな子供だった。

では私は「仏」に何を祈ろうとしたのか。私は罰を与えられてはかなわんと思っていただけだ。「神」にせよ「仏」にせよ、それが幸福をもたらすものとは思わず、拝して遠ざけようと思っていた。「神」も「仏」も、それが存在しないとは思わなかった。そういう知識が与えられた以上は、それはあるものと思っていた。あると思ったから、それに対して祈ったのだ。…悪いことがないように、と。

そのうち私は祈りを定型化していった。「誰にも、またどんな生きものにも、悪いことが起こりませんように…。」
私は眠りに落ちる前に必ずそう祈ることにしていた。これが私の「宗教」の原体験である。

さて、人は「ブッダ」に何を求めてきただろう。人は「ブッダ」に何を求めるか以前に「ブッダ」の何たるかを知らない。ただそれだけ。いかに知らないかは「漢訳経典」を読めば歴然としている。これはまるで「ブッダ」を知らぬ文章である。そして人はそれを後生大事にしてきた。…そうするものだという常識に従って。


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2011年12月15日

妙法優曇華経・巻上の解題2

人はブッダにどのような思いを寄せてきたか。
仏教には奇蹟はない。理にそぐわぬことは起こらない。それは人が想い描く世界の常識以上に常識的なのだ。たとえば「良識」なるものが、如何に特殊で不自由な領域であることか。だとすれば仏教とはそのようなものであろう。たとえば「正義」なるものが、如何に無力で有効性のないものであることか。だとすれば仏教とはそのようなものである。たとえば「宗教」なるものが、如何に怪しく不可知を利用した気休めであることか。だとすれば仏教もまたそのようなものに違いない。
そして、人はブッダに何を期待しただろう。だが、人の思いが叶うことは滅多にない。
(この項続く)

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2011年12月14日

妙法優曇華経・巻上の解題1

書きっぱなしというわけにはいかないだろう。何故私がそれをそのように表現したのかを書かなければ、また仏教は迷宮を彷徨った揚句に、怪奇なる相貌で現れかねない。仏教はその発想において、違和感ばかりが先立つであろうが、けっして陰湿な不気味さを持つようなものではない。陰鬱でもなければ荘厳さもない。ただただそれは非常に特殊にして閉じられた完璧な論理体系なのだ。驚くことはあっても、恐れさせるような要素はどこにもない。世俗的利益とは関係なく、かつまた害悪でもない。

前置きはここらで切り上げよう。
第一節は、いきなり「人が想い描いている世界」から始まる。「人が想い描いている」のだから、ごく当たり前のことである。あえてどうのこうの言うまでもないこと。そのような世界。そのような世界に、原文では「ブッダは数知れず」となっている。ブッダがいくらでも存在するという意味ではない。真の意味での「ブッダ」は、それどころか、全く存在として認められないのだ。「ブッダ」という名はあっても「ブッダ」という存在はいない。…これは何故か。

人は「ブッダ」という存在の意味を確定できていないからだ。意味を確定するとは、それを存在として合理化できるということ。…例えば「わからないもの」という意味の存在はある。「わからなくても」存在はある。だが「ブッダ」という名には、それすらがないということだ。

ペガサスは存在しない。何故ならそれはその体躯の構造において合理性がないからだ。絵画的には如何にも優美であり、また如何にもありそうな姿ではあるが、そのベースが「馬」であるなら、しかも翼を持たせたいのなら、その前肢が翼であるべきだろう。
天使もまた然り。空を飛ぶ「人」を想像するなら、彼は両手を広げて羽ばたく仕草をするはずだ。手もあり、足もあり、しかも背中に翼がある姿は、発生学的にも遺伝学的にも合理性がない。
たとえば発生学やら遺伝学を知らなくとも、その非合理性は帳消しにはならない。ならないから存在しない。では、科学以前にはそれらはあり得たのか。あり得ない。
歴史は実在ではない。それは常に「今」である。このような過去があったと想起する「今」でしかない。

ひとは「ブッダ」という名に、どのような意味を想い描いてきただろうか。
(この項、続く)
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2011年12月11日

妙法優曇華経・巻上の試案9

(20)それぞれに教えを求めてきた者、教えを求めている者、私がそこへ到達したことを知り、苦悩の連鎖は断ち切れるものであるという希望を持った修行者達は知らねばならない。
(21)私がこの世界に存在する人としての立場によって語るということは、それ自体が巧妙な手段であるということを…。存在する事物への種々の愛欲に心を奪われた者達を、迷いから逃れさせるために、私は三種の乗物を、この身によって示すのだ。

「三種の乗物」とは「ジナ」であり「ボーディサットヴァ」であり「スガタ」である。つまり「勝れた人」であり「求道者」であり「如来」である。これは「三種の教え」という意味ではない。それは全くの誤解・曲解である。「乗物」とは「ブッダ」の示す外観である。「ブッダ」を乗せている乗物である。つまり「人としての姿」である。あるときは「聖仙」として、あるときは「求道者」として、またあるときは「如来」として、そういうそれぞれの立場を纏って、私は三種の顔を持って「教え」を語る、というのだ。その、どれもが手段。人が「さとり」を求めるように仕向けるための、私にとっての手段なのだ。

「乗物」が「教え」ではないとなれば、「乗物」とは「ブッダの示す人の姿」であるとなれば、今、人が仏教と呼んでいるものの土台が崩壊する。絵に描いた餅を火鉢にかざしてきた仏教の歴史は終わる。
残念だったね、せっかく砂の上に楼閣を建ててきたのにね。画餅は燃え、砂上の楼閣は崩壊した。
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2011年12月10日

妙法優曇華経・巻上の試案8

(18)ブッダの教えは深遠で微妙である。そのすべてが追求し得られず、また清浄である。世界に遍満する聖仙達が説いてきたことを、私は知っている。
(19)彼岸へと渡った者の言葉には、うそ偽りはない。聖仙達もまた偽りを説いたのではない。彼等は彼等の知り得る最高の意義を語るのである。

「ジナ」「スガタ」そして「ブッダ」。これらは一括して「ブッダの異名」とされる。より深い意味においてそれは間違いではないが、それでは何を以ってそれらを言い分けるのかを確定せねばなるまい。
ここで私は試案として「ジナ」をいわゆる世間で尊ばれる種々雑多な聖者達とする。「スガタ」を彼岸より来たる者という意味での如来とする。

あまたの聖者達の説いてきたこと、説いている内容を私は知っている。…これが(18)の後半。
聖者達が、別に偽りを説いていると言うのではない。彼等は「人として知り得る範囲(此岸における最高の意義)」を説く者と位置付ければいいのだ。…これが(19)の後半。
(18)(19)それぞれの前半をつなげて「ブッダの教えは深遠で微妙である。そのすべてが追求し得られず、また清浄である。彼岸へ渡った者(如来)の言葉には、うそ偽りはない。」



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2011年12月09日

妙法優曇華経・巻上の試案7

(7)この教えが教示されるべき人、また教示された教えを理解し得る人は、ただ熱烈な志を持ち続けて、さとりを求める者を除いては、他にない。

ここからは省略されても構わない部分である。(1)から(6)までのトーンとは明らかに変わっている。何が変わったのか。…「立場」である。ここまでは独白だった。自分に対する確認が、声になってしまったかのような言葉だったが、ここからは違う。「我に返った」という印象がある。「我に返って」取り繕うかの様子が見て取れる。すると、独白部分との食い違いが出て来る。

この教えを理解する者は、この世界に誰一人としていない、とここまでは言っておきながら、早速修正が図られる。ここで気にすべきポイントは、「この教えを理解する者」は、「この世界にはいない」が、「他の世界というものがあるなら」どうか、ということ。

「世界観の二重性」ということを、あえてここまでに詳説せずに私は書いてきた。…この二重性とは、「他の世界があるなら」ということには繋がらない。そういうことを意味していたのではない。また、そんなことはどこにも明言されていない。

この教えを理解する者は、果たしているのかいないのか。ここで説かれているように、熱烈な志を持ち続けて、さとりを求める者は、これを理解する者なのか。
「さとり」という言葉が、唐突に現れる。独白部分のどこにも「さとり」という言葉はなかった。
果たして(6)までと(7)とは、本当に連続しているのかさえ疑われる。

「取り繕うようだ」と私が言うのは、たぶんそこに原因がある。ここにこの法華経を説く者の世俗性が露呈する。普段の言説の欺瞞性が顔を出す。欺瞞と言ってはならないのだろうか。方便ならいいのか。
では、何のための方便なのか。

そのことについて、私はさまざまな仮説を立ててきた。
もしもこの世界の誰かが、この教えを理解し得たとき、つまり「さとり」を得たとするなら、彼にとって、この世界はどうなるであろうか。彼にとって、この世界は他者の想い描いてきた世界ではないだろうか。彼には彼にとっての世界がある。それを彼に言わせれば「この世界」ということになるだろう。そして彼の言う「この世界」とは、私がこれまで言ってきた「この世界」とは全く別物である。

この世界でこの教えを理解する者は誰一人いない。彼が理解したではないか。いや、この世界においての彼は、この教えを理解した者ではない。理解したのなら、彼の言う「この世界」とは、この世界のことではないからだ。
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2011年12月08日

妙法優曇華経・巻上の試案6

人の想い描く世界において、ブッダと名付けられる存在の意味を問えば、無数の答えがあるであろう。この世界に存在する誰もが、たとえば彼等の指導者について、完全に知っていると言えるだろうか。人は、彼等の指導者の持つ能力と力量、何事かを決断する知恵と勇気、あるいはまたその矜持が、如何にして涵養されたものであるかを知ることがないように、ブッダの所有するものが如何なるものであるか、さらにはブッダとは如何なる存在であるのかさえ、誰一人知ることがないのだ。

かつてそのような無数のブッダの意味を、私もまた想起し、その奥深く微妙な、理解しがたい所行というものを求め続けた。繰り返し繰り返し、考えも及ばぬ長い時を私はそれに費やし、ついにはさとりという高みに昇り、それが如何なるものであるかを知り得たことは、まさに私にとっての果報であった。

私の知り得たこと、それがどのようなものか、何であるか、またその特徴がどのようであるか。それは人によって想起されるブッダと名付けられた存在の意味なのである。だがこの世界に存在する全ての人が、ブッダとは如何なる存在であるのかを知らない。ただブッダという名のみがあって、その意味を定めることができない。そうであれば、そのブッダの所有するものが如何なるものであるかを示しようがない。示そうにもそれを顕わす言葉すらがないのだ。よって、想い描かれたブッダが実在したことはなかった。

これはひとつの例である。なぜならこの「無問自説」を、私は別の観点から書き上げられると予測できているからだ。あるいは今後書くたびに変化してゆくものであると感じている。
昔、私は法華経を読むたびに、奇妙な懐かしさを感じたものだった。まだ何もわからぬ頃のことだ。この意味の不可解な文章には見覚えがあると感じていたのだ。そして私は、これは私が遠い昔に作った文章に違いないという仮説を立てた。…常軌を逸した思考であると誰もが思うだろう。そのことを当時、何人かの人に話したのだが、誰もが黙り込んでしまった。

この「無問自説」の原文を、私は「それを理解することなく書かれた文章である」と言った。そのとおり、私は理解することができぬままに、それを見ていた。法華経という、私には理解不能な経典が印刷され、製本され、そして私が書店で購入してきた実体として見ていた。それは私が想起したものであり、私が認識したものである。それを実体であるとする。…もうよそう。今こう言ったところで混乱をきたすだけだろう。

「無問自説」で書くべきことは、ここまででもう書き尽した。この後文章はまだ続いているが、それを追う必要はもうない。なぜなら、ここからは徐々に文章の意図が変わってゆくからだ。法華経はそれが目的となるのだろうが、私が編もうとしている「妙法優曇華経」に、それは必要なものではない。


Posted by 半覚斎 at 08:20  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月07日

妙法優曇華経・巻上の試案5

(5)私の知り得たこと、それがどのようなものか、何であるか、またその特徴がどのようであるかは、人によって想起された「ブッダ」と名付けられた存在の所行のことなのだ。
(6)だが、人は「ブッダ」とは如何なる存在であるのかを想い描こうにも描くことができない。そうであれば、また「ブッダ」の所有するものが如何なるものであるのかを示しようがない。示そうにも、それを顕わす言葉すらないのだ。よってそれができる者は、この世界に誰ひとりいないのだ。

次回、ここまでを通して書くつもりだ。まだ言葉として練れていない部分がある。私はものごとを難解に見せようとする気はないし、難解であるがゆえに権威があるとも思わない。ここまで説かれてきたことは、ごく当たり前に発せられた「無問自説」すなわち、思っていることの吐露なのだ。であれば、そのように書かれるべきだろう。
もしも、ここまでの原文に大きな省略や、意図的改竄がないものと仮定するなら、この元になった「無問自説」が如何に理解されなかったものであるかがよくわかる。これは全く理解されることなしに、ただ記憶だけされた言葉の羅列にすぎない。理解なしに憶えたことの特徴が、そこここに散見されるからだ。
だとすれば、理解できるような文章にすべきなのだ。この(1)から(6)までで、もう仏教の示す基本的命題は大方顕わされている。…私はそう思う。



Posted by 半覚斎 at 07:45  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月06日

妙法優曇華経・巻上の試案4

5 私はそれ(覚者の所有するものが如何なるものか)を知っており、また他の、世間の覚者達も知っている。それがどのようなものか、何であるか、はたまたその特徴がどのようであるかを。

「また他の、世間の覚者達」ここで今、どうしようもない違和感に私はとらえられている。原文の訳語が混乱をきたしている。これは経典の訳文にはよくあることだ。今回私は「ブッダ」と表現されている訳語を「覚者」に統一しようとしてきた。すると、こういう混乱が起こる。

やり直そう、もう一度。

(1)人が想い描くような世界においては、ブッダと名付けられた者の数すら明らかではない。(ところで)この世界に存在するすべての者が(人は誰もが)、彼等の指導者達を、すべて(完全に)知ることはできない。
(2)人は彼等の指導者の持つ力、迷いを断つ勇気、また彼等の誇りが如何にして涵養されたものであるかを知ることができぬように、ブッダの所有するものが如何なるものなのか(ブッダとは如何なる存在であるのか)を、誰も知ることがない。

二度目に出て来る「指導者」には(ブッダ)という註が付いているために、すぐ前の、最初の「指導者」の読みが影響を受けてしまった。(1)の最初の文と次の文との間には「ところで」という接続詞が入るはずだったのだ。…これですっきりした。「すべて」が数量的になのか、個としての全体像なのかという曖昧な訳文にけりをつけることができた。
これによって逆に肝心の「世界の二重性」がぼかされることになるが、はじめの「人が想い描くような世界」と「この世界」の書き分けは生きている。

(3)及び(4)は前回のまま。(1)及び(2)の変更により、(5)の「また他の、世間の指導者(ブッダ)」の意味を構築しなければならない。問題はこの「世間」を原文の訳者はどういう考えで使ったかだ。「有情を構成する五蘊」とまで踏み込むべきか。
私の考えでは(1)の最初の文を受けての(5)であるとする。ここで「世界の二重性」について説明をしておこう。
「有情によって構成される世間」すなわち「人というものが想い描く世界」である。それに対して「有情を構成する五蘊」これが「この世界」と覚者によって言われるものである。そして「覚者」とはその双方の立場を知り得る者であり、使い分けることのできる者である。

これは本来ここで説くべきことではない。だがそれを後回しにすれば、この部分の意味が確定されない。
(5)私の知ったことは、人によって「ブッダ」と名付けられる存在にとっての共通認識である。

「ブッダ」とは如何なる存在であるのかも定かではないままに、人がそう呼ぶ存在である「ブッダ」。(5)によって、その意味が定められたのだ。これによって(1)(2)でほのめかされた「世界の二重性」、(3)(4)での「時の意味」、(5)で「ブッダ(いわゆる仏)」について、それぞれのアウトラインが提示されたことになる。

私は今、ここで、経典を凝視しながら即興でこれを書いている。これまでもそう。今も同じ。以前の訳では顕われなかった意味が、同じ原文から湧き上がってくる。今回のように、前文を撤回することも起こる。正直に言って、「世界」と「時」についての考えはすでに持っていたが、ここで「仏」が定義されるとは思ってもいなかった。…これが果たして「定義」なのか?と思われるだろうが…。

如何に私自身が「漢訳法華経」に染められていたかを感じる。私を躊躇させていたものが何だったのかがわかる。…ちょうど昨日のことだ。私は陽の当たる公園のベンチに長いこと動かずに坐っていた。そのとき私の中でひとつの言葉が飛び交っていたのだ。…「何が私をとどめようとするのか」。
今日これを書いていて、まさにそれが見えた。「漢訳文」だけではない。「サンスクリット韻文」を何度も何度も読み、訳してきながら、見えなかったものが見えた。…だから仏教は面白い。



Posted by 半覚斎 at 08:29  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月05日

妙法優曇華経・巻上の試案3

3 かつて幾千万の覚者の傍で、奥深くかつ微妙な、理解し難くまた見極め難い所行を、私は修めた。
4 この所行を、考えられないほどの期間(幾千万カルパの間)私は修めて、さとりの高み(壇)においてそれが実に如何なるものであるかを見たのは、私の果報である。

1と2において「場」としての世界が背景であり、この3と4は「時」を背景とする。
上記は原文のままである。あえて原文を書いた。本来の試案を示すのは、これに私の解釈を加えてからにする。

人が想い描く世界で、そこに存在する生命は、朝がきて、また次の朝がくるように「輪廻」を繰り返している。(そのようにして限りない「輪廻」を繰り返してきたのなら)私はかつて無数の覚者を想い描き、その(他者としての覚者の)傍らにある者として、その所行(ふるまい)を学んできた。
その「因」によって、さとりの高みにのぼり、かつて私が無限の「時」を費やして知ろうとしてきたことの「意味」を定めることができたことは、その報い(果)と言えるのだろう。

これを聴く者(読む者)には、最初から緊張が強いられているのだ。ここまでですでに未曾有の世界観が伏せられている。それは否定や逆説の形をとっている。それらを理解するには、人はまず(人としての)世界観を崩壊させねばならない。

Posted by 半覚斎 at 08:23  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月04日

妙法優曇華経・巻上の試案2

2 覚者の(得た)力、覚者の(成した)迷いからの脱出、また覚者の(保つ)自信(の根拠)が如何なるものか、(いったい)覚者の所有するものが如何なるものなのか、誰も知ることはできない。

1で「この世界に存在するすべての者が、(それぞれの想い描く)覚者達をすべて知ることはできない。」とあった。これはどのようにもとることのできる文である。「数量的に把握できない」なのか、「個としての覚者の全体像」なのか。ここは「他者としての覚者」を考えることによって収めるべきであろう。それが私の読み方である。スタートに際しては、細心の注意が肝要であろう。1と2を通して働いているベクトルは、世界の二重性である。

法華経は本来「人の道」を示す教えではない。これは「仏の道」なのだ。後の説明的な部分(シャーリ・プトラの三度の懇請以降)になると、その主旨はかなりゆるいものとなるが、この「無問自説」に関しては、このことを特に考慮すべきである。これが「無問自説」であるということの理由は、そこにある。

「覚者の得た力」。これが何かの具体的パワーであると読む者はいないだろう。覚者にとって可能となった手段・方法とでも言えばいいだろうか。「迷いからの脱出」。これは作為的にこう言われている。「迷い」についての意味の設定をする以前に「迷い」と言う。ここには「人の見解」「人の認識」への警鐘が込められている。「覚者の自信」。自信に揺らぎがあるからこその自信。だがそれは人の眼には見えない。「覚者」は何を得たのか。これが最も興味をひく事柄であろう。…またそのことだけに集注すべきである。…このようにしてこの述懐は始まる。

 
Posted by 半覚斎 at 18:29  |Comments(0)TrackBack(0) | 宗教 , 仏教 , 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする