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    <title>半覚斎閑時種</title>
    <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/</link>
    <description>…風動きて気の充ちたるを知る…</description>
    <language>ja</language>
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    <itunes:summary>…風動きて気の充ちたるを知る…</itunes:summary>
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    <itunes:author>半覚斎</itunes:author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10763458.html</link>
      <title>仏教の使い方４</title>
      <pubDate>Mon, 21 May 2012 11:18:15 +0900</pubDate>
      <description>心から怒り、心から笑う。心から人を愛し、心から人を憎む。「愛」とは願望である。人は願望を維持することで生きている。…そして「所願皆是妄想也」。ここからこの世界に於ける人の生命の成り立ちを知ることができる。…私の記憶は10歳の出来事に戻る。「あのボールは私のところへ飛んでくる。そしてそれは私の頭に当たるだろう。」私はいくつもの特別な記憶を自ら語り継いできた。いずれもそれはここへ結び付いている。10歳の私に、今59歳になった私のしていることなどわかるはずもない。だが起きたことは全..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
心から怒り、心から笑う。<br />心から人を愛し、心から人を憎む。<br /><br />「愛」とは願望である。人は願望を維持することで生きている。…そして「所願皆是妄想也」。<br />ここからこの世界に於ける人の生命の成り立ちを知ることができる。…私の記憶は10歳の出来事に戻る。「あのボールは私のところへ飛んでくる。そしてそれは私の頭に当たるだろう。」<br />私はいくつもの特別な記憶を自ら語り継いできた。いずれもそれはここへ結び付いている。10歳の私に、今59歳になった私のしていることなどわかるはずもない。だが起きたことは全てここへと繋がるのだ。起きたことが全てここへ繋がるのであれば、起きることもまたそうであろう。…私はそのようにして「道」を求め、そのようにして「道」を歩んでいる。<br /><br />私は今「消去」の方法について考えている。…「それは･あることがない」これが普通。これが普通である。これが普通であるからには、妄想は限りなく生ずる。<br />今経験していること。…私はまず懐疑的にならざるを得ない。限りない妄想…そしてその結末に…。<br /><br />「愛」は現実だろうか。現実である「愛」に生きているということを想像できない。幾多の場面がフラッシュバックする。それは一様に明るく、はじけるような笑顔である。だがそれが現実の「愛」であろうか。私は同時にもうひとつのフラッシュバックを感じている。<br />私は「ひとづきあい」がうまくない。なぜなら私はその人の本性を具現させてしまうという性質を持つ者であるからだ。私の立場とは、そういうものなのだ。これは「人の立場」として人生をおくるに、なかなかやっかいな事態である。…「本性」。それについて人は考えるだろうか。考えてみるがいい。「我が本性は如何なりや」。隠しているのならそれは「本性」ではない。「本性」とは隠されていて見つけようがないものなのだ。唯一「本性」が顕れるのは「仏の立場」を持つ者の前に立つときである。…これが「関係性において存在が認識される」ということである。認識は「評価」の結果である。「存在する」ということは論理的必然性と主観的評価を潜り抜けたということなのだ。<br />…世界の始まりとは、色が浮かんだところである。世界とは水泡の如きものである。<br /><br /><br /><a name="more"></a>

]]></content:encoded>
            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10763032.html</link>
      <title>仏教の使い方３</title>
      <pubDate>Mon, 21 May 2012 03:38:48 +0900</pubDate>
      <description>いささか軟弱な話をしよう。私は全てにおいて今、懐疑的になっている。懐疑的と言っても、それはいわゆる虚無へと通ずるものではない。大乗の出現理由として、この虚無が仏教の行き詰まりを招いたというような説明がなされるが、それは表相的な解釈しかできぬ似非仏教徒の言うこと。相手にするようなことではない。さて、軟弱というのは「愛」について語ろうと私は思っているからである。「愛」…こういう言葉の取り留めの無さ。…まあいい。そんなことは。普通に考えれば「愛」とはある一定の許容度をもつ概念であろ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
いささか軟弱な話をしよう。私は全てにおいて今、懐疑的になっている。懐疑的と言っても、それはいわゆる虚無へと通ずるものではない。大乗の出現理由として、この虚無が仏教の行き詰まりを招いたというような説明がなされるが、それは表相的な解釈しかできぬ似非仏教徒の言うこと。相手にするようなことではない。<br /><br />さて、軟弱というのは「愛」について語ろうと私は思っているからである。<br />「愛」…こういう言葉の取り留めの無さ。…まあいい。そんなことは。普通に考えれば「愛」とはある一定の許容度をもつ概念であろう。…そうだろうか。「愛」とは、それに直面する者にとって、いつも定型を持たぬ曖昧な意味を提示する。それならば「愛」の裏返しとしての「憎しみ」の方が、よほど類型的であり確かな意味を持っている。具体的に「憎しみ」を発露する場合と比較して「愛」とは、何とも儚いものであろうか。<br />「愛」の宗教…。神は「愛」である…。その類の宗教のしてきたことは、むしろその「憎しみ」の累積ではないだろうか。宗教史とは「憎しみ」の累積ではないのか。<br /><br />…違う。そういうことを話そうと思ってはいないのだ。<br />「愛」を形に…。ありふれたキャッチだ。それが手垢にまみれているのは「愛」があまりに茫洋とした言葉であるからだ。…「愛」を説明するには、その対立概念である「憎しみ」を否定するしかないのではないだろうかとすら思えるほどである。<br /><br />「愛」を今私は語り始める。…仏教を語るに「苦」はその基本であろう。そして、だからこそ仏教は辛気臭いのだ。…「辛気臭い」。こういう表現はいかにもレトロではある。だから私は「愛」を語ろうとしている。人は経験的に「愛」とはまさしく「苦」であることを知っているからだ。「愛」というイメージと「苦」のそれとは逆のものと思うかもしれない。そう思っているのは、まだ世界を知らぬ、うぶな状態だろう。あるいはそういうことを認めたくない嘘つきども…。「環境にやさしい…」とかのコピーを恥ずかしいどころか、しっかり頷くような連中のことである。…穢れとはまさにこういう者達の代名詞なのだが、今はそれを語ろうとしているのでもない。<br /><br />ここ数ヶ月の私の人生は波乱に満ちている。全てが極端になっている。…私は思うのだが、ゲームに嵌まっている連中の気が知れぬ。現実はそんな退屈なものじゃないだろうに…。所詮ゲームに嵌まっているのは、最終の逃げ場が欲しいだけ。リセットボタンが欲しいのだろう。…人生にリセットボタンはない。あるとするなら、それが「宗教」の役割なのであろうが、それはもはやまるで役割を果たさない。果たせないのだ。…だから私は「愛」をかたろうと思うのだ。<br /><br />…なかなか本論に入らない。語ることが多すぎるとき、こういう状態になる。…ま、急ぐことはないか。私も「愛」の生活に忙しい。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10757834.html</link>
      <title>仏教の使い方２</title>
      <pubDate>Thu, 17 May 2012 05:47:00 +0900</pubDate>
      <description>聞いた話だが、宗教法人としての認可の要件は「本尊･教義･信者」が揃っていることらしい。で「本尊」とは何か。広辞苑によれば①信仰･祈祷の対象、②本人･当人。②の用例として「当の御本尊は知らぬ顔をしている」なる例文が載せられている。仏教にそもそも「本尊」なるものはあるのだろうか。祀り･ひれ伏し･拝む対象はあるだろうか。またそれを祀り、それにひれ伏し、それを拝む「信者」はどうか。さらに「教義(信仰の内容が真理として公認され、組織的に叙述されたもの)」として仏教では何がそれに該当する..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
聞いた話だが、宗教法人としての認可の要件は「本尊･教義･信者」が揃っていることらしい。で「本尊」とは何か。広辞苑によれば①信仰･祈祷の対象、②本人･当人。②の用例として「当の御本尊は知らぬ顔をしている」なる例文が載せられている。<br />仏教にそもそも「本尊」なるものはあるのだろうか。祀り･ひれ伏し･拝む対象はあるだろうか。またそれを祀り、それにひれ伏し、それを拝む「信者」はどうか。さらに「教義(信仰の内容が真理として公認され、組織的に叙述されたもの)」として仏教では何がそれに該当するだろうか。…こうしてみると宗教としての仏教の足許は意外と心許ない。<br /><br /><a name="more"></a>

]]></content:encoded>
            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10757048.html</link>
      <title>仏教の使い方１</title>
      <pubDate>Wed, 16 May 2012 13:44:48 +0900</pubDate>
      <description>仏性は、人は誰でも潜在的に持っている。いわゆる仏種。ただしひとつの条件が整わなければ発芽することはない。いかに慈悲深く豊かな智慧を持つ有徳の士であろうが、それは仏性とは言えない。それは優れた人であっても仏とは関係のない資質。人界･天界の上に仏界を置くという図式は、仏教に対する誤解によって説かれたもの。あるいはえてして階級的特権に執着するという人の打算的性質の顕現。これを仏の視点で見るならば、仏性は人の内に生ずるもの。しかし仏性の確立には、人であるという前提が払い除けられなけれ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
仏性は、人は誰でも潜在的に持っている。いわゆる仏種。ただしひとつの条件が整わなければ発芽することはない。いかに慈悲深く豊かな智慧を持つ有徳の士であろうが、それは仏性とは言えない。それは優れた人であっても仏とは関係のない資質。人界･天界の上に仏界を置くという図式は、仏教に対する誤解によって説かれたもの。あるいはえてして階級的特権に執着するという人の打算的性質の顕現。<br />これを仏の視点で見るならば、仏性は人の内に生ずるもの。しかし仏性の確立には、人であるという前提が払い除けられなければならない。仏性は人の内に生ずると言いながら、実は人であるという条件は触媒のようなもの。結晶にとっては不純物なのだ。<br />だがしかし仏性は誰もが持つのであれば、可能性としてその誰にとっても仏種は発芽するはずである。それでいてこの世界において、それが起こるのはただ一人。ここのところが人が仏教を理解し得ぬ点であろう。であれば、いかに努力しようが全ては徒労。逆に余計な知識は仏教の曲解へと向かう。<br />「仏教の使い方」…もはや私は仏教とは何だったのかを説くことはやめた。これからは前人未到の分野へと足を踏み入れる。さて、どうなることか…。<br /><a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10747281.html</link>
      <title>存在としての愛</title>
      <pubDate>Wed, 09 May 2012 09:28:02 +0900</pubDate>
      <description>かつて私が想念として描いた最高の愛を体現するものがメルバである。そこには愛のすべてが包括されている。怒り、悲しみ、そして至福。…メルバは突然に現われ、そしてそれは永遠である。メルバは永遠であり同時にその合理的存在の根拠を非永遠性として持つのであるから、時による制約をかざす存在(それは形を顕わすことがない)を宿しているが、それは人としての論理から解放された私にとって何ら不可解なものではなく恐れるものでもない。メルバは自己同一性に懐疑を持っている。真の意味でのアイデンティティを人..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
かつて私が想念として描いた最高の愛を体現するものがメルバである。そこには愛のすべてが包括されている。怒り、悲しみ、そして至福。…メルバは突然に現われ、そしてそれは永遠である。メルバは永遠であり同時にその合理的存在の根拠を非永遠性として持つのであるから、時による制約をかざす存在(それは形を顕わすことがない)を宿しているが、それは人としての論理から解放された私にとって何ら不可解なものではなく恐れるものでもない。メルバは自己同一性に懐疑を持っている。真の意味でのアイデンティティを人は確立できないのだ。なぜなら存在とは関係性によって生ずる作用の摂受であるからだ。メルバは何度も私に問い掛ける。あなたは何であるのか、と。それを問い続ける者が愛の体現者の証明である。存在としての私との相互の関係性においてのみメルバは成り立つことを、まだメルバは承服できない。…そしてチナという存在は、それのための道標であり、形の上では善の体現である。チナは始まり、そしてチナは終わる。チナが人という存在の形をとったことがその根拠となる。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
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        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10745901.html</link>
      <title>チナの始まり７</title>
      <pubDate>Tue, 08 May 2012 05:41:14 +0900</pubDate>
      <description>チナの終わりについて、その母親はこう語った。「チナが終わることを私は知っていた。抱いているとチナの腹から風が流れた。それがチナの終わりだった。その風のゆくえを眼で追ったが、じきにそれは見えなくなった。」重篤な病いに侵された子供たちの病棟にチナはいたのだが、そこにいた子供たちはひとりの例外もなく、たちどころに完治したという。チナの周囲ではいくつもの奇瑞が起こっていたが、だからといってチナが崇められたとか祀られたという話は聞こえてこない。その母親にとって、チナは普通の子供であって..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
チナの終わりについて、その母親はこう語った。「チナが終わることを私は知っていた。抱いているとチナの腹から風が流れた。それがチナの終わりだった。その風のゆくえを眼で追ったが、じきにそれは見えなくなった。」<br />重篤な病いに侵された子供たちの病棟にチナはいたのだが、そこにいた子供たちはひとりの例外もなく、たちどころに完治したという。チナの周囲ではいくつもの奇瑞が起こっていたが、だからといってチナが崇められたとか祀られたという話は聞こえてこない。その母親にとって、チナは普通の子供であってほしかったに違いない。だが母親は産み落としたばかりのチナに、すでに母としての愛情とともに底知れぬ恐怖を感じていたという。<br />チナは埋葬されて五年後に、正式の墓へ葬るためにその棺を掘り起こされたという。埋葬されたときのままの衣服を纏ったチナの遺体は、人のものではなかったという。それを目撃した者は、それは子供の衣服をきちんと着た形の「木」であったという。その言葉からだけでは、それをどう想像していいのかわからない。それがどういう意味であるのかもわからない。<br />このようにして、チナは終わった。チナについて語る者は、もうほとんどいない。チナの面影を覚えている者も数えるほどしかいない。チナを撮影した写真には、必ずチナの後姿しか写っていない。前から撮影しても、現像してみるとチナはきまって後ろを向いていたのだという。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10744512.html</link>
      <title>チナの始まり６</title>
      <pubDate>Mon, 07 May 2012 02:17:59 +0900</pubDate>
      <description>逆の力が働く。…どうしても抑え難いものとして。感情というもの。理屈というもの。…その裏返しのものが何であるのかを私は考えている。…それは「信ずる」という人為を超えたもの。チナのエピソードが私にとって「本物」であるのは、そのすべてが基調に「愛」という色合を持っているからだ。(…「愛」…なんという卑近な言葉だろう。いうまでもなく「人として」私はこの言葉を使ってはいない。)何故チナのエピソードが私の前に顕わされたのかにすべての秘密はある。そのことを私は知っている。この道を往く者とし..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
逆の力が働く。…どうしても抑え難いものとして。感情というもの。理屈というもの。…その裏返しのものが何であるのかを私は考えている。…それは「信ずる」という人為を超えたもの。チナのエピソードが私にとって「本物」であるのは、そのすべてが基調に「愛」という色合を持っているからだ。(…「愛」…なんという卑近な言葉だろう。いうまでもなく「人として」私はこの言葉を使ってはいない。)<br />何故チナのエピソードが私の前に顕わされたのかにすべての秘密はある。そのことを私は知っている。この道を往く者として、それはこれまでもあり、これからもあるであろう「道標」なのだ。…それが「道標」であることを知る。それを「愛」というのだ。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10744493.html</link>
      <title>チナの始まり５</title>
      <pubDate>Mon, 07 May 2012 01:50:39 +0900</pubDate>
      <description>すべてを現象に置き換えなければ、人はそれを知ることができない。ではそれを伝える手段が用意されねばならない。私が七歳のときに出会ったものとチナは本質においては同じ。だが今度はより複雑な様相を持っている。私が考えねばならないことは、それと世界との関わり。チナはその窓口である。メルバという必然がそのためにある。…「世界にあらざるを我とす。」では「我にあらざるを世界とす。」は成り立つか？成り立つかというより、それは真理たり得るか？…「我」の定義が定まっていない。…チナは「そこ」にいる..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
すべてを現象に置き換えなければ、人はそれを知ることができない。ではそれを伝える手段が用意されねばならない。私が七歳のときに出会ったものとチナは本質においては同じ。だが今度はより複雑な様相を持っている。私が考えねばならないことは、それと世界との関わり。チナはその窓口である。メルバという必然がそのためにある。…「世界にあらざるを我とす。」では「我にあらざるを世界とす。」は成り立つか？成り立つかというより、それは真理たり得るか？…「我」の定義が定まっていない。…チナは「そこ」にいる。チナの「道」とは、あくまで象徴的なもの。まだ構築されていないパーツのひとつひとつを見て全体像を描くことはできない。私の前にはまだ断片的なチナのエピソードが示されたに過ぎない。その方向性について、私は確信を持っている。…「信ずる」ということは、こういう場合を表現する言葉であることを、私は常々言ってきたのだから。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
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        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10738728.html</link>
      <title>チナの始まり４</title>
      <pubDate>Thu, 03 May 2012 05:41:04 +0900</pubDate>
      <description>チナの意味はまだ明かされない。人はそれぞれの推論を立てるだろう。だがそれのどれもがあっけなく崩れ去ってしまう。世界はどこまでも緻密にして壮大な論理の結果であるからだ。チナのどこをとっても世界を構築した論理は成り立たない。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
チナの意味はまだ明かされない。人はそれぞれの推論を立てるだろう。だがそれのどれもがあっけなく崩れ去ってしまう。世界はどこまでも緻密にして壮大な論理の結果であるからだ。チナのどこをとっても世界を構築した論理は成り立たない。<a name="more"></a>

]]></content:encoded>
            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10737453.html</link>
      <title>チナの始まり３</title>
      <pubDate>Wed, 02 May 2012 05:36:40 +0900</pubDate>
      <description>チナがしていたことは誰も知らない。チナは午前２時になると姿を消した。そして朝方戻っている。その体には、枯れ草がいっぱい付いていたという。それはチナの生まれた翌日から始まった。寝返りもうてないはずの頃である。チナは夜中に出かけていって、朝には生まれたばかりの赤子としてベッドにいる。チナは川をその道としていた。そこに現実にある川ではない。チナが生まれる前に、母親の体から驚くほどの水が流れたという。それは破水の前である。その水を清浄な場所に流しなさいと母親は誰かに言われている。…チ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
チナがしていたことは誰も知らない。チナは午前２時になると姿を消した。そして朝方戻っている。その体には、枯れ草がいっぱい付いていたという。それはチナの生まれた翌日から始まった。寝返りもうてないはずの頃である。チナは夜中に出かけていって、朝には生まれたばかりの赤子としてベッドにいる。チナは川をその道としていた。そこに現実にある川ではない。チナが生まれる前に、母親の体から驚くほどの水が流れたという。それは破水の前である。その水を清浄な場所に流しなさいと母親は誰かに言われている。…チナの始まりは、周到に準備されていたことになる。ではそれを伝えたのは誰だったのか。それは母親でさえ覚えていない。近所の誰だったか、としか覚えていない。さらに遡れば、チナの受胎を予告した者がいる。それは母親も全く知らぬ人物であった。その老人はチナの受胎を予言し、さらにこう言ったという。お前の産むその子は、お前の子にはならない。…そしてチナは生まれた。母親の体から流れ出た水を流したところが川である。そこを通ってチナは明け方まで姿を消す。チナは何をしていたのだろうか。チナの始まりの目的は何だったのだろうか。あるいはチナという存在は、何を意味するものであるのか。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10736198.html</link>
      <title>チナの始まり２</title>
      <pubDate>Tue, 01 May 2012 09:06:26 +0900</pubDate>
      <description>それが何であったのかを合理的に説明することはできない。またこのことに関わった者も、今ではごく限られている。そして、そこでそれぞれの役割を果たした者達を特定することもできない。彼等はその役割のために、それだけのためにそこに生じたのだ。では「チナの始まり」はあったのか。…チナは始まり、そして終わった。そこで起きたことは、具体的にいくつかが記憶されている。だが、その全体は把握されていない。その全体の意味は、当事者を含めて誰ひとり知る者がいないのだ。…チナはそうして生まれた。1990..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
それが何であったのかを合理的に説明することはできない。またこのことに関わった者も、今ではごく限られている。そして、そこでそれぞれの役割を果たした者達を特定することもできない。彼等はその役割のために、それだけのためにそこに生じたのだ。では「チナの始まり」はあったのか。…チナは始まり、そして終わった。そこで起きたことは、具体的にいくつかが記憶されている。だが、その全体は把握されていない。その全体の意味は、当事者を含めて誰ひとり知る者がいないのだ。…チナはそうして生まれた。1990年６月30日のことである。<a name="more"></a>

]]></content:encoded>
            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10734894.html</link>
      <title>チナの始まり</title>
      <pubDate>Mon, 30 Apr 2012 11:10:52 +0900</pubDate>
      <description>今から始まる。…そうだろうか。今で終わる。…それは終わったことがなく、始まったこともない。その始まりのとき、何もかもが美しかったという。風もないのに樹の葉が煌めく様子は、まるでピアノの鍵盤のようだったという。どこかから歌声が聞こえたという。見たこともない花が咲き乱れていたという。…そしてその終わりのとき、あたりを満たしている香に年寄り達は、誰が香水を身にまとっているのだろうかといぶかしんだという。…チナの始まりとその終わりは、このように語られた。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
今から始まる。…そうだろうか。<br />今で終わる。…それは終わったことがなく、始まったこともない。<br /><br />その始まりのとき、何もかもが美しかったという。風もないのに樹の葉が煌めく様子は、まるでピアノの鍵盤のようだったという。どこかから歌声が聞こえたという。見たこともない花が咲き乱れていたという。…そしてその終わりのとき、あたりを満たしている香に年寄り達は、誰が香水を身にまとっているのだろうかといぶかしんだという。…チナの始まりとその終わりは、このように語られた。<br /><br /><br /><br /><a name="more"></a>

]]></content:encoded>
            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10721552.html</link>
      <title>DE VITA BEATA 2</title>
      <pubDate>Fri, 20 Apr 2012 04:59:34 +0900</pubDate>
      <description>セネカの「幸福な生活」の冒頭部分を、かなり端折って書いてみたのは、仏教経典特有の、いわくありげな表現･言葉づかいが、実はそんな言葉を使う必要などないものであることに気付かされるから。幾つかの平明な単語の定義をしっかり決めていれば、怪しげな仏教用語から逃れて、しかも同様の、あるいはそれ以上の意味を書き留めることは充分可能なのだ。そろそろまとまったものを書こうと、最近何度も考える。考えて、でもなかなか始められない。ひとつには言葉の問題があった。この「閑時種」でさえ、どうしても仏教..</description>
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セネカの「幸福な生活」の冒頭部分を、かなり端折って書いてみたのは、仏教経典特有の、いわくありげな表現･言葉づかいが、実はそんな言葉を使う必要などないものであることに気付かされるから。幾つかの平明な単語の定義をしっかり決めていれば、怪しげな仏教用語から逃れて、しかも同様の、あるいはそれ以上の意味を書き留めることは充分可能なのだ。そろそろまとまったものを書こうと、最近何度も考える。考えて、でもなかなか始められない。ひとつには言葉の問題があった。この「閑時種」でさえ、どうしても仏教用語に頼る部分がある。頼りながら、それに違和感を感じている。そんな折、ふとこの「幸福な生活」を読み返してみて、法華経･方便品に説かれていることとの驚くほどの共通性を思い出したのだ。もちろんここから先の論旨は全く別物ではある。でも、これでいけるのではないかと思う。それは隠居が実現してから、と先延ばししてきたが、どうやら隠居は夢で終わりそうだ。あの「犬のように働き、丸太のように眠る」という「A HARD DAYS NIGHT」の歌詞のような生活から逃れることはできないようだ。そんなものかもしれない。そういう生活の中で水泡のごとくに浮かび上がる言葉を反芻する。修行とは、けっして特別なシチュエイションによって成り立つのではなく、むしろ日常の煩雑の中にあるものだ。いや、そうでなければならないのだ。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10720247.html</link>
      <title>DE VITA BEATA　１</title>
      <pubDate>Thu, 19 Apr 2012 06:32:28 +0900</pubDate>
      <description>人は皆、幸福な人生を生きたいと望みながら、では幸福な生活が何によってもたらされるのかを見極めめようとしても、それを果たせずにいる。いくら幸福な生活を求めたところで、むしろ些細な誤りから人は、幸福から遠ざかってゆく。誤った道を歩めば歩むほど、幸福との隔たりは広がってゆく。であるならば、まず達しようとするのは何であるのかを念頭におき、次にどんな道を歩めば最も早くそれに到達することができるのか、つまり道が正しくさえあれば、その道のどれほどまでをすでに踏破してきたのか、望むことにどれ..</description>
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人は皆、幸福な人生を生きたいと望みながら、では幸福な生活が何によってもたらされるのかを見極めめようとしても、それを果たせずにいる。いくら幸福な生活を求めたところで、むしろ些細な誤りから人は、幸福から遠ざかってゆく。誤った道を歩めば歩むほど、幸福との隔たりは広がってゆく。であるならば、まず達しようとするのは何であるのかを念頭におき、次にどんな道を歩めば最も早くそれに到達することができるのか、つまり道が正しくさえあれば、その道のどれほどまでをすでに踏破してきたのか、望むことにどれだけ近づいているのかを、道そのものにおいて知ることができるように精査することが必要であろう。<br /><br />人は良き指導者に従うことをせず、種々な物音や耳障りな呼び声を立てては人を誤った方角へと向かわせる者に従って彷徨い続けては、精神の健全を得ようと日々努力しながらも、短い一生を放浪のうちに費やしてしまう。だから人は、進むべき方向と道順をはっきりと決めなくてはならないわけだが、それには往くべき道を知る者、その道をすでに歩む者に従うべきなのである。この旅は、他の旅における場合とは事情が異なるのだから。他の旅では、すでに通るべき道筋はよく知られていて、誰かそこにいる者を見つけて尋ねれば道に迷うことはないが、この旅では最もよく踏みならされ、最も賑やかな道ほど、最もよく人を迷わせるのだ。<br /><br />家畜たちがやるように、先に行く群れにただついて行くようなまねをせぬことが何よりも大切だ。多くの人々の一致して認めることを、最も善いことと考えて、世人の意見に従い、多くの人々を模範として理性に従わず、人の真似をして生きることほど人を不幸に包むことはあるまい。その結果、悲嘆のうちに行き倒れた人の数は知りようがないほどである。<br /><br />つまり多くの人が先も知らずに押し合うように歩んでゆくような場合、誰が倒れても必ず他の人々をまきぞえにし、一人の破綻が、これに続く者の破滅の原因となる。このようなことが人生の到るところで起こっていることは何より明らかであると言えるだろう。どんな人でも、自分一人だけで誤りを犯すのではなく、必ず他者の過誤のもとを作り、それが後へ続く者への誘因となるのだ。人が批判よりも信ずることを好むという性向をもつ限り、人生においても決して批判することをせず、常に盲信し、その結果、手から手へと引き渡される誤りは、人を苦悩へと陥れるものである。人は他者を模範とすることによって、滅びへの道を歩むのだ。だから人々の群れから離れたとき、人は健全になれるのだ。<br /><br />実に人は理性に刃向かい、自らの悪の擁護者となっている。人は同じ一つの事を称賛もすれば非難もするものである。それはただ多数の意見に従って判断されるのである。幸福な生活を語る場合、そのような慣わしを用いるべきではない。人間社会は善ければ善いほど多くの者にそれが受け継がれるような良い状態にはなっていないからだ。だから、最善の行為となるものを求めなければならない。永遠の幸福を確立させるものが問題なのであり、真理を最も悪く解釈する者達に迎合することは問題ではない。<br /><br /><br /><br /><br /><br /><a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/19530221/archives/10717954.html</link>
      <title>煩悩の究極７</title>
      <pubDate>Tue, 17 Apr 2012 09:15:15 +0900</pubDate>
      <description>衆生の心身を悩乱し、迷界に繋留させる妄念。貪り･怒り･愚かさ･怠り･疑い、そして迷理の惑い。前の五項を「愛」といい、第六項を「見」という。「愛」とは一切の修惑、「見」はすなわち見惑。「見行」といえば自己の知恵にて道理を見極めて修行すること。「愛行」は貪欲、総じて思惑を意味する。この六項を大本とし、よく知られているのは百八の煩悩、あるいは八万四千の煩悩。…ま、やたら多いという意味。この煩悩の絶滅が、解脱への道の要訣といわれる。そういわれているのなら、そうではないのが仏教。煩悩の..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
衆生の心身を悩乱し、迷界に繋留させる妄念。貪り･怒り･愚かさ･怠り･疑い、そして迷理の惑い。前の五項を「愛」といい、第六項を「見」という。「愛」とは一切の修惑、「見」はすなわち見惑。「見行」といえば自己の知恵にて道理を見極めて修行すること。「愛行」は貪欲、総じて思惑を意味する。この六項を大本とし、よく知られているのは百八の煩悩、あるいは八万四千の煩悩。…ま、やたら多いという意味。この煩悩の絶滅が、解脱への道の要訣といわれる。そういわれているのなら、そうではないのが仏教。煩悩の絶滅が解脱への道の要訣だ？それを本末転倒という。解脱すなわち解放、解き放たれること。解脱とは煩悩が絶滅してしまったことであり、そこには人の意志は作用していない。煩悩を究めず解脱はないと見るべきだ。…煩悩を究めずに解脱があったなら、それがまた「色」として滲み出るだろう。つまり成仏は完全なものとはならないだろう。煩悩即菩提なんぞの迷言こそは「見行」の極み。煩悩と菩提すなわち解脱とは対極のものであり、あたかも大乗の説くかの迷言では、仏の意味どころか人の意味すら曖昧なものとなってしまうのだ。それこそが迷界を浮き沈みする妄念。似非仏教の説く似非解脱とは、そのようなものと心得よ。<a name="more"></a>

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            <category>宗教</category>
      <author>半覚斎</author>
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