2006年08月24日

爺さまのセックス談義 老人の巻

セックスとは、汲めども汲めども尽きない井戸のようなもの。我輩のように80に手の届くような歳になっても、井戸を覗くと、何やら底の方に溜まったものが見える。セックス即性交と短絡して考えれば奥行きは知れたものだ。だが、男女が協同して生きていくための営みと考えれば、奥は深い。だから、セックスレスもセックス談義の主要なテーマーである。セックスをなくした夫婦がどう共同生活を続けていくか、深刻で難しい問題。しかも、中年以降でこの問題を抱えていない夫婦は少ないくらいだ。性という自分ひとりではどうにも解決しようのない、厄介なものに、我々は一生振り回されねばならないのである。 

最近の特徴は、老人のセックスが臆面もなく語られるようになったことだ。充実して活気ある老後を維持するために、セックスほど効果的なものはない。と、研究者たちは口をそろえる。セックスは生命の源である。命ある限り性欲が消滅することはない。という意見の反面、そんなもの、もう駄目だだめだ、用事なんかあるかいな。と頭から否定する人も結構いる。これ、どっちが本当だろう。今までの常識から言えば、年と共に性欲は減退し、やがてなくなるはず。70 80にもなって性欲だなんて、気味が悪い。と、我輩も若い頃は思っていた。

夫婦のセックスにしても、だんだん先細りし、その内なくなるのが普通だろう。と、タカをくくっておったわけである。ところが、どうだ、とうに消滅しているはずの性欲が、驚いたことに、この歳になっても頑として我が体内に居座っておる。歳はとってみないと解らないもの。ある本で、セックスは脳でするものだなんてのを読んだことがあるが、これは本当らしい。体力はなるほど衰えた。しかし脳のほうの感覚は、いささかも衰えていない。昔綺麗と思った風景は今見ても綺麗。昔綺麗と思った女性の写真は今みても綺麗だ。人間の感覚は歳と共に衰退するどころか、磨きがかかる面だってある。美しいもの、心地いいもの、愛しいものに対する執着は、年齢とは無関係だ。若いとき、このことを充分考慮に入れておかないと、老後にほぞをかむことになる。

性欲は先細りするようでそうでない。体力はピークが過ぎたのに、仕事の責任が重くのしかかる年のころ、誰でも性欲の枯渇を自覚するものだ。ところが、である。毎日が日曜日という結構な身分になると、またもや欲が復活してくるから、始末が悪い。今更カミさんにお願い出来るものでない。夫婦といえども、いや夫婦だからこそ、10年もご無沙汰したら復活はまず不可能。だが、本能はやけにしつこい、特に男性は。何らかの形でガス抜きが必要である。生るエネルギーというマグマがたぎるのだから、それはもう、始末が悪い。

夫婦といえば、セックスによって結ばれ、愛を育んできた仲である。男と女を結びつける唯一の接着剤がセックスなのだから、この大切な行為を、あまり早く切り上げてしまうのは問題。近頃の夫婦は、気が遠くなるほど長い付き合いになる。しかも、夫婦であることの真価が問われるのは、老後なのだ。二人寄り添って長生き出来た幸せは、又格別なものがある。反対に冷えた夫婦二人だけの老後は、砂をかむように味気ないもの。老後の円満を味わうためには、やっぱり健康な間はセックスに励んでおく必要を痛感する。愛が冷めてしまったのなら話は別だが、愛し合っているのに、セックスがないというのは悲劇のもと。双方に、余り大きな不満を残さないように、収めたいものだ。

今はセックスのない夫婦でも、以前セックスをした仲だという、互いの記憶で結ばれているようなもの。それ以外他人の男女を結びつけるものなぞ何もない。今は枯れ果てた爺と婆も、その昔どんなセックスをしてきたかで、愛の濃淡が決まる。二世代同居なら逃げ場もあろう。そりの合わない老夫婦二人きりの長い老後なんて、考えただけで溜息が出る。今は夫婦も大航海時代、難破もせずに平均寿命を越えて、仲よく添い遂げられたら勲章ものである。

Posted by 36sabue74 at 06:22  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする