2009年04月06日
英語の威力
先日NHKのクローズアップ現代で英語の問題を取り上げていた。その中で、英語のスキルアップに懸命な中堅社員の姿になんだか哀れを感じた。英語が出来ませんではお払い箱になってしまいかねないから、彼らも必死だ。自転車の部品を製造する下請け企業でも、東南アジアその他に工場を持つご時世だ。国際的なビジネス用語である英語が出来なければ、ちょっとした企業ではもう使い物にならない。中堅社員が入社したころには予想もしなかった事態であろう。予想より現実のほうがどんどん先に進んでいる。英語が出来なければ生活が成り立たなくなるなんて、まさか、という思いをかみ締めている中高年は多いのではないか。これはビジネスマンだけではない、英語オンチでは個人生活も時代遅れになりつつある。肝心なところで日本語の通じないPC相手の生活が当たり前になろうとしている昨今だ。
そんな中で変わらないのが役人たち。日本語の世界に埋没している役人衆に時代の流は見えにくかろう。少なくとも実感できる環境にはいない。外交官は別としても、役人の殆どは、日本語だけで未来永劫にやっていけるものと高をくくっているに違いない。こと英語に関しては、中国や東南アジアのほうが進んでいるようだ。番組で写し出された光景を見ると、中国における英語教育は日本など及びもつかない熱心さ、小学生から自国語そっちのけといった熱の入れようだ。中国人のアイデンティティはどうなるのだろう、と、要らぬ心配をしたくなるほどに見えた。それに比べ日本はのん気に構えている、足元を英語の波に洗われているというのにだ。
性急な英語教育には各方面からの抵抗が強い。民族意識の低下を恐れるのだろう。言葉は民族を束ねる鎖なのだから、鎖が劣化すれば民族の結束は弱体化するに決まっている。反対意見が出るのも無理のないことだ。この心配はどこの国も同じとみえ、シラク前フランス大統領は国際会議で自国の大臣が英語でスピーチするのに強い不満を示したそうだ。自国語が世界最高であると自賛するのはどの国も同じこと。だが、それ以上に現代社会では世界共通語のニーズが高いということだ。
言葉は社会生活に必要な道具のひとつ。道具なら便利なほうを選ぶのが人の常。いかに優れた言葉でも使いかってが悪ければ見捨てられる。たとえば方言、地方で生まれ育った者にとって、生まれた土地の方言くらい心に沁みるものはない。その土地ならではの気候風土人情によって培われた言葉には生命の迸りがある。言葉にはその土地特有の約束事や秩序が組み込まれてもいる。昔の薩摩人は薩摩弁の秩序の中で生きてきた。そこでしか生きられなかったと言ってもいい。長州人しかり、土佐しかり、京も江戸も昔は方言の制約の中でしか暮らしが成り立たなかった。
言葉が通じなければ異国の人である。明治維新のころの政府といえば、異国人の寄せ集めのようなものであったろう。江戸言葉を全国に広める役割を果たした参勤交代制がなかったら、あれほどスムースに日本国は誕生しなかったはずだ。その意味から言えば明治維新一番の功労者は、参勤交代の制度を考案した徳川家康ということになる。庶民レベルで日本人という自覚を持つようになったのは昭和に入ってからではなかろうか。話し言葉として標準語が日本を制したのはさらに下がって、テレビが一般化してからだろう。加えるに交通網の発達で日本から田舎というものがなくなってしまった。薩摩も蝦夷地も今では東京の郊外といった感覚でしかない。したがって標準語に違和感を覚える人などもういなくなってしまった。
言葉はコミニュケーションの手段なのだから、生活環境が変われば言葉も変わる。これだけ外国に依存する暮らし向きとなれば自国語に拘っているわけにはいかない。方言を捨てて標準語になびいたように、昨今の現実を見ていると、世界の共通語に出世した英語に、すべての国がなびかざるを得ない。気に入らないといってみたところで、国民生活に支障が出れば、自分たちが困るだけだ。とは言え、言葉を乗っ取られるということは決定的な敗北である。武力による敗戦の比ではない。言葉は民族のバックボーンなのだから、まさしく骨抜きになることだ。自国語の衰退を嘆かない国は一国もない。
しかし、どう足掻いてみても、もう勝ち目はない。地球の現状は英語民族に征服されてしまったも同然。この現実を直視し受け入れるほかはない。ただ英語に習熟するということは、英語の文脈に沿った思考になるということ。わが子がYOUなら社長もYOUですむがごとしだ。後50年もしたら、日本人も中国人もインド人も、中身はアメリカ人と変わらなくなっているのではなかろうか。そんな人をコスモポリタンというのかもしれない。中国語でもロシヤ語でもなく英語であったことを、せめて好運だったと考えるよりほかなさそうだ。
そんな中で変わらないのが役人たち。日本語の世界に埋没している役人衆に時代の流は見えにくかろう。少なくとも実感できる環境にはいない。外交官は別としても、役人の殆どは、日本語だけで未来永劫にやっていけるものと高をくくっているに違いない。こと英語に関しては、中国や東南アジアのほうが進んでいるようだ。番組で写し出された光景を見ると、中国における英語教育は日本など及びもつかない熱心さ、小学生から自国語そっちのけといった熱の入れようだ。中国人のアイデンティティはどうなるのだろう、と、要らぬ心配をしたくなるほどに見えた。それに比べ日本はのん気に構えている、足元を英語の波に洗われているというのにだ。
性急な英語教育には各方面からの抵抗が強い。民族意識の低下を恐れるのだろう。言葉は民族を束ねる鎖なのだから、鎖が劣化すれば民族の結束は弱体化するに決まっている。反対意見が出るのも無理のないことだ。この心配はどこの国も同じとみえ、シラク前フランス大統領は国際会議で自国の大臣が英語でスピーチするのに強い不満を示したそうだ。自国語が世界最高であると自賛するのはどの国も同じこと。だが、それ以上に現代社会では世界共通語のニーズが高いということだ。
言葉は社会生活に必要な道具のひとつ。道具なら便利なほうを選ぶのが人の常。いかに優れた言葉でも使いかってが悪ければ見捨てられる。たとえば方言、地方で生まれ育った者にとって、生まれた土地の方言くらい心に沁みるものはない。その土地ならではの気候風土人情によって培われた言葉には生命の迸りがある。言葉にはその土地特有の約束事や秩序が組み込まれてもいる。昔の薩摩人は薩摩弁の秩序の中で生きてきた。そこでしか生きられなかったと言ってもいい。長州人しかり、土佐しかり、京も江戸も昔は方言の制約の中でしか暮らしが成り立たなかった。
言葉が通じなければ異国の人である。明治維新のころの政府といえば、異国人の寄せ集めのようなものであったろう。江戸言葉を全国に広める役割を果たした参勤交代制がなかったら、あれほどスムースに日本国は誕生しなかったはずだ。その意味から言えば明治維新一番の功労者は、参勤交代の制度を考案した徳川家康ということになる。庶民レベルで日本人という自覚を持つようになったのは昭和に入ってからではなかろうか。話し言葉として標準語が日本を制したのはさらに下がって、テレビが一般化してからだろう。加えるに交通網の発達で日本から田舎というものがなくなってしまった。薩摩も蝦夷地も今では東京の郊外といった感覚でしかない。したがって標準語に違和感を覚える人などもういなくなってしまった。
言葉はコミニュケーションの手段なのだから、生活環境が変われば言葉も変わる。これだけ外国に依存する暮らし向きとなれば自国語に拘っているわけにはいかない。方言を捨てて標準語になびいたように、昨今の現実を見ていると、世界の共通語に出世した英語に、すべての国がなびかざるを得ない。気に入らないといってみたところで、国民生活に支障が出れば、自分たちが困るだけだ。とは言え、言葉を乗っ取られるということは決定的な敗北である。武力による敗戦の比ではない。言葉は民族のバックボーンなのだから、まさしく骨抜きになることだ。自国語の衰退を嘆かない国は一国もない。
しかし、どう足掻いてみても、もう勝ち目はない。地球の現状は英語民族に征服されてしまったも同然。この現実を直視し受け入れるほかはない。ただ英語に習熟するということは、英語の文脈に沿った思考になるということ。わが子がYOUなら社長もYOUですむがごとしだ。後50年もしたら、日本人も中国人もインド人も、中身はアメリカ人と変わらなくなっているのではなかろうか。そんな人をコスモポリタンというのかもしれない。中国語でもロシヤ語でもなく英語であったことを、せめて好運だったと考えるよりほかなさそうだ。
この記事へのコメント
相変わらず秀逸な文章ですね先輩。参勤交代が明治維新に多大な貢献をしたなんて夢にも思わなかった。その分析力や発想力、そこに気づく柔軟な思考力、そしてその文章力どうすれば手に入るのですか。参勤交代を思いつきそれを各大名に実行させる力のあるうちに制度化した徳川家康もすごいけど、まさかそこまで考えていなかったでしょうね。そういえば先輩の文章も当初、関西弁を意識していたけれどいつの間にか標準語化され、よりどっしりと読みやすくなってますよね。とにかく我が郷土、関西に庶民を貫く埋もれた思想家ともいえる先輩のいることは私にとって大いなる誇りです。私の行動半径の中に先輩のような人を育てる土壌があるということですから関西も捨てたもんじゃない。先輩に今,熟考する時間があることが私たち読者にとってもラッキーです。いまだ衰えぬ思考力と先輩の過去の努力によって勝ち得た時間、これを価値ある文章に転化できる人なんて早々いてるわけがない。貴重なる天の配剤,ウン間違いない。先輩はエッセー界のゴッホ足りえる人物です。ウーン没後、認められても仕方ないか。
Posted by 堺のだめおやじ at 2009年04月08日 06:05
堺さんには相当買い被られてしまったようです。思想だなんてとんでもない、老いぼれの単なる思い付き程度のものにすぎません。つれづれに思いついたことを羅列しているだけです。願わくば気楽に読み飛ばしていただきたいものです。我輩の本意としては、知ったかぶりを避けて、軽妙なタッチに仕上げたいのですが、残念ながらそれだけの筆力がありません。
Posted by sabue at 2009年04月08日 13:49
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