2009年04月11日

体罰の連鎖

とあるスーパーの前で信号待ちをしているときだった。若い母親が幼い女の子2人を連れて出てきた。上の子が二言三言母親に向かって、ねだるような口調で何か言った途端に、母のビンタが頬に飛んだ。4歳に届くか届かないかだが、女の子は泣きもせずそれっきり押し黙って母の後をついて行く。その態度から見て、日常的に叩かれている感じである。気に入らないとすぐ手を出す母親らしい。泣きはしなかったが、叩かれたときの無表情な子供の顔がひどく哀れに思えた。一番信頼し愛してもらいたいと思っているお母さんに、有無を言わさずしばかれる、子供のやりきれない心の内を思うと、見ているほうまで切なくなる。あんな仕打ちを受けながら育って、どんな女性になるのだろう。

たとえ平手にしろ殴られるということは子供にとって大変な恐怖である。同時にこれ以上の屈辱はない。いくら小さい子供でもしばかれれば口惜しい、人に見られたら恥ずかしい。親にしばかれているところなど、絶対に友達には見られたくないはず。子供に手を挙げるような無神経な親は、そんなことお構いなしだ。子供の自尊心の痛みが解る親なら叩いたりはしない。子供の自尊心についてなど考えたこともなかろうし、まして人権の何たるかを考えもしなければ、解ろうともしない。こんな親の下に生まれてきた子供は災難だ。

親から受けた暴力の災難が、その子だけにとどまるならまだしも、常習的に親の暴力にさらされて育った子供は、やがて同じようにわが子に暴力を振るうようになるのが問題だ。妻や恋人を平然と殴りつけるDV男もそうだが、人を殴りつけて平気な神経は、殴られた経験がなければ出来上がらない。特に子供のころの経験が大きい。たとえ親とはいえ、まるで家畜でもあるかのようにしばかれてばかりいて、心優しく寛容な人柄の大人になれるわけがない。反対に被害妄想に陥りやすく疑ぐり深くて狷介な人物になってしまう率のほうが圧倒的に高いだろう。ただし、例外があることだけは念のために付け加えておく。

殴られるということは、自尊心を粉砕されることであり、人格を踏みにじられることである。人の品位向上には、他者に冒されることのない確固たる自尊心を必要とする。自尊心に傷が付けば付くほど品性は劣化する。自分が粗末に扱われるほど他人の人権も粗末に扱うようになる。暴力が人格を如何に歪めてしまうか、暴力団の面々を見ればよく解る。暴力にさらされて育って、立派な人格者になれるわけがないだろう。環境相応の人物しか出てこないのが普通である。

旧日本軍が今もって蛇蝎のごとく嫌われるのは、暴力を容認どころか礼賛するような組織だったからだ。殴りつけることが教育だと信じていたかどうかは知らないが、軍人精神を鍛えるだの、軟弱な根性を叩き直すだのと理由をつけ、正当化されていたことは間違いない。日常的に殴ったり殴られたりしていたら心は荒れる。根性も面構えも暴力団員さながらに変容してしまうのも無理のないところ。旧日本軍が嫌われたのは、怒鳴る殴るという暴力団的品位のなさにあった。

これについては反対意見も多かろう。軍隊生活もエリートコースしか知らない人と、末端兵士の悲哀を嘗め尽くした人では全く異なってしまう。たとえば中曽根元首相や作家の阿川弘之氏などのように、エリートコースしかしらない人は牧歌的な懐かしさの中で軍隊生活を思い出しているようだ。反対に映画監督の新藤兼人氏や我が兄のように、中年から招集され、無教養で荒らくれた下級兵士に思う様いたぶられた経験者は、生涯旧日本軍を怨み続ける。旧日本軍の評価は、暴力団的体質に触れたか触れなかったかによって大きく違ってしまう。資料をいくらあさっても、体質や臭いまでかぎ分ける嗅覚がなければ、旧日本軍の正体はわからない。

むかしの親は子供は自分の持ち物くらいに思っていたから、叩くくらいたいした抵抗も感じなかったようだ。だからしばかれて育った子供は多い。その影響のせいか体罰を正当化する人たちは今も結構いるようだ。児童虐待の多さに見られるように、日本社会における暴力の連鎖はまだまだ根が深い。品位ある紳士淑女に育って欲しいと思うなら、間違っても我が子をしばくような真似はしないことだ。

Posted by 36sabue74 at 10:12  |Comments(3) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
体罰、難しい問題だと思っています。私自身は子育てにおいて手を上げずに済ましてきたわけではありません。もちろん日常的に手を出してきたわけではないので子供たちにトラウマはありません。後々のことを考えここはひとつ手を上げといたほうがいいだろうと思えば今でも手を出すと思います。体罰肯定派ではありませんが手を出すほうにそれなりの判断する器があればゴツンとやるのも大切な教育だと思っています。実はたまにじゃれあってボクシングなどしてもどの子にももう勝てない。私の得意なフェイント攻撃の癖を見抜かれている上、体力、体格とも差がつき過ぎたのでへべれけにされた上、最後はコテンパンにされてしまいます。到底勝てないと思っていた親を負かしたことが自信に繋がったのかこの頃はえらそうにオヤジなどと呼びます。しかしいざとなると捨て身になる私の怖さもよく知ってるので何かしでかしたときはまだまだ怖いようです。妻に対しては口うるさいからかなわんなという私と同じ感覚で怖いということはもうないようです。近いうちに私も怖いという対象から外されるでしょうがそれが子供たちの精神的な自立だと思っています。
Posted by 堺のだめ親父 at 2009年04月12日 08:38
刑法208条に暴行罪というのがありますので、たとえ傷害に至らなくても、鉄拳による制裁は違法行為ということになります。かりに我が子に訴えられたとしたら勝ち目はありません。これの是非はともかくとして、法治国家の一員である以上一応は押えておく必要はあるでしょう。

鉄拳による制裁。この世には理屈を超えた力の存在を知らしめるには最適かも知れません。なんと言ってもこの世は力に支配されているのが実情であります。力のバランスを見極める能力は不可欠です。暴力も力ですからどう対応するかというノウハウを身につけるのも無駄だとは思いません。理想は理想、現実は現実と割り切る必要もあるでしょう。ただ、我輩の観察によると、簡単に殴られる子と、決して殴られない子というのがあるものです。名うての暴力教師も決して手を出さなかった子を知っていますが、その子は、子供ながら侮り難い凛としたものを具えておりました。アメリカのオバマ大統領もそんな子供ではなかったかと想像されます。

世渡り上手を育てるには鉄拳も効果があるかもしれません。が、品格を育てるにはマイナスになる、というのが我輩の考えであります。品格がなんぼのもんじゃい、と言われそうですが、品格が劣るほど軽蔑するのが世間というもののようでありす。
Posted by sabue at 2009年04月12日 13:17
 はじめまして。

 巷では悲しいことに、「体罰は教育として必要」という論旨があふれているようです。

 私は精神的に障害をもっており、パニックになったことを密告され、体罰の経験もある先生から逃げていた思い出があります。そのせいで私は体罰(ビンタ)そのものにトラウマを持つようになり、ドラマとかのビンタだけでも反応してしまうほどのトラウマを抱え込んでいます。

 私の母の父(叔父)も徴兵され、荷物係(?)みたいなものをやらされたのですが、「国のために死ねるか」という理不尽な体罰を受けたそうで、あまりいい思い出はないみたいですね。

 私としては、再び力で統治する時代が来てほしくはありません。本当に難しい問題ですが、体罰肯定派はその問題から逃げていると思います。
Posted by 失礼します。 at 2009年06月09日 21:09
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