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    <title>ひねくれ老耄記</title>
    <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/</link>
    <description>名もない老人のよしなしごと</description>
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    <itunes:author>36sabue74</itunes:author>
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      <title>葬式から見える世相</title>
      <pubDate>Tue, 22 May 2012 06:14:35 +0900</pubDate>
      <description>我が家の親戚に、ここ３年ほどガンで闘病中の女性がいた。抗がん剤の副作用で、かなり苦しんでいると聞かされてはいたが、やつれて相の変わった姿を見られるのを嫌ってか、身内以外は会いたがらないということで、見舞いは遠慮していた。昔は親しい者同士の当然の付き合いとして、病気見舞いは義務のように思われていた。ところが、昨今様子が変わって、病気見舞お断りが普通になった。余計なお節介はやめてくれ、ということのようだ。自分は自分、人は人という個人主義が高じると、人の親切まで煩わしいのだ。要する..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
我が家の親戚に、ここ３年ほどガンで闘病中の女性がいた。抗がん剤の副作用で、かなり苦しんでいると聞かされてはいたが、やつれて相の変わった姿を見られるのを嫌ってか、身内以外は会いたがらないということで、見舞いは遠慮していた。昔は親しい者同士の当然の付き合いとして、病気見舞いは義務のように思われていた。ところが、昨今様子が変わって、病気見舞お断りが普通になった。余計なお節介はやめてくれ、ということのようだ。自分は自分、人は人という個人主義が高じると、人の親切まで煩わしいのだ。要するに、借りを作りたくない。恩にも着たくない、ということだろう。<br /><a name="more"></a><br />病気になろうが死のうが、他人様には関わりございません、というのが昨今の風潮。<br />「○○さん死にはったんやてぇ」<br />「で、葬式の日取りはいつや？」<br />「家族葬やから誰にも知らしてないみたいやで」<br />「親父のとき、香典もらっとるさかい、知らん顔もできんしな…困ったなァ」<br />なんて話、近頃珍しくなくなった。葬式を近隣に内緒で出すなんてこと、ついこの間まではありえないこと。葬式は町内で助け合って出すもの、と決まっていた。それがあっという間に廃れ、家族で営む、個人的な儀式になってしまった。葬儀業者に頼めば、万事遺漏なくやってくれるとはいえ、人まで集めてはくれない。親戚も少ない、近隣との付き合いも薄いでは、葬儀らしい格好をつけるのは難しい。やむなく家族葬、という例も増えているようだ。<br /><br />有名人なら、派手になりすぎるのを嫌って密葬ということになるのだろうが、名もない庶民の場合、町内の協力がなければ、葬儀らしい型を整えるほどの人は集まらない。その点、古い伝統が残る地方へ行けば、相応に型の整った葬儀が営まれている。葬儀と聞けば、忘れていたような遠い親戚や知人が駆けつけてくれるからだ。ところで、上記の親戚の女性だが、訃報を聞かされたのは、荼毘に付した後だった。親戚にさえ知らさず、家族だけで事を済ましたという。死者をあの世に送るには、それなりの演出がないと、廃棄物の処理と変わらなくなってしまう。それではあまりに哀しい。彼女の場合、喪主の面目が立つ程の弔問客が見込めないための、苦渋の家族葬、と我輩は睨んでいるのだが……。<br /><br />人間は本能だけで生きているわけではない。それぞれの想像力で、仮想の世界を構築し、現実と空想の世界を往ったり来たりしながら生きている。物理的には実証不可能な、神や仏、霊魂などを感じ取れる、神秘な能力を具えた生き物である。現実にはあり得ない怪奇現象でも、本人の心が反応すれば、当人にとっては現実である。あるのに見えないのが人の心。人の心は想像する以外すべがない。死者の心もまた、想像する以外に方法がない。肉体は滅んでも、その心は魂となって、異次元の世界に残り続ける、という考えが正しいか間違っているかは、確かめるすべもない。ただ、魂は残ると考えた方が、死者を身近に感じられる。敬慕の念があればそのように考えたいのが人情。<br /><br />自然な人情に従って、死者の魂は存在すると信じている人が大多数。例え身もと不明の行き倒れでも、行政の手によって人らしく埋葬される。これは、霊的な物を公認する行為と言ってよいだろう。まして身内、扱いを誤ると一生悔いが残る。随分前だが、町会の世話役をしていたころ、町内に死者が出ると、何をおいても駆けつけた。そんな経験をしてきた我輩には、近頃の葬式は何ともそっけない。隣人知人の涙が一滴も流れない葬式なんて、葬式とは思えないのだ。現代社会の冷淡さが、葬式にも及んできた、ということだと思う。<br /><br />合理性と効率がすべてに優先する社会、省略できるものは何でも省いてしまう。そのせいで人情を暖めあう場というもののない社会になってしまった。人情が薄れるほどに人生は味気なくなる。進歩とは合理化することか、と思いたくなる最近の世相である。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10754056.html</link>
      <title>欲望の果て</title>
      <pubDate>Mon, 14 May 2012 08:28:45 +0900</pubDate>
      <description>今、大飯原発再稼働を巡って姦しい。あんな危なっかしいもの、稼働しなくて済むのなら、このまま封印してもらいたいとは、誰でも思う。但し、停電さえなければの話だ。電気によって成り立つ現代文明、停電は文明の停止である。水も出ない、便所も使えない。高層階なら梯子を外さるも同然。電気がなければ、何も機能しない環境の中で我々は生きている。電気は現代社会の血液、一時的にしろ供給が止まれば、あちこちで細胞の壊死が起こる。原発事故とは違った形で、深刻な被害が出ること疑いなしだ。原発に変わる発電所..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
今、大飯原発再稼働を巡って姦しい。あんな危なっかしいもの、稼働しなくて済むのなら、このまま封印してもらいたいとは、誰でも思う。但し、停電さえなければの話だ。電気によって成り立つ現代文明、停電は文明の停止である。水も出ない、便所も使えない。高層階なら梯子を外さるも同然。電気がなければ、何も機能しない環境の中で我々は生きている。電気は現代社会の血液、一時的にしろ供給が止まれば、あちこちで細胞の壊死が起こる。原発事故とは違った形で、深刻な被害が出ること疑いなしだ。原発に変わる発電所を作るか、電気の使用量が少なくて済む仕組みにするか、どちらにしても、構造改革が先ではないのか。急停止は事故のもと、ブレーキは安全を確かめながら踏まなくては。<br /><a name="more"></a><br />それにしても、原子力という悪魔のエネルギーに手を出すとは、人間も賢いようでバカな生き物だ。すべては欲のせい、欲のバイアスがかかると、理性が正しく機能しない。原爆の洗礼を受けた日本人、原子爆弾と聞けば震えあがるのに、平和利用という巨大な利益を突き付けられると、悪魔が福の神に見えてしまった。一部の人たちがいくら悪魔だと騒いでも、利益を生めば、関係者にとっては福の神だ。地球が破壊されようが、人類が滅ぶ危険があろうが、今日の儲けに狂奔するのが資本主義という怪物。利益を出さなければ生活出来ない仕組みの社会だから、動き出した歯車を止めるのは、命と引き換えである。<br /><br />世は挙げて競争社会。危ないからといって手をこまねいていては遅れをとる。時流から取り残されては負けである。技術革新に生き残りを賭ける国際競争の中、原発導入は必然であった。もし、原発を採用していなかったとしたら、先進国の仲間入りは覚束なかっただろう。それより何より、世論が承知しなかったと思う。危険を冒さずして進歩はない。科学文明を容認するなら、危険も容認しなくてはならない。例えば車、人的被害から言えば、交通事故による被害は、原発事故の比ではない。今日までの死者を累計すれば膨大な数。しかも、世界規模で見れば、車による事故死は増え続けている。人命が貴重と考えるなら、車など廃止にするべきだが、誰もそれは言わない。車には人の命を犠牲にするだけの価値があると、認める人が多いからだ。電気にも同じことが言えよう。<br /><br />進歩と危険はセットになっている。スピードを上げれば失速の危険がある。空を飛べば落ちる危険がある。原子力を使えば放射能漏れの危険がある。遺伝子組み換えには生態系破壊の危険がある。画期的な技術革新には、画期的な危険がついて来る。科学技術の蓄積と共に、危険の素因や犠牲者の数を、限りなく積み上げてきたのが、科学技術の裏の顔である。その典型が原子力を巡る技術であり、遺伝子組み換え技術だろう。原子力については、福島原発事故で多くを学んだ。続行するにしても、廃炉するにしても、後世に途方もない負の遺産を遺すのは確実である。<br /><br />遺伝子組み換え技術もまた、原子力利用に劣らないほど、恐るべき技術だと我輩は見ている。今のところ、確たる被害の報告はない。でも、こんな技術が地球規模で普及したなら、昆虫たちはどうなる。アメリカでの大規模ミツバチ失踪と、なんらかの関係があるのではないかと言われている。今のところ確証はない。ただ、農薬散布が昆虫減少に深く関わっていることは確実だ。害虫も昆虫である、虫を殺すような植物が増えたら、影響は全昆虫に及ぶ。受粉に必要な昆虫、植物のために土壌を改善してくれる昆虫まで殺したら、植物は生きていけない。これの咎めは忽ちにして全動物に及ぶ。人間の都合で、昆虫を無差別に殺すような技術は、原子力と同じく悪魔の技術というべきだ。<br /><br />人間の欲には際限がない。ひとつ叶うと、もっと大きなやつが欲しくなる。倍々ゲームで太っていくのが人の欲。同時に欲は人間の大切なエネルギー源でもある。そこに目をつけたのが資本主義。長らく、悪のイメージでしか語られなかった人の欲望を梃子に、目覚ましい経済発展を実現したのが資本主義。別の言い方をすれば、欲望の果てに辿り着いたのが現代社会ということだ。人の欲望をここまで解放してしまっては、後戻りはもう不可能。たとえ滅亡と解っていても、前進以外の道はない。我輩が少年だったころの地球は、無限の広がりと可能性を秘めていた。たった６０年ほどで、こんな夢も希望もない姿に変貌してしまうとは、驚きを通り越して茫然たる思いだ。このスピードで更に６０年経ったら、一体どうなっていることやら。明るい未来を想像したくても、その手がかりがどこにもないのだから、全くやり切れない。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10744592.html</link>
      <title>軍事力の変遷</title>
      <pubDate>Mon, 07 May 2012 07:32:37 +0900</pubDate>
      <description>ルートアイリッシュという映画を見てきた。イラクで活動する、英国の民間軍事会社に題をとった映画である。民間軍事会社については、前から強い関心を持っていた。傭兵問題には、先進国の苦悩とジレンマが、凝縮されていると思うからだ。映画の紹介記事を読むとすぐに腰をあげた。かなり期待して、遠い都心まで出かけたわけである。結果は、我輩の期待とはほど遠いものだった。民間軍事会社を通して戦争の実像に迫るというより、ドラマ性に重点を置いた作品になっていた。金の亡者となった軍事会社の経営者に、怒りを..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
ルートアイリッシュという映画を見てきた。イラクで活動する、英国の民間軍事会社に題をとった映画である。民間軍事会社については、前から強い関心を持っていた。傭兵問題には、先進国の苦悩とジレンマが、凝縮されていると思うからだ。映画の紹介記事を読むとすぐに腰をあげた。かなり期待して、遠い都心まで出かけたわけである。結果は、我輩の期待とはほど遠いものだった。民間軍事会社を通して戦争の実像に迫るというより、ドラマ性に重点を置いた作品になっていた。金の亡者となった軍事会社の経営者に、怒りをぶつける正義漢の復讐劇、という作りでは、なんの新味もない。我輩の見たかったのは、イラクやアフガンの戦闘現場における、傭兵たちの日常だった。正義や怒りのバイアスがかかると、真の姿は見えなくなる。<br /><a name="more"></a><br />過酷な戦闘現場、特に山岳地帯でのゲリラ戦となると、先進国出身の兵士は、現地のゲリラ兵に敵わない。圧倒的に高性能な武器をもってしても、タリバーンやアルカイーダを制圧出来ない現状。しかも、先進国の兵士の多くが、心を病んで帰国するという。ということは、先進国で育った若者には、ゲリラとしての素質が欠落しているということだ。石の上に寝、砂にまみれ、野糞を垂れて何日でも平気な神経は、子供のときに培われるもの。いくら訓練しても、動物同然の日常が長期間続けば、体より心が参ってしまう。貧困国兵士の強みは、過酷な現実を日常とし、贅沢の味を知らないことだ。<br /><br />野に伏し、山に寝るようなゲリラ戦は、近代設備の行き届いた中で育った者には耐えられない。水洗便所しか知らない若者が、野糞して後始末の紙もない状況になったら、それだけでもうお手上げだろう。昔の農家育ちならそんなの平気だった。昭和初年ころの便所紙と言えば、古新聞の切り揃えたのがあればいい方。当時の農村で、新聞を購読している家はほんの一部、排便後の始末も、今の人には想像も出来ないほど原始的だった。そんな環境で育ったから、昔の日本兵は、大陸の奥地でも、鬱蒼たるギャングルの中ででも、音を上げることもなく耐え抜いた。今の若者に、あんな真似は死んでも出来まい。<br /><br />現代の戦争は昔と違うとはいえ、最後の決着は地上戦で決まる。アフガン戦でもイラク戦でも、最初は大型爆弾が派手に飛び交って、アメリカ軍圧倒的優勢と見えたが、ゲリラ戦にもつれ込んだ途端、アメリカ軍は生彩を失ってしまった。草の根を齧ってでも戦えるような戦士がいないからだ。そんなところに軍事会社の出番がある。会社を経営するのは、職を失った欧米の退役軍人で、銃口の前で命を曝すような任務は、現地または貧困国から募った命知らず、という構図になっている模様。貧乏で死ぬか、戦争で死ぬか、そんな環境に追い込まれないと、軍事会社の手先になどなれないだろう。<br /><br />アフガニスタンの平均寿命は４８歳だとか。貧困な短命国と長命な富裕国とでは人生観も違う。人命に対する観念も違う。戦中の日本の平均寿命は、今のアフガンと似たようなものだった。軍国少年だった我輩も、４０、５０まで生きられるなんて、考えもしなかった。貧困脱出のためなら命など要らない、というのが貧困国に生きる青少年の共通した思いだ。だから、あのような無謀な戦争も出来た。この世に貧困程恐ろしいものはない、脱出するのは命と引き換え、それでも叶うとは限らない。とにかくその日を生きるのが命がけなのだから、食える物なら何にでも食いつく。<br /><br />そんな命知らずが、アフガニスタンやイラクやパキスタンには掃いて捨てるほどいるのだろう。ゲリラや傭兵にとって戦争は生きる手段である。それに対して、義務や忠誠心で戦うのが国軍の兵士。どちらが凶暴な殺人鬼になれるかは、言わずと知れたこと。イラクやアフガニスタンでアメリカが初期の成果を上げられないでいるのは、ここのところの読みが甘かったからだと思う。日本はここを冷静に見ておく必要がある。タカ派の論客は、足もとも見ずに勇ましいことを言うが、旧日本軍のような精鋭を、いつでも組織できると思っているとしたら、とんでもない勘違い。<br /><br />８０歳以上の長寿を当然と思っている若者に、命を捨てて戦えと言うのは、無理難題というもの。中東やアフリカの少年のように、命を粗末にしなくても日本なら食っていける。善政のおかげと言うべきだろう。人権尊重、人命至上主義社会の日本で、戦場で役に立つような兵士を育てるのは至難。仮想敵国に怯える政治家や評論家先生には気の毒だが、日本の若者は全く当にならない。そんなに心配なら、欧米の軍事会社と契約するか、兵隊ロボットの開発に力を入れる方が現実的では。このへんは、どの先進国も似たような事情、無敵と思われたアメリカ軍も、今や傭兵なしではゲリラと戦えない有様。<br /><br />ところで、富裕国兵士の弱体化という現象から、韓国軍と北朝鮮軍の戦力を占えば、韓国軍絶対有利という卦は出てこない。しかも、頼みの米軍に往年の力はないときている。米軍の戦力は日米戦がピーク。ヴェトナム戦以降は凋落の一途だ。増強したのは爆弾の数ばかり、戦闘力は同盟国が期待するほど強くない。とすれば、朝鮮半島に火がついた場合の帰趨は、混とんとして予測がつかない。ということになるのでは……。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10736077.html</link>
      <title>1人の行動が世界を変える</title>
      <pubDate>Tue, 01 May 2012 06:19:07 +0900</pubDate>
      <description>まずは次の記事を読んでいただこう。</description>
            <content:encoded><![CDATA[
まずは次の記事を読んでいただこう。<br /><a name="more"></a><br /><span style="font-size:large;">1人の行動が世界を変えた！ たった1人で東京ドーム約120個分の森を育てた男</span> <br /><br />世界中で砂漠化が深刻だと言われて久しい。年間で北海道とほぼ同等の広さの土地が砂漠化しているとも言われている。だがそれに対し我々個人は何か行動はできているだろうか。<br />たった1人で30年間も植樹を続けている男性が注目されている。彼はなんと約550万平方メートルもの広大な森林を育て上げたのだ。この途方もない広さは東京ドームにして約120個分もの広さである。<br />1人でこの偉業をなしとげたのはインド・アッサム州に住むJadav Payengさんだ。彼は16才のころに水害に遭った。木があれば洪水は起きないのではないか、そう考えた彼は森林保護局に植林を要請したそうだ。だが職員はそれには応じず、そればかりか自分で竹でも植えたらどうだとさえ言ってきた。大抵の人ならそこで諦める。だがPayengさんは砂地に引越し、本当に植樹を始めたのである。<br />植樹は彼が1人で始めたことだ。もちろん協力者は誰もおらず、何でも自分でやらなければならなかった。種をまき、水をまき、剪定と何でもやった。その地道な努力の結果、数年後、そこは立派な竹林となったのである。<br />だが彼はそれだけでは満足せず土壌改良のため付近の村から赤アリを持ってきた。また他の種類の木も植え、森を広げ続けた。そして12年後、Payengさんの森にはシカ、ウシなどの動物が自然と集まるようになったのである。集まった動物のなかには絶滅に瀕している一角サイ、ベンガルトラなどもいるそうだ。　<br />そして2008年、森林保護局は100頭ほどの野生のゾウがPayengさんの森に住んでいるということを聞き、はじめてPayengさんが30年間地道に森を育てていたことを知ったそうだ。Payengさんの偉業が世に知られることとなったのである。<br />広大な森には密猟者や不法伐採に来る者もいるという。だが彼はそれに負けず森を守り続けている。その様子は子どもを慈しむ親のようである。なお、この森は彼のニックネームから「Mulaiの森」と呼ばれているそうだ。<br />1人の力はときに絶望したくなるくらい微力だ。しかしPayengさんの行動は、1人でも世界を変えることができるということを教えてくれている。<br />参照元：Globedia（スペイン語）、Inhabitat（英語）<br /><br /><br />ＭＳＮのホームページで見た記事だから、ご存知の方も多いと思う。この記事、鵜呑みにするには、男の資金源や生活基盤、広大な土地をどうやって手に入れたかなど、説明不足で、少々引っかかるところもあるが、ＭＳＮがやらせの記事を載せる理由もなさそうなので、実際の話と信じて、話を進めることにする。──　不毛地帯を、一人でこれだけの森に変えたのだから、間違いなく偉大な人だ。それも並みの偉さではない、恩恵が人間以外の、多くの生物にまで及んでいるところなど、人の分限を超えるほどの偉業。この世に、偉人と言われる人は数知れずいるが、それらはみな、人間を利するために貢献した人たちばかり。お陰で、人間は地球を征服するほどに繁栄できた。だが、人間の異常な繁栄で割りを食ったのが他の生き物、生活圏を奪われどんどん数を減らしている。このやり方を続けて行けば、そのうち地球は人間だけになってしまう。土壌改良に蟻が要るように、回り回って、人間は全生物から恩恵を受けている。そのことを思えば、人間のひとり勝は、人間を滅ぼすことでもある。<br /><br />人間の利益ばかりを追い求めて繁栄したはいいが、他の生物や環境とのバランスが取れなくなった。もうここまでくると、人間愛だけで人類は救えない。今ほど、全生物を視野に入れた思想を必要とする時代はない。危機に瀕した地球を救えるのは、Payengさんのような、損得に拘らない人物だ。我利々々亡者ばかりの世の中、こんな人がいると聞いただけでも無性にうれしくなる。ちょうちん記事のひとつも、書いて見たくなるではないか。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10728230.html</link>
      <title>続　白内障の手術</title>
      <pubDate>Wed, 25 Apr 2012 07:30:46 +0900</pubDate>
      <description>先日、残った方の眼も手術を済ませた。視力が定着するのは、しばらく先になるそうだ。それよりも、視界が急に明るくなったのは、予想外の驚きである。使い古した蛍光灯を、新しく取り替えたときの、あのまぶしさを実感している。視界が明るくなると気分も明るくなるから、手術の効果は予想外に大きかった。術中術後とも、痛みは殆ど感じなくてすんだ。担当医の技が優れていたからだろう。ユーチューブで、白内障手術の動画を見ることができるが、あれは医術というより技術である。水晶襄という透明な袋の一端に穴を開..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
先日、残った方の眼も手術を済ませた。視力が定着するのは、しばらく先になるそうだ。それよりも、視界が急に明るくなったのは、予想外の驚きである。使い古した蛍光灯を、新しく取り替えたときの、あのまぶしさを実感している。視界が明るくなると気分も明るくなるから、手術の効果は予想外に大きかった。術中術後とも、痛みは殆ど感じなくてすんだ。担当医の技が優れていたからだろう。ユーチューブで、白内障手術の動画を見ることができるが、あれは医術というより技術である。水晶襄という透明な袋の一端に穴を開け、差し入れた細い器具で粉砕した水晶体を吸引する。空になった袋の中へ、人工のレンズを装着する。これを、１０分ほどの超スピードで完了させるわけだ。<br /><a name="more"></a><br />どこよりも敏感な眼に、覚醒した状態でメスを入れるのだから、素早く確実に安全に、と、大変な早業が要求される。手術を受けた経験から言えば、剥き出しの眼球をいじられるようなこと、３０分もやられたら、耐えられない人が続出するだろう。まさに職人技、医者の知識など無用、必要なのは器用に動く指先だけ。これはどの手術にも共通して言えること。医の能力と手術の能力は明らかに別もの。この辺りの技術評価が混然としていて、受益者である患者にはよく分からない。何となく評判を聞いて医者を選ぶ他ないのが実情。手術医のランク表のようなものがあれば助かるのだが。この辺の存念については、０６年１１月２８日「名医と職人と」と、題する記事で、かなりいいところまで書いているので、ここではこれ以上書かない。<br /><br />それにしても、医者の薬に対する依存度は驚くばかり。外科手術なら自然治癒力で事は足りそうなものだが、出るは出るわ、目下我輩の目は薬漬けである。一種類の飲み薬のほか、感染を抑える目薬、炎症を抑える目薬、菌を殺す目薬と、日に４回３ヶ月間注し続けなくてはならないという。傷が治っても、同じように注し続けろとは、乱用の部類に入らないのか。医者から薬を取り上げれば丸腰のハンターと同じ、使いたい気持ちは解るが、素人目にも乱用が目立つ。ろくに食事も摂れない病人に、食後の時間がきたら、何種類もの薬を山ほど飲ます。これで副作用が出ないわけがない。<br /><br />２年ほど前物故した知人が、末期ガンで入院中のこと、薬の副作用で夜中に幻覚を見たらしく、看護士詰所を占拠し、立て篭るという珍事があった。直ちに家族が呼ばれ、こんな物騒な患者はお断りと、即刻退院を告げられた。安直な薬の使い方が原因に違いないが、それを棚に上げ、患者のせいにしてしまう無責任体質。行き倒れのような、身内のない患者を集め、彼らを食い物にするような病院では、この手の話はいくらでもある。睡眠薬など向精神薬を売って稼ぐ、生活保護受給者が時たま新聞種になるが、加担する悪徳医者がいるから出来ること。医者のモラル低下もかなりのものだ。薬はバラ撒くほど儲かるようになっているせいか、モッタイナイという感覚はゼロ。健康保健が悲鳴を上げるわけだ。<br /><br />医師法は誰のためにあるのか知らないが、一番得をしているのは医者だろう。この法律のお陰で、医者は特権階級の座にすわり続けている。病気と薬に関する限り、医者の権限は絶大。能力そっちのけで、肩書が独り歩きしているのが医師免許だ。薬について、医者の方が薬剤師の上に位置するなんて、どうにも合点がいかない。医者がいなければ、病気も怪我も治せないと思っているらしいが、薬さえあれば素人でも何とかなるものだ。頼みの薬の処方を、法の力で医師が独占しているから、一般人はどうにも医者に頭が上がらない。<br /><br />インターネットの充実で、かなり精度の高い医療情報が入手できる昨今、自分の症状を反芻しながら、ネットの中を探せば、並みの医者以上に、正確に病状を把握することが可能だ。処方された薬から、担当医のレベルも凡そ見当がつく。インターネットの普及で医者の権威は徐々に剥がれ、やがて、石と玉が顕わになる時代が、そこまで来ている。今でも、薬さえ自由に手に入れば、医者へ行く必要はないと考えているネットユーザーは、かなりいるのではなかろうか。医療を取り巻く環境は、確実に変わってきている。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10717891.html</link>
      <title>白内障の手術</title>
      <pubDate>Tue, 17 Apr 2012 07:41:29 +0900</pubDate>
      <description>先週金曜日に白内障の日帰り手術をしたばかり、目の違和感はかなり強く、ディスプレーを凝視していると頭が痛くなる。根をつめたパソコン作業はしない方がいいと分かっているのだが、ブログの更新は長年の習慣。今や習い性となっているので、いつものペースで更新しないと落ち着かない。今週の金曜日にはもう一方も手術の予定だから、目を理由に更新を休めば、当分お休みとなる。この歳で一カ月も休めば、それっきりになってしまうことが懸念される。物故したある作家が、駄作だろうと何だろうと、とにかく書き続けて..</description>
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先週金曜日に白内障の日帰り手術をしたばかり、目の違和感はかなり強く、ディスプレーを凝視していると頭が痛くなる。根をつめたパソコン作業はしない方がいいと分かっているのだが、ブログの更新は長年の習慣。今や習い性となっているので、いつものペースで更新しないと落ち着かない。今週の金曜日にはもう一方も手術の予定だから、目を理由に更新を休めば、当分お休みとなる。この歳で一カ月も休めば、それっきりになってしまうことが懸念される。物故したある作家が、駄作だろうと何だろうと、とにかく書き続けていないと筆が止まってしまう。と述懐していたが、これは物書きすべてに言えること。自転車と同じで、止まったら倒れる。<br /><a name="more"></a><br />昔、白内障は白そこひと言われ、不治の眼病として恐れられていた。我輩の子供のころ、白濁し、サバの腐ったような眼をした盲目の老人は、さして珍しい存在ではなかった。現代医学は、この不治の病を見事に克服した。日ごろ現代医学に何かと批判的な我輩も、この点については文句のつけようがない。ただ、白内障の手術は古代ギリシャに端を発するというから、起源は遠く3千年の昔に遡る。古代人も決して凡庸ではなかった、見るべきところは見ている。<br /><br />以来、3千年の時を経た今、白内障の手術など珍しくもなく、日帰りでいとも簡単にすましている。手術と言うのが大げさに聞こえるほど、平凡な医療になっている。ところが、実際にやるとなると、これが意外と面倒。まず健康に問題があると警戒される。手術を希望するような老人は、大抵2つや3つの持病は抱えているから、主治医の許諾書のようなものを要求される。我輩のような主治医を持たない医者嫌いは、血圧測定と、血液検査で危険度が識別される。もし血圧が高ければ、内科で治療してからにしましょう、ということになる。血圧は健康のバロメーターのように使われているから、血圧が高いと、大抵のことが先送りされる。<br /><br />我輩が眼科を受診した時、寒さのせいもあり血圧がかなり高かった。担当医は、しばらく様子を見ましょう、と言っただけで、内科へ行けとも血圧降下剤を飲めとも言わなかった。無理に手術しなくてもよいと判断したのだろう。血圧降下剤は飲まない主義の我輩だが、左目は限界にきていたし、節を曲げて手術のためにだけ降下剤を飲もうか、と、一時は迷った。でも、血圧を上げるような持病を持たない我輩、必ず下がるという自信の方が強かった。果たせるかな、春の到来に合わせるように、血圧は正常を取り戻し、手術の運びとなった次第。<br /><br />今回の手術では、薬に対する抵抗力が、著しく低下しているのを思い知った。副作用の方が先に出てしまうから、強い薬を継続して飲むのが難しくなっている。高齢者の手術が難しいのはこの辺に理由があるようだ。高齢者の場合迂闊に強い薬を使うと、薬効より毒としての作用が強く出てしまう。健康には自信のあった我輩だが、大きな手術で、強い薬をどんどん投与されたら、健康な臓器も次々やられてしまいそうだ。白内障手術で飲まされた、殺菌剤でも結構こたえるのだから、大手術にはもう堪えられないかも。弱くなったのは酒だけではなかった。薬の副作用など気にしたこともなかった我輩なのに。<br /><br />高齢者と薬の相性は微妙で難しい。天皇陛下の予後が思わしくないのも、高齢のため薬が予期の効果を上げないからだろう。薬は決して高齢者の味方ではない。しかも、薬のさじ加減を、一番敏感に感じとるのは、医師ではない、服用した当人である。したがって、多い少ない、合う合わないは、当人の判断が何より尊重されるべきである。なのに、医師の判断がすべてに優先する。医師と名がつけば、薬や病気に精通した、しかも人格者。という前提で今の医療界は成り立っている。医者が特別な人に見えない我輩には、とてもついていけない。<br /><br />話が出たついでに言及すれば、天皇を治療するような医師は別格の医者揃い。それだけに権威も別格。患者である天皇としては、出された薬を拒否することも、屑箱に捨てることもできない。日本でも選り抜きの医師にかかれるのは特権のようだが、自分の身体を、すべて他人に任せなければならない天皇の胸中や如何に。気にいらなければ、医者も病院もいつでも変えられる庶民の、なんと気楽なことか。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10709872.html</link>
      <title>利己主義</title>
      <pubDate>Wed, 11 Apr 2012 06:50:01 +0900</pubDate>
      <description>東北被災地の瓦礫受け入れ問題を巡る、各方面住民の反応を見ていると、日本人はいつの間に、こんな冷淡な国民になってしまったのか、と首をかしげてしまう。とにかく安全第一主義、それも、自分の安全確保のために、他を慮る余裕を持たない。自分を危険にさらしても、他人を助けようという隣人愛が、皆無とは言わないが、いかにも乏しい。昔よく言われた侠気（男気）というものが、全く見えない。新聞やテレビなどマスコミでは、優しい言葉が氾濫しているから、弱者に優しい社会が定着しているかのような印象を受けて..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
東北被災地の瓦礫受け入れ問題を巡る、各方面住民の反応を見ていると、日本人はいつの間に、こんな冷淡な国民になってしまったのか、と首をかしげてしまう。とにかく安全第一主義、それも、自分の安全確保のために、他を慮る余裕を持たない。自分を危険にさらしても、他人を助けようという隣人愛が、皆無とは言わないが、いかにも乏しい。昔よく言われた侠気（男気）というものが、全く見えない。新聞やテレビなどマスコミでは、優しい言葉が氾濫しているから、弱者に優しい社会が定着しているかのような印象を受けていたが、どうやら見せかけだけの、お愛想程度のものだったらしい。お愛想を本気にするのはバカのうち。米軍基地にしても、放射能汚染にしても、危険の分担は絶対お断り、厄介な代物は回さないでくれ、というのが、それぞれの地域住民の本音だ。<br /><a name="more"></a><br />愛とは自己犠牲の精神である。愛の深さは、自己犠牲の大きさで測られる。自己犠牲の伴わない愛を偽善と言う。水に濡れることを避けていては、溺れる人は助けられない。濡れる気もないのに声ばかり大きいのがヤジ馬。助ける力も、水に濡れる覚悟もないくせに、言うことだけは立派なのがヤジ馬のバカらしさ。瓦礫受け入れ問題で、福島はじめ、震災地に注がれていた目が、殆どヤジ馬の目であったことが、瓦礫受け入れ問題を機に露呈してしまった。親切も好意も自分に火の粉がかからない範囲内に限られたこと。火の粉を被ってまで助ける気は、さらさらにありませんよ、ということだ。<br /><br />やる自信もないのに、公平で正義感が強く人情深い。これがヤジ馬の特徴だが、マスコミに氾濫しているのはこの手が多く、地に足がついていない感じ。現実を無視したキレイ事ばかり並べて、本当の姿を見えなくしている。言葉狩りがそのいい例だ。言葉を封じこめて、差別や因習がなくなったが如きに装う。腫れ物に絆創膏を貼るのと同じやり口。表面を隠しても病気は治らない。人間には善意もあれば悪意もある。悪知恵をフル活用しなければ、生存競争に生き残れない厳しい現実を思えば、空想的理想主義で、世の中をよくすることなど、出来るわけがない。<br /><br />平和と人間愛を高らかに謳い挙げた憲法を頂いたせいか、敗戦以降の日本では、宙に浮いたような理想論がはびこりすぎた。人命尊重、安全第一主義の理想にしたって、人命は地球より重い、なんて野放図なことにしてしまうと、社会のタガが外れてしまう。人命は宝、安全第一と、お題目のように唱えている内に、自己犠牲の精神は、どこへやら吹き飛んでしまった。自分の安全最優先主義は、自分あっての社会、自分あっての地球、という自己中心主義に陥ってしまう。連帯感は失われ、誰も守ってくれない孤立社会へと一直線だ。人間は、連帯することでしか自分を守れないのだから、孤立してはおしまいだ。<br /><br />近代国家に属するわれわれの生活は、社会保障制度という、多くの人が支える、土台の上で営まれている。本来人間に備わった、親切や好意と言った助け合いの精神に権力が関与し、社会制度という公共性を持たせたのが、社会保障の仕組みである。これによる利点は多いが、欠点も多い。今までは利点しか語られなかったが、ここにきて欠点が、はっきり目に見えるようになった。公的制度だから、資格さえクリアすれば、誰に遠慮することなく、医療補助でも生活の補助でも権利として受け取れる。権利なのだから、受け取る方は感謝どころか、大威張りだ。気にいらなければ文句だって自由に言える。<br /><br />利点も欠点も、人助けから、人の感情を排除したことに因がある。恩義を感じなくて済む公共の制度が助けてくれるのだから、個人の親切など、もう煩わしいだけ。他人の親切が今ほど無力な時代はない。病気見舞は迷惑顔されるし、香典は突き返される。当方ですべて間に合っていますから、いらぬお気使いは迷惑、というのがトレンドの世の中になった。人情を温め合う場というもののない時代。これでは、他人など路傍の石に見えてしまうのも無理がない。社会保障という形で、日本中の人の世話になって置きながら、誰の世話にもなっていない。と、錯覚しているところが、現代社会最大の病理と言える。自分一人でも生きていける、という錯覚が、利己主義を助長していると思う。<br /><br />地域エゴと利己主義は同根の病だが、これが高じると、その社会は維持できなくなる。ひ孫の代になっても返せないような借金の山を築いたのは、今を生きる人たちのエゴである。借金の山を背負って生まれてくる赤子の事を、考えてみたことがあるのか。これはもう、子孫に対する犯罪。利己以外眼中にない人間のやることは空恐ろしい。赤子に膨大な借金を背負わせるような社会は、早くつぶれた方がよい。これから生まれてくる子供たちのことを思うと、敗戦のときのようなリセットが、一日でも早いとを願わずにはおれない。若者にチャンスが回ることを考えれば、リセットも悪い面ばかりではないし……<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10697564.html</link>
      <title>病院へ行く</title>
      <pubDate>Mon, 02 Apr 2012 07:02:31 +0900</pubDate>
      <description>夜中に動悸で目が覚めた、ここのところよくあるので、原因が知りたくて病院へ行く。検査の結果不整脈と言われた。不整脈なら10年以上前から言われている。期外収縮という良性の不整脈だから特に治療は要らないそうだ。これも前と同じこと。夜中のドッキンはやっぱり酒のせいか、と独り合点。前は深酒のときに限られた現象だったが、症状の進行で少量の酒でも現れるようになったらしい。これがひどくなったらペースメーカーという手があるそうだ。息切れとか眩暈のような症状がなければ、様子を見ることにしましょう..</description>
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<br />夜中に動悸で目が覚めた、ここのところよくあるので、原因が知りたくて病院へ行く。検査の結果不整脈と言われた。不整脈なら10年以上前から言われている。期外収縮という良性の不整脈だから特に治療は要らないそうだ。これも前と同じこと。夜中のドッキンはやっぱり酒のせいか、と独り合点。前は深酒のときに限られた現象だったが、症状の進行で少量の酒でも現れるようになったらしい。これがひどくなったらペースメーカーという手があるそうだ。息切れとか眩暈のような症状がなければ、様子を見ることにしましょう。ということで、1件落着と思いきや「少し血圧が高いので治療しましょう」と言われた。<br /><a name="more"></a><br />「いやもう歳ですから、今更血圧の治療してみてもねぇ……」としぶる我輩「いえいえ、今血圧の管理をしておけば、あと15年以上は十分老後を楽しめますよ」と、心強いご宣託。「えっ！15年以上も……何を楽しめばいいのですか」と、言いたかったが、誰でも長生きを願っていると信じ切っているらしい、真面目そうな医者の顔を見ていると、複雑な老人の胸の内など話す気になれない。ただ曖昧な苦笑を浮かべるだけ。この苦笑を承諾と受け止めたらしい医者は、さっさと血圧降下剤を処方してくれた。こちらとしても、医者の意見に逆らうのは面倒だし、雰囲気的にも拒否し辛い。診察室における医者の立場は、専制君主と同じなのだから。<br /><br />一旦診察室へ入ったら、すべて患者として医者の指示に従うもの、という不文律が出来上がっている。それが気に入らなければ来るな、というのが医者の態度だ。そうは言っても、保険料を強制徴収されている身である、医者の意見を聞く権利はある。意見に従わない自由だってある。医者の意見など参考程度にしか思っていない我輩、処方されても血圧降下剤など飲む気はない。血圧は乱高下の激しいもの、誰にでも正常な期間と異常な期間がある。たまたま、異常な期間に病院を訪れると、高血圧症と診断され、以後、降下剤と縁が切れなくなり、死ぬまで医者に管理される羽目となってしまう。もちろん飲んだ方がいい場合もあろう。その場合でも、1年くらいは自分で計測してみて、平均値を確かめてからでも遅くはない。<br /><br />ネットを閲覧していたら「60歳を過ぎたら絶対血圧降下剤は飲まない」という医者の独り言に出合った。降下剤の処方の仕方に疑問を投げかける薬剤師のエントリーも数多くある。最近「大往生したければ医療と関わるな」という本がバカ売れしているそうだ。読んでもいないのに言うのもなんだが、無医村で育った我輩には何となくわかる。祖父も父も医者にかからなくとも、老衰で安らかに逝った。当時の老人は、本能的に死期というものを悟った節がある。だから諦めがよく、悪あがきもしなかった。医療漬けの時代となり、死期を予感する能力も失われた模様。ただ、昔も今も楽に死ねるのは高齢者に限る。結核で苦しみながら死んでいった若者を数多く見てきたが、医者にかかってもかからなくても、若死には苦しい。やっぱり老衰死が一番。そのためにはバランスよく老けなければならない。なのに、先端医療では老いのバランスを考えてはくれない。<br /><br />８０歳も過ぎた老体に、血圧だけ40代並みに抑えるなんてのは、バランスを考えたやり方とは思えない。近頃の老人は、医療で老いのバランスを崩されるから、やたら苦しい末期になるのではなかろうか、と、我輩は勝手に想像している。それにしても、病院の待合室は、寿命の尽きかけた老人がやたら目につく。ぽっくり寺の境内さながらの光景だ。病院通いしか用事のない老人にとって、医者は宗教家の代役。先生の話を指針として生きているに違いない。信仰心をもたない老人が、精神的に頼れるのは医者しかいない。医者に縋って生きているのが、今どきの老人衆のようである。<br /><br />医者の使命は患者の命を死から遠ざけること。だから、死ぬ間際の老人に対しても、生きるすべしか教えられないのが医者の立場。寿命の迫った老人に必要なのは、死を安らかに受け入れるための心構えなのに、医者にはこれを語ることができない。死を受け入れる心になれないまま死んでいくのは、殺されるのとさして変わらない。無残な最期になって当然である。最期を迎える環境として、病院は全く不適切、大往生など望むべくもない。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10689659.html</link>
      <title>この世は迷路</title>
      <pubDate>Tue, 27 Mar 2012 10:31:36 +0900</pubDate>
      <description>人の心は、喜怒哀楽という四つの感情で構成されている。これを統治するのが理性だ。人として生きていくためには喜怒哀楽という四つの感情は必要不可欠。しかも、バランスよく配分されていないと、つつがない一生は望めない。四つのうち一つにでも、著しい欠陥があれば、社会人としてのバランスがうまくとれない。人生において、悲しみや苦しみは厄介もので、これに縁の薄い人ほど幸せ者、と考えるのが普通だが、果たしてそうだろうか。喜怒哀楽のうち、価値あるのは喜と楽だけ、後の二つは禍の素、と信じて疑わない人..</description>
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人の心は、喜怒哀楽という四つの感情で構成されている。これを統治するのが理性だ。人として生きていくためには喜怒哀楽という四つの感情は必要不可欠。しかも、バランスよく配分されていないと、つつがない一生は望めない。四つのうち一つにでも、著しい欠陥があれば、社会人としてのバランスがうまくとれない。人生において、悲しみや苦しみは厄介もので、これに縁の薄い人ほど幸せ者、と考えるのが普通だが、果たしてそうだろうか。喜怒哀楽のうち、価値あるのは喜と楽だけ、後の二つは禍の素、と信じて疑わない人がほとんどである。でも、それは身勝手というもの。四つの感情が相互に響き合うことで、何とかバランスをとっているのが、生きた人間の姿である。<br /><a name="more"></a><br />そこで今回は、喜怒哀楽のうちで一番の嫌われもの、哀感に絞ってその必要性を考えてみたくなった。世間の常識から言えば、苦しみや悲しみは、人を不幸にする疫病神である。毎年節分の日に鬼は外、と、豆で追い払われるのがこの疫病神だ。疫病神を追い払ってしまえば、のこるは喜と楽だけ、この世の楽園となるはずだが、そうはならないのが、この世の皮肉なところ。人間の想像力にも限界がある。特に感情面では、経験してみないと解らないことばかり。人の悲しみを正確に理解するには、悲しんだ経験がなくてはならない。他人に対する優しさや思いやりも、苦しんだ経験があってこそのこと。経験の裏付けのない観念的な愛や親切は、一方的な押しつけになってしまうもの。<br /><br />苦労を知らない人は人情に薄い。人情の薄い人は人付き合いも計算づくになるから、愛が育ちにくい。損得で恋愛感情は育たない。損得勘定で夫婦になって見ても長続きしない。夫の得は妻の得。妻の損は夫の損という一体感を持ちあわさない夫婦は、いずれ破綻する。損得を超越しなければ愛情は育たないのだ。愛がなければ子供など邪魔物でしかない。悲しみの辛さも、孤独の辛さも知らない人なら、愛の必要も感じない。あるのは欲望だけ。欲望の充足なら、金がすべて解決してくれる。<br /><br />でも、自分の欲望追求だけに生きる人たちばかりだと、人の世は持たない。次の世代を育てるためには愛がいる。人は人に支えられて生きる動物だから、しっかり支えてくれる人がいないと、不安ばかりが募り、心の充足感も得られない。心の安定にとって不可欠なのが愛だが、求めなければ、向こうから勝手にやってくるものではない。ただ、求めると言っても、当人に欲求がなければ求めようがない。ようするに、悲しみを知らない人は、愛を求める心が弱いということ。これが、人生を薄味でつまらなくする。<br /><br />我輩、小学6年の秋突然母を失った。内臓をいきなりもぎ取られたようなショックだった。しばらくは茫然自失、小学卒業時の情景さえも、全く記憶に残っていない。何が不幸と言っても、最愛の人を失うほどの不幸はない。だが、この苦しみが無駄だったとは思わない。幼くして、愛の大切さを骨身に沁みて知ったのだから。以後、裏切られても裏切らないを信条として生きてきた。そのせいだろう、人間関係の安定した中で生きてこられた。幸せな気分にしてくれるのは人の心。周りの人の心を鎮めなければ、自分の心も鎮まらないものだが、このような人情の機微は、苦しんでこないとわからない。<br /><br />過酷な戦災で地獄を見てきたのが我輩の世代。悲劇の真っただ中を生きてきた分、涙もろくなった。当時の日本は極貧状態だったが、他人のために泣いてくれる人が多かったせいで、世の中温かかった。戦後も、自分を捨てて協力することを知っている人たちが殆ど。お節介者は多かったが、人情には厚かった。戦後の就職難も厳しかったが、職安など行かなくても、誰かが職を見つけてくれたものだ。問題は、優しさがあだとなって、子育てに失敗したことにあるようだ。<br /><br />あんな辛くて悲しい思いは、絶対子供たちにはさせられない、というのが戦中派の切ない親心だった。戦争と飢餓に打ちのめされた経験を持つ親たちは、我が子を戦争と飢餓から守るのを使命と考えた。自分たちが経験した、苦しみや悲しみを経験させないことが、子供たちを幸せにしてやることだと、単純に信じ込んでいたのが、戦中育ちの親たちだ。しかし、これだと人生に悲しみは不要とする人生観になってしまう。結果が、快楽主義と何ら変わらなくなってしまうのが問題。<br /><br />人生に辛苦が不要と考えるなら、比叡山延暦寺の僧にとって究極の修行とされる、千日回峰行など愚の骨頂ということになる。幾多の苦難を経なければ大成できないというのが、昔の教えであった。我輩も、かん難汝を玉にする、と小学校のとき教えられた。ところが、いつの間にか価値観は逆転、かん難辛苦はバカのやること、鼻歌混じりに楽に儲ける奴こそ優れもの、と思われているのが今の時代。とにかく楽なほうへ楽なほうへとなびき、石の上にも３年なって言葉を持ち出したら笑われそうだ。<br /><br />子供によかれという親心、明治育ちの親は、戦争に勝つことで子孫にいい思いさせてやろうというものだったが、見事裏目に出た。戦争を辛うじて生き延びた戦後の親たちは、平和と経済繁栄で子供たちの幸せを願った。しかし、これも成功したとは言えない。なにしろ、日本の前途は真っ暗闇なのだから。戦中派生き残り老人としては、人の世の難しさに、ただただ溜息。人間とは、果てしない迷路を手探りで行く旅人の如し。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10677585.html</link>
      <title>自殺への誘惑</title>
      <pubDate>Mon, 19 Mar 2012 07:16:34 +0900</pubDate>
      <description>罪とは何だろう、と、自問自答してみる。この場合、宗教で言われるところの罪は次元が違うので外し、日常生活で言われるところの罪のことである。罪とは人と人の接触によって発生するもので、人との接触がなければ罪も発生しない。集団で、力を合わせなければ生きていけないのが人間だから、何をおいても人間関係は大切だ。だから、人間関係を損なうような行為は、罪悪として排斥されてきた。時代によってさまざまに変転してきたように見えるが、他人を利する行為を善とし、他人を害する行為を罪悪とする基本は、一貫..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
罪とは何だろう、と、自問自答してみる。この場合、宗教で言われるところの罪は次元が違うので外し、日常生活で言われるところの罪のことである。罪とは人と人の接触によって発生するもので、人との接触がなければ罪も発生しない。集団で、力を合わせなければ生きていけないのが人間だから、何をおいても人間関係は大切だ。だから、人間関係を損なうような行為は、罪悪として排斥されてきた。時代によってさまざまに変転してきたように見えるが、他人を利する行為を善とし、他人を害する行為を罪悪とする基本は、一貫して変わってはいない。<br /><a name="more"></a><br />ということは、被害者がいなければ罪は成立しない、ということだ。性犯罪で考えると一番分かりやすい。一方的な強制であることを実証しなければ、性犯罪は成立しない。人道でいうところの罪とは、人を苦しめ悲しませることである。罪悪感もここから生まれる。だから、単なるスピード違反や、信号無視で罪悪感に苦しむことはない。政治資金規制法違反で、恬として恥じる風のないのが政治家だが、被害に泣く人の顔が見えないから、罪悪感も感じようがないのだろう。現代人は罪の判定を法律に依存しているが、法律が倫理を完全に反映しているわけではない。片手落ちであったり、過剰であったり、完璧な法律はこの世に存在しない。<br /><br />法律は死人には及ばない。ところが、現実には死人の影響を強く受けながら生きているのが実情である。南京大虐殺は死人のやったことだが、日本人はいまだに罪を背負ったままだ。従軍慰安婦を苦しめたのも、大かたは死人の仕業であるのに、罪だけは頑として残り、いつまでも日本人を責める。死人の罪は問わない、というわけにいかないのが、歴史の掣肘の中で生きねばならない人間の宿業である。自分の所業が、様ざまな形で、身内や子孫に影響する人の世の厳しさ。自分一人で完結するかのように見える自殺だって、当人だけでは済まない。身内に残す傷の深さは、想像を絶するものがあると聞く。<br /><br />先年亡くなった作家の三浦哲郎は、自殺した兄姉を持った苦しみに題をおいて、数多くの作品を残している。わけもなく、兄姉と同じ自殺の血が騒ぐのを覚え、慄然とする不安と恐怖が克明に書かれていて、読む方の心までうそ寒くする。自殺の遺伝子なるものが、あるのかないのか知らないが、身内に自殺者があると、自殺の誘惑に苦しみ続けるものらしい。祖父、父、兄と自殺で失い、自らも後を追うように若くして飛び降り自殺した、沖田浩之というアイドルがいたが、このような因縁めいた話は、他にも数多くある。<br /><br />自殺が忌み嫌われるのは、こんな因縁話が巷間に流布しているからだろう。そこへ持ってきて、この世に命ほど尊いものはないという、人命至上主義が重なって、自殺は愚かで罪深い所業という社会通念が定着した。これは、人命至上主義が生んだ偏見だと思う。自殺が愚かな行為なら、川端康成や江藤淳といった日本を代表する知性が、自殺した理由が説明できない。自殺にも、名誉を守るためと、錯乱状態によるものとの、２種類がある。江藤淳の遺書に「自らの形骸を断ずる」とあるが、生き恥をさらしたくないという、見栄から出た自殺への心境だろう。惨めな姿はさらしたくない、という見栄は誰にでもある。自尊心の強い見栄っ張りは、自殺に惹かれやすかろう。<br /><br />チューブに繋ながれ、糞尿を垂れ流し、昨今の病人の末後は見るも無残だ。そのせいもあってか、近頃は、病気見舞いがひどく迷惑がられる。あれでは、他人に見られたくなかろう。その気持ちよく分かる。終わった時は、当人も家族もボロボロ。葬式を出す気力も残っていない有様で、人知れずひっそりと済ましてしまう例が、近年急速に増えた。死に際の華というものがないのだ。困惑が長すぎて、悲しみも感銘も薄い。自殺の方がまだしも華がある。悲しみも深い。見栄も自尊心もかなぐり捨てて長生きするのも、それはそれで偉大かもしれないが、自らの手で老骸を断つ死に方も偉大なことではなかろうか。管に繋がれてまで生きる意味がないと思えば、拒否するしかないが、これも、れっきとした自殺と言ってよかろう。延命技術がこれだけ進歩すると、自分の死生観をしっかり表明しておかないと、無様な姿をさらすことになる。<br /><br />以上は、おもに高齢者の自殺について考えてみたものだが、若年層の自殺については、これはもう病気としか言いようがない。社会が病んでいるか、個人が病んでいるか、どちらが先かしらないが、病気として対処するしかすべはなさそうだ。老人の場合は死生観や美意識が絡むから対処が複雑。しかも、自殺は初老も含め老年男子が圧倒的に多い。自殺にまでは至らなくても、死のタイミングを常に測りながら生きるのが、男の生きざまというもの。<br />

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      <author>36sabue74</author>
          </item>
        <item>
      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10667872.html</link>
      <title>軍事大国の裏事情</title>
      <pubDate>Mon, 12 Mar 2012 08:04:49 +0900</pubDate>
      <description>中国軍事予算の伸びが突出して高く、世界に波紋を広げている。中でも、仮想敵国関係にある、アメリカと日本は軍事的脅威と受け留め、警戒心のボルテージも急上昇。相応の対抗策を講じたいところだろうが、軍事力の競争くらい金のかかる争いはない。アメリカといい日本といい、財政は火の車である、追い風の中国にはとても敵わない。中国の台頭に危機感を募らせ、切歯扼腕の思いをしている憂国の士は多いことだろう。軍備も金次第、儲けを出さなくては強い国にはなれない。稼ぎもしないで、軍事にばかり金をつぎ込んで..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
中国軍事予算の伸びが突出して高く、世界に波紋を広げている。中でも、仮想敵国関係にある、アメリカと日本は軍事的脅威と受け留め、警戒心のボルテージも急上昇。相応の対抗策を講じたいところだろうが、軍事力の競争くらい金のかかる争いはない。アメリカといい日本といい、財政は火の車である、追い風の中国にはとても敵わない。中国の台頭に危機感を募らせ、切歯扼腕の思いをしている憂国の士は多いことだろう。軍備も金次第、儲けを出さなくては強い国にはなれない。稼ぎもしないで、軍事にばかり金をつぎ込んでいると、北朝鮮のようなことになってしまう。軍事大国化も、均衡を失えば滅亡への道。<br /><a name="more"></a><br />軍事力強化に熱心な国は多いが、いまどき、そんなに強くなる必要があるのだろうか。世界には軍隊を持たない国もあるし、中露という軍事大国に挟まれながら、総勢９千人という申し訳程度の軍隊で済ましている、モンゴルのような国もある。すべて軍事力によって国が守られているわけではないのだ。それどころか、弱小国にとって国防の主役は、政治力であり、外交力であり、経済力であって、軍事は脇役と言ってよかろう。弱肉強食が当たり前、武力で国境線が引かれたころでさえ、弱小国家は存在したし、したたかに今日まで残ってきた。軍事力で強引に引かれた国境線は、いずれ訂正されることになる。<br /><br />軍事力で栄えた国は、軍事力の肥大化で衰退していくもの。かってのソ連という国がいい見本である。ソ連時代の軍拡競争が残した負の遺産を受け継いだロシアは、老朽化した原子力潜水艦の処分に困り果て、日本海に投棄し、世界中から非難を浴びたことがある。シベリヤの奥地には、何が放棄され、何が埋められているか知れない不気味さが、ロシアという国には付きまとう。アメリカだって、冷戦時代の軍拡競争で痛めた財政の傷は、悪化の一途をたどっている。膨大な軍事装備の維持管理に加え、老朽化した核兵器の管理や処分に音を上げる日が、いずれは来るだろう。過剰設備が足かせになるのは、企業も国家も同じことだ。<br /><br />財政的には、膨張する軍事費に音を上げているとしか思えない、米露の跡を懸命に追いかけているのが、中国というにわか長者だ。どこまで続くか分からないが、あの巨体から見て息切れは早かろう。第一、そんなに軍備を増強してどこを攻める気なのだ。武力で獲得できる領土など、地球のどこにも、もう残ってはいない。あの圧倒的な軍事力をもってしても、アメリカはヴェトナムという小国ひとつ、思うに任せなかったではないか。アメリカという国、あの軍事力でどれだけの得をしたというのだろう。強いて言えば、栄えたのは軍事産業だけでは。軍事産業の繁栄なくして、やっていけないのがアメリカという国のようだ。<br /><br />中国の産業構造もまた、軍事産業の占めるウエイトは、決して軽いものではなさそうだ。北京政府も、軍と軍事産業に踊らされて、軍拡路線をひた走っているのではなかろうか。他国侵略の意図で軍備を増強していると考えるのは早計。第一の狙いは経済効果。次は自国民への威嚇のために武力を誇示しなければならないのが、共産党独裁政権の泣きどころ。今もって完全に平定出来ているとは言えないのが中国という国。どんなに強がっても、台湾ひとつ攻め取れないでいる中国。チベット族はじめ、数多くの不満分子に睨みを利かせなければならない北京政府にとって、軍事力の誇示は、国内向けにこそ必要としている。外国向けのポーズはとっているが、照準は国内に向いていると見るべきだ。<br /><br />１４億の人民を抑え込まなければならない独裁政権に、外国を攻める余裕などありはしない。北京政府の苦悩は、なりふり構わぬネット規制を見ればわかる。自国民を頭から信用していないのだから、政府と国民の信頼関係などないも同然。北京政府の一番怖いのは自国民であって、外国ではない。日本としては、中国の軍拡に無関心ではおれないにしても、むやみに恐れる必要はない。大仰に騒ぐのは、為にする意図があってのこと。仮想敵国の恐怖を煽って、軍拡を唆すのは軍事産業と、そのシンパたちの常とう手段だ。<br /><br />兵器の製造販売を生業とする死の商人は、世界中どこにでもいる。中でも日本は最上のお得意さんだから、辣腕のセールスマンが何人も常駐しているに違いない。息のかかった政治家や言論人は数知れず。中国の軍拡を誇大に吹聴するのは、軍事産業に踊らされている連中だろう。インフルエンザを誇大に吹聴すれば、ワクチンがよく売れるのと同じこと。危機を煽れば金が動く。中国脅威論の裏にも、まがまがしい商魂が蠢いていることを忘れてはならない。口先で何を言おうと叫ぼうと、人は金の流れに沿ってしか動かない。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10659723.html</link>
      <title>数字</title>
      <pubDate>Tue, 06 Mar 2012 07:58:27 +0900</pubDate>
      <description>この世の人たちを、思いっきり大胆に分類すると、貯蓄型と借金型に２分することができる。貯蓄型は自立心が強く働き者だから、人を当てにしないし、他人に迷惑もかけない。借金型はその正反対。昔は貯蓄型が大勢だったから、日本の財政は健全だった。借金型が増えるにつれて、収支の帳尻が合わなくなり、赤字国家へと転落し、今日の見るも無残な姿と相成った次第。本来日本人は勤倹貯蓄を美徳としてきたのに、ローンやクレジットという外来語の普及と共に、金銭感覚は狂い、モラルまで可笑しくなってしまった。これを..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
この世の人たちを、思いっきり大胆に分類すると、貯蓄型と借金型に２分することができる。貯蓄型は自立心が強く働き者だから、人を当てにしないし、他人に迷惑もかけない。借金型はその正反対。昔は貯蓄型が大勢だったから、日本の財政は健全だった。借金型が増えるにつれて、収支の帳尻が合わなくなり、赤字国家へと転落し、今日の見るも無残な姿と相成った次第。本来日本人は勤倹貯蓄を美徳としてきたのに、ローンやクレジットという外来語の普及と共に、金銭感覚は狂い、モラルまで可笑しくなってしまった。これを絵にしたような話が、先日の読売新聞、人生相談欄に載っていた。<br /><a name="more"></a><br />読まれた人は多いと思うが、話を進めるのに便利なので、概略を引用させてもらうことにする。それは、後先考えずに借金を重ねる義母の性癖に困り果てた、親思いの娘婿Ｓ男さんからの相談だった。─　4年前、70歳の義母が、消費者金融数社から一千万円もの借金をしていることが判明。妻から相談を受けたＳ男さんは、司法書士の力を借り、過払金の請求や義父母所有のマンション売却で完済。ところが1年半前、新たに3百万円の借金が発覚。今度はカードローンやヤミ金業者からも借りていた。その後義母はガンで入院。Ｓ男さんは警察に相談してヤミ金業者との関係を断つ一方、ガンの入院保険金などで借金を整理、いくばくかの貯金が出来たという。だが、貯金も忽ち半分以下。義母は欲しい物があると我慢できないタイプ。義父は金銭に無頓着。義父母には月２５万円の年金収入があるのに、その範囲内で生活できない。どうしたらいいでしょう。─ という相談内容だった。<br /><br />夫婦で月２５万円の年金収入なら悠々自適の内であろう。国民年金なら夫婦合わせて１０万円ちょっとだ。それでも収支のバランスを失わず、細々と暮らしている老夫婦はいくらでもいる。生活保護世帯より生活水準はかなり低い。なのに、保護を受けないのは、苦労して貯めた虎の子があるからだと思う。収支のバランスのとれた、つましい生活ができるのは貯蓄タイプなるが故である。貯めた虎の子に対する執着が強いから、さっさと使い果たして生活保護を、という分別には至らない。その点、貯蓄と縁のない借金タイプは、虎の子という邪魔物がないから、生活保護申請に躊躇うことはない。<br /><br />収支のバランスの取れない人は、人格的にもバランスを欠いたところがある。我慢の必要なところで我慢が出来ないと、円滑な人間関係は維持できない。Ｓ男さんのところも、義母の借金問題で親子断絶の危機に直面している。いくら優しいＳ男さんでも、自分の家庭に火の粉が及ぶとなれば、厳しい決断を下さざるを得ない。義母のようなタイプはいくら助けてもきりがない、構うほどに傷は深くなり、共に苦しまなくてはならない。ここらはパチンコ依存症と同じ。自分の欠点は、自分で背負って地獄へ行け、とばかりに突き放した方が、双方ともに傷が浅くで済むのだが……。<br /><br />社会保障制度というのが、義母とＳ男さんの関係にそっくりなところがある。Ｓ男さんのような几帳面な人が、義母のような自堕落な人を助けているのが、社会保障制度の甘いところ。弱者救済というより、自堕落を助長している面が、目に余るようになってきた。社会保障もやり方を間違えると人心の頽廃を招く。人間の実相をよく見ないで、理想ばかりが先走り、人間としての誇りや恥という抑止力を軽く見ると、横着者がわがもの顔にはびこる。我が子の給食代を踏み倒して、平然としている恥知らずな連中がいい例だ。今はだれでも簡単に金を借りられる時代だが、我輩の若い頃は、借金と言えば大変なことだった。平身低頭、顔から火が出るほどの卑屈に耐えなければならなかった。しかも、返済した後まで恩義というものが残ったのだから、借金は、自尊心を質入れするような行為だったのだ。<br /><br />そんな時代でも、借金で身代を潰す人はいた。反対に今のような金の借りやすい時代でも、借金もせず餓死する人がいる。まだ、借金嫌いの遺伝子は残っているらしい。借金嫌いの遺伝子が消滅した社会は、多分崩壊してしまうことだろう。弱者救済という美名のもとに整備されたセフティーネットの数々。どんなハチャメチャをやって行き詰まっても、保護に縋れば、人らしい生活を保障してくれるのだから、破滅型の人間にとっては天国だ。だが、この制度が成り立つのは、せっせと蓄える働き蟻がおってこそのこと。借金をしてでも、らくをしたいという、破滅型が増えるほどに、制度は疲労する。社会保障に無理を重ねた国は、かっての共産主義国と、同じ運命をたどりそうな気配。<br /><br />帳尻を合わさなくても、家計が成り立つなんて社会は一瞬の幻でしかない。今の日本人は、この幻の中で生きている。発達した貨幣経済下において数字は絶対。数字に逆らって勝ち目はない。数字には人情も通じないから、現れる結果は常に冷酷だ。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10649602.html</link>
      <title>読書と人生</title>
      <pubDate>Wed, 29 Feb 2012 07:39:24 +0900</pubDate>
      <description>本も新聞も読まない人って、結構いるものだ。だからと言って知能が劣るわけではない。本を読む、読まないで、世渡りや金儲けに差がつくわけでもない。我輩も30代から50代にかけては、仕事に追われて本どころではなかった。新聞だけは丹念に読んだが、本とは縁のない生活が随分と長かった。引退後は暇だから、いつの間にか読む習慣がついた。読書が増えて人生観に影響があったかと言えば、殆どない。我輩の場合は、実生活で格闘しながら得た人生観だから、本を読んだくらいで変りようがない。本や教師という他人の..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
本も新聞も読まない人って、結構いるものだ。だからと言って知能が劣るわけではない。本を読む、読まないで、世渡りや金儲けに差がつくわけでもない。我輩も30代から50代にかけては、仕事に追われて本どころではなかった。新聞だけは丹念に読んだが、本とは縁のない生活が随分と長かった。引退後は暇だから、いつの間にか読む習慣がついた。読書が増えて人生観に影響があったかと言えば、殆どない。我輩の場合は、実生活で格闘しながら得た人生観だから、本を読んだくらいで変りようがない。本や教師という他人の意見で造り上げられた人生観は、借り物だから書物の影響を受けやすい。自分の人生観を語るのに、他からの引用ばかりて、どれが本人の意見か分からない人がいる。本好きなもの識りに多い。<br /><a name="more"></a><br />この世には、本と格闘しながら生きている人と、本など暇つぶしのツールでしかない人の二手に分かれる。一方が文筆業者で、もう一方が一般読者と分類してもいいだろう。書く方は生活がかかっているから必死だろうが、我輩のような暇つぶし派は、その時の気分次第。パラパラっとめくって気に入らなければ、古新聞と同じ扱いだ。蔵書のスペースを持たない2ＬＤＫ暮らしには、読み終わった本ばすべてゴミ。興の冷めた本を保管しておく余裕がない。書物を選ぶ基準も、面白いか面白くないかの一点に尽きる。いかなる大傑作も、合わなければ猫に小判。<br /><br />ところが、本選びというやつ結構難しい。新聞等の書評につられて買うことが多いが、これがよく外れる。あれは書評というより、買わせるための推奨文らしい。よほど割引して読まないとババを掴まされる。安い本なら諦めもつきやすいが、高価なババを掴まされたときは、かなり頭にくる。文筆業界も一種の村社会、持ちつ持たれつの相互依存体質が濃厚だ。書評を書く方も同じ文筆業者だから、褒めて置けば褒めてもらえる。互いに褒め合うのが繁盛のコツ。ここらは芸能人村とそっくりだ。人気商売に悪口はタブー。同業者の作品を酷評したら、喧嘩を売るようなもの。<br /><br />その意味から言って、今回の芥川賞を巡っての、石原慎太郎氏には異端の臭いがした。二足のわらじを履いた人でなくては出来ない言動と言えそう。氏は、さらば芥川賞と言って選考委員を下りたが、さらば文芸村と聞いてもよさそうに思えた。軸足を文芸村の外に置いたせいか、石原氏の選評に容赦はなく、グロテスクなものはグロテスクとはっきり言い切り、一般人に理解出来ない作品は、出来の悪い言葉のゲームと突き放している。ちなみに、受賞作を読んだ我輩の感想も、石原氏に限りなく近かった。<br /><br />文芸村の外に軸足を移した石原氏の批評は、タブーに触れるところがあったと見え、受賞者の一人である田中慎弥氏の反発は異常だった。原子力村だけではない、どこの村にも、村の利益を損なわないための掟がある。作家の場合なら、同業者の作品の売れ行きを阻害するような発言はタブーだろう。上手に褒めて、後輩に道を開いてやるのが芥川賞選考委員の勤めなのに、石原氏はこの勤めに忠実でなかった。芥川受賞作なんてつまらないよ、と、選考委員の肩書を持つ人が言ったのでは、賞の権威は台無しだ。とは言え、芥川受賞作家と言えば、無条件で有難がる割りには、これという作家の現れない昨今である。石原氏のような人がいないと、本当の姿が見えてこない。<br /><br />それにしても、田中慎弥氏はよほど腹に据え兼ねたとみえ、都知事のじじいが、と悪感情剥き出しの不逞腐れよう。石原氏と言えば間もなく80歳、未熟者の書いた小説など、青臭くて本気で読む気になれなくて不思議はない。80歳を超え90歳に向けて生きていく者から見れば、夏目漱石や森鴎外だって未熟者だ。太宰治や三島由紀夫など青二才。老人になる前に死んだ作家の書いたものなど、８０翁の参考になる文節など、どこにもない。彼らにこそ長生きして老境を語ってもらいたかった。いくら天才でも、老い耄れを経験しなくて、人生を知り尽くしたとは言えない。<br /><br />歳を重ねるごとに、人生観は微妙に変わっていくもの。体力気力が衰えると、神も仏も、社会も人の姿も、若いころとはかなり違ったものに見えてくる。若い者とはだんだん話が合わなくなる。当然若い著者の本ではもの足りない。これだけ老人が増えているのに、老人の魂に届く本が、ほとんど見当たらないのが現実。天才と謳われた作家も、歳とるほどに只の老人になってしまい、真に迫って魅力的な老人像を創造する力がない。かくして激高老人は、本にさえ見放され、心を癒すすべがないのである。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10639295.html</link>
      <title>権力の魔性</title>
      <pubDate>Wed, 22 Feb 2012 06:26:04 +0900</pubDate>
      <description>雑誌やブログなどでの評判に惹かれ、Ｊエドガーという映画を見てきた。監督がクリントン・イーストウッドということなので、失望することはないだろうと、重い腰を上げることにした。一番早い時間を狙って入場してみると、館内はガラガラ、上映時間が迫っても一向に客は増えない。広い場内にバラバラっと十数人。寒々しくて、上映前の高揚感がさっぱり盛り上がってこない。余りに観客が少ないと、こちらの期待感まで萎んでしまう。身を乗り出して面白がるような映画でないことは分かっているが、こうも不人気だとは思..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
雑誌やブログなどでの評判に惹かれ、Ｊエドガーという映画を見てきた。監督がクリントン・イーストウッドということなので、失望することはないだろうと、重い腰を上げることにした。一番早い時間を狙って入場してみると、館内はガラガラ、上映時間が迫っても一向に客は増えない。広い場内にバラバラっと十数人。寒々しくて、上映前の高揚感がさっぱり盛り上がってこない。余りに観客が少ないと、こちらの期待感まで萎んでしまう。身を乗り出して面白がるような映画でないことは分かっているが、こうも不人気だとは思わなかった。この閑散ぶりから察して、大衆向きの作品でないことは歴然。<br /><a name="more"></a><br />見終わった感じでは、内容も、出来も悪くはない。ただ、ドラマとしての見せ場に欠ける。ドキュメンタリーを見たような感じ。映画という手法で、権力が肥大していく過程を再現して見せる、といった風な作品。その方面に関心の薄い人には、ついて行くのが難しいだろう。しかも、米国の昔話ときている。かなりの年配者でないと、話についていけないように思った。今の日本人で、チャールズ・リンドバークを知っている人が、どれだけいるだろう。「翼よ、あれが巴里の灯だ」という映画で、我輩もリンドバークを知ったわけだが、最低そのくらいの知識がないと、この映画は面白くないだろう。<br /><br />史上初めて大西洋無着陸飛行を成し遂げ、一躍英雄になったのがリンドバーグだった。そんな超有名人である彼の息子が、身代金目当てに誘拐されたのがリンドバーク事件。この有名事件をうまく利用して、権力拡大に繋げたのが、当映画の主人公Ｊエドガー・フーバーであった。ショッキングな事件を巧みに利用、危機感を煽って世論を誘導し、新しい法律を作っては、権力を広げるやり方は何処も同じ。気がついたら警察王国だ。フーバーの場合、歴代大統領も手に負えない裏の帝王にのし上がり、ＦＢＩ長官として、５０年もの長きに渡って、よこしまな権力乱用をほしいままにした。<br /><br />権力くらい乱用され易いものはない。権力くらい肥大化し易いものもない。権力には魔性が宿っている。最初は治安の安定という純な正義感から出発したであろうフーバーの権力欲も、ひとつ手に入れると、もう一段上が欲しくなる。といった具合で、より強くより強大に、という権力の魔性に嵌ってしまったらしい。目的達成への手口も汚くなる一方。盗聴で握った秘密を武器に、大統領まで脅したのだから、相当の悪だ。誰にでも秘密はある。まして、家庭内にさえ個室を設ける近代人のこと、秘密を暴かれたら人格の維持も困難。個室文化とは、秘密を許容する社会なのだから、プライバシーの尊重は、最優先されるべきモラルだ。これを違法な手段を用いて暴くのは、悪党の所業である。<br /><br />組織力にものをいわせ、盗聴という違法な手段で個人の秘密を手に入れた上、脅迫にまで使ったフーバーという男、連邦捜査局長官という肩書を持っていながら、希にみる悪党であったことは間違いない。もちろん捜査には悪党の素質が不可欠。犯人以上に悪知恵が働かなくては、犯人を捕らえることは出来ない。捕らえる方は善で、捕らえられる方は悪と、ステレオタイプに割り切れないのがこの世の難しさ。この世には、正義の面をつけた悪人は腐るほどいる。多分その方が多いだろう。悪の才能も使いよう。体制側について上手に使えば偉人の列に並らぶことができる。たとえば、豊臣秀吉は、群を抜いた悪知恵の持ち主だったから天下が取れた。明智光秀は悪知恵が足りなかったから、末代まで主殺しの汚名を着せられる破目になった。<br /><br />それにしても権力におぼれた者の末路は哀れだ。フーバーもお多聞にもれず、野たれ死にのような最期。その死を惜しんでくれる人もなく、嫌われ者の筆頭格として、アメリカの歴史に名を刻まれることになった。一層興味深いのが、盗聴というフーバーのやり口をそっくり真似たニクソン大統領だ。ニクソンは、フーバーさえ歯の立たないほど、したたかな大統領だったらしいが、自信過剰のせいだろうか、ウオーターゲートという盗聴事件を主導し、大統領の椅子を追われるという、現職大統領としては異例の屈辱に泣いた。フーバーのようなやり方を、２度と許さなかったところに、アメリカの健全さが見てとれる。<br /><br />翻って日本の場合を考えてみると、フーバーのような怪物こそいないが、警察権の肥大化は進む一方。やろうと思えば何でもできる恐るべき権力組織だ。何かあればすぐ警察を頼る日本人の性癖が、警察権力拡大には至って好都合。危ないと泣きつけばすぐに法制化を進めてくれる。規制法は警察にとっては武器だから、数が多くなるほど威力を増す。車が暇になったら、今度は自転車の乗り方に、なんだかんだと口を出し始めた。今に自転車の乗り方が悪いと言って、交番へしょっ引かれる時代になりそうだ。国民総背番号制のように、すべての国民をファイル化しなくてはおかないように見える。権力と自由思想は永遠になじまない。どちらに重きを置くかは、国民性によって決まるようだ。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/36sabue74/archives/10628489.html</link>
      <title>元暴力団員と生活保護</title>
      <pubDate>Tue, 14 Feb 2012 08:24:43 +0900</pubDate>
      <description>今、福岡高裁で争われている、宮崎市在住の元暴力団員（60）の、生活保護申請を巡る訴訟は、結果の如何にかかわらず、大きな問題に発展するように思う。申請を受理するか否かの決め手は、暴力団と完全に手が切れているかどうかにあるらしい。完全に切れていることが確認されれば、暴力団関係者を理由として、生活保護申請を却下することは出来ないわけだ。獰猛な狂犬のごとくに恐れられてきた暴力団員でも、組織と縁を切ってしまえば、法的には善良な市民である。但し、一般市民としては、いくら足を洗ったと言われ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
今、福岡高裁で争われている、宮崎市在住の元暴力団員（60）の、生活保護申請を巡る訴訟は、結果の如何にかかわらず、大きな問題に発展するように思う。申請を受理するか否かの決め手は、暴力団と完全に手が切れているかどうかにあるらしい。完全に切れていることが確認されれば、暴力団関係者を理由として、生活保護申請を却下することは出来ないわけだ。獰猛な狂犬のごとくに恐れられてきた暴力団員でも、組織と縁を切ってしまえば、法的には善良な市民である。但し、一般市民としては、いくら足を洗ったと言われても、元暴力団員を善良な市民として受け入れるのは難しい。一番に、ご意見無用のあの刺青が目障り。気にするなと言っても無理だ。法理念としては、前歴の如何を問わず、法の下に平等が原則だが、法と人情は違う。前歴で人となりを判断するのが世間の常識。法理念と一般常識の間には、越え難い壁が聳え立っている。<br /><a name="more"></a><br />この手の訴訟は全国的にも初めてのケースらしい。一審では元暴力団員の主張が認められた。これを不服として宮崎市側が控訴して、高裁で争われているわけだ。暴力的言動で、長年市民を威嚇してきた暴力団員が、脱退しましたから、以後の生活は福祉の方でお願いします。と言われても、市民感情としては許せない。各自治体が競うように制定した、暴力団排除条例の趣旨にもそぐわない。暴力団員救済に道を開くような形で、生活保護申請を認めては、他の自治体にも多大な影響がでる。というわけで、宮崎市としては、一審の判決に素直に従うわけにはいかなかった。とはいえ、暴力団狩りが熾烈を極める中、当然予想された問題ではある。<br /><br />この裁判、４月に判決が下りるそうだが、法の下の平等という原則に照らすと、原告側に分があるように思える。日本国籍のない人でも、生活保護を受けているのに、暴力団員の前歴だけを理由に拒否するのは、どうにも理屈に合わない。警察は、暴力団僕滅などと威勢のいいことを言っているが、暴力団員全員を国外追放出来るわけではなし、組織を潰せば、路頭に迷う組員がでるのは分かり切ったこと。これを雇ってやろうという奇特な人がいなければ、元組員としては、善良な市民として生きていくすべがない。警察力で、暴力団組織の壊滅は出来ても、はじき出された組員が食えなくては、悪人の数を減らすことにはならないわけだ。<br /><br />元暴力団員や元受刑者を門前払いにする世の中で、彼らが職に就ける確率は極めて低い。ましてや、中年の刺青男を雇う物好きがいるわけがない。昔の建築現場では、刺青男をよく見かけたが、今は人余りの時代、暴力癖のある男など、どこの作業現場でもお断りだ。民間がダメなら役所で引き受けるしかない。排除条例に見られる、徹底した暴力団追放は役所主導の運動なのだから、役所の責任は極めて重い。公務員として、元組員を優先的に採用する努力はあってしかるべきだ。とは思うが、役所にとってもこれは難題。公務員の品位が問われる上に、市民の理解も得られない。捨て場もないのに掃き散らしても、どこかに吹き溜まりができるもの。行き場を失った組員をどこが引き受けるか、これが解決されない限り、暴力団追放運動が成功し、悪が減ることにはならない。<br /><br />そこで、最後の手段として、元暴力団員が合法的に食って行ける道と言えば、生活保護だろう。“雇うか生活保護か”これが、暴力追放運動の結果として社会に突き付けられる、二者択一の選択だ。追放運動の結果生活手段を失った元組員を、生活保護で養ってやれば、一応治安は安定するだろう。でも、これで皆が納得するだろうか。このような道筋を作ると、組員の生活を将来にわたって保障してやることになってしまう。何をやろうと、最後は生活保護で救われるとなれば、暴力団員のような無頼な生き方をしていても、先の心配をしなくて済む。これじゃ悪人天国。悪人から地獄を取り除いてやるのだから、まるで仏さまの国だ。<br /><br />警察が追放して、福祉で救済されるような構図にしてしまえば、悪人を懲らしめることにはならない。暴力団排除条例も警察も要らぬこと、大かたが金で型がつく問題になってしまう。悪を許さない、モラルの確立という大義のために、警察権が行使されているのだから、過去の悪行を簡単に許しては善悪のケジメがつかない。とまあ、考えれば考えるほど、行き場を失った組員の扱いほど難しいものはない。生活保護でのんきに暮らす元組員を増やしても、警察の手柄にはならない。今後の推移が見ものだ。<br />

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      <author>36sabue74</author>
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