2011年06月22日
引越しいたしました
こんにちは
毎日暑いですね。
5月より
ブログ引越しいたしました。
「レダの靴」です
http://blogs.yahoo.co.jp/nscgy483/4567495.html
過去の塚本邦雄百首鑑賞も近々
新しいブログでお見せする予定です。
現在三十二回
今日は夏至ですね。
どうぞよろしくお願いいたします。
尾崎まゆみ
毎日暑いですね。
5月より
ブログ引越しいたしました。
「レダの靴」です
http://blogs.yahoo.co.jp/nscgy483/4567495.html
過去の塚本邦雄百首鑑賞も近々
新しいブログでお見せする予定です。
現在三十二回
今日は夏至ですね。
どうぞよろしくお願いいたします。
尾崎まゆみ
2011年05月13日
五月ですね
五月
若葉の萌える季節
みなさまお元気ですか
先日も管理人さんからお知らせしていただいたように
五月から
ブログを引っ越しました。
内容は今までと同じ
塚本邦雄鑑賞などです。
レダの靴 尾崎まゆみ
で検索していただいても
出てきます
引越しはまだ完了していないのですが
終り次第またお知らせさせていただきます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
管理人様
今まで
ありがとうございました。
尾崎まゆみ
若葉の萌える季節
みなさまお元気ですか
先日も管理人さんからお知らせしていただいたように
五月から
ブログを引っ越しました。
内容は今までと同じ
塚本邦雄鑑賞などです。
レダの靴 尾崎まゆみ
で検索していただいても
出てきます
引越しはまだ完了していないのですが
終り次第またお知らせさせていただきます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
管理人様
今まで
ありがとうございました。
尾崎まゆみ
2011年04月25日
ブログ引越しのお知らせ。
このラヴログで展開されてきた尾崎まゆみさん
の『 レダの靴 』は、尾崎さんのご都合により
ヤフーブログに引越しをすることになりました。
URLは以下の通りです。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/nscgy483/3329198.html
今後とも『 レダの靴 』をどうぞよろしくお願
い致します。
管理人 拝
2011年04月22日
レダの靴 二十八 鬱金櫻
レダの靴 二十八 鬱金櫻 四月二十二日金曜日
鬱金櫻蘂蒼(くら)みつつ散るなべに遺響のごとき春なりにけり
塚本邦雄『透明文法』
鬱金櫻は
染井吉野のあとに咲く
八重桜
今頃咲いて
少し重たそうに枝に揺れている
桜
夕暮れ時に見ると
現実のものとは思えないけれど
染井吉野よりも現実に近い
美しさと妖しさがあります。
桜の美しさと妖しさといえば
桜の信じられないほどの美しさに
いだく不安が描かれている。
梶井基次郎の『桜の樹の下には』
という小説を思い出します
ただの桜ではなく
鬱金櫻
名前は
鬱金色を思わせる
黄味を帯びた花の色から名付けられた
ようですが
咲き始めはうすいピンクとも
鬱という漢字は視覚を刺激して
信じられないほどの
美しさへの不安を生みだします
八重桜の
花が散ると
蕊が見えてきて
花びらの明るさから
すこし青みを帯びた蕊の暗さへ変わる
そのようすは
死者たちから
託されて
遺された響きのような春
今年の春は
そういう春だ
なべに
とは馴染みのない言葉ですが
万葉集のころからある
接続助詞
「なへ」に
格助詞
「に」
のついたもの
散るにつれて
というような
意味になるそうです
遺された響きのような春
とは
今年の春のような日日でしょう。
いやはてに鬱金ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月はきたる
北原白秋『桐の花』
鬱金櫻といえば
北原白秋の秀歌を思い出します
遠くに
華やかな桜にかなしみが見える。
そのかなしみが散りはじめたころに五月がやってくる
白秋の
歌の後ろには
かなしみの後に
命満ち溢れる五月のくるよろこびが見えますが
塚本の歌には
かなしみが散るとは言い切ってしまえない
遺された響きがあります。
その響きの背景は
鬱金櫻濡れしがままに散りゆくと遺響のごとき春なりにけり
塚本邦雄『初学歴然』
という
昭和二十一年に発表された歌によって伺えます。
昭和二十一年の春とは敗戦の次の年の春
鑑賞をはじめた去年の夏には
この歌を取り上げる予定はありませんでした。
なぜなら
この遺響のごとき春の歌が
心の底から理解できるとは思わなかったから
事柄ではなく心理は
活字のなかに潜んでいて
見つけられるのを待っているのかもしれませんね
尾崎まゆみ
鬱金櫻蘂蒼(くら)みつつ散るなべに遺響のごとき春なりにけり
塚本邦雄『透明文法』
鬱金櫻は
染井吉野のあとに咲く
八重桜
今頃咲いて
少し重たそうに枝に揺れている
桜
夕暮れ時に見ると
現実のものとは思えないけれど
染井吉野よりも現実に近い
美しさと妖しさがあります。
桜の美しさと妖しさといえば
桜の信じられないほどの美しさに
いだく不安が描かれている。
梶井基次郎の『桜の樹の下には』
という小説を思い出します
ただの桜ではなく
鬱金櫻
名前は
鬱金色を思わせる
黄味を帯びた花の色から名付けられた
ようですが
咲き始めはうすいピンクとも
鬱という漢字は視覚を刺激して
信じられないほどの
美しさへの不安を生みだします
八重桜の
花が散ると
蕊が見えてきて
花びらの明るさから
すこし青みを帯びた蕊の暗さへ変わる
そのようすは
死者たちから
託されて
遺された響きのような春
今年の春は
そういう春だ
なべに
とは馴染みのない言葉ですが
万葉集のころからある
接続助詞
「なへ」に
格助詞
「に」
のついたもの
散るにつれて
というような
意味になるそうです
遺された響きのような春
とは
今年の春のような日日でしょう。
いやはてに鬱金ざくらのかなしみのちりそめぬれば五月はきたる
北原白秋『桐の花』
鬱金櫻といえば
北原白秋の秀歌を思い出します
遠くに
華やかな桜にかなしみが見える。
そのかなしみが散りはじめたころに五月がやってくる
白秋の
歌の後ろには
かなしみの後に
命満ち溢れる五月のくるよろこびが見えますが
塚本の歌には
かなしみが散るとは言い切ってしまえない
遺された響きがあります。
その響きの背景は
鬱金櫻濡れしがままに散りゆくと遺響のごとき春なりにけり
塚本邦雄『初学歴然』
という
昭和二十一年に発表された歌によって伺えます。
昭和二十一年の春とは敗戦の次の年の春
鑑賞をはじめた去年の夏には
この歌を取り上げる予定はありませんでした。
なぜなら
この遺響のごとき春の歌が
心の底から理解できるとは思わなかったから
事柄ではなく心理は
活字のなかに潜んでいて
見つけられるのを待っているのかもしれませんね
尾崎まゆみ
2011年04月18日
レダの靴 二十七地の創
レダの靴 二十七地の創 四月十八日月曜日
今日は四月十八日
地震からもう一ヶ月以上もすぎてしまいました。
桜が満開から散りそめへ
余震も絶えませんね
今年の桜は
阪神大震災の後でみた桜よりも
さらに
魂を鎮めるように
春風に弄られながらも
しずかに
咲いています。
水道管埋めし地の創なまなまと続けりわれの部屋の下まで
塚本邦雄 『装飾樂句』
水道管を地中に埋めるという作業によって
傷つけられた
地面の痕
私の部屋の下まで
水道管の上にかぶせた土の盛り上がりが続く
水道管、ガス管、下水管。
『装飾樂句』の作品が創られたのは昭和三十年前後の日本
ライフラインが今のように整備されてはいませんでした。
水道管が我が家に引かれたという
日常生活の中では記念日となるような出来事は
水を井戸から汲む手間が省けて
蛇口を捻れば水が出てくる
便利で夢のような生活を運んできてくれる
喜ぶべきことなのだけれど
土地に創をつけることでもある。
この発想がリアルで
地面が生き物の膚のようになまなまと迫ってくる
印象深い作品だったのですが
すこしデフォルメしすぎではないか
とも思っていました。
三月十一日以降に
改めて
この作品に接したとき
私たちはこういう気持ち
つまり
便利な生活は
自然を創つけて
得られたものである
ということを忘れてしまっていた
のではないか
ということを思いました。
阪神大震災の後
蛇口から水があふれ出て
思う存分手を洗えたときの
喜びは
十五年以上たったいまでも
古びません。
貧しさのなかにも希望があった
昭和三十年代の作者は
便利な近代的な生活は自然破壊につながることを
自覚していたのでしょう。
ところで
創
は
刀で傷つくこと
なにかをはじめること
という二つの意味を持ちます
傷つくことによってはじまるものがある
ということなのでしょうか
この作品には
続くつながるというキーワードもあります。がそれはまた次回に。
尾崎まゆみ
今日は四月十八日
地震からもう一ヶ月以上もすぎてしまいました。
桜が満開から散りそめへ
余震も絶えませんね
今年の桜は
阪神大震災の後でみた桜よりも
さらに
魂を鎮めるように
春風に弄られながらも
しずかに
咲いています。
水道管埋めし地の創なまなまと続けりわれの部屋の下まで
塚本邦雄 『装飾樂句』
水道管を地中に埋めるという作業によって
傷つけられた
地面の痕
私の部屋の下まで
水道管の上にかぶせた土の盛り上がりが続く
水道管、ガス管、下水管。
『装飾樂句』の作品が創られたのは昭和三十年前後の日本
ライフラインが今のように整備されてはいませんでした。
水道管が我が家に引かれたという
日常生活の中では記念日となるような出来事は
水を井戸から汲む手間が省けて
蛇口を捻れば水が出てくる
便利で夢のような生活を運んできてくれる
喜ぶべきことなのだけれど
土地に創をつけることでもある。
この発想がリアルで
地面が生き物の膚のようになまなまと迫ってくる
印象深い作品だったのですが
すこしデフォルメしすぎではないか
とも思っていました。
三月十一日以降に
改めて
この作品に接したとき
私たちはこういう気持ち
つまり
便利な生活は
自然を創つけて
得られたものである
ということを忘れてしまっていた
のではないか
ということを思いました。
阪神大震災の後
蛇口から水があふれ出て
思う存分手を洗えたときの
喜びは
十五年以上たったいまでも
古びません。
貧しさのなかにも希望があった
昭和三十年代の作者は
便利な近代的な生活は自然破壊につながることを
自覚していたのでしょう。
ところで
創
は
刀で傷つくこと
なにかをはじめること
という二つの意味を持ちます
傷つくことによってはじまるものがある
ということなのでしょうか
この作品には
続くつながるというキーワードもあります。がそれはまた次回に。
尾崎まゆみ

