2012年05月24日

長崎・興福寺(3)媽祖堂

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 寺のパンフレットには、媽祖堂について、「県有形文化財 寛文十年(一六七〇)の扁額『海天司福主』がある最古の建物。唐船に祀る守護神の媽祖小像を在泊中、安置した。」とある。
 長崎県・市の教育委員会による案内板には、「寛文3年(1663)市中の大火で類焼後、宝永3年(1706)再建された。媽祖は、まそ・まぁずぅ・ぼさと読むが、また天妃・天后聖母・菩薩・老媽などの呼び名もある。海上安全守護の女神で、各唐船には船魂神として媽祖の小像を祀り、長崎港在泊中は当寺など由縁の唐寺の媽祖堂(福済寺の場合は観音堂)に奉安するのが例であった。黄檗天井・半扉など黄檗風を加味した和様の建築様式である。媽祖堂があるのは長崎の唐寺だけの特徴。」[※ふりがなは、省略]とある。
 媽祖というのは実在した人物で、福建省の林黙娘のこと。二十八歳の時(九八七)に海に消えたという。横山宏章『長崎 唐人屋敷の謎』(集英社新書2011・6)では、最も古い媽祖廟の「廟記」(一一五〇年)の記述、「以巫祝為事、能預知人禍福」を取り上げている。巫女であった彼女は、人の禍福を予知することができたのである。

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2012年05月20日

新☆再生縁4

09ss 滝口琳々『新☆再生縁4』(秋田書店プリンセス・コミックス2012・5)が出た。副題は、「明王朝宮廷物語」。表紙の君玉の絵もよいが、裏表紙の第一公主の仁和が、なかなかよい。絵だけでなく、物語のなかで果たしている役割もなかなかなのである。
 この4巻は、3巻の終わりで、皇帝から、第一公主の仁和を降嫁させると言われた君玉がどうするかというところから始まる。わたしには、切り抜ける知恵が少しも思い浮かばない。本当にどうなるんだろう、と思いながら読んだ。話の筋は、さすがに書くことはできず、思いがけない展開の連続としか言えない。読み進めていくと、なるほどと思わせられ、読み終わると、一つの山を越えたという感じがするのだった。
 一難去ってまた一難、続くどたばたに笑わずにはいられない。物語は大いに盛り上がるのだが、またしんみりともさせられる。現実的にはありえないというような世界を、「愛」を基調に縦横に展開させるところが大したところだ。読み終わった感想を、たった一言で言うと、「おー!」である。
 わたしのような、いささか枯れてきたような者でもこう感じるのだから、若い方はもっと感じるところがあるのではないか。ちなみに、巻末のおまけ「明代豆知識」では、明代の官服について説明している。

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長崎・興福寺(2)大雄宝殿

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 興福寺の大雄宝殿は、国指定重要文化財になっている。大雄宝殿というのは、日本の寺院の本堂のことである。寛永九年(一六三二)第二代黙子如定禅師が建立したのが始まり。そこにあった案内板によると、「寛文3年市中の大火後、寛文7年(1667)再建された仏殿が、慶応元年(1865)の暴風で大破したため、明治16年(1883)新築された。すべて中国技術者の手になる純中国建築で、貴重な建物である。前廊部の黄檗天井、隅屋根の強い反転曲線、巧緻な彫刻と華麗な彩色、氷裂式組子の円窓、大棟上の瓢瓶など珍しいものが多い。(以下省略)」。
 堂内には、市有形文化財の瑠璃燈がある。寺のパンフレットによると、「上海から運ばれ、本堂内で組み立てられた瑠璃燈は、中国工匠による清朝の精緻な工芸品」とある。
 写真は、一枚目が大雄宝殿。二枚目が、瓢瓶である。

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2012年05月16日

長崎・興福寺(1)山門

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 長崎在住の中国人が建てた寺を、唐寺という。「唐三か寺」、「唐四か寺」という呼び名があるが、まず一番古い興福寺を紹介する。
 寺のパンフレットによると、興福寺は、国内最初の黄檗禅宗の唐寺である。一六二〇年頃に航海安全を祈願して小庵を作ったことに始まる。長崎在住の中国人にも切支丹の疑いがかかったため、仏教徒であることを証明する意図があって、次々に唐寺が建てられていった。 
 黄檗宗の開祖として、日本でもよく知られている隠元禅師。彼は、中国の福州から承応三年(一六五四)に長崎に来て、興福寺住職として一年滞在した。その御書「初登宝地」の扁額を掲げているのが山門で、県有形文化財になっている。
 案内板には、「興福寺に最初に建てられた山門は、寛文3年(1663)におこった市中大火により類焼しました。現存するこの山門は、元禄3年(1690)に再建されたものです。構造は三間三戸八脚門の入母屋造で、単層屋根・総朱塗りとなっている壮大な門です。細部は和風であり、日本人工匠の手になるものです。 この地は、承応3年(1654)中国から来朝した隠元隆[王奇]の初登の地であるため、門の背面梁上には隠元筆「初登宝地」の扁額がかかっています」とあった。
 写真は、一枚目が正面で、二枚目が背面である。二枚目の写真を拡大して明るさを調整し、トリミングしたのが三枚目で、「初登宝地」の扁額が見える。

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2012年05月12日

耿巧雲・京劇・「桃花村」

桃花村s 今回観たのは、慶祝中国京劇院50周年経典劇目展演の京劇「桃花村」のDVD(1枚)で、揚子江音像有限公司総発行のもの。中国京劇三団によるもので、耿巧雲と張威が主演となっている。耿巧雲が演じているのは、侍女の春蘭である。実況版で、唱の部分にのみ字幕がある。時間は、およそ二時間八分。パッケージにつけられた劇情簡介をさらに縮めて、簡単に物語のすじを紹介しておこう。

 桃花村の員外劉徳明の娘玉燕は、侍女の春蘭を連れて春を愛でる盛大な集まりに、婿選びに出かける。そこで書生の卞に出会うが、二人は一目見て心惹かれ合う。玉燕は父に報告し、劉員外は老僕の劉栄を遣わして卞生を請わせる。ところが卞生は留守で、誤って桃花山の寨主の周通を呼んでしまう。事情が変わったのを知った春蘭は、卞生に女装させて連れて来るが、この時周通が略奪に来て、誤って卞生を奪って行く。山寨にもどってからようやく間違って奪ってきたことを知り、そこでまた人を連れて劉家に強奪に行く。
 卞生は釈放され、帰る途中で魯智深に遇い、事の次第を説明する。同情した魯は、みずから劉家に行き、周通がきっと来ると知り、そこで新婚夫婦の部屋に隠れる、周通は部屋に入って来て魯にひどく殴られ、慌てて逃げる。周通は復讐しようとするが、事情を知り、魯の仲裁を経て、卞生と玉燕の結婚を助ける。

 さて、行き違いというのが設定の大事なところ。結末は、めでたし、めでたしの物語。何より、侍女の春蘭の活躍が大きい。魯智深といえば『水滸伝』の登場人物だが、詳しいことを知らなくても十分楽しめる。
 画像は鮮明。見ていて楽しくユーモラス。侍女の春蘭が明るくてよい。どたばたもあって面白い。そういうわけで侍女春蘭が主演の劇だなのだが、それを耿巧雲が巧みに演じていた。

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2012年05月08日

長崎・唐人墓地祭場所石壇

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 悟真寺の国際墓地は斜面にある。下りてきた先に、「唐人墓地祭場所石壇(とうじんぼちまつりばしょいしだん)」があって、市指定史跡になっている。そこにある案内板に、次のように書かれていた。

 万治2年(1659)正月、在留唐人が造り、春秋に祭祀法要を営んだところです。長崎名勝図絵にも祭場所石壇として記してあります。戦時中、悟真寺境内国際墓地内に移されていましたが、戦後再び現位置に移設し、旧に復しました。
悟真寺はキリシタン盛時に、仏法再興最初の寺として、慶長3年(1598)頃創立されたもので、当時他にはまだ仏寺がなかったため、唐商・欧陽華宇、張吉泉らが主宰して唐人のための墓地を造ったのが起源です。

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2012年05月04日

2010年版ドラマ・紅楼夢(2)

s新紅楼夢152 全五十集を見終わった。とにかく現代的な仕上がり、という印象だった。登場する屋敷は、建物自体はともかく、その全体は皇帝の離宮のように広大なものだった。モデルの一つと考えられている恭王府などより、ずっと大きい感じがした。
 一つのドラマとしてみると、巷で言われるような不出来な作品では決してないと感じた。しかし騒々しい場面も多く、全体にしっとりと落ちついたドラマとは言いがたい。そうした場面では、観ていてやはり気分が乗らず、うんざりしてくる。しかしいろいろな作品を観てきたわたしには、やはり並みの時代劇の水準を超えていると思われた。なかなかよい場面もあった。
 ただ、わたしが抱いている『紅楼夢』の世界というものと、相当の隔たりがあったというのが率直なところだ。何かが違うと思うことも多く、『紅楼夢』であって『紅楼夢』でないというような感じなのである。作者の曹雪芹が男性で、李少紅監督が女性のためだろうか、などと考えてみたりもした。
 新版でCGの果たす役割は大きく、先に挙げた第一集のほか、第十三集の清虚観の映像などもなかなかのものである。それから、このドラマでは薛宝釵が良かった。二人の女優ともにである。また、どこでロケをしたのか、興味があるところである。それが分かったら、ロケ地巡りなどしてみたいところである。第一集の姑蘇(蘇州)以外は、まるで見当もつかなかった。ただ一か所、第四十九集の二十六分過ぎに出てきたのは、この「壺中天」でも紹介したことのある、北京の臥佛寺(十宝普覚寺)ではないかと思ったのだが、いかがであろうか。
 さて、わたしは、かの地の俳優の名前というものを、少ししか知らない。覚えようという気がないのである。ところがこのドラマを観ていて、一人の女優の名前をしっかり覚えた。少年薛宝釵を演じた、李沁である。少年というのは青年に対して使われていて、女性であっても使う言葉である。名前を覚えただけでなく、ネットで調べたところ、昆曲を学んだ人と分かった。わたしは、彼女が演じる『牡丹亭』のDVDが出たら、すぐに買おうと思ったのだった。

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2012年04月30日

長崎・唐通事会所跡

45唐通事会所跡s


























46長崎市立図書館前碑s


























 唐通事の家は七十を越え、その数は、二十四の役職に延べ八百二十六人だったという。なかなか大きな組織だったようである。彼らの事務所は、唐通事会所と呼ばれた。その跡にいま、石碑が建てられている。案内板に書かれた、説明書きの一部を紹介しよう。

唐通事の事務所は「唐通事会所」と呼ばれました。最初のうちは通事の代表である年番大通事の自宅が会所になっていましたが、宝歴[※有坂注:正しくは宝暦]元年(1751)今町(現在の金屋町)に会所が設けられ、さらに同12年(1762)にこの地(本興善:現在の興善町)に移転しました。

 写真は、一枚目が、「活版伝習所跡」と並ぶ「唐通事会所跡」碑。二枚目は、碑を離れたところから写したもの。後ろの大きな建物は、長崎市立図書館である。

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2012年04月26日

長崎・陳道隆の墓

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74悟真寺s


























89悟真寺s 悟真寺の墓地を歩いていると、「市指定史跡 唐通事□川家(えがわけ)初代墓地」の案内板(一枚目の写真)が目に入る。(注:□は、頴の「示」が「水」の字。以下同じ)
 それには、「陳道隆(ちんどうりゅう)(1617〜1676)は、□川家を創設して藤左衛門(初代)と称した。寛永17年(1640)小通事に、翌年には大通事に任じられ、35年間にわたり唐通事を勤めた。かたわら、福済寺の建設整備に努め、また、一の瀬橋の架橋など慈善事業にも貢献した。さらに、承応3年(1659)隠元禅師、明暦元年(1655)木庵禅師を日本に招き、わが国の黄檗文化の普及に尽くした。[以下省略]」とある。
 さらに行くと、唐通事・陳道隆(□川藤左衛門)の墓がある。並んでいる二基の墓(二枚目の写真)の向かって右側だが、左は妻(末次平蔵の娘で後妻)梅林妙香嬬人のもの。そこにも説明書きがあった。それによると、彼の父の冲一は、福建省の人で、薩摩に渡来し医師として島津公に仕えた。母は日本人であった。晩年には、名を吉左衛門と改めた。写真(三枚目)では見えにくいが、墓石には、「俗名頴川吉左衛門」の文字が見える。「頴」は異体字である。
 「唐通事」、「阿蘭陀(オランダ)通詞」と書き、「つうじ」の字が異なる。通詞が通訳の意味であるのに対し、通事は貿易業務の管理など、幅広く重要な仕事にも関係した。

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2012年04月22日

長崎・悟真寺

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72悟真寺s


























 稲佐にある浄土宗の悟真寺は、現存する寺院としては、長崎で最も古いとされる。案内板によれば、「慶長3年(1598)、筑後善導寺の聖誉玄故上人により開創された」。さらに、「慶長7年(1602)唐商・欧華宇と張吉泉が来日し、以後、唐人の菩提所とされ、100間四方の土地が唐人墓地となりました。慶安2年(1649)に死去したオランダ特派使節の埋葬を機に同寺にオランダ人墓地が開設、その後、幕末頃からロシア人墓地も開設されました」とある。葬られている唐人の数は、参照した書物によって異なるが、二百を越えている。臥葬といって、臥したまま葬ったという。
 寺は原爆により焼失したが、山門だけは焼失を免れた。いかにも中国風の門である(写真)。案内板には明治中期頃に撮影された悟真寺の写真があったが、そこには山門の下に、今はない石段が写っていた。

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