それがたとえ歪であったり、成長と呼べるほど目覚ましいものでもなく、どこかで耳にしたことがあるようなものだとしても、自分なりのやり方で自分らしさを極めようとする、苦悩に足掻きに開き直りといった模索の痕跡は必ずそこに留められるもので、そこには自ずとオリジナルとしての雰囲気が漂い始める。
一見同じように感じられるものでも意外とすんなり、本物か偽者か、気持が入っているかいないかを判別できるのはつまりそのためなのだろう。
その一方で、オリジナルなやり方にこだわらずとも、その道を究めようとせずとも、長くやれば次第にこなれてきて、体裁を取り繕うことも可能であり、さらにその術を究めればいかにも気持が入った風に本物として装うことさえ可能には違いなく、それゆえに受け取る側もそれを本物と錯覚してしまう例も多い。
利害関係が一致するメディアにより、真偽を見極める厳しい視線や批判的な意見から手厚く保護されるに至っては、例えば音楽業界であれば、熱狂的なファンまで巻き込みながら、いよいよ本質から遥か遠いところで立派なアーティストが作られてしまうのだなぁ...と「めざましテレビ」の芸能コーナーを見て思う。
それにしても蝶ネクタイの男は相変わらず補足の情報を持たない。いつまで経っても音楽や映画について素人に毛の生えた程度、全てがスポーツ紙の記事の範囲内。ある映画の制作にどれくらいの年数がかかっているのかというありがちな質問をすれば「どうなんでしょう、大分かかっていると思いますが、とにかく凄い映像です」みたいなことでお茶を濁す。
「どうなんでしょう、そうですね、とにかく凄い」あたりの言葉と、情報がないことを取り繕うかのような気持悪い間を禁じたら、蝶ネクタイを残してその存在が消えてなくなってしまうに違いない。
そもそも芸能ニュース自体が無ければ無くても全く構わないものであるからして、本質に迫る甲斐もなく、そこで何かを究めるというのも気乗りしない話ではある。
ただ、その中でもさらにどうでもいい結婚や離婚や恋愛等についてはさておき、音楽や映画について専門家になることは、むしろ望ましく何しろ自然な流れだと思うのだが、蝶ネクタイの男にはその気配が全く無い。究めもせず、アナウンサーとしてこなれることもなく、いつまで経ってもフワフワと、そのどっしりとした体型にも似合わずあらゆることが定まらない。そしてその定まらなさゆえに、蝶ネクタイ的ワンポイント自己主張がかえって効果を発揮し、その定まらなさも蝶ネクタイのもとに持ち味として定着するのである。
一向に本質に迫ることなく体裁ばかりを取り繕い、しかしそれなりの効果を上げるなんて例は音楽業界に限らず世の中にありふれていて、ついそれが当たり前のように感じてしまう。知らず知らず自分がそんな事態に陥っていることもよくあるものの、「めざましテレビ」であの蝶ネクタイを見る度に、ハッと我に返ることができる。