2012年01月28日
協議
久しぶりの時事ネタです。オートポイエーシス論的には、協議も当然社会システムの一種です。ルーマンの分類で言えば、対話(相互作用)システムになります。目的は、参加者間での、協議の後のコミュニケーション・コードのすり合わせ。参加者が共通のコードでコミュニケーションし、相互の齟齬が出ないようにすることです。もちろん、実際には協議で合意した後でも、合意はコード表象のレベルでしか生じませんから、互いの対応すべきコードが違っているということはありえます。それだけに、協議の参加者に期待されるのは、前提認識の共有と、合意したコードの遵守に他なりません。まず、前提となるシステム状態の理解が一致していなければ、協議コミュニケーションの連鎖が不確実になります。無論、協議の過程で認識をすり合わせるということは可能ですが。そのためには、参加者が自分の認識を他の参加者に開示することが不可欠です。これが隠されたままでは、そもそも協議をする意味がありません。次に、協議の結果合意されたコードが参加者全員の間で少なくとも次の協議までは維持されることが期待されます。したがって、そこには、相手がコードを確かに維持するという信頼も必要です。そもそも信頼できない相手とは協議ができませんね?そして、過去に合意したコードに違反したことのある相手というのは、信頼できる相手とはなりえないわけです。合意したはずのことを勝手に反故にされるのでは、協議しても無駄ですから。
国会で野田総理が消費税増税に関する事前協議に応じるよう野党に呼び掛けています。これそもそもおかしいですよね。法案は与党が作って国会に提出するものです。その与党案に対して野党が対案を示し、国会で審議するというのが筋でしょう。どちらも通らないというなら、解散して国民に信を問えばいい。これが憲政の常道というものだと思うのですが。しかも、与党が信頼して協議のできる相手かどうか極めて疑問です。次のニュースが飛び込んできました。
年金財源、試算示さぬ方針 増税議論への影響懸念
野田政権は26日、民主党の新年金制度に必要な財源の試算などの全体像を野党側に提示しない方針を固めた。自民、公明両党は消費増税法案を今国会で審議する前提として、試算の公表を要求しており、両党が反発するのは必至だ。
http://www.asahi.com/politics/update/0127/TKY201201260769.html
認識の共有を拒否するのでは、上述したように、協議を可能にする条件が整いません。これでは協議と言うより、めくら判を押せというようなものです。また、合意したコードの遵守という点でも与党は落第。次のニュースが証拠です。
新手当法案の全容判明 名称は「子どものための手当支給法」 自公、反発必至
2012.1.23 11:17 (1/2ページ)[野田首相]
子ども手当に代わる新手当を平成24年度から支給するため、政府が通常国会に提出する児童手当法改正案の全容が22日、明らかになった。法律名を「子どものための手当支給法」に改め、法律の定義や支給要件を旧子ども手当支給法と同じ条文に置き換えるなど、子ども手当“継続”を強く印象づける内容となっている。子ども手当を廃止した上で児童手当を拡充するとした民主、自民、公明3党の昨年8月の3党合意を骨抜きにしており、法案成立を目指す3党協議で自公両党が反発するのは必至だ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120123/stt12012311200001-n1.htm
野党との協議の結果合意したことを事実上反故にしています。こんな相手では信頼できないのが当たり前。ましてや、この協議申し入れの意図は、消費税増税の責任を野党に押し付けようという露骨なもの。野党が協議に応じないのは当然ですね。そもそも、総選挙のマニフェストさえ守る気がないのは、次の動画を見れば明らかですし。
野田総理 マニフェスト 書いてあることは命懸けで実行
http://www.youtube.com/watch?v=y-oG4PEPeGo
国会で野田総理が消費税増税に関する事前協議に応じるよう野党に呼び掛けています。これそもそもおかしいですよね。法案は与党が作って国会に提出するものです。その与党案に対して野党が対案を示し、国会で審議するというのが筋でしょう。どちらも通らないというなら、解散して国民に信を問えばいい。これが憲政の常道というものだと思うのですが。しかも、与党が信頼して協議のできる相手かどうか極めて疑問です。次のニュースが飛び込んできました。
年金財源、試算示さぬ方針 増税議論への影響懸念
野田政権は26日、民主党の新年金制度に必要な財源の試算などの全体像を野党側に提示しない方針を固めた。自民、公明両党は消費増税法案を今国会で審議する前提として、試算の公表を要求しており、両党が反発するのは必至だ。
http://www.asahi.com/politics/update/0127/TKY201201260769.html
認識の共有を拒否するのでは、上述したように、協議を可能にする条件が整いません。これでは協議と言うより、めくら判を押せというようなものです。また、合意したコードの遵守という点でも与党は落第。次のニュースが証拠です。
新手当法案の全容判明 名称は「子どものための手当支給法」 自公、反発必至
2012.1.23 11:17 (1/2ページ)[野田首相]
子ども手当に代わる新手当を平成24年度から支給するため、政府が通常国会に提出する児童手当法改正案の全容が22日、明らかになった。法律名を「子どものための手当支給法」に改め、法律の定義や支給要件を旧子ども手当支給法と同じ条文に置き換えるなど、子ども手当“継続”を強く印象づける内容となっている。子ども手当を廃止した上で児童手当を拡充するとした民主、自民、公明3党の昨年8月の3党合意を骨抜きにしており、法案成立を目指す3党協議で自公両党が反発するのは必至だ。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120123/stt12012311200001-n1.htm
野党との協議の結果合意したことを事実上反故にしています。こんな相手では信頼できないのが当たり前。ましてや、この協議申し入れの意図は、消費税増税の責任を野党に押し付けようという露骨なもの。野党が協議に応じないのは当然ですね。そもそも、総選挙のマニフェストさえ守る気がないのは、次の動画を見れば明らかですし。
野田総理 マニフェスト 書いてあることは命懸けで実行
http://www.youtube.com/watch?v=y-oG4PEPeGo
2012年01月21日
試験とオートポイエーシス
先日、センター試験がありました。うちの大学も試験会場になり、私も試験監督をやってきたわけです。非常勤時代にはありえなかったことなので、自分も常勤職になったんだなあと灌漑深いものがありました。実は私、二浪してまして、共通一次試験の時代ですが、この手の試験を三度受けています。それだけに受験生に思い入れが大きく、心の中でがんばれがんばれと応援しながら、試験監督していたんですけどね。今回のエントリーはその時のエピソードが基になってます。
なぜ試験とオートポイエーシスなのか?それは試験ほど、人間のオートポイエーシスを実感させられるものはあまりないと言えるから。センター試験、大学の合格がかかっています。それで人生がすべて決まってしまうわけではないものの、一応人生のかかった大勝負です。このために、やりたいことも我慢してつらい試験勉強を続けてきました。体調管理も十分にしてきたはずです。いよいよ試験が始まって、一秒でも時間が惜しい。それなのに、トイレに行きたくなるんですね。我慢しようとしても、試験に集中できなくなるから、行かざるをえない。私の会場でも4、5人いました。なぜそうなるかと言うと、生命システムがオートポイエーシス・システムでその作動が自律的だから。認識システムの言うことを完全には聞いてくれず、自分の都合で動くわけです。しかも、認識システムの状態、例えば緊張から、受けてほしくない攪乱を受けてしまう。結局、自分の体は自分の思い通りにはならないのです。
試験はまた、認識システムそのもののオートポイエーシスも思い知らせてくれます。それは、システムの現在の作動が次の作動を確定できないこと。試験問題を読みます。ああ、あれだとわかる。あの時読んだ参考書のあの辺に書いてあったということも思い出せる。練習問題でやったときは確かにできていた。ところが、どうしても出てこない!認識システムはその概念コード・ネットワークをその都度その都度書き換えています。このとき、いったんは習得した特定の概念コードだけが欠落してしまうということがしばしば起こる。概念コードが欠落しているので、対応する表象が産出できない、つまり思い出せない。いわゆるど忘れというやつです。残っているネットワークの周辺から思い出していくと思いだせることもあるのですが、どうしても思い出せないこともある。後になってからあっさり思い出せることもあるんですけど。つまり、思い出そうとすることが、思い出せるかどうかを決定できないんですね。認識システムの作動は自分の過去の作動からも自律しているのであり、作動のその都度にしか決まらないんです。そうでなく、思い出そうとしたことがすべて思い出せるなら、誰も試験で苦労しなくて済むんですけどね。
そもそも試験では何をやっているのか?この問いにオートポイエーシス論から答えるとこうなります。認識システムの概念コード・ネットワークの構築が、リクエスト・スタンダードに達しているかどうかを抜き取り検査している。要求された概念コードを作動させられたか否か?合否の二項性がここで決まります。本来ならネットワーク全体について検査したいんですが、そんな時間はとてもありませんから、特定の概念コードの作動を確認することで、ネットワークの構築具合を推定しているわけです。ですから、その判定は完全なものではありません。一夜漬けでヤマが当たれば、試験が終わってすぐに忘れてしまっても、その点ではリクエストをクリアしたことになるわけです。たとえ、試験に出なかった他のことはまったく覚えていなかったとしても、ネットワーク全体の構築としてリクエスト・スタンダードをクリアしていると見なされ、合格してしまう。ましてセンター試験はマークシートですから、選択問題では、ただの勘でも、鉛筆を転がしても、正解してしまうことはありうる。それでも、他に方法は無いんですね。認識システムの概念コード・ネットワークは外からは見えませんから、実際に作動させることによって概念コードの存在を確かめるしかないわけです。センター試験が終われば二次試験。受験生の皆さん、がんばってください。
なぜ試験とオートポイエーシスなのか?それは試験ほど、人間のオートポイエーシスを実感させられるものはあまりないと言えるから。センター試験、大学の合格がかかっています。それで人生がすべて決まってしまうわけではないものの、一応人生のかかった大勝負です。このために、やりたいことも我慢してつらい試験勉強を続けてきました。体調管理も十分にしてきたはずです。いよいよ試験が始まって、一秒でも時間が惜しい。それなのに、トイレに行きたくなるんですね。我慢しようとしても、試験に集中できなくなるから、行かざるをえない。私の会場でも4、5人いました。なぜそうなるかと言うと、生命システムがオートポイエーシス・システムでその作動が自律的だから。認識システムの言うことを完全には聞いてくれず、自分の都合で動くわけです。しかも、認識システムの状態、例えば緊張から、受けてほしくない攪乱を受けてしまう。結局、自分の体は自分の思い通りにはならないのです。
試験はまた、認識システムそのもののオートポイエーシスも思い知らせてくれます。それは、システムの現在の作動が次の作動を確定できないこと。試験問題を読みます。ああ、あれだとわかる。あの時読んだ参考書のあの辺に書いてあったということも思い出せる。練習問題でやったときは確かにできていた。ところが、どうしても出てこない!認識システムはその概念コード・ネットワークをその都度その都度書き換えています。このとき、いったんは習得した特定の概念コードだけが欠落してしまうということがしばしば起こる。概念コードが欠落しているので、対応する表象が産出できない、つまり思い出せない。いわゆるど忘れというやつです。残っているネットワークの周辺から思い出していくと思いだせることもあるのですが、どうしても思い出せないこともある。後になってからあっさり思い出せることもあるんですけど。つまり、思い出そうとすることが、思い出せるかどうかを決定できないんですね。認識システムの作動は自分の過去の作動からも自律しているのであり、作動のその都度にしか決まらないんです。そうでなく、思い出そうとしたことがすべて思い出せるなら、誰も試験で苦労しなくて済むんですけどね。
そもそも試験では何をやっているのか?この問いにオートポイエーシス論から答えるとこうなります。認識システムの概念コード・ネットワークの構築が、リクエスト・スタンダードに達しているかどうかを抜き取り検査している。要求された概念コードを作動させられたか否か?合否の二項性がここで決まります。本来ならネットワーク全体について検査したいんですが、そんな時間はとてもありませんから、特定の概念コードの作動を確認することで、ネットワークの構築具合を推定しているわけです。ですから、その判定は完全なものではありません。一夜漬けでヤマが当たれば、試験が終わってすぐに忘れてしまっても、その点ではリクエストをクリアしたことになるわけです。たとえ、試験に出なかった他のことはまったく覚えていなかったとしても、ネットワーク全体の構築としてリクエスト・スタンダードをクリアしていると見なされ、合格してしまう。ましてセンター試験はマークシートですから、選択問題では、ただの勘でも、鉛筆を転がしても、正解してしまうことはありうる。それでも、他に方法は無いんですね。認識システムの概念コード・ネットワークは外からは見えませんから、実際に作動させることによって概念コードの存在を確かめるしかないわけです。センター試験が終われば二次試験。受験生の皆さん、がんばってください。
2012年01月13日
『ソフィーの世界』(2)
久々ですが、『ソフィーの世界』からのエントリーの二回目です。ソフィーが受け取った二番目の手紙に書いてあった問題は、「世界はどこからきた?」というもの。小説の中では、種明かしとも絡む、割に意味深な問題なんですけどね。オートポイエーシス論から、この問題を考えてみます。
まず、オートポイエーシス論において「世界」とは、ルーマンが考えた概念です。その定義は、「システムと環境の統一」。オートポイエーシス・システムは自分自身を、自分以外のものである環境から区別して成立します。言い換えれば、一切のものはシステムとその環境に二分されるわけです。したがって、ルーマンの言う世界は、システムと環境の分離以前、つまり存在する一切のものを指すことになります。まあ、私としては、「全一」として欲しかった気はするんですけど。ここであらためて上述の問いに答えるなら、世界は常に先にあった、という答えになります。要は、世界とはどこからも来ることができないもの、無かったということの不可能なものだということ。ビッグバン宇宙理論によれば、この宇宙は百四十億年ほど前に誕生したことになっていますが、ここで言う世界から見れば、それは世界の中における変化にすぎません。世界に始まりはないのです。なぜなら、すべては世界において、その変化として、より正確には差異化として始まるのですから。
にもかかわらず、世界の始まりを考える議論が多いのはなぜか?カントの純粋理性の第一アンチノミーも世界の始原を問うものでした。ギリシア神話はカオスからのコスモスの誕生を説き、キリスト教も神による世界の創造を説きます。考えられる答えは、世界をシステムと同一視してしまう傾向が人間の認識システムにはある、ということ。実を言うと、観察者の視点からはこの意味での世界は把握できません。観察者が何かを把握しようとすれば、どうしてもそれを対象として立ててしまうことになるのです。しかも、それと同時に、何かとして見てしまうことにもなります。ところが、定義からわかるように、世界とはまだ何でもないのですよ。それを無理に何かと見てしまうため、観察者からはシステムであるかのように見られやすいんです。こうなってしまえば、オートポイエーシス・システムは必ず始原をもちますから、類推によって世界にも始原が考えられることになるのですね。よく考えれば、始原が可能であるためには先行して何らかの場所がなければならず、それが世界なんですけど。始まりも変化であって、すべての変化は世界の変化そのものなんです。だから、世界が無いということは不可能なんですね。それがどんなあり方であれ。
ですから、「世界はどこからきた?」というのは答えのない偽問題です。ソフィーが「いやんなっちゃう」のも無理はありません。
まず、オートポイエーシス論において「世界」とは、ルーマンが考えた概念です。その定義は、「システムと環境の統一」。オートポイエーシス・システムは自分自身を、自分以外のものである環境から区別して成立します。言い換えれば、一切のものはシステムとその環境に二分されるわけです。したがって、ルーマンの言う世界は、システムと環境の分離以前、つまり存在する一切のものを指すことになります。まあ、私としては、「全一」として欲しかった気はするんですけど。ここであらためて上述の問いに答えるなら、世界は常に先にあった、という答えになります。要は、世界とはどこからも来ることができないもの、無かったということの不可能なものだということ。ビッグバン宇宙理論によれば、この宇宙は百四十億年ほど前に誕生したことになっていますが、ここで言う世界から見れば、それは世界の中における変化にすぎません。世界に始まりはないのです。なぜなら、すべては世界において、その変化として、より正確には差異化として始まるのですから。
にもかかわらず、世界の始まりを考える議論が多いのはなぜか?カントの純粋理性の第一アンチノミーも世界の始原を問うものでした。ギリシア神話はカオスからのコスモスの誕生を説き、キリスト教も神による世界の創造を説きます。考えられる答えは、世界をシステムと同一視してしまう傾向が人間の認識システムにはある、ということ。実を言うと、観察者の視点からはこの意味での世界は把握できません。観察者が何かを把握しようとすれば、どうしてもそれを対象として立ててしまうことになるのです。しかも、それと同時に、何かとして見てしまうことにもなります。ところが、定義からわかるように、世界とはまだ何でもないのですよ。それを無理に何かと見てしまうため、観察者からはシステムであるかのように見られやすいんです。こうなってしまえば、オートポイエーシス・システムは必ず始原をもちますから、類推によって世界にも始原が考えられることになるのですね。よく考えれば、始原が可能であるためには先行して何らかの場所がなければならず、それが世界なんですけど。始まりも変化であって、すべての変化は世界の変化そのものなんです。だから、世界が無いということは不可能なんですね。それがどんなあり方であれ。
ですから、「世界はどこからきた?」というのは答えのない偽問題です。ソフィーが「いやんなっちゃう」のも無理はありません。
2012年01月06日
新年再考
新年あけましておめでとうございます。帰省していた実家から戻って、本年最初のエントリーです。今年の抱負としては、できれば『オートポイエーシスの宗教』書き上げて、出版社見つけるくらいまではいきたいですね。大学も引越しなんでバタバタしそうですし、二月には学会発表一つ入っているし、ようやく三月に刊行されそうな『カントを学ぶ人のために』(世界思想社)の再校はあるしで、いろいろと忙しい一年になるかもしれませんが。今回のエントリーでは新年について、オートポイエーシス論から再考してみます。
新年とは何なのか?まず言えることは、これは風土システムの現象だということ。自然現象として見れば、地球が太陽の周りを一定周期で公転しているというだけです。それには始点はありません。たまたま地軸が24,3度傾いているため、日の出の位置で、公転軌道を一周して来たことだけはすぐにわかりますが。どこを始点として一年の始まりを考えるか、それはあくまでも、風土システムが自律的に決めることです。このため、旧暦、新暦、イスラム歴など、暦によって一年の起算点、つまり新年は異なります。さらに、新年をどう過ごすかも、風土システムのコミュニケーションに他なりません。したがって、システムによって、新年の過ごし方は変わってきます。キリスト教圏では、新年の特別な行事というのはそれほどなく、主眼はクリスマス行事に置かれています。これに対し、日本では日付こそ新暦に変わりましたが、新年の行事が中心と言えるでしょう。
初詣、年賀状、お節料理、お餅、お年玉、正月飾り等々、日本の正月行事は多様です。ただし、これらの行事すべて、風土システムの自律性のみに基づいています。ということは、言い換えれば、何ら必然性はないということです。いろいろと理屈はついていますが、結局はいつか誰かが始め、それを周囲が真似て、だんだんに形が変わり、いつか日本の風土システムの共通行事として、つまり組織システムとしての日本の文化として定着したのですね。ただし、現在のようでなければならない積極的な理由は何一つないわけです。実際、年賀状一つとっても、お年玉付き年賀ハガキが用いられるようになったのは、日本史的に見ればつい最近でしょうし、それ以降もインクジェット対応や写真対応のハガキが使われるようになっています。手書きだけでなくなり、ワープロ打ちや写真印刷がほとんどになってきました。それどころか、年賀状でなく年賀メールで済ます人も増えているようで。時代とともに、風土システムの構造的ドリフトによって変化していくわけです。
近年では、元日は実業団駅伝と天皇杯決勝、二日、三日は箱根駅伝ということになっていますが、直接見に行く人や参加する人、関係者を除けば、一般の日本人がそれらを見るのはテレビを通してです。すなわち、技術システムの産物によって、風土システムのコミュニケーションも変わってくるということ。テレビのない頃の新年ってどんなだったんでしょうか?今とはかなり違っていたでしょうね。年賀状のあり方も、筆ペンやワープロ、プリンターの登場と進化によって規定されていると言えるのです。ちなみに、駅伝やサッカーのルールも時代によって変わっています。競技の社会的な意味も。箱根駅伝も昔はここまで大きな行事ではなかったでしょう。それらはすべて、風土システムの構造的ドリフトの結果です。ただし、それは、だからどうにでも変えられるということではありません。構造的ドリフトの結果ですから、それはあくまでもシステムの自律性に任されています。言い換えれば、どう変化するかは誰にも決めることができません。新しいコミュニケーション・コードが提起されたとき、それが模倣者を得て社会全体に広がり、文化となるかどうかは誰にも決められないのです。したがって、いつかは現在の正月行事の姿は大きく変わっていくかもしれません。
新年とは何なのか?まず言えることは、これは風土システムの現象だということ。自然現象として見れば、地球が太陽の周りを一定周期で公転しているというだけです。それには始点はありません。たまたま地軸が24,3度傾いているため、日の出の位置で、公転軌道を一周して来たことだけはすぐにわかりますが。どこを始点として一年の始まりを考えるか、それはあくまでも、風土システムが自律的に決めることです。このため、旧暦、新暦、イスラム歴など、暦によって一年の起算点、つまり新年は異なります。さらに、新年をどう過ごすかも、風土システムのコミュニケーションに他なりません。したがって、システムによって、新年の過ごし方は変わってきます。キリスト教圏では、新年の特別な行事というのはそれほどなく、主眼はクリスマス行事に置かれています。これに対し、日本では日付こそ新暦に変わりましたが、新年の行事が中心と言えるでしょう。
初詣、年賀状、お節料理、お餅、お年玉、正月飾り等々、日本の正月行事は多様です。ただし、これらの行事すべて、風土システムの自律性のみに基づいています。ということは、言い換えれば、何ら必然性はないということです。いろいろと理屈はついていますが、結局はいつか誰かが始め、それを周囲が真似て、だんだんに形が変わり、いつか日本の風土システムの共通行事として、つまり組織システムとしての日本の文化として定着したのですね。ただし、現在のようでなければならない積極的な理由は何一つないわけです。実際、年賀状一つとっても、お年玉付き年賀ハガキが用いられるようになったのは、日本史的に見ればつい最近でしょうし、それ以降もインクジェット対応や写真対応のハガキが使われるようになっています。手書きだけでなくなり、ワープロ打ちや写真印刷がほとんどになってきました。それどころか、年賀状でなく年賀メールで済ます人も増えているようで。時代とともに、風土システムの構造的ドリフトによって変化していくわけです。
近年では、元日は実業団駅伝と天皇杯決勝、二日、三日は箱根駅伝ということになっていますが、直接見に行く人や参加する人、関係者を除けば、一般の日本人がそれらを見るのはテレビを通してです。すなわち、技術システムの産物によって、風土システムのコミュニケーションも変わってくるということ。テレビのない頃の新年ってどんなだったんでしょうか?今とはかなり違っていたでしょうね。年賀状のあり方も、筆ペンやワープロ、プリンターの登場と進化によって規定されていると言えるのです。ちなみに、駅伝やサッカーのルールも時代によって変わっています。競技の社会的な意味も。箱根駅伝も昔はここまで大きな行事ではなかったでしょう。それらはすべて、風土システムの構造的ドリフトの結果です。ただし、それは、だからどうにでも変えられるということではありません。構造的ドリフトの結果ですから、それはあくまでもシステムの自律性に任されています。言い換えれば、どう変化するかは誰にも決めることができません。新しいコミュニケーション・コードが提起されたとき、それが模倣者を得て社会全体に広がり、文化となるかどうかは誰にも決められないのです。したがって、いつかは現在の正月行事の姿は大きく変わっていくかもしれません。
2011年12月23日
模擬裁判
先日、愛知大学の模擬裁判に参加してきました。学生が主体で行う行事ですが、事件の再現VTRあり、裁判員は一般から実際に公募、法廷教室使用、パンフレット配布となかなか本格的で、一般客もかなり来ていましたね。愛知大学の法学部が行う恒例行事で、大学の宣伝にもけっこう役に立っているとか。参加する学生にとっては単位にもなるので、かなり気合が入るらしいです。プログラムは、まず裁判で使う法律概念の解説、事件の再現VTR上映、模擬裁判、時間つなぎの小話が入って判決という順序。被告役の女学生の演技はかなりのレベルでしたね。模擬裁判はかなり本格的で、まず冒頭手続きに人定質問、起訴状朗読、黙秘権の告知、罪状認否、続いて証拠調べ手続きでは冒頭陳述、公判前整理手続きの結果の顕出、証拠調べ、証人尋問、被告人質問で、証拠にはちゃんと番号がつけられ、証人はきちんと人定質問を受け宣誓しなければなりません。さらに弁論手続きで論告・求刑、弁護人の最終弁論、被告人の最終陳述、結審まですべて実際通りに行われます。実際の裁判と違うのは、背後のスクリーンに解説が入ることと、裁判員の評議が投票以外公開になること、評議は何とアドリブだそうで。そして、傍聴人となる観客がアンケートで有罪無罪の判断を問われることですね。ちなみに判決は裁判員、観客とも無罪でした。小話が、法律をテーマにしてという縛りつきで時間つなぎのためとは言え、かなり寒かったのだけが残念。
さて、もちろん裁判とは法システムの産出する構造の一種です。ここで産出される法コミュニケーションは、別のコミュニケーションに言及し、その有罪と無罪を区別します。ここで注意しなければならないのは、この際、そのコミュニケーションの送り手が誰であり、つまり誰がその行為者であるか、そしてそれが法的に見て合法であるか違法であるかという二重の帰責になること。そして、行為者は、法コミュニケーションにおいて初めて帰責されることです。あえて言うなら、法コミュニケーションにおいては、実際に何が起こったかは関係ありません。法コミュニケーションにおいてそう認定された人が法律上の行為者になるだけです。この認定、必ずしも現実に起きたことと一致していないのは、評議における裁判員の判断の割れ方を見ているとよくわかります。もし一致しているなら、そもそも判断が割れるということはありえませんから。もう一つ決定的なことは、判断が割れているとは、数人の判断が逆であれば、全体の判断も逆になった可能性を示唆していることです。私なりに事件を分析してみましたが、それと比べると説得力に欠ける見解もかなり出されました。それでも、私自身の判断も無罪だったので、結果は合ったんですけどね。
また、有罪無罪の法的帰責は、法の範囲でのみ下されます。対応する法がない限り、何をやろうと無罪です。したがって、裁判で問われるのは、法の範囲に収まっているかどうかだけ。ここでややこしいのが法の条文の書き方です。言語である以上不可避ではあるんですが、解釈の余地があまりに広い。条文の書き方が割に無神経で、可能性は低くても起きうるケースというのを考慮していない場合、まさにそのケースが起きてしまうと実に面倒なことになります。面白いことに、やっぱりこうなると法律家の間でも判断が分かれるんですよ。言い換えれば、実際に下される判決に、確実な根拠などない!ということです。裁判官や裁判員が、法の条文をどう解釈したか?これ以外に判決の根拠は一切ないんです。だから、日本のように複数審制をとっている場合には、同じ事件で同じ法律なのに、判決がひっくり返ることがあるんですね。
それでは、メリー・クリスマス!Frohe Weihnachten!
さて、もちろん裁判とは法システムの産出する構造の一種です。ここで産出される法コミュニケーションは、別のコミュニケーションに言及し、その有罪と無罪を区別します。ここで注意しなければならないのは、この際、そのコミュニケーションの送り手が誰であり、つまり誰がその行為者であるか、そしてそれが法的に見て合法であるか違法であるかという二重の帰責になること。そして、行為者は、法コミュニケーションにおいて初めて帰責されることです。あえて言うなら、法コミュニケーションにおいては、実際に何が起こったかは関係ありません。法コミュニケーションにおいてそう認定された人が法律上の行為者になるだけです。この認定、必ずしも現実に起きたことと一致していないのは、評議における裁判員の判断の割れ方を見ているとよくわかります。もし一致しているなら、そもそも判断が割れるということはありえませんから。もう一つ決定的なことは、判断が割れているとは、数人の判断が逆であれば、全体の判断も逆になった可能性を示唆していることです。私なりに事件を分析してみましたが、それと比べると説得力に欠ける見解もかなり出されました。それでも、私自身の判断も無罪だったので、結果は合ったんですけどね。
また、有罪無罪の法的帰責は、法の範囲でのみ下されます。対応する法がない限り、何をやろうと無罪です。したがって、裁判で問われるのは、法の範囲に収まっているかどうかだけ。ここでややこしいのが法の条文の書き方です。言語である以上不可避ではあるんですが、解釈の余地があまりに広い。条文の書き方が割に無神経で、可能性は低くても起きうるケースというのを考慮していない場合、まさにそのケースが起きてしまうと実に面倒なことになります。面白いことに、やっぱりこうなると法律家の間でも判断が分かれるんですよ。言い換えれば、実際に下される判決に、確実な根拠などない!ということです。裁判官や裁判員が、法の条文をどう解釈したか?これ以外に判決の根拠は一切ないんです。だから、日本のように複数審制をとっている場合には、同じ事件で同じ法律なのに、判決がひっくり返ることがあるんですね。
それでは、メリー・クリスマス!Frohe Weihnachten!
2011年12月16日
病気と薬
二週間ほど前に体調崩しまして、咳が止まらないところで、無理に月曜、火曜と講義をやって、翌日午前中に医者へ行ったら、風邪どころか肺炎と診断されてしまい、ほぼ毎日通って抗生物質の点滴を受けるという話になってしまいました。そのため、非常勤講師時代からも人生はじめての休講で、一月に補講をやる羽目に。たくさん薬を飲んで、やっと回復して今週から大学の講義も再開できました。という実体験から、あらためて病気と薬について、オートポイエーシス論的に再考してみたのが、今回の久しぶりのエントリーです。
病気とは何なのか?これをオートポイエーシス論からあらためて定義してみると、病原菌などによる環境の変化から相互浸透を介して攪乱を受け、通常とは異なる、その相互浸透下で可能な作動を強いられている生命システムの作動状態、となります。ここで変化しているのは、基本的に身体の細胞システムです。高分子化学反応のネットワーク閉域であるシステムの作動が病原菌という化学物質の介入により変形を起こすか、オートポイエーシス維持できなくなって破綻消失するかしてしまっています。結果として、細胞システムの構造を素材として成り立つ、生命システムの構成素である生体器官が機能低下を起こし、それによって通常の生命システムの作動は不可能になっているのです。かろうじてオートポイエーシスは維持されていますが、その代わり、無理な作動、普段なら必要のない作動を強いられることになります。この結果が、熱が出る、咳が止まらない、下痢をするといった身体症状ですね。悪寒や痛み、疲労感などは、生命システムのそうした状態から、認識システムが受けている攪乱です。
ただし、こうした無理な作動は一方で、ダメージを受けている細胞システムへ攪乱を与え、通常作動へ戻そうという、生命システムの努力でもあるわけです。たとえば咳は、肺や器官の異物を排除しようとする作用です。でありながら、咳が続けば今度は眠れないという形で、それ自体が生命システムの作動にダメージを与えてしまうこともあるから厄介です。発熱も同じで、それ自身は可能な作動として仕方ないにしても、上がりすぎた体温は、今度はそれ自体が身体の他の生命器官にとって、ダメージをもたらすものでもあります。なぜそうなるかと言うと、生命システムの作動の自律性は、自分自身のオートポイエーシス維持からさえ、基本的には独立であるため。システムはオートポイエーシス維持できている範囲で存続できるのですが、だからと言ってオートポイエーシス維持を目的として、そのために作動しているわけではありません。そのため、作動の仕方によっては、ましてやその可能性が環境によって通常と異なる範囲で制限された場合、システム自身が、オートポイエーシスの維持を困難とすることも十分ありうるのです。
そこで病気の治療に際しては、対症療法というものが必要になってきます。つまり、症状そのものを緩和しうる化学物質、つまり薬を飲むことです。究極的に生命システムは細胞システムの構造的カップリングに基づいており、つまり細胞システムの産出プロセスである化学反応に干渉する化学物質の干渉を受けるわけで、そうした化学物質がすなわち薬です。病原菌と薬の違いは、干渉の方向性だけと言っていいでしょう。対症療法に対して、作動異常を起こしている生体器官の細胞システムおよび異常の原因となっている病原菌に直接働きかける薬も考えられます。抗生物質などはそうした薬と考えられます。無論、薬が効くかどうかは攪乱ですから、生命システムの作動次第です。したがって、ある人に効いた薬が別の人には全く効かない、それどころか毒になることすらありえます。しかもこれって、事前に調べてわかることではなく、薬を使って初めてわかることなんです。予防注射の副作用で亡くなるなどはこのケースで、実のところ、完全に防ぐ手はないんですよ。
病気とは何なのか?これをオートポイエーシス論からあらためて定義してみると、病原菌などによる環境の変化から相互浸透を介して攪乱を受け、通常とは異なる、その相互浸透下で可能な作動を強いられている生命システムの作動状態、となります。ここで変化しているのは、基本的に身体の細胞システムです。高分子化学反応のネットワーク閉域であるシステムの作動が病原菌という化学物質の介入により変形を起こすか、オートポイエーシス維持できなくなって破綻消失するかしてしまっています。結果として、細胞システムの構造を素材として成り立つ、生命システムの構成素である生体器官が機能低下を起こし、それによって通常の生命システムの作動は不可能になっているのです。かろうじてオートポイエーシスは維持されていますが、その代わり、無理な作動、普段なら必要のない作動を強いられることになります。この結果が、熱が出る、咳が止まらない、下痢をするといった身体症状ですね。悪寒や痛み、疲労感などは、生命システムのそうした状態から、認識システムが受けている攪乱です。
ただし、こうした無理な作動は一方で、ダメージを受けている細胞システムへ攪乱を与え、通常作動へ戻そうという、生命システムの努力でもあるわけです。たとえば咳は、肺や器官の異物を排除しようとする作用です。でありながら、咳が続けば今度は眠れないという形で、それ自体が生命システムの作動にダメージを与えてしまうこともあるから厄介です。発熱も同じで、それ自身は可能な作動として仕方ないにしても、上がりすぎた体温は、今度はそれ自体が身体の他の生命器官にとって、ダメージをもたらすものでもあります。なぜそうなるかと言うと、生命システムの作動の自律性は、自分自身のオートポイエーシス維持からさえ、基本的には独立であるため。システムはオートポイエーシス維持できている範囲で存続できるのですが、だからと言ってオートポイエーシス維持を目的として、そのために作動しているわけではありません。そのため、作動の仕方によっては、ましてやその可能性が環境によって通常と異なる範囲で制限された場合、システム自身が、オートポイエーシスの維持を困難とすることも十分ありうるのです。
そこで病気の治療に際しては、対症療法というものが必要になってきます。つまり、症状そのものを緩和しうる化学物質、つまり薬を飲むことです。究極的に生命システムは細胞システムの構造的カップリングに基づいており、つまり細胞システムの産出プロセスである化学反応に干渉する化学物質の干渉を受けるわけで、そうした化学物質がすなわち薬です。病原菌と薬の違いは、干渉の方向性だけと言っていいでしょう。対症療法に対して、作動異常を起こしている生体器官の細胞システムおよび異常の原因となっている病原菌に直接働きかける薬も考えられます。抗生物質などはそうした薬と考えられます。無論、薬が効くかどうかは攪乱ですから、生命システムの作動次第です。したがって、ある人に効いた薬が別の人には全く効かない、それどころか毒になることすらありえます。しかもこれって、事前に調べてわかることではなく、薬を使って初めてわかることなんです。予防注射の副作用で亡くなるなどはこのケースで、実のところ、完全に防ぐ手はないんですよ。
2011年11月25日
サッカーと相互浸透
このところ、サッカーの代表選がアウェーで続きました。A代表はタジキスタンと北朝鮮、U22代表はバーレーンで。その試合を見ていて、オートポイエーシスの相互浸透概念の説明にいいんじゃないかな、と思ったので、このエントリーです。
そもそもオートポイエーシス論的に見るなら、サッカーとはパスというコミュニケーションを連鎖させる社会システムになります。しかも、パスは一つのチームという組織システムによって産出されたもの、言い換えれば、味方同士の間のものでなければなりません。敵はこのコミュニケーションに破壊的影響を与えて連鎖を断ち切り、自分の味方同士の間のパス・コミュニケーションを産出しようとします。この点から見ると、サッカーは組織システムである二つのチームの間のコミュニケーションでもあるのです。このサッカー・システムもその環境と相互浸透しています。環境に属するものとしては、選手のシステム、ピッチ、気象、観客などが挙げられるでしょう。これらの環境は、システムが作動している間中ずっと、システムに攪乱を与え続けます。言い換えれば、システムはそれを織り込んだ作動しかできません。したがって、どれが攪乱によるかは特定できないものの、試合展開に与える影響は、想像されるより大きいのです。
では上記の三試合ではどうだったか?アウェーのタジキスタン戦で試合に影響を与えた環境は、主にピッチでした。まるで畑のような、ところどころ芝がはげたピッチ。これが日本のようなパス・サッカーを本領とするチームに対して、マイナスの攪乱を与えたことは間違いありません。なにしろボールがまっすぐ転がらないんですから。そして選手のシステムという観点から見れば、そういうピッチに慣れているかどうか?ということが影響します。当然、ホームのチームの選手の方が慣れているわけです。日本のホームで8−0だったものが、アウェーでは0−4というのがまさに、こうした相互浸透の結果です。
次にアウェーの北朝鮮戦では、人工芝のピッチと観客が大きな攪乱を与えたようです。人工芝のピッチは、天然芝のピッチと比べて下が固いので、ボールがよく跳ねます。その分、ボール・コントロールは難しくなるわけです。そこに、選手のシステムのピッチへの慣れという要素が加わります。日本のように天然芝に慣れている選手からすれば、ボールのバウンドが違うため、ボール・コントロールの感覚と、ボールとの距離感が狂っているのが明らかでした。しかも、北朝鮮は、ドイツでプレーする選手を早めに交代させ、Jリーグ所属選手をベンチに置いてまで、人工芝に慣れている選手を使ってきましたからね。そして観客です。テレビ観戦していただけのこちらまで異様な雰囲気を感じたほどですから、実際に試合場にいた日本の選手たちが違和感を覚えたことは間違いありません。そしてそれは逆に、北朝鮮の選手にはプラスの攪乱となったでしょう。特に、北朝鮮は予選敗退が決まっていましたから、声援がプレッシャーとしてマイナスに働くこともほとんどなかったでしょうし。これらに、勝つ気のなかったザッケローニ監督の采配が加わった結果が、1−0の敗北であったわけです。
最後に、U22代表のアウェーのバーレーン戦で大きな攪乱を与えたのは、気象という環境でした。試合場に非常に強い風が吹いていたのです。そのために、風上へ向かって蹴れば、ボールが押し戻され、風下へ向かって蹴れば、ボールが異常に伸びるという状態でした。しかも、試合中ずっと吹き続けたようで、ということは、すべてのパスがこの風によるバイアスを受けていたことになります。そのため、ボールの予測が狂い、パスが実につながりにくい試合になっていました。しかも、試合中に年間でも10日しか降らないという雨が降るなど、この気象にはバーレーンの選手も慣れていなかったらしく、一番大きな攪乱を受けていたのは、面白いことにバーレーンのキーパーでしたね。特に日本の先制点は、明らかなバーレーンキーパーによるボール落下点の読み間違いのミスからです。そして、試合からは直接わかりませんでしたが、どうやらバーレーンという国家システム、言い換えればバーレーンの政情も、やはり攪乱を与えていたらしいですね。バーレーンの主力選手の何人かは、反政府的言動のために投獄されたり国外追放されていて出場できなかったとか。これらに本来の実力差が加わって0−2で日本の勝利となったということ。次はホームのシリア戦、日本に不利な攪乱はほとんどないはずですので、勝ってほしいものです。
そもそもオートポイエーシス論的に見るなら、サッカーとはパスというコミュニケーションを連鎖させる社会システムになります。しかも、パスは一つのチームという組織システムによって産出されたもの、言い換えれば、味方同士の間のものでなければなりません。敵はこのコミュニケーションに破壊的影響を与えて連鎖を断ち切り、自分の味方同士の間のパス・コミュニケーションを産出しようとします。この点から見ると、サッカーは組織システムである二つのチームの間のコミュニケーションでもあるのです。このサッカー・システムもその環境と相互浸透しています。環境に属するものとしては、選手のシステム、ピッチ、気象、観客などが挙げられるでしょう。これらの環境は、システムが作動している間中ずっと、システムに攪乱を与え続けます。言い換えれば、システムはそれを織り込んだ作動しかできません。したがって、どれが攪乱によるかは特定できないものの、試合展開に与える影響は、想像されるより大きいのです。
では上記の三試合ではどうだったか?アウェーのタジキスタン戦で試合に影響を与えた環境は、主にピッチでした。まるで畑のような、ところどころ芝がはげたピッチ。これが日本のようなパス・サッカーを本領とするチームに対して、マイナスの攪乱を与えたことは間違いありません。なにしろボールがまっすぐ転がらないんですから。そして選手のシステムという観点から見れば、そういうピッチに慣れているかどうか?ということが影響します。当然、ホームのチームの選手の方が慣れているわけです。日本のホームで8−0だったものが、アウェーでは0−4というのがまさに、こうした相互浸透の結果です。
次にアウェーの北朝鮮戦では、人工芝のピッチと観客が大きな攪乱を与えたようです。人工芝のピッチは、天然芝のピッチと比べて下が固いので、ボールがよく跳ねます。その分、ボール・コントロールは難しくなるわけです。そこに、選手のシステムのピッチへの慣れという要素が加わります。日本のように天然芝に慣れている選手からすれば、ボールのバウンドが違うため、ボール・コントロールの感覚と、ボールとの距離感が狂っているのが明らかでした。しかも、北朝鮮は、ドイツでプレーする選手を早めに交代させ、Jリーグ所属選手をベンチに置いてまで、人工芝に慣れている選手を使ってきましたからね。そして観客です。テレビ観戦していただけのこちらまで異様な雰囲気を感じたほどですから、実際に試合場にいた日本の選手たちが違和感を覚えたことは間違いありません。そしてそれは逆に、北朝鮮の選手にはプラスの攪乱となったでしょう。特に、北朝鮮は予選敗退が決まっていましたから、声援がプレッシャーとしてマイナスに働くこともほとんどなかったでしょうし。これらに、勝つ気のなかったザッケローニ監督の采配が加わった結果が、1−0の敗北であったわけです。
最後に、U22代表のアウェーのバーレーン戦で大きな攪乱を与えたのは、気象という環境でした。試合場に非常に強い風が吹いていたのです。そのために、風上へ向かって蹴れば、ボールが押し戻され、風下へ向かって蹴れば、ボールが異常に伸びるという状態でした。しかも、試合中ずっと吹き続けたようで、ということは、すべてのパスがこの風によるバイアスを受けていたことになります。そのため、ボールの予測が狂い、パスが実につながりにくい試合になっていました。しかも、試合中に年間でも10日しか降らないという雨が降るなど、この気象にはバーレーンの選手も慣れていなかったらしく、一番大きな攪乱を受けていたのは、面白いことにバーレーンのキーパーでしたね。特に日本の先制点は、明らかなバーレーンキーパーによるボール落下点の読み間違いのミスからです。そして、試合からは直接わかりませんでしたが、どうやらバーレーンという国家システム、言い換えればバーレーンの政情も、やはり攪乱を与えていたらしいですね。バーレーンの主力選手の何人かは、反政府的言動のために投獄されたり国外追放されていて出場できなかったとか。これらに本来の実力差が加わって0−2で日本の勝利となったということ。次はホームのシリア戦、日本に不利な攪乱はほとんどないはずですので、勝ってほしいものです。
2011年11月18日
気とオートポイエーシス
まずはサッカーネタ。日本代表はW杯ブラジル大会アジア三次予選第四戦アウェーのタジキスタン戦を0−4で快勝し、最終予選進出を決めました。畑同然のピッチに慣れるまで少し苦戦しましたが、それはしょうがないでしょう。第五戦アウェーの北朝鮮戦は1−0で敗北。もっとも、中三日でスタメンを6人替えた上、リードされても主力を投入しないという、明らかに負けを織り込んだ采配でした。すでに消化試合ですから、最終予選に備えて控え組に厳しい試合を経験させておこうということでしょうね。ザッケローニというのは怖い監督です。それだけならまだ引き分けたかもしれませんが、スタジアムのピッチは人工芝。明らかに相手の選手は慣れており、日本代表はボールの処理に苦労してました。特にボールのバウンドの感覚が違うのが大変だったようです。実際、北朝鮮は明らかに技術的には上であろうJリーグ所属の選手を使っていません。人工芝に慣れている選手で固めていたものと思われます。そして、さすがホームということでしょうか、消化試合であったにもかかわらず、相手の選手の気迫はすさまじいものがありました。もしかすると、逆に予選敗退が決まって失うものが何もなかったからかもしれませんが。その他、あのスタジアムの異様な雰囲気も大いに影響したでしょう。ピッチや観客はサッカー・システムと相互浸透して攪乱を与えている環境なのです。何にしても、残りはホームのウズベキスタン戦のみ。こちらも最終予選進出を決めているので消化試合。それどころか、タジキスタン戦でイエロー・カード7枚もらって、累積で6選手が出場停止だそうで。もちろん、最終予選にカードを持ち込まないためにわざとです。日本側がどういうメンバーで臨むのか、興味深いところ。
さて本題。ここで言う気は、陰陽五行説の気、特に中国武術で言う気です。実は、河本先生の『臨床するオートポイエーシス』を読んでいて思いついたネタなんですが。河本先生はこの本の中で「身体力感」という概念を導入しています。人間が何か動作をするとき、それを自分自身で感じ取る際に得られる感じと言ったらいいんでしょうか。河本先生流に言うと、動作する身体の中を波の媒体が移動するように動く何か、です。ここを読んで真っ先に思いついたのが、中国武術の身体操作理論。中国武術では、意識的に身体を動かすのではなく、意識によって気を動かすことによって、それで身体が動くのです。陰陽五行説では気体的なイメージで捉えられている気ですが、身体力感の動きと大きく重なります。河本先生は残念ながら認識システムの概念を使わないので、これを使って説明するなら、身体力感とは、生命システムの作動変形が認識システムに与える攪乱の強度と言えるでしょう。中国武術では、動作の際、気は足元から体内を上ることになっています。つまり、身体力感は突きの動作に際して、足の裏が地面を踏みしめているというところから感じ取られ、次に足の筋肉の収縮・伸展とひねりこみ、そして腰のひねり、上体のねじり、肩の回転、上腕の伸展、下腕の伸展、握拳へとまさに波のごとくに流れていくわけです。言い換えるなら、中国武術は身体力感をイメージとして動かすことで身体を動かすのであり、オートポイエーシス論から見て理に適っています。
というのも、これも河本先生の言うように、身体運動そのものをいちいち意識的にコントロールしようとしたら、逆に動きがぎこちなくなるか、動けなくなってしまうから。河本先生がよく挙げる例で、ピアニストが自分の指の動きを一つ一つ意識しようとしていたら、指は止まってしまうはずです。つまり指の動きは一連の連続した動きとして生じなければならないんですね。これも河本先生が挙げる逆上がりの場合でも同じ。身体のそれぞれの部分の動きを意識していたら、まず間違いなく成功しません。要するに、全身のコントロールを、意識から、普段直接には意識できない身体力感に基づくレベルに譲渡さなければならないのですね。これを河本先生は、「できる」レベルと表現しますが。私流に言い換えるなら、生命システムの運動コードの自律的な作動のレベルと言えます。中国武術のように気として身体力感のイメージをコントロールすることは、認識システムからの攪乱を通じて、このレベルに働きかけていることになるのです。身体力感を動かせば、いわば身体は勝手についてきますから。このときには無駄な力が一切抜け、その動作に必要な力のみが出ているはずです。これはやってみればわかります。座った状態からパンチを出すとき、手を伸ばすのではなく、力は抜いたまま肩から腕、拳と通って何かが突き抜けるというイメージをもってみてください。ただし、思っている以上の力が出ますから、肘関節を壊さないように気をつけて!河本先生はこれをリハビリに応用しているようですが、他にも応用できる場面はありそうですね。
さて本題。ここで言う気は、陰陽五行説の気、特に中国武術で言う気です。実は、河本先生の『臨床するオートポイエーシス』を読んでいて思いついたネタなんですが。河本先生はこの本の中で「身体力感」という概念を導入しています。人間が何か動作をするとき、それを自分自身で感じ取る際に得られる感じと言ったらいいんでしょうか。河本先生流に言うと、動作する身体の中を波の媒体が移動するように動く何か、です。ここを読んで真っ先に思いついたのが、中国武術の身体操作理論。中国武術では、意識的に身体を動かすのではなく、意識によって気を動かすことによって、それで身体が動くのです。陰陽五行説では気体的なイメージで捉えられている気ですが、身体力感の動きと大きく重なります。河本先生は残念ながら認識システムの概念を使わないので、これを使って説明するなら、身体力感とは、生命システムの作動変形が認識システムに与える攪乱の強度と言えるでしょう。中国武術では、動作の際、気は足元から体内を上ることになっています。つまり、身体力感は突きの動作に際して、足の裏が地面を踏みしめているというところから感じ取られ、次に足の筋肉の収縮・伸展とひねりこみ、そして腰のひねり、上体のねじり、肩の回転、上腕の伸展、下腕の伸展、握拳へとまさに波のごとくに流れていくわけです。言い換えるなら、中国武術は身体力感をイメージとして動かすことで身体を動かすのであり、オートポイエーシス論から見て理に適っています。
というのも、これも河本先生の言うように、身体運動そのものをいちいち意識的にコントロールしようとしたら、逆に動きがぎこちなくなるか、動けなくなってしまうから。河本先生がよく挙げる例で、ピアニストが自分の指の動きを一つ一つ意識しようとしていたら、指は止まってしまうはずです。つまり指の動きは一連の連続した動きとして生じなければならないんですね。これも河本先生が挙げる逆上がりの場合でも同じ。身体のそれぞれの部分の動きを意識していたら、まず間違いなく成功しません。要するに、全身のコントロールを、意識から、普段直接には意識できない身体力感に基づくレベルに譲渡さなければならないのですね。これを河本先生は、「できる」レベルと表現しますが。私流に言い換えるなら、生命システムの運動コードの自律的な作動のレベルと言えます。中国武術のように気として身体力感のイメージをコントロールすることは、認識システムからの攪乱を通じて、このレベルに働きかけていることになるのです。身体力感を動かせば、いわば身体は勝手についてきますから。このときには無駄な力が一切抜け、その動作に必要な力のみが出ているはずです。これはやってみればわかります。座った状態からパンチを出すとき、手を伸ばすのではなく、力は抜いたまま肩から腕、拳と通って何かが突き抜けるというイメージをもってみてください。ただし、思っている以上の力が出ますから、肘関節を壊さないように気をつけて!河本先生はこれをリハビリに応用しているようですが、他にも応用できる場面はありそうですね。
2011年11月11日
民主主義
時事ネタです。民主主義とは何か?この問いにオートポイエーシス論から答えると、常識とは違う答えが出ます。常識的には国民が決定権をもっている政治制度ということになるでしょうか?その際の決定には多数決が用いられる、となるわけです。ところが、オートポイエーシス論から言うと、民主主義において決定権をもっているのは国民ではないんです。では何か?それは組織システム、国の場合で言えば国家システムそのものです。多数決による投票とは、決定を組織システムの自律性に委ねる方策に他なりません。平たく言うと、投票に国民個人の意志など反映しないんですよ。それはせいぜい、相互浸透を介して攪乱を与えているだけです。システムそのものの自律性に決定を委ねてしまう、しかも、所定の期待された手続きを経ることで。これが民主主義の正体です。その結果としてどうなるか?誰が決めたわけでもありませんから、出てきた決定に反対はできても、否定はできなくなるんです。否定する相手がいませんから。期待された手続きを踏んでいるなら、決定を無効とは言えない。たとえ決定に反対でも、そのように決定されたことには納得せざるをえないわけで、ここに民主主義の政治的安定性があります。これが王政や独裁制の場合、下された決定に対して、決定者の権限を問題にすることで、決定を無効とされる可能性があるのです。言うまでもなく、民主主義のこの安定性を維持しているのは、期待された手続きを踏んでいること。あえて言うなら、民主主義の実体とは手続きなのです。実のところ、多数決はこの手続きの一つのタイプに他なりません。
こんなニュースが入ってきました。
G20で為替介入の説明、消費税引き上げ方針も表明=野田首相
[カンヌ 3日 ロイター] 20カ国・地域(G20)首脳会議に出席している野田佳彦首相は、全体会合初日の討議で、10月31日に3カ月ぶりに行った為替介入について説明し、各国の理解を求めたことを明らかにした。
また、2010年代半ばまでに消費税を段階的に10%まで引き上げるための法案を来年の通常国会に提出する考えを示し、将来の消費税引き上げ方針を国際会議で正式に表明した。カンヌで記者団に語った。
円高への対応について野田首相は「昨今の円高は投機的で無秩序な動きがあるのではないかという懸念を持ち、日本経済の下振れリスクが顕在化する状況が生まれていたことを踏まえて介入を実施した。これは従来からG20で確認してきている過度な変動、無秩序な動きにあたるという認識のもとで行った」と説明したことを明らかにした。これに対して、各国からは「何のコメントもなかった」と語った。
また、消費税率の引き上げに関連して野田首相は「法案を通して、引き上げの実施前に国民に信を問いたい」と述べ、来年1月召集の通常国会で法案を成立させたうえで、引き上げを実施する前に衆議院の解散・総選挙を行う考えをあらためて示した。自民・公明両党は必要な法案を来年の通常国会に提出する前に衆議院の解散・総選挙を行うよう求めているが、野党の主張を退けた。
http://jp.reuters.com/article/forexNews/idJPJAPAN-23988320111104
上記の点から言えば、野田首相のこの発言は論外です。なにしろ、いかなる手続きをも踏んでいないのですから!ましてや、民主党は総選挙で4年間は消費税の議論もしないと公約して政権をとったのです。手続きから言えば、法案を提出して国会論戦を行い、与野党が公約を出し、解散総選挙をして民意を問う、こういう順序でなければなりません。それを、すべての手続きを飛ばして国際公約したうえ、法律が成立した後で選挙をしてどうするというのでしょうか?民主党が選挙に負けたら、新しい与党はどうすればよいのでしょう?そもそも、現与党は参院の多数をもっていないのに、どうやって法案を通す気なのかも、訊いてみたいところです。
こんなニュースが入ってきました。
G20で為替介入の説明、消費税引き上げ方針も表明=野田首相
[カンヌ 3日 ロイター] 20カ国・地域(G20)首脳会議に出席している野田佳彦首相は、全体会合初日の討議で、10月31日に3カ月ぶりに行った為替介入について説明し、各国の理解を求めたことを明らかにした。
また、2010年代半ばまでに消費税を段階的に10%まで引き上げるための法案を来年の通常国会に提出する考えを示し、将来の消費税引き上げ方針を国際会議で正式に表明した。カンヌで記者団に語った。
円高への対応について野田首相は「昨今の円高は投機的で無秩序な動きがあるのではないかという懸念を持ち、日本経済の下振れリスクが顕在化する状況が生まれていたことを踏まえて介入を実施した。これは従来からG20で確認してきている過度な変動、無秩序な動きにあたるという認識のもとで行った」と説明したことを明らかにした。これに対して、各国からは「何のコメントもなかった」と語った。
また、消費税率の引き上げに関連して野田首相は「法案を通して、引き上げの実施前に国民に信を問いたい」と述べ、来年1月召集の通常国会で法案を成立させたうえで、引き上げを実施する前に衆議院の解散・総選挙を行う考えをあらためて示した。自民・公明両党は必要な法案を来年の通常国会に提出する前に衆議院の解散・総選挙を行うよう求めているが、野党の主張を退けた。
http://jp.reuters.com/article/forexNews/idJPJAPAN-23988320111104
上記の点から言えば、野田首相のこの発言は論外です。なにしろ、いかなる手続きをも踏んでいないのですから!ましてや、民主党は総選挙で4年間は消費税の議論もしないと公約して政権をとったのです。手続きから言えば、法案を提出して国会論戦を行い、与野党が公約を出し、解散総選挙をして民意を問う、こういう順序でなければなりません。それを、すべての手続きを飛ばして国際公約したうえ、法律が成立した後で選挙をしてどうするというのでしょうか?民主党が選挙に負けたら、新しい与党はどうすればよいのでしょう?そもそも、現与党は参院の多数をもっていないのに、どうやって法案を通す気なのかも、訊いてみたいところです。
2011年11月03日
コントロール思想
このブログへのコメントでちょっと気になるものがあったので、このエントリーにしました。それはオートポイエーシス・システムはコントロールできるか?という問題。システム論の中でも工学系のサイバネティクスでは、このコントロールの問題は中心的な意味をもちます。制御機構の研究にルーツをもっていますし。それに対してオートポイエーシス論では、システムが決して完全にはコントロールできないことを本質的な性質として主張しますから。さらに言えば、統治とか支配とか世論操作といったことに関心の高い人から見ても、違和感があるのでしょうね。質問されたのは、結果としてシステムがコントロールされることはあるわけで、技術的な問題になるのではないか?ということでした。ここにはオートポイエーシス論、特にオートポイエーシスの自律性についての典型的な誤解が表れています。
まず言えることは、少なくとも環境はシステムの作動に制限をかけられるということ。なにしろ、システムは環境との相互浸透下でオートポイエーシスを維持できる範囲でしか作動できない、言い換えると環境が許す範囲でしか作動できないのですから。ただし、ここで注意が必要なのは、実際にそこで許される作動を決めるのは環境ではないということです。何がその時点で可能な作動であるかは、システム自身が決めます。したがって、環境はシステムの作動を制限できますが、どう制限しているのかは、わかりません。環境は制限したつもりでも、いわばそれをかいくぐってシステムが作動してしまうことはありえます。
次に、結果としてシステムが環境の狙った通りに自律的に作動してくれることはありえます。もちろん、その作動が環境によって生じた制限の範囲で可能であった場合ですが。このときは確かに環境がシステムをコントロールしたように見えます。しかし、それはあくまでもシステムの自律的作動の結果としてにすぎません。言い換えると、システムがコントロールされるかどうかを環境がコントロールすることはできないのです。つまり、コントロールが結果として成功するかどうかは完全なマグレなんですね。しかも、それを技術的問題に還元することも不可能。なぜなら、その時点でのまったく同じ働きかけが、可能な作動の範囲で全然違う結果をもたらすことも、原理的にありえたからです。オートポイエーシスの自律性は、可能な範囲でいかなるものにも左右されません。その都度のシステムの作動だけがすべてで、その都度、可能なすべての選択肢に開かれています。そのうちのどれが実現するかは、システム自身にすら作動してみなければわかりません。
最後に、システムがコードを維持している範囲では、かなりの蓋然性をもって、次の作動が予測でき、それに基づいたコントロールが成功します。コードを維持しているということは、一定の作動パターンを保つということですから。このため、動物の本能行動や人間の反射については、予測しコントロールすることがかなりの程度できるのです。しかし、オートポイエーシス・システムには常に、自分のコードそのものを書き換える変形、すなわち構造的ドリフトの可能性と、オートポイエーシス維持に失敗しての消失という可能性が伴います。このため、たとえばよく知っていると思っていた友人の行動を読み違えるということが起きてしまうのですよ。人間の認識システムは見えない上に、しばしば構造的ドリフトを起こして作動パターンを変えますから。
もちろん、ここで述べたことは、政治システムや政府システムと全体社会システムの間でも成り立っています。権力者や政府にも、社会を完全にコントロールすることは不可能なのですね。だから、何もしなくていいということではありませんが。打った手が必ず当たるとは限らないということです。もし、社会が確実にコントロールできる術があるなら、政治家は楽な商売ですよ。
まず言えることは、少なくとも環境はシステムの作動に制限をかけられるということ。なにしろ、システムは環境との相互浸透下でオートポイエーシスを維持できる範囲でしか作動できない、言い換えると環境が許す範囲でしか作動できないのですから。ただし、ここで注意が必要なのは、実際にそこで許される作動を決めるのは環境ではないということです。何がその時点で可能な作動であるかは、システム自身が決めます。したがって、環境はシステムの作動を制限できますが、どう制限しているのかは、わかりません。環境は制限したつもりでも、いわばそれをかいくぐってシステムが作動してしまうことはありえます。
次に、結果としてシステムが環境の狙った通りに自律的に作動してくれることはありえます。もちろん、その作動が環境によって生じた制限の範囲で可能であった場合ですが。このときは確かに環境がシステムをコントロールしたように見えます。しかし、それはあくまでもシステムの自律的作動の結果としてにすぎません。言い換えると、システムがコントロールされるかどうかを環境がコントロールすることはできないのです。つまり、コントロールが結果として成功するかどうかは完全なマグレなんですね。しかも、それを技術的問題に還元することも不可能。なぜなら、その時点でのまったく同じ働きかけが、可能な作動の範囲で全然違う結果をもたらすことも、原理的にありえたからです。オートポイエーシスの自律性は、可能な範囲でいかなるものにも左右されません。その都度のシステムの作動だけがすべてで、その都度、可能なすべての選択肢に開かれています。そのうちのどれが実現するかは、システム自身にすら作動してみなければわかりません。
最後に、システムがコードを維持している範囲では、かなりの蓋然性をもって、次の作動が予測でき、それに基づいたコントロールが成功します。コードを維持しているということは、一定の作動パターンを保つということですから。このため、動物の本能行動や人間の反射については、予測しコントロールすることがかなりの程度できるのです。しかし、オートポイエーシス・システムには常に、自分のコードそのものを書き換える変形、すなわち構造的ドリフトの可能性と、オートポイエーシス維持に失敗しての消失という可能性が伴います。このため、たとえばよく知っていると思っていた友人の行動を読み違えるということが起きてしまうのですよ。人間の認識システムは見えない上に、しばしば構造的ドリフトを起こして作動パターンを変えますから。
もちろん、ここで述べたことは、政治システムや政府システムと全体社会システムの間でも成り立っています。権力者や政府にも、社会を完全にコントロールすることは不可能なのですね。だから、何もしなくていいということではありませんが。打った手が必ず当たるとは限らないということです。もし、社会が確実にコントロールできる術があるなら、政治家は楽な商売ですよ。
2011年10月28日
『ソフィーの世界』(1)
来年度大学でゼミを引き受けることになりまして、哲学科以外の哲学のゼミで何をやったものか?と考えてネタに選んだのが、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙』でした。哲学の説明はそれなりにわかりやすいし、ストーリーも面白いし、ということで。ちょっと前に世界的にヒットしたこの哲学入門小説は、映画化もされてます。今年、上下二巻本で再販もされました。ソフィーという少女が差出人不明の謎の手紙を受け取るところから始まる、サスペンス仕立てのストーリー。最後の落ちがちょっと弱いかなと思いますが。ここからシリーズもののエントリーとして、ソフィーが受け取った手紙に書いてあった問いに一つずつオートポイエーシス論から答える、という形で続けていく予定です。
さて、ソフィーが受け取った最初の手紙に書いてあったのはたった一言、「あなたはだれ?」という問いでした。小説中ではいろいろと仕掛けのある問いなんですが、ここではまともに答えましょう。まず言えることは、こう問われることができるのは認識システムだけだということ。認識システムのみが、「あなた」の対象たりうる「自分」を自覚しうるからです。「あなた」とはすなわち「私でない別の自分」に他なりません。認識システムは意識システムの自己言及に基づいており、そのため、自分の表象において意識システムの構造である意識とその外部の現れをもつことができ、したがって、意識の現れを自分自身と錯覚することができます。つまり、自分とは、自分の表象における意識の現れを自分自身と錯覚している観察者としての認識システムのことです。いわばこの錯覚をコード化されたコード表象としたのが、「自分」という言葉。しかも、認識システムもオートポイエーシス・システムですから、個体性をもち唯一無二。この唯一無二の存在を、今度はシステムにとっての視点から自覚したものも、コード表象化してみれば「自分」となります。こちらはつまり「見る自分」で、表象されている意識の現れが「見られる自分」ですね。「産出する自分」と「産出される自分」と言っても言いかもしれません。自分についているコード表象が「名前」です。無論、対応は任意なのですが。
この問いにはもう一つ答えようがあります。それはすなわち、自分という認識システムが担っている人格を答えること。どの家族システムにおいてどの人格を担っているか?どの国家システム、都市システムの人格を、どの学校システム、学級システムの、あるいはどの会社システム、部署システムの、クラブ・システム、サークル・システムの等々。一つの認識システムは同時に多数の社会システムの、組織システムや機能システムの人格を担っていますから、これを完全に枚挙することは難しいですけど。その上、担っている人格はしばしば変更されますし。それでも、それを担っていることが、その人の本質であるような人格は存在するような気がします。たとえば、ソクラテスに訊いてみれば、「自分は哲学者だ」と答えたんじゃないでしょうか。ダビンチなら画家、シェークスピアなら劇作家、モーツァルトなら作曲家、というように。そう言えるような人格を担えることは、人間にとって幸せの大きな要素なのでしょうね。
さて、ソフィーが受け取った最初の手紙に書いてあったのはたった一言、「あなたはだれ?」という問いでした。小説中ではいろいろと仕掛けのある問いなんですが、ここではまともに答えましょう。まず言えることは、こう問われることができるのは認識システムだけだということ。認識システムのみが、「あなた」の対象たりうる「自分」を自覚しうるからです。「あなた」とはすなわち「私でない別の自分」に他なりません。認識システムは意識システムの自己言及に基づいており、そのため、自分の表象において意識システムの構造である意識とその外部の現れをもつことができ、したがって、意識の現れを自分自身と錯覚することができます。つまり、自分とは、自分の表象における意識の現れを自分自身と錯覚している観察者としての認識システムのことです。いわばこの錯覚をコード化されたコード表象としたのが、「自分」という言葉。しかも、認識システムもオートポイエーシス・システムですから、個体性をもち唯一無二。この唯一無二の存在を、今度はシステムにとっての視点から自覚したものも、コード表象化してみれば「自分」となります。こちらはつまり「見る自分」で、表象されている意識の現れが「見られる自分」ですね。「産出する自分」と「産出される自分」と言っても言いかもしれません。自分についているコード表象が「名前」です。無論、対応は任意なのですが。
この問いにはもう一つ答えようがあります。それはすなわち、自分という認識システムが担っている人格を答えること。どの家族システムにおいてどの人格を担っているか?どの国家システム、都市システムの人格を、どの学校システム、学級システムの、あるいはどの会社システム、部署システムの、クラブ・システム、サークル・システムの等々。一つの認識システムは同時に多数の社会システムの、組織システムや機能システムの人格を担っていますから、これを完全に枚挙することは難しいですけど。その上、担っている人格はしばしば変更されますし。それでも、それを担っていることが、その人の本質であるような人格は存在するような気がします。たとえば、ソクラテスに訊いてみれば、「自分は哲学者だ」と答えたんじゃないでしょうか。ダビンチなら画家、シェークスピアなら劇作家、モーツァルトなら作曲家、というように。そう言えるような人格を担えることは、人間にとって幸せの大きな要素なのでしょうね。
2011年10月22日
ウォール街デモ
忙しかったのでブログの更新が遅れていたところへ、IDの切り替えでトラブって、しばらくブログに入れず、前回のエントリーからかなり日にちが開いてしまいました。わかってみれば、実にバカな理由だったんですが。
まずはサッカーネタ。だいぶ前になってしまいましたが、W杯ブラジル大会三次予選、ホームのタジキスタン戦を日本代表は8−0と、文字通り圧勝しました。実力上こうなってもおかしくはないにしろ、見事だったのはザッケローニ監督のマネジメントですね。その数日前に行われたベトナム戦で、わざとチームを機能させず、1−0で苦戦させて、選手の集中力を高めたのです。ベトナム戦を楽勝してしまうことで、チームが緩むのを恐れたのだと思います。その証拠に、ベトナム戦の前半と後半で大きくチームを入れ替えているにもかかわらず、タジキスタン戦と同じメンバーの組み合わせがありません!ベトナム戦前半はスタメン中心に慣れていない3−4−3のフォーメーションで臨み、後半は控え中心でいつもの4−2−3−1に戻した。加えて体調に不安のある主力選手は完全休養。選手の疲労を次戦に残さないよう考えて、それでも負けないという読みも当たっています。日本のスタメンが予想できず、タジキスタンの監督も対処に困ったでしょう。何にしても、この大勝により、日本は次のアウェーのタジキスタン戦に勝利すれば、もう一試合の結果により、二試合を残して三次予選突破が決まります。ザッケローニ監督がどういう采配を見せてくれるかが楽しみです。
さて本題。時事ネタです。何度も書いているように、交換コミュニケーションを構成素として産出する社会システムが経済システムです。この交換コミュニケーションの成り立つ場が市場に他なりません。その意味では、市場に空間的な位置はないといってもいいでしょう。コミュニケーションの送り手が売り手、受け手が買い手です。この交換コミュニケーションは、コミュニケーションがハーバーマスの言うような合意によらないことの一番の証明とも言えます。なぜなら、買い手は交換されるものの価値を売り手より高く見積もるからこそ交換が成り立つわけですから。このため、交換コミュニケーションは売り手によっても買い手によっても決定されない自律性を示すことになります。その値段で売りたい人がいても買いたい人がいなければダメ、買いたい人がいても売りたい人がいなければだめなわけで、交換の成否とその際の価格は、売り手にも買い手にも決定できません。こうした交換コミュニケーションの、ひいては市場の示す自律性が、アダム・スミスの言う「神の見えざる手」なのでしょう。ただし、アダム・スミスの言うのと違って、市場の自律性は必ずしもハッピー・エンドをもたらしてはくれないのですが。市場の参加者にも、他の社会システムにも。それでも、これはオートポイエーシスの自律性であるため絶対であり、どうしようもありません。
現在、「ウォール街を占拠せよ!」を合言葉に、反格差を掲げるデモが世界中に広がっています。上述したことから言うなら、これはほとんど意味がありません。格差とは、市場の自律的作動の結果にほかならないのですから。ましてや、ウォール街を占拠してどうなるというのでしょうか?そこにはせいぜい、売り手と買い手の代理人と、メディアとなっている装置があるだけなのに。しかも、ウォール街において運用されているのは金持ちの金だけではありません。集められて巨大なものとなった庶民の貯金や年金もそこで運用され、支払われる金利を稼ぎ出しているのです。したがって、ウォール街が本当に止まったらどうなるか?金融不安と不景気がさらに加速するだけですね。世界的株安の引き金を引いたのはリーマン・ブラザーズの破綻だったことは記憶に新しいところで。安易に金融機関を破綻させられないのはそのためなんですが。格差が拡大、固定化することに反対するなら、それを是正する手段は税だけです。ということは、デモをするならワシントンD.C.においてべきでしょう。ウォール街は象徴的な意味しかもっていないか、そこでの成功者が嫉妬の対象になっているにすぎません。もっとも、そのウォール街における成功者というのも、あくまで現時点のにすぎないのですがね。確かに、金持ちほど交換コミュニケーションにおいて有利であることは間違いありませんが、それはミスしてもダメージに耐えられる可能性が高いというだけです。致命的なミスをすれば、どんな金持ちでも市場は容赦しないでしょう。これはもう間違いなく、ウォール街でもメンバーの入れ替えが頻繁に起きているはずです。金持ちは、あえて言うと、自分の意志で金持ちであるわけではないんですよ。たまたま成功したから、今のところうまく行っているから、金持ちであるだけで。まあ、成功したいという気持ちと、そのための努力は重要であるにしても。すべてはシステムの自律性任せです、金持ちが社会に生まれることも、誰がそれになるのかも。
まずはサッカーネタ。だいぶ前になってしまいましたが、W杯ブラジル大会三次予選、ホームのタジキスタン戦を日本代表は8−0と、文字通り圧勝しました。実力上こうなってもおかしくはないにしろ、見事だったのはザッケローニ監督のマネジメントですね。その数日前に行われたベトナム戦で、わざとチームを機能させず、1−0で苦戦させて、選手の集中力を高めたのです。ベトナム戦を楽勝してしまうことで、チームが緩むのを恐れたのだと思います。その証拠に、ベトナム戦の前半と後半で大きくチームを入れ替えているにもかかわらず、タジキスタン戦と同じメンバーの組み合わせがありません!ベトナム戦前半はスタメン中心に慣れていない3−4−3のフォーメーションで臨み、後半は控え中心でいつもの4−2−3−1に戻した。加えて体調に不安のある主力選手は完全休養。選手の疲労を次戦に残さないよう考えて、それでも負けないという読みも当たっています。日本のスタメンが予想できず、タジキスタンの監督も対処に困ったでしょう。何にしても、この大勝により、日本は次のアウェーのタジキスタン戦に勝利すれば、もう一試合の結果により、二試合を残して三次予選突破が決まります。ザッケローニ監督がどういう采配を見せてくれるかが楽しみです。
さて本題。時事ネタです。何度も書いているように、交換コミュニケーションを構成素として産出する社会システムが経済システムです。この交換コミュニケーションの成り立つ場が市場に他なりません。その意味では、市場に空間的な位置はないといってもいいでしょう。コミュニケーションの送り手が売り手、受け手が買い手です。この交換コミュニケーションは、コミュニケーションがハーバーマスの言うような合意によらないことの一番の証明とも言えます。なぜなら、買い手は交換されるものの価値を売り手より高く見積もるからこそ交換が成り立つわけですから。このため、交換コミュニケーションは売り手によっても買い手によっても決定されない自律性を示すことになります。その値段で売りたい人がいても買いたい人がいなければダメ、買いたい人がいても売りたい人がいなければだめなわけで、交換の成否とその際の価格は、売り手にも買い手にも決定できません。こうした交換コミュニケーションの、ひいては市場の示す自律性が、アダム・スミスの言う「神の見えざる手」なのでしょう。ただし、アダム・スミスの言うのと違って、市場の自律性は必ずしもハッピー・エンドをもたらしてはくれないのですが。市場の参加者にも、他の社会システムにも。それでも、これはオートポイエーシスの自律性であるため絶対であり、どうしようもありません。
現在、「ウォール街を占拠せよ!」を合言葉に、反格差を掲げるデモが世界中に広がっています。上述したことから言うなら、これはほとんど意味がありません。格差とは、市場の自律的作動の結果にほかならないのですから。ましてや、ウォール街を占拠してどうなるというのでしょうか?そこにはせいぜい、売り手と買い手の代理人と、メディアとなっている装置があるだけなのに。しかも、ウォール街において運用されているのは金持ちの金だけではありません。集められて巨大なものとなった庶民の貯金や年金もそこで運用され、支払われる金利を稼ぎ出しているのです。したがって、ウォール街が本当に止まったらどうなるか?金融不安と不景気がさらに加速するだけですね。世界的株安の引き金を引いたのはリーマン・ブラザーズの破綻だったことは記憶に新しいところで。安易に金融機関を破綻させられないのはそのためなんですが。格差が拡大、固定化することに反対するなら、それを是正する手段は税だけです。ということは、デモをするならワシントンD.C.においてべきでしょう。ウォール街は象徴的な意味しかもっていないか、そこでの成功者が嫉妬の対象になっているにすぎません。もっとも、そのウォール街における成功者というのも、あくまで現時点のにすぎないのですがね。確かに、金持ちほど交換コミュニケーションにおいて有利であることは間違いありませんが、それはミスしてもダメージに耐えられる可能性が高いというだけです。致命的なミスをすれば、どんな金持ちでも市場は容赦しないでしょう。これはもう間違いなく、ウォール街でもメンバーの入れ替えが頻繁に起きているはずです。金持ちは、あえて言うと、自分の意志で金持ちであるわけではないんですよ。たまたま成功したから、今のところうまく行っているから、金持ちであるだけで。まあ、成功したいという気持ちと、そのための努力は重要であるにしても。すべてはシステムの自律性任せです、金持ちが社会に生まれることも、誰がそれになるのかも。
2011年10月04日
生きる意味
このところ学会だなんだと忙しく、このブログのエントリーも遅れがちですが。学生に哲学のレポートを課しましたら、私が講義で使ったせいもあり、生きる意味について考えたい、と書いてきたレポートがいくつもありました。まさに哲学の中心テーマであり、人類が考え続けてきたこの究極の課題に、オートポイエーシス論からアプローチしてみます。すると、案外あっさり答えられてしまうんですよね。拍子抜けしてしまうくらい。
まず、オートポイエーシス・システムは産出プロセスの連鎖と閉域形成に基づいています。つまり、『倫理』でも書いたように、このシステムは作動継続をその存在の条件としているのです。言い換えると、存在しているオートポイエーシス・システムは、その限り、作動を継続して存続しようとしていることになります。存在していることがすなわち、存続しようとしていることに他なりません。このシステムはいわば、存在する限り存続し続けようとする力です。無論、それ以上の存続が不可能になることもありえますが、そのときにはシステムが消失しています!
さて、生命システムもオートポイエーシス・システムですから、言うまでもなく同じことが成り立ちます。生命システムの作動を生きることと呼ぶとするなら、生きることは生き続けようとすることを原理的に含んでいるのです。生き物はなぜ生きるのか?生きることの意味は?ここから答えるなら、生きることの意味は生き続けることにこそあります。何のために生きるのか?それは生き続けるためです。よく考えれば、生き物のしていることはすべて、生きるために必要なことか、さもなければ、その間の時間つぶしと言えるでしょう。動物なら餌をとること、食べること、次に餌をとるために身体を休めること、水を飲むこと、病気にならないための衛生管理、子供なら餌をとるために学ぶこと、これがおそらく遊ぶことになるのでしょうが、などなど。生殖は本来生きることの意味には入っていなかったはずです。しかし、生殖が本能コードに規定されなかった生き物は、種としてはすべて滅んでしまっているはずですので、現在生きているすべての生物種は、人間を含めて、生殖の本能をもっているわけ。
人間の場合で言うなら、衣食住の確保、直接的にそのためにであろうと、間接的にそのための金を稼ぐためにであろうと、働くこと、寝ること、余った時間をつぶすこと等々で、本来的には生きることのすべてなのです。それだけでそれ以外に生きる意味はないのか?人間は社会を形成しました。したがって、人間は人格を担わなければなりません。結果として、何らかの人格を担うことが人間の生きる意味に加わっています。それ以外の絶対的な意味は?はっきり言えば、ありません。なぜなら、世界も環境もいかなるコードによっても規定されないから。意味と呼ばれうるものは、何らかのコードでなければならないのです。でなければ、意味コードに対応させられませんので。しかも、環境とシステムの統一としての世界には外部がありませんから、世界を外部との関係で、言い換えると外部との差異に基づいてコードづけることもできません。世界と環境がコード化されていない以上、コードは常に、システムにとってのみ存在します。おまけに、システムの実現は自律的ですから、原理的に外部との関係において意味を規定されることができず、その実現は偶然としか、たまたまそのために必要な条件が整い、産出プロセスのネットワーク連鎖が閉域を形成したからとしか、言いようがないのです。人間の誕生も同じことなんですね。しかしその分、システムは、だから人間も、外部から規定されるような決められた意味からは自由であり、自分で自分にとっての生きる意味を作り出していけるのだとも言えるでしょう。
まず、オートポイエーシス・システムは産出プロセスの連鎖と閉域形成に基づいています。つまり、『倫理』でも書いたように、このシステムは作動継続をその存在の条件としているのです。言い換えると、存在しているオートポイエーシス・システムは、その限り、作動を継続して存続しようとしていることになります。存在していることがすなわち、存続しようとしていることに他なりません。このシステムはいわば、存在する限り存続し続けようとする力です。無論、それ以上の存続が不可能になることもありえますが、そのときにはシステムが消失しています!
さて、生命システムもオートポイエーシス・システムですから、言うまでもなく同じことが成り立ちます。生命システムの作動を生きることと呼ぶとするなら、生きることは生き続けようとすることを原理的に含んでいるのです。生き物はなぜ生きるのか?生きることの意味は?ここから答えるなら、生きることの意味は生き続けることにこそあります。何のために生きるのか?それは生き続けるためです。よく考えれば、生き物のしていることはすべて、生きるために必要なことか、さもなければ、その間の時間つぶしと言えるでしょう。動物なら餌をとること、食べること、次に餌をとるために身体を休めること、水を飲むこと、病気にならないための衛生管理、子供なら餌をとるために学ぶこと、これがおそらく遊ぶことになるのでしょうが、などなど。生殖は本来生きることの意味には入っていなかったはずです。しかし、生殖が本能コードに規定されなかった生き物は、種としてはすべて滅んでしまっているはずですので、現在生きているすべての生物種は、人間を含めて、生殖の本能をもっているわけ。
人間の場合で言うなら、衣食住の確保、直接的にそのためにであろうと、間接的にそのための金を稼ぐためにであろうと、働くこと、寝ること、余った時間をつぶすこと等々で、本来的には生きることのすべてなのです。それだけでそれ以外に生きる意味はないのか?人間は社会を形成しました。したがって、人間は人格を担わなければなりません。結果として、何らかの人格を担うことが人間の生きる意味に加わっています。それ以外の絶対的な意味は?はっきり言えば、ありません。なぜなら、世界も環境もいかなるコードによっても規定されないから。意味と呼ばれうるものは、何らかのコードでなければならないのです。でなければ、意味コードに対応させられませんので。しかも、環境とシステムの統一としての世界には外部がありませんから、世界を外部との関係で、言い換えると外部との差異に基づいてコードづけることもできません。世界と環境がコード化されていない以上、コードは常に、システムにとってのみ存在します。おまけに、システムの実現は自律的ですから、原理的に外部との関係において意味を規定されることができず、その実現は偶然としか、たまたまそのために必要な条件が整い、産出プロセスのネットワーク連鎖が閉域を形成したからとしか、言いようがないのです。人間の誕生も同じことなんですね。しかしその分、システムは、だから人間も、外部から規定されるような決められた意味からは自由であり、自分で自分にとっての生きる意味を作り出していけるのだとも言えるでしょう。
2011年09月24日
倦怠感
ちょっと風邪気味らしく、体がだるいうえに、やる気が起きません。このエントリーが若干遅れたのもそのせいなんですが。ただ、この倦怠感というもの、オートポイエーシス論的に考えてみるとなかなか興味深いものでして。なぜかと言うと、デカルト流の心身二元論でも、現代の心身一元論でも、まったく説明がつかないからです。まず、デカルト流の心身二元論では、身体の状態を原因として心が倦怠感をもつことが説明できません。しかも、デカルトのような機械論的身体観では、倦怠感の原因となる身体の状態というのは説明しにくいんです。身体のどこかに物理的な故障があるわけではありませんからね。あえて比較すれば、錆つきや金属疲労ということになるかもしれませんが、それでもそれによって故障が生じるまで機械は動きますし、問題は物理現象として現れます。倦怠感の原因はそういうものではないわけです。それでいながら、ドリンク剤を飲むことなどで一時的に倦怠感を解消することもでき、身体的な原因性は否定できません。
同様に心を否定する唯物論的な心身一元論でも倦怠感を理解するのは困難です。というのも、倦怠感とは私の心が直接に感じているものだから。身体の状態はあくまでもその原因にすぎません。特に、この倦怠感というものは、身体の状態が同じであろうとも、何かの理由で解消しうるものでもあります。たとえば面白い映像を見ている間は感じられなかったり、うれしいことがあると一気にやる気が出たりするわけです。それどころか、よく効くドリンク剤と嘘をついてそれらしい味のただのジュースを飲ませただけでも、倦怠感が消えてしまうことすらあるはずでしょう。プラシーボ効果というやつですが。要するに、身体状態と完全に対応してもいないわけですね。つまり、身体だけでは倦怠感は説明できない。脳でもダメ。どうしてもそれを感じている心が必要なわけです。
身体状態と倦怠感のこの因果関係と独立性は、オートポイエーシス論でしか説明ができません。倦怠感は、認識システムの内的表象がもつ強度と言えるでしょう。システム自身の作動に伴って表象される重さと言うのか動きにくさと言うのか、そうした実感のことです。これ自身、観察されるものではなく、システム自身の立場から直接に把握されるものと言えます。それは基本的には、生命システムとの構造的カップリングに由来し、したがって身体の状態を反映しますが、この関係は決定的ではありません。せいぜい、身体の状態は倦怠感の原因でありうるというだけです。認識システムも生命システムも自律的ですから、因果関係はあっても相互に決定関係にはないのです。ですから、極度に緊張するか充実するかしている場合は、身体の状態がどうあろうと、倦怠感を感じないということも十分にありうるのですね。逆に、身体の状態が健全でも、つまり生命システムのオートポイエーシスが適切な状態にあっても、倦怠感を感じてしまうということもありうるわけです。今回のエントリーがいささか短いのも倦怠感のせいだと思ってください。
同様に心を否定する唯物論的な心身一元論でも倦怠感を理解するのは困難です。というのも、倦怠感とは私の心が直接に感じているものだから。身体の状態はあくまでもその原因にすぎません。特に、この倦怠感というものは、身体の状態が同じであろうとも、何かの理由で解消しうるものでもあります。たとえば面白い映像を見ている間は感じられなかったり、うれしいことがあると一気にやる気が出たりするわけです。それどころか、よく効くドリンク剤と嘘をついてそれらしい味のただのジュースを飲ませただけでも、倦怠感が消えてしまうことすらあるはずでしょう。プラシーボ効果というやつですが。要するに、身体状態と完全に対応してもいないわけですね。つまり、身体だけでは倦怠感は説明できない。脳でもダメ。どうしてもそれを感じている心が必要なわけです。
身体状態と倦怠感のこの因果関係と独立性は、オートポイエーシス論でしか説明ができません。倦怠感は、認識システムの内的表象がもつ強度と言えるでしょう。システム自身の作動に伴って表象される重さと言うのか動きにくさと言うのか、そうした実感のことです。これ自身、観察されるものではなく、システム自身の立場から直接に把握されるものと言えます。それは基本的には、生命システムとの構造的カップリングに由来し、したがって身体の状態を反映しますが、この関係は決定的ではありません。せいぜい、身体の状態は倦怠感の原因でありうるというだけです。認識システムも生命システムも自律的ですから、因果関係はあっても相互に決定関係にはないのです。ですから、極度に緊張するか充実するかしている場合は、身体の状態がどうあろうと、倦怠感を感じないということも十分にありうるのですね。逆に、身体の状態が健全でも、つまり生命システムのオートポイエーシスが適切な状態にあっても、倦怠感を感じてしまうということもありうるわけです。今回のエントリーがいささか短いのも倦怠感のせいだと思ってください。
2011年09月15日
言葉のニュアンス
時事ネタです。繰り返し論じているように、言葉とは、意味コードのコード化されたコード表象のネットワークに他なりません。したがって一つの言葉は、その時点で形成されている意味コードのネットワークと対応をもっています。このネットワークとは、簡単に言うなら、その意味コードに連鎖可能な意味コードの集積です。言葉で言えば、その言葉から連想しうる言葉の集合と言うことができるでしょう。無論、その言語を知っているすべての人が連想しうる範囲に限りますが。たとえば、雪につながる言葉は普通白ですね。中には個人的体験に基づいて赤や黄色を連想する人がいるかもしれませんが、すべての人がそうであるわけではないので、言語としては通用しません。意味コードはあくまでも社会的に決まります。当然、時代とともに社会システムの構造的ドリフトによって変遷しますが、同時代人の間であれば共有されている範囲、それが通用しうる言葉の範囲です。
そして、適切な言葉使いということになると、さらに条件が加わります。一つはタイミング、一つは場所、一つは言い方、最後に送り手人格と受け手人格です。もちろん、これも社会的な期待によって決まりますが。言うまでもなく、同じ言葉を同じ人格が同じ場所で使うにしても、タイミング次第で適切であったり不適切であったりします。葬式の場面で、読経の最中に「ご愁傷様です」などとつぶやいてはいけません。場所で言えば、やはり葬式の際、あまり遠くから遺族にあいさつするのは変です。言い方では、遺族に向かってあまりにも明るい調子で楽しそうに「ご愁傷様です」と言ったら、白い目で見られますね。送り手と受け手の人格に関しては、遺族が来客に向かって「ご愁傷様です」とあいさつしたら、来客はびっくりしてしまうでしょう。
こんなニュースがありました。
「死の町」しか思い浮かばず=辞任会見で反省−鉢呂経産相
鉢呂吉雄経済産業相は10日夜、野田佳彦首相に辞任の申し出を受理された後、経産省で緊急記者会見した。辞任を決断した理由として、8日に視察した東京電力福島第1原発の周辺地域を「死の町」と表現したことと、視察後に記者に「放射能を付けたぞ」などと述べたとの報道を念頭に「不信を抱かせるような言動があったと捉えられた」点を挙げた。
9日の記者会見の「死の町」発言は「人っ子ひとり通らないのに、街並みはきちんとしている。私には、あの言葉しか浮かばなかった」と、思慮が足りず深刻な波紋を招いたことを悔やんだ。
他方、8日夜の都内の議員宿舎での言動には「記憶が定かでなく、何と言ったか分からない。(放射能を)『うつす』『付けた』と発言したという確信はない」と歯切れの悪い説明を繰り返し、涙を拭う場面もあった。(2011/09/11-00:03)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201109/2011091000411
上記の点から見れば、この発言の何が問題かがわかります。決定的なのは送り手人格ですね。第三者が比喩として用いたなら、そこまで問題視されなかったでしょうが、経産大臣の発言だからまずいんです。なぜか?まず、住民がいないのは政府が避難させているからで、大臣は避難させて町を無人にしている当事者であるため。さらに、経産大臣は事故を起こした原発の所管大臣です。住民からすれば原発側の人格なわけで、こんな第三者的発言は許されるわけがないんですよ。そしてタイミングも悪い。就任直後にこんな当事者意識を欠いた発言をされては、以降の仕事にまったく期待ができません。しかも「死の町」です。普通に聞けば、日本語でこれが意味しているのは、死に支配された町、住民が死に絶えた町です。無人であることを表現したいなら、せめて「死んだ町」とか「ゴーストタウン」と言わなければなりません。表現のオーバー・キルなんですね。これでは避難している住民が怒って当たり前。そもそも死者が出たわけでもないのですから。まさに、「縁起でもないことを言うな!」ということになるわけです。政治家なのですからもう少し言葉はニュアンスに注意して正しく使ってもらいたいものです。もう一つの発言についてはコメントの必要もないでしょう。
そして、適切な言葉使いということになると、さらに条件が加わります。一つはタイミング、一つは場所、一つは言い方、最後に送り手人格と受け手人格です。もちろん、これも社会的な期待によって決まりますが。言うまでもなく、同じ言葉を同じ人格が同じ場所で使うにしても、タイミング次第で適切であったり不適切であったりします。葬式の場面で、読経の最中に「ご愁傷様です」などとつぶやいてはいけません。場所で言えば、やはり葬式の際、あまり遠くから遺族にあいさつするのは変です。言い方では、遺族に向かってあまりにも明るい調子で楽しそうに「ご愁傷様です」と言ったら、白い目で見られますね。送り手と受け手の人格に関しては、遺族が来客に向かって「ご愁傷様です」とあいさつしたら、来客はびっくりしてしまうでしょう。
こんなニュースがありました。
「死の町」しか思い浮かばず=辞任会見で反省−鉢呂経産相
鉢呂吉雄経済産業相は10日夜、野田佳彦首相に辞任の申し出を受理された後、経産省で緊急記者会見した。辞任を決断した理由として、8日に視察した東京電力福島第1原発の周辺地域を「死の町」と表現したことと、視察後に記者に「放射能を付けたぞ」などと述べたとの報道を念頭に「不信を抱かせるような言動があったと捉えられた」点を挙げた。
9日の記者会見の「死の町」発言は「人っ子ひとり通らないのに、街並みはきちんとしている。私には、あの言葉しか浮かばなかった」と、思慮が足りず深刻な波紋を招いたことを悔やんだ。
他方、8日夜の都内の議員宿舎での言動には「記憶が定かでなく、何と言ったか分からない。(放射能を)『うつす』『付けた』と発言したという確信はない」と歯切れの悪い説明を繰り返し、涙を拭う場面もあった。(2011/09/11-00:03)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201109/2011091000411
上記の点から見れば、この発言の何が問題かがわかります。決定的なのは送り手人格ですね。第三者が比喩として用いたなら、そこまで問題視されなかったでしょうが、経産大臣の発言だからまずいんです。なぜか?まず、住民がいないのは政府が避難させているからで、大臣は避難させて町を無人にしている当事者であるため。さらに、経産大臣は事故を起こした原発の所管大臣です。住民からすれば原発側の人格なわけで、こんな第三者的発言は許されるわけがないんですよ。そしてタイミングも悪い。就任直後にこんな当事者意識を欠いた発言をされては、以降の仕事にまったく期待ができません。しかも「死の町」です。普通に聞けば、日本語でこれが意味しているのは、死に支配された町、住民が死に絶えた町です。無人であることを表現したいなら、せめて「死んだ町」とか「ゴーストタウン」と言わなければなりません。表現のオーバー・キルなんですね。これでは避難している住民が怒って当たり前。そもそも死者が出たわけでもないのですから。まさに、「縁起でもないことを言うな!」ということになるわけです。政治家なのですからもう少し言葉はニュアンスに注意して正しく使ってもらいたいものです。もう一つの発言についてはコメントの必要もないでしょう。
2011年09月09日
『失楽園』 祝 なでしこジャパン、ロンドン五輪出場決定!
まずはサッカーネタ。日本代表はW杯ブラジル大会三次予選で、初戦のホーム北朝鮮戦を後半ロスタイムの得点で1−0で勝利し、第二戦のアウェーウズベキスタン戦を先制されつつも追いつき1−1のドローに持ち込みました。本田、長友不在で、大雨と荒れたピッチにパスワークを封じられながらですから、上々の結果と言えるでしょう。本田が直前に抜けたのも痛かったですが、中村憲の負傷離脱がとどめでしたね。あれで、トップ下がいなくなってしまい、前線が停滞してしまいました。また、ウズベキスタンは実質ホーム二連戦だったのに対し、日本は10時間以上の移動で中三日、あれだけ出足で負ける日本代表は久々です。それでも勝てるし負けないのが今の日本の強さと言えるでしょうか?
女子日本代表なでしこジャパンは、ロンドン五輪予選で北朝鮮に後半ロスタイムで追いつかれ、1−1のドローだったものの、中国がオーストラリアに敗れたため二位以内が確定し、ロンドン五輪出場を決めました!こちらも相当に深い芝とタイトすぎる日程によって悩まされながらですので、価値があります。この調子で、男子U23代表もロンドン五輪出場をあっさり決めてもらいたいものです。
さて本題。『失楽園』はミルトンの有名な宗教叙事詩です。『聖書』以上にキリスト教のイメージを規定しているとさえ言われる作品で、読んでみてよくわかりました。地獄、天国、天使、悪魔、アダムとイブ、エデンの園なんかのビジュアルイメージって、ここから来てるんですね。その点も面白いんですが、今回のテーマはちょっと違います。この叙事詩、実は前半の主役が堕天使のサタンなんですが、その堕天の理由がオートポイエーシス論から見て非常に面白い。サタンはなぜ堕天使に落ちたのか?ミルトンの解釈するところでは、それは自由なものとして神によって創造されたためです。サタンの自由は、神に仕えることは受け入れられても、神の子に仕えることは受け入れられなかったんですね。サタンは言います、「かつて自分が何者にも隷属せず、必ずしも同等ではないにしろ自由であり、自由の点において同等であった天の住人であり、天の子等であったことを、自覚しているとすれば」、「権力と栄光においてこそ劣るとはいえ自由において同等である者、として生きてきた者の上に、理性や権利の点からいって、いったい誰が王として君臨しうるのか?」と。ミルトン自身はサタンを肯定しているわけではないのですが、こうした箇所に関する限り、サタンの思いはミルトン自身の思いでもありそうですね。
こう言ってサタンは神に反逆し、同様に考える天使の三分の一を率いて神と戦うのですが、サタン自身は絶対に神には勝てないことは百も承知です。自分の反抗が神にとって何のダメージにもならず、自分が傷つくだけで、むしろ神に利用され何の成果も終局においては上げられないことすら。全能の神は悪からでも善を作りうるのですから。それでもサタンはなぜ神に反逆せずにおれなかったのか?他でもないですね、それ以外に自分の自由を証明する手段がないからです。しかも、反逆したサタンは次のようにさえ叫ぶのです。「運命の流れが一めぐりした時、自分自身の生命力によって自ら生まれ、自ら出現した者、故郷であるこの天国で、機熟して天上の子等として出生した者、これがわれわれなのだ」、と。サタンは自分が神の被造物であるという前提すら否定しようとします。これをオートポイエーシス論から言いかえるなら、サタンは自分はオートポイエーシス・システムとして自律的に実現したのであり、誰によって作られたのでもなく、なるがゆえに自分の作動は自律的であり自由なのだ、と言っているわけです。自由なものとして創造されたというのは、オートポイエーシス論からは詭弁でしかありません。作られたものが自由であることはありえないんです。あえて言うなら、サタンは自分のオートポイエーシスを証明するために堕天使となったと言えるでしょう。それが自分自身の滅びにつながることは承知の上で。
女子日本代表なでしこジャパンは、ロンドン五輪予選で北朝鮮に後半ロスタイムで追いつかれ、1−1のドローだったものの、中国がオーストラリアに敗れたため二位以内が確定し、ロンドン五輪出場を決めました!こちらも相当に深い芝とタイトすぎる日程によって悩まされながらですので、価値があります。この調子で、男子U23代表もロンドン五輪出場をあっさり決めてもらいたいものです。
さて本題。『失楽園』はミルトンの有名な宗教叙事詩です。『聖書』以上にキリスト教のイメージを規定しているとさえ言われる作品で、読んでみてよくわかりました。地獄、天国、天使、悪魔、アダムとイブ、エデンの園なんかのビジュアルイメージって、ここから来てるんですね。その点も面白いんですが、今回のテーマはちょっと違います。この叙事詩、実は前半の主役が堕天使のサタンなんですが、その堕天の理由がオートポイエーシス論から見て非常に面白い。サタンはなぜ堕天使に落ちたのか?ミルトンの解釈するところでは、それは自由なものとして神によって創造されたためです。サタンの自由は、神に仕えることは受け入れられても、神の子に仕えることは受け入れられなかったんですね。サタンは言います、「かつて自分が何者にも隷属せず、必ずしも同等ではないにしろ自由であり、自由の点において同等であった天の住人であり、天の子等であったことを、自覚しているとすれば」、「権力と栄光においてこそ劣るとはいえ自由において同等である者、として生きてきた者の上に、理性や権利の点からいって、いったい誰が王として君臨しうるのか?」と。ミルトン自身はサタンを肯定しているわけではないのですが、こうした箇所に関する限り、サタンの思いはミルトン自身の思いでもありそうですね。
こう言ってサタンは神に反逆し、同様に考える天使の三分の一を率いて神と戦うのですが、サタン自身は絶対に神には勝てないことは百も承知です。自分の反抗が神にとって何のダメージにもならず、自分が傷つくだけで、むしろ神に利用され何の成果も終局においては上げられないことすら。全能の神は悪からでも善を作りうるのですから。それでもサタンはなぜ神に反逆せずにおれなかったのか?他でもないですね、それ以外に自分の自由を証明する手段がないからです。しかも、反逆したサタンは次のようにさえ叫ぶのです。「運命の流れが一めぐりした時、自分自身の生命力によって自ら生まれ、自ら出現した者、故郷であるこの天国で、機熟して天上の子等として出生した者、これがわれわれなのだ」、と。サタンは自分が神の被造物であるという前提すら否定しようとします。これをオートポイエーシス論から言いかえるなら、サタンは自分はオートポイエーシス・システムとして自律的に実現したのであり、誰によって作られたのでもなく、なるがゆえに自分の作動は自律的であり自由なのだ、と言っているわけです。自由なものとして創造されたというのは、オートポイエーシス論からは詭弁でしかありません。作られたものが自由であることはありえないんです。あえて言うなら、サタンは自分のオートポイエーシスを証明するために堕天使となったと言えるでしょう。それが自分自身の滅びにつながることは承知の上で。
2011年08月29日
考える葦
続いて学生のレポートからのネタ。哲学のレポートを書かせたら、講義で考えるということを強調したせいか、パスカルのこの言葉を引用した学生が何人かいました。重要箇所を引用すると、
「人間は一本の葦にすぎず自然のなかでもっとも弱いものである。だがそれは考える葦である。かれを圧し殺すには全宇宙が武装するにおよばない。…しかし、宇宙がかれを圧し殺しても、人間は殺すものよりなお高貴であろう。なぜかといえば、かれはおのれが死ぬことも、宇宙にかなわぬことも知っているが、宇宙は、なにひとつ知らないからである」
となります。つまり、パスカルは人間の本質と尊厳とは考えられることにこそあると言っているわけです。そこでこの言葉をオートポイエーシス論でまさに考えてみます。
オートポイエーシス論から言うなら、考えるとは、認識システムが自律的に作動することに他なりません。オートポイエーシス・システムである認識システムの作動は基本的にすべて自律的なのですが、この場合特に、事後的に自律的な作動として認識システム自身によって表象される作動を言います。認識システムは自身の過去の作動についても、自己言及と他者言及を勝手に分けてしまいますから。これに対し、他者言及によるとされた作動が感覚です。もう一つ条件を加えるなら、考えるとは認識システムの自律的と表象される作動のうちでも、コード表象を産出する作動と言えるでしょう。その意味において、考えることは常に普遍を志向します。考えるのに通常使われるコード表象は言葉ですが、図形でも可能です。たとえば、頭の中でそろばんをはじいている暗算の達人のケースなどは図形表象による思考と呼べるのではないでしょうか?
ここでパスカルの言葉を改めて振り返るなら、それはすなわち、認識システムをコード表象によって作動させていることにこそ、人間の本質と尊厳は存する、という意味になります。おそらくは、地球上の他の動物と人間を区別するメルクマールこそが、認識システムの有無です。この地球上の他の生き物には、意識システムをもっているものはいても、認識システムをもつものはいないでしょう。意識システムをもっているなら、一般的な認知は可能だし、記憶ももちえます。判断も可能。しかし、それだけではできないことがある。それは何か?コード表象の産出と操作ですね。つまり、普遍的なものを想定し、表象化して操ることができるのは、認識システムだけです。なぜか?意識システムはコードに従って作動することはできても、自分のそうした作動への自己言及ができないから。生物の意識システムが従うコードは普通、本能と呼ばれています。これ自身は普遍的なので反復も可能ですが、本能は表象を産出することができても、それ自身を表象化することができません。たとえば、エサまでの距離と方向を示すミツバチのダンスは有名です。これは身体をメディアとする表象であって、ジェスチャーや手話と同じこと。しかし、ミツバチにはこのダンスそのものを意味するダンスはないはずです。
これに対して人間の場合、あるジェスチャーを表す別のジェスチャーをすることができます。つまり、そのジェスチャーのコードに別のジェスチャーを対応させることが。対応させるのが言語などの記号表象ならもっと簡単。これにより、人間の認識システムは、特殊を普遍のレベルへ上げて扱うことができます。言ってみれば、他の生物の意識システムは常に特殊へと拘束されているのに対し、人間の認識システムは特殊から自分を解放することができたのです。生命システムや意識システムだけなら、その都度の状況に左右されるだけですが、認識システムは複数の似たような状況に対して前もって対応することができ、その分変化への対応において効率的と言えるのではないでしょうか?
「人間は一本の葦にすぎず自然のなかでもっとも弱いものである。だがそれは考える葦である。かれを圧し殺すには全宇宙が武装するにおよばない。…しかし、宇宙がかれを圧し殺しても、人間は殺すものよりなお高貴であろう。なぜかといえば、かれはおのれが死ぬことも、宇宙にかなわぬことも知っているが、宇宙は、なにひとつ知らないからである」
となります。つまり、パスカルは人間の本質と尊厳とは考えられることにこそあると言っているわけです。そこでこの言葉をオートポイエーシス論でまさに考えてみます。
オートポイエーシス論から言うなら、考えるとは、認識システムが自律的に作動することに他なりません。オートポイエーシス・システムである認識システムの作動は基本的にすべて自律的なのですが、この場合特に、事後的に自律的な作動として認識システム自身によって表象される作動を言います。認識システムは自身の過去の作動についても、自己言及と他者言及を勝手に分けてしまいますから。これに対し、他者言及によるとされた作動が感覚です。もう一つ条件を加えるなら、考えるとは認識システムの自律的と表象される作動のうちでも、コード表象を産出する作動と言えるでしょう。その意味において、考えることは常に普遍を志向します。考えるのに通常使われるコード表象は言葉ですが、図形でも可能です。たとえば、頭の中でそろばんをはじいている暗算の達人のケースなどは図形表象による思考と呼べるのではないでしょうか?
ここでパスカルの言葉を改めて振り返るなら、それはすなわち、認識システムをコード表象によって作動させていることにこそ、人間の本質と尊厳は存する、という意味になります。おそらくは、地球上の他の動物と人間を区別するメルクマールこそが、認識システムの有無です。この地球上の他の生き物には、意識システムをもっているものはいても、認識システムをもつものはいないでしょう。意識システムをもっているなら、一般的な認知は可能だし、記憶ももちえます。判断も可能。しかし、それだけではできないことがある。それは何か?コード表象の産出と操作ですね。つまり、普遍的なものを想定し、表象化して操ることができるのは、認識システムだけです。なぜか?意識システムはコードに従って作動することはできても、自分のそうした作動への自己言及ができないから。生物の意識システムが従うコードは普通、本能と呼ばれています。これ自身は普遍的なので反復も可能ですが、本能は表象を産出することができても、それ自身を表象化することができません。たとえば、エサまでの距離と方向を示すミツバチのダンスは有名です。これは身体をメディアとする表象であって、ジェスチャーや手話と同じこと。しかし、ミツバチにはこのダンスそのものを意味するダンスはないはずです。
これに対して人間の場合、あるジェスチャーを表す別のジェスチャーをすることができます。つまり、そのジェスチャーのコードに別のジェスチャーを対応させることが。対応させるのが言語などの記号表象ならもっと簡単。これにより、人間の認識システムは、特殊を普遍のレベルへ上げて扱うことができます。言ってみれば、他の生物の意識システムは常に特殊へと拘束されているのに対し、人間の認識システムは特殊から自分を解放することができたのです。生命システムや意識システムだけなら、その都度の状況に左右されるだけですが、認識システムは複数の似たような状況に対して前もって対応することができ、その分変化への対応において効率的と言えるのではないでしょうか?
2011年08月22日
コピペ
学生のレポートを読んでいて、とにかくコピペが気になります。ご存じのとおりコピー・アンド・ペーストの略で、ネット上の文献をコピーして貼り付けるだけのもの。さすがにまったくのコピペというのはあまりありませんでしたが。講師が気づかないと思ったら大間違いなんですけどねえ。まあ、それでも通しはしましたけど。私もこのブログではちょくちょくコピペしてますが、やはりルールがあります。というわけで、オートポイエーシスの倫理をからめて、コピペの問題点について。
まず何よりも、レポートに期待されているものは、学生自身の考えたことが書かれていることなんですね。何しろ試験の一種ですから、『教育』で述べたように、学生が講義で教えたことをどこまで理解し、学問的に消化できているかを確認するのが目的です。それがわからなければ、成績のつけようがありません。外から学生を見てもまったくわかりませんから。さらに、レポートはいわゆるアカデミック・ライティングの技能を見るものでもあります。学術文献に期待される手順を踏み、規則を守り、論理的に説得力のある文章が書けているかどうか。そして、同時に学生にとってはアカデミック・ライティングの実践練習でもあるわけです、将来卒論などを書く時のための。したがって、学生が自分自身で書いたものでなければ、何の意味もないんですね、講師にとっても、学生本人にとっても。せいぜい、ネット検索の技術力の試験と実践にしかなっていないわけで、講義内容ともアカデミック・ライティングとも、ほとんど関係がありません。
レポート等におけるコピペの最大の問題は、直接引用でも間接引用でもないコピペは、意図的でないにせよ剽窃に他ならない、ということです。これはすなわち、他人の書いたものを自分の書いたものと偽ることで、偽りですから期待を裏切ることであって、オートポイエーシスの倫理から見て、はっきりと罪です。特に学術の世界では絶対に許されない罪であり、それは剽窃が学問の本質にかかわるから。学問とは、先行する学問コミュニケーションに基づいて学問コミュニケーションを産出します。その際、先行する学問コミュニケーションとの関係の明確化が特に真偽に関して求められるわけです。つまり、そのコミュニケーションが先行するコミュニケーションを真とするのか、偽とするのかが二項的に明確でなければなりません。剽窃はこの関係を曖昧にするうえ、コミュニケーションの送り手を端的に偽ります。本来他者が送り手であるのに、自分が送り手であるかのように見せるわけで、この時点で偽を真に見せかけようとしていますから、偽と真の区分という学問の本質に反するんですね。このため、剽窃が一度発覚すれば、研究者としてのキャリアは終わりです。平気で偽を承知の上で真と偽る者に、真偽の区分を仕事とする学者人格は務まらないということ。学会誌などでもときたま剽窃が発覚して大騒ぎになっていますけども。
剽窃にならないためには、自分の文章なのか他人の文章なのかを、表象化コードの違いによって示す必要があります。つまり、書き方を変えなければいけない。代表的なやり方は「」に入れること、そして長文であればインデントして独立した段落にすること、小さい活字を使うことなど。いずれにせよ、重要なのは明確な差異がわかること。その際、出典をページ単位で示すことも忘れずに。以上は直接引用の場合ですが、間接引用の場合も出典を示すことは当然として、本文中で、その主張の送り手を明記しておいた方が無難です。来学期はこういった点をきっちり教えて、レポートのコピペについては、もう少し厳しく行きましょうか。
まず何よりも、レポートに期待されているものは、学生自身の考えたことが書かれていることなんですね。何しろ試験の一種ですから、『教育』で述べたように、学生が講義で教えたことをどこまで理解し、学問的に消化できているかを確認するのが目的です。それがわからなければ、成績のつけようがありません。外から学生を見てもまったくわかりませんから。さらに、レポートはいわゆるアカデミック・ライティングの技能を見るものでもあります。学術文献に期待される手順を踏み、規則を守り、論理的に説得力のある文章が書けているかどうか。そして、同時に学生にとってはアカデミック・ライティングの実践練習でもあるわけです、将来卒論などを書く時のための。したがって、学生が自分自身で書いたものでなければ、何の意味もないんですね、講師にとっても、学生本人にとっても。せいぜい、ネット検索の技術力の試験と実践にしかなっていないわけで、講義内容ともアカデミック・ライティングとも、ほとんど関係がありません。
レポート等におけるコピペの最大の問題は、直接引用でも間接引用でもないコピペは、意図的でないにせよ剽窃に他ならない、ということです。これはすなわち、他人の書いたものを自分の書いたものと偽ることで、偽りですから期待を裏切ることであって、オートポイエーシスの倫理から見て、はっきりと罪です。特に学術の世界では絶対に許されない罪であり、それは剽窃が学問の本質にかかわるから。学問とは、先行する学問コミュニケーションに基づいて学問コミュニケーションを産出します。その際、先行する学問コミュニケーションとの関係の明確化が特に真偽に関して求められるわけです。つまり、そのコミュニケーションが先行するコミュニケーションを真とするのか、偽とするのかが二項的に明確でなければなりません。剽窃はこの関係を曖昧にするうえ、コミュニケーションの送り手を端的に偽ります。本来他者が送り手であるのに、自分が送り手であるかのように見せるわけで、この時点で偽を真に見せかけようとしていますから、偽と真の区分という学問の本質に反するんですね。このため、剽窃が一度発覚すれば、研究者としてのキャリアは終わりです。平気で偽を承知の上で真と偽る者に、真偽の区分を仕事とする学者人格は務まらないということ。学会誌などでもときたま剽窃が発覚して大騒ぎになっていますけども。
剽窃にならないためには、自分の文章なのか他人の文章なのかを、表象化コードの違いによって示す必要があります。つまり、書き方を変えなければいけない。代表的なやり方は「」に入れること、そして長文であればインデントして独立した段落にすること、小さい活字を使うことなど。いずれにせよ、重要なのは明確な差異がわかること。その際、出典をページ単位で示すことも忘れずに。以上は直接引用の場合ですが、間接引用の場合も出典を示すことは当然として、本文中で、その主張の送り手を明記しておいた方が無難です。来学期はこういった点をきっちり教えて、レポートのコピペについては、もう少し厳しく行きましょうか。
2011年08月15日
バルサ・スタイル
全編サッカーネタです。日本女子代表、通称なでしこジャパンがW杯で頂点に立ち、男子U17代表は世代別W杯でベスト8に、さらに男子A代表はホームの韓国戦を3−0と文字通り圧勝しました。いずれの日本代表も、パスをつなぐそのスタイルから、しばしばスペイン・リーグのFCバルセロナに喩えられます。そこで、それがどういうものなのかをオートポイエーシス論で分析してみましょう。
そもそも、オートポイエーシス論的に言うなら、サッカーとは、パスというコミュニケーションを連鎖させ、ボールを進めて、最終的に敵陣のゴールへパスすれば得点になって一サイクルが終わる、という社会システムです。その際、相手のディフェンスが文字通りの攪乱要因となり、パスの連鎖を困難にします。したがって、サッカーにおいて重要なのは、パス連鎖の確度を上げることに他なりません。そのためには、どういう手段があるでしょうか?まずは、個人能力の強化が挙げられます。パスが多少ずれても、敵の妨害があっても、個人能力で強引にボールをつないでしまうわけです。なでしこが決勝で対戦したアメリカ女子代表が、このスタイルと言えます。では、日本代表がなぞらえられるバルサ・スタイルとは?大きく二つの要素から成っていると思われます。一つは選手間の距離を縮めることで、パスを連鎖しやすくすること。このスタイルをとるチームは、守備のみならず攻撃においても非常にコンパクトです。この利点は、まずパスそのものが短くなるので、ズレの影響を小さくできることと、パスの時間も短くできるため、敵がカットに入れる時間も短くなることです。もちろんこのためには、ボールを正確に足元に止めるか、ダイレクトでパスする選手の高い能力が求められることは言うまでもありません。また、これにより相手もコンパクトで狭くなっているルートにボールを通すことができます。必要なパスが短ければ、その分精度を上げられますから。このため、このスタイルの相手には自陣に深く引いて守っていても、それほど効果的ではありません。
バルサ・スタイルのもう一つの要素は、コンパクトにすることで、パスの選択肢を増やすことですね。選手間の距離が近く、フォローしやすいので、常にパスを受けられる選手が複数いるわけです。これにより、敵は守備に際して的が絞りにくくなります。一つのパス・コースを切っただけではダメで、別のコースでボールを逃がされてしまう。そこにドリブルが加われば、次を予測することは非常に困難。これによって、パス連鎖の確度が上がるのです。コンパクトにすることにはもう一つ利点があって、それはたとえパスが敵にカットされたとしても、カットした敵の周囲に複数の味方がいて、即座にプレス・ディフェンスに移ることができ、ボールを取り返しやすいということ。そのため、このスタイルのチームはしばしばほぼ一方的に相手を自陣に釘付けにします。このように口で言うと簡単ですが、そう簡単に実現できるものではありません。先述したように、ボールをコントロールする全選手の高い技術と、常にコンパクトな位置関係をキープする深い戦術理解、さらに相当の細かい運動量とそれを長時間維持するスタミナが必要になります。長いスプリントはあまり要りませんが、細かく動きづめになりますから。なにしろ、ボール保持者がパスを出せるスペースに必ず味方が顔を出していなければなりませんので。
無論、パス連鎖の確度を上げる方法は他にもあります。パス・スピードそのものを上げる、相手がディフェンスする前に高速でパスをつなぎ切ってしまう、ダイレクト・プレーを多用するなど。しかし、このバルサ・スタイルは日本人に最も向いているのではないでしょうか。何と言っても日本人の武器は俊敏性、運動量、持続力、ボール・テクニック、そしてチーム・ワークと組織規律です。あえて言うなら、日本人のためにあつらえたようなスタイルと言っても過言ではないほど。このスタイルですとボディ・コンタクトも減りますので、どうしてもフィジカルで劣る日本人には、その点でも有利です。さて、9月から、女子と男子のオリンピック予選と、W杯の三次予選が始まります。日本に対しては、どのチームも守備的に来るでしょう。日本向きのこのスタイルを成熟させて、それをどこまで崩すことができるかがポイントになると思います。
そもそも、オートポイエーシス論的に言うなら、サッカーとは、パスというコミュニケーションを連鎖させ、ボールを進めて、最終的に敵陣のゴールへパスすれば得点になって一サイクルが終わる、という社会システムです。その際、相手のディフェンスが文字通りの攪乱要因となり、パスの連鎖を困難にします。したがって、サッカーにおいて重要なのは、パス連鎖の確度を上げることに他なりません。そのためには、どういう手段があるでしょうか?まずは、個人能力の強化が挙げられます。パスが多少ずれても、敵の妨害があっても、個人能力で強引にボールをつないでしまうわけです。なでしこが決勝で対戦したアメリカ女子代表が、このスタイルと言えます。では、日本代表がなぞらえられるバルサ・スタイルとは?大きく二つの要素から成っていると思われます。一つは選手間の距離を縮めることで、パスを連鎖しやすくすること。このスタイルをとるチームは、守備のみならず攻撃においても非常にコンパクトです。この利点は、まずパスそのものが短くなるので、ズレの影響を小さくできることと、パスの時間も短くできるため、敵がカットに入れる時間も短くなることです。もちろんこのためには、ボールを正確に足元に止めるか、ダイレクトでパスする選手の高い能力が求められることは言うまでもありません。また、これにより相手もコンパクトで狭くなっているルートにボールを通すことができます。必要なパスが短ければ、その分精度を上げられますから。このため、このスタイルの相手には自陣に深く引いて守っていても、それほど効果的ではありません。
バルサ・スタイルのもう一つの要素は、コンパクトにすることで、パスの選択肢を増やすことですね。選手間の距離が近く、フォローしやすいので、常にパスを受けられる選手が複数いるわけです。これにより、敵は守備に際して的が絞りにくくなります。一つのパス・コースを切っただけではダメで、別のコースでボールを逃がされてしまう。そこにドリブルが加われば、次を予測することは非常に困難。これによって、パス連鎖の確度が上がるのです。コンパクトにすることにはもう一つ利点があって、それはたとえパスが敵にカットされたとしても、カットした敵の周囲に複数の味方がいて、即座にプレス・ディフェンスに移ることができ、ボールを取り返しやすいということ。そのため、このスタイルのチームはしばしばほぼ一方的に相手を自陣に釘付けにします。このように口で言うと簡単ですが、そう簡単に実現できるものではありません。先述したように、ボールをコントロールする全選手の高い技術と、常にコンパクトな位置関係をキープする深い戦術理解、さらに相当の細かい運動量とそれを長時間維持するスタミナが必要になります。長いスプリントはあまり要りませんが、細かく動きづめになりますから。なにしろ、ボール保持者がパスを出せるスペースに必ず味方が顔を出していなければなりませんので。
無論、パス連鎖の確度を上げる方法は他にもあります。パス・スピードそのものを上げる、相手がディフェンスする前に高速でパスをつなぎ切ってしまう、ダイレクト・プレーを多用するなど。しかし、このバルサ・スタイルは日本人に最も向いているのではないでしょうか。何と言っても日本人の武器は俊敏性、運動量、持続力、ボール・テクニック、そしてチーム・ワークと組織規律です。あえて言うなら、日本人のためにあつらえたようなスタイルと言っても過言ではないほど。このスタイルですとボディ・コンタクトも減りますので、どうしてもフィジカルで劣る日本人には、その点でも有利です。さて、9月から、女子と男子のオリンピック予選と、W杯の三次予選が始まります。日本に対しては、どのチームも守備的に来るでしょう。日本向きのこのスタイルを成熟させて、それをどこまで崩すことができるかがポイントになると思います。
2011年08月09日
ブーム
試験の採点もようやく終わりまして、更新再開です。なんか、レポートのためにここ開いた学生もいたようですが。あのコピペの多さ、何とかなりませんかね?一応単位は出しましたけど。そのうちエントリーのネタにしたいと思います。
さて本題。時事ネタ絡めまして。ブームとは、特定タイプのコミュニケーションの産出頻度が一時的に高くなることを言います。したがって、ブームになるのは基本的に意味コードです。注意すべきことは、コミュニケーションですので、ブームには送り手のみならず受け手も関わってくること。送り手がどんなにそのタイプのコミュニケーションを産出しようとしても、受け手が応じなければ、そこにコミュニケーションは産出されません。そこにあるのは、聞く人のない声であり、見る人のない映像にすぎません。その意味では、ブームになるかどうかを決めるのはむしろ受け手であると言えるでしょう。特にブームと呼ばれるために重要なのは、受け手が今度はそれを情報としてコミュニケーションし、それに連鎖して同じタイプのコミュニケーションの産出が増えるかどうか。つまり、不特定多数の受け手がそれをテーマとしてコミュニケーションするかどうかが重要なのであり、そうでない限りブームにはならないのです。要するに、何がブームになるかを決めるのは、社会システムの自律性なんですね。したがって、ブームというものを意図的に起こしたり、コントロールしたりということは、原理的にできません。
しかも、ブームと呼ばれるために必要なのは、せいぜい5%の人の関与なのだそうです。その社会システムの人格の5%強がそのコミュニケーションに関わるなら、それで大ブームになるらしいです。このため、マスコミが送り手として関連するコミュニケーションを産出しようとするなら、うまく行けばブームを作ることは可能です。ただし、あくまでも結果としてであって、狙ったブームを確実に起こせるというというわけではありませんが。なにしろ、社会システムは自律的なもので。通常では、ブームとマスコミはむしろ相乗効果を発揮してブームを拡大するという関係にあります。局所的なブームをマスコミが取り上げることにより、そのコードがより多くの人格に知られるようになり、より大きなブームになって、それをさらにマスコミが取り上げることで…、という手順。ということは、マスコミが取り上げることそのものがブームのきっかけになる可能性はあるということです。もちろん、100%の確実性はないわけですが。言い換えれば、マスコミがどんなに取り上げようと、受け手が応えなければそれはブームにならないということですね。
次の記事を見つけました。
お台場騒然、「韓流やめろ」コール フジ批判デモに多数参加
2011/8/ 7 19:42
2011年8月7日の昼すぎ。日曜日とあって子ども連れやカップルでにぎわう東京・お台場のフジテレビ周辺に突然、プラカードや日の丸を掲げた集団が現われ、騒然となった。彼らは、2ちゃんねるやツイッターなどの呼びかけを通じて集まった人々で、フジテレビの韓流偏重に抗議するのが目的だ。主催者発表によると、参加者は2500人。フジテレビの周囲で響く「韓流やめろ」の叫びは約1時間に渡って続いた。
http://www.j-cast.com/2011/08/07103785.html
俳優の高岡蒼甫が、フジテレビの韓流偏重報道を批判して事務所を首になったことを契機に、フジテレビ批判が盛り上がり、大手スポンサーの不買運動や、抗議デモにまで進展した次第らしいです。ちなみに抗議デモの映像がこれ。
http://www.youtube.com/watch?v=izv8AKw3tKY
なぜこんなことになったのか?上記のことから言えば、フジテレビは社会システムの自律性に喧嘩を売ったからです。フジはいわゆる韓流コンテンツをヘビー・ローテーションしてますが、それが視聴率をとっていないんですね。つまり、受け手は見ていない、コミュニケーションに関与していないんです。当然、フジがどんなにがんばろうとブームにはならない。にもかかわらず、自局関連企業が韓流コンテンツの権利をもっているとか、安いから穴埋めになるとかいうテレビ局側の都合で垂れ流しを続けた結果がこのデモです。視聴者は、視聴率の低い番組は差し替えろ、もっと自分たちが見たい番組を見せろ、と怒っているわけ。無論、韓流のファンという人もいるでしょうが、視聴率は多数決ですからね。そもそも、多数の人が韓流コンテンツを受け入れているなら、こんな騒ぎにはなっていないはずなんです。高岡蒼甫の発言も聞き流されて終わっていたでしょう。見たい番組を自分で選ぶという視聴者の権利を侵害されたと思っていた人が多数、この発言に共感したからこそここまでの大事になっている、つまり、攪乱として社会システムの作動を変えてしまったわけです。
さて本題。時事ネタ絡めまして。ブームとは、特定タイプのコミュニケーションの産出頻度が一時的に高くなることを言います。したがって、ブームになるのは基本的に意味コードです。注意すべきことは、コミュニケーションですので、ブームには送り手のみならず受け手も関わってくること。送り手がどんなにそのタイプのコミュニケーションを産出しようとしても、受け手が応じなければ、そこにコミュニケーションは産出されません。そこにあるのは、聞く人のない声であり、見る人のない映像にすぎません。その意味では、ブームになるかどうかを決めるのはむしろ受け手であると言えるでしょう。特にブームと呼ばれるために重要なのは、受け手が今度はそれを情報としてコミュニケーションし、それに連鎖して同じタイプのコミュニケーションの産出が増えるかどうか。つまり、不特定多数の受け手がそれをテーマとしてコミュニケーションするかどうかが重要なのであり、そうでない限りブームにはならないのです。要するに、何がブームになるかを決めるのは、社会システムの自律性なんですね。したがって、ブームというものを意図的に起こしたり、コントロールしたりということは、原理的にできません。
しかも、ブームと呼ばれるために必要なのは、せいぜい5%の人の関与なのだそうです。その社会システムの人格の5%強がそのコミュニケーションに関わるなら、それで大ブームになるらしいです。このため、マスコミが送り手として関連するコミュニケーションを産出しようとするなら、うまく行けばブームを作ることは可能です。ただし、あくまでも結果としてであって、狙ったブームを確実に起こせるというというわけではありませんが。なにしろ、社会システムは自律的なもので。通常では、ブームとマスコミはむしろ相乗効果を発揮してブームを拡大するという関係にあります。局所的なブームをマスコミが取り上げることにより、そのコードがより多くの人格に知られるようになり、より大きなブームになって、それをさらにマスコミが取り上げることで…、という手順。ということは、マスコミが取り上げることそのものがブームのきっかけになる可能性はあるということです。もちろん、100%の確実性はないわけですが。言い換えれば、マスコミがどんなに取り上げようと、受け手が応えなければそれはブームにならないということですね。
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お台場騒然、「韓流やめろ」コール フジ批判デモに多数参加
2011/8/ 7 19:42
2011年8月7日の昼すぎ。日曜日とあって子ども連れやカップルでにぎわう東京・お台場のフジテレビ周辺に突然、プラカードや日の丸を掲げた集団が現われ、騒然となった。彼らは、2ちゃんねるやツイッターなどの呼びかけを通じて集まった人々で、フジテレビの韓流偏重に抗議するのが目的だ。主催者発表によると、参加者は2500人。フジテレビの周囲で響く「韓流やめろ」の叫びは約1時間に渡って続いた。
http://www.j-cast.com/2011/08/07103785.html
俳優の高岡蒼甫が、フジテレビの韓流偏重報道を批判して事務所を首になったことを契機に、フジテレビ批判が盛り上がり、大手スポンサーの不買運動や、抗議デモにまで進展した次第らしいです。ちなみに抗議デモの映像がこれ。
http://www.youtube.com/watch?v=izv8AKw3tKY
なぜこんなことになったのか?上記のことから言えば、フジテレビは社会システムの自律性に喧嘩を売ったからです。フジはいわゆる韓流コンテンツをヘビー・ローテーションしてますが、それが視聴率をとっていないんですね。つまり、受け手は見ていない、コミュニケーションに関与していないんです。当然、フジがどんなにがんばろうとブームにはならない。にもかかわらず、自局関連企業が韓流コンテンツの権利をもっているとか、安いから穴埋めになるとかいうテレビ局側の都合で垂れ流しを続けた結果がこのデモです。視聴者は、視聴率の低い番組は差し替えろ、もっと自分たちが見たい番組を見せろ、と怒っているわけ。無論、韓流のファンという人もいるでしょうが、視聴率は多数決ですからね。そもそも、多数の人が韓流コンテンツを受け入れているなら、こんな騒ぎにはなっていないはずなんです。高岡蒼甫の発言も聞き流されて終わっていたでしょう。見たい番組を自分で選ぶという視聴者の権利を侵害されたと思っていた人が多数、この発言に共感したからこそここまでの大事になっている、つまり、攪乱として社会システムの作動を変えてしまったわけです。




