2007年11月27日

キリスト教と自然科学

村上陽一郎の『新しい科学論』からネタを引く第五回目は、キリスト教と自然科学の関係です。従来、通俗的に自然科学とキリスト教が対立的に捉えられていたのに対して、コペルニクスやガリレオ、ケプラー、ニュートンなんて人たちの宗教性に注目し、むしろ、キリスト教の文化的背景が自然科学を可能にしたことを主張する、今日ではややありふれた議論ですが。要するに、自然の背後に法則性を見出しうると信じるには、キリスト教の神の創造の教義が必要であり、自然法則とはまさに神が創造の際に用いた法則だという信念が不可欠だったという話です。もちろん、自然科学はその後キリスト教から独立していくわけで、この本ではその背景に著者の術語で「聖俗革命」、一般には「世俗化」と呼ばれるものを見ています。
これをオートポイエーシス論から見ると、二つのことが言えます。まず、近代の自然科学システムという機能システムの実現を可能にした元の社会システムとして、近代キリスト教という宗教システムがあったということ。あっさりキリスト教システムと呼べないのは、キリスト教そのものも時代と共に構造的ドリフトによって変化しており、自然科学システムがそこから実現したのは、ようやく近代のキリスト教の形態になってだからです。その他の条件もあるでしょうが、おそらくは、中世のキリスト教では、自然科学システムは実現不可能だったでしょうね。ポイントは原罪論のニュアンスです。中世まで、原罪による理性の堕落という説は、人間の思考や経験よりも聖書を上位の認識手段としてきました。トマスなどは理性の職分を地上的なことに限って認めましたが、それでも聖書が地上的なことについて語っている場合は、聖書が上だったのです。これに対して、近世になると原罪説が緩みます。神から与えられたものとしての理性の権利がより広く認められるようになり、神が創造によって著した自然という書物を理性の力で読み解くという発想が生まれてくるのです。啓蒙の合理主義の根底にも、こうしたキリスト教の変貌があることは言うまでもありません。自然科学を可能にしたのは、このように変貌したキリスト教であることは注意した方がいいでしょう。キリスト教も十把一からげというわけにはいきませんし、なぜ近世に初めて自然科学が成立したかという問題もありますから。
もう一つは、ルーマン得意の「機能分化」です。一般に、社会が人類史に登場して以来、ある時期までは宗教システムが全体社会システムの意味システムの役割を務めます。つまり、社会におけるコミュニケーションのすべてが宗教的な意味を持ち、同時に宗教システムのコミュニケーションにもなっている時期があるわけです。日本で言うなら、「マツリゴト(政治)」が文字通り「マツリゴト(祭祀)」であった時代、コミュニケーションされる言葉がすべて「コトダマ」をもっていた時代ですね。ヨーロッパの場合、意味システムとしての役割を担っていたのは、中世以降、キリスト教システムでした。ローマ教皇があれほど巨大な力をもっていたのはそのせいです。その時代、社会におけるすべての出来事は、同時に宗教的な意味を意味を持っていました。職業に就くことも「召命」、世の流れは「摂理」だったのです。
ところが、近世に入り、全体社会システムは機能分化を起こし、政治システム、学問システム、経済システムなどの機能システムが分化実現してきます。政治も学問も経済も宗教的意味を喪失して独自の意味コードに従うようになり、逆に宗教は宗教システムというワン・オブ・ゼムの一機能システムに局限され、全体社会の意味への支配力を失います。「政教分離」とか「世俗化」とはこういうことなのです。学問システムの一つである自然科学システムもこういう文脈の中で実現してきます。上述したようなキリスト教的なルーツは忘れられ、自然科学独自の意味コードで作動するようになってきたのですね。これは機能分化の当然の帰結です。
Posted by autopoiesis at 22:14  |Comments(30)TrackBack(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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この記事へのコメント
女の産出物が「子ども」というハードウェアなら男の産出物は「思想・概念」というソフトウェアでしょう。英語のconceiveという動詞は「子をはらむ」,「想いをはらむ・想像する」という両方の意味を持っています。宗教は人間の想像の産物なのです。ですから,全社会システムにおける地位は変わる筈が無いと思います。今までの科学・技術がキリスト教由来のものとするなら,道儒佛教由来の科学・技術は何か,と考える方が現代の需要に応えることになると思いますが。
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年11月29日 03:38
何度も言うように、オートポイエーシス論的に見て、子供が女によって産出されるというのは間違いです。生命システムである子供は何人によっても産出されえません。ついでに言えば、女性が思想や概念を産出することもありますよ。
オートポイエーシス論的に見れば、宗教とは意味解釈のシステムです。したがって、その解釈した意味が社会の構成員のコミュニケーション産出に際してどの程度の規定力をもっているか、という度合いは変わりえます。現在では就職を神の召命と理解する人はほとんどいないでしょう。
Posted by 山人 at 2007年11月29日 22:04
私には,オートポイエーシス論はどう考えても道教由来の科学・技術としか思えませんが。
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年11月30日 01:46
少なくとも、発案者であったマトゥラーナはチリ人で道教は知らなかったんじゃないでしょうかね。弟子のヴァレラの方は、後に仏教へ関心を深めていきますけど。道教はどうだったかな?
Posted by 山人 at 2007年12月03日 21:56
私の考えでは道教はAB型の宗教なのです。老子の実在は疑問視されていますが,もし実在したとするならAB型だったと思われます。AB型は濃度の粗密こそあれ,世界中のどの人種・民族・国家にもいます。マトゥラーナもヴァレラもAB型だったのではないでしょうか。
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年12月04日 01:05
AB型の人が必ず道教的な思想を思いつくということが証明できたら面白いとは思いますがね。
Posted by 山人 at 2007年12月07日 10:40
キリスト教国ではO+A>85%でB+AB<15%なのです。日本はA:O:B:AB=4:3:2:1です。つまりB+ABが30%も居るのです。中国は多分これが40%を越えるでしょう。AB型は道教のように考え易いが,これが実際に宗教として結実するには,ある程度AB+Bの濃度が濃い必要があるということのようです。ちなみにケネディはAB型でしたが暗殺されてしまいました。
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年12月07日 12:01
残念ながら、統計的に有意な説明とは言えませんね。それが、血液型の要因だけで決まっているということが証明できませんから。風土的要因も大きいんじゃないでしょうか?
Posted by 山人 at 2007年12月10日 22:54
私はキリスト教国の血液型分布は異端弾圧の結果だと思います。血液型分布を考えるときB/Aは良い指標になるのですが,ヒンズー教国・イスラム教国・佛教国は殆どB/A>0.7で,逆にキリスト教国では殆どB/A<0.5です。ヒンズー教国・イスラム教国・佛教国のB型の多さは,其の地の自然環境の苛酷さにはB型の強烈な自己主張が無いと堪えられないという面はあるかと思いますが。ちなみに私はA型はボーズ粒子,B型はフェルミ粒子と考えるとその行動は極めて良く説明できると考えております。
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年12月11日 11:33
ヒンズー教と仏教の国って自然環境苛烈ですかね?イスラム教国はある程度わかりますが、現在ではインドネシアもそうですしね。
Posted by 山人 at 2007年12月14日 19:41
キリスト教国のO+A>85%とB+AB<15%はそのまま神が存在すると思う人,思わない人の比率に一致するのです。即ち異端弾圧の厳しいキリスト教国にあってもB+ABは自分の心を偽ることができないのです。B型の多いイスラム教国の神は全知全能の唯一神であると同時に個人的守護神でもあります。これはイスラム教徒が何か約束するとき必ず「インシャ アッラー(もしアッラーがお望みなら)」を付け加え,約束不履行をアッラーがお望みでなかったとすることに顕われていると思いますが如何でしょうか?キリスト教国にこういう神理解がありますか?
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年12月15日 03:59
血液型がOとAの人に有神論者、BとABに無神論者が多いというデータは見たことがありませんがね?ちなみに私Oですが、オートポイエーシス論者ですので、無神論ですよ。イスラムの「インシャアッラー」は厳格な神意決定論の産物です。イスラム教徒であれば、血液型に関係なく神による運命を信じてるはずですよ。
Posted by 山人 at 2007年12月17日 01:23
佛教に仏の三身という概念が有るのはご存知でしょう?宇宙の真理を体現する法身と長い修行の報いとして得た完全無欠で人々の崇敬の対象となる報身と人間の姿をとって人々を救済される応身とですね。何故こうなるかというと,認知の対象たる仏は,O型にとっては法身,A型にとっては報身,B型にとっては応身でしか有り得ないからです。貴殿が無神論などと平気で言えるのは貴殿にとってはオートポイエーシス論が信仰の対象であるからです。
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年12月17日 04:06
残念ながら、オートポイエーシス論ってリアルそのものなんですよね。一切の幻想が入り込む余地がありません。なにせ、生命の創造を不可能と断じますから、この時点で創造神をもつ宗教全滅ですし。その意味ではむしろ、仏教の方がオートポイエーシス論に近いですね。システムの非実体性と、諸法無我、縁起の思想は共鳴するところ多いです。ヴァレラが晩年そっちへ走ったのもそのせいでしょうかね。
Posted by 山人 at 2007年12月21日 23:14
講談社の新刊案内誌「本」1月号56-8ページに稲垣久和東京基督教大學教授が「南原繁への手紙」という題で,宗教は,結局,いつの時代にもなくならない,と述べています。であれば,人間が3原色によってあらゆる色を認識する(色盲は別として)様に,道佛儒教に一神教を基本ヴェクトルにとってあらゆる宗教・思想(色声香味触法の法に当たるもの)を認識するというアイデアは役に立つと思うのですがね。私が佛教はB型の宗教だと思う理由は,釈尊が「天上天下唯我独尊」(天上でもこの地球上でも自分より尊いものは無い,即ち自己が唯一の基準である)と仰ったと伝えられているからです。
Posted by 稲村 隆弘 at 2007年12月22日 00:07
血液型のB型が天上天下唯我独尊タイプだというのは、どういう根拠なんでしょうね?宗教はなくならないでしょう。認識システムに環境が、つまり存在することは知っていても認識のできないものがある限り。ただし、オートポイエーシス論的には創造説はアウトです。みずから生まれてきてこそ、オートポイエーシス・システムなのですから。
Posted by 山人 at 2008年01月06日 10:48
私がO型の宗教だと思うキリスト教の「初めに言葉ありき。言葉は神とともにありき。言葉は神なりき」(ギリシャ語聖書では「言葉」はLOGOS(論理))と比すればものの考え方の基準の置き方の違いがわかりませんか?AB型の宗教の道教の基準の置き方は「道の言うべきは常の道にあらず」(これが道徳ですよと口に出して言えるようなものは不変の道徳とは言えない)です。これは定義のようなものと思ってください。
Posted by 稲村 隆弘 at 2008年01月06日 21:00
なぜキリスト教がO型で、道教がAB型なのか、よくわかりませんが。それぞれの宗教の規準の置き方はそれでいいと思いますけど。血液型に引っかける必要はないのでは?
Posted by 山人 at 2008年01月10日 22:44
だから定義だと言っているでしょう?A型の宗教である儒教の基準の置き方は「巧言令色,鮮(すく)なし仁」とか「子曰,不以言挙人,不以人廃言」とかのヨハネ伝福音書冒頭の全面否定です。だから科学を発達させられませんでした。血液型と結びつける必要はありませんが,私の観るところ相当の相関があるようです。
Posted by 稲村 隆弘 at 2008年01月11日 06:03
その相関の根拠を教えてくれませんか?言語に対する態度による宗教の分類は面白いと思いますけどね。神道なんかは祝詞はあっても、教典を作らないんですよね。書き言葉と話し言葉という区別もありそうですな。
Posted by 山人 at 2008年01月13日 23:00
わたしは,35-6歳のころ,人間関係が上手く行かないことに悩んでいたとき,さるA型の人に,「人間,血液型によってものの考え方が違うということがあるようですから」と言われて,周りの人間のものの考え方と行動を,血液型と相関させて観察した結果,ほぼ間違いないと確信しました。この人は東大電気を1947年に卒業してジャーナリストになった能見正比古氏(B型)の著作に影響されていたようです。コミュニケーションとは人々の間の意志の疎通を図ることという観点からは能見氏は東大電気卒の最高のコミュニケーションエンジニアではなかったかと思いますが。
Posted by 稲村 隆弘 at 2008年01月14日 03:15
これも一種の単純化、ルーマンの言葉を借りれば「複雑性の縮減」というやつでしょう。悩んでいたあなたに対しては、非常にうまい言い方だったと思います。実のところ、人間の考え方や行動の仕方は、血液型が同じであっても、人それぞれ違うはずなんですけどね。
Posted by 山人 at 2008年01月16日 22:39
単純化は共鳴につながるのではありませんか?撹乱に抗してコミュニケーションを全うするには信号対雑音(撹乱)比を上げることが必要でそのためには共振=共鳴が用いられます。これは通信工学の常識です。内容が逆の意味に捉えられることもあるのがコミュニケーションと言うのは科学でも工学でも有り得ないと思いますが。
Posted by 稲村 隆弘 at 2008年01月25日 08:57
逆ですね。局限まで細部にこだわり、システムのコードをありのままに厳密に読むという試みからしか、共鳴は生じません。攪乱に対してコミュニケーションを全うするのではなく、相互に攪乱を決定性無く生じあうのがコミュニケーションです。こうしてやり取りしていても、私にはあなたの、あなたには私の頭の中の表象は見えませんから。言葉が正反対の意味に取られることなど、日常的にはありふれているでしょう?誉めたはずなのに、相手を怒らせた、なんて経験はありませんか?
Posted by 山人 at 2008年01月27日 21:57
David de Rothschild "The Global Warming Survival Handbook 77 Essential Skills to Stop Climate Change --- or Live Through It" LIVE EARTH 2007
という本には,温暖化を防止する,あるいはしてしまったら生き延びるための77の秘策が書かれていますが,その77番目は"Evolve"(進化せよ)です。これを貴殿にプレゼントしておしまいにします。
Posted by 稲村 隆弘 at 2008年01月28日 06:23
進化とはまさに、オートポイエーシス・システムのコードの自律的な書き換えに他なりません。問題は、それがどう書き換えられるかなのです。しかも、その進化は環境に対応しているとは限らないのですよ。
Posted by 山人 at 2008年01月30日 22:21
A型ですが、バプテストの教会が
一番居心地良いですね。
お寺と逆でAがOより強いです。

中国に多いのはO型ですよ。
日本でも、中庸とか
はっきりしない物を掲げて
平等に行き先がわかるように
しない人が
Oに多いです、経験論ですが。

西洋のA型比率(40以上)は
日本のA型比率(30台後半)を超えます。
西洋は日本以上にA型が多いのです。
でも、日韓ではA型が一番多く、
戦後のキリスト教増加ですね。
A型=キリスト教
O型=仏教
という感じがします。
Posted by A型星人 at 2008年10月14日 00:07
補足

僕の言う強さとは、
我慢強さや体力ではなく、
結果的に権利が多い、
という意味です。
Posted by A型星人 at 2008年10月14日 00:10
A型星人さん,カトリックの国はおおむねO:A:B:AB=4:4.5:1:0.5で,プロテスタントの国はおおむね4.5:4:1:0.5です。華南から東南アジアの佛教国(上座佛教)では,4:2:3:1,ですからこれだけ観れば仰る通りかも知れません。しかし日本(神仏習合),ハンガリー(カトリック52%,カルヴィン派16%,その他基督教派15%),フィンランド(ルーテル派国教会84%)が皆3:4:2:1であるのは,どう説明したら良いのでしょうね。
Posted by 弥勒魁 at 2008年10月14日 04:21
>>A型星人さん

はじめまして。自分の知り合いに、血液型を聞いて回ってみてください。自分が予想したのとはだいぶ違って、驚かれると思います。A型が日本で一番多いのに、日本のキリスト教人口は1%程度です。あまり意味のある類型分けとは思えないのですが。
Posted by 山人 at 2008年10月17日 21:34
 
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