2010年11月14日

スペインで通じないスペイン語

まずは告知を。絶版になっていた『オートポイエーシスの世界 −新しい世界の見方−』(近代文芸社、2004年)ですが、このたび、『オートポイエーシスの世界』として若干改訂し、MyBookleというサイトから、E-Bookとして売り出すことにしました。サイトのメインページ・アドレスは下記の通り、『オートポイエーシスの世界』のページ・アドレスはその下です。

http://www.mybookle.com/browse/main

http://www.mybookle.com/indiv/bookle/2207

このサイト、ドロップシッピングという、注文から印刷、製本という文字通りのオンデマンド出版でもいけるんですが、それだと値段が高くなるのと、コピペにも便利だろうというので、PdfデータそのままのE-Book方式にしました。『オートポイエーシス論入門』(ミネルヴァ書房、2010年)と比較すれば、この本はあくまでも啓蒙書ですし。四六判で236頁、値段は¥1200です。冊子にしたい場合は、両面で打ち出して綴じてください。残念なことに、この本のサイトのページ、「オートポイエーシスの世界」で検索してもGoogleやYahooでは引っかかってくれないのですが。ついでに、近代文芸社から還ってきた『オートポイエーシスの教育 −新しい教育のあり方−』(近代文芸社、2007年)の大量の在庫をアマゾンのマーケットプレイスで手売りします。こっちも絶版で入手は困難でしょうから。値段は新品なので、¥1150のまま。二つ合わせて、若干の小遣い稼ぎを期待しております。

さて本題。数ヶ月に一回、頼んでいない『出版ダイジェスト』という小紙が送られて来るのですが、その最新号に載っていたリレーエッセイ「ことば紀行」の第四回、立岩礼子さんのエッセイで面白い話を扱っていました。周知のように、メキシコでもスペイン語を話しています。あるメキシコ人大学生がスペインに留学したのだそうです。そこで掃除道具のモップを買おうとしても、スライス・チーズを買おうとしても、言葉が通じないんですね。言うまでもなく、同じスペイン語でも、単語が変わってしまってるんです。特にスライス・チーズが面白い。メキシコでスライス・チーズと言うのは、スペインでは黄色いチーズという意味になり、スペインでスライス・チーズはサンドイッチ用チーズという形で言うんだそうです。その大学生、最後に、「変なスペイン語を話しているのはスペイン人じゃないか!」と言ったとか。
笑い話のようですが、オートポイエーシス論的に見ると興味深い話です。これって、特定の言語システムの構造変動の実にいい例なんですよ。スペインでもメキシコでも、スペイン語であることは変わりませんから、文法やつづり方は同じです。スライス・チーズの例だって、スペイン語として意味はとれている。しかし、対応する外物が異なってしまっている。その原因は、意味コードに対応する記号の形が変わってしまったことです。パンにはさむためのチーズという意味コードに対応するスペイン語の単語が、メキシコでは黄色いチーズと読める形に、スペインではサンドイッチ用チーズと読める形になってしまっているわけ。これ、メキシコとスペインの英語の辞書を比べたら面白いでしょうね。同じ英単語に対応している単語の違う例がずいぶん見つかるんじゃないでしょうか?これでも、文法やつづり方のルールは変わっていませんから、スペイン語としてのコードは不変。したがってこの変化は、コードの書き換えを伴わないオートポイエーシス・システムの変化で構造変動です。
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2010年11月10日

英雄

思わず時事ネタです。歴史上あるいは伝説上、英雄と呼ばれる存在がときたま登場します。日本史でしたら坂本竜馬などが代表格でしょうか?ギリシア神話ならペルセウスやテーセウスが挙げられます。では、英雄と呼ばれる資格は何なのでしょうか?これをオートポイエーシス論から考えてみます。するとすぐにわかるのは、こうした英雄たちが、不可能と思われるほどに高い社会的期待に応えたことです。坂本竜馬は薩長合同を成し遂げ、ペルセウスやテーセウスは恐れられていた怪物を退治する。とても普通の人にはできない、しかし、社会的には起きて欲しいと切に願われていることを、その通りに実現して見せたこと。これがまず、英雄という人格を称される条件になります。
次に挙げられるのは、その際に、自分のオートポイエーシスに関するリスクを恐れなかったことです。坂本竜馬は暗殺の危険にさらされながらも活動を続けて実際に暗殺されてしまいましたし、怪物退治が命がけであることは言うまでもありません。それでもなお、やり遂げてこそ英雄です。ここで、その人物の能力が直接には問題にならないことに注意するべきでしょう。英雄はあくまでも成し遂げたことによって評価されます。無論、地位や身分も問題になりません。どんな人間であろうとも、自分へのリスクを恐れず、不可能と思われていた社会的期待に応えたなら、英雄と呼ばれる資格があります。

さて、尖閣諸島における中国漁船の海保の巡視船への追突シーンのビデオを動画投稿サイトのYOUTUBEに投稿した海保の職員が、読売テレビのインタビューに応じました。その記事を抜粋すると

日本テレビは10日夕のニュース番組で、映像を流出させたと神戸海上保安部に申し出た男性保安官(43)に、系列局の読売テレビ(大阪市)の記者が事前に取材していたと報じた。

 記者が番組で語ったところによると、取材は数日前で、神戸市内で約2時間面会したという。

 保安官は記者に海上保安官の身分証を示したうえで、投稿した動機について「あれを隠していいのか。おそらく私がこういう行為に及ばなければ、闇から闇に葬られて跡形もなくなってしまうのではないか。この映像は国民には見る権利がある」「(国会議員による視聴が)限定的な公開だったので、このままでは国民が映像を見る機会を失ってしまう」などと説明。「誰にも相談せず一人でやった」と語ったという。

 映像の入手経路についてははっきりと答えなかったというが、「ほぼすべての海上保安官が見ようと思えば見られる状況にあった。さして国家機密的扱いはされていなかった」と話したという。

 「sengoku38」という登録者名については、「(仙谷)官房長官の名前でもあるし、戦国時代の『戦国』かもしれない。日本を取り囲む状況が戦国時代さながら。そういう意味にも取れるんじゃないでしょうか」とした上で、「意味は自分の中の秘密」と明言しなかったという。

 取材時の保安官の様子について、記者は「落ち着いた様子で、言葉を選んでいた」と語った。保安官は「内部告発のようなことをして多くの人に迷惑をかけてしまった。同僚や上司に大変申し訳ない。職を失うことは覚悟している」「自分には家族がいる」と、涙を見せながら話す場面もあったという。

http://www.asahi.com/national/update/1110/OSK201011100083.html

職を失うというリスクを覚悟で、国民が切望していたビデオを公開するという期待に応えた。これはもう、十分に上記の英雄の条件を満たしているでしょう。現代の英雄誕生です!
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2010年11月07日

whistle-blowing

時事ネタです。whistle-blowingとは、組織内部の人間が、その組織の問題を組織外に告発すること。もともとは技術者倫理、あるいは工業倫理の概念で、きっかけとなったのは、スペース・シャトル、チャレンジャー号の有名な爆発事故。このとき、シャトルの打ち上げ準備に問題があったことを、携わった技術者が、所属する会社の意に反して公表したんですね。もちろん、この公表は会社にとって不都合であったわけです。ここから、whistle-blowingは、組織の一員としての立場と、公益に資するべき技術者の良心のジレンマを伴うものとして倫理学的に考察されることとなりました。『オートポイエーシスの倫理』でも扱ったんですが、より一般的な形でオートポイエーシス論から考えてみましょう。
whistle-blowingはどういうときに起きるのか?ある組織システムに属する人格の担い手が、自分の属する組織システムのコミュニケーションのあり方を、その組織システム自身がその一人格を担う社会システムのオートポイエーシス維持にとってマイナスであるか、その組織システムにかけられている期待に反すると判断したときです。このとき、この人格の担い手が、自分にかけられている組織システムの内的な期待に反しても、組織システム自体にかけられている期待に忠実であろうとし、その場合に自分の担っている人格にふさわしくコミュニケーションしようとするなら、これがすなわちwhistle-blowingとなります。当然、この人格の担い手は、組織システム内的にはペナルティを課せられることもありえますが、それは覚悟の上であることが普通でしょう。
もっとも、定義からわかるように、whistle-blowingは組織システム外の人格にとってはむしろ有益ですから、歓迎され、推奨されることになります。そのためには、whistle-blowingを行なった人格の担い手が、組織内的にも不利になるということがないようにしなければなりません。でなければ、萎縮してしまって、whistle-blowingを行なう人格の担い手がいなくなってしまい、結果的に、社会全体にとって不利となるからです。whistle-blowingを行なう、または行なった者を保護する必要があります。たとえば、公益通報者保護法などはそのために定められたのですね。

動画投稿サイトYOUTUBEに、尖閣諸島における、中国漁船の海保の巡視船への追突シーンを撮影したビデオが投稿されました。民主党政権が、中国への配慮から一般非公開にしようとしていたものです。約44分間のもので、私も見ましたが、漁船が明らかに意図的に追突したことがはっきりとわかるものです。政府は投稿者を発見して処罰すると息巻いていますが、私自身はこれはまさにwhistle-blowingに相当すると思います。なぜなら、国民の大多数はビデオが一般に開示されることを期待していたから。どういうわけか、民主党政府は公開が自分たちにとって不利と判断していたようですが、ここには明らかに、国民の期待との相反があります。まして、民主党は国民の知る権利というものを徹底的に強調していたはず。投稿したのが、海保の職員か、検察関係者かは不明ですが、少なくともわかっているのは、その行為が国民の大きな期待に応えたことです。たとえこの投稿者が処分されたとしても、それは民主党政権に対する国民の更なる落胆の理由にしかならないでしょうね。
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2010年11月03日

無駄と余裕

地味なこのブログも、現在のカウンター設置してから、ようやく一万ヒット超えました。オートポイエーシス論、もうちょっとメジャーになってくれるといいんですけどねえ。『オートポイエーシス論入門』(ミネルヴァ書房)はそのために書いたんですが。アマゾンで未だにレビューすら付きませんね。大学図書館の所蔵も90を超えて、そこそこ読まれてるとは思うんですけど。がんばって更新して啓蒙しましょうか。

時事ネタです。実は京大の11月祭の今年のテーマが、「仕分けできないムダがある」というもので。無論、民主党の事業仕分けに引っかけて、文教予算の削減を批判しているのでしょうが。これを見て思いつきました。そもそも無駄とはいったい何なのか?この問いに答えるのは、それほど簡単ではありません。無駄とは求める効果の得られないこと、と定義したとしても、求める効果そのものが、実は無駄だったらどうなるのか?何に対して無駄なのか?という問いがすぐに出てくるわけです。そこでオートポイエーシス論の出番。これに基づいて無駄を規定するなら、オートポイエーシス・システムの維持に貢献しないことはすべて無駄となります。ただし、あらゆるオートポイエーシス・システムの。あるシステムにとって無駄であることが、他のシステムにとっては、オートポイエーシス維持に不可欠であったりするためです。いかなるオートポイエーシス・システムのオートポイエーシス維持にも貢献しないものが無駄。
この条件、かなり厳しいです。世の中には無駄と言いきれるものってそんなにないんですよ。いくつか思いつくものを挙げてみると、無人の部屋で点いている灯りは確かに無駄。長時間のアイドリングも無駄。ここで、無駄にはもう一つ条件があることがわかります。システムの通常の作動の結果、不可避的に産出されるものは、いかなるオートポイエーシスの維持に貢献しなくても、無駄と言えないんですね。アイドリングは無駄であっても、普通に走る自動車から出る排気ガスは、そうは言えない。したがって、さっきの規定をやり直すと、無駄とは、あらゆるシステムのオートポイエーシス維持に貢献せず、しかも、オートポイエーシスを維持しながら無くしうるもの、となります。話はさらに厄介になりました。それが無駄であるかどうかは、無くしてみなければわからないんです。
こうした無駄と余裕はまったく違います。余裕とは、一言で言うと、システムのネットワーク連鎖に生じる遊びのこと。これはシステムが通常の作動をしているときは不要ですが、作動のどこかに異常を生じたとき、バイパスとなってシステムの作動を維持するのに貢献するんです。脳内の普段使われていないニューロンなんかがそれ。脳の一部が損傷したとき、通常は働いていないニューロンがその機能を肩代わりすることがあります。会社の見かけ余分に見える人員なんかもそうですね。いざというときに動員されて、会社の機能を維持する。余裕のないシステムは、それだけ環境からの攪乱に対してもろくなってしまうんですよ。大学の哲学科なんていうのも、要するに余裕に相当します。一見要らないように見えて、無くすと、何かの学科で行き詰ったときに、戻ってやり直すためのベースが無くなってしまう。あらゆる学科は、それぞれ特定の哲学的前提をもっているからです。そこまで戻って再検討できるのは哲学だけ。仕分け、仕分けとにぎやかですが、無駄のつもりで余裕を削っているのでなければいいのですがね。
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2010年10月31日

万物流転

勢いで古代ギリシアの哲学者についてのエントリー第三弾。今回はヘラクレイトスです。「万物流転」はヘラクレイトスの思想を象徴する言葉としてあまりにも有名ですが、プラトンの引用ではありながら、少なくとも現在残っている自筆と思われる断片には、この言葉は残っていないそうです。とにかく、著書が失われ、引用断片でしか残っていないこの哲学者の思想を解説することは非常に難しいのですが。とりあえず、自然を生成変化から説明しようとしたことは確かなようですね。そして、その生成変化の背後に、不変なロゴスを見ていたことも。ヘラクレイトスは、そうした自然のあり方の本質を火に見ていたということです。それは、闘争しつつ調和しているというあり方の象徴。それはまさにパルメニデスの対極に位置する思想でした。
ヘラクレイトスのような思想は、オートポイエーシス論とは相性がいいんですよ。オートポイエーシス・システムも、常に作動し続けていなければならず、静止はすなわち消失を意味します。システムの構造は、その形式性を維持していたとしても、やはり常に変化し続けているのです。たとえば、細胞は、形が変わらないように見えても、実はすごい勢いで構成素である細胞高分子の反復的産出が起きています。形が変わらないのは、まったく同じ手順で、細胞高分子が産出されていくから。しかし、その構成素を構成している分子はいつも入れ替わり続けているわけです。細胞システムがこうですから、その構造的カップリングに基づき、細胞システムの構造を自分の構造である生体器官の素材にしている生命システムも同じこと。生物の身体も、一瞬たりとも静止してはいません。
さらに、作動しているシステムを火になぞらえるのもありでしょう。特に細胞システムとは、非常に複雑な化学反応の閉じたネットワークであり、実は火そのものも酸化という化学反応なのですから。これをプロセスと大きく捉えれば、オートポイエーシス・システムすべてに広げることも可能です。つまり、火もシステムもプロセスからなっているんですよ。いわゆる実体ではなくて。もう一つ言っておかねばならないのは、このプロセスは決して目に見える現象ではないこと。これは、作動としてのプロセスですから、観察は不可能です。実は火も同じで、見えているのはプロセスではなく、それに伴う物質の変化のみ。プロセスそのものを捉えられるのは、システムそのものにとっての視点における直接知のみです。ロゴスが見えないことを強調するヘラクレイトスも、同様に考えていたのでは?
ただし、ヘラクレイトスでは、同一性の説明が困難です。同じ川に二度入ることは確かにできないし、全く同じ状態の身体と二度出会うことはないでしょう。しかし、特定の人物と二度会うことは原理的に可能なんですね。変化の中で、一貫して不変であり続けるものが存在する。ヘラクレイトスでは、それはロゴスという、いわば法則だけなんですが、オートポイエーシスは具体的状態としては変化し続ける個体の同一性を認めます。自然をプロセスとして捉えるところはヘラクレイトスと同じでも、しかし、閉じたプロセスに個体性、つまり変化を通じた自己同一を帰するのがオートポイエーシス論の特徴と言えるでしょうか。オートポイエーシス・システムは実現から消失まで、いかに変化しようと、同じものであり続けるのです。
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2010年10月27日

善のイデア

前回に引き続き、ギリシア哲学とオートポイエーシスに関するエントリー。今回のテーマはプラトンです。ご承知の通り、プラトンはイデア論を打ち立てた古代ギリシアの哲学者。その著書『国家』は、哲学書の最高傑作と呼んでもよいもの。ホワイトヘッドなどは、プラトン以降、現代までの哲学は全て、プラトンの注釈と言い切っているほど。プラトンの考えるイデアとは、あるものをそのものたらしめる、永遠不滅の実体。たとえば、椅子が椅子であるのは、それが椅子のイデアを分有する、あるいはそれに与るから。このあたりの説明はいささか曖昧ですが。我々が何かを何かとして認識しうるのは、生まれる前に見ていたそのもののイデアを、そのものの知覚を契機に想い出すからで、これを想起説と言います。そしてプラトンは、イデアと世界の関係を三つの比喩で説明しました。線分の比喩、太陽の比喩、洞窟の比喩です。今回取り上げるのは二つ目、太陽の比喩です。
太陽の比喩を簡単に説明します。プラトンによれば、あらゆるイデアの中で究極のイデア、イデアのイデアと呼ばれるものが、善のイデアです。善と言っても、これは道徳的な善だけを意味するのではありません。むしろ、そうあるのがよい、という意味のよい、を表しています。善のイデアをプラトンは「学ぶべき最大のもの」とも。で、プラトンによれば、善のイデアと他のイデアの関係が、地上における太陽と可視物の関係に相当するのです。まず、太陽は可視物である動物や植物を育みます。つまり、太陽はそれが存在している根拠です。同様に、善のイデアも他のイデアの存在根拠とされます。なぜなら、あるものがそのものであるのは、そのものがそれであるのがよいということを根拠にもつため。もう一つ、太陽はその光で可視物をはじめて見えるようにします。したがって、太陽は可視物の認識根拠でもあるのです。同じく、善のイデアは他のイデアの認識根拠でもあるとされます。そうであることの理由は、そうであるのがなぜよいのか?という問いの答として与えられるためです。
実のところ、オートポイエーシス論からは、プラトンのこの比喩に反論せざるをえないんですよ。理由は簡単、オートポイエーシス・システムは、そうあるのがよいからそうであるわけではないからです。そうではなく、このシステムはそうありうるから、そのあり方が環境との相互浸透の下で許容されるから、それ以前の作動のあり方に接続可能だったから、たまたまそのあり方をしているにすぎません。マトゥラーナや河本先生が繰り返し強調しているように、オートポイエーシスにいっさいの目的論は通用しないし、システムがそうあることには、そうありうるという以外に、いかなる積極的かつ限定的な理由も存在しないのです。実現し、作動していたら、たまたまその時点ではそうなっていたというだけ。したがって、そうあるのがよいということがそうある理由とするプラトンの議論は、オートポイエーシスにはまったく妥当しないんですね。ということは、世界全体もこうであるのがよいからこうであるのではなく、たまたまこうであるからこうであるにすぎないわけで。もっとも、こうでありうるという条件が付いている分、まったくの偶然に委ねられているわけではありませんが。オートポイエーシス論というのは、自分でやっていても思いますが、ほんとうに身も蓋もない理論です。
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2010年10月24日

パルメニデス

先日小さな学会へ行ってきまして、そこでの発表論文に刺激されて考えたネタです。パルメニデスはエレア派と言われる古代ギリシアの哲学者で、存在をはじめて哲学的に考察した人。「在るもののみが在り、在らぬものは在らぬというのが真理」と説いたことで有名です。これだけだと単なるトートロジーのように見えますが、その発表論文の主旨は、ここでパルメニデスが言っている「在る」は、存在と非存在の概念を超えている、というものでした。それは思惟と存在を一つにするものと規定されます。パルメニデス自身は、ここから論理を展開し、数多性や運動変化までも否定しました。有名なゼノンの逆理は、その証明のために弟子のゼノンが考えたものです。
一見すると、まったく当たり前のことから推論して無茶なことを言っているようにしか見えないパルメニデスの議論をオートポイエーシス論から見ると、次のように言えると思います。要するにパルメニデスは、システムそのものにとっての視点から、存在を語っていたのだと。つまり、システムや環境や世界の実在は、あらゆる概念コードを超えて、直接性として我々に現れてきます。我々がそれを捉えているのは、システムそのものにとっての視点からの直接知によるのです。概念コードを超えているということは、存在と非存在の二項コードも超えていることに他なりません。この視点に立ったところで成立しているのが、パルメニデスの上記の命題の正しさなのです。
パルメニデスに問題があるとするなら、このレベルで考える際に、存在と非存在という二項コードをもちこんだこと。言い換えると、数多性と運動変化のために非存在が必要だとしたことです。パルメニデスはこの非存在を「ト・ケノン」と呼びました。「空虚」と訳されています。パルメニデスによれば、数多性と運動変化には「ト・ケノン」が必要であり、それが不可能である故に、前者も不可能ということになるのでしょう。ポイントはここ。非存在なしに数多性や運動変化が可能なら、それらは否定される必要はないわけです。ここで再びシステムそのものにとっての視点に立ち返るなら、数多性や運動変化は実のところ、存在・非存在の二項コードを超えたところで可能なんですね。それはシステムの個体性であり、作動であるわけですから。いずれも、いわば概念以前です。逆に言うと、ここから概念としての数多性や運動変化は導出できないんですよ。
オートポイエーシス論では、システムそのものにとっての視点と区別して、観察者の視点を考えます。すると、上の議論は、前者の視点の後者の視点への変換不可能という話になるんです。実はパルメニデスも、観察者の視点に相当するものを考えていて、それが真理の道に対する、「在らぬものも在る」とする思惑(ドクサ)の道。こちらでは五感が捉える数多性や運動変化が一応承認されます。もっとも、その全体は錯覚とされるのですが。この考え方は、観察者の視点とは、事態を誤解する視点であるという、オートポイエーシスの考え方と重なっているように思われるのです。五感による認識は、まさに認識システムという観察者の産出する表象なのですから。観察者の視点からは実在は捉えられない、実在を捉えるのは、パルメニデスが思惟と呼ぶ、システムの作動そのものなのです。
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2010年10月20日

生物多様性?

時事ネタからめまして。COP10という国際会議が名古屋で開かれています。日本語にすると生物多様性条約第10回締約国会議だそうで。国家を中心に生物多様性を保全しようというものみたいですね。では、生物多様性とは何でしょう?この条約による定義では、

「すべての生物(陸上生態系、海洋その他の水界生態系、これらが複合した生態系その他生息又は生育の場のいかんを問わない。)の間の変異性をいうものとし、種内の多様性、種間の多様性及び生態系の多様性を含む」

というものだそうです。意味あるんですかね、これ?オートポイエーシス論から見るとちょっと疑問が残ります。そもそも多様性とは?おそらく種の数が多いことなんでしょうが、何を基準に多い、少ないを判断してるんでしょう?そして、どの範囲でそれを考えるのか?動物って動きますよね。オートポイエーシス論で言うなら、構造的カップリングに参与している生命システムの遺伝コードのタイプの数、というところになるんでしょうが、この数自体にはほとんど意味がありません。問題なのは、それぞれの生命システムがオートポイエーシスを維持して存続していることのみ。存続しているタイプの数は、あくまでも構造的カップリングおよび、環境との相互浸透の結果です。この二つの条件が許容するところでは、タイプの数は多くなり、そうでなければ、タイプの数は少なくなります。
つまり、生物多様性ってあくまでも成立した結果なのであって、目標にするようなものじゃないし、そもそも目標たりえないんですよ。したがって、その保全というのは意図的にできるわけじゃない。人間の社会システムからの攪乱という要因は確かにあるでしょう。しかし、それも攪乱である以上、コントロールできるものではありません。その上、自律的である社会システムの作動すら、国家の政治システムが制御できるものではないし、そもそも、生物多様性を上げるためにはどう制御すればいいのかすらわからない。上げるつもりでしたことが、結果として下げてしまうことも十分にありうる。特にたちが悪いのは、注目がどうしても目立つ種、人間にとって有益な種に向きがちであること。あえて試みるなら、構造的カップリングに参与しているすべての種を考慮しなければならないのですが。保全が特定の種に傾けば、構造的カップリングに与える攪乱を大きくするだけのことです。いわゆる絶滅危惧種の指定は、この危険を冒していないかどうか。
一番の問題は、生物多様性を考える時間の尺度。進化はすなわち遺伝コードの構造的ドリフトですから、環境が許容する限り、遺伝コードのネットワークの書き換えに際して必ず偏差を生じ、種を多様化させます。つまり、時間さえあれば、種は必ず多様化していくんですね。もちろん、その時間の単位は数万年。生物多様性が減っているように思われるのは、人類的な時間の尺度で考えるためなんです。そもそも、地球の歴史上、当時の生物種の90%以上が死滅するような大絶滅は何度も起きているのであり、進化という構造的ドリフトがそのたびに再び種の多様性を作り出してきたわけで。平たく言えば、人類ごときが何をしようが、生命システムのこの営みそのものを破壊するのは無理ですね。したがって、生物多様性をあえて問題にするとしたら、それは結局、人類が利用したい種の保全という問題にすぎないんです。



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2010年10月17日

メタファー

昨日ある学会へ行ってきまして、そこでの発表の一つからヒントを得たネタです。そのものずばり、メタファー、隠喩(あるいは暗喩)の本質についての発表でした。というわけで、オートポイエーシスの言語論からメタファーについて考えてみた次第。まず簡単にオートポイエーシスの言語論を振り返っておきます。オートポイエーシス論的に言えば、言語とは、社会システムの意味コードに対応させられた、コード表象化コードによってコード化されたコード表象のシステムです。コード化されたコード表象は一版的に言うと記号であり、言語記号も記号の一種。ソシュールの概念を借りれば、対応する意味コードがシニフィエ、コード表象がシニフィアンになります。シニフィアンとシニフィエの無契約性はここでも成り立っていて、意味コードとコード表象の対応関係には、社会システムの自律的作動がそう決めたという以外のいかなる根拠もありません。そして、言語に関わるコード表象化コードのネットワークが、最広義における文法です。これには、音声記号としての発音から文字記号の形象、その連鎖の可能な形式まで含みます。
さて、メタファーとは、簡単に言うと、「のようだ」とか「のような」という表現を使わない比喩です。これらを使うものは直喩と呼びます。よくある形は、「AはBだ」というもの。もちろん、AとBは同一の関係にもなければ、AがBに属する、あるいはAがBを担うという関係にもありません。一見全く関係ないようなものが、あっさりと等置されるのがメタファーです。重要なことは、メタファーが理解されるということ。凝りすぎていてなかなかわからないメタファーもあったりしますが。普通のメタファーは、ちゃんと理解され、何かに喩えられているものについて何らかの知識を与えることができます。これがいかにして可能なのかが問題です。
オートポイエーシス論から言えば、こういう答になるでしょう。AとBを、他のことをすべて度外視してある文脈においてのみ比較するとき、それぞれに対応する意味コードが、ネットワーク上で同じか似たような位置にある。松尾芭蕉の『奥の細道』の有名な冒頭、「月日(つきひ)は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年(とし)もまた旅人なり」を考えてみましょう。現代語にして簡略化すると、「月日も年も旅人だ」となります。さらに省略して、「月日は旅人だ」だけにしても、本質は変わりません。このメタファーを分析すると、運動という文脈のみに焦点が当てられ、過ぎ去り続けるという意味コードが、月日にも旅人にも対応していることが、取り出されているわけです。これによって、過ぎ去るという意味コードとの対応が強調されます。もちろん、同じ運動の文脈でも、旅人は戻ってくる可能性があるという意味コードとの対応は考慮されていません。芭蕉に対して、「旅人は戻っても来るから、過ぎ去ってけして戻らない月日の比喩には不適切だ」と言ったら、ちょっと野暮ですね。芭蕉は過ぎ去るという意味コードのみを共通して対応するものして取り出しており、そのことが我々にはわかるのですから。メタファーが効果を上げるには、対応する意味コードの、文脈上の一致あるいは位置的な類似が普段表象されにくいもの同士であること、それでいて、その文脈において考えれば、それが明白であること、という二つが必要になります。意外だけれど、言われてみれば、ということですね。創作者はそういう組み合わせを求めて、知恵を絞るわけです。
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2010年10月13日

神経システムという誤解

まずはサッカーネタ。日本代表はアウェーで韓国代表と親善試合を行い、0−0のドローでした。仕方ないでしょう。日本はアルゼンチン戦から移動を含め中三日で、W杯の出場選手が4人怪我で離脱中です。特にアルゼンチン戦で完封したGKと得点したFWが不在というのは大きいですね。しかも、かつてはW杯のスタジアムだったとは思えないほどの無残なピッチ状態。あれは畑です。グラウンダーのパスが踊る、踊る。踏ん張りもきかないので、シュートやプレース・キックのときにも苦労してました。韓国代表すら、芝に滑って転びまくるほど。そして韓国のプレーはラフすぎます。ボディー・チャージにしてもアフターが多い。サッカーは足でやるものであり、五分のボールならともかく、キープされたら、ボールと相手との間に身体を入れるか、足でボールを狙うのが普通で、そこで体当たりすれば、普通はファールです。駒野はアフターでダイビング・ヘッドをくらい、受身が取れぬまま落下、上腕骨骨折で全治不明だとか。
そして、いつもながらの極端なアウェー・ジャッジ。サッカーにはつき物ですが、それにしても目に余る。あれだけ攻め込んで倒されまくったのに、日本代表はエリア付近でFKを一回ももらっていません。駒野に対するプレーでもイエローなし。何よりひどいのはあの明確なエリア内でのハンドの見逃し。両手を広げてボールの軌道へ飛び込んでますから、あれはもう故意かどうかを問題にする以前。完全にPKです。しかし、それが日本であまり騒がれないのは、自分に不利な相手のミスに対する日本人の寛容さでしょうか?私自身はそのあたりに、日本がサッカー大国に成りきれない理由があるような気がするんですが。サッカー大国ほど実はミス・ジャッジにはうるさいですよ。
という次第で、ドローは仕方ないにしても、試合内容はほぼ圧倒してました。与えた決定機は二つほどでしょうか?韓国の攻め手はほとんどハイボールの放り込みと、強引なロング・シュートだけ。日本の守備が完全に機能していた証拠です。ボール・ポゼッションも55%と、日本は中盤を支配し、何度も決定的に崩していましたが、芝のせいで軸足を踏ん張れなかったんでしょう、押さえた強いシュートにならず、決め切れませんでした。それでも、本田はほんとうにすごかった。当たられてもびくともしないキープ、確実なつなぎのパス、素早いボール・カット、力強いドリブル、積極的なシュート。別次元のプレーでしたね。今年の日本代表戦はこれで終わり。来年はアジア・カップと、まだ確定していませんが、コパ・アメリカへの招待参加があるはず。さらなる飛躍の年にして欲しいものです。

さて本題。福井大の学生のレポートを見ていて、あらためて思ったのが、神経システムという誤解の蔓延です。もっとも、マトゥラーナもルーマンも河本先生もこの概念を使いますから、仕方ないと言えば、仕方ないんですが。そこでは、ニューロンを産出するオートポイエーシス・システムが神経システムと規定されてます。まずもう、これがオートポイエーシス論としてまずい。というのも、ニューロンとは神経細胞のことですから、これ自身が一個のオートポイエーシス・システムなんです。したがって、ニューロンが産出されることはありえないんですよ。自律的に実現するオートポイエーシス・システムは構成素ではありえない、これが鉄則です。
さらに、ニューロン・ネットワークに起きる変化を構成素と見なすとしても、このネットワーク、それだけでは明らかに閉じていません。脳は全身の器官と結ばれています。循環器系、呼吸器系、消化器系によって維持され、感覚器官からの攪乱を受け、神経系を通じ筋肉系に攪乱を与える。以前から繰り返しているように、これは、生命システムの部分ネットワークにすぎないんですね。ニューロン・ネットワークが一見独立したシステムに見えるのは、基本的に細胞システム間の関係がすべて、構造的カップリングであって、撹乱のやり取りにすぎないから。このため、脳神経系が単独で存在し、身体の他の部分と攪乱をやり取りしているだけに見えてしまう。しかし、よく考えてみれば、脳も生体器官である以上、そこに起きる変化はことごとく、生命システムの作動なんですね。その産出まで含めて。つまり、独立したシステムとしては、神経システムなんて実在してないんです。
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2010年10月10日

上手くいく幅 祝アルゼンチン戦勝利!

まずはサッカーネタ。日本代表はホームでアルゼンチン代表と親善試合を行い、1−0で勝ちました!七戦目にして初勝利です。特に私の場合、98年W杯フランス大会の初戦が印象に残ってますので、感慨もひとしお。当時は一対三でプレスをかけても、ひきずられてましたからね。今では、うまくいけば一対一でもボールを奪うことができる。進歩したものです。これまでは、個人技で局面を突破してくる南米勢は苦手としていたのに、パラグアイ、アルゼンチンと連勝。どちらもW杯はベスト8。しかも、アルゼンチンは直前の親善試合でW杯王者のスペインをなんと4−1で破ってますからね。これはすごいことですよ。
確かにこれは親善試合ですし、アルゼンチンもベストなコンディションではなかったでしょう。しかし、メンバーはほぼベストですし、暫定監督の進退がかかっていて、モチベーションもそう低くはなかったはずです。それはプレー振りにも表れていたのではないでしょうか?それに、日本も先発七人は海外組で以前ほどホームのアドバンテージはなく、何より怪我でW杯のスタメンが四人欠場、加えて監督は初陣で練習はわずか四日と、どちらかと言えば、日本の方がハンデは大きかったですしね。とどめに代表デビューも一人。キーパーの負傷交代までありました。
にもかかわらず、この勝利は決してラッキーなものではありません。シュート数でも上回り、決定機の数は明らかに日本の方が多かった。降り注ぐシュートの雨をキーパーのファインセーブでしのいで、ワン・チャンスをものにしたという勝ち方ではなかったですね。むしろ、キーパーのセーブに救われていたのはアルゼンチンの方でした。本田と香川と、ボールの収まるポイントが二箇所あるというのは実に強い。この二人、片や身体を張って、片やドリブルでと、ボールを奪われません。その間に味方が上がることができる。そして、これまで築いてきたディフェンスに、ザッケローニ新監督が縦への意識を植え付けたのが、見事に機能していました。攻めがほんとうにシンプルで速かった。あの短時間でと不思議に思う人が多いと思いますが、ある程度のレベルへ達していれば、そこへ秘伝や口決を聞くだけでも、目覚しい向上を成し遂げるということはあるのです。特に縦パスを奪われた場合の攻守の切り替えは完璧でした。
アルゼンチンは、確かにメッシは凄まじいの一言でしたが、それに頼りすぎです。W杯のときに見えた問題が解消し切れていないように見えました。もともと、使われるタイプの選手なのに、チームとして使えていない。むしろ、すべてをメッシがやらなけばならなくなってしまう。ポジションは必然的に低め。これでは怖さが半減してしまいますね。アルゼンチンなんですから、中盤から前線へ、ボールをさばいて、運べる選手がいそうなものなのですが。
ネットで見ていると、この勝利は国内で代表の評価を上げたのみならず、世界的にもかなり大きく報道されたようです。正しく言えば、W杯のベスト8とベスト16の対決なので、それほどのジャイアント・キリングでもないのですが、どうも日本は認知度が低いというか、まだそれほどの強豪国としてイメージされていないのでしょう。しかし、こういう勝利を積み重ねていくことで、そのイメージも変わっていくのでしょうね。負傷離脱が続出ですが、次の韓国戦もがんばって、いい流れを続けて欲しいところです。

さて本題。オートポイエーシス・システムがオートポイエーシスを維持しながら可能な作動には幅があります。構成素は次の構成素の産出を可能にするだけでいいので、その条件さえ維持されていれば、偏差が出ても許容されうるのです。このため、このシステムはある面ではかなりの柔軟性を発揮します。環境の大きな変化も自分の中で緩衝し、存続することができるのですね。上手くいく幅というものがあるのです。無論、その幅を超えれば、システムは消失するのですが。同様のことは構造的カップリングの場合にも成り立ちます。構造的カップリングが維持可能な範囲にも幅があるのです。例えば、認識システムと生命システムのカップリングには決定性がありません。ということは、認識と運動の完全な一致は滅多にないわけです。たいてい、しようと表象される運動と、実際の運動の間にはズレがある。
しかし、それでも我々はちゃんと日常生活を送っているわけです。それはなぜか?とりあえず許容される幅の中に納まっているから。今私はキーボードを打っていますが、指を落とす位置がミリ単位で狂っても、とりあえず同じキーを打ってくれます。これがセンチ単位だと違ったキーになってしまうでしょう。包丁で野菜を切るのも同じこと。指さえ切らなければ、ミリ単位で不揃いになっても、何の問題もありません。鉄棒で逆上がりをするにも、完璧なフォームとタイミングである必要はなく、要はできさえすればいいだけ。さらに言えばコミュニケーションの場合も同じ。そこには二重偶然がありますし、参加者は互いにブラックボックスですから、全員の完璧な相互理解の上で進んでいるということはありえません。そこには、コミュニケーションが連鎖しうる範囲という、上手くいく幅が存在しているわけです。結局、我々の世界は、この幅のおかげで存続できているのですね。
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2010年10月06日

政治責任

先日福井大学で行なった集中講義で課題に出したレポートが郵送されて来まして、ざっと目を通しました。今年は最後まで30人以上の出席者がいたので、期待していたんですが、送られて来たレポートはわずかに14本…。それほど難しいテーマじゃないはずなんですけどねえ。ちょっと締め切りがきついんでしょうか?参考文献の入手が困難ということもあるかもしれませんが。図書館には一冊ずつしかないし、わざわざこのために買う学生もあまりいないでしょうし。その内、これは確かにオートポイエーシスを理解していると読めるレポートは2本のみ。実のところ、歩留まりとしては、こんなものでしょうね。それくらい、飲み込むのが難しい理論です。通常の観察者の視点から、システムそのものにとっての視点への転換が求められますから。

さて本題。時事ネタです。最近マスコミから聞かなくなった言葉に政治責任があります。以前はことあるごとに、政治責任を取れ、と政治家に迫っていたはずですが。と言っても、何を指しているのか、なかなかわかりにくい概念で、今回はこれをオートポイエーシス論から考えてみましょう。政治家とは、政治システムにおける人格の一つです。ですから、それは当然、さまざまな期待の焦点となっています。政治家は、そうした期待に応えるのでなければなりません。簡単に言うと、政治責任とは、まさに政治家がかけられている期待に応えることなのです。もし、応えることができなければ、もちろん何らかのペナルティを受けることになり、それが政治責任を取るということ。究極的には、政治家人格を担うことの停止、つまり辞任ですね。
ここからわかるのは、政治家が政治責任を求められる局面が実に広いことです。それは法システム上の違背、すなわち犯罪に限りません。言い換えれば、法システム上犯罪でないからといって、それで政治責任を免れることはできないということです。もちろん、犯罪を犯せば、政治責任も取ることが求められます。それは、政治家人格の担い手も同時に国民人格の担い手として、法の遵守を期待されているため。しかし、それ以外にも政治家にかけられている期待はありますから、それに応えられなければ、犯罪でなくとも政治責任は問われることになります。具体的に言えば、服務規律違反や、公約違反、部下の監督不行き届き、不品行、能力不足など。

元民主党党首、幹事長の小沢氏が、検察審査会によって強制起訴の審判を受けました。この際、小沢氏が有罪であるかどうかは度外視しましょう。問題は、かけられた容疑について、小沢氏が一度も公的な席で、何より国会で弁明をしていないことです。これはすでに、政治家人格の服務規律違反と言わざるをえません。つまり、これだけでも政治家人格への期待を裏切っており、政治責任が問われるべき事態なのです。その状態で民主党の代表選挙に出馬し、落選したとは言え、議員票の半数近くを得たのですから、これは異常事態ですね。今回の強制起訴も、明らかにそのことへのペナルティという側面があるのでしょう。国会で弁明しないなら、せめて裁判で弁明せよ、ということです。裁判の結果として無罪になったとしても、その過程で政治責任を問われるような要件が明るみに出る可能性は低くないと思います。政治責任と法的責任は、上述したとおり、まったく別のものです。
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2010年10月03日

数と差異

今回はオートポイエーシス論で基礎数論に挑戦します。つまり、数とは何か?という問題。ちゃんと書ければ論文にするところですが、現状はアイディアのスケッチ程度なので。何しろ、これは数理哲学上の大問題ですからね。出発点は、認識システムがもつ概念コード。これは、オートポイエーシス・システムのコードとして、原理的に二項性をもちます。すなわち、システムの構成素とそうでないものを区分する働きがあり、Aと非Aを区別するのです。ここに差異が導入されます。ここでさらに、二項的なコードからより抽象的なコードを読み取れば、…である、と、でないの差異がコード化されてくるでしょう。具体的なAが抽象されますから。その上で、…であるに対応するコード表象を作れば、これが単位としての一です。言い換えれば、あらゆる他に対する個ですね。これはまた、差異そのものの統一としての一にも対応します。言うならば、全体としての一と言えるでしょうか?したがって、全体も一、個も一です。
続いて、この差異の双方に対応させてコード表象を作ればこれが二。全体の一は個の一と個でないものとで二に分かれるわけです。というわけで、一の成立は同時に必ず、二を生じます。後は、差異化とコード表象化の繰り返し。個の一の中でもう一度差異化して、個でないものを合わせるか、あるいは個でないものの中で差異を作り、個である一と合わせて対応させてコード表象化すれば、三です。この際、言うまでもありませんが、コード表象の形は問題になりません。漢数字で三であろうが、アラビア数字で3であろうが、日本語でさんであろうが、英語でThreeであろうが。なぜなら、ソシュールで言うそのシニフィエは、抽象的なコードの次元で押さえられているから。プラトンが数における思惟の対象と呼んだのが、おそらくこれ。我々は数記号を操りながら、実際には非常に抽象的なコードの操作をしているのです。
これにより、我々はカント風に言うならアプリオリに、普遍性をもって数を扱うことができます。任意の物に数を適用できる。あらゆる物を数えることができるのは、物が物であるために、概念コードによる二項的な差異化を必要とするから。つまり、物であることは、その物とそれ以外との差異を前提し、ここに抽象化を加えて、コードを取り出せば、それは個としての一を作り出す作業と同じなのです。このため、任意の物は単位としての一でありうる。リンゴ一個、犬一匹、人間一人…。しかも、実はこれは同時に、二を作ることでもあるわけです。リンゴ一個は、それでないものと合わせて抽象化すれば、コード表象としては二になります。
スペンサー・ブラウンの形式算法もこれに近い議論をしていますが、それと比べたオートポイエーシス論の強みは、差異を作り出すという働きが、システムの作動によって原理的に確保されていること。形式算法は差異を引くことから始まり、そのため、差異がいかにして引かれるか、差異がいかにして捉えられるかは、考察の対象外なのです。また、差異への還元という抽象化がいかにして可能なのかも説明されていません。オートポイエーシス論では、コードのコードを読み取るという仕方で、抽象化を理解します。
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2010年09月29日

箸でハエをつかむ

妙なタイトルだと思うかも知れませんが、実は運動の直観の話です。宮本武蔵の有名なエピソードに、箸でハエをつかむことができた、というのがあります。史実かどうかははっきりせず、疑問に思う人が多いようです。そのせいかどうか、箸でハエをつかむコンピューター・ゲームまで作られているそうで。しかしながら、オートポイエーシス論から言うと、できてもちっともおかしくないんですね、これ。運動の直観とは、自分の運動の軌跡で相手の運動の軌跡を捉えることです。言い換えると、自分の運動を相手の運動に寄り添わせること。したがって、一瞬ハエの動きに手の運動を寄り添わせることができれば、その瞬間はハエが止まっているのと同じになります。箸でつかむことすら可能でしょう。もちろんこれは、ハエを見てから手を動かしたのでは絶対に無理。反応時間と運動にかかる時間がありますから、正確に外れます。
したがって、これを可能にするのは動体視力ではないんですね。ハエが飛ぶのを目で追えても、それだけでは不可能です。むしろ必要なのは、手の動きでハエの動きを捉えること。あえて言えば、認知することと言えます。宮本武蔵の例では信憑性がないと言う人もいるかもしれませんが、実は、これに近いことを本当にやっていた人がいます。第二次大戦のゼロ戦の撃墜王、坂井三郎氏です。この人、パイロットとして一流になるためにさまざまな特訓をやっていた人として有名で、その一つが飛んでいるトンボやハエを手で捕まえることでした。その前に、とまっているトンボやハエを捕まえる訓練もしていたそうですが、これは反射神経の訓練にしかなっていません。本人は同じつもりでいたものの、実は飛んでいる場合はまったく別の訓練になっているんですね。反射神経も確かに必要ではあっても、飛んでいるトンボやハエを捕まえるには、むしろ上述した運動の直観が不可欠なんです。
飛んでいるトンボやハエの速度から後の位置を予測しただけではまず無理。そこへ手を伸ばすにも、間に合わないでしょう。その瞬間の手の軌跡が、飛んでいる軌跡と重ならなければなりません。トンボやハエの接近を見た瞬間に十分な反射神経によって手を動かし始め、トンボやハエを見るのではなく、手の動きそのものによって、相手の運動を捉える。繰り返し述べているように、見てから手の運動を調節するのでは絶対に間に合わないんです。坂井氏の場合、ハエは10%くらいの確率だったそうですが、トンボはほぼ100%捕まえることができたとか。これはハエとトンボの軌道の違いを考えれば理解できます。ハエの方が直進性が低くてしょっちゅう曲がるので、手が追い切れないんですね。それでも、このレベルまで来ていたなら、撃墜王というのも十分に納得できます。飛行機を飛行機で撃墜するには、自分の操縦で、相手の機体の動きを把握する必要があるわけですから。目で追ったのでは絶対に間に合わない。見てから予測して操縦しても遅い。操縦そのものが認知になっているのでないと。しかも、飛行機は高速ですし。求められるのはやはり、高いレベルの運動の直観なのです。これは決して神秘的なものではありません。現代では、ジャグラーが優れた運動の直観を発揮しています。たくさんのボールでジャグリングしているとき、ジャグラーの目は自分の手を見ていません。むしろ、手の動きでボールの軌跡を捉えているはずです。サッカー選手がボールを見ずにドリブルやリフティングするのも、同じことですね。
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2010年09月26日

適応という錯覚

グレーザーズフェルドの『ラディカル構成主義』からのネタです。この本、マトゥラーナからの引用もちょこちょこあり、オートポイエーシス論にとっても非常に面白いものになっています。私自身、『オートポイエーシス論入門』で、オートポイエーシスの認識論を構成主義的と規定しているように、基本構想における一致点は実に多いですね。おそらく、執筆前にこの本を知っていたら、引用しまくっていたでしょう。なんですが、この本読んでいるといくつか気になる表現が出てきまして、適応ということがその一つ。グレーザーズフェルドは、認識を客観的世界の像と見ることを否定します。ここはオートポイエーシス論と同じで、認識を主観が構成するものと見るのもそう。しかし、決定的に問題になるのが、認識を主観が環境に適応するための道具と考えること。
これがなぜ問題かと言うと、オートポイエーシス・システムは環境に適応しないからです。まず、そもそも環境があってその中にシステムが在るのではありません。オートポイエーシスでは、システムと環境の成立は完全に同時であり、かつ、環境はシステムに相対的です。つまり、システムが環境を立ち上げるのであって、環境においてシステムが実現するわけではない。結果として、システムが既成の環境に事後的に適応することなどありえないんですよ。グレーザーズフェルドがイメージしているのは、明らかに、淘汰を免れることとしての適応であり、否定的な面から、結果論的に見ているのはオートポイエーシス論と同様なんですが、それを言うなら、実現しえたすべてのシステムは、当然のように環境に適応してしまっているわけです。何しろ、その環境との相互浸透下でオートポイエーシスを維持できないシステムは、まず実現できませんから。
したがって、淘汰による種の滅びということを考えるなら、そこには、システムから独立な環境の変化がなければいけない。これを逆に言うと、生物種は発生時に並存していた他の生物種との生存競争に敗れて滅ぶわけではないということ。種が滅びるには、気候などの変動か、さもなければ環境としての新種の登場が必要になるのです。もしくはその種自身が別の種に進化してしまうか。これで進化前の親の代がすべて死ねば、その種は滅ぶでしょう。このことからも、自然淘汰が進化の原理でないことがわかります。むしろ、進化が自然淘汰を起こすんですね。同じ意味で進化は適応でもないんです。と言うより、システムの変化は原則的に適応じゃない。なぜなら、システムに起きるあらゆる変化は、外から物理的に引き起こされることを除けば、システム自身の自律性によるからです。環境はその変化を限定するけれど、それが起きるかどうかも含めて決定できません。あえて言うと、システムの変化は環境への適応なんて気にしないんですよ。可能な範囲で自分勝手に変化して、その自分の環境との相互浸透下でオートポイエーシスが維持できれば、存続するだけです。これが、観察者の視点から見ると、環境への適応に見えてしまうんですね。
もう一つ、適応と言えない理由は、上述したように、環境を立ち上げるのがシステムであり、むしろシステムが環境を選ぶのだということ。繰り返し言っているように、鳥は飛べるようになったから、空で生活するようになったのであり、爬虫類は肺呼吸できるようになったから、陸上を住処に選んだのです。要するに、システムの変化と適応は、まったく別のことなんですね。適応ということは、観察者の誤解の中にしかありません。
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2010年09月22日

お彼岸

暑さ寒さも彼岸までとよく言いますが。明日9月23日は秋分の日。はさんで前後三日間、計七日間が秋彼岸です。お墓参りをしたり、おはぎを食べたりという仏教行事ですが、実は日本仏教にしかありません。そもそも先祖の霊を供養する、という発想が、仏教にあるはずはないんですね。何しろ、迷いのうちは輪廻転生、悟ってしまえば、死ねば寂滅ですから、あの世とか霊というものそのものが無いはずなんですよ。そもそも諸法無我ですし。確かに、浄土宗には浄土という思想はあるわけですが、それは、死んだ後転生してそこに生まれるということなので、死者の霊が行く所ではないんです。要するにあの世じゃないんですね。立派なこの世、此岸なんです。いろいろ理屈はつけられているようですが、仏教行事としては本来ありえないんですよ。
私の見るところ、この行事、もともとは神道のものであったように思われます。秋分と春分という、太陽が真東から上って真西に沈み、昼と夜の長さが等しい日を基準にしているということが、根拠として挙げられるでしょう。仏教と太陽は関係ありません。太陽信仰は神道のものです。そして、祖霊がこの世と連続した異界にいる、というのも神道の思想ですね。それを供養して慰めるということも。それがいつから仏教の行事に吸収されたのかはわかりませんが。

オートポイエーシス論から言うと、この理論は霊の存在を認めませんから、単純に考えるなら、お彼岸はナンセンスです。しかし、おそらく祖霊という発想は死者の霊そのものを指すのではない。お墓という形でコード表象化されているのは、現在生きている人間にまで至る、システム分化の歴史なのでしょう。こう考えると、先祖に感謝するという発想がどこから来るかよくわかる。現在の人間はまさに、このシステム分化の歴史の賜物なのですから。この歴史のおかげで、現在の自分は在るんですね。これに対して感謝という気持ちになるのは自然です。人間のシステムは、直接知として、この事実を知っているから。
これを背景にして、社会システムの構造的ドリフトの歴史が生み出したのが、現在のお彼岸という行事、すなわちコミュニケーションということになります。その時期が秋分、春分をはさんで七日間であることも、おはぎや牡丹餅をたべることも、すべて構造的ドリフトの結果であって、ということは、強く言えば、積極的な理由は何もありません。確かに、秋分、春分は天文学的に見て特異な日ですが、それと先祖供養が結びつく必然性はありません。仏教行事となっているのも同じこと。そもそも葬儀や死者の供養が日本で仏教式となっていることにも、積極的な根拠は何もないですし。おはぎや牡丹餅もそうなのであって、かつて誰かが始めたのでしょう。それを周囲の人間が真似していって、いつか日本という国家システムの文化コードにまでなったわけです。
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2010年09月19日

領有権

時事ネタです。ある国家の領土はどうやって決まるのか?これをオートポイエーシス論から考えてみます。基本的に、国家システムは領土とは直接関係ありません。それを決めるのは、国籍というメンバーシップだけです。したがって、国家システムと領土は基本的に後付けです。つまり、ある国家がその領土を占有している客観的な根拠はまったくないんですね。歴史的経緯も、その国家の意志も関係ないんです。では、何によって国家の領土は決まるのか?その領土をその国家が現に占有しているという事実と、他のすべての国家システムによるその承認です。他にはありません。つまり、ある国家がある土地の領有を宣言し、それにいかなる国家からも抗議が起きないなら、その土地はその国家の領土であるということ。これは、無主の土地への先占によろうが、軍事侵略によろうが同じことです。これだけで、その土地を実効支配できてしまいますから。
そして、他国は一度領土を承認したなら、戦争か条約によらなければ、承認を否定することができません。なぜなら、どちらか以外に、その国の実効支配を止めさせる方法がないからです。力づくで奪うか、納得づくで引かせるか、二つに一つ。でなければ、領土を否認しても後の祭りなんですね。事実上、領土の承認は継続してしまうんです。何を言おうと、ごまめの歯軋り。領有権をもつ国は、聞き流しているだけでいい。ただし、たとえ土地を実効支配しても、一度として承認していない国があるなら、その領有権は完全ではありません。まして、それがその国の領土であったならなおさら。その国自身もその土地に対する領有権を主張できます。

現在、日本と中国の間で、尖閣諸島をめぐってもめています。中国は歴史的経緯を言い立てて尖閣諸島の領有権を主張しているようですが、上述の通り、無意味です。一番のポイントは、中華民国がかつて、尖閣諸島が日本の領土であることを認めてしまっていること。なにしろ、戦前、尖閣諸島には日本人が住んでいました。それに対して、中華民国は一度も抗議したことがないんですね。これは、日本の領土として承認していたのと同じことです。中国は戦後、1970年代になって尖閣諸島の領有権を主張し始めたわけですが、はっきり言って手遅れ。もっとも、もはや尖閣諸島に日本人は住んでいませんので、実効支配の内実が若干薄くはなっています。しかし、日本が実効支配していることは間違いないし、その気になれば今から日本人が住むこともできる。中国が何を言おうと、日本は耳を貸さないでいればいいだけです。さすがに日本に戦争を仕掛けてまで尖閣諸島を実効支配することはできないでしょう。
北方領土や竹島の場合は、これとは違います。これらは日本の領土が軍事力によって奪われ、現時点で実効支配されているわけですが、日本はどちらについても、相手の領有権を認めたことは一度たりともありません。毎年必ず抗議しています。それゆえに、相手に実効支配されていると言えども、日本もまた領有権を主張することができるのです。まあ、主張できるというだけで、相手が交渉に応じない限り、何もできないことは確かなんですが。まさか、戦争というわけにはいきませんからね。
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2010年09月15日

細胞システム詳論

これも福井大の集中講義で、学生の反応が良かったネタです。オートポイエーシス・システムを教える際に一番困るのが具体例。作動であり、目に見えないので、既成の概念で説明するのが実に難しい。去年これを抽象的にやりすぎて、集中講義二日目以降の出席者が激減しました。そこで、最近よく使っているのが細胞システムなんですね。もともと、マトゥラーナ以来、オートポイエーシス・システムの代表例として挙げられてきてるんですが、もっと具体化できることに気がつきました。こんな感じです。
まず細胞は何からできているでしょうか?この質問でだいたい、高分子という答が引き出せます。そうしたら、次にこう。その高分子は何によって作られていますか?この辺で、素材を答えてくる場合もありますが、そこは誤解を訂正。すると、答えに詰まるので、こちらから正解を。細胞内の化学反応です。これでおおよそ納得が得られるので、そこでさらにたたみ込みます。あなたたちの身体を作っている細胞は、化学反応の結果の化学物質からできているんだよ、と。これって、当たり前のようでいて、普段はなかなか意識できないんですよね。しかも、細胞の全ての作動が、筋細胞の伸縮も、神経細胞の発火も、肺細胞のガス交換も、まとめて実は化学反応に他ならないわけです。これでちょっと感心させて、次に、細胞の作動原理を考えさせます。答えは多分無理なのでこちらから。化学反応の連鎖ですね。つまり、細胞を形成し、動かしているものは化学反応連鎖に他なりません。これで目から鱗が落ちたような気になってもらいます。
そこで、連鎖の形を解説。触媒反応や、反応結果の物質を次の反応の元物質にするような形です。その全体は非常に複雑な動的ネットワーク。そうしたら、この連鎖に関与している化学反応が有限個であることを説明。無限個だったら、細胞は無限に巨大なはずですから。しかも、細胞の形は通常一定なので、関与する化学反応のタイプと組み合わせも一定であるはず。つまり、化学反応から成るネットワークの形状は一定で、反応の数も有限なのだから、どこかで反復していることになります。したがって、このネットワークは閉じていなければなりません。この閉じた化学反応の非常に複雑な動的ネットワークこそが、細胞システムです。こう説明すると、割に多くの人がピンとくるのではないでしょうか?原始状態での最初の細胞の誕生も同様に説明できるのが強み。オートポイエーシス、自己産出の意味も説明しやすいですし。
この細胞システムの例が解説に便利なのは、他の例と違って、産出プロセスに化学反応という具体的名称があること。生命システムや意識システムや社会システムでは、構成素の産出から天下り的に産出プロセスの存在を想定しますからね。おまけに、オートポイエーシスの概念でしか説明できないし。それが何だと言えないわけです。これに比べると、細胞システムの産出プロセスが化学反応であるというのはイメージしやすい。実際、細胞システムというのは、原理的には、無数の化学反応のネットワークとして、描き出せるはずなんです。もっとも、あくまでも原理的にであって、どんなスーパー・コンピューターを使っても、実際には複雑すぎて無理でしょうが。

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2010年09月13日

蒟蒻問答

今回も、福井大の集中講義で学生の反応の良かったネタから。オートポイエーシス論のコミュニケーション概念について理解するのはなかなか困難です。なにしろ、コミュニケーションが参加者の意志によっては決定されない、参加者の考えていることとまったく独立に進行することがある、という話ですから、やっぱり常識はずれに見えるんですね。しかし、そこでこの話を出すと、少しは納得してくれるわけです。それが落語の蒟蒻問答。和尚に成りすました蒟蒻屋と旅の禅僧のジェスチャーでの問答で、両者のすれ違いが笑いの種。「落語あらすじ事典」というサイトから、クライマックス部分を引用します。

住職に成りすました六兵衛と托善の対決。
「法界に魚あり、尾も無く頭もなく、中の鰭骨を保つ。大和尚、この義はいかに」
六兵衛もとより何にも言わない。
坊主、無言の行だと勘違いして、
しからば拙僧も
と、手で○を作ると
六兵衛、両手で大きな○。
十本の指を突き出すと、
片手で五本の指を出す。
三本の指にはアッカンべー。
托善、
「恐れ入ったッ!!」
と逃げだした。
八五郎が追いかけてわけを聞くと
「なかなか我等の及ぶところではござらん。
『天地の間は』と申すと『大海のごとし』というお答え。
『十方世界は』と申せば『五戒で保つ』と仰せられ、
『三尊の弥陀は』との問いには『目の下にあり』。
いや恐れ入りました」
六兵衛いわく
「ありゃ、にせ坊主に違えねえ。
馬鹿にしゃあがって。俺が蒟蒻屋だてえことを知ってやがった。
指で、てめえんとこの蒟蒻はこれっぱかりだってやがるから、
こォんなに大きいと言ってやった。
十でいくらだと抜かすから、
五百だってえと、三百に負けろってえから、アカンベー」
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/62757/60017

落語だけに愉快な話ですが、愉快とだけも言ってられない。これがまさにコミュニケーションの本質なんです。両者が全く違うことを考えているのに、コミュニケーションは進行していく。特に重要なのは、どちらも相互理解が成り立ったと思っていること。実際に起きていたのは、いわば相互誤解ですが、相手の考えていることは見えませんから。まさにルーマンの言う通り、コミュニケーションにおける理解は、誤解を含んでいていいんです。そして、これはジェスチャーでなく、普通の会話でも同じことなんですね。双方納得して同意したつもりが、後になってみたらどちらも違うことを考えていた、なんていうのはよくある話でしょう。
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2010年09月09日

マトゥラーナの二つの比喩

ようやく三日間15コマというハードな福井大学での集中講義が終わり、京都に戻ってきました。去年の反省をして、多少工夫を凝らした成果か、最後まで出てくれた学生が半分以上いて、一安心してます。質疑応答もそれなりに積極的でした。後は、どんなレポートがいくつくらい送られて来るか、ちょっと楽しみですね。今回は、この集中講義でオートポイエーシス論を教えていて、学生の反応がなかなかよかった例を。
オートポイエーシスを理解する際に、ポイントとなるのは、何と言っても、システムそのものにとっての視点と観察者にとっての視点の区別です。ところが、この二つの視点の区別というのは、直観的に把握しにくいんですよ。というのも、通常人間は、観察者にとっての視点から物を見ているから。この観察者の視点とは、認識表象を産出している認識システムがその表象において何かを現しているという視点、言い換えると、認識の視点そのものです。つまり、普通に認識している限り、観察者の視点に立ってしまっているということ。そこにもう一つ別の視点と言っても、なかなかピンとこない。で、これを説明するときに、大きな助けになるのが、マトゥラーナが挙げている二つの比喩ということになるわけです。それがこの二つ。

「ずっと潜水艦の中だけで生きてきた人を、想像してみよう。彼はそこから出たことはない。潜水艦の操縦の仕方は教えられている。さて、ぼくらは岸辺に立ち、潜水艦が優美に浮上してくるのを見ているところだ。それからぼくらは無線を使って、中にいる操縦士に呼びかける。「おめでとう!あなたは暗礁を避けて、みごとに浮上しましたね。あなたは潜水艦の操縦がほんとうにおじょうずですね」。潜水艦の中の操縦士は、とまどってしまう。「なんですか、その暗礁とか浮上とかって?私がやったのはただいくつかのレヴァーを押したりノブを回したりして、いろんな計器のあいだに、ある関係を作りだしただけのことなんですよ。それは全部、私がよく馴れている、あらかじめ決まった手続きにしたがっているんです。特別な操作はなにもしなかったし、それになにより、あなたがたは潜水艦とかおっしゃってますね。なんのご冗談でしょうか」」(『知恵の樹』156以下)

「生命システムで生じていることは、飛行機で生じていることに似ている。パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。パイロットの仕事は、計器のさまざまな数値を読み、あらかじめ決められた航路ないし、計器から導かれる航路にしたがって、進路を確定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。というのもパイロットが行ったことと言えば計器の読みを一定限度内に維持することであり、そこでの仕事は友人(観察者)が記述し表そうとしている行為とはまるで異なっているからである。」(『オートポイエーシス 生命システムとはなにか』231)

この二つを出すと、ある程度、この区別が腑に落ちるみたいですね。潜水艦や飛行機の中の計器というものは、内部的に変化するだけです。操縦士やパイロットは、その変化に合わせて、中の機器を操作するだけ。そこには、外部との関係はまったく現れてきません。操縦士やパイロットのすることは、内側で完結しているんです。だから、その視点には内側で起きることしか見えていない。潜水艦も飛行機も、海も空も見えていないんです。そうしたものが見えているのは、観察者だけ。この喩えで重要なのは、実は我々自身が操縦士やパイロットと同じであると気づくこと。我々に見えているものというのは、実は内側で見えているだけなんです。内と外を同時に見ることはできず、それどころか、外、すなわち環境は原理的に見えないんですね。結局、この操縦士やパイロットのように、システムそのものにとっての視点から見えるのは、システムのその都度の作動だけです。しかし、見えているのはそれだけでも、この視点からはわかってしまうことがある。これが、私が名づけた直接知です。
Posted by autopoiesis at 23:02  |Comments(0)TrackBack(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする