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    <title>オートポイエーシスの黒板（Blackboard of Autopoiesis）</title>
    <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/</link>
    <description>オートポイエーシス論者がいろいろ語ります。オートポイエーシスを理解したい人のために。質問、議論歓迎。　　</description>
    <language>ja</language>
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    <itunes:summary>オートポイエーシス論者がいろいろ語ります。オートポイエーシスを理解したい人のために。質問、議論歓迎。 　 　         </itunes:summary>
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    <itunes:author>autopoiesis</itunes:author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10765252.html</link>
      <title>天才　葛飾北斎展</title>
      <pubDate>Tue, 22 May 2012 17:40:28 +0900</pubDate>
      <description>先日、近所の松坂屋でやっていた葛飾北斎展を見てきました。百貨店の展覧会ですから、大規模なものではないかもと思っていたら、これがなかなかどうして、かなりの見応えで、普段だと絵ハガキで済ますんですが、思わず図版買ってしまいました。そのときの感想から、オートポイエーシスの天才論を論じてみます。天才とは何か？オートポイエーシス論から言うと、限りなくコードを創発できる人間のシステムということになるでしょう。北斎展を見てまず感じるのは、北斎の生産性です。昔見たピカソ展でもそうでした。天才..</description>
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先日、近所の松坂屋でやっていた葛飾北斎展を見てきました。百貨店の展覧会ですから、大規模なものではないかもと思っていたら、これがなかなかどうして、かなりの見応えで、普段だと絵ハガキで済ますんですが、思わず図版買ってしまいました。そのときの感想から、オートポイエーシスの天才論を論じてみます。<br />天才とは何か？オートポイエーシス論から言うと、限りなくコードを創発できる人間のシステムということになるでしょう。北斎展を見てまず感じるのは、北斎の生産性です。昔見たピカソ展でもそうでした。天才は基本的に多産です。北斎の場合、人物から風景、動植物に道具、図案と描いていないものが無いと言えるほど。浮世絵の原画だったり、小説の挿絵だったり、掛け軸であったり、扇面であったり、カルタであったりと制作物も実に多様。それだけ多産であって、しかも、一つ一つが面白いんですね、どんな小品であっても。その上、同じものを繰り返すのではないわけで、コードがどんどん変わります。北斎のような画家であるなら、画風ということになるでしょうか？水墨画にしても、中国風の細密画から、日本風のぼかした淡彩まで自由自在。北斎が画号を何十回と変えたことは有名ですが、それはまた、勝川派、歌川派、琳派と画派を渡り歩いた歴史でもあります。漢画や西洋画の影響も受けているようです。浮絵と呼ばれる西洋の透視画法を用いた作品も。『三體画譜』といって、同一モチーフを楷書、行書、草書に見立てて、三通りの画風で描いた絵手本まで作成しています。<br />ここで言えることは、生命システムまでもが、描き分けに対応する運動コードを創発できるのでなければならないこと。人間のシステムとまとめて言ったのはこのためで、認識システムがコードを創発するだけではダメなんですね。なぜなら、筆運びが変わるということは、それを可能にする運動コードも変わるということですから。北斎の身体は、北斎のイメージについてくることができたのです。これに関してはすごいエピソードがあり、北斎は生涯二度、百二十畳もの大きさの達磨の水墨画を描いています。ちょっと考えればわかると思いますが、この大きさのものを、全体を見ながら描くことは人間にはできません。つまり、頭の中で描く像を百二十畳大に拡大し、見えている局面の範囲でどう筆を、したがって身体を動かすかというコードが創発できるのでなければ、そもそも絵に成りようがないのです。もちろん、これまで誰もやったことがないであろうその動き方を学ぶということも不可能ですし、いわゆる一発勝負でしょうから、練習することもできません。つまり、描いている瞬間瞬間に創発していくしかありえないんですね。しかも、画面上での自分の位置を運動しながら把握する必要もあります。百二十畳もの大きさの紙では、足元が白く見えるだけのはずなんですけど。だから、自分の位置を判断する材料は、直前の描線だけ。止まれないし、周囲を見晴らす余裕もないはずです。加えて、使っている筆も巨大ですから、いちいち目で確認しながら動かすことは不可能で、自分の運動そのものとしてその時点の描線を捉え、イメージ通りに実現させ続けなくてはなりません。河本先生が言う運動の直観がまさにこれです。これができるのが、まさに天才なのでしょう。<br />しかも、天才にとって、コードの創発はごく自然なことなのです。もちろん、天才も学びます。北斎も当時のあらゆる画派を学んだと言われます。エジソンの言う、「天才は９９％の努力と１％の才能」というのも間違ってはいません。しかし、実のところ肝心なのは１％の才能の方なんですね。学んだだけではダメで、学んだことをもとに新しいコードを創発する能力が必要です。その能力のある人間は、それを大変とも苦労とも思うことなく、コードを創発できるんですよ。システムの自律的作動は、自分の作動を苦労だなどとは思わないわけで。その能力がない人は、どんなに学んでも、努力しても、既成のコードの再現にとどまらざるをえません。とは言え、オートポイエーシス・システムである以上、コードの創発は誰にでも可能なはずなんですが、それが無制限なのがすなわち天才なのでしょうね。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10756237.html</link>
      <title>ボーカロイド曲　千本桜</title>
      <pubDate>Tue, 15 May 2012 20:39:16 +0900</pubDate>
      <description>今回はちょっと変わったことをやってみましょう。オートポイエーシス論による歌詞の分析です。曲名は「千本桜」。作詞作曲は黒うさＰ。ニコニコ動画に投稿された、ボーカロイド初音ミクを使って作られた曲です。ということは、おそらく素人の作った曲なんですが、かなりの人気で相当の再生数を稼いでいるようです。一番の歌詞は次の通り。大胆不敵にハイカラ革命 磊々落々（らいらいらくらく）反戦国家 日の丸印の二輪車転がし 悪霊退散　ICBM 環状線を走り抜けて　東奔西走なんのその 少年少女戦国無双　浮..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
今回はちょっと変わったことをやってみましょう。オートポイエーシス論による歌詞の分析です。曲名は「千本桜」。作詞作曲は黒うさＰ。ニコニコ動画に投稿された、ボーカロイド初音ミクを使って作られた曲です。ということは、おそらく素人の作った曲なんですが、かなりの人気で相当の再生数を稼いでいるようです。一番の歌詞は次の通り。<br /><br />大胆不敵にハイカラ革命 <br />磊々落々（らいらいらくらく）反戦国家 <br />日の丸印の二輪車転がし <br />悪霊退散　ICBM <br /><br />環状線を走り抜けて　東奔西走なんのその <br />少年少女戦国無双　浮世の随（まにま）に <br /><br />千本桜　夜ニ紛レ　君ノ声モ届カナイヨ <br />此処は宴　鋼の檻　その断頭台で見下ろして <br /><br />三千世界　常世之闇（とこよのやみ）　嘆ク唄モ聞コエナイヨ <br />青藍（せいらん）の空　遥か彼方　その光線銃で打ち抜いて <br /><br />一目見てわかるのは、ここにはいかなるストーリーもないこと。歌詞の単語は全体が一つのコードネットワークを完結させていません。言い換えれば、フレーズのそれぞれが独立したコードに対応しつつ連鎖しているだけ。しかも、そのコードの選択は完全に気分だけで行われています。より正確に言えば、ある気分と対応可能なコード表象だけが選ばれているのです。その気分とはまず、ずばり、焦燥感と閉塞感。「浮世」であり「君の声の届かない夜」であり「鋼の檻」であり「嘆く唄も聞こえない常世の闇」です。このままではいけないと思いつつ、次に続くべき新しいコードはまだ見つかっていない。一方で、運動を表すコード表象が続きます。「二輪車転がし」、「環状線を走り抜けて」、「東奔西走」ですね。閉塞感の中で動き回って必死にあがくわけです、次なるコードを求めて。さらに、「戦国無双」、「悪霊退散」、「ＩＣＢＭ」、「遥か彼方の青藍の空」、「光線銃で打ち抜いて」というのは、この閉塞感を打ち破る希望を表すコード表象に他なりません。「断頭台から見下ろして」それを探す。まだ次のコードは見つかっていない、でも見つかる可能性は捨てていない。捨てていれば歌われるのは絶望になるはずです。まとめるなら、閉塞感の中で必死にあがきつつも、それを打ち破る希望は捨てていない、そういう気分を歌っていると分析することができるでしょう。この作者にとって、この歌を作ることそのものもあがきの一部なのではないでしょうか？<br />したがって、この歌に共鳴できるのは、同じような気分を共有している人だけだと思います。万人向けに書かれた歌詞ではありません。素人が作詞するとき、そこに商業的な意図はありませんから。これはまさに作者の気分をそのものとして歌った歌なのです。とするなら、この歌が多数者の共感を得ているということは、作者と同じ気分をもった人がそれだけ多いのだと推測できます。現状のコードで社会システムは動いてはいる。しかし、そこから個人のシステムが受ける攪乱は耐えきれないものになりつつあるのです。だから、新しいコードが模索される、しかし見つからないし、社会システムも創発できない。この現状から個人の受ける攪乱が焦燥感とか閉塞感ですね。これらが現代の日本人の多くによって共有されている気分なのでしょう。だから、変化とか改革とか革命とか言った言葉、見た目強力そうな指導者に弱い。いわゆる小泉ブームとか、民主党への政権交代とか、大阪維新ブームとかも似たような原因なのだと思います。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10746873.html</link>
      <title>エルミタージュ展　絵画のコード</title>
      <pubDate>Tue, 08 May 2012 23:34:10 +0900</pubDate>
      <description>ＧＷに学会参加で東京に行ったついでで、乃木坂の国立新美術館でやっていたエルミタージュ美術館展を見てきました。ティントレット、ルーベンス、ドラクロワ、ルノワール、モネ、セザンヌ、マティス、ピカソ、ルネサンスから現代まで、日本でも有名な画家の絵もけっこう来てましたね。その感想に基づく形で、今回のエントリーです。テーマは絵画にはコードがある、ということ。その点で言うと、このエルミタージュ展、ルネサンスからだったのは、いささか残念な気がします。ドイツ留学時代にいくつかの美術館を訪れ、..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
ＧＷに学会参加で東京に行ったついでで、乃木坂の国立新美術館でやっていたエルミタージュ美術館展を見てきました。ティントレット、ルーベンス、ドラクロワ、ルノワール、モネ、セザンヌ、マティス、ピカソ、ルネサンスから現代まで、日本でも有名な画家の絵もけっこう来てましたね。その感想に基づく形で、今回のエントリーです。テーマは絵画にはコードがある、ということ。<br />その点で言うと、このエルミタージュ展、ルネサンスからだったのは、いささか残念な気がします。ドイツ留学時代にいくつかの美術館を訪れ、ルネサンス以前の中世絵画から見てるんですが、その方がわかりやすいんですよ。基本的にヨーロッパの中世絵画は宗教画です。その特徴は、ちょっと変な言い方ですが、人間らしくないこと。モチーフは基本的に聖書とギリシア神話なんですが、人物が人間のデッサンになっていません。よく考えれば、描かれているのは人間とは違う神的存在なのですから、これで当たり前とも言えるかも。これがルネサンス絵画になると、モチーフは宗教画と肖像画になります。その上で、描かれている人物が人間になるんですね。神だろうが天使だろうが、おそらくはモデルがいる人間のデッサンになっています。ですから、非常に肉感的。ただし、ルネサンス絵画は、単純な写実ではなく、補正が入ってるんですけど。もう一つの特徴は、素材感まで表現する似せ絵と呼ばれる技法。金属、ビロード、毛皮、その部分だけ見ると写真のようにも見えます。それでも、全体としてみると明らかに絵。なぜかというと写し取る写真と違って、絵として構成されたものだから。<br />これがバロック絵画になりますと、モチーフはあまり変わらないんですが、表現が派手に、かつ動的になります。明暗の対比が強調されるのも特徴。そして人物に入っていた補正がなくなるため、より写実的になっているのです。次のフランドル絵画となると、モチーフが変わります。聖書や神話の物語や身分ある人物の肖像画ではなく、庶民の生活がそのままに描かれるようになるんですね。ロココの絵画はモチーフが先祖返りし宗教画が多くなりますが、写実的なのは変わらず、線が細く柔らかくなり、色彩がパステル調で、画面が非常に明るくなります。後に続くバルビゾン派の絵画になってはじめて出てくるのが風景画です。私の京大時代の恩師である新田先生はうまいことを言っていて、こういう絵画は、ルネサンス絵画の背景を拡大したものと見ることができるとのこと。ただし、初期の風景画には必ず人物が点景として描きこまれているんですけどね。<br />印象派の絵画になると技法そのものが変わります。これも新田先生の言葉を借りれば、印象派の画家は失語症の振りをしているのだそうです。どういうことかというと、人間の視覚は、何かを見るときには同時にそのものを言語的にも何かとして把握しています。たとえば、リンゴはリンゴとして理解されながら見られているのです。にもかかわらず、印象派の画家は、言語的な把握を放棄し、見えているままだけを描いているんですね。セザンヌの絵が非常にわかりやすいですが、リンゴは立体に見えているのに、あえて見えている面だけを描いているということ。だから、セザンヌの描くリンゴには立体感がないんです。輪郭も非常にあいまいになり、物と物の切れ目もはっきりしません。その上、それ以前の基準から言えば、絵を仕上げなくなります。つまり、平気で塗り残すんです。いわゆるアヴァンギャルドと言われる絵画になれば、画家はもう描きたいものを描くようになります。モチーフの写実などということは眼中にありません。フォーヴィズムとかキュビズムがこうした絵画です。<br />以上からわかるのは、絵画にはコードがあり、それが時代を経るごとに構造的ドリフトによって変化していること。構造的ドリフトですから、前の時代のコードとの間に連続性があります。つまり、前の時代の絵画のどこかを変えることによって次の時代の絵画が成立するのです。たとえば静物画はアレゴリー的に描きこまれていた小物がモチーフとして独立したものであるとか、初期の風景画にあった人物の点景がのちには消えていくとか。新田先生はヨーロッパの絵画史をルネサンス的絵画がだんだんに崩れていく過程と言っていました。モチーフや手法の連続性と変化、そこに構造的ドリフトであることからくる、基礎づけ関係を伴う変化の歴史があるのです。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10736874.html</link>
      <title>善意の帰結</title>
      <pubDate>Tue, 01 May 2012 20:21:39 +0900</pubDate>
      <description>先日、ある学会が東京でありまして、そのときの研究会で聞いた発表に基づくエントリーです。その発表というのが、現在世界で、企業の社会的責任が問題になっているというものでした。企業が作っている製品の部品や原材料の調達ルート、これをバリュー・チェーンと言うのですが、そのどこかで社会的不正義が起きていると、直接関係ないはずの企業までがＮＧＯから非難を受けるという事態に今ではなっているのだそうです。たとえば、バリュー・チェーンのどこかで不正な少年労働があると、最終製品のメーカーが、不正に..</description>
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先日、ある学会が東京でありまして、そのときの研究会で聞いた発表に基づくエントリーです。その発表というのが、現在世界で、企業の社会的責任が問題になっているというものでした。企業が作っている製品の部品や原材料の調達ルート、これをバリュー・チェーンと言うのですが、そのどこかで社会的不正義が起きていると、直接関係ないはずの企業までがＮＧＯから非難を受けるという事態に今ではなっているのだそうです。たとえば、バリュー・チェーンのどこかで不正な少年労働があると、最終製品のメーカーが、不正によって生産された材料や部品を使っているとしてＮＧＯから攻撃を受け、企業イメージを棄損させられるので、対策をとらなければならなくなるとのこと。日本ではほとんど報道されないものの、日本企業もたびたびＮＧＯのターゲットになっているとか。ちょっと聞くといい話なんですが、オートポイエーシス論者から見ると、危ない話でもあるのです。<br />なぜ危ないのか？その前提は二つあります。一つは、社会システムは自律的であり、必ずしも人間の意志どおりにはならないこと。もう一つは、オートポイエーシスの倫理から見て、何よりも優先するのは、システムの作動存続であることです。企業を批判するＮＧＯは、確かに善意からやっているのでしょう。社会正義の観点から見て許されないことを正そうと。しかし、人間の善意は必ずしも良い結果を生むとは限らないのです。動機も正しい、手段も正しい、それでも結果まで正しくなるとは限らないということ。結果がどうなるかは最終的にシステムの自律性に任されています。人間が確定的にコントロールすることはできません。一つの社会正義を実現することがさらなる、もしかするとより重大な不正を誘発することもありうるのですよ。<br />より大きな問題は、社会正義の実現が常に社会システムのオートポイエーシス維持にとってプラスではないことです。システムの存続と天秤にかけた場合、社会正義の実現は必ずしも優先しないということ。社会正義とは、社会システムのコードに加えられた判断に他ならないのですから。これを絶対視することは、いわばシステムにとって、角を矯めて牛を殺す結果になることが十分にありうるのです。もちろん、そこで誰かの自由が踏みにじられているというような、オートポイエーシスの倫理にもとることが起きている場合は別ですが。たとえば、少年労働をさせているからといって、企業がバリュー・チェーンからその生産者を外してしまったらどうなるか？家計を助けるために働くことができていた少年たちはその職を失うわけです。実際、企業にとってはバリュー・チェーンから切り離すのが一番簡単な対策ですから。発表者に質問したところ、現実にこういう事態は起きているのだそうです。現在はウズベキスタンの綿花生産における少年労働がやり玉に挙がっているそうで、悲劇的な結果にならなければいいのですが。<br />特に危惧されるのは、マレーシアの出稼ぎ労働者の事例。マレーシアでは、ミャンマーやバングラデシュからの出稼ぎ労働者と、マレー人の賃金に格差をつけることは合法なのだそうです。これを同一労働同一賃金の原則に反するとしてＮＧＯが問題にし、そういう賃金格差のある企業をバリュー・チェーンにもつ国際企業を攻撃しているということですが、これはとんでもない悲劇を生む可能性があります。物価の格差を考えれば、出稼ぎ労働者は多少賃金が低くても、確実に職が見つかった方がありがたいということはすぐにわかるでしょう。また、出稼ぎ労働者を使ってコストを抑えることでその企業は競争力を得ている可能性も高いのです。すなわち、ＮＧＯに非難された国際企業のバリュー・チェーンから切られて職も企業も失われるか、同一賃金が実現されたとしても、価格競争力を失ってやはりその企業が破綻するかのどちらかということ。出稼ぎ労働者もそれを使う企業も、国際企業も満足していて、システムが順調に維持されていたのだとしたら、ＮＧＯのやっていることは、システムのオートポイエーシス維持にマイナスの攪乱を引き起こす余計なおせっかいでしかないのです。そして、何より問題なのは、現実にそういう事態が起きたとしても、善意から非難したＮＧＯは何の責任もとらないし、とれないということですね。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10726817.html</link>
      <title>オートポイエーシスとジンメル</title>
      <pubDate>Tue, 24 Apr 2012 00:43:34 +0900</pubDate>
      <description>大学でやっている社会学の講義からのエントリー三回目はゲオルグ・ジンメルです。カント研究者でもある私としては、そのものずばり『カント』という著書があることから、哲学者のイメージがあったんですが、ウェーバー、デュルケームと並んで、社会学の確立に貢献した社会学者の一人で、この三人はほぼ同時代人。ウェーバー、デュルケームと比べると、業績はありながら常勤職に就くのに非常に苦労した人で、その点自分も同じなので共感を呼びます。今回はジンメルの社会学をオートポイエーシスの観点から見てみましょ..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
大学でやっている社会学の講義からのエントリー三回目はゲオルグ・ジンメルです。カント研究者でもある私としては、そのものずばり『カント』という著書があることから、哲学者のイメージがあったんですが、ウェーバー、デュルケームと並んで、社会学の確立に貢献した社会学者の一人で、この三人はほぼ同時代人。ウェーバー、デュルケームと比べると、業績はありながら常勤職に就くのに非常に苦労した人で、その点自分も同じなので共感を呼びます。今回はジンメルの社会学をオートポイエーシスの観点から見てみましょう。<br />ジンメル社会学のキーワードは相互作用です。しかも、人間同士の相互作用を考えているだけではなく、形而上学的なレベルで、あらゆる統一は部分の相互作用に基づくと規定されています。たとえば、生物の身体の統一は、身体の部分間に成り立つ相互作用によるということになるのです。ちょっと聞くと、まるで仏教の縁起説のようですね。統一を実体と考えないところも仏教と似ています。そして、この点はオートポイエーシス論とも共通です。オートポイエーシス・システムとは、産出プロセスという働きのネットワーク状連鎖の閉域であって、固定的実体ではありません。ネットワーク形成は産出プロセス間の相互作用の結果と言うことができるでしょうか。生物の身体のケースをオートポイエーシス論から言うなら、まさに身体の部分である生体器官が、他の生体器官の生成と変化、解体を引き起こすという仕方で相互作用しているのが、生命システムのネットワークを成していると言えるでしょう。ただしジンメルは、統一の形成のためには、相互作用のみならず、相互作用が作り出すネットワークの閉鎖が必要になるということには気づいていませんが。<br />言うまでもなく、ジンメルは社会も相互作用から考えます。それは個人と個人の相互作用であり、集団と集団の相互作用であり、また個人と集団の相互作用です。人間を統一体と考えるジンメルからすれば、社会は統一体の統一体になります。そして、人間間の相互作用が、特殊な形式を獲得することが、ジンメルの言う社会化の本質です。形式ですから、これは普遍性をもち、さまざまな社会が同じ形式をもつことができます。このためジンメルは、自分の社会学を形式社会学、社会化の形式を究明する学と規定するのです。ジンメルの挙げる例では、上下関係とか、派閥形成などがこの形式で、確かに、これらはどこの社会でもありえますし、また実際にありますね。このあたりの議論は、オートポイエーシスの社会システムとほとんど変わりありません。個人のシステム間、また社会システム間の構造的カップリングによって実現するのが社会システムで、構造的カップリングが相互作用の一種であることは間違いないからです。ジンメルの言う形式は、社会システムのコードのさらなるコードに相当するでしょう。社会システムがそれに従って作動するコードをさらに抽象化して得られるより普遍性の高いコードです。上下関係ならそこにたくさんのコード、たとえば雇用者と被雇用者、支配者と被支配者、上級者と初心者などがカテゴリー化されます。すなわち、多くのコードのさらなるコードになるのです。<br />相互作用を機能的に捉える機能主義もジンメルとオートポイエーシス論の共通項ですが、一つ決定的に違うのは、ジンメルは社会を個体として実在するとは見なしていない点。ジンメルにとっての社会は、相互作用の集積にすぎず、その密度と範囲は確定しておらず、程度によって広くも狭くもなるものなのです。これに対し、社会システム論は社会システムを他のものから確実に区別されて実在するものとして考えます。それを可能にする原理が操作的閉鎖で、ジンメルはこの原理を欠いているために、相互作用を連続して広がっているものとしか捉えられず、社会システムの実在性が言えないんですね。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10717596.html</link>
      <title>オートポイエーシスとデュルケーム</title>
      <pubDate>Mon, 16 Apr 2012 23:49:43 +0900</pubDate>
      <description>現在大学でやっている社会学系の講義からのエントリー第二弾です。今回はフランスの社会学者エミール・デュルケーム。実を言うと、もともとルーマンはデュルケームの系列に数えられていまして、オートポイエーシス論とは割と近い社会学になってます。まず、デュルケームは機能主義の立場に立っており、社会制度をそれが社会の中で果たしている機能の面から捉えようという立場の社会学者。これはそのままルーマンやオートポイエーシスの社会システム論と同じ立場です。機能とはすなわち、あるコミュニケーションの産出..</description>
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現在大学でやっている社会学系の講義からのエントリー第二弾です。今回はフランスの社会学者エミール・デュルケーム。実を言うと、もともとルーマンはデュルケームの系列に数えられていまして、オートポイエーシス論とは割と近い社会学になってます。<br />まず、デュルケームは機能主義の立場に立っており、社会制度をそれが社会の中で果たしている機能の面から捉えようという立場の社会学者。これはそのままルーマンやオートポイエーシスの社会システム論と同じ立場です。機能とはすなわち、あるコミュニケーションの産出プロセスがシステムの閉じたネットワークの中で占める位置そのもの。つまり、どのコミュニケーションにどのコミュニケーションを連鎖させるかを決めることです。具体的に例を挙げて言うなら、結婚制度とは、それをした二人の男女がどういうコミュニケーションを相互の、また社会の他の人格との間で連鎖させていくかを決めること。たとえば、婚姻届の役所への提出であったり、結婚式の挙行であったり、会社への扶養控除申告であったり。もちろん逆に、連鎖させてはいけないコミュニケーションもあり、重婚とか不倫なんていうのがそうですが、これらは結婚制度がなければ産出されえないコミュニケーションでもあるわけですね。<br />何と言ってもデュルケームでオートポイエーシス的社会システム論に一番近いのが、方法論的集合主義とか、社会実在論と言われるもの。要するに、社会を単なる個人の総和としてでなく、個人の外に実在するものとして見ようとする着想です。社会制度は個人の外部に存在し、個人に対して普段は意識されないが、それに反しようとするとかかってくる強制力による拘束力をもつ、という考え方ですね。デュルケームはこうした社会制度を社会的事実と呼びます。これはまさに、社会システムを実在とし、人間はその環境に属するとするオートポイエーシス論と一致した考え方です。制度は社会システムのコードであって、これに反することはシステムのオートポイエーシスを尊重しないこと、コミュニケーションの順調な連鎖を妨げることとして懲罰の対象になるのであり、デュルケームが言う強制力とはここに由来します。これは、社会システムが個人のシステムに与える攪乱の一種。もちろん攪乱ですから、それを感じない、つまり懲罰があろうとやってしまう人もいるわけですが。中には違反であるからこそやるという人もいるかもしれません。さらにデュルケームは、社会が個人を拘束する側面だけでなく、個人が社会的事実を作っていく側面も強調しています。これは、個人のシステムが社会システムに攪乱を与えることですね。それに環境としての各個人なしには社会システムも存在しえませんし。<br />また、これに応じてデュルケームがこうした制度の一時性、可変性を考えているのもオートポイエーシス論と同じ。社会システムは構造的ドリフトによってそのコードを書き換えていきます。コードは書き換えられるまではそのシステムの人格に対して拘束力をもつが、にもかかわらず書き換えられることが可能なんですね。デュルケームが、社会は実在であって同時に理想でもあると言うのも同様の思想と言えます。これは法律を考えるとわかりやすいでしょう。改正されれば、以前の法律はもう以前のような拘束力をもたなくなるわけです。そして、社会的事実の決定要因を個人の意識でなく、先行する社会的事実と考えているのも社会システム論に類似の発想です。少し違うのは、コミュニケーションやコードの場合、先行するものに、それに連鎖するものに対する決定力はないこと。あくまでも、連鎖しうるものを限定するにとどまります。<br />方向性は多少違いますが、デュルケームが集合意識と呼んでいるものが、作動としての社会システムに相当するのでしょう。意識システムもオートポイエーシス・システムですから、その限り、社会を意識で近似することはできてしまうわけです。実際、デュルケームが言うように、諸個人の意識の相互作用から個人とはレベルの違う集合意識が生じる、つまり意識システムの構造的カップリングから創発的に社会システムが実現するという構図になっています。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10705924.html</link>
      <title>オートポイエーシスとマックス・ウェーバー</title>
      <pubDate>Sun, 08 Apr 2012 11:20:56 +0900</pubDate>
      <description>今学期から社会学の科目で過去の偉大な社会学者何人か扱ってまして、当然その中にマックス・ウェーバーも入っているため、いろいろと文献をチェックしております。そこで、『入門』でやったのと似たようなウェーバーの学説を見つけましたので、比較論文風に紹介してみましょう。それはウェーバーの科学論の議論です。ウェーバーは科学的概念の対象を理念型と呼びます。これは特定の観点から実在を抽象して得られる統一された思想像で、実在の模写でなく、認識者によって構成されたもので現実には存在しません。そのた..</description>
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今学期から社会学の科目で過去の偉大な社会学者何人か扱ってまして、当然その中にマックス・ウェーバーも入っているため、いろいろと文献をチェックしております。そこで、『入門』でやったのと似たようなウェーバーの学説を見つけましたので、比較論文風に紹介してみましょう。<br />それはウェーバーの科学論の議論です。ウェーバーは科学的概念の対象を理念型と呼びます。これは特定の観点から実在を抽象して得られる統一された思想像で、実在の模写でなく、認識者によって構成されたもので現実には存在しません。そのため、実在の特定の要素を思考の上で高めて得られる一つのユートピア、経験的にはどこにもない極限概念とされます。しかし、理念型はそれでも虚構でなく実在の本質であり、これによって実在を測定・比較することでその本質部分を明確化することができ、研究にとって発見的価値をもつとウェーバーは言います。ウェーバーは社会学を、個別具体的な現実の歴史的個体の意義と理由の理解の学と規定するのですが、これは歴史的個体を理念型として把握することに他なりません。たとえば、近代資本主義と呼ばれるものは、理念型としてのみ理解されることが可能です。なぜなら、現実の現象は無限に多様なので、それをありのままに把握することは、人間の有限な能力では不可能だから。理解することは、本質的なものを抽象することによってのみ可能なのです。<br />しかも、この抽象は上述のとおり研究者の特定の観点から行われます。これをウェーバーは一面性と言い、対象はあらかじめ存在せず研究者の価値関心に合わせて無限に豊かな実在から切り取られたものであって、対象となる歴史的個体は、研究者にとって意味と意義のあるものに他なりません。つまり、研究者に相対的なんですね。だからウェーバーは社会科学に端的な客観的な科学的分析なし、あるのは特定の観点からの一面的認識のみと断言するのです。<br />これ、『入門』で書いた、学問システムの断面性の議論とほぼ同じです。断面性とは、あらゆる学問は独自のコードをもっており、そのコードに応じたものしか見えない、より正確に言うなら、対応する学問コミュニケーションを産出できないということ。『入門』で使った例を挙げると、木製のボールは、生物学的には植物細胞の塊に、物理学には剛体に、数学には球体に、経済学には商品に、工学には製品に見えます。それぞれの見方はすべて正しく、しかもお互いに交じり合いません。このコードに沿って理解されたもの、言い換えると学問コミュニケーションにおける現れが、理念型になります。捉えられるものはコードに応じたものだけで、しかも学問コミュニケーションという表象における現れですから、この時点で抽象的な構成になっているんですね。ウェーバーとの違いは、コードの決定が学問システムそのものの自律性に委ねられ、単なる研究者個人の恣意のみには拠らないこと。ウェーバーに従えば、何をどう対象とするかは研究者の恣意に任され、その学問の対象が無限に発散していく可能性があります。しかし、現実にはそうならない。学問システムのコードがそれに対応していないものをはじき出す、具体的に言えば、無視してしまい、次の学問コミュニケーションを連鎖させないことによって。ある研究者がどんなに意義があると思っても、他の研究者が応じなければ、それはその学問の対象にはならないのです。これによって、学問の社会性が維持されます。もう一つ、ウェーバーと違うのは、学問のこの断面性が、学問システムの本質そのものに根差しており、人間の有限性に由来するものではないこと。たとえ無限の能力をもつ神が研究者だとしても、特定の学問の研究者である限り、そのコードに従うことしか述べることはできず、現実をありのままに語ることは、たとえ神自身はそれを理解できていたにせよ、不可能です。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10696229.html</link>
      <title>オートポイエーシスとアフォーダンス</title>
      <pubDate>Sun, 01 Apr 2012 11:34:36 +0900</pubDate>
      <description>先週から、東京、京都、実家、また京都とやたらに立て込んだスケジュールでけっこう疲れました。来週の月曜から講義なんで、講義ノート作りも佳境です。先日、手術イラストを描いている医療関係者の方がこのブログにコメントしてくれまして、今回のエントリーはその方のブログで読んだ話が元ネタになってます。どういう話かと言うと、手術に際し、それを外から見ている場合はアフォーダンスの議論が有効だが、自分が参加している場合は、オートポイエーシス的な議論になるというもの。アフォーダンスは周知のとおりギ..</description>
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先週から、東京、京都、実家、また京都とやたらに立て込んだスケジュールでけっこう疲れました。来週の月曜から講義なんで、講義ノート作りも佳境です。先日、手術イラストを描いている医療関係者の方がこのブログにコメントしてくれまして、今回のエントリーはその方のブログで読んだ話が元ネタになってます。どういう話かと言うと、手術に際し、それを外から見ている場合はアフォーダンスの議論が有効だが、自分が参加している場合は、オートポイエーシス的な議論になるというもの。アフォーダンスは周知のとおりギブソンが発案した認知理論で、大雑把に言えば、環境の中に生物にある行為を促す情報が散在しており、生物はそれをピックアップすることで、自分の行為を決めているという理論です。たとえば、プールという環境は泳ぐことをアフォードし、硬い地面は歩くこと、走ることをアフォードしているという議論の仕方になります。実を言うと、『入門』でかなり批判的に紹介してるんですけど。そこでの話も踏まえて、なぜ手術においてオートポイエーシスとアフォーダンスのこうした違いが出るのか考えてみましょう。<br />これは、オートポイエーシスからアフォーダンスを語るとすぐにわかります。オートポイエーシス論から見れば、アフォーダンスとは、観察者の立場からオートポイエーシスを語ったものに他ならないんですよ。システムそれ自身にとっての立場から言えば、アフォーダンスは順序が逆です。環境が行為をアフォードしてくるのではなく、その環境下で可能な行為ができるように、システム自身が自律的に自己形成するというのが正しい順序。たとえば、乳児は硬い地面の上に置いても、走るはおろか歩けもしません。地面が歩かせようとするのではなく、地面の上でできることとして歩くことがあるので、歩けるような自己形成が自律的に為されれば、歩くというだけ。もちろん、地面があったことが歩けるような自己形成が起きたことの理由ではありません。地面という環境との相互浸透下でまず、歩けるような自己形成があり、地面があって歩ける、より正確には歩くという機能を発揮できるから歩くんです。この関係を観察者の視点から見ると、構造とその外部しか見えないために、システムの自己形成の自律性が、外部に転写して見えます。あたかも外部が構造の作動に際して主導権をもっているかのように見えてしまう。外部環境がシステムの作動の選択肢を与えているというアフォーダンスの議論が出来上がるわけです。オートポイエーシス論的には情報はシステム内部で攪乱として形成されるものなので、外部情報のピックアップというアフォーダンスの発想はそもそもまずいですし。<br />ですから、手術を岡目八目で見ている観察者から見れば、あたかも患者の状態が術式や執刀医の動きを決めているように見えます。出血したから止血した、血圧が下がったから昇圧剤を注入したというように。つまり、アフォーダンスですね。ところが、執刀医の立場からは違うはずです。執刀医はその都度の局面で、自分にできることをしているだけなんです。患者が出血した。それでも、それが可能ならただちに止血しなくてもかまいません。むしろ、執刀医がその方がよいと判断すれば、しばらく出血を放置することもありうるでしょう。無論、こうした判断は医師によって違うことがありえます。同じ患者であっても、執刀医によって術式は変わってくるはずですし。一回の手術で完治を目指しうる医師もいれば、暫定措置にとどまらざるをえない医師もいるでしょう。手足を切断するしかない医師も、つないだまま治療できる医師も。病院の手術施設によっても変わってくるはずです。言い換えると、執刀医の行為は患者の状態によって決定されるのではなく、あくまで自律的なんです。この自律的な作動の結果として、患者は助かったり亡くなったりするわけで、こちらは患者の生命システムの自律性によって決まります。と言うことは、手術とは患者の生命システムとの構造的カップリングの一種なんですね。これを一番強く自覚するのは、執刀医や手術に参加している医師、看護師でしょう。結果として、手術の参加者の立場で語れば、議論はオートポイエーシス的になるんです。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10679841.html</link>
      <title>サッカーの強さ　祝日本代表ロンドンオリンピック出場決定！</title>
      <pubDate>Tue, 20 Mar 2012 21:44:35 +0900</pubDate>
      <description>サッカーネタです。U２３日本代表は、オリンピック予選最終戦、ホームのバーレーン戦に２－０で勝利し、ロンドンオリンピック出場を決めました！大量点が必要なはずのバーレーンが思ったほど攻めてこず、守備ブロックを引き気味で構えていたので、前半は苦戦しましたが。後半早めの先制点で決まったようなものでしたね。シリア戦の敗北で、危機感をあおるような報道もありましたが、終わってみれば勝ち点１５、得点１３失点３という堂々たる成績での勝ち上がりです。しかも、たくさんいる同年代の海外組は一人しか呼..</description>
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サッカーネタです。U２３日本代表は、オリンピック予選最終戦、ホームのバーレーン戦に２－０で勝利し、ロンドンオリンピック出場を決めました！大量点が必要なはずのバーレーンが思ったほど攻めてこず、守備ブロックを引き気味で構えていたので、前半は苦戦しましたが。後半早めの先制点で決まったようなものでしたね。シリア戦の敗北で、危機感をあおるような報道もありましたが、終わってみれば勝ち点１５、得点１３失点３という堂々たる成績での勝ち上がりです。しかも、たくさんいる同年代の海外組は一人しか呼べない、主力に怪我人は続出する、クラブごとに三人までという縛り、A代表の優先と、本来なら非常に苦しい条件の中で出した結果でした。このグループの中での力はとびぬけていたと言っていいでしょう。では、サッカーの強さとは何か？あらためてオートポイエーシス論を使って考えてみたいと思います。<br />何度も言っているように、サッカーとは、チームという組織システムの人格である味方同士の間でパスという、ボールをメディアとするコミュニケーションを連鎖させる機能システムです。最後のパスの相手がゴールマウスならば得点となっていったんシステムは消失します。相手チームのパスには攪乱を与えて、パスを妨害し、自分たちのパスに切り替える必要があるわけです。ここから、サッカーの強さの条件がわかります。それはまず、パスが味方同士で確実につなげられること、そして、相手のパスを味方のパスに確実に切り替えられることです。そのために必要なことは何か？まず、同じチームの全員が同じコードでプレーできること。戦術理解の徹底と呼ばれます。パスは味方が現在いる位置に出すだけではダメです。というのも、ボールが届く前に味方が動いたら当然ずれてしまうから。それに相手にも読まれやすいのでカットされてしまいます。パスは、ボールが到達した地点が味方の位置になるように出さなければなりません。しかし、味方であろうとその心が読めるわけではありませんから、そのままではパスをどこに出せばいいのかわからないわけで。このとき、パス成功の蓋然性を高めるのがコード、戦術の存在なのです。それはつまり、この選手がここでボールをもったら、あの選手はこう動くのでそこにパスを出せばいいという、ケースごとの約束事のこと。特に重要なのは、このコードを味方のすべての選手が、途中交代する選手も含めて、理解していることですね。サッカーという競技、途中交代があるのが普通で、かつ、いつか怪我人が出ることは不可避ですから。<br />そしてもちろん、味方のすべての選手がコードに合わせた動きを、ずれが生じた場合の補正を含めて、遂行できることが重要になります。つまり、パスが遠かった、高すぎた、強すぎた場合でも、ある範囲なら自分の技術でカバーしてパスをさらに連鎖させられる選手ができるだけ多く必要です。チーム内にその数が多ければ多いほど、たいていはずれを伴うパス成功の蓋然性は高くなります。具体的には、遠いボールにも追いついて無理な姿勢からでもボールをトラップでき、かつ無理な姿勢からでも正確に狙った位置へパスを出せる選手ですね。こういう選手が多ければ、いわば無理な、したがって相手からすれば予測も対処も困難なコードの実行が可能になり、パス成功の蓋然性が上がります。つまり、コード選択の幅が広がるわけで、付け加えると、その時点で適切なコード選択が味方との共通性においてできるのが、さらなるいい選手の条件です。どんなにトリッキーで敵を欺くようなパスでも、同時に味方まで欺いてしまっては、通るわけがありません。敵からは予想しにくく、味方からは予想しやすいコード、たとえば繰り返し練習しているコードか、その時点で可能な範囲でそれに最も近いコードを選択しなければならないわけです。<br />ここまではチームの強さの問題ですが、ナショナル・チームとなるともう二つ加わります。一つは各ポジションにまんべんなく、上記したようないい選手を複数、できれば三人以上そろえられること。さっきも言ったように、サッカーでは怪我人が必ず出ます。警告累積やレッドカードによる出場停止もあるので、あるポジションに一人欠けた場合のバックアップが、そのさらなるバックアップも含めて必要になるのです。これがいわゆる層の厚さということで、いわゆるサッカー大国と弱小国を決定的に分けるのがこの点。弱小国は長期の予選などになると、この弱点をさらします。ベストメンバーをそろえて何試合かはいい試合ができても、そのうちベスト・メンバーが崩れて続かないんですね。バックアップとベストメンバーの差が大きいから。そして、もう一つは、適切なセレクションができる監督がいること。ナショナル・チームは年中一緒に試合をしているわけではありませんから、選手の質が決定的に重要になります。戦術の徹底に限界があるので、選手の補正能力のウェイトがどうしても重くなるんですよ。ふさわしいポジションにふさわしい選手を選ぶ、適材適所のできる監督は必須なんです。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10666667.html</link>
      <title>歴史冤罪　―史実と記述―</title>
      <pubDate>Sun, 11 Mar 2012 13:49:10 +0900</pubDate>
      <description>時事ネタです。実は歴史というものは、二つのものからできています。一つが史実、もう一つが記述です。この二つ、意外と曖昧なんですが、オートポイエーシス論からは決定的な形で区別できます。簡単に言えば、システムの作動そのものが史実、それについてのコミュニケーション表象が記述です。本来の意味での歴史はどちらかと言うと記述なんですね、ギリシア語でヒストリアとは物語の意味ですから。このため、史実と記述はしばしばずれてきます。まず、史実からのコードの読み取りの時点で恣意性が入り、そのコミュニ..</description>
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時事ネタです。実は歴史というものは、二つのものからできています。一つが史実、もう一つが記述です。この二つ、意外と曖昧なんですが、オートポイエーシス論からは決定的な形で区別できます。簡単に言えば、システムの作動そのものが史実、それについてのコミュニケーション表象が記述です。本来の意味での歴史はどちらかと言うと記述なんですね、ギリシア語でヒストリアとは物語の意味ですから。このため、史実と記述はしばしばずれてきます。まず、史実からのコードの読み取りの時点で恣意性が入り、そのコミュニケーション表象化の時点でもう一回入ってくる可能性が高い。ここで恣意性の原因となる最大のものが政治的意図、政治システムからの攪乱です。歴史は勝者が書くものなので、どうしても勝者の都合のいい歴史が残ることが多いわけです。しかし、システムの作動そのもの、即ち史実は厳として存在します。これは、観察者によって左右されることがありませんから。具体的に言えば、人間の生死は史実に他なりません。死んだ者を生きていると言い、生きている者を死んだと言えば、それは偽史になってしまいます。もっとも、現在言われている歴史がすでに偽史である可能性もないとは言えませんが。まあ、源義経が実は生き延びてジンギスカンになった、などというのは偽史でしょうけど。他に史実としては、制度が挙げられます。これは社会システムのうち組織システムの作動コードそのものですからね。それがどう評価されるかは別として、ある時代、ある組織にその制度があったかなかったかは史実に属します。なかった制度をあったとするものとその逆は偽史です。<br /><br />さて本題。現在の日本には二つの歴史的批判が投げかけられています。それが３０万人の南京市民を虐殺したという南京大虐殺と、２０万人の朝鮮女性を性奴隷にしたという従軍慰安婦制度。はっきり言えば、これはどちらも歴史冤罪です。<br />まず南京大虐殺ですが。そもそも、当時の日本軍は国民党軍と戦っていたのであって、中国市民を攻撃対象にしていたのではありません。中国人の汪兆銘政権と同盟していた日本軍に中国の一般市民を攻撃する理由がないんです。まして、日本軍は物資の補給を中国市民に依存していましたから、それを敵に回せば、戦争遂行に困難を生じることになります。私の祖母の兄は、大陸の日本軍で鎮撫隊というところにいたそうです。任務は中国人を味方にするため子供にお菓子を配ることだったとか。そこまで中国市民に気を使っていた日本軍が虐殺など起こすわけがないんです。陥落した他の都市でも起きていませんし。中国側は３０万人の組織的虐殺があったと主張していますが、実のところ、日本にはもうこの主張に同意する研究者はいません。なぜなら、南京攻略軍の総大将である松井大将がそのための軍令を出した形跡がまったくないから。日本軍は上記の理由から、兵士の中国市民への犯罪行為を厳しく取り締まっていました。それでも、南京で若干の軍令違反はあったようで、松井大将自身がこれを嘆いていますが、と言うことはつまり、南京で特に軍令を弛めて虐殺を許可するようなことはしていないということです。<br />南京で史実として起きたのは、国民党軍の敗北後、動員されていた南京市民が投降せずに軍服を脱いで逃げ出して帰宅し、戦争法上便衣兵と同じ地位になったものが、日本軍によって几帳面にもほとんど狩り出され、千人単位で大量に処刑されてしまった、ということだったのでしょう。このため、中国側からは南京市民が処刑されたという証言が多く残ることになり、こうした証言を利用して都市虐殺がでっち上げられたものと思われます。<br />次に従軍慰安婦について。これは敗戦までの日本が公娼制度の国であった、つまり組織売春が合法であったことを考えれば、ありえないことがわかります。つまり、兵士相手に売春する女性を集めようと思うなら、募集する方は、騙したり誘拐したりしなくとも、堂々と職務内容を明らかにして公募できるんです。慰安婦とはそういう女性につけられた美称に他なりません。そして、売春を商売にする女性はいついかなる国にもたくさんいるんですよ。そういう女性にしてみれば、同じことならより稼ぎのいい方に集まってくるのは自然ですね。実際、慰安婦は相当の高給であったことが、当の慰安婦自身の証言からもわかっていますし。無論、女性を斡旋しようとする方にときに犯罪行為があることは言うまでもありません。別の職業だと騙す詐欺行為とか、誘拐まがいのこともあったでしょう。しかし、募集している方は、賤業とは言え立派な職業ですから、そんな必要はまったくないんですね。現代のいわゆる風俗業よりオープンだったでしょう。事実、公募のポスターが残っています。<br />そして２０万人の朝鮮人慰安婦という荒唐無稽な数字については、完全な韓国国内での誤解というか錯覚です。そもそも、一番数が多かった日本人慰安婦などすべての慰安婦を集めても、２０万人もいません。これは、女子挺身隊の勤労動員の数なんです。女子挺身隊と騙して慰安婦にされた例も何件かあったという話がいつの間にか、挺身隊＝慰安婦にすり替わってしまったという、実にばかばかしい話。ちょっと考えれば、２０万にも戦地に動員することなど補給と輸送力からして無理だし、日本の敗戦後、その２０万人が帰国したとすれば、連合軍側の記録に残ってるはずなんですがねえ？<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10653376.html</link>
      <title>独創</title>
      <pubDate>Thu, 01 Mar 2012 20:50:27 +0900</pubDate>
      <description>ちょっと前に、同じ大学の先生と、あるテーマを巡って、少し論争をしました。それは、「独創的なアイディアとはどのようにして生まれるか？」という問題です。相手の先生は、既存のものとの断絶を強調したのですが、こちらは、あくまでも既存のものがベースであると主張しました。それがオートポイエーシス論からの帰結だからです。まず、知識はどのような形で存在するのでしょうか？あらゆる知識はすなわち意味コードです。記号的・言語的な表現はそのコード表象になります。このため、同一の知識をさまざまなコード..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
ちょっと前に、同じ大学の先生と、あるテーマを巡って、少し論争をしました。それは、「独創的なアイディアとはどのようにして生まれるか？」という問題です。相手の先生は、既存のものとの断絶を強調したのですが、こちらは、あくまでも既存のものがベースであると主張しました。それがオートポイエーシス論からの帰結だからです。<br />まず、知識はどのような形で存在するのでしょうか？あらゆる知識はすなわち意味コードです。記号的・言語的な表現はそのコード表象になります。このため、同一の知識をさまざまなコード表象で、日本語でも、それ以外の言語でも、場合によっては数式でも、表すことが可能です。知識が重要なのは、意味コードですから、それによるコミュニケーション産出が可能だからに他なりません。言い換えれば、知識をもっていれば、次にどうするべきかがわかるのです。意味コードである以上、知識はネットワークを成しています。ネットワークを大枠から細部へと特定していくなら、たとえば、学問の、哲学の、近世哲学の、カントの、『純粋理性批判』の、「超越論的演繹論」の知識、というように絞っていくことができますが、大枠の知識がなければ、より細部の知識は役に立ちません。同じ大枠の中で同レベルの細部を並べれば、同じ例を使うと、近世哲学の中で、カント、デカルト、ロック、ライプニッツ、ヘーゲル等々の知識ということになるわけです。<br />意味コードですから、たとえ創発が起き、新しい意味コードが生まれるにしても、それは既存の意味コード・ネットワークに接続できる範囲にとどまります。完全に断絶した意味コードは生じることが原理的にできません。言い換えるなら、いかなる新しい知識であっても、必ず既存の知識をベースにもっているということです。これはちょっと考えればわかる話で、新しいとは、既成のネットワークに存在していなかったということにすぎないのであり、既成のネットワークに相対的なのであって、完全に断絶していたら、そもそも知識として機能することができないでしょう。既成の何についての知識なのかすら、理解されないことになりますから。では、新しい独創的な知識の新しく独創的である所以はどこにあるのか？それは、既成のネットワーク上に、それまでなかった結節点を見出すことにこそあります。つまり、ネットワーク上に存在する複数の知識の間に、従来にはなかった連関を見出し、それによってネットワーク上に新しい結節点として生じる意味コードこそが、新しい知識です。A、B、Cという知識の間の連関は知られていたが、A、B、Dという連関は従来考えられていなかった。そして、この連関を見出したことで、その結節点として知識Xが生まれた。図式的に言えばこうなります。哲学の世界から例を引くなら、ショーペンハウアーの哲学は、インド思想によってカント哲学を解釈したもの、インド思想とカント思想の間に従来なかった連関を見出すことによって生まれた思想と言うことができるでしょう。<br />このため、新しい独創的な知識を生み出すためには、まず既成の知識のネットワークをすべて知っていなければならないことになります。少なくとも自分が専門とする分野のネットワークの範囲で。でなければ、すでにある知識を新しいと錯覚してしまうかもしれませんし。私の恩師に、「他人の本を読むのは、自分の言いたいことがすでに言われていないか調べるためだ」と言い切った人がいます。それに、新しい連関を見出すには、それに関わる知識を知っている必要がありますね。点を知らなければ、それを結ぶ線は引けません。また、古いものを新しいもので否定するにも、まず古いものを知っていなければ、無理です。この場合、新しいものは古いものに否定を通して連関していることになります。独創や新しさを生み出すには、古いものを知っていなければならないという、ある意味当たり前の結論になりました。「温故知新」とはこういう意味なのでしょう。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10642660.html</link>
      <title>定義と翻訳</title>
      <pubDate>Fri, 24 Feb 2012 00:01:21 +0900</pubDate>
      <description>長らく休んでましたが、大学の成績付けも終わりまして、エントリー再開です。しかし、どうして昨今の大学生は自分の言葉でレポートを書かんのですかね？ソース元を示していないコピペは減点対象だと言ってあるんですが。検索で見つけてきた文章は、やはり検索で見つかるんですけどねー？それで落とした学生けっこういますよ。ただ、読むのに加えてコピペ・チェックしなくちゃならないので、やたらに時間がかかります。講義理解度の判断基準にならないし、学生自身の文章力も落ちるし、論文作成の練習にもならないんで..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
長らく休んでましたが、大学の成績付けも終わりまして、エントリー再開です。しかし、どうして昨今の大学生は自分の言葉でレポートを書かんのですかね？ソース元を示していないコピペは減点対象だと言ってあるんですが。検索で見つけてきた文章は、やはり検索で見つかるんですけどねー？それで落とした学生けっこういますよ。ただ、読むのに加えてコピペ・チェックしなくちゃならないので、やたらに時間がかかります。講義理解度の判断基準にならないし、学生自身の文章力も落ちるし、論文作成の練習にもならないんで、やめさせたいんですけど。来年はもっと厳しくしようかな？<br /><br />まずはサッカーネタ。U２３日本代表はアウェーでマレーシア代表を０－４で降し、シリア代表がバーレーン代表に敗れたため、グループ首位に返り咲き、最終節引き分け以上でロンドン・オリンピック出場が決まることになりました。アウェーでシリアに敗れて二位になった後、悲観論が飛び交いましたが、当然予想できた結果ですね。敗退の決まっているマレーシアはホームでせめて一勝を狙って攻めてくるから最終ラインは高くなり、裏がとれる。ピッチ状態の悪さで手こずりましたが、先制点はまさにその形でした。後の３点は実力差から当然の帰結と言っていいでしょう。マレーシアがあそこまでラフにならず、主審のジャッジが適切なら、もっと点は入ったでしょうが。対してバーレーンはシリアに勝てなければ敗退がほぼ決まりますから必死。もともと日本の方が圧倒的に条件は有利でした。最終節、日本のホームにバーレーンを迎えますが、バーレーンは４点差以上の勝利が最低条件であるため、やはり攻めてこざるをえず、日本にスペースを与えることになります。国立競技場のピッチで実力を十分に発揮できる日本からすれば、鴨が葱しょって来るようなもの。オリンピック出場はほぼ間違いないでしょう。<br /><br />さて本題。時事ネタ絡めまして。一般に言葉の定義とは何か？これをオートポイエーシス論から言うと、その言語の意味コードネットワークにおいてある言語表象に対応する意味コードが占めている位置、となります。したがって、ある言葉の定義は基本的にその言語の意味コードネットワークに相対的です。言い換えれば、言語ごとにすべての言葉の定義は違っているということ。これで困難が生じるのが翻訳です。翻訳とは、ある言語の言語表象を、対応する意味コードがその言語の意味コードネットワークにおいて占めている位置が、別の言語における意味コードネットワークにおいて占めている位置と位相的に見て重なるような意味コードに対応する言語表象に対応させること。いささかややこしいですが、具体的に言えば、イヌという言語表象が日本語の意味コードネットワークにおいて占めている位置が、ドイツ語の意味コードネットワークにおいてHundという言語表象に対応する意味コードが占めている位置と位相的にほぼ同型であるということで、この結果、Hundをイヌと訳せるわけです。ただし、これは常に可能というわけではないんですね。ある言語の意味コードネットワーク上に存在している意味コードの位置が、別の言語の意味コードネットワークに存在しないことがあるためです。当然、その位置にある意味コードに対応する言語表象はもう一つの言語に翻訳できません。こういう場合は外来語として取り込まれるしかないんです。これを無視して大雑把な対応だけで訳してしまうと、誤訳になってしまいます。同じものについて話しているつもりで、話がかみ合わなくなるんですね。<br /><br />こんなニュースが聞こえてきました。<br /><br />南京事件なかったと河村市長　訪問の中国・市常務委員に<br /><br />　河村たかし名古屋市長は２０日、同市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会の劉志偉常務委員らとの会談で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「通常の戦闘行為はあったが、南京事件はなかったのではないか」と発言した。<br /><br />　河村氏は、終戦時に父親が南京市にいたことを挙げて「事件から８年しかたってないのに、南京の人は日本の軍隊に優しくしていたのはなぜか」と指摘。「南京で歴史に関する討論会をしてもいい。私は南京の人に感謝している。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とも述べた。<br /><br /><a href="http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012022001001476.html" target="_blank">http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012022001001476.html</a><br /><br />いわゆる南京大虐殺をめぐる問題ですが、中国と日本ではまったく話がかみ合っていません。実は、日本側のうちでも論争があるのですが、これはまったくの的外れです。この論争については前から不満だったので解説します。日本の歴史学者の間で争われているのは、捕虜の処刑の人数とその正当性についてです。ところが、中国は捕虜の処刑を大虐殺と呼んでいるわけではありません。中国が言っている３０万人という数字は、捕虜の処刑では絶対に無理です。中国が言っているのは、南京での戦闘終了後、日本軍が組織的な市民無差別殺戮を行った、ということ。実を言うと、虐殺と訳されている言葉でイメージされるのは、中国でも欧米でも、こちらの方が普通なんです。なぜならこれは、中国にもヨーロッパにもあった、都市が陥落すると非戦闘員の住民が勝った軍隊によって殺戮され、しばしば皆殺しにされるという戦争文化の現象を示す言葉ですから。中国語では屠城と言います。ところが、こうした戦争文化は日本には無いんですね。日本の戦争史においてこの意味の虐殺はほとんど起きていません。このため、日本人は、中国人や欧米人がこの言葉から受けるイメージが理解できないんです。だから、残虐な殺戮とか、大量殺戮の意味で理解してしまう。捕虜の処刑を虐殺と呼んでしまうのはそのためです。世界的に見れば、これは残的掃討戦の一環にすぎず、虐殺の定義には当てはまらないんですが。<br />そして中国が言う意味での虐殺があったかと言えば、これはまったく無かったと断言できます。南京攻略軍の松井大将は、南京戦に際して、市民殺害を許すような軍令は出していませんから。むしろ、軍紀違反の兵士の犯罪があったことを嘆いているほどで。これはなぜかと言うと、別に日本軍が善人だったからではなく、汪兆銘政権という中国軍閥と同盟している上に、物資を現地調達していた日本軍には、中国の一般市民を敵に回すと、戦争遂行がやりにくくなるという事情があったためです。そもそも、日本軍の戦闘目的は国民党軍の降伏であって、中国市民は攻撃対象ですらありませんでした。物資と労力を割いてまで市民虐殺をする理由がないどころか、言ったように、できない理由がたくさんあったのです。実際、捕虜の大量処刑や兵士の個人犯罪を示す証拠はたくさんありますが、組織的な市民無差別殺戮を証明するものはまったくありませんし。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10605069.html</link>
      <title>協議</title>
      <pubDate>Sat, 28 Jan 2012 13:22:59 +0900</pubDate>
      <description>久しぶりの時事ネタです。オートポイエーシス論的には、協議も当然社会システムの一種です。ルーマンの分類で言えば、対話（相互作用）システムになります。目的は、参加者間での、協議の後のコミュニケーション・コードのすり合わせ。参加者が共通のコードでコミュニケーションし、相互の齟齬が出ないようにすることです。もちろん、実際には協議で合意した後でも、合意はコード表象のレベルでしか生じませんから、互いの対応すべきコードが違っているということはありえます。それだけに、協議の参加者に期待される..</description>
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久しぶりの時事ネタです。オートポイエーシス論的には、協議も当然社会システムの一種です。ルーマンの分類で言えば、対話（相互作用）システムになります。目的は、参加者間での、協議の後のコミュニケーション・コードのすり合わせ。参加者が共通のコードでコミュニケーションし、相互の齟齬が出ないようにすることです。もちろん、実際には協議で合意した後でも、合意はコード表象のレベルでしか生じませんから、互いの対応すべきコードが違っているということはありえます。それだけに、協議の参加者に期待されるのは、前提認識の共有と、合意したコードの遵守に他なりません。まず、前提となるシステム状態の理解が一致していなければ、協議コミュニケーションの連鎖が不確実になります。無論、協議の過程で認識をすり合わせるということは可能ですが。そのためには、参加者が自分の認識を他の参加者に開示することが不可欠です。これが隠されたままでは、そもそも協議をする意味がありません。次に、協議の結果合意されたコードが参加者全員の間で少なくとも次の協議までは維持されることが期待されます。したがって、そこには、相手がコードを確かに維持するという信頼も必要です。そもそも信頼できない相手とは協議ができませんね？そして、過去に合意したコードに違反したことのある相手というのは、信頼できる相手とはなりえないわけです。合意したはずのことを勝手に反故にされるのでは、協議しても無駄ですから。<br /><br />国会で野田総理が消費税増税に関する事前協議に応じるよう野党に呼び掛けています。これそもそもおかしいですよね。法案は与党が作って国会に提出するものです。その与党案に対して野党が対案を示し、国会で審議するというのが筋でしょう。どちらも通らないというなら、解散して国民に信を問えばいい。これが憲政の常道というものだと思うのですが。しかも、与党が信頼して協議のできる相手かどうか極めて疑問です。次のニュースが飛び込んできました。<br /><br />年金財源、試算示さぬ方針　増税議論への影響懸念<br /><br />野田政権は２６日、民主党の新年金制度に必要な財源の試算などの全体像を野党側に提示しない方針を固めた。自民、公明両党は消費増税法案を今国会で審議する前提として、試算の公表を要求しており、両党が反発するのは必至だ。 <br /><br /><a href="http://www.asahi.com/politics/update/0127/TKY201201260769.html" target="_blank">http://www.asahi.com/politics/update/0127/TKY201201260769.html</a><br /><br />認識の共有を拒否するのでは、上述したように、協議を可能にする条件が整いません。これでは協議と言うより、めくら判を押せというようなものです。また、合意したコードの遵守という点でも与党は落第。次のニュースが証拠です。<br /><br />新手当法案の全容判明　名称は「子どものための手当支給法」　自公、反発必至<br />2012.1.23 11:17 （1/2ページ）［野田首相］ <br />　子ども手当に代わる新手当を平成２４年度から支給するため、政府が通常国会に提出する児童手当法改正案の全容が２２日、明らかになった。法律名を「子どものための手当支給法」に改め、法律の定義や支給要件を旧子ども手当支給法と同じ条文に置き換えるなど、子ども手当“継続”を強く印象づける内容となっている。子ども手当を廃止した上で児童手当を拡充するとした民主、自民、公明３党の昨年８月の３党合意を骨抜きにしており、法案成立を目指す３党協議で自公両党が反発するのは必至だ。<br /><br /><a href="http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120123/stt12012311200001-n1.htm" target="_blank">http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120123/stt12012311200001-n1.htm</a><br /><br />野党との協議の結果合意したことを事実上反故にしています。こんな相手では信頼できないのが当たり前。ましてや、この協議申し入れの意図は、消費税増税の責任を野党に押し付けようという露骨なもの。野党が協議に応じないのは当然ですね。そもそも、総選挙のマニフェストさえ守る気がないのは、次の動画を見れば明らかですし。<br /><br /><br />野田総理　マニフェスト　書いてあることは命懸けで実行<br /><a href="http://www.youtube.com/watch?v=y-oG4PEPeGo" target="_blank">http://www.youtube.com/watch?v=y-oG4PEPeGo</a><a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10593810.html</link>
      <title>試験とオートポイエーシス</title>
      <pubDate>Sat, 21 Jan 2012 11:45:43 +0900</pubDate>
      <description>先日、センター試験がありました。うちの大学も試験会場になり、私も試験監督をやってきたわけです。非常勤時代にはありえなかったことなので、自分も常勤職になったんだなあと灌漑深いものがありました。実は私、二浪してまして、共通一次試験の時代ですが、この手の試験を三度受けています。それだけに受験生に思い入れが大きく、心の中でがんばれがんばれと応援しながら、試験監督していたんですけどね。今回のエントリーはその時のエピソードが基になってます。なぜ試験とオートポイエーシスなのか？それは試験ほ..</description>
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先日、センター試験がありました。うちの大学も試験会場になり、私も試験監督をやってきたわけです。非常勤時代にはありえなかったことなので、自分も常勤職になったんだなあと灌漑深いものがありました。実は私、二浪してまして、共通一次試験の時代ですが、この手の試験を三度受けています。それだけに受験生に思い入れが大きく、心の中でがんばれがんばれと応援しながら、試験監督していたんですけどね。今回のエントリーはその時のエピソードが基になってます。<br />なぜ試験とオートポイエーシスなのか？それは試験ほど、人間のオートポイエーシスを実感させられるものはあまりないと言えるから。センター試験、大学の合格がかかっています。それで人生がすべて決まってしまうわけではないものの、一応人生のかかった大勝負です。このために、やりたいことも我慢してつらい試験勉強を続けてきました。体調管理も十分にしてきたはずです。いよいよ試験が始まって、一秒でも時間が惜しい。それなのに、トイレに行きたくなるんですね。我慢しようとしても、試験に集中できなくなるから、行かざるをえない。私の会場でも４、５人いました。なぜそうなるかと言うと、生命システムがオートポイエーシス・システムでその作動が自律的だから。認識システムの言うことを完全には聞いてくれず、自分の都合で動くわけです。しかも、認識システムの状態、例えば緊張から、受けてほしくない攪乱を受けてしまう。結局、自分の体は自分の思い通りにはならないのです。<br />試験はまた、認識システムそのもののオートポイエーシスも思い知らせてくれます。それは、システムの現在の作動が次の作動を確定できないこと。試験問題を読みます。ああ、あれだとわかる。あの時読んだ参考書のあの辺に書いてあったということも思い出せる。練習問題でやったときは確かにできていた。ところが、どうしても出てこない！認識システムはその概念コード・ネットワークをその都度その都度書き換えています。このとき、いったんは習得した特定の概念コードだけが欠落してしまうということがしばしば起こる。概念コードが欠落しているので、対応する表象が産出できない、つまり思い出せない。いわゆるど忘れというやつです。残っているネットワークの周辺から思い出していくと思いだせることもあるのですが、どうしても思い出せないこともある。後になってからあっさり思い出せることもあるんですけど。つまり、思い出そうとすることが、思い出せるかどうかを決定できないんですね。認識システムの作動は自分の過去の作動からも自律しているのであり、作動のその都度にしか決まらないんです。そうでなく、思い出そうとしたことがすべて思い出せるなら、誰も試験で苦労しなくて済むんですけどね。<br />そもそも試験では何をやっているのか？この問いにオートポイエーシス論から答えるとこうなります。認識システムの概念コード・ネットワークの構築が、リクエスト・スタンダードに達しているかどうかを抜き取り検査している。要求された概念コードを作動させられたか否か？合否の二項性がここで決まります。本来ならネットワーク全体について検査したいんですが、そんな時間はとてもありませんから、特定の概念コードの作動を確認することで、ネットワークの構築具合を推定しているわけです。ですから、その判定は完全なものではありません。一夜漬けでヤマが当たれば、試験が終わってすぐに忘れてしまっても、その点ではリクエストをクリアしたことになるわけです。たとえ、試験に出なかった他のことはまったく覚えていなかったとしても、ネットワーク全体の構築としてリクエスト・スタンダードをクリアしていると見なされ、合格してしまう。ましてセンター試験はマークシートですから、選択問題では、ただの勘でも、鉛筆を転がしても、正解してしまうことはありうる。それでも、他に方法は無いんですね。認識システムの概念コード・ネットワークは外からは見えませんから、実際に作動させることによって概念コードの存在を確かめるしかないわけです。センター試験が終われば二次試験。受験生の皆さん、がんばってください。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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      <link>http://blogs.dion.ne.jp/autopoiesis/archives/10576175.html</link>
      <title>『ソフィーの世界』（２）</title>
      <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 00:07:13 +0900</pubDate>
      <description>久々ですが、『ソフィーの世界』からのエントリーの二回目です。ソフィーが受け取った二番目の手紙に書いてあった問題は、「世界はどこからきた？」というもの。小説の中では、種明かしとも絡む、割に意味深な問題なんですけどね。オートポイエーシス論から、この問題を考えてみます。まず、オートポイエーシス論において「世界」とは、ルーマンが考えた概念です。その定義は、「システムと環境の統一」。オートポイエーシス・システムは自分自身を、自分以外のものである環境から区別して成立します。言い換えれば、..</description>
            <content:encoded><![CDATA[
久々ですが、『ソフィーの世界』からのエントリーの二回目です。ソフィーが受け取った二番目の手紙に書いてあった問題は、「世界はどこからきた？」というもの。小説の中では、種明かしとも絡む、割に意味深な問題なんですけどね。オートポイエーシス論から、この問題を考えてみます。<br />まず、オートポイエーシス論において「世界」とは、ルーマンが考えた概念です。その定義は、「システムと環境の統一」。オートポイエーシス・システムは自分自身を、自分以外のものである環境から区別して成立します。言い換えれば、一切のものはシステムとその環境に二分されるわけです。したがって、ルーマンの言う世界は、システムと環境の分離以前、つまり存在する一切のものを指すことになります。まあ、私としては、「全一」として欲しかった気はするんですけど。ここであらためて上述の問いに答えるなら、世界は常に先にあった、という答えになります。要は、世界とはどこからも来ることができないもの、無かったということの不可能なものだということ。ビッグバン宇宙理論によれば、この宇宙は百四十億年ほど前に誕生したことになっていますが、ここで言う世界から見れば、それは世界の中における変化にすぎません。世界に始まりはないのです。なぜなら、すべては世界において、その変化として、より正確には差異化として始まるのですから。<br />にもかかわらず、世界の始まりを考える議論が多いのはなぜか？カントの純粋理性の第一アンチノミーも世界の始原を問うものでした。ギリシア神話はカオスからのコスモスの誕生を説き、キリスト教も神による世界の創造を説きます。考えられる答えは、世界をシステムと同一視してしまう傾向が人間の認識システムにはある、ということ。実を言うと、観察者の視点からはこの意味での世界は把握できません。観察者が何かを把握しようとすれば、どうしてもそれを対象として立ててしまうことになるのです。しかも、それと同時に、何かとして見てしまうことにもなります。ところが、定義からわかるように、世界とはまだ何でもないのですよ。それを無理に何かと見てしまうため、観察者からはシステムであるかのように見られやすいんです。こうなってしまえば、オートポイエーシス・システムは必ず始原をもちますから、類推によって世界にも始原が考えられることになるのですね。よく考えれば、始原が可能であるためには先行して何らかの場所がなければならず、それが世界なんですけど。始まりも変化であって、すべての変化は世界の変化そのものなんです。だから、世界が無いということは不可能なんですね。それがどんなあり方であれ。<br />ですから、「世界はどこからきた？」というのは答えのない偽問題です。ソフィーが「いやんなっちゃう」のも無理はありません。<a name="more"></a>

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      <author>autopoiesis</author>
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