2005年05月15日

長岡輝子(朗読)「長岡輝子、宮沢賢治を読む 第一巻」

草思社CDブック 1991年録音 

以前、盛岡の「北ホテル」で見つけたのだが、とにかく盛岡弁が聴きたくて買った。全部で八巻出ていて、あと何巻か買いたかったが、盛岡弁のためだけ、にしてはちょっと高くて(1巻2,800円)、この1巻だけ。

賢治は花巻弁だったのだろう、長岡輝子さんは(東京生まれではあるが)おばあ様から受け継いだ正統盛岡弁だ。盛岡弁を聴く、といふことでは、「あすこの田はねえ」がいい。続きを読む
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2005年05月12日

サガン★朝吹登水子訳「悲しみよ こんにちは」


sagan18
新潮文庫 赤118A 1955年

2004年9月24日、フランスの作家、フランソワーズ・サガンが亡くなった、享年69。1ヶ月後、私は渡仏、初めてパリに立つ...
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2005年05月11日

アルバム Duke Jordan Trio "Flight to Denmark"


fligthtodenmark
SteepleChase Records 録音:1973年11月25日、12月2日コペンハーゲン
piano Duke Jordan / bass Mads Vinding / drums Ed Thigpen 

「一万円です...」「(ぇ?うぇっー!)ぁ、はい(わぉー)...」
--
いまから20年以上前の貧乏学生に1万円は、とんでもなく大金である。そのとき私は仙台に住んでいて、デューク・ジョーダンのライヴを聴くため、北に120キロほど離れた岩手県水沢市内のジャズ喫茶店に辿り着いたところであった。

店の入り口で店員(若造だ、といって当時こちらはもっと若造だったはずだが)に1万円、と告げられる。いくらするのか事前に調べもせずに、はるばる出掛けてしまふあたり、そのごもあまり進歩はないが、それにしても所持金少なく、どうみても帰りの汽車賃分は鈍行に乗るのがギリギリと思はれた(正確な計算が出来ないのも進歩がない)。

といったって、ここまで来たのである、入るしかあるまい。結局、ほろ酔い加減で「手のろれつ」がおぼつかないジョーダンのピアノを堪能し、さいごは肩まで組んで記念写真に収まった。鈍行を乗り継いで仙台に戻ったのは深夜過ぎ、午前様だった。記念写真は、いま仕事場の私の机の隅を飾っている。
--
さて、私がジョーダンを知ったのは、タクシードライバーから「ニューヨークのジャズ・シーンにカムバック」した復帰第一作の本アルバムをNHK-FMで聴いた、新生ジョーダンである。それより昔のレコードは、あまり持っていないし、ほとんど聴かない。

本アルバムは、2枚組といってよい「白・黒」のうちの1枚で、白のジャケットの方;雪景色の林(?)の中、日本発売物には付き物の帯に半ば隠れる位置に、ジョーダンが立っている。この帯がくせ者で、裏にはメンバーが並んだ写真が載っているのだが、ジョーダンはこの帯にまるっきり隠れてしまっている。そんなもんで、しばらく私は、その写真の中のドラムスのエド・シグペンをジョーダンだと思っていた。

あるとき帯がずれて、真実の顔を知ったときは、それまで彼のピアノから受けていた、ある種幽遠な思想とも似た雰囲気が一瞬ふっとんだ。(会ってみたら、もっとふっとんだけど;これでピアノがなけりゃ、ただの酔っぱらい...)

このアルバムは私にとって、自主的に買ったほとんど初めてのジャズのレコードであり、かつこれまでもっとも多く繰り返し聴いたレコードである。SIDE 1(A面)の最後4曲目、Glad I Met Patは、ジョーダンのオリジナルで、彼の近くに住んでいた聡明で美しい少女、9才で誘拐されたPatriciaを偲んでかかれた。

目つきがあやしくても、多少酒癖が悪くとも、彼のピアノの旋律は、やさしさにあふれている。
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Posted by (蚕) at 02:12  |Comments(0) | 録音 , 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月10日

Time(唄)「82才のおじいさん」

作詞・作曲:市村敏行・古田善昭 1973年エフエム東京「ヤマハ・ナチュラル・サウンド・アワー」エア・チェック録音テープ個人蔵(レコード・CD見当たらず)

色ボケ爺さん讃歌の愉快な曲である、と実のところ、さいごに聴いたのは30年もまえのこと。で、曲も歌詞もほとんど覚えていない。ただ、「はちじゅーうにさいのぉじぃーさん」というワンフレーズと「タイム」というグループ名だけが、ずーと頭に残っている。それは、自分の理想の老後像として、その「おじいさん」に漠然と想いを寄せていたからなのだろう。だから、続きを読む
Posted by (蚕) at 00:27  |Comments(1) | 録音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月08日

叶 正子(唄)「いもうと(未発表曲)」

作詞:木下シゲ、作曲:木下 純 CD:キングレコード「ポプコン(R)ガールズ・コンピレーション、ポプコン・スーパー・セレクション」

1973年ヤマハ・ポピュラー・ソング・コンテストで歌った叶正子(現在ヴォーカルグループ「サーカス」メンバーとして活躍中)の未発表レコーディング...」

と、ライナーノーツにある。となると、30年目にして、やっとレコード化、否CD化した訳だ、有り難い。続きを読む
Posted by (蚕) at 14:01  |Comments(0) | 録音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月07日

松下竜一「風成の女たち-ある漁村の闘い」

社会思想社 ; ISBN: 4390111264 ; (1984/11) 現代教養文庫 (1126)

2004年6月17日、2つの訃報を受け取った...続きを読む
Posted by (蚕) at 15:41  |Comments(1) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月06日

松本竣介「盛岡風景」


盛岡風景
1941年 画布・油彩 岩手県立美術館蔵

光あれと ねがふとき
光はここにあつた!

夭逝の詩人、立原道造の草稿詩篇「アダジオ」の冒頭の一節である。道造は亡くなる前年、盛岡に一ヵ月ほど滞在した。東京を発つ道造に「いいなづけ」が渡した大学ノート、のちに「盛岡ノート」と称される、盛岡滞在記を綴った「手帖」に「アダジオ」は書き付けられた。その「アダジオ」の詩碑が、松本竣介の描いた「盛岡風景」の丘の北にある愛宕山中腹に建つ。

私が初めて、道造の詩碑のある公園を訪れたのは、いつのことだったか。詩碑を取り囲む木々は植樹されたばかりで、まだ弱々しかった;そのご、何年かして再訪したときには、詩碑に木もれ日をそそぐほどには木々は成長していた。

道造は盛岡滞在中、友人にあて「啄木の住んでゐた家などが僕のゐる近くにあり、いろいろなところに啄木の記憶が残ってゐる。」と書き送っている。道造が盛岡を訪れたのは1938年、じつは、その「啄木の住んでゐた家」に私の母は住んでいた。当時、母は尋常小学生、もしかすると、街を散策する道造と遭っていたかも知れない... その「家」はもうない、いま跡地には「啄木荘」という名の白い瀟洒なアパートが建っている。
--
道造が盛岡に滞在した3年後、東京在住の洋画家、松本竣介が盛岡を訪れる。竣介は幼少時代を盛岡ですごしており、かつて住んでいた周辺をスケッチ、「盛岡風景」に仕上げる。

松本竣介の作品は、故郷・盛岡にある岩手県立美術館のほか、宮城県立美術館(仙台)、神奈川県立近代美術館鎌倉館、東京国立近代美術館本館に多く所蔵されている。それら美術館のある土地は、いずれも私がかつて住み、さいわい今も縁あって訪れる機会が多い。そうしたおりには時間を作って、竣介の作品と再会する。
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Posted by (蚕) at 23:06  |Comments(3) | 美術 , 文学 , 盛岡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月05日

映画「松川事件」

松川事件劇映画製作委員会 1961年

そのなかに「私」は居た...

戦後の混乱がつづく1949年の夏、立て続けに起きた、日本国有鉄道の三大迷宮入り事件の一つ、松川事件。私が生まれる前の出来事だが、検挙された20人に及ぶ被告全員の冤罪がはれたのは1963年。事件そのものは翌年に時効となった。
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その冤罪事件の最終審判はテレビで生放送された。そのテレビを私は、-いまにして思えば小学校の低学年で理解できていたのか疑問であり、記憶違いのような気もするのだが-、極めて個人的な理由から、両親とともにみて、無罪確定に安堵した。

控訴審判決までの詳細をリアルに描いた映画「松川事件」は、全国的な冤罪支援運動の一環として、裁判中に作製され、370万人の観客を動員したという。もっとも私はまだ小学校にあがる前であり、公開当時は観ていない。

ラストの支援群衆を前にした被告団声明が圧巻。金子兜太似の我が恩師も支援者の一人であった。そのなかに「私」は居た...
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Posted by (蚕) at 22:14  |Comments(0) | 映像 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月04日

劇団 東京乾電池「長屋紳士録」

2005年4月26日 オホーツク文化交流センター 脚本:小津安二郎・池田忠雄 演出:柄本明 出演:劇団 東京乾電池

客席からは時折笑ひが起きた...続きを読む
Posted by (蚕) at 02:29  |Comments(0) | 舞台 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月03日

金子兜太「今日の俳句-古池の「わび」より海の「感動」へ」


今日の俳句
光文社 知恵の森文庫

NHK-BS俳句王国史上(?)初の珍事...続きを読む
Posted by (蚕) at 02:16  |Comments(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

BlogのLog:はじまり

2005年5月3日、黄金連休ど真ん中、暇にまかせて、突如、はやりのBlogを思い立ち、開始。
 一度、日頃の野営(キャンプ)や畑(家庭菜園)の記録をつけるべく、立ち上げたが、諸事情により削除。仕切り直した現Blogは、まったく違った物になったが、構想も計画もなく闇雲に開始する。
 内容は、日記形式を無視した、1日1作品を採り上げ、それにまつわる話。(そのうち、失速して、間が空くようになる。)
 登録日を作品に初めて出会った日付に編集し直すのも面白そうだ。※ここまで2005-06-06(蚕)
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2004年11月07日

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場、モンマルトル」

<投稿2005-05-14 23:23:07>

2005051479450e17.jpg1876年 画布・油彩 パリ、オルセー美術館蔵

「私にとって、絵は心地よく、楽しく、きれいなものでなければならない。...

ルノワールといふと、子どもの頃から、少女や裸婦を描いた作品を銀行とか商工会議所とかの、「おじさん」が作るカレンダーで見すぎていたせいか、あまり好きでなかった。あの首にまとわりつく静電気を帯びた化繊の細毛のような筆触も好みでない。
--
2004年11月渡仏の折、半日も時間が取れないなか、朝一番に並んでオルセー美術館を訪れた。ゴッホやミレーが目当てで、しかも時間がなかったので、ほかは駆け足のつもりでいた、とくにルノワールなんてのは...。

この「ギャレット」は上階ギャラリーの中ほどに、モネ、シスラー、ピサロとともにあった。モネの「サン・ラザール駅」をしばしながめたあと「ギャレット」に向かう。はっ、とした;その筆の素早いタッチ;もちろんルノワールの代表作ではあるけれど、実物はこんなに違ふのか、と。

このオルセーでは、ゴッホの「オーヴェール=シュル=オワーズの聖堂、後陣」が、これまで複製、画集で見てきたのとまったく違ふ印象を受け、空の青さ、コバルトブルーそのままの鮮やかさに息をのんだが、それに次ぐ感動を「ギャレット」から受けた。(ミレーは、ずいぶん暗く、古ぼけて見えたので困惑したが)

帰り、売店で一番安いオルセーのガイドブックを買ひ求めた。その「ギャレット」の解説に、ルノワールは「絵は心地よく、楽しく、きれいなものでなければならない」と語っていた、とあった。私の父も昔、同じようなことを私に話したことがある。
 父とは日ごろあまり口をきくほうではなかったので、「絵は楽しくなければ」と私に語るように話した言葉が妙に印象に残っている。父は、若い頃から油絵を描くのが趣味で、定年でサラリーマンを終へると、再就職もせず、毎日が日曜画家の生活を楽しんだ。
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Posted by (蚕) at 23:23  |Comments(0) | 美術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年07月24日

串田和美(演出)「ゴドーを待ちながら」

<投稿2005-05-24 00:33:12>
2003年7月北海道公演 原作:サミュエル・ベケット(1952年仏語) 出演:串田和美・緒方拳・ほか

なんの予備知識もなく、北海道の片田舎の箱ものホールで観た。
終わったあとの、文字どおり何とも言われぬ、催眠術にかかりそこなったような客たちの雰囲気、味わってしまった。これがまた、三々五々ホールを出たあとも客たちにつづくのである。そして、家に帰った湯船の中まで、引きづるのである。なんと、寝て起きて覚めても。

不条理演劇の代名詞として、つとに著名であるだけでなく、観た人の誰しもが、まだ観ぬ他人に伝えたくなる芝居であるようで、インターネットのクモの巣には「ゴドー」を待つページがゴマンと引っかかっている。ここも、その1ページ、ということだろうか。

しばらくして、たしか翌年の、同じ串田演出・キャストのNHK教育テレビでの舞台中継も観た。が、これはやっぱりライヴに勝てない、否、ライヴにかぎる。なにせ、私とツレアイの席は、「道端」に置かれた座布団の特等席だった。二幕の幕あい(といったって幕は降りない)の雰囲気は、終わったあとの雰囲気以上で、これは絶対にテレビでは味わえない。

ボディーブローか、むち打ちか...それも、いつだったか、知人のらーめん屋の壁に緒形拳の色紙を見つけたとき、かかりそこないの催眠術もいくらか醒めたような気がした。
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1988年05月19日

映画「AKIRA」

<投稿2005-05-19 19:24:16>

AKIRA
1988年 監督:大友克洋

オホーツク海を左に見ながら白のワンダーシビックが南下する。(稚内に映画館は、もうない。さて、どこまで行けば観られるのか...)

稚内から大きい岬をまわってオホーツク海に出る、150キロ南下。小さな漁村に小さな映画館あり、むろん劇場アニメなぞかかっていない、昼食をとる。さらに100キロ、途中から少し内陸に入った、かつて鉄路の分岐点であった町の映画館に「AKIRA」があった。

光源弱く、音響ビリビリ、客は数人、うすら寒(ざむ)い。印象? いい、訳がない。終わって、便所臭い併設の食堂で軽く食べた。その映画館も今はない。

ところで、ロックバンド、ハウンド・ドッグのリーダー大友康平とかポプコン出身で「傷心」「ボヘミアン」のヒット曲を持つ大友裕子とか、仙台に住んでいたときは、宮城に「大友」って姓は多いなあ、と勝手に思い込んでいた。

ということで、大友克洋も宮城県出身。私が、仙台で年食った学生をやってたころに、一つ年上の大友は漫画「AKIRA」の連載を開始する(ちなみに同い年の大友康平はプロデビューを果たす)。

同郷というせいでもなかろうが、仙台の学生の間では「童夢」や「気分はもう戦争」など大友作品が好んで読まれていた。私も、小さいころ「団地っ子」だった事情もあいまって、「童夢」の破壊描写には深層部ごと刺激され、紙面から波動さえ受けた。圧倒、である。

風と旗の公案禅ではないが、大友漫画は「動く」のである。それをわざわざ「動かす」のである。技術的に「動かす」ことが、どれだけ大ごとであるのか、私にはよく分からないが、努力と結果は必ずしも比例しない。「童夢」は漫画のままで正解だった。アニメ「AKIRA」はどうか、20年近くたった今もワクワクする、その凄さは変わらないが、大友ならもっと...と贅沢な(酷な)要求をしたくなる。
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Posted by (蚕) at 19:24  |Comments(0) | 映像 , オホーツク , 仙台周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1988年05月09日

映画「Cry Freedom」(邦題:遠い夜明け)

<投稿2005-05-09 23:30:14>

cryfreedom
監督:Richard Attenborough 1987年

日本最北端の街、稚内から映画館が消えた...

それは1988年*。赴任したばかりの土地から映画館が消える...、それを知った映画好きの新米熱血中学英語教師の呼びかけによって、最期にかけられたのが「遠い夜明け」。それは彼自身がアメリカで観て感動した映画であった。続きを読む
Posted by (蚕) at 23:30  |Comments(0) | 映像 , オホーツク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1978年10月27日

今日、今、このとき

[*1978年 蚕23の日記]
 10月27日(金)
 WTB氏と「Jeanne d'Arc」を見にいった。イングリッド・バーグマンの"Joan of Arc"である。それと バーグマン・シャルルボワイユの凱旋門である。1000円。
 帰へり、喫茶店に入ったが。
 自己の確立と個性の形成、人生観の形成について、彼は次のやうに語った。
 それは、小生が「浪人するくらいの人間は好きなことをやるために 1年や2年 余計にかかるわけだ。」「人それぞれでいいんじゃない」「ボクは何もしなかったけど1年くった」
 彼はいふ。敷いてある路線の上に乗っかるんじゃなくて、線路は自分で敷いて乗るもんだ 線路は自分で敷くものだ。
 「勉強だけしかしなかった」「それでいいと思へば それがその人の生き方」 「ピアノが弾けたり、絵がうまかったり、そんなのは何の意味もない。そんなのできたって何にもならない。さういふの自慢するのは嫌いだ。心が貧しい」
 彼は 他の人(同級生)のことを 頭がよい、大人だ、やさしい といった。
 自分のことを彼は 単純だ、まだ子ども、何も考へないといった。
 つまり、それはまるで反対なのだ。と彼は自分自身のことばの中にそれを示した。人生について いろいろ考へた、のは彼であり、己の生き方に正直である、のは彼なのだ。
 キミねえ、ヒトのことはどうでもいいよ。 小生が彼自身のことにふれると きまって彼の口から出ることばである。
 WTB氏のできることはスケート、ジョッキング、油絵、レコード鑑賞、若干の読書、ある一人の友人との会話、ボート(ヨット)、基本的日常生活(食べること、寝ること、出すこと・但し精液を含まない、風呂に入ること)。それだけである。まったくそれだけ。あと1つは、海に出ることを考へること。それ以外は まず彼の全生活の1%以下であらう。これが10何年も続いてゐるのだ。どれをとってもその始まりは少年のころ、幼きころである。「10指に満たぬ」これがWTB氏のWTB氏たるところである。
 小生は、小生のWho's who カードからWTB氏の項を削除せんと帰宅車中考へた。
 明日、WTB氏に再び線路の話をもちだしても、もう相手にはしてくれないだらう。明日は、明日になれば今日なのだ。WTB氏の時間軸では、昨日も10年前も同じ過去で、明日なるものは言葉だけで、存在はしない。今日、今、このときだけがあるのだ。
 [*日劇文化、入場券1000円半券が貼付]
[2005年12月15日の解題]
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1978年10月22日

記念日志向

[1978年 蚕22の日記]
[10月20日(金)25行略]
  10月22日(日)
 今日は、まことにくつろいだ休日となった。一日家にゐて、日本シリーズ最終戦[Wikipedia:1978年の日本シリーズ]なんぞを観たりして、レコードもジャズ中心に6枚ほどもきいた。(久しぶりにJordanをきいたが、やはり、あの渋みはなんとも良い)
 記念日にこだはるのだなあ、どうしても。四ッ谷のジャズ喫茶で初めてきいたポール・ウィナーズの第2集、木馬に3人がのってるジャケットのあれ["Poll Winners Ride Again"]だが、あの録音は1958年の8月19日と21日。岩手が生んだ世界の名ジャズ・ピアニスト本田竹曠の生まれたのは(年は忘れたけど誕生日は)8月21日(もちろん58年なんかよりずっと前だが)。   そうした、生まれた場所であるとか、月日、いひかへると数字とか、さういったものを関係づけるといふのはどういふ心理なんだらうか。それより(数字が同じとか)先へは進まないことなのに、どうしてさうだと、うれしがって、関係づける(具体的にいへば その人を好きになるとか、その人のレコードを買ってファンになるとか、自分の好みだと思ふとか、)のだらう。まあ、自分の誕生日ぐらいは、誰でも多かれ少なかれ、かういふ有名人と同じ日なんだ といったりはする。またかういふところに住んでた人だとか、自分もそこの生まれなんだ、そこに居たことがあるとか、それこそ郷土愛のやうにまでなって、同郷人だなどといってよろこぶのはある。でもそりゃ「自分」だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いっていふが、その反対もまたあるのですからして?
 ファイリング・キャビネットを買ほうと思って数ヶ月いや1年か、たつけれど、はたして買ってから、この東京(神奈川)にゐるのかしらと、そこから考へは広がる。その中に入れるファイルは何だらう。重要書類もあらうが、過去のメモやら、くだらぬ書きをきやら冊子やら、ビラ等々どうでもいいたぐいがごそごそではないか。はたしてそれをとってをいてなんの役に立つのか。意義があるのか。ときにながめて過去を振りかへり、今後の方針に役立てやうといふしろものでもなし。ただ、時を逆行させるだけにすぎず、あゝ、はたして、それはこれからの私に足踏みさせるものではあっても、前進の助けとはなりえまい。ならばいっそすてちまえばいいものを。  他人も小生と同様、過去のものをたくはへる習性の持つの多きを見る。しかるに、小生とて、これをこのまま残してをくに擬議はない(か?)どうも捨てればおはりだ 死んで花実が成るものか、といふ考へがあるものだから、捨て切れない。他人様はどうでもいいんで、そんなものきれいさっぱりっていふ人間の方が多いにちがひないんだから。とはいっても、踏み切れんでゐる。もちろん、悪いことだとは思はない。どうとりあつかふかが問題であらう。心の問題だ。それによって将来の自分まで支配されてしまふやうではこまる。なにか記念日指向とここらで考へが一緒になる。(小生の日記は、まったく別の項のごときことがらがポコポコでてきて、いっしょくたに書かれてゐるやうだけど、連想ゲームの文章篇みたいなもんで、いつもなにかしらの関係あることが、づらづらかいてあるのだ。になかしら、つらなってゐるのだ、一日のまとまりとして) 記念日指向もまたこのファイルのせい、といふか、ファイルを残さうといふ心と同じものである。うしろへ、うしろへ、前は過去とかならず結びついてゐなければならないのだ。革命は許されない。クーデターも。せいぜい内閣ぐらいを変へて、過去を補充してゆく。そこが小生の保守的な一端。
 風邪をひかぬやう、もうここらでネルとする。 モンブランををく。 24_25
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1978年10月19日

蚕の記:例会風つきあい??

[1978年 蚕22の日記]
   10月19日(木)
  堅いがよく使ひこまれた太字の万年筆でザラついた西洋紙にインディゴブルーのインキをすべらせたい。それが万年筆がとにかく気に入った奴を1つほしくてたまらなかった少年時代の小生の夢であった。
  モンブランにパーカーのブルーブラックを入れたので何か書きたく日記を付けてみた。
  昨日のソフトボールで、たかが3回pitcherをつとめただけなのに、かうも体中が痛くなるとは。運動しなくちゃ体おとろへてます。
 断面図profiles、今日いっぱいやっても おはってゐないがともかく あす、S研へゆく。
  今日19日は例会の日のつもりだったけれど、誘はず、また、そのままにしてをけばいいものを小生はどういふ気でゐるのか自分にもわからない...のだが、電話なんぞして、ほんとに、どういふつもりなのだらう。ともかくも、"例会"風にして、これからもさういふつきあひかたをしていかうと思ふしだい。
  "冷血"を読み始めて数日。進まないが、おもしろさうである。
  学校のラジヲでFMジャズ・フラッシュ、キース・ジャレットの10枚組ソロの中から"札幌"のコンサートを聴いた。
  昨日、S川さんから仏語テキストの数冊を借りた。
  今日、STSI子さんと思はれる人とゼロックス室で一緒になった。
  いいかげんにしてネヨウ。このところ6時間constant。
Posted by (蚕) at 23:41  |Comments(0) | 若気の日記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1978年10月10日

へなちょこ頭

[1978年 蚕22の日記]
   10月10日(火)
  風邪とはまた違った感じの寒気があるのだがどうしたのか。実際、少し寒くなってきたけども。 今日。学校へ行ってIBMのタイプライターで紙1枚打ちおはったところ。左胸がおかしくなって、胸式呼吸で大きく吸ったりはいたりするとひどく痛みを感じた。今も治らない(23じ)。自然気胸なる病気があるけど,その軽いヤツってのはこんな感じかも知れない。
  断面図は水平距離をそろへてまた全部書き直しだ。[このあと3行、卒論作業状況、略]で、あと一週間でできる...か?
  来週ゼミ担当でなにも決めてゐないよ。
(ひょっとするとやっぱり精神障害を起こしてゐるのだらうか?)
  どこにもゆくところがないときがこのところよくあるのだが。
ひとりあてなく散歩してゐることがあるのだ まるで下山総裁[国鉄初代]のやうに 何のタメにと思はれるやうな行動をとるのだから。下山氏の場合は老人性のナントカらしいけど。
小生のは、やっぱり「老人性」かもしれなかったりして。精神構造はもうだいぶ へなちょこになってゐるのだな、  ヒトの頭脳サイホウは180億コほどもあるといふ。 少々こわれたっておかしかない。
  話をしたいのかしたくないのか、友だちっていふのはどういふもんだらう。 どうもひとりじゃ いけないやうだ。ひとりだと感じるのは不幸だよ かなしいよ つまらないよ
 酒にひたらず、うまく いきたいネ。 人人、人とつきあふなんてもんじゃなく。
    頭、 ノイローゼじゃないんだけどなんか変な気分。
       大学院のことがあるのだらうか。
   先,生きてゆくのはどうでも生きられる気がする。
 どうでもよければ今の世の中、生きてゆけはしまいか。  だいたいだいじゃうぶではないか。 でも、どう生きるかは、ムツカシイ。
  客観的にみて、来春、大学院を受けられなくなったのは大きなショックであった。
  おかしくなった(?)のは もっと前から か?
  まるで 高校生のやうな悩み方、高校生の方がしっかりしてる?
  40になるまで惑ひはつきものかね。立つに立たれぬ23才。[いつの間にか23歳になっていたのだ]
(おとといWTB氏にレコードかすので久々にOPAS DE JAZZをきいたけれど、とてもよかったのだ、と。ウエスのflutも、もちろんM.Jのvibeも。
 ジミー・ブラントンは21かな。そしてチャーリー・クリスチャンは23だ、1942年夭折っていふんだな )
 啄木の「食ふべき詩」はよかった、あとはあまりおもしろくなかった。
 けったいな人々ってTVドラマ(花登筐氏の)があったよ。
 けったいなヤッちゃなあ、このガキは、ほんまに。
 命 短し恋せよ 処女 紅き唇あせぬまに・・・
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1978年10月07日

乗り過ごして電車なし

[1978年 蚕22の日記]
   10月7日(土)
  まいった、また、やった。
 ・血が ぽたぽたりり、とついさっき。
 ・おととい、MTURさんの歓迎会を講座でやったのだが、
  小生はビール何杯だかのみ・・・
  INIさんのところへは電話を5分(?)!(?)
  INGさんにはSKIさんSKIさんと電話まで・・・
  OGRさんの手を握ったとか握らんとか・・・
  YSOKさんとウィスキーをのんだのまない・・・
  さて、EBN経由ZMまでいってキャバレーのねえちゃん風の人と話なかんして ともかくも家についたらしいのが まず2時ごろか?...
  まず半分とおぼえてをらず、意識混濁状態であったそうな。
みんな会社回りで忙しく、話題から外れた小生は、3日4日5日とS研へ。院のことやっぱり言はれたけど、すぎたことはしかたないんだから、これからの身のふり方を考へなくては」卒論も大切ですけど将来のことですから」と そこは、きつく、SZK先生からいはれました。
 今週ですが、何曜日だか忘れましたが、アニメ星の王子さまを見まして。 ちゃうど キツネと王子さまの出あひ別れの場面で キツネがあの名セリフをいふのです。 かんじんなことは目ではみえないのさ、つまり心で見るってことかな」とか キミのバラはやっぱり世界にたった1つしかないバラなんだよ」とか。
  これは...(小生は革命家ではないし,夢見る処女でもないけれど 記念日とか、数字とかが好きらしく...)その星の王子さまの21章にあたる部分になるわけですが...。 この21章はいはば1つの山であるわけです。小生はこの21章がもっとも好きであり読み返へしたところであるわけです[21には私の個人的情報が含まれる]。
(あゝ、精神分裂症へと進まなければよいのですが。
 ノイローゼが高じて精神分裂になるといふことはないさうで。
青年層の1%がかかり、1/3が完全に治り、1/3は半分、1/3は まったく治らずさらに進行するさうであります。
 分裂症には初期神経症、すなわち、ノイローゼ症状を訴へるものも居るとか。小生大丈夫だらうな。
Posted by (蚕) at 23:59  |Comments(0) | 若気の日記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする