2005年02月03日

ゼブラーマン、ドラッグストア・ガールなど

個人的にも、官藤官九郎の作品はTVでは愉しませてもらっているし、当代一番の売れっ子脚本家なのはあちこちで言及されているが、この人は本来映画向きの人ではないのだと思う。考えてみたら彼の脚本のTVが面白いのは決して筋書きだとかテーマに即した描写とかによるものではなく、どちらかというと楽屋落ちに近い”はずした”表現を連ねることによって成り立っている。木更津キャッツ・アイ、ぼくの魔法使い、マンハッタン・ラブ・ストーリーと眺めてみると、どの作品もちゃんとした展開よりもシットコムに近い、設定をいじくりまわして興味をつなぐことを主眼にしている。10話程度のスパンでやる分にはその作品自体の設定をまたわざとはずしたりして入れ子状態で話を展開させることも出来るし、繰り返しが引き起こす笑いも生かせるが、映画となるとそうもいかない。だから、どれも小ネタがの回りきらないので苛苛させられ、しかも”はずす”ところが妙にしつこくて浮いてしまう。なによりも、絶対日本人一部にしか理解できないギャグを繰り返し使えるのもTVという媒体の特殊性があるからこそだ。映画ではそういった部分が汎用的にならざるを得ない。
ドラッグストア・ガールも最初の10分ほどは感心させられるほどテンポよく開巻するのだが、そのあとがグズグズ。TVでいつもやっていることが映画だと何故こんなに面白くないのだろう?つまり、2時間近くを持たせるドライヴ感がないのか。最後はいつもの癖でやりすぎる。人情話なら人情話らしい展開と収め方があろうってもんだ。子供のようにテーブルの上の玩具を引っくり返して投げ出しているに過ぎない。なんといってもあの描写は海外には絶対に持ってはいけない。
ゼブラーマンは最初から最後まで見るのが辛かった。つまり、コメディに徹したいのならそれを観客に納得させないといけない。なにをやりたいのやら、特撮物へのオマージュをしたかったのならその愛情が感じられない。途中で家族愛は忘れられてしまうし、奇跡が起きた理由もうやむやのままだ。肝心のゼブラーマンが真実のものになる瞬間も特撮物に愛情があればあんなにあっさりとは描写しないだろう。なんにせよ、中年への応援歌は感じられなかった。もともと、彼はもっと若い世代に属しているので、同世代的シンパシーが全然感じられず、でも、この映画にとってそこが肝だろう?
あと、最初に退治される人々は元々人間なので、それを殺すのは倫理的にどうかと思うが。中性子爆弾の扱いもまことに危なっかしい。
 

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