2007年02月13日

Gガール 破壊的な彼女

ロスト・イン・トランスレーションでも思ったことだけどアンナ・ファリス最高!!!

くっだらねぇ・・・けど・・・

スーパーマン・リターンズよりもこちらを観よう!
アイヴァン・ライトマン長年の汚名を返上か?  
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2006年11月28日

サウンド・オブ・サンダー

レイ・ブラッドベリ原作とはほんのひとカケラも感じさせないのは想像通りで、設定だけを拝借しただけの全くの別物。ブラッドベリのダーク・ファンタジーな雰囲気の映像化にピーター・ハイアムズはキャラクターが違いすぎる(格も?)。まあ、制作時の数々の困難(制作会社の倒産とか)を乗り越えて完成させたのは彼の職人監督としての意地かもしれないが。
タイム・トラベルが引き起こす文字通りの”バタフライ・エフェクト”の物語(ベタ)。作品の元々の主眼は異様な変容を見せる終末の世界とグロテスクな進化を遂げるクリーチャー達の映像にあったはずだが、安っぽいCGによって酷くスポイルされている。
50年後の世界って微妙に描がくのが難しいのはわかるけど、現在と同じような型の電車(地下鉄)が妙に高速でカーブを切るって・・・
未来のファッションが1950年代風なのは原作に対するオマージュだろうけれど(かな?)違和感たっぷり。車がハリボテ丸出しなのは苦笑するしかないが、所詮、こういった部分は映画の主眼の部分ではないので仕方がない、というか、これでも想像される状況を考えてみると頑張ったんだろう。でも、繰り返しになるけど、やっぱりCGショボイ。
主人公は(どうも地味だしヒーローに似つかわしくない甲高い声は、本業が俳優ではないとはいえ・・・)絶滅動物のDNAを過去へのタイム・トラベルによって正しく解析することに基づいたクローンによる種の再生を研究する科学者。その資金稼ぎのために”タイムトラベル恐竜狩りツアー”を主催する企業家に協力してその研究とツアー・ガイドを務めている。死ぬことが分かっている恐竜の死の直前にタイムトラベルをし、その恐竜をツアー・参加者に狩らせる。過去の改変を行わず現代に変容をもたらさない刺激的な狩猟。成金の道楽。
その行いの危険性を警鐘する(少し)過激派の女性科学者(タイムマシーンのホスト・コンピューターの設計者)の警告を無視して企業家は事業を進めるが、些細な手違いから狩りの途中に銃器が故障し、トラブルが発生してしまう。そのツアーに参加した金持ちの二人組がパニックに陥って本人も気づかぬうちに過去に”ある改変”を行ってしまう。そのもたらすものは・・・
淡々と観ることが出来てしまうのがなんだか辛いけれど、その存在自体の論理性はともかくタイム・ウェーブの見せ方だけは面白かった。
まあ、未来の物質が過去の空気と触れている以上初めからこのタイムトラベルの論理は破綻しているような気がするけれどもね。
過去から襲い来る人外の怪異を幻想的に楽しむ作品になるはずだった、でもクリーチャーがショボい(水中の”アレ”は頑張ったんだろうけど、どうせだったら恐竜がバンバン出てくれないと)、B級になりきれない、かといってC級の馬鹿馬鹿しさもない作品になってしまった映画だった。  
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2006年09月23日

She's The Man

一言言わせて貰うと、ポスターのアマンダ・バインズはいい女過ぎ。

アメリカン・アイドルのアマンダ・バインズ主演の未公開作品。まあ、最近の傾向から言うと、いつかはDVDスルーかもしれない。
日本ではあまりポピュラーでは無い彼女だけどアメリカでも大人気で、この映画もかなりヒットしたそうだ。
アマンダ・バインズって明るくてクルクル変わる表情が魅力的ないいキャラクターをしているし、とてもキュートでカワイイんだけれど、どう見てもタヌキ顔だし、男装をしているこの映画で観ると、まん丸の輪郭が強調されてとても美人とはいえない。だからこそ男装がそう不自然に(そりゃ不自然だけど)ならなくてすんでいるという利点もあるが。でも、まあ美人の変装って感じよりも少しばかり小太りっぽいしボーイッシュすぎるよなぁ。
あちらのアイドルって、ヒラリー・ダフもリンジー・ローハンもそうだけど、この系統が多いなと思う。Girl Next Doorであることが非常に重要なわけだ。
で、アイドル映画であることは間違いはないが、びっくりしたことにシェイクスピアの”十二夜”にインスパイアされたこの作品(だから男装が必要なわけだ)。
この作品ではアメリカでは珍しくサッカーを扱っていて、主人公は高校の女子サッカー部に所属するサッカーに夢中の女の子。
人数不足で廃部にりそうになったので男子サッカー部との合併をもとめたが鼻で笑われて一蹴される。男子サッカー部員のボーイ・フレンドともそれが原因で駄目になってしまう(主人公が一方的にフルんだけど)。それを見返すために、双子の弟(兄?)が転校することになっているライバル高校の男子サッカー部に彼の代わりに(彼は高校をサボってロンドンへ趣味のバンド旅行)2週間の間男装して潜り込み見返してやろうと思いつき・・・
設定の割にはさらっと楽しく観ることの出来る作品。丁度よく下品でも上品でもあるし、シェイクスピアの格調ってわけではないんだろうけど(でも、やはり少しはその功績はあるかな)なんとなく節度が感じられる。それに適度にアイドル映画であることがプラスに働いている。アマンダ・バインズの甘ったるさのなさも丁度よいさじ加減だ。それにしても女の子に戻ったときに男子の時の癖が出てしまう描写はベタすぎて別の意味で笑ってしまうが、アマンダ・バインズだから出来る演技だし(アイドルを捨てて)、彼女だからこそ許せてしまうのは彼女の最大の魅力のひとつなんだろうな。
そして、敵も味方もみんな幸せになるラストも本来の意味の喜劇に近いテイストではある。そのせいで心情の斟酌がすっとんでしまって急ぎすぎの部分が少しばかり短所といえないことはないが、でも、これはアメリカのラブ・コメでは普通にありがちな欠点だから、突っ込むべきところではないかもしれない。
ま、徹頭徹尾あり得ない話ではあるんだけど。世の中の不幸せがどこにも存在しない世界。悪人の一人もいないsmall world。それがこの映画の存在意味でもある。
あ、なによりも強調しなくてはならないことがひとつ。この作品はアイドル映画なのに(いや、アメリカのアイドル映画はある意味少女漫画に相当するときがあるということはあるんだけど)、本質的に女性映画だということ。女性の視線による男っぷりのいい”女”の映画だ。
注文としては”タランチュラ”はもっとうまくスラプスティックにつかって欲しかった・・・  
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2006年08月23日

サマータイムマシン・ブルース

舞台脚本の映画化の悪い例、かな?
DVDのおまけで観られる舞台版の断片から伺えるのはスピード感に映画においては大きくブレーキがかかっていること。
旧きよき大学生活や故郷としての大学に対する郷愁は落ちたテンポの言い訳というか確信犯的な演出だろうけれども、この作品の本来的な下らない些細なことの論理性に対する過剰な反応とドタバタ劇という本来あるべき知的饒舌性という姿を大きスポイルして、SF的本質といえる望むべき完成形から完全に外れた作品として完結してしまっている。
とある地方にあるとあるSF研のとある夏の一日のボンクラなタイムマシン騒動。
同じような境遇で(同じようなSF研究会で)大学時代を過ごした身としてはもっと引き付けられてしかるべきだと思うのにその吸引力があまり感じられ無いのは、細部に対する拘りやしつこさに欠けているからだ。SFとしてもそこば肝心なところ。どこか作りこみ不足という感覚が全篇を漂う。この”ユルさ”は狙ったものでは無いところに残念ながら存在する。
舞台を映画化するならその進化形か過剰形を望みたいのに、結果として現れたのは緩やかで生ぬるい普遍形だったというわけだ(製作者たちが”SF者”ではなかったということ)。無理やり主人公らしい主人公を仕立てなくてもよかったし仄かな恋心もいらない(そりゃ、上野樹里が彼女だったら嬉しいのはわかるけど)。
できればSF版アニマルハウスであって欲しかった。まったくもって惜しい素材の無駄使いといえる。
ま、映画単体としては嫌いではないし、ダラダラ感は狙ったものだろうし、こういうのも有りかなとは思ったが、どこかに残念という気持ちが後を引いて残る。
過剰で無意味で知的な論理を操る映画の出現は難しいのかなぁ。  
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2006年08月20日

シムソンズ

直球。
ふとしたきっかけでカーリングを始めた主人公たち3人の女子高生プラス実力はあるが協調性がないためにつまはじきにされている元カーリングの天才少女。
彼ら四人の成長物語がカーリングをモチーフに朴訥かつ丁寧に描かれる。
脚本演出とも飛躍は無く、もしTVフレームで描かれていたら安っぽくなったであろう軌道を物語は描くが、映画という時間に区切られた適切な省略によりドライブ感は減じられずにすんだ。奥行きのある映画の大画面が”安さ”を打ち消すベクトルでそれを適度にサポートしている。
彼女らの出会いからカーリングに熱中するまでの動機付けに脚本上の弱さがあるし、再結成にいたるまでの友情の描写がクリシェに過ぎるし、主演の彼女たちの演技力も上滑りしがちだが、まっすぐな演出がここにおいても物語を積極的に推し進める。
かえって夏八木勲のいかにもの演技が物語を阻害するのが興味深い。絡ませ方も中途半端。
余計な恋愛を絡ませなかったのは大正解。
かつてのロボコンと同様の、ぶっきら棒で完成度だけをみるとあばたも数ある作品だけれども、ひとつ芯の通った青春物語として胸に響く映画。

VICTORの高校野球のポスターの藤井美菜ってこういう娘だったんだという別の感想。どこかでみたことのある別嬪さんってイメージだね。

  
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2006年08月15日

すべてはその朝始まった

ひとりのごく普通の男性がちょっとしたことから転げ落ちるように不幸の泥沼にはまっていくというサスペンス・ドラマ。
原題はDerailedで”脱線して”、でも、どんどんと脱線していくドライブ感には欠けるかもしれない。この邦題は劇中の”ある物”から採られており、久しぶりにいい判断の邦題といっていいだろう。
クライブ・オーウェンは元教師の中流階級のサラリーマン。美しい教師の妻とかわいい娘に恵まれ、郊外に一軒屋を持ち、一見幸せに暮らしているように見えるが、娘は重症の糖尿病に罹っており肝移植を待つ身である。日々の貯えは闘病に費やされ、家屋は第二抵当に入っており、夫婦仲には隙間風が吹き、仕事では重要なプロジェクトから外される。
そんなある日、いつもの電車に遅れた彼は次の電車に乗るが、現金を妻に抜かれたことを忘れていて切符の金が払えず、往生しているところを一人の女性(ジェニファー・アニストン)に救われる。
ここでの最初の疑問は、定期ってシカゴには無いのか、改札は無いのか、郊外からだと9ドルも掛かるのかという疑問。いや、映画には関係ないけど。
とにかく、その女性は美しく(きれいに撮れてるよジェン)聡明な銀行関係のエグゼクティブで、いつも同じ列車に乗っているらしい。そんなことから気を引かれた主人公は彼女を食事に誘うようになり、ある日妻に電話で今夜は遅くなると告げる。やがて二人は躊躇いながらもある安宿の部屋へチェック・インし、事に及ぼうとしたところに拳銃を持った暴漢が乱入、強盗にあってしまうが・・・
ありがちな筋書きを手堅く纏め上げたスリラー。
全体的に冷たい青がかった色合いが功を奏して主人公の圧迫感をよく描写しているが、それ以上のインパクトが時に必要だった。あまりにも同じトーンで通しすぎで、圧迫感が焦燥感に上り詰めていく様子が描写できていない。あくまでクールで、激情が無い。
まあ、主人公の情けなさをとことん曝け出したかったんだろうけれど、追い込みはギリギリのところまでは今二歩ぐらいか。最後の転調をもう少し強調したほうが心に響くとも思えるけれども、それ以上に演出上の調和を重視したか。
筋書き上の捻りは丸見えだけれども、作劇上の工夫は少し感心した。耐えて耐えて最後に大爆発、を少しはずしたのはいいけれども、カタルシスが大きいのは今となってはク−ルじゃないのかな?
レイプどうのこうのの部分はどうしても必要かとは思うけど個人的にはどうしても嫌悪感が(こういった流れが嫌いなんです)。でも、目の前でレイプされた相手にまた会いたいなんて臆面も無く言うかね(強盗にまであっているのに)。ここは違う言葉が、と思うのはメンタリティの違いかなぁ。
日本に馴染みが少ない役者さんが多いので(特にラップ系のひと)DVDスルーは仕方の無いところだけれども、一時の娯楽としては充分な作品だし、邦画でこのスケールのキッチリとした作品が皆無に等しいことを考えれば劇場公開もあったと思う。でも、入ったとは思わないけど。昔はこのクラスの映画が沢山公開されてそれなりに賑わっていて、新しい発見も色々とあったのになぁ。
DVDにはUNRATED VERSIONとあったけど、これってクライブ・オーウェンのブリーフ?  
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2005年10月30日

最後の恋のはじめ方

原題は”ヒッチ”だけどヒッチコックではないんだよな。
ということでもないけれど、ごくごく真っ当なラブ・コメ。メグ・ライアンとトム・ハンクスがやるような映画をアフリカ系アメリカ人の男性とヒスパニックの女性が演じる世の中になったことに感慨もひとしお。エリス島の挿話などそれなりの味付けがあるけれど、本道まっしぐら。わき目も振らず、最後の誤解が誤解を生むシチュエーションなどにはそのタッチに何の躊躇いも無く、その腰の据わった潔い描写には感服ものだ。
そして何よりもウィル・スミスとエヴァ・メンデスの存在感がこの映画を成功へと導いている。いや、傑作や名作の類には入りそうも無い映画なんだけど、ハリウッドの底の深さでバックグラウンドが成り立っているような気がする。逆にいえば、二人の想定内の演技を予想通りに愉しむためだけの作品だとも言えるけど、衒い無く楽しめるのがミソだ。
みんなが最後に幸せになるラブ・コメ映画といえば最近では例えばラブ・アクチュアリーを思い出すが(クリスマス・ストーリーというアドバンテージがある性だけでもなく)、作品としてはあちらのほうが好きだし格と品もクラスが違うと感じた(そこがイギリス映画だからって言うわけでもなかろうが)、というのも、人間としてのふとした懐の深さを典型ながらもうかがわせる大人の仕上がりがこの作品にはチョッと欠けているからかもしれない。色々な恋愛模様の挿話も、一番の鍵となっている太っちょ会計士と女性セレブの恋の行く末も、すったもんだが外的要因がメインで、心情的にはストレートに話が進みすぎる。それはそれで心地はよいのだけど、作劇に人をニヤリとさせるような転調のリズムを垣間見せる余裕が無く、最後の歓喜の爆発のエンディングに身体のリズムを預けさせるにはちょいとイージーじゃないのかなとも思ってしまう。いい話なんだけど人生は感じないよなぁ。そこが所詮はハリウッドなのかもしれない。でも、その意味の範疇では上等の部類だとも断言できる作品。
気になるといえば、主人公の恋愛(デート)・ドクターという職業が成り立つかも疑問だけど(いや、御伽噺にそれを言っちゃお終いよ)、これから先、彼はどうやって生計を立てていくんだろうね? 見たところ、かなりの金額を稼いでいた風もあるから、商売は繁盛していたんだろうにね。客層からいうと、金持ち相手だけをしているわけでもなさそうだったけど? でも、間違いなく日本ではあの手法は成り立たないよな!(でも、いて欲しいかも・・・・)  
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2005年08月11日

下妻物語

素直に面白かった。なんだか、こういう気分は久しぶりかもしれない。
案外、定型的な物語だけれど、ポップでキッチュでショボくてそして元気な描写は、なんだかとても心に”シックリ来る”映画だった。確信的なチープさは、微妙にタイミングをはずした引きのショットや間の抜けたアングルでマンガ的に観るものの感性を貫く。どんなに馬鹿馬鹿しくたって荒唐無稽だって、観客の感性を攫ってしまえば監督の勝ちだ。
はぐれ者同士の友情物語として本当に素直に共感できるポジティブさは近頃では珍しいかもしれない。なんだか怪しげな映画手法もチープな微笑ましさを醸し出している。やりすぎかやりすぎじゃないのかもうどうでもいいや、って感じで幸せに見終ることのできる映画。登場人物たちはみんな歪んではいるが本来的に善人ばかりだし。でも、なんで尼崎やねん!パチもん屋やねん!ま、ほぼ描写は当たっているような・・・USJも地に落ちたか・・・
実写の中にアニメが混じるのは近頃はやりの手法だけど、茶の味なんかみたいに気取っていないフリをして気取っているあざとさは全然無くてごく自然に嵌っている。なんだかキル・ビルぽいっけどね。
で、深田恭子が演じるロリータ娘と土屋アンナのヤンキー娘。どちらもはじめはどこからどこまでもパチもんなんだけど最後にはホントのホンマもんになるという演技が、あくまでも下手糞なんだけど違和感はほぼ感じなかった。まあ、土屋アンナのカツゼツには少々難ありかも・・・それに彼女は劇中では黒髪のほうがずっと似合っていた。これは個人的な好みだけど。でも、あの歳で中学生まで演じて何の違和感も無いのはそれはそれで凄い!
最後のシークエンスの深田恭子の演技なんて、彼女が無名の頃に脇役で出ていた頃の感じでとんでもない狂気を含み、本来の彼女の資質はこっちにあるんではないかとほぼ確信を抱かせる。あれを見ると普段の彼女の振る舞いや大根としかいえない彼女の演技手法は本来的に売り出し方を間違っているんじゃないだろうか。本当に彼女の最後の関西弁はホンマもんの迫力だった。観ていて唯一、篠原涼子の関西弁が苦痛だった僕にはちょっとした快挙だった。”いちびってる”って言葉全国的には意味不明かも?
いずれにせよ、彼女、ちゃんとした演技もできるんやないの・・・ホンマ惜しい。
で、樹木希林 。あんたホンマに伏線っぽく出てきて全然ちゃうやん! 完璧にパチもん! でも、なんだか偉い!  
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2005年08月09日

少林サッカー

サッカー映画だというので食わず嫌いをしていたけど、いや、どうしてどうしていつものチャウ・シンチー、真っ当な(彼なりに全開の!)カンフー映画じゃないか。
筋立ても何時もの通り馬鹿馬鹿しいばかり、ヴィッキー・チャオの使い方なんて、まんまる食神のカレン・モクの変形版だ。CGの使い方も確信犯的なチープさ。いつもの顔ぶれの共演者だし、やっぱりゲロは吐くし、悪役は安っぽいし、食い物は散々汚く食べる。この映画がはやるなら彼のほかの映画がもっと当たっても不思議は無いのに、そうならないところがまた映画の不思議なところだ。
ま、チャウ・シンチーの映画って、合わない人には絶対に合わないし、腹を立てさせるか、下品だとか馬鹿馬鹿しいとかで取り当ては貰えないんだろうけど、サッカーという近頃のはやりもんに目をつけたのはさすが香港映画人。その分いつもの味というかケレンが薄まったように見えて(全然薄まっちゃいないけど)、スマッシュ・ヒットしたんだろう。主人公が最初からいい人なのがちょっと物足りなかったけど、それも売れ筋狙いだからしょうがないか。でも、実は悪意の無い冷たさがあるのは”らしい”けど。
でも、全然サッカー愛には溢れてはいない。エンディングは全然サッカーじゃないし、実はサッカーが嫌いなんじゃないだろうか(その業界の腐敗描写を見れば)。その反対にカンフー愛、ブルース・リー愛には溢れ返っている。ニヤニヤさせられる場面があちこちに鏤められていて、その世代には感涙ものだ(爆笑ものか?)彼のカンフー映画を知らない若い女の子なんて、どういう顔をしてこの映画を見たんだろう?
香港映画らしいエネルギーに満ちていて観ていると元気が湧き出てくるのは、チャウ・シンチーが人間というものを、人生というものを愛しているからだと思う。ちょっと歪んだ視点からかもしれないけど、それはそれでOKなのが映画人たるもの。ヒロインをまともに描かないあたり、あんまりそっちのほうにも興味が無いんだろうな。ヴィッキー・チャオもクローサーのインタヴューで、思わずだろうけど、ちょっと不平を洩らしていたっけ。

全然別の話だけど、ヴィッキー・チャオは台湾人だから、広東語バージョンはやっぱり吹替えだよね。  
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2005年07月23日

スウィングガールズ

矢口史靖監督ののデビューした頃のとぼけた毒はすっかり無くなってしまったというか、コマーシャライズされたということなんだろうけれども、ちょっとそれが寂しい。相変わらずの無意味でチープな特撮を堂々とこんな映画でも平然と使うところに昔からの味はかわってないなという感じで残ってはいるけれども。でも、使い方がなぁ。あのシチュエーションはもうTVバラエティーでもつかわへんで、ってワザとなのは先刻承知だけどね。
物語の構造は古くからの”落ちこぼれ達の再生物語”でクライマックスにかけては”若大将シリーズ”以来の伝統芸と見紛うばかりのベタな語りのテクニックが使われているが、途中の女子高生たちの日常コメディをスタッフ全員が十分に愉しんで作っているところにこの映画のアドバンテージがあると思う。幸福感に支配されている映画は幸福である。中でも女子高生達の配役がまるで天からの授かり物のごとく見事に嵌っているのが成功の大きな理由の一つだろう。でも今更ながら、竹中直人は勘弁して欲しかったし、他の配役も食傷気味の連中ばかりなので、ここらあたりはどうにかならないものだろうか。偽悪的な言い方かもしれないけれど、TVにタラタラ出てる連中と映画でまた再会するのはまっぴらごめんだ。でも常連の西田尚美のさりげない登場にはちょっと感激した。
それに、全体的に脚本としてはTV的な安っぽさに毒されたような部分が所々気に障り、特に導入部が弱くて整合性に欠けるのが最初はやたら気に掛かった。普通、食中毒が発生したらあんなに軽い扱いや無かろうに。まあ、これは一例だけど。それになんといったって誰の教えも受けずにスウィング出来るようになるのは不自然だろう。
クライマックスからエンドクレジットにかけては最初から強烈な既視感があった。でも、何だろうとよくよく考えているうちに、スクール・オブ・ロックだと思い当たった。幸せに満ちた終焉の雰囲気が本当にそっくりそのままで、ほぼ同時期に方向性は多少は異なれど、海の彼方と極東の国でこれだけ幸福感に満ちたエンディングを迎える音楽映画のシンクロニティが発生したことにはちょっと感心した。そもそも、それだけありがちなアイデアだといわれればそうなんだけど、現実の作品として物語の収斂がこういった最高の形の映像のパーフォーマンスとして存在し得たのは映画の幸福だろう。まあ、どっちかというと人の成長にも興味が無くて基本的に無責任な、スクール・オブ・ロックのほうがスタンスとしては好みだけど。
もうひとつ文句をつけるならば選曲。純粋にビッグ・バンド・オンリーでいってほしかったなぁ。勿論、雪中での”イン・ザ・ムード”は最高だったしエンディングの選曲はズバリ当たっている事を踏まえた上での話だけど。  
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2005年06月16日

白いカラス

原題は"Human Stain"で、これを小賢しい邦題にする必要は全く無かった。物語の根幹に関わる重要かつ繊細な”さわり”を馬鹿馬鹿しくも売りにするなどもってのほかだとしかいえない。何を考えているんだろう?
どこか歯がゆい映画だ。アンソニー・ホプキンスが名優であるということとニコール・キッドマンが美しいことを、ごく自然で視覚的に直感的な撮影で流麗に紡ぎ上げている作品だし、Cheek to Cheek を男性二人ではにかみながらも踊る場面は素晴らしく、感動ものだが、本来あるべきである所謂”名作”といった感触の映画には、多分それを目指したのだとは重々感じられるが、惜しいながら仕上がっていない。アンソニー・ホプキンスがいかに名演を繰り広げようが、本来の役柄との乖離がその力量を持ってしても埋まらないのなら、それは才能の無駄遣いに近い。ニコール・キッドマンがいかにぞっくっとするほどに美を感じさせようが(しかもチラッと裸身を晒し)、もしその役柄にその必然の質の美が必要でなければ、これもどこかむなしい単なる映像化の作業だ。だから全体としていかにも良作ではあるし、暗い深淵を覗かせるテーマの提起は確実にあるのだけれども、まるで世界的に有名な名画をなぞったパステーシュの感覚でしかない。きっちりと”美麗”で箱に仰々しく入れられているがけっして心を抉る圧倒的なパワーが存在しない。まるで枯れすぎた枯山水のような。
老元教授はもっと性的雰囲気を枯れながらも発散させる俳優のほうがよかっただろうし、その相手役には決定的な美しさよりも自堕落の抗えない美が求められたはずだ。
フィリップ・ロスの原作がそれを読んでいない観客にその元のの姿が透けて見えてしまうような、中途半端な悲劇と中途半端な感傷は、実際にはアンソニー・ホプキンス演じる元教授の若き日に彼の母親が最後に投げかけた言葉が象徴するように底知れぬ暗黒が垣間見えなければならないはずだ。
否応なしに惹かれあう二人の男女の悲劇が過去の人間存在に関わる悲劇とどうにも結びついていかない。女の悲劇的な過去はまるで教科書通りのステレオタイプで、”設定”以上には物語としての力を得ないしその悲劇性は美しくも虚しくも死の優しさに包まれてもいない。内包されるものの表現があまりにも”アーティスティック”に過ぎる。
最後に投げかけられる男の言葉は何を意味するのだろうか? 人生の奇妙な符号性? 皮肉な星周り? また、狂言回しの作家の物語へのコミットは作品にもっとアイロニカルな翳を与えるべきなのに、その単純な枠にさえも俳優を嵌め込めきれていない。
この作品は大いに素晴らしいポテンシャルを秘めていながら、あまりにも手馴れた各パートの担当者が有能すぎた為に、なにかの優れた模写にしか成り得なかったとてもとても残念な映画だった。せめて、主役二人の出会いの場面に心理的に万人に納得できる視覚/嗅覚的な動機がねっとりと表現されていたならば全体の印象も変わったに違いないのに、あまりにも淡白にポンっと観客にバトンタッチされているのが返す返すも残念だ。
人間の染み(原題)は決して落とすことが出来ない。  
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2005年05月14日

修羅雪姫

2001年のリメイクの方。
いやぁ、連続活劇なら釈由美子の当たり役になったと思うのに本当に惜しい。本作の最大の欠点はどう見てもシリーズ第一作なのに、あまり評判にならなかったせいか、第二作の噂もたたずに、あまりにも尻切れトンボに放置されていることだ。続編が今更作られる雰囲気じゃないのは分かるが、これでは、作中で死んだ人たちが皆、ただの犬死にだ。少なくとも本来あるべきカタルシスとして、この後に続く大アクション復讐譚があってこそ完成する構図であり、この部分が欠けたこの作品は完成品とはとてもいい難い。どう繕ってみても、欠陥商品だ。
全体的にスケール感はいまいち感じられないし、スポッと抜けている脚本の穴がまるでそんなものは知りませんよというような感じでほったらかされていたり、アクションとアクションのつなぎのドラマが甘いが、ドニー・イェンの殺陣指導による無国籍アクションは文句無く素晴らしい。このアクション・シークエンスだけは一見の価値がある。
長年鎖国されたパラレル・ワールド(で近未来?)の独裁国家日本を説明する小物類も緻密でオタク趣味なつくりで悪くはないが、既視感はどうしても拭えないのが玉に瑕。でも、なによりも”いぢめられる””耐える”ヒロイン像は魅力的に描き出されていたと思う。お世辞にも釈由美子の演技は上手いといえないけれど、あの被虐と睨みあげる伏目の表情で全てOK。ちゃらだ。ただ、どんな時でも薄紅を引いたような唇はどうかと思うし、髪を染めてていいの?と突っ込みたくなるのは野暮というものだろうか? あと、彼女の闘いの雄叫びが女の子の悲鳴にしか聞こえなかったり、アクション・シーン以外での走り姿がドタバタしているのは少し興醒めだ。
個人的には佐野史郎のワン・パターン演技に辟易した。ていうか、この役必要あるの?
鎖国された(近未来?)独裁国家。そこには代々続いた暗殺武闘集団がいた。しかし、権力闘争の末、主筋の血統は断たれんとし、それを受け継ぐ主人公、雪は母の復讐を胸にその集団を脱走する。追っ手たちとの激闘の末に彼女は深く傷つき、人里はなれたガソリン・スタンドを営む青年の下に転がり込むが・・・
青年が実は独裁国家打倒を目指すレジスタンスでテロリストであることと、主人公の雪の私闘がまったく有機的に結びついていない脚本が観客の感情の流れを大きく阻害してはいるが、一編の娯楽アクション映画としては、アクションそのものの水準の高さと無駄の無い舞台設定(舌足らずともいうが)で、充分に頭を空っぽにして愉しめる映像作品に仕上がっている。
でも、今からでも遅くないから続編を作ってくれないかなぁ・・・  
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2005年05月10日

しあわせの選択

女性向けの恋愛映画っぽいパッケージの印象とは裏腹に、シニカルで酷くつきはなした視線で一人の女性がスターダムに急激に駆け上がり、やがておだやかな幸せ(の、ようなもの?)を見出すまでを描く。最近よく見かける女性に媚びたこの売り方はやっぱり詐欺まがい商法のような気がするが、どうだろう? まあ、そのままを表に出すとちょっと手を出しにくい映画であることは確かだけど、普通に考えれば、この映画を観て裏切られたような気持ちになる人が殆んどだと思う。
ニュース映像からプライベートなビデオ素材までをつなぎ合わせた擬似ドキュメンタリー構成で、主人公への感情の移入を阻害するのはその意図通りの効果を充分にあげている。何故か、そのぶつ切りの映像の羅列の中から湧き出てくるのは、やるせのない不快感だ。それは時にはあからさまで下品なまでの同情心の欠如に起因するように思える。
女子ホッケー選手の主人公はニュース映像を偶然有名写真家に見初められ、モデルとして見出される。パリ進出の失敗など多少の挫折や紆余曲折がありながらもトントン拍子にスーパー・モデルとして彼女は成功していくが・・・
ジェシカ・パレの伸びやかな肢体や美貌はこの映画の中では単なる記号にしか過ぎない。彼女の美貌がこれほど無駄に浪費されるのはどこか罪悪感まで感じさせられる。この映画の登場人物たちのニュース素材から抽出されたように擬されたプロフィールは非人間的に表層を掬い取られていて、メディアの狭量や偏狭な世界観を嘲笑っている。製作者側の立ち位置としては、あまりにもステレオ・タイプに過ぎるきらいがあるが、それも皮肉でテクニカルなな引っ掛けかと思わせる達者な語り口だ。人間にそう多くを求めていない老人的な諧謔。
その全般的な意味でこの映画は成功しているといえるし、また、最後まで一応は観客を引っ張っていくベクトルは感じられるが、惜しむらくはそれ以上のものが無い。その諧謔性があくまでも計算づくなのがあからさまなのが酷く薄っぺらに感じられる。”スターダム”の虚しさを強調した斜に構えたメディアに対する憎悪。いや、まさか、それも計算の上なのでは・・・?
混乱した印象の映画だ。映画としての構成の破壊は物語性の破壊。むき出しの現実の傷口は観客にどう受け入れられるべきなのだろうか?
最後に一瞬、映画的視点の映像が挿入される。その手法の是非はともかく、ホッとするその一瞬、そこで得られる瞬く間に押し寄せる安堵感が本当に欺瞞なのかどうかは観る者個々人に帰されるものだろう。  
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2005年05月06日

Japanese Story

2003年、オーストラリア映画。日本未公開。トニ・コレット主演。
日本のどこかで上映されたことがあるのかな?
トニ・コレット演ずる地質学者が、自分の開発したソフト・ウェアに興味を示す日本企業から送り込まれたビジネス・マンの視察の案内を嫌々ながらも引き受ける羽目になる。厳しいイ自然が広がるオーストラリアの内陸部を巡る旅。その日本人は彼女の事を付き人のように扱って、まともに話をしようともしない。どうも大企業の経営者の御曹司か何からしい鷹揚さ。彼の気まぐれな指示に我慢しながらも従ううちに、二人は砂漠の真ん中で立ち往生してしまう。その深刻な意味を理解しない日本人の彼。まかり間違えば死を意味する事態だということを。やがて、その極限状態を命からがらなんとか脱した二人は、それをきっかけに少しづつ打ち解けていくが・・・
反発しあう二人が、お互いの文化や価値観の違いを乗り越えてやがて意気投合していくロード・ムービーのように始まるが、後半は思いもかけぬ重い展開になるアンバランスで奇妙な映画。
たぶん、前半の日本人の描かれ方には、日本人は誰もが不快感を感じるだろう。砂漠にスーツケースと背広で降り立つ姿。英語が曲がりなりにも、というか日常会話ぐらいは喋れるのに、何を聞かれても日本語で”はい”と答える無神経な意固地さ。恐らく彼の英語の発音も日本人訛が強調されている。劇中交わされる日本語の会話(携帯電話にかじりついての)が日本人の身勝手さが身につまされるごく自然なものなので余計に違和感を感じる。多分、後半とのギャップを計算した上での演出なのだろうが、ちょっとやりすぎ。誤解とまではいえないまでも、アチラの人が見た嫌味な日本人ってこんな感じのイメージなんだとつくづく感じさせられた。オーストラリア人側の日本人の顧客の扱い方も、馬鹿にしているとまではいないまでも、乗り越えられない壁はステレオ・タイプの対応で誤魔化そうという姿で、多分、これが自然で仕方の無い姿なんだろう。決して日本人を差別することなく、対等で心ある人間として、真摯にその心の奥襞まで踏み込もうと描写しているこの映画にして、不自然な描写が避けられ得ないのは文化の相互理解が如何に困難であるかの証左でもある。
中盤、二人が深い恋愛関係に陥っていく感情の道筋は少し強引だ。何故そうなるの?という感じ。こうしなければこの映画の主眼に持っていけないのは理解できるが、そんなに簡単に、人間裸で心と心を向かい合わせられるものではないと思う。
後半の、日本人たちの行動規範や行動様式は、そういうものかなぁ、とは感じるが、描かれる側の身となると駄目を出したくなるのが情というものなので、そのあたりに文句をつけるのはよそう。
ま、トニ・コレットのヘヴィーな一人芝居をたっぷりと堪能する映画としては合格点かもしれない。結論めいたものが最後にはっきりとした形で提示されているようにみえるけど、個人的には、それって結論ではなくて、ただの泣かせやないのん、と感じてしまったが、それ程あざといとまではいえないし、物語を締めくくるテクニックとしては常套手段が与えてくれる以上の余韻は残った。
Nice tryという感じの映画。  
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2005年05月04日

スパニッシュ・アパートメント

パリに住む主人公はたいした目的意識も無く、官僚である父親の友人に勧められて、カノジョをフランスに残してスペインのバルセロナに一年間の学士留学することを決心する。その一年間を軽快且つコミカルでユーモラスにテンポ良く描いた作品。自分自身を探すという若者にありがちな甘ったるい目的意識も殆んど意識の上には上ることも無く(底流には流れているが)、若者らしい脈絡の無い喧騒のなかでラテンの日々は過ぎていく。題名のスパニッシュ・アパートメントとは主人公が七人の多国籍の学生とシェアリングをする小宇宙であり、汗臭いごった煮の空間であり、意思が通じ合う現代のバベルの塔だ。この若気の至りの坩堝のような雰囲気は、個人的に大学時代の生活を強く喚起される。あのころ十代後半から二十台前半だった、自分達にはどこか優れているところがあるはずだと確信したがっていた考え無しのボンクラどもは今はもう幾つになったことか。
その一年間の無駄なようで貴重な経験の末に自分自身を見つける主人公を正直に描写して、好感の持てる構成になっている。手法も斬新といえるかもしれない。が、しかし、僕はこの主人公が全然好きになれない。いかにもフランス映画に出てきそうな情け無いノンポリの青年。フランス映画がいまいち好きになれないのは、この手の典型的若者男性像が肌に合わないからだと思う。彼の感受性にはある意味、無意識の計算高さや歪な個人優先(自分に対する甘え)が感じられ、それを受け入れる感受性が個人的には到底存在し無いということだ。第一、繊細さに欠ける。あの大雑把なアメリカ人たちも、微妙なバランスの上に立つ移ろいやすい青年たちを描写する時にはセンシティヴな感触、感覚を大切に画面に焼き付けることをまず最優先に考えていることが殆んどだと思うが、この映画からはそれが一切感じられなかった。テクニカルには提示されているが、丸っきり効果を発揮していない。優れた作品だけに、この欠落がとても残念だし、個人的には致命傷に感じた。
ちなみに、主人公の幻覚にまつわる話が立ち消えになったのは、そのまま安っぽく結論付けてもいいんだろうか? あのパーティーにあの彼らを呼び、かつ、その彼らも出席する神経が東洋の島国の人間である僕には一向に分からない。
アパートの中で使われる共通語がスペイン語を勉強しに来ている割にはやっぱり英語なのは興味深い。それが共通認識だということ、全員が大過なく喋れるということ、そして、その当然といった処理はあくまでもヨーロッパ人の感覚だ。さり気なくアメリカ人を疎外してもいる。やっぱり、アメリカ人は嫌いか。
日本人にとっては何語を登場人物が話そうと一律に日本語の字幕が出るし、ヨーロッパの各言語の質感に疎い人が多勢を占めるだろうから、この混沌から生み出される滑稽さと融合が示す未来には距離感があるだろう。小さなEUを見詰める観客達は登場人物たちにヨーロッパの現在を重ね合わせたに違いない。でも、人種間の根本的融和という問題は上手にすり抜けてしまっているのが、傍から見るとご都合主義に感じられる。
そういえば、登場するカタロニア語しか話そうとしない教授が知り合いのスペイン人を思い出させた。バルセロナの人々の認識では彼らはスペイン人である前にカタロニア人なんなんだそうである。だから、フラメンコや闘牛を話題にされると露骨に嫌な顔をする。特に闘牛には軽蔑を隠そうとしない。サマランチIOC前会長が彼の地で評価されているのにも、彼がスペインではなくて故郷のカタロニアにオリンピックを誘致したからだそうだ。そんな場所にスペイン語を勉強しに行ってもなぁ。
オドレイ・トトゥが主演級のような扱いの売り方だったが、これは詐欺まがいで、カノジョはあんまり魅力的ではない脇役(主人公のカノジョ)。  
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2005年04月27日

サイドウェイ

ほろ苦くも暖かな視線で二人の人生の負け犬の”小さな旅”を綴ったバディ・ロード・ムービー。題名通り、人生の横道についての映画だ。人生の再生物語といえば格好がつくが、人生の再生なんておこがましいといった映画でもある。横道に逸れたようでも、それが歩いていく人生、元からある人生、ただほんの僅かな存在理由さえ見つけることができたなら。
ジャック、かつて有名TVシリーズにも出演していた落ちぶれた俳優。マイルズ、尾羽打ち枯れた万年作家志望、万年”もう直ぐ第一作が出版される”作家予備軍の中学の国語教師。
ジャックの資産家の女性との結婚が決まったのをきっかけに二人はカリフォルニアのワイナリーを巡る一週間のジャック独身最後の小旅行に出る。しかし、ジャックの本当の目的は独身の最後に旅の恥は書き捨てで、女を引っ掛けまくってやろうというものだった。最後の馬鹿騒ぎ。ジャックは念願かなってワイナリーで働くステファニーとねんごろになり、一方、マイルズはといえば彼にとっても惨めな人生からのささやかな逃避行。彼らはやがてワイン好きの二人の女性と知り合い、楽しい時を過ごすようになる。中でもマイルズは園芸学を学んでいるワイン・バーのバツイチのウェイトレス、マヤとの心の交流を次第に深めていくが・・・
もちろん主人公のどちらも心底だらしない連中だ。ジャックは計算高く倫理観もルーズでちゃっかりしている割には結局いつも尻拭いはマイルズの世話になりっぱなし。売れない俳優業にも見切りを付けられず、CMの声優をやって糊口をしのいでいる。マイルズはいつも優柔不断で、カミさんには逃げられた挙句も未練タラタラで、いつも出版目前の自作を持ち歩いていて、この旅行の費用も母親からくすねて捻り出した、ワインおたく。
予備知識なしに観たので、マイルズが登場したとたん、例によってベン・ステイラー系のお馬鹿コメディに登場しそうなちゃっかりものでだらしない親友の役回りかと思ったが、この風采もうだつも上がらない人生に希望を失くそうとしている男が主人公だった。
全編に流れる軽やかで密やかでしっとりとしたジャズ、その音色のようなタッチが、彼らの人生の悲哀をふんわりと包んでいる。作者は彼らを否定しない。これもまた人生。かっこ悪いのもお人よしなのも流されやすいのも、我ら人間。
ワインには疎いので、ワインに擬えられた人生の機微の暗喩はつかみきっているとは思えないが、記念日に最高のワインをあけるのではなくて、最高のワインをあけた日が記念日だという意味はなんとなく分かった気がした。たとえその場所がハンバーガー屋であっても。
映像は丁寧すぎるほどマイルズを追いかける。彼の焦りも後ろめたさも喪失感も敗北感も諦観も恋心も幸福感もやるせない怒りもやれやれしょうがないといった気持ちも、すべてが映像で裏打ちされる。旅の終わりで、最後までジャックに情けない嘘を突き通す小市民であるマイルズの姿もまた微笑ましい。ジャックもジャックで引っ掛けた女性にほだされて彼女に惚れたと本気モードで言い出したり、婚約者に対する想いを考えられる限り最悪のシチュエーションで再確認したりするが、全くもって反省はない。その姿を追う画面も丁寧で全然批判のない視線だ。それらが一種ユーモラスな心地よいリズムを創りあげている。
しかし、結末至って、少しそれまでとほんの僅かながらリズムが違ってしまったような気がして、その微かな違和感がひどく惜しかった。でも、あれ以外の終わらせ方はは望めないかもしれない。予定調和的ではあるが、映像としてはキッパリとしたものだし。
ジャックは最後まで人の気も知らないでアッケラカンと自分に都合よく事を収めるが、まあ、それなりに酷い目にもあっているから、これでよしとするか。でも、メインの四人のうちの一人に感情的な結末が与えられていないのは、どうにも片手落ちのような気がしてならなかった。
英語字幕で観ていて思ったんだけど、ジャックのシモネタとマイルズの自虐文学ギャグって字幕じゃあんまり受けないだろうな。  
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2005年04月15日

Shall we Dance? シャル・ウィ・ダンス?

アメリカ版リメイク。
いや、心温まるウェル・メイドなドラマに仕上がっているとは思う。最後だって結構ほろっとしたしね。でも、日本人にはあんなこっぱずかしい真似はできないや。
この映画は日本版がそうであった本来の人生の応援歌ではない。負け犬たちの再生物語ではない。たぶん、ハリウッドの人たちにはしがない中堅サラリーマンの悲哀が理解できなかったんやね。ここが肝心なところなのに、主人公のリチャード・ギアが演じるのはアメリカの典型的中産階級の法律事務所にに勤める成功した遺言専門の弁護士だから、ダンスを始めるきっかけになった動機がまるで違ったものになってしまっている、というかなんだかうやむやで、だから壮年男性の高貴な佇まいの女性に対する、フッと心を洗われるような感覚から生まれた仄かな想いというものは全く無い。主人公は結構お金持ちだし、家は大きくて庭は広大で、レッスン料には事欠かないし、奥さんもキャリア・ウーマンで(これは最後の場面用に設定を変えたかな?)探偵料のことをあまり気にする風でもない。結局、動機としてアメリカ人が持ち出すのは夫婦の再生物語になってしまう。出だしからキッチリとその伏線が張られているので非常にありがたくも分かりやすい。
なんにしても、登場人物達は誰も彼も日本版みたいに引っ込み思案だったり恥ずかしがったり引け目を感じていたりしないで基本的に積極的な人格なので、これだけ日本版と同じ展開、シーンの連続なのに全く違ったジャンルの映画、別次元の映画に仕上がってしまっている。リチャード・ギアが社交ダンスをしても全然不恰好じゃないし、実際ごく自然に見えるし、第一最初からとことん生真面目な堅物には全然見えなくて、理解のある優しい上司で時には洒落たジョークも飛ばすような人物なのは如何ともしがたく、そんな彼がダンスを一寸やってみようか考えたって何の不思議も無い。社交ダンスそのものの立ち位置も全然違うし、日米の文化の違いを大いに感じさせられた。だから、これはお父さんに勇気をあげる映画ではないのだ。
日本版より30分程短くなっているので、サクサクッとあっさり物語りは進み、最後にはダンスをきっかけに皆さんずっと幸せになりました、という物語。
ジェニファー・ロペスには高貴さが足りないし、ヒロインの最初のぶっきらぼうで能面のような対応からの最後の場面へのコントラストは演出から削ぎ落とされて、はじめて彼女が微笑む瞬間の感動というものは一顧だにされず、時間に合わせて直ぐにコンテストの練習に入るので、テンポは確かにいいけれど、じれったさってものが雲散霧消してしまった。じれったさの美学というものがアメリカ人には分かっていない。最後も”Shall we dance?"のセリフでで決めるカッコよさって言うのに思いがいたらないかなぁ?
主人公がくたびれた背広姿でラスト・ダンスを踊るのがこの映画の正しい姿だ。
アメリカ人たちはオリジナルを観て本当にどう感じたんだろう?最後にリチャード・ギアに幸せそうにタキシードを着用させていることころを見れば、本質的に理解されていないようだ。それに、あんなに直ぐに会社から家に一度帰って街まで戻ってこられるのは”やっと郊外にささやかな一戸建てを建てた”という感覚は一切わかっていなかったってことだな。それとも時間経過の計算違い?
使用音楽について。"Sway"も決して悪い曲じゃないけれど、劇中ラテン音楽系が多すぎる。JLoを慮ってかな。でも、やっぱり"Save The Last Dance For Me"は必要だと思う。
それに、アメリカの”クラブ”ではボール・ルーム・ダンスの現代風もやるんだ。当然古臭いダンス・ホールなんて描写は出来ないから、登場させたシーンなんだろうけれど。

閑話休題。
体重が不自由な人に対する差別的な印象になりかねない描写がポジティブなものに変わっているのは、ちょっと滑稽で、(皮肉な意味で)笑ってしまった。  
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2005年04月14日

Shall We ダンス?

ハリウッド版の予習として。
人生の応援歌として定番ではあるが完成された珠玉の作品だと思う。もちろん瑕疵はあるが、ひとつの完成形として非常に高く評価できる映画だ。この映画が優れているのは単に人生に不器用なオッサンが人生を取り戻す姿を描いただけではなく、少年の初恋のような鮮烈なで清冽な女性への想いを同時に画面に焼き付けてたことだ。その筆致は軽やか且つ暖かく洒脱で、最後にビシッと極め台詞で終わってくれる。なんといっても締めくくりが家族愛などというチンケなもので安っぽく貶められてはいなくて、想い人との夢のダンス・シーンで終わるのが泣かせる。こうでなくっちゃ。尽きせぬ想いが籠められた万感のラスト・ダンス。
登場人物達の性格造型がある意味典型的で日本にしか存在し得ないのもここではプラスに働いている。無骨でクソ真面目で、勤勉に会社を勤め上げてやっと一寸遠目の郊外に一戸建てを建てた妻と子を大事にする一家の大黒柱だが、家のローンが残っていて小遣いには少し苦労している目的を喪失しつつある中間管理職のサラリーマン、なんてのは、やっぱり日本人でしかあり得ない。通勤電車の中から毎日見る風景に対する感慨なんかは、経験者には痛烈なものがある。この日本的小市民の再生物語はあくまでもポジティブに観客の心に響いてくる。社交ダンスの日本での立ち位置の微妙さなどの、この絶妙な塩梅!
マイナス点はなんと言っても竹中直人だ。この人のくささやひつこさには武田鉄也と同じでいつもいつも辟易させられる。なんで役者として評価されるのかなぁ、ただのクッサイ、スベリまくりのコメディアンやん。それに彼のダンス・シーンは本来ならもっと上手だと思わせなければ作劇上大いに問題があると思うが、これはどう見ても下手糞だ。あんなんじゃ、ダンスのコンテストにリアリティが生まれてこない。オフ・ビートを演出したけりゃ、他にも方法は幾らでもあっただろうに、そこらへんのTVドラマと同じレヴェルの解決策を取ったのがとても残念でならない。
草刈民代のダイコン演技は、まあ、これはこれで味かもしれない。冒頭のとぼけたような無愛想な佇まいは計算された映像設計でもあるし、唯一無二の凛とした彼女の立ち姿はこの映画のテーマであり存在意義なので、これはこれでよしとすべきだ。ただ、某木本のダイコン演技には参った。あと、日本のホームドラマがはいった子役の使い方にも少し異議がある。
でもなんといっても最後に"Shall We Dance"と"Save The Last Dance For Me"が流れてくるだけで、頬が緩み、涙腺が開放されそうになる軽妙洒脱な日本映画を作り上げた手腕には脱帽せざるを得ない。
短縮版のアメリカ公開版も今回鑑賞したが、監督自身はあちこちで不平タラタラだが、いわゆるベタな部分、例えば森山周一郎の出演場面などの少しウェットな部分や主人公の家庭描写がカットされていて、もう少し軽やかな印象なので、これはこれで有りかもしれないと思った。  
Posted by clint_columbo at 16:07Comments(0)TrackBack(0)

2005年04月12日

シングルス

キャメロン・クロウとはどうにも波長が合わなくて、評判のよかった”ペニー・レイン”はピンと来るものが全然無かったし、セイ・エニシングはストライク・コースど真ん中のはずなんだけど何故か一寸拍子抜けだった。
で、この映画なんだけれど、まあ、ましな方かもしれない、という感想だった。
1992年制作。
その頃のシアトルの数人の男女達の恋愛模様を軽快に時にはオフ・ビートに当時の音楽にのせて描いた作品。これも好きな人にはたまらない映画かもしれない。たぶん音楽的な同時代性を僕が感じられないのが問題なのかな?
テクニックとしてはなかなか洒落た技法を混ぜて、真面目なトーンとコミカルなシーンを的確に織り交ぜて、時にはもどかしい男女の機微が暖かい視線で捉えられている。画面に向かって登場人物達が話しかけるなんていうのも、こういった映画にありがちな照れくささやあざとらしさに対する薬味の役を果たしていて、不自然さは感じられない。
キャンベル・スコットとブリジット・フォンダのベストの作品かも?
いい作品だとは思う。でも、どこか個人的には醒めてしまうのも本当だ。これが青春を過ごした誰にでもある感傷のツボを押した作品なんですよ、と自分の技をひけらかしているのにそのツボを押さえ切れていない感じ。だから、最後の感傷的で感動的なシーンにも感情が移入できなかった。
ま、これはあくまでも単純に相性の問題だろう。嫌いじゃないし、映画としては本当に佳作ですよ。  
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2005年04月11日

The Perfect Score

アメリカ期待の若手競演の新作。
スカーレット・ヨハンソン、エリカ・クリステンセン(ジュリア・スタイルズそっくり!)、クリス・エバンス主演(あと二人足して合計6人が主演)という一応豪華版だ。でも、日本公開は未定。
カンニング大作戦といったところだが、案外生真面目に作られている。コメディ・リリーフは勿論存在するが、ギャグがちょっと上滑りしすぎだし、そのベタなしつこさに少しイライラさせられたりする。でも、実のところ、その彼が影の主人公だったりする。映画のナレーターの正体だったりするしね。まあ、これはありがちだが、しかし、そのアジア人俳優(新人のレナード・ナム、名前からするとベトナム系か?)が美味しいところを最後に攫ってしまうのは珍しいし、新しい傾向といえるかもしれない。
SAT(大学進学適正試験)の第一回試験に失敗した高校生達。彼らはそれぞれの理由で大学進学に人生を賭けている。迫り来る第二回試験。勉強で取り返す時間は無い。切羽詰った主人公達はテスト問題を盗み出すことを考え始める。計画を練るうちに参加者が次第に増え始め、結局6人のメンバーが参加する盗難作戦が始まる。
それぞれの技能を生かしての潜入盗難作戦、いわゆる高校生版オーシャンズ11といったところだが、作戦内容はいたって安易。第一段階での僥倖は偶然過ぎるし、第一作戦はあっという間に成功目前までいき、あっという間にあっけなく失敗する。第二作戦にしても6人全員が作戦上必要なわけではなく、それぞれの技能が生かされているのが案外ごく真面目な意味合いなのは創作意図だろう。結局主人公達はもともと頭の悪い連中じゃないし、勉強が出来ない奴も実は大学に入ることが彼自身の人生にとってはあまり重要なことではない。
犯罪は引き合わない、という常識的な結論は直截的には導き出されず、一応作戦は喪失感をともないながら全面的とは言わないまでも成功するが、その作戦の途上で参加メンバーそれぞれがあらためて自らの人生を見つめ直し、大切な友情や兄弟愛や、いままで見えなかったさまざまな価値観に気付いていく。
まあ、青春映画だからここは常識的な収め方だ。でも、あまりに常識的すぎてあまり深く心に響いてこないところが問題ではあるが。可も無く不可も無しの出来。
こういう映画には親の影があまり見えなかったり否定的だったりするのだが、珍しく気風のよい母親が出てくるところに好感が持てた。で、この母ちゃんが黒人ってところが現代的か。

スカーレット・ソハンセンのパンク・メイクには一瞬別人かと思わせられた。  
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