2012年02月10日
「ケトンの月」13話 2人の少年
王様が亡くなって11年が経った。
意外にも世の中は小康状態を保っている。ぼんやりした人間は、これを平穏と読み違えるかもしれない。しかしもしかすると重臣たちが言うほどそう悪くもないのではないか。それがもし途方もない勘違いだったとしても、まだそう思えるうちに宮廷画家オム・サッカは旅に出ることにしたのである。
小さな眩しい太陽を浴び、画家は寝坊し過ぎたことを後悔した。
目の前にいる仲の良い親子は、すでに本土で用事を済ませて帰るところなのだろう。そんな風な感じが漂っている。少年は船の仕切り台に紙を広げて、細筆で何か絵を描いていて、その邪魔にならないよう母親は端に腰かけ、柿色のスカートを脚の間にたくし込んで、ひざを閉じて景色を眺めていたのが、とつぜん歌い出したのだった。
船頭の櫓のリズムも自然に歌に合わせたかのように、ゆっくりとなっていく。
明るい層になった海の色は、本土から島までが一つの面に見えた。
“ジョンドよ、どこへ行った”は画家もよく知る歌である。しかし潮の香りや海鳥の声に乗り、その歌声はまるで初めて聞くもののように新鮮だった。女の低く悲しい木魂のような、海底から太鼓の地響きのようなそれらのリズム。穏やかな波が船首を飲み込むようにこちらへ向かってくる。画家のくさくさした後悔は、いつの間にか消えて、もはや心が洗われた。
それがよく見ると母親は美しい顔立ちなのである。画家はそのことに心底、驚いた。
都にだってそうはいまい。もう長い間、島で暮らしていると見えて、身なりは島に溶け込んではいるが、真珠のような美しさと内に秘めた哀さが、どこか不自然に映った。
少年は黙々と絵を描き続けている。大人しい子だ。刃のようなりりしさを持ちながら、ときおり母親に話しかける瞳に、優しさが漏れた。
ふと少年の書いている絵を見て、画家オム・サッカは自分の目を疑った。
浜辺に近い田を描いている。矢の形のさざ波。その水面に、山とわら屋根が逆さに映り込んで、同じく逆さまの女が、白い傘をさして歩いていた。女は恐らく母親の姿に違いない、と画家は思う。蛙が喉を鳴らすのが、紙の中から耳に響くかのようだ。のどかな風景画に心打たれたのである。
もしこうして間近に描いているところを見ていなければ、てっきり職人画家か何かの絵と勘違いしたかもしれない。
船頭は岸に着くと、船の先を桟橋につけ、櫓を水中から引き揚げた。岸壁にくさびで留めた杭と船をロープでつないだあとも、船は左右にぐらりぐらりと揺れ続ける。
少年は船尾に置かれたぺちゃんこの編みバックを肩にかけ、母親も花びらの形に蔓で編んだ盛り籠を抱えて船をおりた。
すると桟橋の先からずっと船を見据えていた犬が、尾を大きく振って母子の足元へ近づいてきた。短い後脚で立ちあがった風貌がいかにも変で、犬ではなく南の島にのみ生息する珍種ではないかとオム・サッカが疑いたくなるほどなのだった。
画家は傘帽子を押しあげて、親しげに少年に声をかけた。
「良かったら旅の記念にその絵を譲ってくれないかね?」
決める権利は母親にあるかしれない。そう思っても、子供好きなオム・サッカはあえて少年の方に興味を持った。船に座っていたときには気付かなかったが、母親はオム・サッカと同じくらいの背がある。
少年は母親に相談することなしに、はつらつと微笑み、自分の描いた絵をさっと差し出した。迷いや欲のないその目を見て、どうも子供を騙しているような申し訳ない気になり、
「何かお礼をした方がいいかね」とサッカが尋ねると、
「いいえ。構いません」
と少年は少しびっくりしたように言った。
絵の上手い下手よりも、オム・サッカにとって、旅を終え都へ帰ったときに、素晴らしい島の雰囲気を思い返すことが重要なのだった。その点はではいくら金を積んだプロの画家の絵でも、これほどのものは無いように思われた。
「色をつけたものも描くかい?」
「顔料が買えたらそうしてみます」
ということは金の余裕がないのだろう。少年の境遇を少し可哀そうに思いながら、何か知れない心残りを覚え、ついでに署名を書いて欲しいと申し出た。
少年は即座に携帯用の筒から細筆を出し、紙切れを桟橋の平らな石にあてた。筆先を紙に真っすぐ立てて慎重に文字を書きながら、実は急いで田んぼを平にならしに行かなくてはならないと言った。
「これはこれは。大変ごくろう様です。すぐにいってらっしゃい」
オム・サッカはおちょぼ口で微笑んで、ばか丁寧にお辞儀をした。おかしな犬を連れて走り去る少年を見送り、譲り受けた絵に目をやってみる。
はて…? どこにも署名などされてないのだった。細かな部分まで探してみたが、やはり見当たらなかった。仕方なく、紙を半分に折り畳むと、果たして裏側にしてあった。
達筆な字だ。中央に堂々と書いてある。
力強い跳ねに、しっかりした直線。すっきりした余白。線に温かみが感じられるのは、とっさに頼んだにも関わらず、落ち着いた気持ちで書いたためであろう。紙に墨がよく浸み込んでいる。
ウォルチャン。それが少年の名前であった。
「あなたはもしや、宮廷画家のオム・サッカ様ではありませんか?」
突風に目をしかめるなか、オム・サッカは突然、青い衣を着た役人に声をかけられた。衣の中央に雲と2匹の鶴の刺繍がしてある。男は1年前に都から赴任してきた者だという。
シン・マクドの屋敷に島の首長や重臣らと一緒に招かれて行くところだから、ぜひその席に顔を出して欲しいと懇願されて、どうせつまらない集まりではないかという気持ちもありはしたものの、いたずら心も手伝って承知した。
すると少年の母親も、ちょうどシン・マクドの家へ用事があるという。
「あんたもそこの人かね?」
「いいえ。私は通いの下働きの者です」
「ほう。名前をお聞きしてもよろしいかな」
「はい。モスリと申します」
と母親は答えながら、籠の布が、風でずれたのを指でかぶせ直した。
島の人口は7万ほどと聞いている。その中で屋敷はいくつかあった。
3人は港町を離れて歩き、あぜ道を通った。道の両側で長いかやの葉が濡れたように光っている。緩やかに曲がった道の先には、シン・マクドの屋敷の長い塀が見えた。
5つの又に分かれた大木は春になって軟らかい葉を出し、草むらからその大木の苗が何本も伸び出していた。
オム・サッカはモスリとは門の前で別れた。モスリはずっと向こうの勝手口の方から出入りしているらしかった。
屋敷の主人であるマクドは初対面とも思えない歓迎ぶりで、オム・サッカを客間へと案内した。
すでに島の首長、赤衣や青衣の重臣3名が顔を揃えている。お膳の用意を待つ間、雑談を交わしているといった風だった。
マクドはもてなしと暇つぶしを兼ねて、取っ手つきの小さな水刺しを見せて回った。客たちは亀のように首を伸ばしては、500年前のものだという水入れに魅入った。オム・サッカもわざと面白がって大げさに真似をして、マクドの浅黒い顔の皮膚がつやつや輝いていると内心思った。
白い素地に細かなひびが入って美しい水刺しだ。全体の唐草文様は、輪郭線を彫った部分に土を塗り込め、後から土を剥ぎ取ると輪郭だけ黒く残る。模様は灰色になる土をかぶせて焼き上げられた。
都で様々な美術品を見慣れたオム・サッカの目にもそれは名品に映った。
マクドはまだお膳が来ないのが気にかかるのか、そわそわ自身の袖衣に腕を突っ込んだ。ねじれた腕に、小柄のわりには太く緑がかった血管が浮き出ている。
急に思いついたように、
「そうだ。サッカ先生! 今晩はぜひお泊りになってください。と言いますのも、私から言うのもなんですが、せがれの描く絵がなかなか大したものでして。先生のご指導を受けることができれば、本人がどんなに喜びましょう」
言うが早いかマクドは障子から身を半分ほど乗り出し、誰か雇い人らしき者に声をかけた。
まもなく障子越しに、入ってもよろしいでしょうかとの声がし、
「どうやらせがれが来たようです。11歳になります」とマクドが喜んだ。
障子ドアから上等な青い絹袖がのぞいて、色白の少年が立った。
11歳というのにそれが大人ほどの背の高さもあるので、皆は一様に驚いて見上げたのであった。
2012/5/12更新
意外にも世の中は小康状態を保っている。ぼんやりした人間は、これを平穏と読み違えるかもしれない。しかしもしかすると重臣たちが言うほどそう悪くもないのではないか。それがもし途方もない勘違いだったとしても、まだそう思えるうちに宮廷画家オム・サッカは旅に出ることにしたのである。
小さな眩しい太陽を浴び、画家は寝坊し過ぎたことを後悔した。
目の前にいる仲の良い親子は、すでに本土で用事を済ませて帰るところなのだろう。そんな風な感じが漂っている。少年は船の仕切り台に紙を広げて、細筆で何か絵を描いていて、その邪魔にならないよう母親は端に腰かけ、柿色のスカートを脚の間にたくし込んで、ひざを閉じて景色を眺めていたのが、とつぜん歌い出したのだった。
船頭の櫓のリズムも自然に歌に合わせたかのように、ゆっくりとなっていく。
明るい層になった海の色は、本土から島までが一つの面に見えた。
“ジョンドよ、どこへ行った”は画家もよく知る歌である。しかし潮の香りや海鳥の声に乗り、その歌声はまるで初めて聞くもののように新鮮だった。女の低く悲しい木魂のような、海底から太鼓の地響きのようなそれらのリズム。穏やかな波が船首を飲み込むようにこちらへ向かってくる。画家のくさくさした後悔は、いつの間にか消えて、もはや心が洗われた。
それがよく見ると母親は美しい顔立ちなのである。画家はそのことに心底、驚いた。
都にだってそうはいまい。もう長い間、島で暮らしていると見えて、身なりは島に溶け込んではいるが、真珠のような美しさと内に秘めた哀さが、どこか不自然に映った。
少年は黙々と絵を描き続けている。大人しい子だ。刃のようなりりしさを持ちながら、ときおり母親に話しかける瞳に、優しさが漏れた。
ふと少年の書いている絵を見て、画家オム・サッカは自分の目を疑った。
浜辺に近い田を描いている。矢の形のさざ波。その水面に、山とわら屋根が逆さに映り込んで、同じく逆さまの女が、白い傘をさして歩いていた。女は恐らく母親の姿に違いない、と画家は思う。蛙が喉を鳴らすのが、紙の中から耳に響くかのようだ。のどかな風景画に心打たれたのである。
もしこうして間近に描いているところを見ていなければ、てっきり職人画家か何かの絵と勘違いしたかもしれない。
船頭は岸に着くと、船の先を桟橋につけ、櫓を水中から引き揚げた。岸壁にくさびで留めた杭と船をロープでつないだあとも、船は左右にぐらりぐらりと揺れ続ける。
少年は船尾に置かれたぺちゃんこの編みバックを肩にかけ、母親も花びらの形に蔓で編んだ盛り籠を抱えて船をおりた。
すると桟橋の先からずっと船を見据えていた犬が、尾を大きく振って母子の足元へ近づいてきた。短い後脚で立ちあがった風貌がいかにも変で、犬ではなく南の島にのみ生息する珍種ではないかとオム・サッカが疑いたくなるほどなのだった。
画家は傘帽子を押しあげて、親しげに少年に声をかけた。
「良かったら旅の記念にその絵を譲ってくれないかね?」
決める権利は母親にあるかしれない。そう思っても、子供好きなオム・サッカはあえて少年の方に興味を持った。船に座っていたときには気付かなかったが、母親はオム・サッカと同じくらいの背がある。
少年は母親に相談することなしに、はつらつと微笑み、自分の描いた絵をさっと差し出した。迷いや欲のないその目を見て、どうも子供を騙しているような申し訳ない気になり、
「何かお礼をした方がいいかね」とサッカが尋ねると、
「いいえ。構いません」
と少年は少しびっくりしたように言った。
絵の上手い下手よりも、オム・サッカにとって、旅を終え都へ帰ったときに、素晴らしい島の雰囲気を思い返すことが重要なのだった。その点はではいくら金を積んだプロの画家の絵でも、これほどのものは無いように思われた。
「色をつけたものも描くかい?」
「顔料が買えたらそうしてみます」
ということは金の余裕がないのだろう。少年の境遇を少し可哀そうに思いながら、何か知れない心残りを覚え、ついでに署名を書いて欲しいと申し出た。
少年は即座に携帯用の筒から細筆を出し、紙切れを桟橋の平らな石にあてた。筆先を紙に真っすぐ立てて慎重に文字を書きながら、実は急いで田んぼを平にならしに行かなくてはならないと言った。
「これはこれは。大変ごくろう様です。すぐにいってらっしゃい」
オム・サッカはおちょぼ口で微笑んで、ばか丁寧にお辞儀をした。おかしな犬を連れて走り去る少年を見送り、譲り受けた絵に目をやってみる。
はて…? どこにも署名などされてないのだった。細かな部分まで探してみたが、やはり見当たらなかった。仕方なく、紙を半分に折り畳むと、果たして裏側にしてあった。
達筆な字だ。中央に堂々と書いてある。
力強い跳ねに、しっかりした直線。すっきりした余白。線に温かみが感じられるのは、とっさに頼んだにも関わらず、落ち着いた気持ちで書いたためであろう。紙に墨がよく浸み込んでいる。
ウォルチャン。それが少年の名前であった。
「あなたはもしや、宮廷画家のオム・サッカ様ではありませんか?」
突風に目をしかめるなか、オム・サッカは突然、青い衣を着た役人に声をかけられた。衣の中央に雲と2匹の鶴の刺繍がしてある。男は1年前に都から赴任してきた者だという。
シン・マクドの屋敷に島の首長や重臣らと一緒に招かれて行くところだから、ぜひその席に顔を出して欲しいと懇願されて、どうせつまらない集まりではないかという気持ちもありはしたものの、いたずら心も手伝って承知した。
すると少年の母親も、ちょうどシン・マクドの家へ用事があるという。
「あんたもそこの人かね?」
「いいえ。私は通いの下働きの者です」
「ほう。名前をお聞きしてもよろしいかな」
「はい。モスリと申します」
と母親は答えながら、籠の布が、風でずれたのを指でかぶせ直した。
島の人口は7万ほどと聞いている。その中で屋敷はいくつかあった。
3人は港町を離れて歩き、あぜ道を通った。道の両側で長いかやの葉が濡れたように光っている。緩やかに曲がった道の先には、シン・マクドの屋敷の長い塀が見えた。
5つの又に分かれた大木は春になって軟らかい葉を出し、草むらからその大木の苗が何本も伸び出していた。
オム・サッカはモスリとは門の前で別れた。モスリはずっと向こうの勝手口の方から出入りしているらしかった。
屋敷の主人であるマクドは初対面とも思えない歓迎ぶりで、オム・サッカを客間へと案内した。
すでに島の首長、赤衣や青衣の重臣3名が顔を揃えている。お膳の用意を待つ間、雑談を交わしているといった風だった。
マクドはもてなしと暇つぶしを兼ねて、取っ手つきの小さな水刺しを見せて回った。客たちは亀のように首を伸ばしては、500年前のものだという水入れに魅入った。オム・サッカもわざと面白がって大げさに真似をして、マクドの浅黒い顔の皮膚がつやつや輝いていると内心思った。
白い素地に細かなひびが入って美しい水刺しだ。全体の唐草文様は、輪郭線を彫った部分に土を塗り込め、後から土を剥ぎ取ると輪郭だけ黒く残る。模様は灰色になる土をかぶせて焼き上げられた。
都で様々な美術品を見慣れたオム・サッカの目にもそれは名品に映った。
マクドはまだお膳が来ないのが気にかかるのか、そわそわ自身の袖衣に腕を突っ込んだ。ねじれた腕に、小柄のわりには太く緑がかった血管が浮き出ている。
急に思いついたように、
「そうだ。サッカ先生! 今晩はぜひお泊りになってください。と言いますのも、私から言うのもなんですが、せがれの描く絵がなかなか大したものでして。先生のご指導を受けることができれば、本人がどんなに喜びましょう」
言うが早いかマクドは障子から身を半分ほど乗り出し、誰か雇い人らしき者に声をかけた。
まもなく障子越しに、入ってもよろしいでしょうかとの声がし、
「どうやらせがれが来たようです。11歳になります」とマクドが喜んだ。
障子ドアから上等な青い絹袖がのぞいて、色白の少年が立った。
11歳というのにそれが大人ほどの背の高さもあるので、皆は一様に驚いて見上げたのであった。
2012/5/12更新
「ケトンの月」12話 捨て子の行方
モスリが赤ん坊を井戸のそばへ置き去りにしてまもなく、雄井戸のある狭い路地の方から、のっぽの男がやってきた。
短いあごひげの30歳くらいの男で、太いはちまきを目の縁までずり下げている。上衣の胸ひもが解けたのも構わず、ふらりふらりと歩いていた。
井戸水を飲みに来たとか、どこかへ行く途中だとかいう意志は見えない。目は微動だにしないのに、不敵な笑みを浮かべ、何かよからぬ目的を秘めている風だった。
男はたびたび立ち止まっては、のたりのたりと1歩前へ進む。でくの棒のようであり、恐ろしく威圧的でもある。
石垣からそっと見ていたモスリは、ハッと我に返ったのである。良い人に拾われるとは限らない。自分の判断が血迷っていたのだと…
どうかあの男が去るまで赤ん坊が声を出さずに我慢していますように。
必死で祈ったのも空しく、赤ん坊は口を開けた。そうしてピンクの舌先をちらりとのぞかせ、息をごくりとのみこんだ。
幸いなことに赤ん坊はまたすぐに口を閉じた。男はその間、何も気付かずに雄井戸の脇を通り過ぎて行った。
ホッとし、モスリが赤ん坊を取りに戻ろうと立ち上がろうとしたとき、今度は雌井戸の方から女がやって来た。
女は危うく赤ん坊のおくるみを踏みかけ、驚いたのである。
衿や胸ひもと同じく、小豆色の線の入った袖口から握ったランタンのつり下げ棒を井戸のふたへ置くと、手慣れた様子で赤ん坊を抱き上げた。
辺りをきょろきょろ見回している。モスリはとっさに身を隠した。
「よーしよーし。いい子だ。お母さんはどうしたのぉ?」
女は肌のきれいな赤ん坊の頬を思わずつついてみたくなった。ついでに額へも手をやって、どうも少し熱があるようだと呟いた。
そのまま赤ん坊を抱いて歩き出した女の跡を、モスリはこっそりつけていった。
海岸を離れ、市場を素通りし、もっと広い路地へと進んでいく。柿色のスカートから、ちらりと麻ひもで足の甲を縛った女の草履がのぞいた。
海の周囲でもここまでは海の香りは届かない。風もおだやかで本土にいるのと変わらない雰囲気になった。
やがて女の小さな頭やなで肩の影が、地面から塀へ折れ曲がった。
層のように横長く平たい土のレンガ塀のてっぺんには、瓦がのせてあった。
長屋つきの門が見える。上半分は白壁で下半分は板を貼っている。すでにかんぬきがかかっており、軒先にはランタンが灯されていた。人の2倍は高さがあって、瓦屋根を入れるたら3倍はあろう立派な門だった。
女は門を通過し、ずっと先に見える小さな使用人用の板扉を目指した。
遠くで鐘が5度鳴ってからは急に足を速めた。
それに併せて急ごうとするモスリを、すぐ背中越しから男が厳しい声で呼びとめた。
「そこで何している!」
男の足が松の木の影からぬっとあらわれた。兵士か…?
「鐘が鳴ったら外へ出歩いたらいけないのは、知っているだろう」
柿色に染めた股丈の衣にだぶりとした白いズボンの男は言った。
どうやら夜回り当番の村人らしかった。細い鼻筋と同じに先端の鷲鼻も小さい。しわの寄った眉間もやはり鷲のものに似ていた。
「あそこは宿場ではないのですか?」とモスリは尋ねた。
「あれはシン・氏のお屋敷だ。宿を探しているなら俺が案内しよう。ついて来なさい」
鋭く痩せた男は、急に親切な人になった。
モスリは後ろをついて歩いた。男の頭のてっぺんの団子が、細めに結っているせいか、少し横へ傾いていた。
そっと振り返ってみると、さっきの女が腰をかがめ、ちょうど扉をくぐっていくところだった。
道の向かいに5つの又に分かれた木がある。横縞の樹皮がほんのり白く照らされ、冬の枯れ枝に蔓が束になって垂れさがっていた。
あの木を目印にして、またここに戻ろう…
そうモスリは心に誓った。
1章終わり。
次回はケトン11歳からでーす。
2012/4/28更新
短いあごひげの30歳くらいの男で、太いはちまきを目の縁までずり下げている。上衣の胸ひもが解けたのも構わず、ふらりふらりと歩いていた。
井戸水を飲みに来たとか、どこかへ行く途中だとかいう意志は見えない。目は微動だにしないのに、不敵な笑みを浮かべ、何かよからぬ目的を秘めている風だった。
男はたびたび立ち止まっては、のたりのたりと1歩前へ進む。でくの棒のようであり、恐ろしく威圧的でもある。
石垣からそっと見ていたモスリは、ハッと我に返ったのである。良い人に拾われるとは限らない。自分の判断が血迷っていたのだと…
どうかあの男が去るまで赤ん坊が声を出さずに我慢していますように。
必死で祈ったのも空しく、赤ん坊は口を開けた。そうしてピンクの舌先をちらりとのぞかせ、息をごくりとのみこんだ。
幸いなことに赤ん坊はまたすぐに口を閉じた。男はその間、何も気付かずに雄井戸の脇を通り過ぎて行った。
ホッとし、モスリが赤ん坊を取りに戻ろうと立ち上がろうとしたとき、今度は雌井戸の方から女がやって来た。
女は危うく赤ん坊のおくるみを踏みかけ、驚いたのである。
衿や胸ひもと同じく、小豆色の線の入った袖口から握ったランタンのつり下げ棒を井戸のふたへ置くと、手慣れた様子で赤ん坊を抱き上げた。
辺りをきょろきょろ見回している。モスリはとっさに身を隠した。
「よーしよーし。いい子だ。お母さんはどうしたのぉ?」
女は肌のきれいな赤ん坊の頬を思わずつついてみたくなった。ついでに額へも手をやって、どうも少し熱があるようだと呟いた。
そのまま赤ん坊を抱いて歩き出した女の跡を、モスリはこっそりつけていった。
海岸を離れ、市場を素通りし、もっと広い路地へと進んでいく。柿色のスカートから、ちらりと麻ひもで足の甲を縛った女の草履がのぞいた。
海の周囲でもここまでは海の香りは届かない。風もおだやかで本土にいるのと変わらない雰囲気になった。
やがて女の小さな頭やなで肩の影が、地面から塀へ折れ曲がった。
層のように横長く平たい土のレンガ塀のてっぺんには、瓦がのせてあった。
長屋つきの門が見える。上半分は白壁で下半分は板を貼っている。すでにかんぬきがかかっており、軒先にはランタンが灯されていた。人の2倍は高さがあって、瓦屋根を入れるたら3倍はあろう立派な門だった。
女は門を通過し、ずっと先に見える小さな使用人用の板扉を目指した。
遠くで鐘が5度鳴ってからは急に足を速めた。
それに併せて急ごうとするモスリを、すぐ背中越しから男が厳しい声で呼びとめた。
「そこで何している!」
男の足が松の木の影からぬっとあらわれた。兵士か…?
「鐘が鳴ったら外へ出歩いたらいけないのは、知っているだろう」
柿色に染めた股丈の衣にだぶりとした白いズボンの男は言った。
どうやら夜回り当番の村人らしかった。細い鼻筋と同じに先端の鷲鼻も小さい。しわの寄った眉間もやはり鷲のものに似ていた。
「あそこは宿場ではないのですか?」とモスリは尋ねた。
「あれはシン・氏のお屋敷だ。宿を探しているなら俺が案内しよう。ついて来なさい」
鋭く痩せた男は、急に親切な人になった。
モスリは後ろをついて歩いた。男の頭のてっぺんの団子が、細めに結っているせいか、少し横へ傾いていた。
そっと振り返ってみると、さっきの女が腰をかがめ、ちょうど扉をくぐっていくところだった。
道の向かいに5つの又に分かれた木がある。横縞の樹皮がほんのり白く照らされ、冬の枯れ枝に蔓が束になって垂れさがっていた。
あの木を目印にして、またここに戻ろう…
そうモスリは心に誓った。
1章終わり。
次回はケトン11歳からでーす。
2012/4/28更新
「ケトンの月」11話 雌井戸、雄井戸
旅の最初の頃は、もしやイ・オンが馬でとうに南へ着いているのではと思って、気ばかりが急いた。
度々兵士の姿を見た。野次馬の後ろからかわら版をのぞいてみると、なんとイ・オンの人相書きであった。こいつが王様を殺したのだと、男や女らが悪口を言うそばを、モスリはそっと抜け出し、これは夫と落ち合うことは難しいかもしれないと、このとき初めて思ったのである。
そのうち赤子が熱を出した。土台の石が地面へ崩れ落ちた納屋で、何日も休んだのち、薄っすら雪のかぶった稲痕と、逆さに立てたわら束を見て歩くような日が続いた。
人恋しいときに限って人通りもなく、田畑の向こうへ沈んだ農家の草屋根がわずかに見えるばかりだった。
そんな日が繰り返されるうち、次第にイ・オンに会うという希望も失って、自分が何をしているのかわからなくなってきた。時が止まった感覚につきまとわれ、冬山の木々が、ぼんやりと白にも紫のようにも見える。そうかと思えば、はっきりと山の頂上が見える日もある。その岩肌や木の1本を心の支えにし、モスリは歩き続けた。
ただ不思議なのはケトン王子を捜索するビラや兵士を、旅の途中に一度も目撃しなかった点であった。
海岸へ行きつき、魚を小さなカマで木箱へ手早く分ける作業をしていた女に、南へ行くにはどうしたらいいか聞いた。忙しいときに話しかけられた女は、荒々しい調子でここが一番南だと答えた。20段近く積んだ空箱の塔が、女のそばにいくつも出来ていた。
仕入れ商人が品定めしやすいよう魚を盛った木箱を階段状に並べてある。もやのかかる薄暗い朝に、魚の膨れた腹が、畑のうねのように銀色に入り乱れていた。
頭に籠をのせた赤い顔の女が、目の前を通り過ぎて行った。港は誰もが忙しそうだ。
モスリは海を見た。島が浮かんでいる。
島の家々のほとんどが草屋根だが、なかには瓦屋根もある。その向きがバラバラなことから、きっと不規則な路地があるのだと思った。
山の左右は海岸線ぎりぎりまで、乏しい土地の隙間をぬうようにして、田んぼが作られていた。
背に薪を担ぎ、一本帆の船へ乗ろうとする素朴な若い男に、モスリは声をかけた。
「あの島には人がたくさん住んでるんですか?」
「えぇ。あっちは景気がいいですからねぇ」と若者は少々、羨ましそうに島を見つめた。
「そう大きくもない島が、どうしてなんでしょう?」
「昔から後朱国と交流があるんです。後朱国の船が都へ行くついでに、大量の荷を島で卸していく。それを島の商人が各地へ流して儲けているから、島の役所がだいぶ潤っているということですよ」
もともと独立した王国であったらしい。未だ島の役人にもその意識が抜けておらず、都への忠誠心が薄いのだ。そう急ぎの用事もないらしく、たきぎを担いだ若い男は気さくに話してくれた。
島は爪島という。その形が何となく三日月のようにも見える。モスリはこれから自分たちがあの島に住むのだという気がした。それには理由もあった。
景気がいいなら暮らしやすいに違いない。なにより隠れて暮らすには、最南端で都の目の届きにくい島の方がマシだと考えた。
島の山頂に玉のような朝日がのぼりはじめ、山の切れ込みを染めた赤い縁どりから、3本の光がふもとへ広がっていった。
島へ行く船はあるという。
その子船がこっちへ帰る時間まで、モスリは海岸を少し入ったところにある市場で食料を調達した。
露店の女将は大きな木のボウルから、塩を升へたっぷり移した。
煮干し、赤い海藻。ぬるりとしたむき身の貝もある。しかし心配事で頭がいっぱいのモスリには、賑やかな人声は耳を素通りした。
甲羅を裏返しに並べたカニ。頭を同じ向きに揃えたイカや菜っ葉。それらが単にモスリの目の表面のみに映った。
きのこ、ぜんまい、豆類、蒸し餅や、青首大根などいくら見ても切りがない。
子犬がひづめ付きのブタの脚の肉を物珍しそうに嗅ぎはじめた。モスリはリンゴ3つと小さいヨモギ餅を買い、子犬を連れて市場を去った。
海岸へ戻ると船頭が子船に立っていた。水面に突きたてたオールから輪の波が広がっている。
モスリと赤子と子犬を乗せ、船は爪島へ出発した。船での移動はごく短いものだ。その時間がこれからの生活を真剣に思案する最後の機会となった。
〜その子は長くは生きられないだろうよ。どっちにしろ女手ひとつで両方を育てるのは無理だよぉ〜
老女のしわがれた声がカサカサと耳をかすめる。
水をかく櫓が水面に透けて見えた。それが前へ後ろへとひるがえるたび、我が子とケトンの顔が交互に浮かんだ。
我が子、ケトン、我が子、ケトン…
モスリは無意識のうちに呟いていた。すると胸の中の我が子がウガイでもするみたいに、コロコロと声をたてて笑った。口をとがらせ、びっくりしたような目をして、自分の運命を知らないまま、何を夢中になって話しているのだろうか…
赤子の額に手をあてると、また少し熱が出たようだった。
島へ石積みの桟橋から上陸した。小船がたくさん集まっている。
漁師のじいさんが砂浜に広げた大きな網を、のんびり繕っていた。
モスリの気分とは裏腹に、黄色い日差しが浜辺に松の大木の影絵を作った。
グレーの海は遠くへ行くごとに、空色から濃い青へと変わる。その行きつく果てに、本土の海岸線がはっきりと見え、しかし目で見るよりもずっと遠くに思えるのだった。
通りがかりの主婦に、水を飲むところがないかと聞いたところ、路地の奥に井戸があり、もし鍵がかかってなければ使えるとのこと。飲み水はそれほどこの島では貴重なものらしい。
路地の石垣は大まかに積まれ、隙間から向こう側がのぞけるほどだ。道の途中から、背中が灰色で腹が白い猫が前を行った。その猫がゆっくりと十字路を横切った数秒遅れで、モスリもその場所に来た。てっきり横道を進んでいると思った猫は、どこにも見当たらない。その代わりに奥に2つ並んだ井戸が目にとまった。
漁師の妻が3人、石畳にしゃがみ込んで魚のうろこを包丁で掻き飛ばしている。種類や大きさなど頓着なしに石畳へ放っては、お喋りの方に熱が入っている様子だった。
井戸を使っていいかと尋ねたら、最近結婚したような若い女がわざわざ井戸の木ぶたを開けてくれた。ベテランの方の女は、きびとうるち米を混ぜて大きな小豆を表面につけた丸いおにぎりを、モスリの口へ無理矢理入れようとする。
さきほどの本土に比べたら、島の人々はどこかのんきな風である。
「井戸は2つあるけども、違う川の水なんだ。雌井戸の方は渓谷の脇水から流れてきたで、軟らかでおいしいよ。雄井戸は炊事やら漁師が使うものだかんな」
指についた米粒を自分の唇に押し込みながら、女は言った。
夜までの時間をモスリは島の調査に充てた。
本土で聞いたほど、活気がある風には見えなかった。
都に住んでいたモスリに、店の数や種類は格段に少なく感じた。人口のせいもあるのだろう。
それでも後朱国からの輸入品の売買で、財は潤っているというのだ。裏を返せばそれに頼りきりとも言えた。
主に後朱国製の絹を扱うお店は、天井まで反物が積んであってさすがに品揃え豊富だった。金糸を混ぜた大柄のもの、無地のもの、花模様を織り込んだもの、5色の縞模様の生地が種類ごとに分けられていた。
夕日が沈みかけ、海は左の方から薄っすらとピンクのうろこに染まった。
人目につきにくい闇が訪れると、モスリは石積の井戸へと舞い戻り、2人の赤ん坊をそばへ下ろした。そうして我が子に井戸水を飲ませ、脇や尻、足の裏、首の後ろまで丁寧に拭いてやった。
風呂敷包をほどいて、祭事用の産着を取り出した。ケトンの母親が丹精込めて刺繍した素晴らしい出来映えのものだった。
生地は木綿の白で、衿は絹である。目玉が点の可愛い龍の子が左右に連なり、その周りをピンクの小花とつる草で囲んだデザインを、グレー、赤、薄いピンク、濃いピンク、朱色の5色の糸を使って、松の葉のようなタッチで仕上げられている。裏側の首元に無病長寿を願った寿富貴多子の文字が縫い込んであった。
モスリは我が子にそのケトンの産着と綿入りの温かい絹の靴下を着せた。靴下は大き過ぎてずり落ちないよう、リボンで足首を縛るように作られたものだ。
最後に裏地を金色の絹であつらえたケトンの上等なおくるみを、我が子のものとすり替えた。
先の丸い薄緑色の平靴は、赤と朱色の波模様がついた男の子用で、おくるみの中に忍ばせ準備は整った。
モスリは辺りを警戒するように見回した。
2012/4/21更新
度々兵士の姿を見た。野次馬の後ろからかわら版をのぞいてみると、なんとイ・オンの人相書きであった。こいつが王様を殺したのだと、男や女らが悪口を言うそばを、モスリはそっと抜け出し、これは夫と落ち合うことは難しいかもしれないと、このとき初めて思ったのである。
そのうち赤子が熱を出した。土台の石が地面へ崩れ落ちた納屋で、何日も休んだのち、薄っすら雪のかぶった稲痕と、逆さに立てたわら束を見て歩くような日が続いた。
人恋しいときに限って人通りもなく、田畑の向こうへ沈んだ農家の草屋根がわずかに見えるばかりだった。
そんな日が繰り返されるうち、次第にイ・オンに会うという希望も失って、自分が何をしているのかわからなくなってきた。時が止まった感覚につきまとわれ、冬山の木々が、ぼんやりと白にも紫のようにも見える。そうかと思えば、はっきりと山の頂上が見える日もある。その岩肌や木の1本を心の支えにし、モスリは歩き続けた。
ただ不思議なのはケトン王子を捜索するビラや兵士を、旅の途中に一度も目撃しなかった点であった。
海岸へ行きつき、魚を小さなカマで木箱へ手早く分ける作業をしていた女に、南へ行くにはどうしたらいいか聞いた。忙しいときに話しかけられた女は、荒々しい調子でここが一番南だと答えた。20段近く積んだ空箱の塔が、女のそばにいくつも出来ていた。
仕入れ商人が品定めしやすいよう魚を盛った木箱を階段状に並べてある。もやのかかる薄暗い朝に、魚の膨れた腹が、畑のうねのように銀色に入り乱れていた。
頭に籠をのせた赤い顔の女が、目の前を通り過ぎて行った。港は誰もが忙しそうだ。
モスリは海を見た。島が浮かんでいる。
島の家々のほとんどが草屋根だが、なかには瓦屋根もある。その向きがバラバラなことから、きっと不規則な路地があるのだと思った。
山の左右は海岸線ぎりぎりまで、乏しい土地の隙間をぬうようにして、田んぼが作られていた。
背に薪を担ぎ、一本帆の船へ乗ろうとする素朴な若い男に、モスリは声をかけた。
「あの島には人がたくさん住んでるんですか?」
「えぇ。あっちは景気がいいですからねぇ」と若者は少々、羨ましそうに島を見つめた。
「そう大きくもない島が、どうしてなんでしょう?」
「昔から後朱国と交流があるんです。後朱国の船が都へ行くついでに、大量の荷を島で卸していく。それを島の商人が各地へ流して儲けているから、島の役所がだいぶ潤っているということですよ」
もともと独立した王国であったらしい。未だ島の役人にもその意識が抜けておらず、都への忠誠心が薄いのだ。そう急ぎの用事もないらしく、たきぎを担いだ若い男は気さくに話してくれた。
島は爪島という。その形が何となく三日月のようにも見える。モスリはこれから自分たちがあの島に住むのだという気がした。それには理由もあった。
景気がいいなら暮らしやすいに違いない。なにより隠れて暮らすには、最南端で都の目の届きにくい島の方がマシだと考えた。
島の山頂に玉のような朝日がのぼりはじめ、山の切れ込みを染めた赤い縁どりから、3本の光がふもとへ広がっていった。
島へ行く船はあるという。
その子船がこっちへ帰る時間まで、モスリは海岸を少し入ったところにある市場で食料を調達した。
露店の女将は大きな木のボウルから、塩を升へたっぷり移した。
煮干し、赤い海藻。ぬるりとしたむき身の貝もある。しかし心配事で頭がいっぱいのモスリには、賑やかな人声は耳を素通りした。
甲羅を裏返しに並べたカニ。頭を同じ向きに揃えたイカや菜っ葉。それらが単にモスリの目の表面のみに映った。
きのこ、ぜんまい、豆類、蒸し餅や、青首大根などいくら見ても切りがない。
子犬がひづめ付きのブタの脚の肉を物珍しそうに嗅ぎはじめた。モスリはリンゴ3つと小さいヨモギ餅を買い、子犬を連れて市場を去った。
海岸へ戻ると船頭が子船に立っていた。水面に突きたてたオールから輪の波が広がっている。
モスリと赤子と子犬を乗せ、船は爪島へ出発した。船での移動はごく短いものだ。その時間がこれからの生活を真剣に思案する最後の機会となった。
〜その子は長くは生きられないだろうよ。どっちにしろ女手ひとつで両方を育てるのは無理だよぉ〜
老女のしわがれた声がカサカサと耳をかすめる。
水をかく櫓が水面に透けて見えた。それが前へ後ろへとひるがえるたび、我が子とケトンの顔が交互に浮かんだ。
我が子、ケトン、我が子、ケトン…
モスリは無意識のうちに呟いていた。すると胸の中の我が子がウガイでもするみたいに、コロコロと声をたてて笑った。口をとがらせ、びっくりしたような目をして、自分の運命を知らないまま、何を夢中になって話しているのだろうか…
赤子の額に手をあてると、また少し熱が出たようだった。
島へ石積みの桟橋から上陸した。小船がたくさん集まっている。
漁師のじいさんが砂浜に広げた大きな網を、のんびり繕っていた。
モスリの気分とは裏腹に、黄色い日差しが浜辺に松の大木の影絵を作った。
グレーの海は遠くへ行くごとに、空色から濃い青へと変わる。その行きつく果てに、本土の海岸線がはっきりと見え、しかし目で見るよりもずっと遠くに思えるのだった。
通りがかりの主婦に、水を飲むところがないかと聞いたところ、路地の奥に井戸があり、もし鍵がかかってなければ使えるとのこと。飲み水はそれほどこの島では貴重なものらしい。
路地の石垣は大まかに積まれ、隙間から向こう側がのぞけるほどだ。道の途中から、背中が灰色で腹が白い猫が前を行った。その猫がゆっくりと十字路を横切った数秒遅れで、モスリもその場所に来た。てっきり横道を進んでいると思った猫は、どこにも見当たらない。その代わりに奥に2つ並んだ井戸が目にとまった。
漁師の妻が3人、石畳にしゃがみ込んで魚のうろこを包丁で掻き飛ばしている。種類や大きさなど頓着なしに石畳へ放っては、お喋りの方に熱が入っている様子だった。
井戸を使っていいかと尋ねたら、最近結婚したような若い女がわざわざ井戸の木ぶたを開けてくれた。ベテランの方の女は、きびとうるち米を混ぜて大きな小豆を表面につけた丸いおにぎりを、モスリの口へ無理矢理入れようとする。
さきほどの本土に比べたら、島の人々はどこかのんきな風である。
「井戸は2つあるけども、違う川の水なんだ。雌井戸の方は渓谷の脇水から流れてきたで、軟らかでおいしいよ。雄井戸は炊事やら漁師が使うものだかんな」
指についた米粒を自分の唇に押し込みながら、女は言った。
夜までの時間をモスリは島の調査に充てた。
本土で聞いたほど、活気がある風には見えなかった。
都に住んでいたモスリに、店の数や種類は格段に少なく感じた。人口のせいもあるのだろう。
それでも後朱国からの輸入品の売買で、財は潤っているというのだ。裏を返せばそれに頼りきりとも言えた。
主に後朱国製の絹を扱うお店は、天井まで反物が積んであってさすがに品揃え豊富だった。金糸を混ぜた大柄のもの、無地のもの、花模様を織り込んだもの、5色の縞模様の生地が種類ごとに分けられていた。
夕日が沈みかけ、海は左の方から薄っすらとピンクのうろこに染まった。
人目につきにくい闇が訪れると、モスリは石積の井戸へと舞い戻り、2人の赤ん坊をそばへ下ろした。そうして我が子に井戸水を飲ませ、脇や尻、足の裏、首の後ろまで丁寧に拭いてやった。
風呂敷包をほどいて、祭事用の産着を取り出した。ケトンの母親が丹精込めて刺繍した素晴らしい出来映えのものだった。
生地は木綿の白で、衿は絹である。目玉が点の可愛い龍の子が左右に連なり、その周りをピンクの小花とつる草で囲んだデザインを、グレー、赤、薄いピンク、濃いピンク、朱色の5色の糸を使って、松の葉のようなタッチで仕上げられている。裏側の首元に無病長寿を願った寿富貴多子の文字が縫い込んであった。
モスリは我が子にそのケトンの産着と綿入りの温かい絹の靴下を着せた。靴下は大き過ぎてずり落ちないよう、リボンで足首を縛るように作られたものだ。
最後に裏地を金色の絹であつらえたケトンの上等なおくるみを、我が子のものとすり替えた。
先の丸い薄緑色の平靴は、赤と朱色の波模様がついた男の子用で、おくるみの中に忍ばせ準備は整った。
モスリは辺りを警戒するように見回した。
2012/4/21更新
「ケトンの月」10話 不思議なばあさん
老女はモスリに、倒した石に腰かけるよう手ぶりで示した。
そうして自分はひしゃくに水をすくって鍋に足し、巾着から出したキノコをちぎり、鍋の中へ落とした。イノシシの薄切り肉を3枚、平たい石にのせ焚火の隅へ置き、鍋を中央につり下げた。
これだけ済ますと老女はしゃがみ込んだ。
薄っぺらい尻を地面すれすれに浮かせたまま、粥をゆっくりかき混ぜている。
そうして出来た粥を、モスリについだ。もち米と粟の粥に、牛乳、塩、油で味をつけ、菜っ葉とゴマを散らした温かな粥だった。
「そのへんちくりんは猫かい?」
老女はしゃがれ声のわりに、心細いような女々しいような喋り方をする。老けて見えるが動作は機敏で、案外まだ若いようだった。
「あんたみたいな人がときどき迷い込んで来るんだ。だから毎日ここへ通ってるんだ」
今度は何か言いたそうな目でモスリを見る。何かを言ったあとでまたそんな目をする。
器が裏返しに重ねてある。まな板は湿って縁が黒い筋になっている。鍋は焦げ、いつくらい前か分からない吹きこぼれの痕がついたままだった。
山人参は人里に持っておりると言う。
老女は粥を食べなかった。焚火の灰をキセルで掻き分け、皮のようにひび割れて膨らんだ火種を取って、煙草を2、3服吸った。前脚を枕にして寝そべる犬の顔を黙って見つめていたが突然、
「誰かに追われているのかい? さっきから人目を気にしているだろう。なんだったら岩の中に隠れてたっていいんだよ」
となよなよ気の毒そうに言った。そうして煙草の灰殻を地面に叩き落とし、腰かけ用の平岩にキセルを立てかけると、すっと立ち上がった。
岩の中というのは、焚火のすぐ後ろに見えている。鳥居の形に組んだ岩を入口にしてあった。よく見ると鳥居の上側は背後にそびえる岩山とつながっており、自然のものと分かる。その鳥居の屋根にあたる部分や足元に、だるまのように重ねた石がたくさん並べられていた。
普段に一休みするため使うのだろう。穴ぐらの隅にむしろが敷いてあった。老女はそこにひざを抱えて座り込んだ。
岩穴の行き止まりは祭壇だった。赤い布をかけた階段状のところへ、高台つきの器に盛った栗や柿を供え、その隙間を埋め尽くすように所狭しと小さな位牌を並べてある。
モスリはムシロの上に赤ん坊を下ろし、清潔な布おしめを準備した。
赤ん坊の足を持ち上げ、ごろりと斜めに尻を動かすのを眺めていた老女は、びっくりしたように言った。
「おやおや。随分と強い蒙古斑が出ているね。こういう子は絶対に目を離しちゃいけないよ。体がとても弱いだろう? 女手一人で育てるのは無理だ」
「夫がいるんです」
「そうかい? そんな風には見えないよ。それじゃよほど心細い目にあったんだねぇ」
老女は一人で勝手に悲しがって、詰まらせた胸をこぶしで軽く叩いた。
モスリは斑のくっきりと浮かぶ青い滑らかな尻を一点に見つめながら、おしめを下に敷いた。
一人目の子を亡くし、あれだけ悲しい思いをしたのだ。
老女の言う通り、この子もまた同じように体が弱い。夜中でも診てくれる顔馴染みの医者がいたから良かったものの、イ・オンがいない今、同時に多くのものを失ったことに気付いた。
「こっちの赤ん坊の方は丈夫に育つだろうよ。本当に小さくて可愛い指だねぇ。三日月のほくろかい。こりゃありがたい。よほど貴重な星に生まれたんだねぇ」
気付くとケトンの指をしげしげと覗き込んでいる。
モスリは慌てて指を閉じさせた。王様と約束していたのに、ほくろを隠すことは案外難しいようだった。これからはもっと用心しなければならない。
しかしケトンはまたすぐに指を動かそうとする。老女はなぜモスリが何度も指を閉じさせたがるのか知りもしないのに、祭壇から小さなお手玉を1つ取ってケトンに握らせてやった。5色の縞模様の布を両端で折り畳んで袋口を縫ってある。指はようやく落ち着いた。
「とにかく一人で両方の子を育てるのは無理だよ」
老女はまた同じことを言った。
さっきから外でカラスが数匹、口げんかでもするように交互に鳴きわめいている。それでもまだ飽き足らずバタンバタン鳥居に飛び降りて石ころを蹴り、騒々しく羽をばたつかせた。
「何ならあたしが始末しようか…?」
モスリはハッと老女の顔を見た。痩せこけた体の肉がすべて頬に集まり、コブのように厚く垂れさがっている。
老女は相変わらず何か言いたそうに、祭壇の方へちらりと視線をやった。その位牌の1つずつがモスリには急に赤ん坊の名のように見えた。その蹴り飛ばされた石だるまが赤ん坊の頭のように見えた。お堂に結ばれた白いリボンすべてが赤子の魂に見えた。
我が子を抱き上げケトンをおぶると、モスリは勢いわっと外へ逃げ出した。
ところが階段の縁まで来たとき、100段下の木々の隙間に、槍がちらりとのぞいた。てっぺんに房のついたツバの小さな帽子。衣の肩と腕に打たれた小さなビョウ…兵士だ。
ついに兵士がここまで捜しに来たのだとピンときた。
広場は岩肌ばかりで行き止まりのように見える。仕方なく大慌てで穴ぐらへと舞い戻ると、老女がきょとんとした顔で突っ立っていた。
「ねぇ、まぁ聞いとくれよぉ。余計なお世話だろうけどねぇ。どこの村にだって井戸くらいあるだろう? でも普通の井戸じゃダメなんだ。雌井戸と雄井戸が並んでなくてはいけないんだ。赤ん坊を雄井戸でなく、必ず雌井戸のところへ置いておくんだよ。そうすれば裕福な人が拾ってくれるから」
と恨めしそうに話しかけるのを、とつぜんやめた。
そうして祭壇に可能な限りの力をかけた。骨ばった体が折れ、とがった薄っぺらの尻ばかり目立った。
祭壇はじりじりと前へずれていき、稲妻のように走った穴が背後に現れて白く光った。
「さぁ。早くお逃げ。ここからなら検問なしで山を越えられるんだ」
最後に手早く風呂敷袋をモスリの首へぶら下げてやった。
モスリはその抜け穴から急な岩場を無我夢中で下り、やがてけもの道に入った。
老女にお礼を言うのを忘れていたと気付いたのは、もうだいぶん山を下ってからだった。
途中で岩場に腰かけ、首に巻かれた風呂敷を解いてみると、里へ持っていくと言っていたあの山人参が入っていた。
2012/4/14更新
そうして自分はひしゃくに水をすくって鍋に足し、巾着から出したキノコをちぎり、鍋の中へ落とした。イノシシの薄切り肉を3枚、平たい石にのせ焚火の隅へ置き、鍋を中央につり下げた。
これだけ済ますと老女はしゃがみ込んだ。
薄っぺらい尻を地面すれすれに浮かせたまま、粥をゆっくりかき混ぜている。
そうして出来た粥を、モスリについだ。もち米と粟の粥に、牛乳、塩、油で味をつけ、菜っ葉とゴマを散らした温かな粥だった。
「そのへんちくりんは猫かい?」
老女はしゃがれ声のわりに、心細いような女々しいような喋り方をする。老けて見えるが動作は機敏で、案外まだ若いようだった。
「あんたみたいな人がときどき迷い込んで来るんだ。だから毎日ここへ通ってるんだ」
今度は何か言いたそうな目でモスリを見る。何かを言ったあとでまたそんな目をする。
器が裏返しに重ねてある。まな板は湿って縁が黒い筋になっている。鍋は焦げ、いつくらい前か分からない吹きこぼれの痕がついたままだった。
山人参は人里に持っておりると言う。
老女は粥を食べなかった。焚火の灰をキセルで掻き分け、皮のようにひび割れて膨らんだ火種を取って、煙草を2、3服吸った。前脚を枕にして寝そべる犬の顔を黙って見つめていたが突然、
「誰かに追われているのかい? さっきから人目を気にしているだろう。なんだったら岩の中に隠れてたっていいんだよ」
となよなよ気の毒そうに言った。そうして煙草の灰殻を地面に叩き落とし、腰かけ用の平岩にキセルを立てかけると、すっと立ち上がった。
岩の中というのは、焚火のすぐ後ろに見えている。鳥居の形に組んだ岩を入口にしてあった。よく見ると鳥居の上側は背後にそびえる岩山とつながっており、自然のものと分かる。その鳥居の屋根にあたる部分や足元に、だるまのように重ねた石がたくさん並べられていた。
普段に一休みするため使うのだろう。穴ぐらの隅にむしろが敷いてあった。老女はそこにひざを抱えて座り込んだ。
岩穴の行き止まりは祭壇だった。赤い布をかけた階段状のところへ、高台つきの器に盛った栗や柿を供え、その隙間を埋め尽くすように所狭しと小さな位牌を並べてある。
モスリはムシロの上に赤ん坊を下ろし、清潔な布おしめを準備した。
赤ん坊の足を持ち上げ、ごろりと斜めに尻を動かすのを眺めていた老女は、びっくりしたように言った。
「おやおや。随分と強い蒙古斑が出ているね。こういう子は絶対に目を離しちゃいけないよ。体がとても弱いだろう? 女手一人で育てるのは無理だ」
「夫がいるんです」
「そうかい? そんな風には見えないよ。それじゃよほど心細い目にあったんだねぇ」
老女は一人で勝手に悲しがって、詰まらせた胸をこぶしで軽く叩いた。
モスリは斑のくっきりと浮かぶ青い滑らかな尻を一点に見つめながら、おしめを下に敷いた。
一人目の子を亡くし、あれだけ悲しい思いをしたのだ。
老女の言う通り、この子もまた同じように体が弱い。夜中でも診てくれる顔馴染みの医者がいたから良かったものの、イ・オンがいない今、同時に多くのものを失ったことに気付いた。
「こっちの赤ん坊の方は丈夫に育つだろうよ。本当に小さくて可愛い指だねぇ。三日月のほくろかい。こりゃありがたい。よほど貴重な星に生まれたんだねぇ」
気付くとケトンの指をしげしげと覗き込んでいる。
モスリは慌てて指を閉じさせた。王様と約束していたのに、ほくろを隠すことは案外難しいようだった。これからはもっと用心しなければならない。
しかしケトンはまたすぐに指を動かそうとする。老女はなぜモスリが何度も指を閉じさせたがるのか知りもしないのに、祭壇から小さなお手玉を1つ取ってケトンに握らせてやった。5色の縞模様の布を両端で折り畳んで袋口を縫ってある。指はようやく落ち着いた。
「とにかく一人で両方の子を育てるのは無理だよ」
老女はまた同じことを言った。
さっきから外でカラスが数匹、口げんかでもするように交互に鳴きわめいている。それでもまだ飽き足らずバタンバタン鳥居に飛び降りて石ころを蹴り、騒々しく羽をばたつかせた。
「何ならあたしが始末しようか…?」
モスリはハッと老女の顔を見た。痩せこけた体の肉がすべて頬に集まり、コブのように厚く垂れさがっている。
老女は相変わらず何か言いたそうに、祭壇の方へちらりと視線をやった。その位牌の1つずつがモスリには急に赤ん坊の名のように見えた。その蹴り飛ばされた石だるまが赤ん坊の頭のように見えた。お堂に結ばれた白いリボンすべてが赤子の魂に見えた。
我が子を抱き上げケトンをおぶると、モスリは勢いわっと外へ逃げ出した。
ところが階段の縁まで来たとき、100段下の木々の隙間に、槍がちらりとのぞいた。てっぺんに房のついたツバの小さな帽子。衣の肩と腕に打たれた小さなビョウ…兵士だ。
ついに兵士がここまで捜しに来たのだとピンときた。
広場は岩肌ばかりで行き止まりのように見える。仕方なく大慌てで穴ぐらへと舞い戻ると、老女がきょとんとした顔で突っ立っていた。
「ねぇ、まぁ聞いとくれよぉ。余計なお世話だろうけどねぇ。どこの村にだって井戸くらいあるだろう? でも普通の井戸じゃダメなんだ。雌井戸と雄井戸が並んでなくてはいけないんだ。赤ん坊を雄井戸でなく、必ず雌井戸のところへ置いておくんだよ。そうすれば裕福な人が拾ってくれるから」
と恨めしそうに話しかけるのを、とつぜんやめた。
そうして祭壇に可能な限りの力をかけた。骨ばった体が折れ、とがった薄っぺらの尻ばかり目立った。
祭壇はじりじりと前へずれていき、稲妻のように走った穴が背後に現れて白く光った。
「さぁ。早くお逃げ。ここからなら検問なしで山を越えられるんだ」
最後に手早く風呂敷袋をモスリの首へぶら下げてやった。
モスリはその抜け穴から急な岩場を無我夢中で下り、やがてけもの道に入った。
老女にお礼を言うのを忘れていたと気付いたのは、もうだいぶん山を下ってからだった。
途中で岩場に腰かけ、首に巻かれた風呂敷を解いてみると、里へ持っていくと言っていたあの山人参が入っていた。
2012/4/14更新
「ケトンの月」9話 逃亡
イ・オンを待つ間、モスリは河原で荷物の整理をした。
片っ端から布袋に詰め込んだらしく、俵の形に納まるはずが、変に飛び出た部分などがひざ頭に当たって痛そうなのである。
必要な物だけ持って行くよう本人が言ったわりには、大したものは入っていなかった。
メモ帳には正の字ばかりが並んでいる。次のページには角度や距離など書かれてあった。麻縄の糸巻と扇形の木枠を取り出し、草地へ並べる。木枠は中の針が振り子のように動いた。書物の中には茎と葉と根をつなげたままの押し花がぺたりと貼り付き、別の本からは稲穂がどさりと落ちた。
王様の手紙。
菓子の見本帳。
この2つをモスリは自分の風呂敷袋へ移した。
菓子の見本帳はイ・オンが単に友人に渡し忘れたのか、万一を考えて自分で持っておこうとしたのかはわからない。でも王様の手紙と同様に重要な証拠になるものだ。
残りの荷物を袋の形が俵型になるよう工夫しながら、1つずつ布袋へ戻していった。
ひょっとして…と思い、メモ帳を一冊、風呂敷袋へ入れ替えた。何か形見になるものを持っていた方が、いいような気がしたのだった。
狒烏山から月がのぞきはじめると、モスリはイ・オンとの約束通り、風呂敷包を手にさげ、川へ入った。
背中にケトン、胸に我が子を抱いた格好で、大きめの揺らがない石をさぐっては足をのせ、無事、向こう岸へ辿り着いた。
もとの河原に、夫の荷物がそのまま置いてある。イ・オンがもう少ししたら戻るのではないかという気がして、土手に座り込んだ。この場を離れてしまうのは、なかなか踏ん切りがつかなかった。
いつまでこうしているのか。時間が無駄に流れるばかりだ。焦りながらも思考と体は完全に止まったままになった。そのうち雪が舞いはじめた。
夜明け頃、向こう岸の土手を駆けてくる馬が遠くに見えた。それがどうもイ・オンのようだった。
牛のような体型の力強い黒馬だ。荷物を乗せるための品種なのだろう。胴ばかりが長く、腹は垂れさがり脚が短い。
そのはるか後ろにもう一頭、前髪が逆立つほど勇ましいスピードで馬が追って来る。
額に白斑の入った栗毛馬は、節のある細い脚で飛び跳ねるように駆けた。
手綱を握る男の袖なしの長い衣とはちまきが真横にはためいた。片手に刀を光らせている。私兵だ。イ・オンはこの男に追われているようであった。
モスリの頬に鳥肌が立った。2頭の影はどんどん縮まっていく。
それでも馬をムチで激しく叩くことを嫌がるイ・オンの姿勢は、もはや馬と一心同体のように見える。
イ・オンの馬もそれに応えようと、無垢な瞳でひたすら走り続ける。するとイ・オンもまた馬をとても頼もしく思って、勇気を奮い起した。
ついにイ・オンをとらえた敵が、刀を振りかざした。
その瞬間、イ・オンは何を思ったか、くるりと方向変換し、巧みに敵の栗毛馬を避けて逆走しはじめたのであった。
「行けぇーっ、行けぇーっ!」
土手沿いにイ・オンの叫び声が響いた。
馬に命令しているのではない。メッセージを送っているのだ。
そう気付いたモスリは、夫の苦労を無駄にはしまいと、無我夢中で土手を転がるように駆けおりた。
目の前に枯野が広がった。緩やかに下ったその先はのぼりになり、菜っ葉の畑やわら屋根、小さな森の影が、薄紺の空の下に、はるか向こうまで点々としていた。
イ・オンの声ももはやしなくなり、辺りは静かなだけである。モスリは急に取り残された人のようだった。
土手を振り返ることはためらわれた。兵士が怖いのではなく、もう夫とこれが最後かもしれないという事実に胸が波打ち、頭は真っ白になった。
イ・オンの必死の姿が、これまでで一番、物悲しく思い出された。
とにかく夫は南へ行けと言ったのだ。
しかしいくら歩いても満足できなかった。2人も抱えた身では、ぬかるみに足を取られたようなものだった。
モスリは背中に我が子を、ケトンを胸に抱え、ひたすら歩いた。兵士が追ってきているのではと、たびたび後ろを振り返った。しかしそこにあるのは枯野のすすきだった。
孤独と戦い、ぐったり疲れた。赤ん坊の息遣いや背中の重みを感じて、この子らをより愛おしく思う。自然と足は見通しの良い枯野や川より、険しい山へと向かった。
そのうちに朝日の照りつける枯れ草がちかちか瞬いた。
なだらかな山と空の境界線が、はるか向こうにくっきりと見えた。再び立ち止まって、空を漂う長い煙を見た。
都のはずれで火事があったのではないか。どうも王様の別邸の方角のようだ。
モスリはショックのあまり、ひざが崩れ落ちそうになった。しかし何かを考える気力さえ失い、歩き続けるよりしょうがなかった。
先ほどから妙な息使いが聴こえる。そう気付いてからは、一度も振り返らなかった。
風が吹くたび、鈴の音が揺れた。兵士の槍についた房飾りの鈴だろうか。
鈴の音と生息は、いつまでも背を追いかける。モスリは足を速めた。
光、風、草の波。鈴と生息…
モスリはもがき歩いた。しかしそれが次第に近づき、すぐ足元まで及ぶと、体を硬直させ、ついに悲鳴をあげた。
それは子犬であった。ケトンと同じ生後3、4カ月くらいだろうか。
四角い頭をし、毛は長く、尾は背に真っすぐ沿っている。潰れた顔は黒い。
牛のひづめに似た短い脚で、ちょこんとつま先立ちをして、飛び出るような大きな瞳でモスリをじっと見つめた。
そこらの野良イヌとは容姿が全く違う。ひと目見て王様の別邸の犬だとわかった。火事騒ぎで逃げ出してきたのだろう。
犬が鈴を鳴らしていつまでも付いて来るので、兵士に嗅ぎつかれては困ると思って、首輪を外すことにした。正面に黄緑色の房が2つ垂れた美しい飾りだった。
メダルの中心に月を模した琥珀が埋め込まれ、花が浮き彫りになっている。月の両脇から伸びる爪先は銀で縁どりされた象牙製であった。
鈴を外す間、小犬はモスリのひざに片足をのせた。そのやわらかで軽い感触が赤子のものと似ていて、モスリの母性をくすぐったのである。
それから山に入った。けもの道よりは広いが、うっそうとした木々が斜めに生え、根が邪魔して足場が悪い。地面は腐りかけの落葉に何層も覆われていた。
はるか高い枝に、フクロウが一匹止まっている。花びらを逆さにしたような白と茶色の毛並みだ。枝の下を通り過ぎるのを、黄色い半月の目で見下ろされた。
モスリは自分の首の後ろに風が当たるたび、無防備に狙われているような妙な錯覚を感じて、それがしばらく続いた。
この辺りは寒さが厳しいらしく、両脇に雪が残っている。雪のないところはぽっかり穴が空いて、枯れ葉がのぞいた。木々の枝には滴の花が咲いた。
日が差し込むと、少しは気力が回復するようだった。
やがてまっすぐの石階段を見上げた。たっぷり100段はありそうだ。
階段の頂上でぷっつり切れて見える。白い空の中にそびえた枯れ木の群衆が囁き合うように揺れた。
モスリはゆっくり階段をのぼりはじめた。犬は最初くんくんと寂しそうに鳴いていたが、モスリが待ってくれないとわかると、腹の毛で石段のほこりを払うようにして自力で付いてきた。強い風にあおられた枯れ枝が、おいでおいでとモスリを招き寄せる。
階段の向こうは広場で、その奥は岩肌の行き止まりだった。広場の真ん中に小さなお堂がある。お堂を囲った手すりのいたるところには、白いリボンが山ほど結ばれてあった。お堂で休めないかと、モスリは板階段から格子をのぞき込んだ。ここにも白いリボンが垂れた木のかんぬきには、鍵が通されたままだった。
ケトンと我が子が急にぐずりはじめた。風と葉の音も賑やかになった。その中からふっと足音が現れ、モスリをドキリとさせたのであった。
手にカマを持った老女が鶏ガラのように細い体で、モスリを見て、犬を見た。
カマと一緒に葉っぱを持って立っていた。小指ほどの白くひょろりとした根が枝分かれし、毛根が伸びている。
「山人参ですか?」とモスリは初めて見るこの老女に親しげに聞いた。
「あぁ。大きくなるまで採るのをずっと待っていたんだ。あんた腹が空いているなら、こっちへおいで」
老女は樹皮から切り取った平たいキノコを、手でもむように転がし、帯に結わえた麻縞の袋へしまうと、岩肌の方へ歩き出した。
2012/4/7更新
片っ端から布袋に詰め込んだらしく、俵の形に納まるはずが、変に飛び出た部分などがひざ頭に当たって痛そうなのである。
必要な物だけ持って行くよう本人が言ったわりには、大したものは入っていなかった。
メモ帳には正の字ばかりが並んでいる。次のページには角度や距離など書かれてあった。麻縄の糸巻と扇形の木枠を取り出し、草地へ並べる。木枠は中の針が振り子のように動いた。書物の中には茎と葉と根をつなげたままの押し花がぺたりと貼り付き、別の本からは稲穂がどさりと落ちた。
王様の手紙。
菓子の見本帳。
この2つをモスリは自分の風呂敷袋へ移した。
菓子の見本帳はイ・オンが単に友人に渡し忘れたのか、万一を考えて自分で持っておこうとしたのかはわからない。でも王様の手紙と同様に重要な証拠になるものだ。
残りの荷物を袋の形が俵型になるよう工夫しながら、1つずつ布袋へ戻していった。
ひょっとして…と思い、メモ帳を一冊、風呂敷袋へ入れ替えた。何か形見になるものを持っていた方が、いいような気がしたのだった。
狒烏山から月がのぞきはじめると、モスリはイ・オンとの約束通り、風呂敷包を手にさげ、川へ入った。
背中にケトン、胸に我が子を抱いた格好で、大きめの揺らがない石をさぐっては足をのせ、無事、向こう岸へ辿り着いた。
もとの河原に、夫の荷物がそのまま置いてある。イ・オンがもう少ししたら戻るのではないかという気がして、土手に座り込んだ。この場を離れてしまうのは、なかなか踏ん切りがつかなかった。
いつまでこうしているのか。時間が無駄に流れるばかりだ。焦りながらも思考と体は完全に止まったままになった。そのうち雪が舞いはじめた。
夜明け頃、向こう岸の土手を駆けてくる馬が遠くに見えた。それがどうもイ・オンのようだった。
牛のような体型の力強い黒馬だ。荷物を乗せるための品種なのだろう。胴ばかりが長く、腹は垂れさがり脚が短い。
そのはるか後ろにもう一頭、前髪が逆立つほど勇ましいスピードで馬が追って来る。
額に白斑の入った栗毛馬は、節のある細い脚で飛び跳ねるように駆けた。
手綱を握る男の袖なしの長い衣とはちまきが真横にはためいた。片手に刀を光らせている。私兵だ。イ・オンはこの男に追われているようであった。
モスリの頬に鳥肌が立った。2頭の影はどんどん縮まっていく。
それでも馬をムチで激しく叩くことを嫌がるイ・オンの姿勢は、もはや馬と一心同体のように見える。
イ・オンの馬もそれに応えようと、無垢な瞳でひたすら走り続ける。するとイ・オンもまた馬をとても頼もしく思って、勇気を奮い起した。
ついにイ・オンをとらえた敵が、刀を振りかざした。
その瞬間、イ・オンは何を思ったか、くるりと方向変換し、巧みに敵の栗毛馬を避けて逆走しはじめたのであった。
「行けぇーっ、行けぇーっ!」
土手沿いにイ・オンの叫び声が響いた。
馬に命令しているのではない。メッセージを送っているのだ。
そう気付いたモスリは、夫の苦労を無駄にはしまいと、無我夢中で土手を転がるように駆けおりた。
目の前に枯野が広がった。緩やかに下ったその先はのぼりになり、菜っ葉の畑やわら屋根、小さな森の影が、薄紺の空の下に、はるか向こうまで点々としていた。
イ・オンの声ももはやしなくなり、辺りは静かなだけである。モスリは急に取り残された人のようだった。
土手を振り返ることはためらわれた。兵士が怖いのではなく、もう夫とこれが最後かもしれないという事実に胸が波打ち、頭は真っ白になった。
イ・オンの必死の姿が、これまでで一番、物悲しく思い出された。
とにかく夫は南へ行けと言ったのだ。
しかしいくら歩いても満足できなかった。2人も抱えた身では、ぬかるみに足を取られたようなものだった。
モスリは背中に我が子を、ケトンを胸に抱え、ひたすら歩いた。兵士が追ってきているのではと、たびたび後ろを振り返った。しかしそこにあるのは枯野のすすきだった。
孤独と戦い、ぐったり疲れた。赤ん坊の息遣いや背中の重みを感じて、この子らをより愛おしく思う。自然と足は見通しの良い枯野や川より、険しい山へと向かった。
そのうちに朝日の照りつける枯れ草がちかちか瞬いた。
なだらかな山と空の境界線が、はるか向こうにくっきりと見えた。再び立ち止まって、空を漂う長い煙を見た。
都のはずれで火事があったのではないか。どうも王様の別邸の方角のようだ。
モスリはショックのあまり、ひざが崩れ落ちそうになった。しかし何かを考える気力さえ失い、歩き続けるよりしょうがなかった。
先ほどから妙な息使いが聴こえる。そう気付いてからは、一度も振り返らなかった。
風が吹くたび、鈴の音が揺れた。兵士の槍についた房飾りの鈴だろうか。
鈴の音と生息は、いつまでも背を追いかける。モスリは足を速めた。
光、風、草の波。鈴と生息…
モスリはもがき歩いた。しかしそれが次第に近づき、すぐ足元まで及ぶと、体を硬直させ、ついに悲鳴をあげた。
それは子犬であった。ケトンと同じ生後3、4カ月くらいだろうか。
四角い頭をし、毛は長く、尾は背に真っすぐ沿っている。潰れた顔は黒い。
牛のひづめに似た短い脚で、ちょこんとつま先立ちをして、飛び出るような大きな瞳でモスリをじっと見つめた。
そこらの野良イヌとは容姿が全く違う。ひと目見て王様の別邸の犬だとわかった。火事騒ぎで逃げ出してきたのだろう。
犬が鈴を鳴らしていつまでも付いて来るので、兵士に嗅ぎつかれては困ると思って、首輪を外すことにした。正面に黄緑色の房が2つ垂れた美しい飾りだった。
メダルの中心に月を模した琥珀が埋め込まれ、花が浮き彫りになっている。月の両脇から伸びる爪先は銀で縁どりされた象牙製であった。
鈴を外す間、小犬はモスリのひざに片足をのせた。そのやわらかで軽い感触が赤子のものと似ていて、モスリの母性をくすぐったのである。
それから山に入った。けもの道よりは広いが、うっそうとした木々が斜めに生え、根が邪魔して足場が悪い。地面は腐りかけの落葉に何層も覆われていた。
はるか高い枝に、フクロウが一匹止まっている。花びらを逆さにしたような白と茶色の毛並みだ。枝の下を通り過ぎるのを、黄色い半月の目で見下ろされた。
モスリは自分の首の後ろに風が当たるたび、無防備に狙われているような妙な錯覚を感じて、それがしばらく続いた。
この辺りは寒さが厳しいらしく、両脇に雪が残っている。雪のないところはぽっかり穴が空いて、枯れ葉がのぞいた。木々の枝には滴の花が咲いた。
日が差し込むと、少しは気力が回復するようだった。
やがてまっすぐの石階段を見上げた。たっぷり100段はありそうだ。
階段の頂上でぷっつり切れて見える。白い空の中にそびえた枯れ木の群衆が囁き合うように揺れた。
モスリはゆっくり階段をのぼりはじめた。犬は最初くんくんと寂しそうに鳴いていたが、モスリが待ってくれないとわかると、腹の毛で石段のほこりを払うようにして自力で付いてきた。強い風にあおられた枯れ枝が、おいでおいでとモスリを招き寄せる。
階段の向こうは広場で、その奥は岩肌の行き止まりだった。広場の真ん中に小さなお堂がある。お堂を囲った手すりのいたるところには、白いリボンが山ほど結ばれてあった。お堂で休めないかと、モスリは板階段から格子をのぞき込んだ。ここにも白いリボンが垂れた木のかんぬきには、鍵が通されたままだった。
ケトンと我が子が急にぐずりはじめた。風と葉の音も賑やかになった。その中からふっと足音が現れ、モスリをドキリとさせたのであった。
手にカマを持った老女が鶏ガラのように細い体で、モスリを見て、犬を見た。
カマと一緒に葉っぱを持って立っていた。小指ほどの白くひょろりとした根が枝分かれし、毛根が伸びている。
「山人参ですか?」とモスリは初めて見るこの老女に親しげに聞いた。
「あぁ。大きくなるまで採るのをずっと待っていたんだ。あんた腹が空いているなら、こっちへおいで」
老女は樹皮から切り取った平たいキノコを、手でもむように転がし、帯に結わえた麻縞の袋へしまうと、岩肌の方へ歩き出した。
2012/4/7更新
「ケトンの月」8話 伝説の復活
イ・オンは渡し場へ行く途中で知人の家に立ち寄り、饅頭の入った祝菓子を託した。犯人捜しは彼に任せておけば間違いないとイ・オンが言うのなら、きっとそうなのだと思い、モスリは肩の荷が一つ下りたような気がした。
着ぶくれたイ・オンは仕上げに濃紺の外套を羽織って、さらに綿入りねんねこを背負った。毛と竹で編んだ黒帽子がくるりと回って、衿元へぶら下がってしまったが仕方がない。冬に備えて衣服を多く持って行くためだ。
今の時間なら干潮だから向こう岸まで誰の手も借りずに歩いて渡れる。この慌ただしいさなかでもイ・オンはできる限りの対策を考えた。
ところが枯れ草とすすきの土手を滑るように下り立ったイ・オンは突然、「しまった!」と声をあげたのである。
そうして風呂敷包を次々に河原へ置き、背中におぶっていたケトンまでも下ろして荷物の上へ寝かせた。暗闇からみぞれが落ちては消えていくのを見て、モスリが肌けたケトンのねんねこを整えた。
朽ちた小船が3隻、踏み板だけの粗末な渡し場にロープで結わえてある。船が小さく揺れるたび、ぴちゃりぴちゃりと波音がした。はるか向こうの上流には地平線が広がり、砂島に浮かぶ黒い森が薄っすら見えた。
「大変な忘れ物をした。王様の別邸へちょっと行ってくるから待っていてくれ」
「いま戻るのは危険ではありませんか…?」
モスリは表情をこわばらせ、150mばかり向こう岸の暗い線を惜しそうに見つめた。
「ケトン王子に対する王様の思い入れは相当深いようだ。最後の手紙を読んでそう思った。読んだらすぐ燃やすようにとのご意向だったが、こういう事態になった以上は、ケトン王子の立場を証明するためにも、大切に持って置くべきだろう。王様は最近になってから私に三種の神器の1つである玉を作り直すよう密命を下されたのだ。手紙のそれにはケトン王子の1歳のお誕生日に間に合うようにとの御指示があった。その日に併せて神玉をケトン王子に授けようとされていた」
結局、イ・オンは今から王様の別邸へ戻るのは危険ではないとは言わなかった。
「もしも私が戻らなければ、狒烏山に月がのぼる前に逃げなさい。ぐずぐずしていると、水かさが増えてしまう」
「では向こう岸で待っていればよいですね?」
「いいや。夜が明けたらケトンがいない事が皆にも知れてしまう。先へ急ぐことだ。私も後で追いかけるから」
「でも行くってどこへ行けばいいのでしょう」
「南だ。とにかく南へ進みなさい」
イ・オンはどうしても言わなければならない辛い話を、なるべく小出しにしようとする。モスリはそのたびに何か安心材料を探して気持ちを落ちつけようと試みた。しかし慰めになるどころか、事態の深刻さは増すばかりだった。
「万一危険にあった場合、お前には酷なことだけども、私らの赤ん坊を後回しにしてでも王子を守り抜きなさい。なぁに心配はしなさんな。私らの子一人に寂しい思いをさせはしない。そのときは私も子と運命を共にしよう」
「運命を共にするとは一体どういう意味ですか?」
答える代わりにイ・オンは赤ん坊ごと妻を抱きしめた。照れて今までこんな風にされたことがなかったので、何だかこの世の別れのような気がして思わず、「やめてください」と言ったのを、イ・オンが勘違いして、「いやぁ、すまん、すまん」と笑顔で詫び、それでもまだ数秒ほど妻子を抱きしめたままでいた。
身軽になったイ・オンは、速足で王様の別邸へと向かった。ときどき暗闇の中で振り返っては、妻子を元気づけようと土手の上から提灯ごと手を掲げた。
腹を空かせた犬たちは、朝もやの白い空気の中でうなり声をあげ、近所の野良イヌまでをも遠吠え競争に巻き込んだ。
私兵隊長はパン・ダンのあとについて、別邸のうっそうとした竹林の小道を逃げるように抜けきり、建物の前へ着いた。
内官の案内で2人はまず王様の寝室へ入った。すでに到着していた医官がさっそく寝床に安置された王様の鼻の穴に薄紙をあて、確かに呼吸がない事をパン・ダンに見せた。
パン・ダンは次に王様の書斎へと移動した。
私兵隊長が足元にしゃがみ込んで、備えつけの家具の扉を開けたが、そこに宝物の箱が無いのは、ひと目でわかった。
それでも納得がいかず、腕を奥の方まで入れ、ひんやりとした棚板をなでてみた。すると棚と同色の影になった箱が、ひっそり1つだけ残っている。それをすぐに引き寄せた。
宝剣はトリトル王子に授けられているから、残る箱は玉と鏡のどちらかである。
しかしパン・ダンに中身を確かめてみるよう命じられると、私兵隊長は躊躇した。
歴代の王でさえ拝んだことのない神器を自分ごときが…と申し訳を口にする私兵隊長に、パン・ダンは言った。
「君はバカかね? えっ?」
そうして箱をひったくって、フタと風呂敷包を床へ投げ捨てた。次には巾着の口袋を逆さにして振った。玉の指輪が転がり落ちて来るのではないかと思って、2人とも床へ視線をやったが、何も出て来はしなかった。
パン・ダンは奇声をあげ、巾着袋を床へ叩きつけた。それでもまだ怒りがおさまらずに、6連の梅屏風を蹴り倒した。
ひょっとしてどこかに隠しているのではと、私兵隊長が引き出しつきの4段飾り棚や、銀留具の黒箪笥を、わらをもすがる思いで調べた。文机の書物を一通りさらったあと、土色の小さな水刺しの中までのぞき込んだ。
「なぜあるはずの物が無いのでしょう…?」
猿顔の私兵隊長は、調べ尽くした挙句にぽかんとした。パン・ダンは荒い息をようやく整え、
「そうではない。この箱だけここにある方が不自然なのだ」
「何も入っていなかったから、残したのでしょうか」
「あるいは最初から入ってない事実を知っていたから、持って行く必要がなかったのだ」
政務に必要な王の金印までもが見当たらないのはおかしかった。何者かが先回りして持ち去ったに違いない。しかし一体誰が…?
「そういえば、月見会のときに検閲が強化されたことと何か関係があるのでは?」
と私兵隊長が言ったのを、パン・ダンはろくに聞いてもいなかった。
パン・ダンは隙間風をたどるように障子へ近づき、外の様子を盗み見た。
「あの騒ぎは何だ」
「はっ。犬宿房に火をつけたのです。ケトン王子と母親を始末しろとのことでしたので」
「そこに親子がいるのは確かか?」
「はい。母親は夕べ犬宿舎に入ったきりです。最近はもっぱらそこで寝泊まりしていたようで、護衛が確認しております。外から板を張り付けて閉じ込めておきましたから、逃げられやしません」
パン・ダンは一抹の不安を覚え、すぐに火事の現場へ走った。
火事に気付いた使用人らが、桶で水を撒き散らしていたが焼け石に水だった。
ごうごうと竜巻のようにねじれた炎は、柱と軒の骨格以外のすべてを火の海に塗り変え、不気味な黒い煙を吐き出した。
「あれはハシゴではありませんか?!」
私兵隊長が指差す方をパン・ダンは慌てて確認した。
なんと犬宿房の目立たないところに外からハシゴが立てかけられ、わら屋根の一部がずぼりと抜けている。すでに燃え尽きようとし、消火活動の際に置かれたものではないのは確かだ。
「まさか、屋根から逃げたのでしょうか…」
私兵隊長は半信半疑な様子で口を半開きにしたまま火事を見つめている。
屋根の穴は果たして炎が貫いたものなのか、何者かがハシゴを使い助けに入ったのか、もはや判断は不可能だった。
「あっ!」
とパン・ダンは思わず声をあげ、たちまち青ざめた。
傾いた家。
家から出て来た子犬。
ハシゴ。
何もかもが「高僧遺歌伝」の中に出て来る伝説とそっくり同じであった。
ケトンが伝説の王子というのか…
パン・ダンは心の中で念仏のようにこの問いを繰り返した。炎がじりじり熱く、顔が汗ばんだ。火事のどさくさにまぎれ、村人らもいつの間にか敷地内に入ってきている。
べっ甲玉のアゴひもを揺らし、ようやく部隊を率いて上官が現場に駆けつけた。どんぐり風の鉄ヘルメットをかぶった男らや槍兵に交じり、長い房をかぶせた火消し棒や、大うちわが掲げられた。誰の目にも苦戦は決定的に見えた。
強い風とともに炎が向きを変え、2つに裂けると、うわっと野次馬の声が上がった。ついに屋根と柱の一部がガラガラと崩れ落ちたのだった。
兵士が桶を次々に担いで、木製ポンプで放水した。その周りで村人らが炎めがけて桶の水をぶっかけ続けた。
そのおかげか屋根の隙間から煙が噴き上げはじめ、入道雲のように厚くなった。
やがて鎮火した跡に、幾重にもひだが走った炭柱だけが残った。
私兵隊長がふと足元を見下ろすと、水が庭に置かれた縁台の脚の途中まで吸いあがっている。ぬかるみに落ちていた物を私兵隊長は、物珍しそうに拾い上げた。
それは丸い黒ぶち眼鏡であった。
パン・ダンは私兵隊長の隣で空を見上げている。雲の動きがだいぶ早い。村一帯へ長く伸びた煙が、朝日の差す雲の方へと近づきつつある。
狒烏山のはるか上には白いふっくらした半月が浮かんでいた。
2012/3/31更新
着ぶくれたイ・オンは仕上げに濃紺の外套を羽織って、さらに綿入りねんねこを背負った。毛と竹で編んだ黒帽子がくるりと回って、衿元へぶら下がってしまったが仕方がない。冬に備えて衣服を多く持って行くためだ。
今の時間なら干潮だから向こう岸まで誰の手も借りずに歩いて渡れる。この慌ただしいさなかでもイ・オンはできる限りの対策を考えた。
ところが枯れ草とすすきの土手を滑るように下り立ったイ・オンは突然、「しまった!」と声をあげたのである。
そうして風呂敷包を次々に河原へ置き、背中におぶっていたケトンまでも下ろして荷物の上へ寝かせた。暗闇からみぞれが落ちては消えていくのを見て、モスリが肌けたケトンのねんねこを整えた。
朽ちた小船が3隻、踏み板だけの粗末な渡し場にロープで結わえてある。船が小さく揺れるたび、ぴちゃりぴちゃりと波音がした。はるか向こうの上流には地平線が広がり、砂島に浮かぶ黒い森が薄っすら見えた。
「大変な忘れ物をした。王様の別邸へちょっと行ってくるから待っていてくれ」
「いま戻るのは危険ではありませんか…?」
モスリは表情をこわばらせ、150mばかり向こう岸の暗い線を惜しそうに見つめた。
「ケトン王子に対する王様の思い入れは相当深いようだ。最後の手紙を読んでそう思った。読んだらすぐ燃やすようにとのご意向だったが、こういう事態になった以上は、ケトン王子の立場を証明するためにも、大切に持って置くべきだろう。王様は最近になってから私に三種の神器の1つである玉を作り直すよう密命を下されたのだ。手紙のそれにはケトン王子の1歳のお誕生日に間に合うようにとの御指示があった。その日に併せて神玉をケトン王子に授けようとされていた」
結局、イ・オンは今から王様の別邸へ戻るのは危険ではないとは言わなかった。
「もしも私が戻らなければ、狒烏山に月がのぼる前に逃げなさい。ぐずぐずしていると、水かさが増えてしまう」
「では向こう岸で待っていればよいですね?」
「いいや。夜が明けたらケトンがいない事が皆にも知れてしまう。先へ急ぐことだ。私も後で追いかけるから」
「でも行くってどこへ行けばいいのでしょう」
「南だ。とにかく南へ進みなさい」
イ・オンはどうしても言わなければならない辛い話を、なるべく小出しにしようとする。モスリはそのたびに何か安心材料を探して気持ちを落ちつけようと試みた。しかし慰めになるどころか、事態の深刻さは増すばかりだった。
「万一危険にあった場合、お前には酷なことだけども、私らの赤ん坊を後回しにしてでも王子を守り抜きなさい。なぁに心配はしなさんな。私らの子一人に寂しい思いをさせはしない。そのときは私も子と運命を共にしよう」
「運命を共にするとは一体どういう意味ですか?」
答える代わりにイ・オンは赤ん坊ごと妻を抱きしめた。照れて今までこんな風にされたことがなかったので、何だかこの世の別れのような気がして思わず、「やめてください」と言ったのを、イ・オンが勘違いして、「いやぁ、すまん、すまん」と笑顔で詫び、それでもまだ数秒ほど妻子を抱きしめたままでいた。
身軽になったイ・オンは、速足で王様の別邸へと向かった。ときどき暗闇の中で振り返っては、妻子を元気づけようと土手の上から提灯ごと手を掲げた。
腹を空かせた犬たちは、朝もやの白い空気の中でうなり声をあげ、近所の野良イヌまでをも遠吠え競争に巻き込んだ。
私兵隊長はパン・ダンのあとについて、別邸のうっそうとした竹林の小道を逃げるように抜けきり、建物の前へ着いた。
内官の案内で2人はまず王様の寝室へ入った。すでに到着していた医官がさっそく寝床に安置された王様の鼻の穴に薄紙をあて、確かに呼吸がない事をパン・ダンに見せた。
パン・ダンは次に王様の書斎へと移動した。
私兵隊長が足元にしゃがみ込んで、備えつけの家具の扉を開けたが、そこに宝物の箱が無いのは、ひと目でわかった。
それでも納得がいかず、腕を奥の方まで入れ、ひんやりとした棚板をなでてみた。すると棚と同色の影になった箱が、ひっそり1つだけ残っている。それをすぐに引き寄せた。
宝剣はトリトル王子に授けられているから、残る箱は玉と鏡のどちらかである。
しかしパン・ダンに中身を確かめてみるよう命じられると、私兵隊長は躊躇した。
歴代の王でさえ拝んだことのない神器を自分ごときが…と申し訳を口にする私兵隊長に、パン・ダンは言った。
「君はバカかね? えっ?」
そうして箱をひったくって、フタと風呂敷包を床へ投げ捨てた。次には巾着の口袋を逆さにして振った。玉の指輪が転がり落ちて来るのではないかと思って、2人とも床へ視線をやったが、何も出て来はしなかった。
パン・ダンは奇声をあげ、巾着袋を床へ叩きつけた。それでもまだ怒りがおさまらずに、6連の梅屏風を蹴り倒した。
ひょっとしてどこかに隠しているのではと、私兵隊長が引き出しつきの4段飾り棚や、銀留具の黒箪笥を、わらをもすがる思いで調べた。文机の書物を一通りさらったあと、土色の小さな水刺しの中までのぞき込んだ。
「なぜあるはずの物が無いのでしょう…?」
猿顔の私兵隊長は、調べ尽くした挙句にぽかんとした。パン・ダンは荒い息をようやく整え、
「そうではない。この箱だけここにある方が不自然なのだ」
「何も入っていなかったから、残したのでしょうか」
「あるいは最初から入ってない事実を知っていたから、持って行く必要がなかったのだ」
政務に必要な王の金印までもが見当たらないのはおかしかった。何者かが先回りして持ち去ったに違いない。しかし一体誰が…?
「そういえば、月見会のときに検閲が強化されたことと何か関係があるのでは?」
と私兵隊長が言ったのを、パン・ダンはろくに聞いてもいなかった。
パン・ダンは隙間風をたどるように障子へ近づき、外の様子を盗み見た。
「あの騒ぎは何だ」
「はっ。犬宿房に火をつけたのです。ケトン王子と母親を始末しろとのことでしたので」
「そこに親子がいるのは確かか?」
「はい。母親は夕べ犬宿舎に入ったきりです。最近はもっぱらそこで寝泊まりしていたようで、護衛が確認しております。外から板を張り付けて閉じ込めておきましたから、逃げられやしません」
パン・ダンは一抹の不安を覚え、すぐに火事の現場へ走った。
火事に気付いた使用人らが、桶で水を撒き散らしていたが焼け石に水だった。
ごうごうと竜巻のようにねじれた炎は、柱と軒の骨格以外のすべてを火の海に塗り変え、不気味な黒い煙を吐き出した。
「あれはハシゴではありませんか?!」
私兵隊長が指差す方をパン・ダンは慌てて確認した。
なんと犬宿房の目立たないところに外からハシゴが立てかけられ、わら屋根の一部がずぼりと抜けている。すでに燃え尽きようとし、消火活動の際に置かれたものではないのは確かだ。
「まさか、屋根から逃げたのでしょうか…」
私兵隊長は半信半疑な様子で口を半開きにしたまま火事を見つめている。
屋根の穴は果たして炎が貫いたものなのか、何者かがハシゴを使い助けに入ったのか、もはや判断は不可能だった。
「あっ!」
とパン・ダンは思わず声をあげ、たちまち青ざめた。
傾いた家。
家から出て来た子犬。
ハシゴ。
何もかもが「高僧遺歌伝」の中に出て来る伝説とそっくり同じであった。
ケトンが伝説の王子というのか…
パン・ダンは心の中で念仏のようにこの問いを繰り返した。炎がじりじり熱く、顔が汗ばんだ。火事のどさくさにまぎれ、村人らもいつの間にか敷地内に入ってきている。
べっ甲玉のアゴひもを揺らし、ようやく部隊を率いて上官が現場に駆けつけた。どんぐり風の鉄ヘルメットをかぶった男らや槍兵に交じり、長い房をかぶせた火消し棒や、大うちわが掲げられた。誰の目にも苦戦は決定的に見えた。
強い風とともに炎が向きを変え、2つに裂けると、うわっと野次馬の声が上がった。ついに屋根と柱の一部がガラガラと崩れ落ちたのだった。
兵士が桶を次々に担いで、木製ポンプで放水した。その周りで村人らが炎めがけて桶の水をぶっかけ続けた。
そのおかげか屋根の隙間から煙が噴き上げはじめ、入道雲のように厚くなった。
やがて鎮火した跡に、幾重にもひだが走った炭柱だけが残った。
私兵隊長がふと足元を見下ろすと、水が庭に置かれた縁台の脚の途中まで吸いあがっている。ぬかるみに落ちていた物を私兵隊長は、物珍しそうに拾い上げた。
それは丸い黒ぶち眼鏡であった。
パン・ダンは私兵隊長の隣で空を見上げている。雲の動きがだいぶ早い。村一帯へ長く伸びた煙が、朝日の差す雲の方へと近づきつつある。
狒烏山のはるか上には白いふっくらした半月が浮かんでいた。
2012/3/31更新
「ケトンの月」7話 アン・チボクの賭け
どういういきさつで、パン・ダン邸で宴をやろうと言い出したかはわからない。誰かがトリトル王子のお誕生日の余興だと口実をつけたかもしれなかった。
しかし私兵隊長からの知らせを密かに待っていたパン・ダンにしてみれば、時間を潰すのにはちょうど都合が良かった。文人、女、役者、画家、旅芸人までもが集まり、大いに賑わった。
私兵隊長はいっこう戻らなかった。その苛立ちをおくびにも見せずにパン・ダンはひたすら酒を飲み続けた。次第に顔が赤く染まり、目がとろりと垂れてくると、パン・ダンの酒癖の悪さを知る者たちは、この辺りが潮時だろうと、そそくさと連れだって帰っていった。パン・ダンは残飯ととっくりに埋もれて眠った。
「急に冷え込んで来ましたな。雪でも降りそうじゃないですか」
「まさか、この時期はまだ早いですよ」
パン・ダンの耳に最後の客の会話が灯のように残った。それがいかにもくだらない話のように思える。
そのうちに雨が屋根の瓦を叩きつけはじめた。
明け方頃、雨がやんだと思い、酔い覚ましに綿入りの絹羽織を着て縁側へ出てみると、みぞれになりかけていた。
足がもつれた拍子にパン・ダンは床へ転がった。そのままあぐらを掻き、うつらうつらと首を垂れた。いつの間にか雪が降り、コブのようなパン・ダンの厚い肩へかかった。
スズメのさえずりと朝の白い空気が、パン・ダンの酔いをすっかり覚ました。湿った砂利を踏みしめる靴音が近づいて、猿顔の私兵隊長がようやくパン・ダンの前にあらわれた。
「ご報告が遅くなりました…」
パン・ダンはそれには返事をせずに、あまりの体の冷えに耐えかね、大声で下女を呼んだ。
それからすぐ私兵隊長と部屋へと戻り、椅子の背もたれに背筋を伸ばして座った。
昨夜のテーブルの上はもうきれいに片付けられている。竹の苗を2本描いた染付の花瓶に、赤い花びらの小菊が色あせた葉っぱと一緒に生けてあった。一人分の温かい牛肉粥を下女が置いていった。
テーブルのそばへ立った私兵隊長は、パン・ダンがゆっくりと銀のさじを手に取るのを見つめながら話しはじめた。
「それが、アン・チボクのやつですが、どうやら菓子を置いて来ただけらしくて、結果がまだ知れないのです」
「何? では王様が食べたかどうかはわからないというのか」
「はぁ…それがそのぅ、チボクの話によりますと、もし食べたかどうかわかったとしても、食べただけではわからないと言っておりまして」
パン・ダンは口の端をあげ、私兵隊長を睨みつけた。笑みをこぼしたようなパン・ダンの顔が朝日にさらされた。それが頬骨のくっきり浮き出た木彫りの鬼の面に見えた。
「お前は一体何を言っている?」
導火線をたどるように低く苛立った声だ。猿顔の男は次にはきっと花瓶か粥がこっちへ飛んで来るだろうと覚悟を決めたほどであったが、パン・ダンは飯粒の付いたさじをテーブルへ激しく叩きつけた。さじは裏返しになり、もう一度回って表へ跳ね返った。
「つまりはこうなのです。王様がどれを食べたかまではわからない。結果を知るのは王様ご自身だけだと、こんな風に言うものですから」
猿顔の男にはこの説明さえやはり自分でもよくわからず、さっきのと大して変りがないように思えた。しかし幸いにもパン・ダンには理解できたのだろう。声が少しやわらかくなった。
「ではすべてに毒を混入させたわけではないというのだな…?」
「そういえば毒を入れたのは、1品だけだとか何とか申しておりました」
猿顔の男はいかにも神妙に答えた。
パン・ダンは自分の耳を疑った。頭が混乱して、しばらく目が宙を泳いだ。
アン・チボクはこの私をおちょくっているのか…?!
非力の菓子職人が、王室業務長官の地位にある自分をコケにするなど、とうてい信じられようもなかった。
「殺せ」
「は? 私に王様を殺めろということでしょうか」
「違う。アン・チボクを始末するのだ。計画が失敗したなら口封じせねば」
面倒なことになったと思いながら、後ろへ下がろうとした私兵隊長は、夜間勤務から急きょ戻ってきた護衛と障子ドアの前でぶつかりかけた。
護衛はパン・ダンと私兵隊長に素早く一礼し、こう報告した。
「今朝早く、内官が王様の御遺体を発見しました。計画はすべて予定通りです」
一瞬の沈黙のあと、パン・ダンが息を吹き返したように二、三度、咳き込んだ。そうして障子が突き破れそうなほど響く声で笑い出した。
「ハーァッハッハァッハアー!」
パン・ダンは下男を呼び出して、すぐ足の速い栗毛の馬を用意するよう命じた。これから王様の別邸へ向かい、遺体を確認するつもりであった。
私兵隊長はパン・ダンとは長い付き合いだった。それだけにどんなにパン・ダンの機嫌が良かろうと、気を緩めず心構えをした。パン・ダンは怒っているときにこそ、よく笑うからである。
その8時間前、ケトン王子を預かって帰った晩、モスリはケトン王子を我が子と一緒に布団へ寝かしつけ、寝顔を見つめていた。
今晩は家に泊まらせて、トリトル王子のお誕生日会に間に合うよう宮殿へ連れて行く予定になっている。枕元にはケトン王子の母親が用意した祭事用の衣や産着を畳んでまとめてあった。ケトンが何かを食べるように口を動かし、小さなため息をつくのが聞こえた。
その静けさは何の前触れもなく、イ・オンによって掻き消された。イ・オンの太くたっぷりした髪が乱れ、マゲが盛り上がるように膨れている。愛用の丸メガネは後朱国で手に入れたものだった。
「なぜうちの門の前に兵士がうろついている?」
イ・オンの衣の隙間からひんやりした外の空気が押し出された。一緒に慌ただしさまで部屋へ持ち込んだかのようだ。
「ケトン王子のために王様が護衛を付けて下さったのです。明日は千恩寺の採掘場へ行かれるのでしょう?」
「私たちは今から旅に出る。どのみち誕生会も中止だ」
「私たちとは一体誰のことです? 何かあったのですか」
モスリはあっけに取られて尋ねた。
「いやまだだ。騒ぎが起こるのは明け方になろう。その前にケトン王子を連れて、今すぐ逃げる必要がある」
イ・オンは手に提げた風呂敷包を部屋の隅へ滑らせるように放った。そうして可愛い我が子とケトン王子の寝顔をちらりと見比べた。
「少し前に王様が亡くなられた。私が戌の刻に訪ねた時には、すでに毒殺されていたのだ」
「えっ…」とモスリは声をあげ、ケトンの方を向いた。ケトンは眉間にしわを寄せていると思ったら、次にはもう大あくびをしている。
「では、ケトン王子も狙われるのでしょうか…?」
「むろんそうなるだろう」
そのために苦労してイ・オンは、王様が生きているふりをし、時間稼ぎをしてきたのであった。
「内官と医官、それに護衛の中にも回し者が紛れ込んでいるとパク尚宮は言うんだ。女の勘をバカにはできないだろう? いざとなると私などより、よほどたくましいんだからねぇ」
と感心しながら、イ・オンは身ぶり手ぶりで、事のあらましを調子良く喋った。興奮して口をとがらせるのが癖だった。
イ・オンはパク尚宮と一緒に、亥の刻になるのを待ってから、王様の遺体を寝室まで運び込んだ。
パク尚宮はいつも通り手早く寝床を整えると、枕もとに手ぬぐいと尿瓶、たん壺を置いて、最後にろうそくの火を吹き消し、速やかに部屋を出た。
「王様が亡くなった事実はまだ誰も知らないはずだ。しかし明け方には遺体が発見されることになるだろう。今のうちに裏庭からそっと抜け出ればいい。赤ん坊はお前と私が1人ずつ抱いて行こう。荷物は最低限のものにしなさい」
イ・オンはいつも以上にエネルギッシュで真剣そのものだった。かえってその方がモスリには夫の不安が透けて見えた。
「夕飯はどう致しますか」
モスリはあえて平静のように言った。
「王様のお夜食を頂いて、胃が張り裂けそうなんだ。意地汚いと言わないでくれよ。王様が食べたと思わせるためだ。水をくれるとありがたい」
イ・オンはどさりと床へ座り込んだ。そうして先ほどから続いている動悸を抑えようと、手を胸に当てて深呼吸をした。足袋の上から足の先をしきりに曲げ、マッサージもした。そのうちモスリが器とおしぼりを盆にのせて持って来た。
白湯をゆっくり飲み干すイ・オンの顔は白々とし、皮膚はウロコがただれた魚のように艶を失っている。モスリはひどく疲労した夫を痛々しくて見ていられなくなり、何でもない土壁の方へふと目をやった。
「あの荷物は何なのですか」
「王様の部屋にあったものだ。中身を信頼できる者に鑑識して貰う」
イ・オンは手の汚れを拭き、とがらせたおしぼりの角で爪のゴミを取った。そうしたら少し気持ちが落ち着いたので風呂敷を引き寄せ、包みを解いた。
竹で編んだふたつきの籠を開けてみると、色とりどりの祝菓子が升目に並んでいた。モスリの目にはどれも手をつけていないように見えた。
「ここだよ、ここ。私が乱暴に運んだせいで、この辺りだけ片側へ寄ってしまっているだろう? ほら、王様が食べたからこんな隙間が空いたのだ」
と言って、イ・オンは白い饅頭を、ひょうたんのような指で差し示した。
2012/3/24更新
しかし私兵隊長からの知らせを密かに待っていたパン・ダンにしてみれば、時間を潰すのにはちょうど都合が良かった。文人、女、役者、画家、旅芸人までもが集まり、大いに賑わった。
私兵隊長はいっこう戻らなかった。その苛立ちをおくびにも見せずにパン・ダンはひたすら酒を飲み続けた。次第に顔が赤く染まり、目がとろりと垂れてくると、パン・ダンの酒癖の悪さを知る者たちは、この辺りが潮時だろうと、そそくさと連れだって帰っていった。パン・ダンは残飯ととっくりに埋もれて眠った。
「急に冷え込んで来ましたな。雪でも降りそうじゃないですか」
「まさか、この時期はまだ早いですよ」
パン・ダンの耳に最後の客の会話が灯のように残った。それがいかにもくだらない話のように思える。
そのうちに雨が屋根の瓦を叩きつけはじめた。
明け方頃、雨がやんだと思い、酔い覚ましに綿入りの絹羽織を着て縁側へ出てみると、みぞれになりかけていた。
足がもつれた拍子にパン・ダンは床へ転がった。そのままあぐらを掻き、うつらうつらと首を垂れた。いつの間にか雪が降り、コブのようなパン・ダンの厚い肩へかかった。
スズメのさえずりと朝の白い空気が、パン・ダンの酔いをすっかり覚ました。湿った砂利を踏みしめる靴音が近づいて、猿顔の私兵隊長がようやくパン・ダンの前にあらわれた。
「ご報告が遅くなりました…」
パン・ダンはそれには返事をせずに、あまりの体の冷えに耐えかね、大声で下女を呼んだ。
それからすぐ私兵隊長と部屋へと戻り、椅子の背もたれに背筋を伸ばして座った。
昨夜のテーブルの上はもうきれいに片付けられている。竹の苗を2本描いた染付の花瓶に、赤い花びらの小菊が色あせた葉っぱと一緒に生けてあった。一人分の温かい牛肉粥を下女が置いていった。
テーブルのそばへ立った私兵隊長は、パン・ダンがゆっくりと銀のさじを手に取るのを見つめながら話しはじめた。
「それが、アン・チボクのやつですが、どうやら菓子を置いて来ただけらしくて、結果がまだ知れないのです」
「何? では王様が食べたかどうかはわからないというのか」
「はぁ…それがそのぅ、チボクの話によりますと、もし食べたかどうかわかったとしても、食べただけではわからないと言っておりまして」
パン・ダンは口の端をあげ、私兵隊長を睨みつけた。笑みをこぼしたようなパン・ダンの顔が朝日にさらされた。それが頬骨のくっきり浮き出た木彫りの鬼の面に見えた。
「お前は一体何を言っている?」
導火線をたどるように低く苛立った声だ。猿顔の男は次にはきっと花瓶か粥がこっちへ飛んで来るだろうと覚悟を決めたほどであったが、パン・ダンは飯粒の付いたさじをテーブルへ激しく叩きつけた。さじは裏返しになり、もう一度回って表へ跳ね返った。
「つまりはこうなのです。王様がどれを食べたかまではわからない。結果を知るのは王様ご自身だけだと、こんな風に言うものですから」
猿顔の男にはこの説明さえやはり自分でもよくわからず、さっきのと大して変りがないように思えた。しかし幸いにもパン・ダンには理解できたのだろう。声が少しやわらかくなった。
「ではすべてに毒を混入させたわけではないというのだな…?」
「そういえば毒を入れたのは、1品だけだとか何とか申しておりました」
猿顔の男はいかにも神妙に答えた。
パン・ダンは自分の耳を疑った。頭が混乱して、しばらく目が宙を泳いだ。
アン・チボクはこの私をおちょくっているのか…?!
非力の菓子職人が、王室業務長官の地位にある自分をコケにするなど、とうてい信じられようもなかった。
「殺せ」
「は? 私に王様を殺めろということでしょうか」
「違う。アン・チボクを始末するのだ。計画が失敗したなら口封じせねば」
面倒なことになったと思いながら、後ろへ下がろうとした私兵隊長は、夜間勤務から急きょ戻ってきた護衛と障子ドアの前でぶつかりかけた。
護衛はパン・ダンと私兵隊長に素早く一礼し、こう報告した。
「今朝早く、内官が王様の御遺体を発見しました。計画はすべて予定通りです」
一瞬の沈黙のあと、パン・ダンが息を吹き返したように二、三度、咳き込んだ。そうして障子が突き破れそうなほど響く声で笑い出した。
「ハーァッハッハァッハアー!」
パン・ダンは下男を呼び出して、すぐ足の速い栗毛の馬を用意するよう命じた。これから王様の別邸へ向かい、遺体を確認するつもりであった。
私兵隊長はパン・ダンとは長い付き合いだった。それだけにどんなにパン・ダンの機嫌が良かろうと、気を緩めず心構えをした。パン・ダンは怒っているときにこそ、よく笑うからである。
その8時間前、ケトン王子を預かって帰った晩、モスリはケトン王子を我が子と一緒に布団へ寝かしつけ、寝顔を見つめていた。
今晩は家に泊まらせて、トリトル王子のお誕生日会に間に合うよう宮殿へ連れて行く予定になっている。枕元にはケトン王子の母親が用意した祭事用の衣や産着を畳んでまとめてあった。ケトンが何かを食べるように口を動かし、小さなため息をつくのが聞こえた。
その静けさは何の前触れもなく、イ・オンによって掻き消された。イ・オンの太くたっぷりした髪が乱れ、マゲが盛り上がるように膨れている。愛用の丸メガネは後朱国で手に入れたものだった。
「なぜうちの門の前に兵士がうろついている?」
イ・オンの衣の隙間からひんやりした外の空気が押し出された。一緒に慌ただしさまで部屋へ持ち込んだかのようだ。
「ケトン王子のために王様が護衛を付けて下さったのです。明日は千恩寺の採掘場へ行かれるのでしょう?」
「私たちは今から旅に出る。どのみち誕生会も中止だ」
「私たちとは一体誰のことです? 何かあったのですか」
モスリはあっけに取られて尋ねた。
「いやまだだ。騒ぎが起こるのは明け方になろう。その前にケトン王子を連れて、今すぐ逃げる必要がある」
イ・オンは手に提げた風呂敷包を部屋の隅へ滑らせるように放った。そうして可愛い我が子とケトン王子の寝顔をちらりと見比べた。
「少し前に王様が亡くなられた。私が戌の刻に訪ねた時には、すでに毒殺されていたのだ」
「えっ…」とモスリは声をあげ、ケトンの方を向いた。ケトンは眉間にしわを寄せていると思ったら、次にはもう大あくびをしている。
「では、ケトン王子も狙われるのでしょうか…?」
「むろんそうなるだろう」
そのために苦労してイ・オンは、王様が生きているふりをし、時間稼ぎをしてきたのであった。
「内官と医官、それに護衛の中にも回し者が紛れ込んでいるとパク尚宮は言うんだ。女の勘をバカにはできないだろう? いざとなると私などより、よほどたくましいんだからねぇ」
と感心しながら、イ・オンは身ぶり手ぶりで、事のあらましを調子良く喋った。興奮して口をとがらせるのが癖だった。
イ・オンはパク尚宮と一緒に、亥の刻になるのを待ってから、王様の遺体を寝室まで運び込んだ。
パク尚宮はいつも通り手早く寝床を整えると、枕もとに手ぬぐいと尿瓶、たん壺を置いて、最後にろうそくの火を吹き消し、速やかに部屋を出た。
「王様が亡くなった事実はまだ誰も知らないはずだ。しかし明け方には遺体が発見されることになるだろう。今のうちに裏庭からそっと抜け出ればいい。赤ん坊はお前と私が1人ずつ抱いて行こう。荷物は最低限のものにしなさい」
イ・オンはいつも以上にエネルギッシュで真剣そのものだった。かえってその方がモスリには夫の不安が透けて見えた。
「夕飯はどう致しますか」
モスリはあえて平静のように言った。
「王様のお夜食を頂いて、胃が張り裂けそうなんだ。意地汚いと言わないでくれよ。王様が食べたと思わせるためだ。水をくれるとありがたい」
イ・オンはどさりと床へ座り込んだ。そうして先ほどから続いている動悸を抑えようと、手を胸に当てて深呼吸をした。足袋の上から足の先をしきりに曲げ、マッサージもした。そのうちモスリが器とおしぼりを盆にのせて持って来た。
白湯をゆっくり飲み干すイ・オンの顔は白々とし、皮膚はウロコがただれた魚のように艶を失っている。モスリはひどく疲労した夫を痛々しくて見ていられなくなり、何でもない土壁の方へふと目をやった。
「あの荷物は何なのですか」
「王様の部屋にあったものだ。中身を信頼できる者に鑑識して貰う」
イ・オンは手の汚れを拭き、とがらせたおしぼりの角で爪のゴミを取った。そうしたら少し気持ちが落ち着いたので風呂敷を引き寄せ、包みを解いた。
竹で編んだふたつきの籠を開けてみると、色とりどりの祝菓子が升目に並んでいた。モスリの目にはどれも手をつけていないように見えた。
「ここだよ、ここ。私が乱暴に運んだせいで、この辺りだけ片側へ寄ってしまっているだろう? ほら、王様が食べたからこんな隙間が空いたのだ」
と言って、イ・オンは白い饅頭を、ひょうたんのような指で差し示した。
2012/3/24更新
「ケトンの月」6話 パク尚宮の予感
モスリが帰ると、王様は乾きかけの羊の毛を硯の上で押さえるようにして墨を含ませた。お膳を取りに来たパク尚宮の前だけは、王様は平気で猫背でいられた。
パク尚宮は、しかし何か言いたい事でもあるような顔つきだった。
どうも黙っているのが尚宮らしくないと思って声をかけると、尚宮は膳を持って突っ立ったまま、かしこまった風に喋り出した。
「何だか怪しいと思いまして…」
「何のことか」
「先ほどの菓子職人でございます。まだ庭にいたのでおかしいと思って、何をしているのかと叱ってやりましたら、あんな美しい歌声は生まれてはじめて聞いたと」
王様はいったん浮かせた筆先を、再び紙に下ろした。付き添いの女官はもう片方のお膳を抱えて部屋を出て行った。パク尚宮は王様が手紙を書くのを見つめながら話を続けた。
「それからこうも申しました。あのような人に歌って貰うには、自分はあとどれくらい年月がかかるものかと。それがひとり言なのか、果たして私に尋ねているのか迷いましたが、私のことが怖いのか逃げて行きましたので、幸い答える手間も省けたのでございます…」
それから障子を見つめ、
「今度は吠えませんね」
パク尚宮はいつも唐突に思ったことを口にする。せっかちな王様は、そのたび「何が」と多少の我慢をしても聞き返してやる。するとパク尚宮は説明を付け足す。
「犬でございます。あの者が来たときには吠えたでしょう。帰りは吠えませんでした」
王様は手紙の書き終えた部分をすっと文机の右側へ垂らすと、文鎮を置き直した。
「あの男はそう悪い男じゃないよ。ただし心に迷いがあるようだ」
と言って、自分の書いた文面を読み直してはたびたび首を傾げた。
申の刻近くに、護衛兵が夜間勤務の者たちに交代した。お膳を抱えて部屋を出たパク尚宮は、護衛兵の一人と内官が庭でひそひそ立ち話をしているのを見かけた。
日差しが大きく傾き、部屋に降り注いだ。真っ青だった空は光で薄まり、山が白い線に縁どられた。
軒先に立つ内官が、障子越しに声をかけた。イ・オンが手紙を取りに来たという。明日の朝早くに旅立つから、受け取っておきたいとのことだった。
もう少し手紙を書くのに時間がかかる、戌の刻にもう一度、来るように。
そう王様が返事をすると、内官が「では夕飯はどうなさいますか」と尋ねるので、時間がないだろうから抜きにすると答えた。
斜めに差し込む窓格子の影が、王様の手の甲へまだらに映った。
王様はだいぶん書き進めた手紙をくしゃりと丸め、尻の後ろへ追いやった。
手紙の文はあまりに長くなり過ぎた。考えがまとまらないまま書きはじめたのが悪かった。内容が馬鹿らしく思える。
ここまで心情を書いてしまったことに自分でも嫌気がした。手紙を受け取るはずのイ・オンは、罪もないのに王様に逆恨みされた。なにより疲れて手紙を書く気力がすっかり失せてしまった。
手を動かさない代わりに、考え事などが浮かびはじめたが、やはりそれも悪夢のように堂々巡りであった。
トリトル王子は舌を巻くほど賢い。それを本人も幼いながら自覚している。それでいて、わざと軽く振舞うところがある。特別より皆と同じである方を好む。王となるにはどうも欲が薄いように見える。もちろん性格は変わるかもしれないし、成長と共に役割を自覚し、環境にも対応していくだろう。しかし心はどうか? 本人をいつまでも悩ませることになるのではないだろうか…
このまま行けば国の山積みの問題は、確実に次の世代へと押し付けられる。それは火を見るよりも明らかなことだ。
果たしてケトンはどうか。王として有能な資質を持つ子であろうか…?
いったん思考が尽き果てたところで、王様は新しい紙を敷いた。
筆先でちょんちょん点を並べ、書きたいことの大部分を葬り去り、必要最低限の事項を箇条書きにした。
おかげですぐ手紙は完成したが、実につまらない気分になった。約束の戌の刻まではだいぶん時間が余っている…
王様は長座布団へ横たわり、頭を角枕にのせた。そうして壁の掛け軸に魅入った。公務に追われた心と体が少しは、くつろいでくるようだ。巣へ帰る鳥の声が耳に入っていつまでもこだました。
掛け軸の絵“女将と粥を食う客”はチャン・ミンホの遺作である。
女将と麦わら帽を頭にのせた白い服の男は、楽しげに何を喋っているのだろう。男は椀を傾けながら、残りひとさじの粥をすくっていた。濁り酒をひしゃくで汲む女将のスカートを、後ろから幼子が握っている。思いにふけるその幼子の表情が、娘のシルのものとよく似ていた。
絵の左下に書かれた号“胡水”は、書き走って右上がりになったのを、2文字目で無意識に上手くバランスを取っている。筆慣れしたやわらかな字体だった。
彼の筆跡が妙に今、王様には愛おしい。その文字を見るたび、娘のシルにケトンを産ませたことを、強く責められているようで心苦しくもある。いずれにしろ本人に聞いてみる機会は永遠に失われていた。
内官が再び軒先から声をかけても、王様の返事はなかった。
障子にぴったりと耳を擦り寄せ、眉を潜めた。やはり何の物音もしない。
指でつまんだ丸金具を少し押し、扉の中をのぞいてみる。誰もいないようだ。
勢い扉をバタンと開けた拍子に、奥で仰向けに横たわった王様と内官の目が合った。王様はじろりと横目で内官を睨んだ。
「大変失礼を致しました。お声をかけましたがお返事がないもので、具合でも悪くなさったのかと…」
「なに。少し疲れたので休んでいただけだ」
すだれの隙間から光があちこち漏れ、露のように眩しい。暮れかけのやわらかな光を浴びて梅屏風が神々しく輝いた。それを背にし王様はゆっくりと起きあがり、まげの具合を確かめるように金のかんざしへ手を当てた。
内官は会釈したまま扉をぴたりと閉めた。護衛が慌ててそばに駆け寄って、どうかしたのかと内官に尋ねたが、「いや、まだ何事もない…」と首を小さく横にふった。
いったん沈みかけた太陽は山の向こうへ一気に落ちた。そろそろ酉の刻だった。
王様は白磁の水入れをつかんで、硯の中へ回しかけ、墨をすった。
さっきの箇条書きの手紙はくしゃりと後ろへ放りやって、再び新しい紙を敷き直した。
やる気が回復したようだ。最初に書いた方の手紙を参考にしながら、無駄を省きつつ、軽く持った筆先でとんとんと書いていった。いつも機嫌の良いイ・オンの顔が自然と思い浮かんできた。
ようやく出来あがった手紙を長封筒に入れ、文机にのせた。
そのときアンの置いていった風呂敷包が目に留ったのだ。
包みをほどいてみると、くの字に編んだ竹籠に色とりどりの祝菓子がきれいに並べられていた。ちょうど腹が空いたところだ。
ふんわり揚げた棒状の餅の表面に、ゴマや干し粒をまぶしている。よもぎやかぼちゃを練り込んで色をつけたのだろう。木枠で蒸された白餅はブロックのように美しい。赤いナツメを花びら状に飾り、葉に見たてた種がのせてある。薄く伸ばした生地をねじって、笹のような色と形に仕上げたものは小麦粉の揚げ菓子だ。その他にも松葉の紋様を型押しした落雁や、黒ゴマ、緑茶、きな粉、豆が美しい層になった蒸し餅など、どれも王様の目に馴染みのものばかりだった。
ところが左下の隅の方に、例の白い薯饅頭が遠慮がちに詰めてある。これが中央に堂々と入っていたなら、生意気に感じたはずだ。気弱さをあらわにしつつも、アン・チボクのそれでもあきらめきれない思いが、竹籠の隅にくすぶっているかのようであった。
戌の刻にイ・オンが約束通り手紙を取りに来た。それから随分と長い間、2人は部屋に閉じこもっていた。
内官はときどき障子扉を気にして見た。もっぱら外へ漏れて来るのはイ・オンのどら声ばかりであった。彼がお喋りであることはわかっている。
途中でパク尚宮が夜食を持って部屋へ入っていった。金のお椀に、さじと箸は銀製である。
鶏のだしで作ったもち米入りの粥には、ほぐれた鶏の身をのせた。うどんの方は干しシイタケのだし汁だ。温かいスープにキュウリとネギの千切りが浮かんで、胡椒と白ゴマがかかっている。別の皿にニラ、ネギ、ぜんまい、もやし、菜っ葉の和え物が用意された。
亥の刻。イ・オンがようやく帰って行くのを内官は見かけた。
「王様はすでにお休みなさいました。ですからそんな風に兵士どもをうろつかせないでください。犬がうるさく吠えたらお目覚めになってしまうではありませんか」
空になった器の膳を抱えて縁側の石段を下りてきたパク尚宮は、内官に向かって無愛想にこう吐き捨てたのだった。
2012/3/17更新
パク尚宮は、しかし何か言いたい事でもあるような顔つきだった。
どうも黙っているのが尚宮らしくないと思って声をかけると、尚宮は膳を持って突っ立ったまま、かしこまった風に喋り出した。
「何だか怪しいと思いまして…」
「何のことか」
「先ほどの菓子職人でございます。まだ庭にいたのでおかしいと思って、何をしているのかと叱ってやりましたら、あんな美しい歌声は生まれてはじめて聞いたと」
王様はいったん浮かせた筆先を、再び紙に下ろした。付き添いの女官はもう片方のお膳を抱えて部屋を出て行った。パク尚宮は王様が手紙を書くのを見つめながら話を続けた。
「それからこうも申しました。あのような人に歌って貰うには、自分はあとどれくらい年月がかかるものかと。それがひとり言なのか、果たして私に尋ねているのか迷いましたが、私のことが怖いのか逃げて行きましたので、幸い答える手間も省けたのでございます…」
それから障子を見つめ、
「今度は吠えませんね」
パク尚宮はいつも唐突に思ったことを口にする。せっかちな王様は、そのたび「何が」と多少の我慢をしても聞き返してやる。するとパク尚宮は説明を付け足す。
「犬でございます。あの者が来たときには吠えたでしょう。帰りは吠えませんでした」
王様は手紙の書き終えた部分をすっと文机の右側へ垂らすと、文鎮を置き直した。
「あの男はそう悪い男じゃないよ。ただし心に迷いがあるようだ」
と言って、自分の書いた文面を読み直してはたびたび首を傾げた。
申の刻近くに、護衛兵が夜間勤務の者たちに交代した。お膳を抱えて部屋を出たパク尚宮は、護衛兵の一人と内官が庭でひそひそ立ち話をしているのを見かけた。
日差しが大きく傾き、部屋に降り注いだ。真っ青だった空は光で薄まり、山が白い線に縁どられた。
軒先に立つ内官が、障子越しに声をかけた。イ・オンが手紙を取りに来たという。明日の朝早くに旅立つから、受け取っておきたいとのことだった。
もう少し手紙を書くのに時間がかかる、戌の刻にもう一度、来るように。
そう王様が返事をすると、内官が「では夕飯はどうなさいますか」と尋ねるので、時間がないだろうから抜きにすると答えた。
斜めに差し込む窓格子の影が、王様の手の甲へまだらに映った。
王様はだいぶん書き進めた手紙をくしゃりと丸め、尻の後ろへ追いやった。
手紙の文はあまりに長くなり過ぎた。考えがまとまらないまま書きはじめたのが悪かった。内容が馬鹿らしく思える。
ここまで心情を書いてしまったことに自分でも嫌気がした。手紙を受け取るはずのイ・オンは、罪もないのに王様に逆恨みされた。なにより疲れて手紙を書く気力がすっかり失せてしまった。
手を動かさない代わりに、考え事などが浮かびはじめたが、やはりそれも悪夢のように堂々巡りであった。
トリトル王子は舌を巻くほど賢い。それを本人も幼いながら自覚している。それでいて、わざと軽く振舞うところがある。特別より皆と同じである方を好む。王となるにはどうも欲が薄いように見える。もちろん性格は変わるかもしれないし、成長と共に役割を自覚し、環境にも対応していくだろう。しかし心はどうか? 本人をいつまでも悩ませることになるのではないだろうか…
このまま行けば国の山積みの問題は、確実に次の世代へと押し付けられる。それは火を見るよりも明らかなことだ。
果たしてケトンはどうか。王として有能な資質を持つ子であろうか…?
いったん思考が尽き果てたところで、王様は新しい紙を敷いた。
筆先でちょんちょん点を並べ、書きたいことの大部分を葬り去り、必要最低限の事項を箇条書きにした。
おかげですぐ手紙は完成したが、実につまらない気分になった。約束の戌の刻まではだいぶん時間が余っている…
王様は長座布団へ横たわり、頭を角枕にのせた。そうして壁の掛け軸に魅入った。公務に追われた心と体が少しは、くつろいでくるようだ。巣へ帰る鳥の声が耳に入っていつまでもこだました。
掛け軸の絵“女将と粥を食う客”はチャン・ミンホの遺作である。
女将と麦わら帽を頭にのせた白い服の男は、楽しげに何を喋っているのだろう。男は椀を傾けながら、残りひとさじの粥をすくっていた。濁り酒をひしゃくで汲む女将のスカートを、後ろから幼子が握っている。思いにふけるその幼子の表情が、娘のシルのものとよく似ていた。
絵の左下に書かれた号“胡水”は、書き走って右上がりになったのを、2文字目で無意識に上手くバランスを取っている。筆慣れしたやわらかな字体だった。
彼の筆跡が妙に今、王様には愛おしい。その文字を見るたび、娘のシルにケトンを産ませたことを、強く責められているようで心苦しくもある。いずれにしろ本人に聞いてみる機会は永遠に失われていた。
内官が再び軒先から声をかけても、王様の返事はなかった。
障子にぴったりと耳を擦り寄せ、眉を潜めた。やはり何の物音もしない。
指でつまんだ丸金具を少し押し、扉の中をのぞいてみる。誰もいないようだ。
勢い扉をバタンと開けた拍子に、奥で仰向けに横たわった王様と内官の目が合った。王様はじろりと横目で内官を睨んだ。
「大変失礼を致しました。お声をかけましたがお返事がないもので、具合でも悪くなさったのかと…」
「なに。少し疲れたので休んでいただけだ」
すだれの隙間から光があちこち漏れ、露のように眩しい。暮れかけのやわらかな光を浴びて梅屏風が神々しく輝いた。それを背にし王様はゆっくりと起きあがり、まげの具合を確かめるように金のかんざしへ手を当てた。
内官は会釈したまま扉をぴたりと閉めた。護衛が慌ててそばに駆け寄って、どうかしたのかと内官に尋ねたが、「いや、まだ何事もない…」と首を小さく横にふった。
いったん沈みかけた太陽は山の向こうへ一気に落ちた。そろそろ酉の刻だった。
王様は白磁の水入れをつかんで、硯の中へ回しかけ、墨をすった。
さっきの箇条書きの手紙はくしゃりと後ろへ放りやって、再び新しい紙を敷き直した。
やる気が回復したようだ。最初に書いた方の手紙を参考にしながら、無駄を省きつつ、軽く持った筆先でとんとんと書いていった。いつも機嫌の良いイ・オンの顔が自然と思い浮かんできた。
ようやく出来あがった手紙を長封筒に入れ、文机にのせた。
そのときアンの置いていった風呂敷包が目に留ったのだ。
包みをほどいてみると、くの字に編んだ竹籠に色とりどりの祝菓子がきれいに並べられていた。ちょうど腹が空いたところだ。
ふんわり揚げた棒状の餅の表面に、ゴマや干し粒をまぶしている。よもぎやかぼちゃを練り込んで色をつけたのだろう。木枠で蒸された白餅はブロックのように美しい。赤いナツメを花びら状に飾り、葉に見たてた種がのせてある。薄く伸ばした生地をねじって、笹のような色と形に仕上げたものは小麦粉の揚げ菓子だ。その他にも松葉の紋様を型押しした落雁や、黒ゴマ、緑茶、きな粉、豆が美しい層になった蒸し餅など、どれも王様の目に馴染みのものばかりだった。
ところが左下の隅の方に、例の白い薯饅頭が遠慮がちに詰めてある。これが中央に堂々と入っていたなら、生意気に感じたはずだ。気弱さをあらわにしつつも、アン・チボクのそれでもあきらめきれない思いが、竹籠の隅にくすぶっているかのようであった。
戌の刻にイ・オンが約束通り手紙を取りに来た。それから随分と長い間、2人は部屋に閉じこもっていた。
内官はときどき障子扉を気にして見た。もっぱら外へ漏れて来るのはイ・オンのどら声ばかりであった。彼がお喋りであることはわかっている。
途中でパク尚宮が夜食を持って部屋へ入っていった。金のお椀に、さじと箸は銀製である。
鶏のだしで作ったもち米入りの粥には、ほぐれた鶏の身をのせた。うどんの方は干しシイタケのだし汁だ。温かいスープにキュウリとネギの千切りが浮かんで、胡椒と白ゴマがかかっている。別の皿にニラ、ネギ、ぜんまい、もやし、菜っ葉の和え物が用意された。
亥の刻。イ・オンがようやく帰って行くのを内官は見かけた。
「王様はすでにお休みなさいました。ですからそんな風に兵士どもをうろつかせないでください。犬がうるさく吠えたらお目覚めになってしまうではありませんか」
空になった器の膳を抱えて縁側の石段を下りてきたパク尚宮は、内官に向かって無愛想にこう吐き捨てたのだった。
2012/3/17更新
「ケトンの月」5話 月の伝説
モスリは白の短い衣に、薄い藍色のスカートでやって来た。胸から垂れた小豆色のリボンがいかにも婦人らしかった。その後ろへ隠れた白い方のリボンは、炊事の手などを拭くときのものだった。
入って良いと返事があるまでモスリは石段の前で待っていた。その背後に2列に並んだ敷石が見えた。
王様が返事をした途端、パク尚宮があからさまに扉を開けたのであった。扉は薄っぺらな音をたてた。美しいモスリとまともに正面から目を合わす事となり、王様は何となく気恥しさを覚えた。
パク尚宮と女官がお膳を1つずつ抱え、その後ろにモスリがついて入り、王様にゆっくりと会釈した。
先ほどまでの膳は厄払いでもするかのように、すぐに後ろへ下げられた。王様はそれが気心の知れたパク尚宮の心遣いのようにも思えた。パク尚宮が新しい膳をうやうやしく床へ下ろす間、幼子が母親を見守るようにその仕草をじっと眺めた。
膳にはお菓子がのっていた。ショウガ、かりん、冬瓜を蜂蜜で煮込んだその菓子は、王様の好みであった。薄切りにしてあるので色が透けて見え、輝く宝石のように美しかった。
パク尚宮は国内3名峰のうち1つで栽培された茶葉だと説明してから、使い終わった膳を抱え女官と部屋の外へ出て行った。
モスリと2人きりとなり、王様は猫背を伸ばした。モスリが来てから香木を炊いたように、部屋の雰囲気が変わったのだ。緊張の色を持ちつつ、不思議と気分を落ちつかせる。
王様は自分の分とモスリの器に緑茶を注いでやった。そして
「あれの話は本当に面白いよ」
と急にイ・オンの顔を思い出し調子づいた。モスリの夫のことである。あれほど風変わりな男も珍しい。出世など全く眼中になく、生まれもってのお喋りであった。
気さくで世話焼きな性格が災いしてか、いつも何かと忙しい。トリトル王子の乳母にと、かつて自分の妻を王妃に推薦したのもイ・オンだった。
「でも私には夫の話は何のことだかさっぱりで。王様が代わりによく話を聞いて下さいますので助かっております。本人もよほど嬉しいのでしょう、王様のご期待に応えようと、この頃は家に帰りましても都市の研究などに没頭しているようです」
「建築だけではない。やつは余にゴキブリの話まで聞かせたがる。動物、植物、石、なんでも興味の尽きることはない。どうしても行きたいというから後朱国へ留学させてやったものの、もう戻って来ないのではないかと随分と心配したものだよ」
王様は茶をひと口味わった。渋みが少なく、さわやかなブドウのような香りがする。
「王様に呼び戻されて帰国致しましたけど、未練が残るようです。またいつか行きたいと口癖のように申しております」
「いいや。呼び戻したことは、あの者にとって良かったのだ。そなたという最高の伴侶を得られたのだからなぁ…」
王様は笑いながら、しかしどこか半分は気がかりがあるように、顔を影にしてうつむいた。そうしてくるりくるりと器の中で茶を回した。実際、言わなければならないことがあった。
「ケトン王子は今どこにいらっしゃるのでしょうか。すぐに預かって行きたいと思いますが」
「あぁ、犬宿房でシルが寝かせているはずだよ。そなたには生まれたばかりの赤子がいるというのに、この度はまたケトンの世話まで申し訳ないな。しかしシルにはどうしても犬宿房へ復帰して貰わなければならん。犬の世話だけなら他の者でも何とかなろうが、あれには研究を任せておる。父親譲りで絵も上手いし、男であれば優秀な学者になれたであろうに」
「私のことなら本当にご心配は及びません。私も当時は最初の子を亡くしたばかりでしたので、トリトル王子のお世話をすることで救われたのでございます。犬は後朱国から賜ったとても珍しい品種だとか」
「面倒なものをくれたものだよ。もし死なせでもしたら、文句を言ってくる気であろう」と冗談半分に言ったあと、王様はため息を吐いて、「実はケトンの事で一つ、言っておかねばならぬことがある」とようやく本題に入った。
「一体、何でしょうか?」
モスリと視線の合った王様は、静かに目をそらした。モスリは一重のわりに瞳が幼子のように大きかった。
王様の憂うつな表情から、モスリはこれまでの会話が全て前置きだったのを感じた。
「ケトンの左の人差し指にホクロがある。三日月型のほくろのことだ。これを誰にも見せてはならん。また言ってもならん」
「王子様に三日月のほくろがあるのですか…? でもなぜ秘密にされるのでしょう」
「“高僧遺歌伝”の童謡を聞いたことがあるかね?」
大きな身分の違いはあっても、こうして人と向きあうときの王様は、相手にそう感じさせなかった。かえって下級役人の方がいばり散らしているのをモスリは常日頃から見て知っていたのだった。
モスリはその本のことをよく知らないと答えた。
「始祖は自分の見た夢の話をその本の中で高僧に語っておる。それによると傾きかけた家から子犬が出て来たそうじゃ。犬はハシゴを真っすぐに立てかけると、屋根へのぼったという」
夢から覚めた始祖は満足そうに笑った。後世に誕生する聖君が国を立て直し、やがて長い平和をもたらすであろう。そう高僧に予言したのだった。傾きかけた家は国を、家から出て来た子犬は王子を意味した。
王様は筆を手に取り、文机の棚から半紙を1枚、無造作に出して広げた。そして墨も付けずに月の文字を書いた。筆先は激しく割れかすれた。そう難しくもない文字をわざわざ書いて見せたのは、字を習わない者が多いので王様が気遣われたためだろうとモスリは思った。
「月の文字はハシゴをあらわす。つまり子犬が月をのぼるとは、王子が国の上に立つということだ」
「ではハシゴをのぼった子犬がケトン王子ということなのでしょうか…?」
「この話はあくまで迷信に過ぎん。だが偶然にもケトンには月のホクロがある。それが却って災いになりはしないかと心配なのだよ」
モスリは口にするのを迷いながらも、前々から疑問に思っていた点を一つ尋ねた。
「恐れながら王様。なぜ王子様にケトンとお付けになられたのでしょうか」
「ひどいと思うかね? 我が息子を犬クソなどと」
「失礼ながら、お名前をうかがったときには、王様はお子様のご誕生をあまり喜んでいなものと想像しておりました」
「重臣らも最初はそう思ったに違いない。それが余の狙いでもあった。だがパン・ダンは違ったのだ」
博学自慢のパン・ダンが「高僧遺歌伝」を知らぬはずはない。月見会での様子を見てもケトンの存在を警戒していたのがありあり見てとれた。月のほくろについて知られる事は、それこそ災いの種になりかねない。
モスリと話していると、王様の気持ちはすっきりした。モスリの心の中では良いこと悪いことが、きちんと整理されているように見えた。そのため王妃のように想像の悪夢に惑わされることもない。モスリが迷うのは現実に対して判断が難しいことのみだった。
「さぁ。久々にそなたの歌声を余にも聴かせて貰えんか。だいぶ声の方は衰えたかね」
これにはモスリが医女になりかけの頃に、歌に秀でていることが知れて、公の宴席で重宝されるようになった経緯がある。水害と飢饉の際に宮中でリストラが行われたのを機に、務めを退き、イ・オンと結婚したのだった。
「どうでしょう。最近は子守唄しかやりませんので自分でもよくわかりません。何を歌いましょうか」
「”ジョンドはどこへ行った”がよいだろう」
王様は器を膳へ戻して、目をつぶった。
歌いはじめは、すっと水が澄んだような響きだった。低い声が針で割れそうなほど透き通って、弦楽器のように2重、3重にも聴こえる。川底へゆったり体が沈み込む心地がするのは、若かった頃に比べ、モスリの声質に深みが加わったせいだと王様は感じた。
ジョンドよ、どこへ行ったか
風をのぼるトビのように
果てに消えていった
どこかで生きて目を開けているなら
この美しい月も見えるでしょうに
ジョンドよ、どこへ行ったか
いかだを離れた牡蠣ガラのように
底に落ちていった
腹を空かせてテグスを垂れているなら
この水面の月も見えるでしょうに
「そなたにもう一つ詫びることがある…」
と王様がしみじみ呟くのを聞いて、モスリは歌うのを静かにやめた。
「月見会で宝玉が紛失しことを、そなたもイ・オンから聞いてはいないだろうか? やもえず新しく作り直すことにしたのだ。玉は国の宝に最もふさわしいものでなければならぬ。イ・オンはこれから各地の採掘場を飛び回ることになるだろう」
いくら夫がお喋りでも重大な秘密事項を自分に漏らすはずはない。こんな事をむやみに口にするとは、王様はよほど大きな心配事でもあるのではないかと、モスリは何か嫌な感じがしたのである。
2012/3/10更新
入って良いと返事があるまでモスリは石段の前で待っていた。その背後に2列に並んだ敷石が見えた。
王様が返事をした途端、パク尚宮があからさまに扉を開けたのであった。扉は薄っぺらな音をたてた。美しいモスリとまともに正面から目を合わす事となり、王様は何となく気恥しさを覚えた。
パク尚宮と女官がお膳を1つずつ抱え、その後ろにモスリがついて入り、王様にゆっくりと会釈した。
先ほどまでの膳は厄払いでもするかのように、すぐに後ろへ下げられた。王様はそれが気心の知れたパク尚宮の心遣いのようにも思えた。パク尚宮が新しい膳をうやうやしく床へ下ろす間、幼子が母親を見守るようにその仕草をじっと眺めた。
膳にはお菓子がのっていた。ショウガ、かりん、冬瓜を蜂蜜で煮込んだその菓子は、王様の好みであった。薄切りにしてあるので色が透けて見え、輝く宝石のように美しかった。
パク尚宮は国内3名峰のうち1つで栽培された茶葉だと説明してから、使い終わった膳を抱え女官と部屋の外へ出て行った。
モスリと2人きりとなり、王様は猫背を伸ばした。モスリが来てから香木を炊いたように、部屋の雰囲気が変わったのだ。緊張の色を持ちつつ、不思議と気分を落ちつかせる。
王様は自分の分とモスリの器に緑茶を注いでやった。そして
「あれの話は本当に面白いよ」
と急にイ・オンの顔を思い出し調子づいた。モスリの夫のことである。あれほど風変わりな男も珍しい。出世など全く眼中になく、生まれもってのお喋りであった。
気さくで世話焼きな性格が災いしてか、いつも何かと忙しい。トリトル王子の乳母にと、かつて自分の妻を王妃に推薦したのもイ・オンだった。
「でも私には夫の話は何のことだかさっぱりで。王様が代わりによく話を聞いて下さいますので助かっております。本人もよほど嬉しいのでしょう、王様のご期待に応えようと、この頃は家に帰りましても都市の研究などに没頭しているようです」
「建築だけではない。やつは余にゴキブリの話まで聞かせたがる。動物、植物、石、なんでも興味の尽きることはない。どうしても行きたいというから後朱国へ留学させてやったものの、もう戻って来ないのではないかと随分と心配したものだよ」
王様は茶をひと口味わった。渋みが少なく、さわやかなブドウのような香りがする。
「王様に呼び戻されて帰国致しましたけど、未練が残るようです。またいつか行きたいと口癖のように申しております」
「いいや。呼び戻したことは、あの者にとって良かったのだ。そなたという最高の伴侶を得られたのだからなぁ…」
王様は笑いながら、しかしどこか半分は気がかりがあるように、顔を影にしてうつむいた。そうしてくるりくるりと器の中で茶を回した。実際、言わなければならないことがあった。
「ケトン王子は今どこにいらっしゃるのでしょうか。すぐに預かって行きたいと思いますが」
「あぁ、犬宿房でシルが寝かせているはずだよ。そなたには生まれたばかりの赤子がいるというのに、この度はまたケトンの世話まで申し訳ないな。しかしシルにはどうしても犬宿房へ復帰して貰わなければならん。犬の世話だけなら他の者でも何とかなろうが、あれには研究を任せておる。父親譲りで絵も上手いし、男であれば優秀な学者になれたであろうに」
「私のことなら本当にご心配は及びません。私も当時は最初の子を亡くしたばかりでしたので、トリトル王子のお世話をすることで救われたのでございます。犬は後朱国から賜ったとても珍しい品種だとか」
「面倒なものをくれたものだよ。もし死なせでもしたら、文句を言ってくる気であろう」と冗談半分に言ったあと、王様はため息を吐いて、「実はケトンの事で一つ、言っておかねばならぬことがある」とようやく本題に入った。
「一体、何でしょうか?」
モスリと視線の合った王様は、静かに目をそらした。モスリは一重のわりに瞳が幼子のように大きかった。
王様の憂うつな表情から、モスリはこれまでの会話が全て前置きだったのを感じた。
「ケトンの左の人差し指にホクロがある。三日月型のほくろのことだ。これを誰にも見せてはならん。また言ってもならん」
「王子様に三日月のほくろがあるのですか…? でもなぜ秘密にされるのでしょう」
「“高僧遺歌伝”の童謡を聞いたことがあるかね?」
大きな身分の違いはあっても、こうして人と向きあうときの王様は、相手にそう感じさせなかった。かえって下級役人の方がいばり散らしているのをモスリは常日頃から見て知っていたのだった。
モスリはその本のことをよく知らないと答えた。
「始祖は自分の見た夢の話をその本の中で高僧に語っておる。それによると傾きかけた家から子犬が出て来たそうじゃ。犬はハシゴを真っすぐに立てかけると、屋根へのぼったという」
夢から覚めた始祖は満足そうに笑った。後世に誕生する聖君が国を立て直し、やがて長い平和をもたらすであろう。そう高僧に予言したのだった。傾きかけた家は国を、家から出て来た子犬は王子を意味した。
王様は筆を手に取り、文机の棚から半紙を1枚、無造作に出して広げた。そして墨も付けずに月の文字を書いた。筆先は激しく割れかすれた。そう難しくもない文字をわざわざ書いて見せたのは、字を習わない者が多いので王様が気遣われたためだろうとモスリは思った。
「月の文字はハシゴをあらわす。つまり子犬が月をのぼるとは、王子が国の上に立つということだ」
「ではハシゴをのぼった子犬がケトン王子ということなのでしょうか…?」
「この話はあくまで迷信に過ぎん。だが偶然にもケトンには月のホクロがある。それが却って災いになりはしないかと心配なのだよ」
モスリは口にするのを迷いながらも、前々から疑問に思っていた点を一つ尋ねた。
「恐れながら王様。なぜ王子様にケトンとお付けになられたのでしょうか」
「ひどいと思うかね? 我が息子を犬クソなどと」
「失礼ながら、お名前をうかがったときには、王様はお子様のご誕生をあまり喜んでいなものと想像しておりました」
「重臣らも最初はそう思ったに違いない。それが余の狙いでもあった。だがパン・ダンは違ったのだ」
博学自慢のパン・ダンが「高僧遺歌伝」を知らぬはずはない。月見会での様子を見てもケトンの存在を警戒していたのがありあり見てとれた。月のほくろについて知られる事は、それこそ災いの種になりかねない。
モスリと話していると、王様の気持ちはすっきりした。モスリの心の中では良いこと悪いことが、きちんと整理されているように見えた。そのため王妃のように想像の悪夢に惑わされることもない。モスリが迷うのは現実に対して判断が難しいことのみだった。
「さぁ。久々にそなたの歌声を余にも聴かせて貰えんか。だいぶ声の方は衰えたかね」
これにはモスリが医女になりかけの頃に、歌に秀でていることが知れて、公の宴席で重宝されるようになった経緯がある。水害と飢饉の際に宮中でリストラが行われたのを機に、務めを退き、イ・オンと結婚したのだった。
「どうでしょう。最近は子守唄しかやりませんので自分でもよくわかりません。何を歌いましょうか」
「”ジョンドはどこへ行った”がよいだろう」
王様は器を膳へ戻して、目をつぶった。
歌いはじめは、すっと水が澄んだような響きだった。低い声が針で割れそうなほど透き通って、弦楽器のように2重、3重にも聴こえる。川底へゆったり体が沈み込む心地がするのは、若かった頃に比べ、モスリの声質に深みが加わったせいだと王様は感じた。
ジョンドよ、どこへ行ったか
風をのぼるトビのように
果てに消えていった
どこかで生きて目を開けているなら
この美しい月も見えるでしょうに
ジョンドよ、どこへ行ったか
いかだを離れた牡蠣ガラのように
底に落ちていった
腹を空かせてテグスを垂れているなら
この水面の月も見えるでしょうに
「そなたにもう一つ詫びることがある…」
と王様がしみじみ呟くのを聞いて、モスリは歌うのを静かにやめた。
「月見会で宝玉が紛失しことを、そなたもイ・オンから聞いてはいないだろうか? やもえず新しく作り直すことにしたのだ。玉は国の宝に最もふさわしいものでなければならぬ。イ・オンはこれから各地の採掘場を飛び回ることになるだろう」
いくら夫がお喋りでも重大な秘密事項を自分に漏らすはずはない。こんな事をむやみに口にするとは、王様はよほど大きな心配事でもあるのではないかと、モスリは何か嫌な感じがしたのである。
2012/3/10更新
「ケトンの月」4話 尊い袋、忘れ水
王様が再び里山の別邸に足を運んだのはトリトル王子の6歳の誕生日の3日前。一泊二日の滞在予定であった。
周囲に田んぼとあぜ道が広がる。奥は上りになっており、小さな畑が並ぶ。突き当たりの高台に突如、田舎の風景とは不釣り合いな塀が現れる。草と土、川石を混ぜて作られたその瓦塀は、一体どこまで続くのか木々に埋もれて見えない。山と庭の境さえも区別がつかなかった。
敷地内の囲い場の犬たちが、一斉に吠えたてた。
北風を受け、天にも届きそうな竹林が、垂れ枝を左右に大きくしならせた。冬でも濃緑の茂った丸い木々は、砂埃を払い落すかのように激しく上下に揺れている。
まだ羊の刻なのに、モスリがもう来たのかと思い、王様は障子の外へ声をかけた。
「いいえ、王様。犬たちがあの者に吠えたことは一度もございません。通いの犬番が訳も分からず裏口から見知らぬ男を入れてしまったのです」
「その見知らぬ男は何しに来た」
「それがどうしても月見会でのお詫びを王様に申し上げたいと居座っております。若い菓子職人なのですがご存じでしょうか。アン・チボクと名乗る者です」
(ああ。あの男か…)と王様は思った。痩せた姿と、負けん気の強い甲高い声が、ぼんやりと印象に残っている。宝玉の紛失騒ぎが気にかかって、あのとき男に何と言葉をかけたのか、よく覚えていない。
さては新作菓子を引っ提げて来たか。
若者の頑張りを応援したい気持ちも働いて、王様は尚宮に2人分の茶を用意するよう申しつけた。まげに金串を刺しただけの気楽な格好のせいか、王様の心もわりとそんな風であった。
尚宮は王様の命令に驚きを隠そうともしなかったが、朱塗りの膳を抱えた女官と一緒に、ちゃんと言われた通りアン・チボクを連れて戻って来た。
王様の方はというと、いざアンが来たことを知らされると、なぜか正体不明の憂うつに襲われた。しかし単に一瞬、そう感じただけのことである。
王様はまだ墨の乾き切らない手紙をふわりと半分に折り畳んだ。お膳は文机の横へ置かせた。
アン・チボクは衿だけが紺の綿入りの白い衣とズボン姿で現れた。捧げ物らしき大きな四角い風呂敷包を床に置くなり、額をこすりつけるようにしてお辞儀をした。それがなかなか頭をあげようとしないので、その隙に王様は、お茶の方はこっちで勝手に入れるから、もう退出してもよいと尚宮に伝えた。
お茶を入れかけた手を王様はいったんとめた。まだ十分に色が出ていないようだった。
急須のフタを取って見ると、裏返った黄色い菊が6つ、短い軸を見せて、ふわりとお湯の表面に浮かんでいた。
王様はフタを閉めてアン・チボクの分だけを器に注ぎ入れた。若いから薄茶の方が好みであろうと思った。お茶を勧めながら、今日は何の用事かと尋ねた。
「へぃ。お詫びとお礼、それに恐れながら、お尋ねしたいことが一つございまして」
「3つもあるのか。お前はなかなかよく張りであるな。ではまず詫びから聞こう」
「お詫びと申しますのは先日の月見会の件でございます。王様は小豆をお召し上がりにならないそうで…」
「なぜそれを知っておる?」
「パン・ダン様にうかがいました。王子様の6つのお誕生日のお祝いに、招待客への土産にする菓子の注文を頂いたのです。今日はそのお礼を王様に申し上げようと…」
「それがお詫びとお礼と言うわけだな。ははは。これは案外早く終わりそうじゃないか。では最後の項目と行こう。一つ聞きたいことがあるとは」
「へぃ。王様は近々、座を退かれるのでしょうか。皆がそう噂しております。宝剣を5歳の王子様へお渡しになったとか。私が月見会に参加したと聞いて、たびたび人に尋ねられるものですから。私はどう返事をしたら良いのでしょう」
こんなことをはっきり本人に聞いて来るとは、やはりまだ子供に近い分、怖い者知らずだ。もしくは教育を受けてないせいかもしれないと王様は思った。
「それは申し訳ないことをした。幸か不幸かまだ引退するつもりはない。そう皆に伝えるがよい」
「そうなりますと、宝物を分けられたのはいつか都を分散させようとのお気持ちからでしょうか」
王様はじろりとアン・チボクを見返した。彼の言葉を初めて真剣に受けとめたのだった。
いや。決していい加減な対応などしたつもりはなかったのに、今の言葉を聞く前と後では、やはり自分の怠慢さをどこかに感じざるを得なかった。
「なぜそのように思う? パン・ダンがそう言っていたか」
「いいえ。恐れながらこれは私の憶測に過ぎません。たび重なる川の氾濫で、この国は手をこまねいております。また西には巨大な後朱国が、東からは海を隔ててビワ国がいつ攻めて来るやもわかりません。都を分散させることで、物資や情報の連絡が効率よくいくように思ったのです。朝廷での癒着の広がりを抑える狙いもあるでしょう」
王様はお茶を自分の器に一気に注ぎ入れて、味わいもせず、しかしゆっくりと飲み干し、またすぐ次を注いだ。
目先の問題ばかりに気をとられ、必要以上に騒ぎ立てる重臣たちより、どうしてよほど冷静な考えを持っているではないか。
ふと風呂敷包の上の冊子が目について、
「これは何か?」と手にとった。
「へぃ。王子様のお誕生会のお土産に出す菓子の見本帳を、私が描いたものでございます」
ページをめくると、なるほど菓子の図案に材料や味など簡単な説明書きが細かな字で添えてある。
「この文字もお前が書いたのかね?」
「さようでございます」
「字を知っているとは。誰に教わった」
「自分で勉強致しました。人より先に動くためには世の中のあらゆる動きを知っておいた方がいいかと。それには書物が一番役立ちます」
「書物をよく読む?」
「小説本以外でしたら何でも読みます」
とげとげしいと思ったアンの声は、こうして落ち着いて話しているときには、こだまのような深い丸味を帯びた。本来は聞き心地のいい声なのだろう。
文字は上手くない。子供の手習いのように、きちんと跳ね、最後まではらい、力強い一の字は決して曲がらず、繋ぎ目できっちり結ばれている。縦の棒はより内へと向かいたがって、余白が減り窮屈に見える。どうも几帳面な性質のようだ。
「将来は独立して自分の店を持つ気であろう」
と質問しながら、あるいはこの様子ではすでに、かなりの準備をしているのかもしれないと考え直した。
「いいえ、王様。私にとって菓子作りはさらなる上を目指すための手段に過ぎません。今までは菓子作りが最善策のように思われました。貧しい私には選択の余地が少なかったのです」
とアン・チボクの口から意外な答えがかえってきた。
「では一体そなたは、本当はどこまで行きたいのだ」
「行けるところまでです。目指せるものなら、はるか頂点でも。物を作るという意味においては、菓子も都も同じではありませんか」
生意気な若造だ…と王様は思った。しかし王様の目にアン・チボクは怯えた犬も同じだった。チボクの声から先ほどの温かみは消え、代わりに胃の震えがこちらまで伝わった。
王様はお茶をもうひと口すすった。自分のために3杯目を入れ、急須にまだ少しお湯を残した。
生意気なことを言ったのをアン自身も自覚しているようだ。出されたお茶を飲むことさえできないでいる。
「そなたに一つ贈り物を与えよう。その場に両手を出してみなさい」
僧侶のような穏やかな口調に、チボクの緊張は癒された。しかし手を出してみろとは一体どういうことかと戸惑いながら、両方の手の平を上へ向けた。
王様はゆっくりとチボクの手に物を置く仕草をし、
「そなたの右手に余はたった今、尊い袋をのせた。そして左手にあるのは忘れ水の入ったとっくりじゃ。尊い袋はそなたの最も大切に思うものが入っておる。忘れ水を飲むことは良いとも悪いとも言えぬ。新しいものには常に強い力がみなぎる。そのために人は、それにあらがうことが出来ずに考えを変えはじめる。古いものを忘れ去り、新しいものに従おうとする。さて。そなたに問う。今そなたの尊い袋に入っているものは何か」
チボクはしばらくうつむいて、
「私が今、最も大切に思うもの…。それは転機でございます」ときっぱり答えた。
「私のような貧しい者が転機を手に入れるためには、命も惜しまない覚悟です。しかし一旦、手に入れてしまえば、あとは階段をのぼるだけ。のぼりはじめるよりも、最初に立つことの方が遥かに難しいことのように思います」
「そなたもこの国の者であれば日頃から川をよく目にしておろう。曲がりくねった川をいくら人の手で真っすぐに直したところで、川はもとの痕跡をたどりたがる。そうやって無理に手にしたものは、自然ともとの姿へと押し戻されて行くものなのだ」
王様は若者の浅はかな考えを戒めようと試みた。とここで、障子の外でモスリの来訪を告げる尚宮の声がしたのであった。
「もうそんな時間か」と、王様はしばらくぶりのように大きく息をついた。
アン・チボクとの話につい夢中になり、時間の経つのを忘れていた。
「そなたはまだ若い。しかし当然すぐ年もとる。人生の節目に尊い袋の中身をのぞいてみなさい。そうして自分の歩んで来た道が正しいものであったか確認するがよい」
アン・チボクは我に返ったような、うつろな表情で立ちあがった。果たして王様の最後の言葉をアンが聞いていたのか見当もつかない。アン・チボクはただ逃げ去る人のように部屋をあとにした。
王様はアンの残していった菓子の見本帳と風呂敷包をとりあえず文机のそばへ寄せた。
急須のフタを開けると、すっかり黄色くなったお湯に、ふやけた菊の花びらが散らばっている。それが虫の羽のように見え、汚らしかった。
2012/3/3更新
周囲に田んぼとあぜ道が広がる。奥は上りになっており、小さな畑が並ぶ。突き当たりの高台に突如、田舎の風景とは不釣り合いな塀が現れる。草と土、川石を混ぜて作られたその瓦塀は、一体どこまで続くのか木々に埋もれて見えない。山と庭の境さえも区別がつかなかった。
敷地内の囲い場の犬たちが、一斉に吠えたてた。
北風を受け、天にも届きそうな竹林が、垂れ枝を左右に大きくしならせた。冬でも濃緑の茂った丸い木々は、砂埃を払い落すかのように激しく上下に揺れている。
まだ羊の刻なのに、モスリがもう来たのかと思い、王様は障子の外へ声をかけた。
「いいえ、王様。犬たちがあの者に吠えたことは一度もございません。通いの犬番が訳も分からず裏口から見知らぬ男を入れてしまったのです」
「その見知らぬ男は何しに来た」
「それがどうしても月見会でのお詫びを王様に申し上げたいと居座っております。若い菓子職人なのですがご存じでしょうか。アン・チボクと名乗る者です」
(ああ。あの男か…)と王様は思った。痩せた姿と、負けん気の強い甲高い声が、ぼんやりと印象に残っている。宝玉の紛失騒ぎが気にかかって、あのとき男に何と言葉をかけたのか、よく覚えていない。
さては新作菓子を引っ提げて来たか。
若者の頑張りを応援したい気持ちも働いて、王様は尚宮に2人分の茶を用意するよう申しつけた。まげに金串を刺しただけの気楽な格好のせいか、王様の心もわりとそんな風であった。
尚宮は王様の命令に驚きを隠そうともしなかったが、朱塗りの膳を抱えた女官と一緒に、ちゃんと言われた通りアン・チボクを連れて戻って来た。
王様の方はというと、いざアンが来たことを知らされると、なぜか正体不明の憂うつに襲われた。しかし単に一瞬、そう感じただけのことである。
王様はまだ墨の乾き切らない手紙をふわりと半分に折り畳んだ。お膳は文机の横へ置かせた。
アン・チボクは衿だけが紺の綿入りの白い衣とズボン姿で現れた。捧げ物らしき大きな四角い風呂敷包を床に置くなり、額をこすりつけるようにしてお辞儀をした。それがなかなか頭をあげようとしないので、その隙に王様は、お茶の方はこっちで勝手に入れるから、もう退出してもよいと尚宮に伝えた。
お茶を入れかけた手を王様はいったんとめた。まだ十分に色が出ていないようだった。
急須のフタを取って見ると、裏返った黄色い菊が6つ、短い軸を見せて、ふわりとお湯の表面に浮かんでいた。
王様はフタを閉めてアン・チボクの分だけを器に注ぎ入れた。若いから薄茶の方が好みであろうと思った。お茶を勧めながら、今日は何の用事かと尋ねた。
「へぃ。お詫びとお礼、それに恐れながら、お尋ねしたいことが一つございまして」
「3つもあるのか。お前はなかなかよく張りであるな。ではまず詫びから聞こう」
「お詫びと申しますのは先日の月見会の件でございます。王様は小豆をお召し上がりにならないそうで…」
「なぜそれを知っておる?」
「パン・ダン様にうかがいました。王子様の6つのお誕生日のお祝いに、招待客への土産にする菓子の注文を頂いたのです。今日はそのお礼を王様に申し上げようと…」
「それがお詫びとお礼と言うわけだな。ははは。これは案外早く終わりそうじゃないか。では最後の項目と行こう。一つ聞きたいことがあるとは」
「へぃ。王様は近々、座を退かれるのでしょうか。皆がそう噂しております。宝剣を5歳の王子様へお渡しになったとか。私が月見会に参加したと聞いて、たびたび人に尋ねられるものですから。私はどう返事をしたら良いのでしょう」
こんなことをはっきり本人に聞いて来るとは、やはりまだ子供に近い分、怖い者知らずだ。もしくは教育を受けてないせいかもしれないと王様は思った。
「それは申し訳ないことをした。幸か不幸かまだ引退するつもりはない。そう皆に伝えるがよい」
「そうなりますと、宝物を分けられたのはいつか都を分散させようとのお気持ちからでしょうか」
王様はじろりとアン・チボクを見返した。彼の言葉を初めて真剣に受けとめたのだった。
いや。決していい加減な対応などしたつもりはなかったのに、今の言葉を聞く前と後では、やはり自分の怠慢さをどこかに感じざるを得なかった。
「なぜそのように思う? パン・ダンがそう言っていたか」
「いいえ。恐れながらこれは私の憶測に過ぎません。たび重なる川の氾濫で、この国は手をこまねいております。また西には巨大な後朱国が、東からは海を隔ててビワ国がいつ攻めて来るやもわかりません。都を分散させることで、物資や情報の連絡が効率よくいくように思ったのです。朝廷での癒着の広がりを抑える狙いもあるでしょう」
王様はお茶を自分の器に一気に注ぎ入れて、味わいもせず、しかしゆっくりと飲み干し、またすぐ次を注いだ。
目先の問題ばかりに気をとられ、必要以上に騒ぎ立てる重臣たちより、どうしてよほど冷静な考えを持っているではないか。
ふと風呂敷包の上の冊子が目について、
「これは何か?」と手にとった。
「へぃ。王子様のお誕生会のお土産に出す菓子の見本帳を、私が描いたものでございます」
ページをめくると、なるほど菓子の図案に材料や味など簡単な説明書きが細かな字で添えてある。
「この文字もお前が書いたのかね?」
「さようでございます」
「字を知っているとは。誰に教わった」
「自分で勉強致しました。人より先に動くためには世の中のあらゆる動きを知っておいた方がいいかと。それには書物が一番役立ちます」
「書物をよく読む?」
「小説本以外でしたら何でも読みます」
とげとげしいと思ったアンの声は、こうして落ち着いて話しているときには、こだまのような深い丸味を帯びた。本来は聞き心地のいい声なのだろう。
文字は上手くない。子供の手習いのように、きちんと跳ね、最後まではらい、力強い一の字は決して曲がらず、繋ぎ目できっちり結ばれている。縦の棒はより内へと向かいたがって、余白が減り窮屈に見える。どうも几帳面な性質のようだ。
「将来は独立して自分の店を持つ気であろう」
と質問しながら、あるいはこの様子ではすでに、かなりの準備をしているのかもしれないと考え直した。
「いいえ、王様。私にとって菓子作りはさらなる上を目指すための手段に過ぎません。今までは菓子作りが最善策のように思われました。貧しい私には選択の余地が少なかったのです」
とアン・チボクの口から意外な答えがかえってきた。
「では一体そなたは、本当はどこまで行きたいのだ」
「行けるところまでです。目指せるものなら、はるか頂点でも。物を作るという意味においては、菓子も都も同じではありませんか」
生意気な若造だ…と王様は思った。しかし王様の目にアン・チボクは怯えた犬も同じだった。チボクの声から先ほどの温かみは消え、代わりに胃の震えがこちらまで伝わった。
王様はお茶をもうひと口すすった。自分のために3杯目を入れ、急須にまだ少しお湯を残した。
生意気なことを言ったのをアン自身も自覚しているようだ。出されたお茶を飲むことさえできないでいる。
「そなたに一つ贈り物を与えよう。その場に両手を出してみなさい」
僧侶のような穏やかな口調に、チボクの緊張は癒された。しかし手を出してみろとは一体どういうことかと戸惑いながら、両方の手の平を上へ向けた。
王様はゆっくりとチボクの手に物を置く仕草をし、
「そなたの右手に余はたった今、尊い袋をのせた。そして左手にあるのは忘れ水の入ったとっくりじゃ。尊い袋はそなたの最も大切に思うものが入っておる。忘れ水を飲むことは良いとも悪いとも言えぬ。新しいものには常に強い力がみなぎる。そのために人は、それにあらがうことが出来ずに考えを変えはじめる。古いものを忘れ去り、新しいものに従おうとする。さて。そなたに問う。今そなたの尊い袋に入っているものは何か」
チボクはしばらくうつむいて、
「私が今、最も大切に思うもの…。それは転機でございます」ときっぱり答えた。
「私のような貧しい者が転機を手に入れるためには、命も惜しまない覚悟です。しかし一旦、手に入れてしまえば、あとは階段をのぼるだけ。のぼりはじめるよりも、最初に立つことの方が遥かに難しいことのように思います」
「そなたもこの国の者であれば日頃から川をよく目にしておろう。曲がりくねった川をいくら人の手で真っすぐに直したところで、川はもとの痕跡をたどりたがる。そうやって無理に手にしたものは、自然ともとの姿へと押し戻されて行くものなのだ」
王様は若者の浅はかな考えを戒めようと試みた。とここで、障子の外でモスリの来訪を告げる尚宮の声がしたのであった。
「もうそんな時間か」と、王様はしばらくぶりのように大きく息をついた。
アン・チボクとの話につい夢中になり、時間の経つのを忘れていた。
「そなたはまだ若い。しかし当然すぐ年もとる。人生の節目に尊い袋の中身をのぞいてみなさい。そうして自分の歩んで来た道が正しいものであったか確認するがよい」
アン・チボクは我に返ったような、うつろな表情で立ちあがった。果たして王様の最後の言葉をアンが聞いていたのか見当もつかない。アン・チボクはただ逃げ去る人のように部屋をあとにした。
王様はアンの残していった菓子の見本帳と風呂敷包をとりあえず文机のそばへ寄せた。
急須のフタを開けると、すっかり黄色くなったお湯に、ふやけた菊の花びらが散らばっている。それが虫の羽のように見え、汚らしかった。
2012/3/3更新
「ケトンの月」3話 チボクの返事
翌日は朝から天気がどうもすっきりしなかった。
会議は毎朝、尊政堂にて行われる。
尊政堂の屏風絵「月三峰大河図」には陰河国の3つの名峰と川が描かれている。
山は中心から外側に向かって年輪のように色が重なり、風にそよぐ川は黒の縁どり線で横へと流れ、木橋の柱の数だけ、水面に伸びる月光が揺らぐ。
一方で空は、濃淡もなしに紺一色でペイントされ、右側には金とも銀ともつかない色合いの月が浮かぶ。
王様の椅子は屏風の前の高座にあり、朱色の背もたれの両端が金龍の飾りになっている。重臣たちは床の座布団に座った。
王様は昨夜の件について、改めて説明を求められたのである。
文机に紙を広げた速記係が、さらさらとパン・ダンの発言を書き留めた。
「宝剣に続いて、神玉についても譲渡のお考えが王様におありではと心配の声が周囲からあがっておりますが、どうお考えでしょうか」
「宝物を分けて保管するのはあくまで安全の問題によるものだ」
王様は昨夜と同じ調子で弁明した。
「王様、では率直にお伺いします。恐れながら王様と王妃様の間には王子が1人おられますが、さらに5人の側室と、宮中の外に妾の存在も噂されております。その中で最も王様のお気召しておられる者が王子を産んだ場合、もしもその者が貧しい身分であった場合に、その者を母とする王子が将来、万に一つでも我が国の王になる可能性はございますか」
パン・ダンの大胆な質問に、重臣らのざわめきが起こった。
「信頼する部下や民衆の同意なしに、どうして余の一存で決められよう。ましてや余が今すぐ譲位すると言ったか? まだそのような話をする段階でない」
早く話にケリをつけたいばかりに、王様は窮屈な気分で投げやりに言った。速記係は一字一句、王様のそのお言葉を漏らさずに書き留めた。
重臣らは王様がはっきり否定しないことで、そういう考えが少しはあるのだろうと、何とはなしに思わざるを得なかった。
「輸送船の沈没事故の件はどうなったか報告せよ」
「はい。沖の荒波にのまれ、温州の新米120俵を失ったと」
「陸路か川からの輸送はできないのかね?」
王様のこの質問に関して、川路署の長官が答えた。
「温州地域は開発が困難で、なにぶん莫大な費用がかかります。そのうえ周辺地域と結ぶとなると壮大な事業となりますゆえ、とりあえず海上輸送に頼るほかないといったところが現状でございます。しかしながらゆくゆくにおきましては私が考えますに…」
「もうよい。つまり対策は何も進んでいないのだな。なにゆえ開発が困難なのか費用を含めてきちんと報告せよ。詳しい調査のための期間をひと月、いや3カ月やろう。納得のいく報告書を持ってこなければ、その時は処分するから心して取り組むがよい。皆も同様である。似たような被害が何度となく続き、いっこう解決の糸口が見えないでいるのは、心がたるんでいるからに他ならない」
川路署の長官は冷や汗を掻き掻き、ははーっと額を床へこすりつけるように丁寧に頭をさげた。
への字に口を曲げた別の長官の顔が瓜のように長くなった。悪いのは決して自分ではないと言わんばかりの目つきだった。
会議が終わったあと、池のほとりで待ち構えていた男が、パン・ダンの姿を見つけて駆け寄り、素早く会釈した。昨日、アン・チボクをパン・ダンのもとへ案内した猿顔の男だった。
今日は手に房飾りつきの刀を下げている。普段は兵署へ勤務しているが、裏の顔はパン・ダンの私兵組織の隊長であった。
「それで菓子屋の若い男の件はどうなった? こっちの提案を受け入れると言ってきたかね?」
「それが、アンのやつはまだ迷っているようでして…」
隊長は額に深いしわを寄せ、首を傾げた。動きはどこかリスのようである。
「なんだ。何を迷うことがある。身分を保証すると言っているのだ。あの男が天涯孤独という話は間違いあるまいな?」
パン・ダンはガッカリしたのか、苛立ちを見せた。
「はぁ。聞き込み調査によるところでは、アン・チボクの供述に嘘偽りはないようです。それより昨夜の件で、ちと気になることがございます。月見会の帰りに検問が強化されていたのはご存じでしょうか」
「質問せず要点だけを話せ」
「はい、すみませんです。小さな子供の荷物や靴まで念入りに調べていたらしいのですが、その件に関して兵署では何の連絡も受けておりません。その場にいたのは王宮殿の内官に王様直属の武官と兵士、それに司法府と財宝院の上官でした」
と説明したところで男は話を止めた。
パン・ダンの姿を見かけた二人の重臣が、近道をしようと森の斜面を下りてくる。どこもかしこも落葉のクッションが邪魔になって、ブーツの底に張り付くカエデを蹴り飛ばしながらだった。
「今晩、何時頃にお宅へ伺ったら良いかね?」
パン・ダンのそばへ来るやいなや、瓜顔の男がさっそく尋ねた。
パン・ダンの屋敷は重臣らの寄り合い所のようになっている。主に派閥の方針や金銭の相談、王様の決定に対する不満などをぶちまけることが多かった。
「今晩は予定があるのだ」とパン・ダンは珍しく断った。
アン・チボクが屋敷を出入りする現場をこの2人に見られてはまずい、と思ったのである。
心配症のキム・ヒョインが不意を突かれたような顔をして理由を聞きたがったが、パン・ダンはニヤリとした笑みの下に答えを隠した。
瓜顔の長官が口を半開きにして空を見上げた。ときどき薄日が射し込み、急に明るくなることがある。
白い雲の上には薄っすらした青が透けて見えた。
「天気は持ち直しそうですな」と呟き、引き続き池の方を眺め、「あれは何ですかな?」
池沿いに進むのは黒いうねり屋根の輿であった。
パン・ダンの私兵隊長が思い出したように、
「王様が政務を切り上げられ、親衛隊と共に外出されるようです」
「まだ申の刻ではないか。で、行く先は?」と長官はますます顔を長くする。
「犬の子が3匹、産まれたので見に行くと」
「後朱国の皇帝から授かったというあの変ちくりんな駒犬ですか?」
心配症のキム・ヒョインの声が裏返った。と言って自分で何が心配なのかわからない。パン・ダンの解説を待つばかりだった。
輿の小窓は房つきのすだれがかかっていて中は見えない。黒い漆塗りの輿の台が雲のデザインにくり抜かれていた。
輿をかつぐ男らの後ろを王宮殿の内官、女官、護衛がそぞろ歩くのを見つめながら、
「犬女に会いに行ったのだ。それと犬女の産んだ子にもな…」
とパン・ダンがわかりきったように不機嫌に答えた。
赤紅葉の見事な垂れ枝が池の上を這うように伸びている。
落葉が寄せ集まるのはなぜか水面の片側ばかりだった。
輿の一行はいかにもひっそりと進み、やがて茂みの陰に隠れていった。
これはパン・ダンの懸念がいよいよ信憑性を帯びてきたのではないか…?!
画家チャン・ミンホの娘に対する王様の入れ込みようは、もはや留まることを知らないように瓜顔と心配症には思えた。
「面白い話を教えてやろう。食保院で鯛2000枚を調達するよう指示が出ているそうだ」
とパン・ダンが言った。
「それが何か? トリトル王子の誕生日のお祝いの準備と聞いておりますが?」
「併せて祭事用の産着の注文が、王衣院の出納簿にあがっているのだ。妙だと思わんかね?」
「祭事用の産着とはまさか…! 犬女の子をその場でお披露目しようというのですか」
「王妃が強く反対している以上、チャン・ミンホの娘の宮廷入りは当然、許されまい。しかし赤子となると話は別だ。そろそろ生まれて百日になる。王様が赤子を正式に迎える日も近いということだよ」
重臣らは目を丸くして顔を見合わせた。
気付くと空からすっかり青みが消えている。雲の裏側からの強い光を受け、空一面が白く照り輝いた。
「今晩がダメなら、今だけでも少し話をしませんか?」
と瓜顔の重臣が、池の岸辺に建つ簡素な東屋に目をやりつつ、パン・ダンと心配症のキム・ヒョインを誘った。
東屋でのとりとめのない話が長引いたせいで、パン・ダンの帰宅時刻は予定より大幅に遅れた。空模様は悪くなり、とうとう雨が本降りになった。
パン・ダンは室内着に着替え、鶏冠のような形の柔らかい筒帽子をかぶった。
文机の周りに書物を重ね、しっかりした太いロウソクを床へ2本立てた。燭台は使い込まれ黒に近くなっている。受け皿部分はウロコ状に彫られた羽の模様になっており、そこから長いくちばしの2匹の鶴が左右の取っ手のように首をもたげていた。
大陸に栄えたまぼろしの国、鄙大国の翻訳に取り組んでいるところである。
狂気の帝王として名高い園帝は、一代で国を築いて独裁を振るった後、反勢力軍の攻撃に追い詰められ、最後には自ら都に火を放ち自害した。
世間の評価はどうあれ、貨幣を統一し、権力のすべてを都の中央に集めた園帝の独裁力を、パン・ダンは崇拝していた。
遅くまで作業をしたおかげで、今日の遅れは取り戻し、さらにもう少し先まで翻訳しようと思った矢先、「パン・ダン様…」と軒先に垂れる雨の内側から猿顔の私兵隊長が声をかけた。
パン・ダンは筆を置いた。
アン・チボクが返事を持ってやって来たようである。
2012/2/24更新
会議は毎朝、尊政堂にて行われる。
尊政堂の屏風絵「月三峰大河図」には陰河国の3つの名峰と川が描かれている。
山は中心から外側に向かって年輪のように色が重なり、風にそよぐ川は黒の縁どり線で横へと流れ、木橋の柱の数だけ、水面に伸びる月光が揺らぐ。
一方で空は、濃淡もなしに紺一色でペイントされ、右側には金とも銀ともつかない色合いの月が浮かぶ。
王様の椅子は屏風の前の高座にあり、朱色の背もたれの両端が金龍の飾りになっている。重臣たちは床の座布団に座った。
王様は昨夜の件について、改めて説明を求められたのである。
文机に紙を広げた速記係が、さらさらとパン・ダンの発言を書き留めた。
「宝剣に続いて、神玉についても譲渡のお考えが王様におありではと心配の声が周囲からあがっておりますが、どうお考えでしょうか」
「宝物を分けて保管するのはあくまで安全の問題によるものだ」
王様は昨夜と同じ調子で弁明した。
「王様、では率直にお伺いします。恐れながら王様と王妃様の間には王子が1人おられますが、さらに5人の側室と、宮中の外に妾の存在も噂されております。その中で最も王様のお気召しておられる者が王子を産んだ場合、もしもその者が貧しい身分であった場合に、その者を母とする王子が将来、万に一つでも我が国の王になる可能性はございますか」
パン・ダンの大胆な質問に、重臣らのざわめきが起こった。
「信頼する部下や民衆の同意なしに、どうして余の一存で決められよう。ましてや余が今すぐ譲位すると言ったか? まだそのような話をする段階でない」
早く話にケリをつけたいばかりに、王様は窮屈な気分で投げやりに言った。速記係は一字一句、王様のそのお言葉を漏らさずに書き留めた。
重臣らは王様がはっきり否定しないことで、そういう考えが少しはあるのだろうと、何とはなしに思わざるを得なかった。
「輸送船の沈没事故の件はどうなったか報告せよ」
「はい。沖の荒波にのまれ、温州の新米120俵を失ったと」
「陸路か川からの輸送はできないのかね?」
王様のこの質問に関して、川路署の長官が答えた。
「温州地域は開発が困難で、なにぶん莫大な費用がかかります。そのうえ周辺地域と結ぶとなると壮大な事業となりますゆえ、とりあえず海上輸送に頼るほかないといったところが現状でございます。しかしながらゆくゆくにおきましては私が考えますに…」
「もうよい。つまり対策は何も進んでいないのだな。なにゆえ開発が困難なのか費用を含めてきちんと報告せよ。詳しい調査のための期間をひと月、いや3カ月やろう。納得のいく報告書を持ってこなければ、その時は処分するから心して取り組むがよい。皆も同様である。似たような被害が何度となく続き、いっこう解決の糸口が見えないでいるのは、心がたるんでいるからに他ならない」
川路署の長官は冷や汗を掻き掻き、ははーっと額を床へこすりつけるように丁寧に頭をさげた。
への字に口を曲げた別の長官の顔が瓜のように長くなった。悪いのは決して自分ではないと言わんばかりの目つきだった。
会議が終わったあと、池のほとりで待ち構えていた男が、パン・ダンの姿を見つけて駆け寄り、素早く会釈した。昨日、アン・チボクをパン・ダンのもとへ案内した猿顔の男だった。
今日は手に房飾りつきの刀を下げている。普段は兵署へ勤務しているが、裏の顔はパン・ダンの私兵組織の隊長であった。
「それで菓子屋の若い男の件はどうなった? こっちの提案を受け入れると言ってきたかね?」
「それが、アンのやつはまだ迷っているようでして…」
隊長は額に深いしわを寄せ、首を傾げた。動きはどこかリスのようである。
「なんだ。何を迷うことがある。身分を保証すると言っているのだ。あの男が天涯孤独という話は間違いあるまいな?」
パン・ダンはガッカリしたのか、苛立ちを見せた。
「はぁ。聞き込み調査によるところでは、アン・チボクの供述に嘘偽りはないようです。それより昨夜の件で、ちと気になることがございます。月見会の帰りに検問が強化されていたのはご存じでしょうか」
「質問せず要点だけを話せ」
「はい、すみませんです。小さな子供の荷物や靴まで念入りに調べていたらしいのですが、その件に関して兵署では何の連絡も受けておりません。その場にいたのは王宮殿の内官に王様直属の武官と兵士、それに司法府と財宝院の上官でした」
と説明したところで男は話を止めた。
パン・ダンの姿を見かけた二人の重臣が、近道をしようと森の斜面を下りてくる。どこもかしこも落葉のクッションが邪魔になって、ブーツの底に張り付くカエデを蹴り飛ばしながらだった。
「今晩、何時頃にお宅へ伺ったら良いかね?」
パン・ダンのそばへ来るやいなや、瓜顔の男がさっそく尋ねた。
パン・ダンの屋敷は重臣らの寄り合い所のようになっている。主に派閥の方針や金銭の相談、王様の決定に対する不満などをぶちまけることが多かった。
「今晩は予定があるのだ」とパン・ダンは珍しく断った。
アン・チボクが屋敷を出入りする現場をこの2人に見られてはまずい、と思ったのである。
心配症のキム・ヒョインが不意を突かれたような顔をして理由を聞きたがったが、パン・ダンはニヤリとした笑みの下に答えを隠した。
瓜顔の長官が口を半開きにして空を見上げた。ときどき薄日が射し込み、急に明るくなることがある。
白い雲の上には薄っすらした青が透けて見えた。
「天気は持ち直しそうですな」と呟き、引き続き池の方を眺め、「あれは何ですかな?」
池沿いに進むのは黒いうねり屋根の輿であった。
パン・ダンの私兵隊長が思い出したように、
「王様が政務を切り上げられ、親衛隊と共に外出されるようです」
「まだ申の刻ではないか。で、行く先は?」と長官はますます顔を長くする。
「犬の子が3匹、産まれたので見に行くと」
「後朱国の皇帝から授かったというあの変ちくりんな駒犬ですか?」
心配症のキム・ヒョインの声が裏返った。と言って自分で何が心配なのかわからない。パン・ダンの解説を待つばかりだった。
輿の小窓は房つきのすだれがかかっていて中は見えない。黒い漆塗りの輿の台が雲のデザインにくり抜かれていた。
輿をかつぐ男らの後ろを王宮殿の内官、女官、護衛がそぞろ歩くのを見つめながら、
「犬女に会いに行ったのだ。それと犬女の産んだ子にもな…」
とパン・ダンがわかりきったように不機嫌に答えた。
赤紅葉の見事な垂れ枝が池の上を這うように伸びている。
落葉が寄せ集まるのはなぜか水面の片側ばかりだった。
輿の一行はいかにもひっそりと進み、やがて茂みの陰に隠れていった。
これはパン・ダンの懸念がいよいよ信憑性を帯びてきたのではないか…?!
画家チャン・ミンホの娘に対する王様の入れ込みようは、もはや留まることを知らないように瓜顔と心配症には思えた。
「面白い話を教えてやろう。食保院で鯛2000枚を調達するよう指示が出ているそうだ」
とパン・ダンが言った。
「それが何か? トリトル王子の誕生日のお祝いの準備と聞いておりますが?」
「併せて祭事用の産着の注文が、王衣院の出納簿にあがっているのだ。妙だと思わんかね?」
「祭事用の産着とはまさか…! 犬女の子をその場でお披露目しようというのですか」
「王妃が強く反対している以上、チャン・ミンホの娘の宮廷入りは当然、許されまい。しかし赤子となると話は別だ。そろそろ生まれて百日になる。王様が赤子を正式に迎える日も近いということだよ」
重臣らは目を丸くして顔を見合わせた。
気付くと空からすっかり青みが消えている。雲の裏側からの強い光を受け、空一面が白く照り輝いた。
「今晩がダメなら、今だけでも少し話をしませんか?」
と瓜顔の重臣が、池の岸辺に建つ簡素な東屋に目をやりつつ、パン・ダンと心配症のキム・ヒョインを誘った。
東屋でのとりとめのない話が長引いたせいで、パン・ダンの帰宅時刻は予定より大幅に遅れた。空模様は悪くなり、とうとう雨が本降りになった。
パン・ダンは室内着に着替え、鶏冠のような形の柔らかい筒帽子をかぶった。
文机の周りに書物を重ね、しっかりした太いロウソクを床へ2本立てた。燭台は使い込まれ黒に近くなっている。受け皿部分はウロコ状に彫られた羽の模様になっており、そこから長いくちばしの2匹の鶴が左右の取っ手のように首をもたげていた。
大陸に栄えたまぼろしの国、鄙大国の翻訳に取り組んでいるところである。
狂気の帝王として名高い園帝は、一代で国を築いて独裁を振るった後、反勢力軍の攻撃に追い詰められ、最後には自ら都に火を放ち自害した。
世間の評価はどうあれ、貨幣を統一し、権力のすべてを都の中央に集めた園帝の独裁力を、パン・ダンは崇拝していた。
遅くまで作業をしたおかげで、今日の遅れは取り戻し、さらにもう少し先まで翻訳しようと思った矢先、「パン・ダン様…」と軒先に垂れる雨の内側から猿顔の私兵隊長が声をかけた。
パン・ダンは筆を置いた。
アン・チボクが返事を持ってやって来たようである。
2012/2/24更新
「ケトンの月」2話 アン・チボク
おつきの男は10分ばかりして探すのをあきらめ、やはり見当たりませんでしたと肩を縮めて手をもんだ。
すると王様は、とにかく落ち付いて行動すること。壇上へあがった者は、持ち物検査が済むまで門から出さぬこと。王子には余が後で聞いてみる。指輪が消えたことは決して他へ漏らさぬよう念を押した。
催しの途中、壇上へあがった者は、王族を除くとごく少数に限られた。宣旨署の最高上官、内官、尚宮、女官の他に、あとは子供らと菓子職人だけである。
おつきの男は額にびっしょり汗をかきながら、小走りに階段を降りて、部下へ指示を出した。それからすぐまた王様のそばへ戻り、武官と兵士の一部が、人目につかないよう速やかに会場を立ち去るのを目で確認した。
重臣席へ月餅がふるまわれたあとは、菓子職人3名と王様が言葉を交わす時間だった。
王様がひと言か二言ずつ順にする質問に、菓子職人らが短めに答えていく。
3人目の痩せた若い男の番になり、まだ若そうだが修行をしてどのくらいになるかと王様が尋ねた。
「15の年から7年になります」と男は答え、うやむやに小さな黒い八角箱を差し出した。
「これは? 中に何か入っているのかね?」
「へぃ。私の作った菓子でございます。恐れながら、王様にご覧になって頂きたいのです」
予定外の行動におつきの内官が、八角箱を職人の手に押し戻そうとするのを、「まぁよいではないか」と王様が止めた。
「名は何と申す」
「へぇ。アン・チボクと申します」
「よし。箱を開けてみなさい」
チボクはフタを両手で持ち上げ、そばへ裏返しにして置いた。
何だ。たったこれだけか。わざわざ持ってくるからにはよほど珍しい物かと思ったが…と口に出しては言わないまでも、箱の中をのぞいた王様は怪訝な眼差しをチボクにやった。
白く真ん丸な饅頭である。
「今のところ、私のすべてを注ぎ込んだ一品でございます」
若さのせいか声に気負いがある。だがよく見ると無駄のない清潔な顔立ちだ。
「そうか」
と王様は菓子をつまんで饅頭を横から斜めからとしげしげ眺めた。
「王様。お食べになるおつもりですか? 先に毒見尚宮に味見をさせましょう」
「なに。構うものか」
王様はおつきの内官の不安をまったく問題にしなかった。
この男の白く餅のようにやわらかで繊細な手を見よ。一心不乱に生地を練り、菓子のために生きている手だ。毒など入っているはずがない。そんな風に思いながら饅頭をかじった。
王様が最初のひと口を飲み込むのを待つ間、内官とチボクには妙に時間が長く感じられた。
「口溶けが非常に良いな。材料は何か」
「へぇ。すりおろした山芋を生地に練り込んだ皮と、こしあんでございます」
「とてもおいしかった。名は何と言ったかな」
「薯饅頭とでも申しましょうか。まだきちんと考えてはおりません」
「いや、名というのはそなたのことだ」
「アン・チボクでございます」
チボクは恥ずかしそうに顔を赤らめ、ホッと肩の荷を下ろした。それと同時に王様が自分の名を確かめたことに舞いあがり目を輝かせた。
「もしお気に召して頂けましたら、ぜひ新作ができたおりにはお届けにあがりたいと思いますが」
「いや、その必要はない」
と王様はきっぱりと断った。そして白髪交じりのヒゲと口元を拭い、布巾を女官の持つ盆へ返した。
「…菓子はあまりお召しあがりにならないのですか?」
「いや。そうではない。そなたの菓子も悪くはない。それどころか味も良いし、非常に細やかで美しくもある。ただ余には必要なさそうだと思ったまでのことだ」
「私の菓子に何か足らないものがあるのでしょうか…?」
何とは言えないが、とにかくもう一つ胸をうつに至らないと、やもなく王様は答えた。
王様の好みは今や長年のうち舌に馴染んだものばかりであった。年を取るにつれ、特にその傾向が強くなってきた。
王様の歯切れの悪さはアンを迷わせ、アンの顔色を曇らせもした。
チボクの挫折感は王様の想像に及ばないほど深刻な影を落とした。
壇上から下がるよう内官に即され、チボクが他の菓子職人らと階段を下りてすぐ、王様は王子を急いでそばに呼んで、宝物のフタを開けなかったか、開けた者を見かけやしなかったか問うた。王子は全く身に覚えが無いらしく、不思議そうに目をぱちくりして首を小さく横に振った。
祭事のあと、正殿の門の外では残りの月餅が民衆にふるまわれた。
アンや会場内にいた子供らは、武官の誘導により、遠くの出口を使うよう命じられたのである。
しばらくはレンガ塀沿いに長方形の提灯が道案内をしてくれたが、しだいに月明かりだけが頼りになった。
道はわずかな下り坂で、道の両脇に枯れ葉が溜まっていた。森の斜面から道まで追いやられて来たのだろう。
赤もみじの枝が風に揺れ、ふわりふわりと空の下で跳ねた。
周囲の木々の枝は大胆にくねり、白けた肌の木も多い。先程の祭りがまるで嘘のように、さめざめした気分になった。
再び塀と提灯が現れはじめたとき、足の裏に何か硬い物が当たるのをアン・チボクは感じた。靴をどけてみると、なんと指輪であった。
小金色の輪に付着した白砂が、粉をまぶしたように美しい。指でつまんで見惚れるうち、穴の向こうにのぞいた満月に、チボクはなぜかハッとさせられた。今日チボクが月を眺めたのはこれが初めてだった。心の余裕を失っていた自分を、あの月に見透かされたような気がした。
菓子作りのヒントにでもしようと、俵型の布袋を下ろし、八角形の空箱へ拾った指輪を入れた。その間に商人と役人がアンを追い越していった。アンもまた布袋を背負って歩き出した。
やがてチボクの足取りは自然に止まった。人の流れがそこで止まっていたのだ。
わら屋根の門は観音開きの朱色の木戸で、馬車が通れるほどに広くない。
祭儀に参加した子供らが紙帽子を受付へ返却するのに、それほど時間のかかるものだろうか。
よく見ると巾着や風呂敷など荷物のある者は、中身をテーブルに広げている。持ち物検査の対応には青衣の役人2人があたった。
兵士は子供の服をはたいたり、チョッキを裏返したりと、随分と念入りにチェックした。手の平を開かせ、口の中までのぞかれる子供もいる。
縄ひものサンダルを脱がされた男の子が、兵士が靴を返してくれるのをじっと待った。その脇で、武官らしき者が1名と内官3名、赤衣の重臣が何やら話し込む姿が見られた。
これほどまでの厳重な検問は、アンにはとても奇妙に映ったのである。
きっと先ほどの指輪も取り上げられてしまうだろう。それどころかあらぬ疑いをかけられかねない。
残念だが、もとあった場所へ指輪を捨てに戻った方がいいと判断し、アンが後ずさりをしかけたとき、背後から急に呼び止める者があった。
「お前は祭りの場にいた菓子職人か?」
「へぇ。そうですが…」
アンは深々とおじぎをしながら、おぼろげな記憶をたぐりよせた。この猿に似た男の顔を思い出すことは出来ないが、烏色の袖なし衣には見覚えがあった。会場でときどき重臣席へ行って、ある一人の重臣の指示を仰いでいた。振る舞いなどから、その重臣は他の重臣の中で最も強い力があるように見えた。
アンは祭事の間、王宮内の人間の役回りを興味深く監察していたのだった。
「パン・ダン様がお呼びだ。こっちへついて来い」
と男は言い、アンが来た道を引き返し始めた。
男は小柄な体を猫背にし、速足で歩いた。素人目にもせっかちな動きが目につき、やっぱり確かに会場にいた男だとアンは納得した。
一体どっちへ行くのか男の行く手を、遠く目で追った。
男は森の斜面を進んで行く。
その向こうに塀沿いに連なる先ほどの提灯が、チラチラと眩しかった。
2012/2/17更新
すると王様は、とにかく落ち付いて行動すること。壇上へあがった者は、持ち物検査が済むまで門から出さぬこと。王子には余が後で聞いてみる。指輪が消えたことは決して他へ漏らさぬよう念を押した。
催しの途中、壇上へあがった者は、王族を除くとごく少数に限られた。宣旨署の最高上官、内官、尚宮、女官の他に、あとは子供らと菓子職人だけである。
おつきの男は額にびっしょり汗をかきながら、小走りに階段を降りて、部下へ指示を出した。それからすぐまた王様のそばへ戻り、武官と兵士の一部が、人目につかないよう速やかに会場を立ち去るのを目で確認した。
重臣席へ月餅がふるまわれたあとは、菓子職人3名と王様が言葉を交わす時間だった。
王様がひと言か二言ずつ順にする質問に、菓子職人らが短めに答えていく。
3人目の痩せた若い男の番になり、まだ若そうだが修行をしてどのくらいになるかと王様が尋ねた。
「15の年から7年になります」と男は答え、うやむやに小さな黒い八角箱を差し出した。
「これは? 中に何か入っているのかね?」
「へぃ。私の作った菓子でございます。恐れながら、王様にご覧になって頂きたいのです」
予定外の行動におつきの内官が、八角箱を職人の手に押し戻そうとするのを、「まぁよいではないか」と王様が止めた。
「名は何と申す」
「へぇ。アン・チボクと申します」
「よし。箱を開けてみなさい」
チボクはフタを両手で持ち上げ、そばへ裏返しにして置いた。
何だ。たったこれだけか。わざわざ持ってくるからにはよほど珍しい物かと思ったが…と口に出しては言わないまでも、箱の中をのぞいた王様は怪訝な眼差しをチボクにやった。
白く真ん丸な饅頭である。
「今のところ、私のすべてを注ぎ込んだ一品でございます」
若さのせいか声に気負いがある。だがよく見ると無駄のない清潔な顔立ちだ。
「そうか」
と王様は菓子をつまんで饅頭を横から斜めからとしげしげ眺めた。
「王様。お食べになるおつもりですか? 先に毒見尚宮に味見をさせましょう」
「なに。構うものか」
王様はおつきの内官の不安をまったく問題にしなかった。
この男の白く餅のようにやわらかで繊細な手を見よ。一心不乱に生地を練り、菓子のために生きている手だ。毒など入っているはずがない。そんな風に思いながら饅頭をかじった。
王様が最初のひと口を飲み込むのを待つ間、内官とチボクには妙に時間が長く感じられた。
「口溶けが非常に良いな。材料は何か」
「へぇ。すりおろした山芋を生地に練り込んだ皮と、こしあんでございます」
「とてもおいしかった。名は何と言ったかな」
「薯饅頭とでも申しましょうか。まだきちんと考えてはおりません」
「いや、名というのはそなたのことだ」
「アン・チボクでございます」
チボクは恥ずかしそうに顔を赤らめ、ホッと肩の荷を下ろした。それと同時に王様が自分の名を確かめたことに舞いあがり目を輝かせた。
「もしお気に召して頂けましたら、ぜひ新作ができたおりにはお届けにあがりたいと思いますが」
「いや、その必要はない」
と王様はきっぱりと断った。そして白髪交じりのヒゲと口元を拭い、布巾を女官の持つ盆へ返した。
「…菓子はあまりお召しあがりにならないのですか?」
「いや。そうではない。そなたの菓子も悪くはない。それどころか味も良いし、非常に細やかで美しくもある。ただ余には必要なさそうだと思ったまでのことだ」
「私の菓子に何か足らないものがあるのでしょうか…?」
何とは言えないが、とにかくもう一つ胸をうつに至らないと、やもなく王様は答えた。
王様の好みは今や長年のうち舌に馴染んだものばかりであった。年を取るにつれ、特にその傾向が強くなってきた。
王様の歯切れの悪さはアンを迷わせ、アンの顔色を曇らせもした。
チボクの挫折感は王様の想像に及ばないほど深刻な影を落とした。
壇上から下がるよう内官に即され、チボクが他の菓子職人らと階段を下りてすぐ、王様は王子を急いでそばに呼んで、宝物のフタを開けなかったか、開けた者を見かけやしなかったか問うた。王子は全く身に覚えが無いらしく、不思議そうに目をぱちくりして首を小さく横に振った。
祭事のあと、正殿の門の外では残りの月餅が民衆にふるまわれた。
アンや会場内にいた子供らは、武官の誘導により、遠くの出口を使うよう命じられたのである。
しばらくはレンガ塀沿いに長方形の提灯が道案内をしてくれたが、しだいに月明かりだけが頼りになった。
道はわずかな下り坂で、道の両脇に枯れ葉が溜まっていた。森の斜面から道まで追いやられて来たのだろう。
赤もみじの枝が風に揺れ、ふわりふわりと空の下で跳ねた。
周囲の木々の枝は大胆にくねり、白けた肌の木も多い。先程の祭りがまるで嘘のように、さめざめした気分になった。
再び塀と提灯が現れはじめたとき、足の裏に何か硬い物が当たるのをアン・チボクは感じた。靴をどけてみると、なんと指輪であった。
小金色の輪に付着した白砂が、粉をまぶしたように美しい。指でつまんで見惚れるうち、穴の向こうにのぞいた満月に、チボクはなぜかハッとさせられた。今日チボクが月を眺めたのはこれが初めてだった。心の余裕を失っていた自分を、あの月に見透かされたような気がした。
菓子作りのヒントにでもしようと、俵型の布袋を下ろし、八角形の空箱へ拾った指輪を入れた。その間に商人と役人がアンを追い越していった。アンもまた布袋を背負って歩き出した。
やがてチボクの足取りは自然に止まった。人の流れがそこで止まっていたのだ。
わら屋根の門は観音開きの朱色の木戸で、馬車が通れるほどに広くない。
祭儀に参加した子供らが紙帽子を受付へ返却するのに、それほど時間のかかるものだろうか。
よく見ると巾着や風呂敷など荷物のある者は、中身をテーブルに広げている。持ち物検査の対応には青衣の役人2人があたった。
兵士は子供の服をはたいたり、チョッキを裏返したりと、随分と念入りにチェックした。手の平を開かせ、口の中までのぞかれる子供もいる。
縄ひものサンダルを脱がされた男の子が、兵士が靴を返してくれるのをじっと待った。その脇で、武官らしき者が1名と内官3名、赤衣の重臣が何やら話し込む姿が見られた。
これほどまでの厳重な検問は、アンにはとても奇妙に映ったのである。
きっと先ほどの指輪も取り上げられてしまうだろう。それどころかあらぬ疑いをかけられかねない。
残念だが、もとあった場所へ指輪を捨てに戻った方がいいと判断し、アンが後ずさりをしかけたとき、背後から急に呼び止める者があった。
「お前は祭りの場にいた菓子職人か?」
「へぇ。そうですが…」
アンは深々とおじぎをしながら、おぼろげな記憶をたぐりよせた。この猿に似た男の顔を思い出すことは出来ないが、烏色の袖なし衣には見覚えがあった。会場でときどき重臣席へ行って、ある一人の重臣の指示を仰いでいた。振る舞いなどから、その重臣は他の重臣の中で最も強い力があるように見えた。
アンは祭事の間、王宮内の人間の役回りを興味深く監察していたのだった。
「パン・ダン様がお呼びだ。こっちへついて来い」
と男は言い、アンが来た道を引き返し始めた。
男は小柄な体を猫背にし、速足で歩いた。素人目にもせっかちな動きが目につき、やっぱり確かに会場にいた男だとアンは納得した。
一体どっちへ行くのか男の行く手を、遠く目で追った。
男は森の斜面を進んで行く。
その向こうに塀沿いに連なる先ほどの提灯が、チラチラと眩しかった。
2012/2/17更新
「ケトンの月」1話 琥珀の秘宝
陰河王朝では本日、政祭殿の広場にてお月見が開かれた。
広場の中央に赤じゅうたんをかぶせた台場が設置されている。その赤じゅうたんは重臣らが座るテーブル席の後ろ側を通って、そのまま政祭殿の壇上へとのぼっていた。
台場の真ん中に冴えないハリボテの大鶏が鎮座する。龍か蛇のうろこに似た羽が1枚1枚くっきり描かれてある。絹地のやわらかな垂れ尾の一部に夕日があたった。
壇上席の王妃の艶やかな服装は、広場からでもよく目立った。肩と胸に厚い金の刺繍がほどこされ、すそに向かうにつれ天の川のように流れていく。花、葉、茎の柄模様に縁どり線はないが、それがかえって、くすんだあかね色の花や白菊、三つ葉のおうど色を、地色に浮かんだように見せた。
王族席には果物の盛り皿、茶器が用意された。
その前側には白布のかかった低い祭壇があり、栗、柿、稲穂、さつまいも、小豆、生魚のお供えの他、月光浴のため三種の神器を納めた玉手箱が3つ置かれた。
どれも漆の箱に紫のヒモを結びつけ、フタは閉じられたままだった。
日が暮れるにつれ、辺りがしんしんと暗くなっていく。
奥の山と思って眺めていたのは、巨大な雲が暗い影になったものだとイコク王は気付いた。
渡り鳥の声が急にうるさくなり、何人かが天や宙を見た。ついで城内の森へも目をやってみたものの、渡り鳥の姿はなく、声ばかりが不気味に響いた。
王様は気になってしつこく空を見まわした。そうして渡り鳥の群れが急カーブを描いて遠くへ飛んで行くのを見つけ、ようやく安堵したのである。
「今宵は日頃の喧騒を忘れ、名月を楽しむひとときである。三種の神器は月の力に満たされたのち、本日より宝剣のみを東宮殿へ移すこととする。信頼する皆の力添えによって王子が将来、陰河王朝の繁栄を築くことを願うばかりである」
最近、王宮殿へ怪しい者が侵入したとの報告が度々起きており、後世へ継承されるべき大切な宝物を分けて保管するのは、保安の意味も兼ねていた。
しかし祭事の前のこともあってか、ほとんどの説明は省かれた。
重臣席から地響きのようなざわめきが徐々に沸き起こった。このまま王様の宣言を聞き流すことに、皆は何かしらの心残りを感じたのだ。かと言って何を聞いたらいいのかすぐには思い浮かばないで、他の誰かが重要な質問をしてくれることを、それぞれが期待して待った。
このまま何の進展もなく終わるのだろうと何となく予感していたところへ、とつぜん王の娘婿であるパン・ダンが席を立ち、壇上の王様に声を張りあげたのであった。
「なぜこの時期に宝剣を王子に譲渡するか、はっきりとした理由をおうかがいしたい!」
会場内にパン・ダンの太い声が降り注いだあと、数秒ほどの間があいた。
「パン・ダンは場をわきまえよ。この場において話すことは何もない」
王様はぴしゃりと言い返したものの、一瞬でも言葉を失った事実は隠せそうになかった。
重臣らの耳にはパン・ダンの大声に比べたら、まるで僧侶のように聞こえた。だいぶん年を取って声帯が衰えはじめたせいもあるだろう。
「しかし、このような場で突然に発表されたのは王様の方です。神剣を移されることの理由は当然、説明すべきではありませんか?」
王様は再び言葉を失った。それよりパン・ダンが公の場でもっとまずいことを喋りだしやしやしないか肝を冷やした。パン・ダンは予測できない男だった。これらの発言に対して王妃がすでに不快と不安をあらわにしているのも気にかかる。
王様はおつきの内官に目で合図を送った。するとおつきの内官は小走りに宣旨署の最高上官へ、何やら耳打ちをしたのだった。
次の瞬間、宣旨署の最高上官は壇上から声をあげた。
「はじめよ!」
コトン、コトンと滴が垂れるようなテンポで、寿楽院の演奏がゆったり流れ、広場の台場に6名の舞女が登場した。
パン・ダンはなすすべもなく席に腰をおろした。
赤いさざんかを生けた白地の小瓶を邪魔に思い脇にどけ、白磁の器を指でつまんで甘茶をすすった。酒がないのが不満だった。
「ひとまず棚上げですな…」
パン・ダンの背後で重臣らがささやき合っているのが聞こえる。
いつの間にかハリボテの大鶏が内側から灯っていた。暗闇にポッと浮かんだ黄色やオレンジの強烈な明るさが、どこか人々の心を安堵させた。皆は一様に舞女へ目をやった。
編み髪を後ろで一つにまとめ、若過ぎずそう年でもない油ののった女たちだった。色とりどりの提灯の列で作られた台場の屋根が、いっそう女らを惹きたてた。
女は長いリボンと、もう片方の手にでんでん太鼓を持っている。リボンが文字を描くように交差し、でんでん太鼓の糸先の玉は飛び跳ね、パチパチと音をかき鳴らした。
女らの白い衣と幅広の袖のすそに、内着の3色の重なりが品良くのぞく。くるくる回るたびに衣のスリットが激しくねじれ、勢いよく巻き戻った。内側に何枚も違う色のスカートが隠れているのが観客の目にもわかった。女らは巻き上がる風ように回り続け、ときにはそれが花のようにも見えた。
ほとぼりが冷めた頃を見計らって、隣の席の男とその周辺の重臣たちが、パン・ダンの背を指でトントン叩いた。
自分の姪に王の側室を持つキム・ヒョインは、特に心配症の一面を顔に滲ませ、こう尋ねた。
「なぜわざわざ神器を分けられるのでしょう…?」
「分けるべき理由が出来たとしか思えん。王子の他に神器を与えたい者がいるのだよ」
と答え、パン・ダンは口端に深いえくぼを作って、喉の奥から抑えた笑い声を漏らした。
「それが王様のご本心と? 神玉は琥珀の指輪だと聞いていますが。…まさか犬女に与えるわけにもいきますまい」
「あるいはその子が問題であろう」
「えっ? では王様は犬女の赤子を世継ぎに考えているとでも…?!」
「将来可能性も無くはない。だから俺は心配しているのだ」
パン・ダンは言葉を荒げた。この見解にはさすがに重臣らも凍りついた。
犬女は画家チャン・ミンホの娘を指し示す隠語である。王様との間に子が誕生したというのは、もはや噂というよりも、まぎれもない事実として重臣の間で信じられた。
踊りが終わって舞女がさがると、入れ替わり今度は前掛け姿の菓子職人らが登場した。
1枚の花のように飾った1000個の月餅の大皿を抱え、3人かかりでそろりそろりと壇上まで運ぶのを、王様や王子や王妃や重臣らが興味深そうに見守った。
花びら8枚が浮き彫りになった月餅は、月明かりでいっそう照り輝いた。盛り上がった線は焼き色が濃く、へこんだ部分は薄黄色かった。
そり返る2階建て屋根の政祭殿の裏庭で、一般から招待された子供ら56名が待機していた。それらが年配の尚宮と女官らの導きによって入場した。
刺子の厚い着物の子もいれば、薄っぺらな着物1枚のもいる。男の子も女の子も編み髪を1本、背中に垂らしていた。男の子は衣にズボン、女の子は短い衣を胸のリボンでしめつけ、幼子のお腹に合わせスカートがぷっくり膨らんで見えた。すべて王子と同じ年頃の5歳の子供たちであった。
彼らは今晩だけ特別に、袋を逆さにしたような紙帽子をかぶった。
子供たちが赤じゅうたんに沿って短い石段をあがり、壇上に広がる石タイルのデッキへたどり着くと、職人が1つずつ月餅に薄紙を敷いて配りはじめた。しかし月餅を貰うため列を作っていた子供は、早くも待つことに飽きたようだった。
やんちゃな男の子が前の子の紙帽子をずるりと脱がしたのを皮切りに、あれよあれよと言う間にいたずらの輪は広がっていった。
子供らはきゃっきゃとはしゃいで、まるで収拾がつかない。若い女官らはそこら中を駆け回る子供にオロオロした。
王子もいつの間にか紙帽子をかぶり、子供と走りまわっている。王子の立派な絹ずきんは誰か別の子供がかぶって、果たしてどれが王子なのか見分けがつかない有り様だった。
行き過ぎの事態に、王妃はもちろんのこと王様さえ危惧を感じ始めたとき、王子の世話役の60歳近い年配尚宮が、とつぜん王子の後ろえりをぐいとつかんで、集団から引っ張り出した。
「王子様がそのようでは、いっこう示しがつきませぬっ!」
尚宮は腫れぼったい目で王子を厳しく戒めた。
王様はこの尚宮を信頼しているらしく、納得したように小さく頷いてみせた。王子の方も照れ笑いをするばかりであったが、王妃はこうも堂々と皆の前で我が子を叱りつけられては、あまり面白くないという顔をしてみせた。
王子はかつて自分の乳母であったモスリが壇下に控えているのに気付いて、嬉しそうに目を合わせた。するとモスリもこっそり微笑み返した。しかし王妃はこれもまた気に食わないようであった。2人を引き離し、この頃ではようやく王子も自分に慣れてきたというのに、水をさされてしまったと思い込んだ。
モスリの優しくはかない感じが、王子には実の母よりも母親の安らぎを感じさせてくれた。何より年増の教育係と違って、美しいところが最も王子は気に入っていた。
子供らは女官の指示に従い、今度はきちんと順に並んだ。月餅を手にしたあと端の方の階段を使って、先ほど舞女が踊った畳敷きの台場で餅をかじった。
王様はふと空を見上げた。白い月は時間とともにどんどん輝きを増し、周囲に何本も長い光を放った。他の者たちは皆それぞれ話に花が咲いて、月を見ることなど忘れてしまったようだ。
おつきの内官が深刻な様子で王様の耳に打ち明けた。
「王様、さきほどから神玉の箱が開いております…」
王様はハッと、祭壇へ視線を送った。
確かにおつきの男の言う通り、房付きのヒモが解けてフタがずれている。
「子供がいたずらしたのかもしれぬ。神物を覗いて見るワケもいかないから、手探りで中を確認してみよ」
王様の命令で、おつきの男が箱のそばへ寄り、指輪をくるんであった青い絹布の上から遠慮がちに手の平をあてた。それから首を傾げ、しばらく指の先で風呂敷のあちこちをもんだ。王様は寿楽院の笛や琴、太鼓の音色を聞きながら辛抱強く待った。
しかし王様のもとへ戻ったおつきの内官は、どうも指輪のように硬い感触は見当たらなかったと告げるに至った。
「そんなはずはない。舞台の周りにでも落ちてないか今一度、確認してみなさい」
おつきの男は神玉の箱の前へ再び戻らされた。
広場の宴席では、おつきの内官の不自然な動きを気にする者も出始めていた。
おつきの内官は床を見つめながらかなりゆっくりと壇上を歩いて、ときどき立ち止まっては腰を深く折り曲げた。
内官の茄子帽子がそのたび左右に大きく振れるのを見るにつけ、一体何をうろつき回っているのかと、幾人かは不思議に思ったのだった。
2012/2/10更新
広場の中央に赤じゅうたんをかぶせた台場が設置されている。その赤じゅうたんは重臣らが座るテーブル席の後ろ側を通って、そのまま政祭殿の壇上へとのぼっていた。
台場の真ん中に冴えないハリボテの大鶏が鎮座する。龍か蛇のうろこに似た羽が1枚1枚くっきり描かれてある。絹地のやわらかな垂れ尾の一部に夕日があたった。
壇上席の王妃の艶やかな服装は、広場からでもよく目立った。肩と胸に厚い金の刺繍がほどこされ、すそに向かうにつれ天の川のように流れていく。花、葉、茎の柄模様に縁どり線はないが、それがかえって、くすんだあかね色の花や白菊、三つ葉のおうど色を、地色に浮かんだように見せた。
王族席には果物の盛り皿、茶器が用意された。
その前側には白布のかかった低い祭壇があり、栗、柿、稲穂、さつまいも、小豆、生魚のお供えの他、月光浴のため三種の神器を納めた玉手箱が3つ置かれた。
どれも漆の箱に紫のヒモを結びつけ、フタは閉じられたままだった。
日が暮れるにつれ、辺りがしんしんと暗くなっていく。
奥の山と思って眺めていたのは、巨大な雲が暗い影になったものだとイコク王は気付いた。
渡り鳥の声が急にうるさくなり、何人かが天や宙を見た。ついで城内の森へも目をやってみたものの、渡り鳥の姿はなく、声ばかりが不気味に響いた。
王様は気になってしつこく空を見まわした。そうして渡り鳥の群れが急カーブを描いて遠くへ飛んで行くのを見つけ、ようやく安堵したのである。
「今宵は日頃の喧騒を忘れ、名月を楽しむひとときである。三種の神器は月の力に満たされたのち、本日より宝剣のみを東宮殿へ移すこととする。信頼する皆の力添えによって王子が将来、陰河王朝の繁栄を築くことを願うばかりである」
最近、王宮殿へ怪しい者が侵入したとの報告が度々起きており、後世へ継承されるべき大切な宝物を分けて保管するのは、保安の意味も兼ねていた。
しかし祭事の前のこともあってか、ほとんどの説明は省かれた。
重臣席から地響きのようなざわめきが徐々に沸き起こった。このまま王様の宣言を聞き流すことに、皆は何かしらの心残りを感じたのだ。かと言って何を聞いたらいいのかすぐには思い浮かばないで、他の誰かが重要な質問をしてくれることを、それぞれが期待して待った。
このまま何の進展もなく終わるのだろうと何となく予感していたところへ、とつぜん王の娘婿であるパン・ダンが席を立ち、壇上の王様に声を張りあげたのであった。
「なぜこの時期に宝剣を王子に譲渡するか、はっきりとした理由をおうかがいしたい!」
会場内にパン・ダンの太い声が降り注いだあと、数秒ほどの間があいた。
「パン・ダンは場をわきまえよ。この場において話すことは何もない」
王様はぴしゃりと言い返したものの、一瞬でも言葉を失った事実は隠せそうになかった。
重臣らの耳にはパン・ダンの大声に比べたら、まるで僧侶のように聞こえた。だいぶん年を取って声帯が衰えはじめたせいもあるだろう。
「しかし、このような場で突然に発表されたのは王様の方です。神剣を移されることの理由は当然、説明すべきではありませんか?」
王様は再び言葉を失った。それよりパン・ダンが公の場でもっとまずいことを喋りだしやしやしないか肝を冷やした。パン・ダンは予測できない男だった。これらの発言に対して王妃がすでに不快と不安をあらわにしているのも気にかかる。
王様はおつきの内官に目で合図を送った。するとおつきの内官は小走りに宣旨署の最高上官へ、何やら耳打ちをしたのだった。
次の瞬間、宣旨署の最高上官は壇上から声をあげた。
「はじめよ!」
コトン、コトンと滴が垂れるようなテンポで、寿楽院の演奏がゆったり流れ、広場の台場に6名の舞女が登場した。
パン・ダンはなすすべもなく席に腰をおろした。
赤いさざんかを生けた白地の小瓶を邪魔に思い脇にどけ、白磁の器を指でつまんで甘茶をすすった。酒がないのが不満だった。
「ひとまず棚上げですな…」
パン・ダンの背後で重臣らがささやき合っているのが聞こえる。
いつの間にかハリボテの大鶏が内側から灯っていた。暗闇にポッと浮かんだ黄色やオレンジの強烈な明るさが、どこか人々の心を安堵させた。皆は一様に舞女へ目をやった。
編み髪を後ろで一つにまとめ、若過ぎずそう年でもない油ののった女たちだった。色とりどりの提灯の列で作られた台場の屋根が、いっそう女らを惹きたてた。
女は長いリボンと、もう片方の手にでんでん太鼓を持っている。リボンが文字を描くように交差し、でんでん太鼓の糸先の玉は飛び跳ね、パチパチと音をかき鳴らした。
女らの白い衣と幅広の袖のすそに、内着の3色の重なりが品良くのぞく。くるくる回るたびに衣のスリットが激しくねじれ、勢いよく巻き戻った。内側に何枚も違う色のスカートが隠れているのが観客の目にもわかった。女らは巻き上がる風ように回り続け、ときにはそれが花のようにも見えた。
ほとぼりが冷めた頃を見計らって、隣の席の男とその周辺の重臣たちが、パン・ダンの背を指でトントン叩いた。
自分の姪に王の側室を持つキム・ヒョインは、特に心配症の一面を顔に滲ませ、こう尋ねた。
「なぜわざわざ神器を分けられるのでしょう…?」
「分けるべき理由が出来たとしか思えん。王子の他に神器を与えたい者がいるのだよ」
と答え、パン・ダンは口端に深いえくぼを作って、喉の奥から抑えた笑い声を漏らした。
「それが王様のご本心と? 神玉は琥珀の指輪だと聞いていますが。…まさか犬女に与えるわけにもいきますまい」
「あるいはその子が問題であろう」
「えっ? では王様は犬女の赤子を世継ぎに考えているとでも…?!」
「将来可能性も無くはない。だから俺は心配しているのだ」
パン・ダンは言葉を荒げた。この見解にはさすがに重臣らも凍りついた。
犬女は画家チャン・ミンホの娘を指し示す隠語である。王様との間に子が誕生したというのは、もはや噂というよりも、まぎれもない事実として重臣の間で信じられた。
踊りが終わって舞女がさがると、入れ替わり今度は前掛け姿の菓子職人らが登場した。
1枚の花のように飾った1000個の月餅の大皿を抱え、3人かかりでそろりそろりと壇上まで運ぶのを、王様や王子や王妃や重臣らが興味深そうに見守った。
花びら8枚が浮き彫りになった月餅は、月明かりでいっそう照り輝いた。盛り上がった線は焼き色が濃く、へこんだ部分は薄黄色かった。
そり返る2階建て屋根の政祭殿の裏庭で、一般から招待された子供ら56名が待機していた。それらが年配の尚宮と女官らの導きによって入場した。
刺子の厚い着物の子もいれば、薄っぺらな着物1枚のもいる。男の子も女の子も編み髪を1本、背中に垂らしていた。男の子は衣にズボン、女の子は短い衣を胸のリボンでしめつけ、幼子のお腹に合わせスカートがぷっくり膨らんで見えた。すべて王子と同じ年頃の5歳の子供たちであった。
彼らは今晩だけ特別に、袋を逆さにしたような紙帽子をかぶった。
子供たちが赤じゅうたんに沿って短い石段をあがり、壇上に広がる石タイルのデッキへたどり着くと、職人が1つずつ月餅に薄紙を敷いて配りはじめた。しかし月餅を貰うため列を作っていた子供は、早くも待つことに飽きたようだった。
やんちゃな男の子が前の子の紙帽子をずるりと脱がしたのを皮切りに、あれよあれよと言う間にいたずらの輪は広がっていった。
子供らはきゃっきゃとはしゃいで、まるで収拾がつかない。若い女官らはそこら中を駆け回る子供にオロオロした。
王子もいつの間にか紙帽子をかぶり、子供と走りまわっている。王子の立派な絹ずきんは誰か別の子供がかぶって、果たしてどれが王子なのか見分けがつかない有り様だった。
行き過ぎの事態に、王妃はもちろんのこと王様さえ危惧を感じ始めたとき、王子の世話役の60歳近い年配尚宮が、とつぜん王子の後ろえりをぐいとつかんで、集団から引っ張り出した。
「王子様がそのようでは、いっこう示しがつきませぬっ!」
尚宮は腫れぼったい目で王子を厳しく戒めた。
王様はこの尚宮を信頼しているらしく、納得したように小さく頷いてみせた。王子の方も照れ笑いをするばかりであったが、王妃はこうも堂々と皆の前で我が子を叱りつけられては、あまり面白くないという顔をしてみせた。
王子はかつて自分の乳母であったモスリが壇下に控えているのに気付いて、嬉しそうに目を合わせた。するとモスリもこっそり微笑み返した。しかし王妃はこれもまた気に食わないようであった。2人を引き離し、この頃ではようやく王子も自分に慣れてきたというのに、水をさされてしまったと思い込んだ。
モスリの優しくはかない感じが、王子には実の母よりも母親の安らぎを感じさせてくれた。何より年増の教育係と違って、美しいところが最も王子は気に入っていた。
子供らは女官の指示に従い、今度はきちんと順に並んだ。月餅を手にしたあと端の方の階段を使って、先ほど舞女が踊った畳敷きの台場で餅をかじった。
王様はふと空を見上げた。白い月は時間とともにどんどん輝きを増し、周囲に何本も長い光を放った。他の者たちは皆それぞれ話に花が咲いて、月を見ることなど忘れてしまったようだ。
おつきの内官が深刻な様子で王様の耳に打ち明けた。
「王様、さきほどから神玉の箱が開いております…」
王様はハッと、祭壇へ視線を送った。
確かにおつきの男の言う通り、房付きのヒモが解けてフタがずれている。
「子供がいたずらしたのかもしれぬ。神物を覗いて見るワケもいかないから、手探りで中を確認してみよ」
王様の命令で、おつきの男が箱のそばへ寄り、指輪をくるんであった青い絹布の上から遠慮がちに手の平をあてた。それから首を傾げ、しばらく指の先で風呂敷のあちこちをもんだ。王様は寿楽院の笛や琴、太鼓の音色を聞きながら辛抱強く待った。
しかし王様のもとへ戻ったおつきの内官は、どうも指輪のように硬い感触は見当たらなかったと告げるに至った。
「そんなはずはない。舞台の周りにでも落ちてないか今一度、確認してみなさい」
おつきの男は神玉の箱の前へ再び戻らされた。
広場の宴席では、おつきの内官の不自然な動きを気にする者も出始めていた。
おつきの内官は床を見つめながらかなりゆっくりと壇上を歩いて、ときどき立ち止まっては腰を深く折り曲げた。
内官の茄子帽子がそのたび左右に大きく振れるのを見るにつけ、一体何をうろつき回っているのかと、幾人かは不思議に思ったのだった。
2012/2/10更新

