2012年04月10日

「トンイ」あらすじ 30話

チャン・ヒジェが内禁衛に捕えられたとの知らせは、すぐには信じがたく、卓上机に身を乗り出したテソクの背は、丸くなった。
しかし夢ではなく現実のようだ。そう悟った瞬間、まつかさ風の薄い絹帽子の額に、思わず両手をあてた。頭に激痛が走ったのである。
オ・ユンはテソクの容態に驚きを感じつつも、まだ指示を仰ごうと努めた。
「チャン・ヒジェの陰謀の証拠を、王様がつかまれたようなのですが…」
「まさか、失踪したあの女か?」
テソクは息苦しさにあえぎあえぎ、何とかして聞いた。
以前のテソクだったらば、驚いているのか、それとも相手の程度の低さを面白がっているのか、その表情から判断するのは難しいほど、余裕ぶって見えた。しかし今こうしてまともに息も吸えないでいるのを見ると、陰りのさしはじめた老人なのであった。
それでも隅から隅まで考えあぐねた末、テソクは背をすぼめたまま、オ・ユンに告げた。
「では我々はもうおしまいだ。これはチャン・ヒジェ1人にとどまらないだろう」
オ・ユンはがく然となった。それはオクチョンを支持してきた者すべてに火の粉が及ぶだけではなく、南人の終末さえをも予感させたからだ。

取り調べ室に入って来たヨンギを見るなり、ヒジェが勢いづいて暴れ出した。
「無実の私を捕えるとは何事かぁーっ! ここを出たらキサマを叩き潰してやる!」
とは言え、ロープで椅子に体を縛りつけられていては、騒ぎ立てたところで無駄だった。
ヨンギが思わず苦笑したのが気に入らなかったのだろう。ヒジェが白装束姿で睨みつけた。
「キサマ…何がおかしい?」
「いえ、お久しぶりですね」
ヨンギはシラを切り通そうとする態度にあきれていたのだった。
この調子では、自白に時間が取られそうだ…
容疑者の洗い出しは、徹底的に行わねばならない。
トンイがもたらした証拠は、宮廷中で大きな波紋を広げていた。
前王妃を陥れた陰謀、そしてトンイの暗殺未遂事件が浮き彫りとなるなか、捜査はまだ始まったばかりだった。

それでもスズメは、心地よい朝がいつも通り訪れたことを教えてくれた。
翌朝、ソ・ヨンギの命により、武官は兵士2名を連れて、チャン・ヒジェのいる牢獄に行った。
看守が錠前に鍵をさし頑丈な格子木の扉を開け、兵士2人がかりでチャン・ヒジェの脇を抱えて、牢獄の外まで連れ出した。
口を割るまで拷問せよとのことである。
拷問のあと、力尽きたヒジェは、ぐらりと首を垂れ、ただ獣のような唸り声を漏らした。ときどき何か物音がすると、赤く腫れた目をこじあけた。

王妃の兄ヒジェの拷問で、重臣らは王の決意がどれほどかを痛感したのである。
ヒジェが口を割る割らないに関わらず、重臣らの多くが怯え、意見を求めにテソクの屋敷へと押しかけた。
これでは崖の上に身をさらしたようなものだ。一歩踏み誤れば、奈落の底へ転がり落ちてしまう。それほど切羽詰まっていた。
だがテソクにも、知恵など浮かばないのであった。仕方なく、甥のオ・ユンを連れオクチョンのもとへ指示を仰ぎにいったところ、一応の解決のめどがついた。
階段を下り、再び宮殿の玄関を出たテソクとユンの2人を、王妃付きの尚宮と女官が総勢で見送った。
その視線の名残を背中に感じつつ、庭へと続く四角い敷石の上を2人は歩いた。聴こえるのは自分の足音や小鳥の鳴き声だけだった。
ほとぼりの冷めたところまで来ると、ユンはようやく引っかかっていた迷いを吐き出した。
「叔父上、本当にいいのでしょうか…? 王様が慕われている女に手を出したりしても…」
「他にどうするのだ…。このまま黙ってやられるのかね? さぁ、早く事を進めろ。自白する者が出て来てからでは遅い」
まるで最初から知っていたかのようないつもの口ぶりである。だが思わせぶりな態度の方は影を潜めていた。テソクもまたいつになく、焦っているようであった。

まもなく、義禁府が捕えていたチャン尚宮とチョンイムが、証拠不十分であっさりと釈放された。
この点については、本人たちだけでなく、王様までもがどうも釈然としなかった。
オクチョンの毒殺未遂事件を、イニョン元王妃側の容疑で固めようと、でっち上げさながらの強行捜査を進めていた矢先、一体どういうわけなのか…?
するとおつきのハン内官がやって来て言うには、王様に謁見を求め、すでに大臣総勢が講堂に集まっているとのことであった。

すぐにも講堂にあらわれた王様は、背もたれに金龍のついたベンチに腰かけた。
板の間に座った重臣その数、左右対象に赤衣が各10名ずつと、その背後に座った青衣が各10名の他、内官が数名ほど玉座の階段下に控え、また反対側の入口の敷居には速記係2名がデスクを並べて会議の開始を待った。
王様への発言は、主にテソクが代表して行った。
「王様。王妃様のお命を狙ったとされる容疑者が釈放されたのは、公正な捜査のためでございます。ですから我々の方も、王様には公正を望んでおります」
王様はいぶかしむように目を細めた。
「それは一体どういう意味か?」
テソクはその理由を、引き続き流暢に説明した。
「一切きちんと疑惑が残らぬようお願い致します。女官ごときが提出した証拠で罪を問うなど、どうしてできましょう? つまりは内禁衛でなく、義禁府で取り調べをしたいと。我々の望むのは女官チョン・ドンイの引き渡しでございます…」
王様はふつふつと腹の底で怒りを感じた。
(狙いはこれだったか…!)
証拠もろとも、ひねり潰す気なのだろう。
重臣らが一斉に頭を垂れ、まるで王様を責めるかのように声を揃えた。
「王様、どうかお聞きくださいませ…! お聞きくださいませ…!」

白い鼻筋の馬が、家具屋の幟旗の立つ通りを全速力で駆け抜けた。
すでにどこの店の木戸も閉まり、思う存分、馬を飛ばすことができる。
チョンスの声に追いたてられ、馬はいっそう体をもがいて死に物狂いになった。
草のじゅうたんを足元に感じた馬は、手綱を思い切り引かれ、ぶるぶると鼻を鳴らしながら、次第に足取りを調整し、王様の私邸の前で止まった。
岩を土で固めた長い瓦塀の前に、警備兵が立ち並ぶ。昼間以上に厳重な警戒だ。組木にのせた鉄板鍋から、たいまつの炎がごうごうと天へ突きあげた。
門番の護衛2名が、軍官姿のチョンスに向かって会釈した。
そのうちの1人に手綱ごと馬を預け、チョンスは敷地内へ飛び込んだ。
池の向こうの建物から、ちょうど医女2名を連れて医官が下りてくる。
外で待たされていた別の医女に、トンイに飲ませるための煎じ薬を医官は指示した。
池に渡した石板を走りきったチョンスが、その医官に声をかけた。
「トンイが目を覚ましたというのは本当ですか?!」
「えぇ。すっかり回復なされましたよ」
医官に笑顔を向けられ、チョンスも久しぶりに晴れ晴れとした顔になった。こうして見るとチョンスも本来ならば、元気あふれる若者の1人であるに違いなかった。
トンイを見舞ったあと、ヨンギにも様子を聞きに寄った。
「大丈夫。何もかも上手くいっている」とヨンギは言った。一連の捜査のことらしい。
しかしそれとはまた別に、気になることが出来たようだ。
「実はさきほど王様が来られ、告白をされた。私はそれをお前には知らせておくべきだろうと思ったのだ」
業務のことではないな…とチョンスはピンときた。何かもっとプライベートなことだろう。
少々戸惑いながらも、どうも聞かざるを得ない状況だった。

王様より招集がかかり、大臣らはようやくこれで自分らの方に、風向きが変わるだろうと想像した。そしてすぐに思惑通りになったのを知った。女官チョン・ドンイの取り調べを王様が許可したのである。
しかし王様の話にはまだ続きがあった。
「実はまだそなたたちの知るべきことがある。宮廷入りするチョン・ドンイは今日から監察府の女官ではない」
ザワザワと大臣らが顔を見合わせるなか、テソクが代表し、おずおずと尋ねた。
「王様…それは一体どういうことでしょうか…?」
「チョン・ドンイは余の寵愛を受けた承恩尚宮として、今日から相応の待遇を受ける」
速記係は筆を走らせ、王様の今の発言を黙々と書きとめた。

トンイの新しい服一式は、髪飾りから王様が狩りでしとめた鹿の皮靴に至るまで、ハン内官がすべて贈り物として私邸へ運んだ。
鹿の皮靴は渋い赤地にバラと葉が並んだ刺繍入りで、つま先だけが紫の布地だ。
トンイの一行を先導し、宮殿へ戻ったハン内官は、まず一番先に赤門をくぐった。
あとに続く緑衣の内官2名は、いったん赤門扉の内側に控え、コシを迎えるため手を小さく前にあわせた。
井型のはしごにのった赤いコシが入場し、そばを尚宮2名が歩いた。最後に女官3名と、護衛兵のリーダー、その部下の4名が続いた。
ハン内官らが大広場を先に進んで、会釈したまま再びコシを待った。
やがて中央の石道の中程でコシがゆっくり下ろされると、尚宮が金枠の外扉を持ちあげた。
そこから宮殿へは、トンイはコシから下り、先頭を歩いていく。
トンイはピンクの膨らんだスカートで大広場に立った。金のツル草と蝶の模様だ。水色の衣とお揃いの模様で、エンジ色のあわせ衿の方は、白い菊紋の連続柄だった。
後ろにどっしり丸く束ねた編み髪に、造花のかんざしと金のかんざしの2本をさしている。頭のてっぺんは髪ベルトで押さえ、ワッペン飾りを留めてあった。
大広場には、他に誰1人見当たらない。一面、掃き清められたようにきれいだった。
トンイは正面にそびえる正殿とほぼ同じ幅の広い石段へと、真っすぐ歩きだした。
数秒ほど遅れ、内官をはじめとする一行も長い列となって、歩を進めた。



2011/11/1更新
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「トンイ」あらすじ 29話

王様はそのままトンイをこっそり別邸に連れ帰ったので、知らせを受けたヨンギが到着したときには、さらに夜は更けていた。
別邸の前には、たいまつの火が燃えたぎり、数人の兵士が警戒を強めていた。
ソ・ヨンギは兄妹の感動の再会の邪魔にならないよう遠慮したのである。トンイの無事がわかればそれで十分だった。
ヨンギが王様と室内で話をする間に、チョンスはまるで解き放たれた人のように、はやる思いで庭園へ駆けこんだ。
すると軒下の石の縁側に腰かけたトンイが、目の前の茂みをぼんやり見つめているのが、チョンスの目に映った。ようやく落ち着いた状況を一人、噛みしめていたらしい。
月明かりも手伝ってか、久しぶりにチョンスの表情がぱぁっと輝いた。でももう次の瞬間には、捜し回っていた長い間の思いが胸に込み上げ、涙が止まらなくなった。
トンイの方もチョンスに気付いたようだった。嬉しさのあまり涙を流し、こっちへ走ってきた。ずっと自分を探し続けてくれていた兄さんのことが本当に懐かしくて、トンイは胸がいっぱいになった。
チョンスはトンイをスーッと引き寄せるように抱きしめた。
まるで子供をあやすみたいに、チョンスがポンポンと自分を軽くたたいてくれるのを、トンイは背中に感じた。
チョンス兄さんは繊細で優しいのに、たくましく心強かった。


緊張の糸が一気に緩んで、体調が崩れるかもしれないと思い、王様は主治医を別邸へ呼んでおいた。トンイはそれほど顔色が悪く見えたのだ。
「気力の回復には紅参が一番いいのですが、清国へ流れて今は手に入らない代物でございますので」
トンイの診断を済ませた主治医は、王様にこう伝えた。
それは蒸して乾燥させた朝鮮人参のことで、とても高価なものだった。
「待てよ…。紅参とは私の煎じ薬に使っている物であろう? ならばその分を回したら良いではないか」
医官は一瞬、王様の言葉に耳を疑い、目を丸くした。たかが女官のために、国家の王が自らを犠牲にしてまで、とてつもなく高価な薬を処方しろとは一体どういうことか?! 口には出しはしないが、内心驚きを隠せなかった。

チョンスが部屋を通りがかったとき、格子扉は偶然すべて開け放してあった。
盗み聞きするつもりなどなかったのに、自然とチョンスの耳には王様とトンイの会話が入ってくる。
声がかけづらくなり、しばらく敷居のそばに立ちすくんでしまった。
王様の言うままに、手厚い看護を受けていいものか、トンイは少し戸惑っているらしい。
その前後のやりとりから、王様がトンイに治療を受けるよう説得しているのがチョンスにもわかった。
そのうち苦しまぎれに目をきょろきょろさせた王様が、トンイに向かって、そなたは私の体も同然だと言った。
チョンスはその瞬間、ショックのあまり体がかたくなるのを感じた。
王様の投げやりな口調は、照れ隠しのようだったけど、トンイをとても大切に思ってもいるようだった。
それはつまり、トンイを愛しているということではないか。
そんな不安が、チョンスの心に焼きついて離れなかった。
一度、病床についてからのトンイは、潜んでいた疲れが急にあらわれたのか、その病状はみるみる重くなっていった。

トンイが内需司の書庫から盗んだいくつかの品は、義州の滞在期間を経て、大事に都へ持ち帰られ、ようやく王様の手に渡された。
それらには王様の土地を管理するはずの内需司が、土地を横領した記録が含まれている。
土地の受取人は、イニョン元王妃を廃妃へと追い込んだ自白をし、すでに処刑となった医官であった。
内需司と言えば、南人の高官との怪しい繋がりが指摘されている部署でもある。
イニョン元王妃追放劇の裏側に、南人とオクチョンの意図的な関与を示す重要な証拠ともなりそうだった。
王様は宮殿に戻ってから重要な事柄を進めるため、まずおつきのハン内官に、王命の代筆をする都承旨を部屋に呼ぶように伝えた。

ソ・ヨンギがとつぜん宮殿に戻って来たとのニュースは、瞬く間に伝わり、各部署に動揺が走った。
オクチョンは夕べ、王様の帰りを今か今かと待ちわびたのだった。王宮殿の内官らの誰にも行き先を告げずに出掛けたと聞いて、嫌な予感はしていたのだ。
毒を飲んで王様の心を少しは取り戻せたかと思っていたのに、それも束の間、かなり夜が更けて帰って来た王様は、それ以降、オクチョンに冷やかだった。
オクチョンは直感した。
きっと昨晩、王様に何かがあったのだ。
しかも何か転機になるようなことが…
兄のヒジェは死んだと思ったトンイを義州で見たと言った。それからはトンイがいつ都入りするかという不安に襲われてばかりいた。事態が悪くなるたび、オクチョンは心臓を矢で射ち抜かれた思いをし、それでいて不安の足音は、じわりじわりといやぁな感じに忍び寄ってくるのだった。
聞いた話では、ソ・ヨンギはただカムバックしただけではなく、王室の警護を担当する内禁衛(ネグミ)の大将に抜擢されたという。
ヨンギ率いる親衛隊は、水を得た魚のように、義禁府庁舎へと一気になだれ込んだ。
義禁府のオ・ユンは、ヨンギに渡された捜査令状の巻紙をバタバタと転がり落とすように慌てて広げ、がく然となった。
それはオクチョンの毒殺未遂事件を、再調査するよう求める王命の書であった。
義禁府としては、イニョン元王妃側の犯行として、早々に捜査を片付けようとしていたのに、一石投じられたわけである。
ヨンギの親衛隊は、義禁府から山のような書類を押収したあと、おかしなことに次には被害者であるはずのオクチョンの宮殿内を捜索した。その取り調べは女官1人1人にまで及ぶものだった。
「王妃様、これは尋常ではありません! 親衛隊は洗踏房まで乗り込んで、王妃様の洗濯物を持ち去ったと言うのですよ」
おつきの尚宮がオクチョンに不安をぶちまけた。
洗濯物を押収…? 一体何のためだろうか。
あれこれ思考をめぐらせてみたものの、オクチョンに思い当たるフシはなかった。


2010/10/25更新
Posted by d_nose00 at 00:29  | トンイ(長いあらすじ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「トンイ」あらすじ 28話

「洗踏房の者のようですね…。きっと迷い込んだのでしょう」
おつきのハン内官は少し気の毒そうに答えた。
王様とハン内官の意識は、ただならぬ気配でこちらにやって来る尚宮の姿の方に移った。
いまだ予断を許さない病状のため、尚宮は硬い表情を崩さずに言った。
「王様。王妃様が意識を取り戻されました…」

そのときトンイは武官に取り押さえられそうになりながらも、王宮殿の中庭へしきりと目を投げかけていた。
石回廊に立つ王様とハン内官が、レンガのアーチ門のすぐ向こうに小さく見える。
「プンサンが来たと王様に伝えてください! どうかプンサンが来たとっ!!」
トンイは無我夢中で武官にとりすがった。でも残念ながら武官をいっそう怒らせてしまったようだ。たかが水汲み女が王様を呼べとは、何という不届き者かと思われたらしい。
そのうちに、王様とハン内官が慌ただしい様子で、どこかへ行くのがトンイの目に映った。
トンイはあまりのショックに、今度こそ自分が完全にうちのめされたと思った。
そばに新人のような若い内官がやって来て、ベテラン武官に何か王様の指示を伝えた。
たかが迷い込んだくらいで、水汲み女を捕えるなとのことである。
仕方なく武官と兵士は、王宮殿に入る裏口のような細い石階段まで戻って、トンイを乱暴に突き落としたのだった。

トンイのここまでの道のりは、それほど大変なものだったのである。
都への潜入は、まずニセの身分証を手に入れることからはじまった。少年っぽく変装し、都へ入ってからは、まだ宮中での検問が待っていた。
思い付いたのは洗踏房の水汲み女になることだった。水汲み女は重労働のため、やめる者が多くて、常に求人募集されている。そのうえ採用面接は宮中の外でだった。
すぐに引退した女官の住む村まで行って、いったん採用面接を受け、他の合格者らと一緒に、宮中の城壁前まで戻ってきた。あとは簡単だ。ベテランの元女官に付き添われていたので、大したチェックもされずに、無事に検問を通過することができた。
ヨンギ従事官やチョン尚宮に、早く自分の存在を気付いて欲しいと何度も願った。
でもおかしなことには、捕盗庁にいるはずのヨンギ従事官やチョンス兄さんの姿を、宮中で見かけることは一度もなかった。
なによりトンイは指名手配中の身であった。あまりうろうろしては、好ましくない人間に顔を見られてしまう。
トンイは日々、洗踏房の下働きをしながら機会の訪れるのをじっと待ち続けた。
大ざるいっぱいの洗濯物から、ずっしり濡れた衣を広げては、竹竿にひっかける。胸丈の短い上着まで干し終わると、次には洗濯場での水汲みが待っていた。
掘り込み式の石井戸の木ブタを外し、ロープを引き揚げ、手桶に水を流し入れる。井戸に吊り下がった三角升の容量が小さいせいで、重いロープを何度も引き揚げなければならなかった。
大胆に水を投げ入れたのが悪かったらしく、洗って丸めておいたスカートに泥が散って先輩から文句を言われた。
「これは王妃様の服なのよ!」
トンイは謝りながら、濡れて色の濃くなったオクチョンのスカートの泥をはたいた。

そうこうするうち機会が訪れた。
近く監察府が、洗踏房の持ち物検査にやって来る。責任者はトンイの記憶では、上手い具合にチョン尚宮の番だった。
当日になると、トンイは洗踏房の位の高い女官の部屋に忍び込んだ。かつて監察府にいたので、布団の間など隠し場所の検討はついた。書物のページを片っ端からめくるうち、案の定、没収の対象となる贅沢な刺繍入りの黄色い巾着袋が見つかった。その巾着袋に、四つ折りの細い紙をねじ込み、ヒモで口を巻きしめると、ふた付きチェストの脚の隙間へ滑り込ませた。
紙切れは意味不明の漢字を1列に20個くらい並べて書いたものだ。筆に巻き付ければ、正面に来るのは、洗踏房 水賜伊(水汲み)の6文字だった。
位の高い女官の部屋を選んだのにはワケがある。その部屋は監察官として優秀なチョンイムが担当するはずだ。清の密貿易事件のときに学んだ暗号メモの解き方は、チョンイムも知っている。筆跡鑑定の達人でもあるチョンイムがこの巾着を見つけることを、トンイは期待した。
準備が整ったところで、予定通り監察府の女官らが洗踏房へあらわれた。
洗踏房の女官らは、検査の間、部屋の前庭へ整列して待たされる。水汲み係のトンイも列の一番後ろに隠れるように立って、監察府の女官たちの顔をのぞいた。
その懐かしい顔ぶれを見て、トンイは胸がいっぱいになった。
だがそれも束の間、次の瞬間には心臓がドキリと鳴った。チョン尚宮の隣には、まるで監視でもするみたいにユン尚宮が厳しい表情で付き添っていた。
不運はまだ続いた。ユン尚宮が自分のお気に入りのウングムとシビに、身分の高い女官の検査を任せたのだ。2人は新人なうえ、仕事の能力も冴えなかった。チョンイムは2人がちゃんと部屋の隅々まで隈なく検査しきれるのか心配ならしく、浮かない表情をした。
「検査をはじめよ!」
ユン尚宮の命令とともに、監察府の女官たちが宿舎の階段をあがって、縁側から担当の部屋へと入っていった。
トンイはひたすら祈りながら成り行きを見守った。すでに計画の失敗を予感しながらも、ウングムとシビが巾着を見つけてしまうかどうかが気になった。
検査を終えた女官らが部屋から出て来たとき、ウングムとシビの2人は戦利品を前に、まるで勝ち誇ったような顔つきだった。トンイは2人が手にしたトレーを、遠くから目を凝らして確認した。
没収品は巾着が2つ。あとは長い房つきのストラップが2〜3個だけだ。
幸い、暗号メモの入った黄色い巾着はない。
でも誰にも見つけられず、いまだ木箱の脚の下に残されたままなのも悲しかった。
監察府の一行は、没収品のトレーと一緒に、洗踏房を去っていった。
チョン尚宮とチョンイムの姿が遠く離れていくのを眺めながら、トンイはやり切れなさと、もどかしさから、再び胸が押し潰されそうだった。

驚いたことに、しばらしてチョン尚宮とチョンイムの2人が血相を変えて、洗踏房へ戻って来た。
トンイに会いに来たのだった。
手には巾着に忍ばせておいたあの暗号メモが、しっかりと握られていた。
「あとでもう一度、私が部屋を調べ直したのよ。あの2人では見逃しがあるに違いないと思ったから。あなたの筆跡だってすぐわかったわ」
チョンイムは一気に説明したあと、泣きそうになりながらこう付け加えた。
「死んだかと思っていたの。それでもヨンギ従事官様が、最後まであきらめずにどれだけあなたを捜していたことか。お兄さんも。それに王様もよ」
すぐに王様を呼んでくるから待っていなさいと言って、チョン尚宮はトンイを大きな門扉の影に隠れさせて、チョンイムと王宮殿へ向かった。
ところがいくら待っても、2人はなかなか帰って来なかった。そのうち宮殿が騒がしくなり、義禁府の兵士が行き来しはじめた。
トンイの目の前を、義禁府のオ・ユンと兵士たち、縄で縛られたチョン尚宮とチョンイムが通り過ぎていった。
オ・ユンの声が辺りに響いた。チョン尚宮とチョンイムは、イニョン元王妃と密会したのが原因で捕まったらしかった。
イニョン元王妃の小屋を度々訪れていたチョン・イングクも捕まった。
イニョン元王妃は、オクチョンのお茶に毒を入れた事件の最重要容疑者だった。

チャン・ヒジェ率いる捕盗庁の兵士も加わり、宮殿内はますます慌ただしくなった。
ぼやぼやしている暇はない。トンイはいったん宮殿の外へ逃げることに決めた。
騒ぎは内側から外へ向かって広がっていったため、城壁門の前までは、まだ物々しい雰囲気は届いていなかった。すでに検問を受ける人の列は出来ていたが、主に荷物の中身を調べているらしく、手ぶら姿のトンイはすぐ通過が許され、追い立てられるように宮殿をあとにした。
夜になり、高台から見える宮殿は、足元の方から紺色の霧に包まれた。
あんなに近くにあるのに、なんて遠いのだろう。
家々の瓦屋根の遥かかなたに、闇の空が広がっている。お父さんやトンジュお兄ちゃんを思い出して、トンイは寂しくて仕方がなかった。

王様は静かな夜の町を散歩していた。ふと聞き覚えのある弦のはかない音色が耳に入り、足が勝手にそちらの方へ動いた。とても哀れな音色のように思った。
前に2度ほど聴いたのは宮中の庭だった。風によっては極端に小さくなって、音そのものの存在を疑った。
いったい誰が演奏しているのだろうと不思議になり、耳を澄ましてたどりだした途端、いつも音色はパタリと消えた。おつきの内官には最初から聴こえていないようだった。空耳だったのだろうか…
ところが今夜は、歩くほどに音がはっきりした。ふと気がついたときには、王様はトンイやその仲間の楽師たちといつか酒を酌み交わした思い出の酒場へ来ていた。
すでに店は閉まり、明かりも消えひっそりしている。大木の生えた縁台に座り込んで、幹に背中をもたれた女が、涙を流しながらヘグムを奏でていた。
王様は驚いて、懐かしそうに目を細めた。
「トンイ…」
声に気付いてハッと立ちあがったトンイを、王様はまるで幻でも見たかのように、とっさに抱きとめた。その力強さのわりには、王様の愛情は染み入るようにトンイの心細さをふんわり包み込んだ。
王様の感動は長い年月を超えて、来るべきしてたどり着いた目覚めのようだった。
トンイである。トンイであったのか…
王様はトンイを、今ようやく自分の胸にしみじみと感じることができたのである。



2011/10/18更新
Posted by d_nose00 at 00:28  | トンイ(長いあらすじ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「トンイ」あらすじ 27話

ソ・ヨンギ従事官は義州から都へ戻ってきた。
トンイの行方がいまだ不明であることを王様に告げたあと、用意された隠れ家へと移った。
一方、都の様子を詮索に出かけたチョンスは、自分の下宿前に怪しい3人の男らがいるのを見た。黒い刀のさやに手をかけたまま、石垣から腰をかがめて、ひそひそと中庭をのぞき込んでいる。
目立たない軽装からして、兵士ではないことがわかる。恐らくチャン・ヒジェの送り込んだ手下たちだろう。
ということは、彼らもまたトンイの行方を追っているのだ。
トンイはチャン・ヒジェのもとから、上手く逃げ出したに違いない。
街中では楽師のジュシクとヨンダルを見かけた。その彼らから少し遅れて、チャン・ヒジェの手下らが、影のように2人のあとをつけて行った。トンイとの接触の瞬間を狙っているのだ。
都の関所では検問が強化されたらしい。チャン・ヒジェが、捕盗庁の大将として、大規模に兵を動員したのだ。ヒジェの本当の狙いとは裏腹に、都でトンイはいまだ放火犯とされた。
町のいたるところで、トンイの人相書きを手にした兵士らが聞き込みをする姿が見られた。
城壁前では、荷物運びの男らとは別に、女だけが左側に長い列を作らされた。
特に若い女の出入りは、念入りに調べるよう通達が出たためであった。
腕や肩などに鋲のある服の兵士が、女らの顔を人相書きと見比べている。身分証の木札のチェックを終え、ようやく鉄板の扉のアーチ門を1人が通過できた。
都へ入れても、今度は王宮に入るのにまた検問が待っていた。
チョンスはジュシクとヨンダルに近づくことも出来ないまま、とりあえずヨンギの待つ高台の隠れ家へ向かうことにした。
山をのぼりながら、自然と足が速まった。
隠れ家は角柱と瓦屋根を使った白壁作りだった。
玄関先の反対側は、廊下とベランダを兼ねた吹きさらしの板部屋になっている。やたら家が長いのは、白壁に格子扉がいくつも連なっているためだ。
ベランダの足元に置かれた一枚岩に、舟形の靴が2つ並んでいる。
客が来ているようであった。

ヨンギの案内した一番奥の部屋へは、おつきのハン内官は入らずに、王様だけが入った。
ヨンギは王様のために上座を空け、向かいへ座った。
「そなたの報告を聞いてから、昨晩は一睡も眠れなかったのだ。今頃トンイはどこで何をしているのか…」
王様は心配のあまり、とうとうお忍びでここまでやって来たのだった。本当のところ気が変になりそうなほど悩んでいた。
ヨンギと話をしたからといって、何か進展があるわけでもなかったが、じっとしているよりは、いくらかマシなように思えた。
それともう一つ。渡しておきたい物があった。
ヨンギは、王様が卓上机へのせた平たい漆塗りの木箱のフタを、一体何かと考えながら、くるりと開けた。そして思わず問いただすような目つきで王様を見返したのだ。
黒光りした丸石に彫られたのは、御令の2文字だった。文字の溝に塗り込まれた赤色が、いっそう文字を堂々と見せた。
令牌(ヨンペ)である。
丸金具に通された持ち手の房が、丸いヨンペに沿わせるように木箱にきちんと納められていた。
これさえ使えば国の掟やどんな命令よりも優先される。以前、王様に授かった発兵符よりも、もっと強力な札だった。ヨンギは王様の決意を見た思いがした。
帰り際、靴を履こうとして、王様はふと土の上に肩ひざをついて控えるチョンスの姿に気付いた。
トンイと幼い頃から一緒に育った実の兄妹のような仲だと、ヨンギから聞いている。しかし実際に会ったのはこれが初めてだった。大人しそうな目から、かなりの武術の腕前というのは想像がつかなかった。トンイのことを心配する悲しい若い男の目だった。
しかし王様は、むしろこのチョンスがうらやましいとさえ思った。王様には自分の足で1日中トンイを捜し回ることは、許されない行為であった。

王様が帰ったあと、ヨンギはチョンスと地図を広げて計画を練り直した。
ヨンギはこれだけ厳重な警戒では、トンイが都へ入るのは難しいと考えた。が、チョンスの方は、ひょっとするとすでにトンイは都へ入っているのではないかと思うこともあった。
王墓の周辺は最も警備が厳重だ。トンイが潜入するならシンかヤングン方面だろうというのは2人の意見が一致した。
ヨンギはさっそくその方面へ出向いて、あちこち聞き込みをして回った。日が沈みだしたので、最後に酒屋の女将にトンイのことを尋ねた。しかしやはりここでも手がかりはなかった。
別行動をしていたチョンスを迎えに行ってみると、広い野原の中に立っていた。
草の根元をタイマツで照らし、掻き分けては、トンイの落とした手がかりが何かないものかと、あてもなくさ迷っているのだった。夜に浮かんだ白い花畑の静けさに、その姿は何かとりつかれたようにさえ映った。
もういい加減に止めるよう注意され、チョンスはようやくこの日の捜索をあきらめた。
ヨンギの厳しい目が光った。
「おぬしはトンイが女官だというのを忘れてはいないだろうな…?」
「それはどういう意味でしょう?」
チョンスの顔にはあきらかに戸惑いが浮かんだ。それは何かを恐れているようでもあった。
王様に見初められる女官は一握りにしろ、何はともあれ王に仕える女の身である。このことをチョンスが知らないはずはなかった。
ヨンギはもう少し踏み込んだ。
「おぬしの頭の中には、まるでトンイのことしかないようだ」
「それは親友と父のような方に、トンイを守ると約束したものですから…。トンイは本当の妹みたいだというだけです」
チョンスはきっぱり言い切ることに不安を感じた。打ち消そうとしても、どこかに迷いが残った。このような気持ちでヨンギの気がかりを消せたとは思えなかった。

今年の親蚕礼(チンジャムネ)は宮殿の外で行われることが決まった。
王妃主催の養蚕を奨励する儀式であった。この儀式の準備のために、女官たちは桑の葉を用意したり、くっ付き合った抜け殻のまゆ玉を1つずつはがしたりした。
オクチョンも式辞に事前に目を通して、儀式の日を待った。
当日、舞台は前庭へ設置された。通り道から階段、舞台の上まで赤いカーペットが敷かれ、舞台から四方へ向かってツリー状にヒモが張られた。架空の動物が描かれたハンカチと筒ちょうちんを、色とりどりに吊るすためだった。
舞台の両端にひな段とテーブルも用意され、桑の葉や蚕、まな板が置かれた。
3重に編まれた卵型のかつらを身につけたオクチョンが、赤いカーペットを通って舞台へあがっていく。各部署の尚宮や女官たちが、道を挟んで見守った。兵士と少数の内官、楽師、村の見物人の他は、出席者は女性陣のみで占められた。
オクチョンのかつらの中央についた巨大な赤いまゆ玉の飾りが、特に人々の目を惹いた。
肩から袖にかけての金の刺繍は、地色の赤を鮮やかに惹きたてた。
あじさいの金刺繍が眩しいほど白い垂れ袖に栄えた。
楽師らの琴や横笛や太鼓の音色がコトン…コトンと流れていく。まるでこの場所だけ時間が止まったかのようだった。
“採桑”は葉を摘む儀式である。
オクチョンが袖の内側の赤い生地をちらりとのぞかせて、園芸バサミで桑の高枝から葉を3枚、形式的に摘みとった。
女官がその葉をまな板で細切りにし、オクチョンの手の平に一つかみのせる。オクチョンがそれを桑の葉のベッドでうごめく白い芋虫たちに餌として与えると、儀式は終了となった。

次には庭での食事会が催された。出席者は重臣の妻ら10名だった。ピンクの淡いテーブルフラワーを中心に、巨大な円卓にはリンゴや梨の果実の他、餅団子やオコワ料理などの皿がぐるりと4周にも渡って並べられた。
ここでも楽師らはゴザに座って演奏をした。音楽がゆったり流れるなか、奥様方はオクチョンがとつぜん湯のみを落としたのに驚いた。
湯のみは倒れてカラカラとコマのように回っていた。
それから目をふらつかせて気を失ったオクチョンを見て、ようやく一大事が起きたことに気付いたのだった。

王妃の部屋へは、主治医の他、女官2名が入って行った。
解毒処置が行われたものの、意識は戻らないままだった。
王様にはトンイの心配に加え、オクチョンの容体や、オクチョンに毒を飲ませた犯人が一体誰なのかというのも、心にのしかかった。
しかし何の解決策もなく、重い気分でとりあえずハン内官と庭へ出たとき、庭の裏口のレンガ塀の方から騒がしい声がした。
洗踏房の若い水汲み女が、なぜかこんな奥まで迷い込んだらしく、見張りの武官と言い争っている。女は怪しまれて、今にも捕えられそうな雰囲気だった。



2011/10/11更新
Posted by d_nose00 at 00:26  | トンイ(長いあらすじ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「トンイ」あらすじ 26話

チョンスと旅を共にしていたヨンギは、途中で役所の馬舎に立ち寄るようにしていた。疲れ果てた馬を交換することができるからだ。
柵の間仕切りごとに、馬の数だけラベルみたいに軍旗がはためく横長い小屋だった。
馬の品定めはチョンスが担当した。柵から人懐こく顔を出してくる馬たちの足元には餌用の桶が置いてあった。床に敷かれたワラはふかふかだ。スモックを羽織った作業着の男らが、見張り兼、馬の世話係らしい。
馬を交換したらすぐ義州へ出発するつもりだったのが、常駐の役人から王様の手紙を受け取った。
トンイ捜索の進展を聞きたがっているようだ。
ヨンギはチョンスを連れて、急きょ都へと予定を変更した。
都に戻って来たのは久しぶりだった。とは言え、密命のため堂々と羽を伸ばすわけにはいかなかった。
王様の私邸まではヨンギ一人で行った。のどかな村の道を歩きながらも、たびたび後ろを振り返っては、尾行のないのを確かめた。
やがてどこまでも続く私邸の塀が、木々や草の間にちらちらと見えはじめた。
周辺の田畑より一段高い私邸の入口へは、小石を固めた石段で渡してあった。
王様の部屋へ通されたヨンギは、手のひら大の丸石を差し出した。
「旅の途中の行商人が、互いに連絡を残すために塚へ積みあげて行く石手紙というものです。最近、都へ連絡したがっている若い女がいるという風の頼りを、ある行商人から聞き調査したところ、これが見つかりました」
王様は石を手に取って、感慨ひとしおになった。

”チョン・トンイ 義州”

トンイが手がかりを残そうと、旅人に託したものに違いない。その必死さが墨の文字から、ひしひしと伝わってくるようだった。
「女はどこかの商会の下女だそうです。しかしまだ本人かどうか確かではありません」
ヨンギはあくまで慎重だった。
王様の期待をずっしり背負い、チョンスと一緒に再び義州へ向けて出発した。
馬の疲労が激しかったが、途中でまた元気のいいのに交換すれば、早いうちに到着できるだろうとばかり思っていた。
「馬は一匹もいませんよ。義州へ行く一行が立ち寄った際に、すべて出払ってしまいましたから」
常駐の役人は、やや困り顔で答えた。一般人と同じ格好をしたヨンギが、かつては捕盗庁の隊長を務めたほどの人間とは、わからなかったのだろう。
ヨンギは王様から授かった発兵符をぎゅっと手の中に握り締めた。これまで困難に遭うたびこの木札の力をふるってきた。しかしこうして今、ない馬を出せと命じても、すぐには無理というものだ。理屈ではそうわかってはいても、珍しくヨンギはイライラとした。
歩いていくには、まだ相当の距離がある。
「で、その義州へ向かった一行とは誰かね?」
「ええ、チャン・ヒジェ様のご一行です」
思ってもみない名前だった。チャン・ヒジェがトンイのいる義州へ…。何のためだろうか。
腹の底がひやりとし、脈が浅く早くなった。
馬の確保はチョンスが奮闘した。山まで足を伸ばして、夜の闇にぽつんと明かりの灯った馬屋つきの宿場を見つけたのだった。
馬を貸して欲しいと頼むと、小さな麦わら帽をちょこんと頭にのせた40歳前後の男が、今残っているのは病気の馬だけだと答えた。それでもないよりはマシだと思ったが、ヨンチョンまでも走れないだろうと言われて、あきらめることにした。
はたと思いついて馬の訓練所をあたってみた。
まもなくチョンスが、片方の手でもう1頭の馬の引綱を引っ張りながら、馬に乗って戻って来たのを見て、ヨンギはいくらかホッとした。
馬の手綱を受け取るなり、ヨンギもそのまま飛び乗り、義州へ向けて走り出した。
翌日、義州へ着いてまず向かった先は、港の市場だった。狭い桟橋の両側には、カゴや色とりどりの木箱などを並べた店が、通る道がないほど並ぶ。客には清国人の姿もあった。
切りひらいてある獣の皮を吊るした店先の男に、ヨンギが「規模の大きな商会はどこかね?」と尋ねた。
すると男は、キム商会、チョ商会、ピョン商会の名をあげた。

事務所にいたピョン社長は、とつぜん乗り込んできたチョンスに、喉元に刀を突き付けられて、目を白黒させた。
ピョン社長の目には、チョンスは見境のないほど殺気だった男に見えた。その後ろに立っているヨンギはまだマシだった。危害を加えるつもりはないから、トンイの居所を教えて欲しいと断りを入れた。
ピョン社長はさっぱりわけがわからなかった。夜にもチャン・ヒジェと手下たちが押しかけて、トンイを強引に連れ去っていったばかりだったからだ。
トンイが商会から逃げやしまいかと心配することはあっても、まさか横取りされるなんて思ってもみなかったことだ。
トンイを失い、心にぽっかり穴が空いたようだった。しかしヒジェを訴えれば、今後の取引に影響するだろう。ピョン社長の心の中で、トンイへの思いが商売人の欲を超えるといったことは今のところありえなかった。

ヒジェは滞在先の屋敷に戻ると、トンイを部下に見張らせ、自分は先のことに頭を悩ませた。
「謄録類抄」とは国境警備の配置を記した国家機密の軍事本である。
これは今ピョンヤンにあり、義州の長官に取りに行かせている。
清国の皇帝が、この「謄録類抄」をひどく見たがっているらしい。
世子の承認を貰うのと引きかえに、国家機密の資料を売り渡すことに、ヒジェにためらいはなかった。別に本当に戦をするわけではない。
むしろ問題はシム・ウンテクだった。
口封じのため始末しようにも、姿をぱったり消してしまったのだ。
流刑の身でもし義州を出たなら罪になる。人相書きのビラをまいて、義州の兵たちに、もっか捜させているところだった。
帰国の船が港につき、清の官吏からは「謄録類抄」の催促があった。
いくら拷問してもトンイがシムの居所を吐かないと部下も言ってきた。
ヒジェは何もかもが待ち切れなかった。
長官の帰りが遅い。それが一番気になった。
これ以上はトンイを生かしておいても仕方がないように思え、始末するよう手下にゴーサインを出した矢先、なんとシム・ウンテク自ら、のこのこと訪ねて来た。
「トンイを今すぐ解放してください。その代わりあなたが喉から手が出るほど欲しがっているものを差し上げましょう。“謄録類抄”ですよ。私がピョンヤンへ先回りして取って来たのです。嘘だと思われますか? まだ長官が帰って来てないのでしょう? きっと今ごろ血眼になって、消えた“謄録類抄”を探していますよ」
ヒジェは生意気なこの若い男に、はらわたが煮えくりかえりそうになった。
しかしもし話が本当であれば、少なくとも「謄録類抄」を手にいれることはできる。
トンイを開放する代わりに、シムが人質となることを申し出た。
ヒジェは条件をのむと、シムをすぐに港の納屋へ監禁して義州の兵士らに見張らせるよう指示を出した。
念のため、シムに本を手渡したというピョンヤンのチャン・ハクス判官の名が実在の人物であるかも裏付け調査させることにした。
手下たちは、シムの証言をもとに、ただちにスコップを抱えてクァンヌ橋の裏あるソンファ山へと向かった。
石碑の立った入口から見晴らしのいい高台に着くと、何本もの赤松の根元の辺りを片っ端から掘り起こした。細い根の絡まった土は、乾いた埃を豪快に舞き散らした。
その間、ヒジェは時間稼ぎのために、例の妓楼で清の官吏を再度、厚くもてなすことに一生懸命に努めた。
ソンファ山から部下が妓楼へ直行した際、一度だけヒジェが席を外した。
そして赤松の根元から掘り出された2冊の「謄録類抄」を手にして部屋に戻り、清の官吏に贈った。
表紙のタイトルを見た清の官吏は、とても嬉しそうな顔をした。
接待が終わり次第、ヒジェはシムの監禁小屋へと舞い戻ったが、おかしなことに、納屋の中には解けた縄が残っているばかりだった。
手下の報告により、警備を頼んでおいたはずの義州の兵士たちが、次々と引き揚げたらしいことがわかった。
義州の軍はすべて役所内へ連れ戻されたあとだった。
ソ・ヨンギが発兵符を使って王命を発令したのであった。

解放されたトンイは、山に囲まれた小さな渡し場から一枚帆の船に乗った。
マストのそばに行商人の荷物が3、4つ卸されているだけで、周りのスペースはガラ空きだった。
てっきりシムも一緒に行くものと思っていたのに、どうやら見送りに来ただけらしい。
流罪の身で義州を離れるわけにはいかなかったのである。
身動きが取れないことが、少し寂しそうにも見えた。
シムはトンイの手に、ある物の入った風呂敷包をのせて言った。
「きっとこの中身がお前を救い、そして私をも救うことになるだろう」
船に乗っているのは漕ぎ手をあわせて数人だった。
後尾に立つ男が、岸につないでおいたロープを水面から引き揚げた。
トンイはヨンギ従事官とチョンスが、はるばる義州へやって来たことを知らなかった。
船はそのまま都に向かって走りだした。


2011/10/4更新
Posted by d_nose00 at 00:26  | トンイ(長いあらすじ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「トンイ」あらすじ 25話

コシはちょうどトンイの目の前で止まった。トンイは顔を隠すように、急いで背中を向けた。眩しそうに細めたチャン・ヒジェの目線は、ゆっくり周囲を見まわしながら、トンイの方へ向きかけた。
「これはこれは! お待ちしておりました」
赤い衣の長官があらわれて、ヒジェと派手に握手を交わした。
コシは長官の案内で再び動き出した。役所へ向かうのだろう。
一行がそばを通り過ぎ去るまで息を押し殺し、トンイはピョン商会へと帰宅した。
相変わらず宴会の準備で庭は賑やかだった。料理の下ごしらえをする女は門のそばにしゃがみこんで、大根や菜っ葉をより分け、下働きの男はお膳を運んでいった。
竹ほうきで地面を履いていたじいさんが、トンイを見て驚いて駆け寄ってきた。
「どうして戻ってきた?! 逃げたんじゃなかったのかい?」
「ええ。でも行けなかったのです。急にあの男があらわれたから…」
トンイはひとり言のように呟いた。戻ってきた理由は自分でもよくわからない。
自分を殺そうとしたあの男の顔を、義州で見た衝撃が、まだ頭に焼き付いたままだった。
なぜとつぜん義州にあらわれたのだろうか…?
「チャン・ヒジェを見て、おまえは確かに後ずさりした。死神でも見たように怯えた顔だったな」
トンイはびっくりしてシムを見あげた。シムは勝ち誇ったようにほくそ笑んでいる。
さっき、かぼちゃの天ぷらをつまみ食いしながら、その辺をうろついていたとき、偶然にもトンイとチャン・ヒジェの乗ったコシを目撃したらしい。
「なぁに。チャン・ヒジェと私には、ちょっとした因縁があってね。まぁ奴は覚えてないだろうが…」
因縁とはシムの流罪と関係があった。王妃となったオクチョンとヒジェに対し、仲間の官吏たちとつるんで、抗議の上奏文を提出したらしい。学問を修めたまともな人間なら誰だってあの2人には不満を持つというのがシムの言い分だった。こんな調子で問題を起こしては年がら年中、どこかの土地に流されているのが、もうすっかり慣れっこになった雰囲気がシムにはあった。
シムはトンイが頼みもしないのに、勝手にこんな約束をした。
「なぜかは分からないがお前にはチャン・ヒジェを避ける理由があるのだろう。そうなると、私はお前を助けてやらねば」

チャン・ヒジェを避ける理由について、トンイは詳しい事情をシムに話してやった。
いい加減そうに見えて、シムのことをなぜかトンイは信頼できるような気がした。
シムはさっそくチャン・ヒジェのいる義州の役所に、詮索がてら出かけることに決めた。
トンイから都への手紙を預かっていた。ピョン社長に渡すよりは、お役人に頼んだ方がずっとましというわけだ。
役所に着くと、敷地を歩いていた青衣の役人に声をかけて、チャン・ヒジェの来訪目的をそれとなく尋ねた。
「さぁ。どうもわかりかねますね。誰が来たかも私どもに知らされていませんので…」
役人は困ったように目をぱちくりさせた。
となると、公に知られてはまずい重要な用件に違いない。
シムのそばを2人の男が通り過ぎて行った。案内係と通訳官だった。2人が役所の中へ入っていくのを見届けてから、シムはいったんピョン商会へと戻った。
トンイの手紙の方は、大切なものだからと役人に念押ししておいた。

トンイはシムが留守の間、社長の帳簿にこっそり目を通した。
社長はこのたび妓楼に300両つぎこんでいる。300両といえば、この辺りで一番大きな店を貸し切りにできるほどの額だった。
シムが戻ってくると、トンイはどうやらピョン社長がチャン・ヒジェを妓楼で接待するつもりらしいことを伝えた。
シムはすぐ妓楼へ行く身支度をはじめた。通訳官になりすますという。
さっき役所に通訳官が呼ばれたのを目にして、チャン・ヒジェの密談相手が清国人と推理したのだ。
家賃を支払う余裕もないシムは、ピョン社長から無断で拝借した光沢のあるサラサラした着物に着替え、意気揚々と妓楼へ出かけていった。

妓楼はピョン商会のように、塀で囲まれた敷地の中にあった。軒先や庭木のあちこちに吊り下がる提灯の、ピンクと黄色のほんのりした光の透け具合が、何とも色めかしかった。
客たちとそれを迎える女たちの声が、日暮れに溶け込んで心地よい。
シムは表門から敷地に入ると、清国の言葉の手引書にもう一度さっと目を通し、懐へしまいこんだ。
木造家屋の板ばりの門から土間のようなところを通り抜け、家の裏に出て、また次の家屋の門ところで護衛に通訳官であることを伝えた。
教えられた部屋の前へ行き、障子をあけると、チャン・ヒジェの顔が見えた。
手まりのような帽子をかぶった清国の官吏に、酒を勧めながら愛想をふりまいていたが、シムを間に座らせすぐ会談をはじめた。部屋にはシムを含めて3人だけだった。
まずチャン・ヒジェが禧嬪様の子を世子にするための承認をとりつけたいと言ったのを、シムが訳した。次に清の男が「皇帝の決めることなので難しい」と返事したのをそのまま伝えた。
「望みは何でも聞く」とヒジェがねばった。テーブルいっぱいに並んだ御馳走は手つかずだった。
しだいに混みいった内容になり、シムの通訳がおぼつかなくなってきた。
あまり通訳がたどたどしいので、清の官吏が首を傾げはじめる始末だった。
突然しびれを切らしたヒジェが、息を大きく鼻で吸い上げ、怒ったように笑い出した。
「もうよい。お前はさがれ。その程度なら私が話した方がはるかにマシだ」
シムはしまった! と思った。チャン・ヒジェは清国の言葉がある程度わかるのである。
シムが妓楼を出たとき、日はすっかり沈んで、町の通りは静かな闇の海となっていた。
自分の足音を聞きながら、シムは今日の失敗を少しだけ反省した。
ニセ通訳官であることを、ヒジェはとっくに見抜いていたのだろうか…?

ヒジェはあの怪しげな通訳官の顔が、どうもどこかで見覚えがあると引っかかっていたが、その謎は翌日になって解けた。
昨夜の交渉について、長官と密談を交わしていたとき、シム・ウンテクから預かった手紙を長官に検閲してもらいたいと、一人の役人が執務室へ入ってきた。
その名前を聞いて、ヒジェはようやく思い出したのである。
シム・ウンテクは、オクチョンを屈辱する内容の上奏文を提出した要注意人物であった。
ヒジェは役人の持っていた手紙をすぐ開いてみた。
手紙は2枚綴りだった。その2枚目の最後に書かれた署名は、しかしシムのものではなかった。
死んだはずのチョン・トンイの名を、ヒジェはそこに見たのである…

てっきり今日も平穏のまま、日が過ぎていくようにオクチョンは感じていた。
ところがオ・テソクと甥のオ・ユンが訪ねてきたことで、憂うつな影がさした。
彼らが来るということは、何か知らせるべき事柄が起きたという兆しだった。
1つは、王様がイニョン王妃を追放されたのを悔んでいるとの噂話が出ているという知らせだった。噂話にも、それを気にするテソクにも、オクチョンはうんざりした。
オ・ユンの報告は、意外なことに天地が揺れるほど重大な内容だった。
それは王様に罷免されたソ・ヨンギ従事官の驚くべき近況報告であった。
調べによると、全国各地を回りながら、密かに若い女の行方を探しているという。
罷免されたはずのヨンギが、必要なときには王様の兵まで動かし、自由に活動をしているのだと言われても、オクチョンはすぐには信じられなかった。
ソ・ヨンギのそうした活動が王命によるものであることを示していたからである。
表向きはソ・ヨンギを解雇しておきながら、密命を下していた。
その目的は何か…? 
まさかトンイが生きているなど、オクチョンは一秒たりとも考えたくはなかった。しかしすべての答えは1つの真実だけをさしていた。
トンイが生きている。
生き延びたトンイを、王様が血眼になって探している。
結局、自分は王様に騙されのだろうか?
妻子に偽りの笑顔を向けながら、その裏ではトンイへの思いを胸に秘め、トンイの帰りを待ち焦がれていたのだろうか…?



2011/9/27更新
Posted by d_nose00 at 00:25  | トンイ(長いあらすじ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「トンイ」あらすじ 24話

あれからだいぶん経った。オクチョンが就善堂から王妃の御殿へ住まいを移したとき、まだ部屋のあちこちにはイニョン王妃のおもかげが残っていた。
屏風に描かれた巨大な蓮の芯が、首をぐったり垂れる姿は、どこか憂うつだった。庭に出ると白い蝶が、内側の黒い羽を広げ、蜜を吸っていた。平たいハート型の花びらに、白い袋がしずくのように垂れ、その中心にほんのりさす黄色い線が、消えゆく炎に見えた。それはまるで、はかないイニョン元王妃を思わせた。
オクチョンは尚宮に、就善堂の牡丹をこの庭へ植え替えるよう言いつけた。自分にはもっと華やかなのがいいと思った。
王妃になってからとういもの、眠りが悪くなった。行方不明のはずのトンイが突然あらわれ、皆の前で今までの悪事をばらし、ついに自分が捕まえられる夢を見た。そうしてうなされるうち目覚めるようなことがあった。
昼間はまったく平穏だった。よちよち歩きの王子を取り囲んで、女官らが太鼓や手など鳴らしてはやし立てる。王子が音のなる方へあっち向きこっち向きする姿や、王様が王子を抱きあげるのを眺めていると、ただ幸せなだけの夫婦のようであった。
「私の部屋へ久々にお寄りになりませんか?」
「いや、すぐ仕事へ戻ろう」
オクチョンの胸は密かに傷ついた。王様はいつもこうだった。
しかしオクチョンは王様の言いワケをできる限り信じようと努めた。真実に目を向けることを恐れた。王様の寂しそうな目に気付くことはあっても、まさかトンイのいなくなってからの日々を王様が毎日、100日と20日、21日と数え、深いため息をついている事までは想像もしなかった。トンイを待ち続けることに、王様は疲れ果てていた。
王様が考え深い様子で塀の向こうを見上げたので、オクチョンもつられて見た。
職人が軒先の裏にハケで色を塗っている。
内需司の書庫の立て直しは順調に進み、すでに楼閣部分が完成間近だった。
「いつの間に。あんなに焼けた内需司の書庫が…」
と王様が呟いた。内需司の書庫という響きに、オクチョンの心臓はドキリとした。

イニョン元王妃の家を、西人の重臣チョン・イングクが訪ねてきた。
手に1冊の本を持っている。「謝氏南征記」は、情けない男が女におぼれて正妻を追い出すという話だ。ちまたで今、売れに売れてベストセラーとなっていた。登場人物のモデルは王様とオクチョン、それにイニョン元王妃であった。
民の心がこの本によってイニョン元王妃の方へ大きく傾いているというのを、イングクはわざわざ知らせに来たのだった。
だからといって、イニョン元王妃はこの本を読みたいとは思わなかった。むしろそんな作り話に心が惑わされないよう自分の気持ちを引き締めようとした。
「しかし王様もお読みになっていらっしゃるんですよ?」
イングクは恨めしそうな顔をしてみせた。
民心が動きつつある…。オクチョンはこの本で、王様の心が大きく揺さぶられることを恐れた。特に気になるのは、最後には男が正妻とよりを戻すという筋書だった。
オクチョンの命により、持ち物検査が強化されたにも関わらず、女官たちは目を盗んで、「謝氏南征記」を読みたがった。
監察府のテーブルには没収された「謝氏南征記」が山と積まれた。

トンイは桜の花びらを、スカートのすそで掃くようにして橋を歩いた。
橋のうえは、散り始めの花びらだらけだった。
しばらく港の桟橋を散策し、ピョン商会へ帰宅したのは、もう晩だった。
首を長くして待っていた社長は、チヤホヤと駆け寄ると、トンイに無理やり煎じ薬を飲ませた。社長は小柄な丸い男であった。鋭い目つきがトンイを見つめるときだけ、情の深いつぶらな瞳になった。
トンイの体の回復はまだ完全ではなかった。刺客の投げた手裏剣が、肩と心臓の辺りにぐさりと命中し、ようやく意識を取り戻したのは2カ月後のことだった。かいがいしく世話をしてくれたピョン社長には感謝している。
王様に会いに、山をのぼったところまでは覚えていた。気を失う寸前だったか、空からか頭の中からか、長いラッパの音色が響いた。

トンイが宮廷の女官であったことは、ピョン社長は知らなかった。社長はトンイがきれいなのが気にいって看病することにしたのだ。医者もさじを投げるほどの状態だったのが、いざ元気になってみると先見の明があり、商売にも向いていることがわかった。
取引の対応などは、トンイ一人に任されるようになった。
トンイは事務所に案内された2人の商人が、国境近くから来たのをひと目で言い当てた。
花傘をかぶった男たちが履いているのは、中央に縫い目を合わせた布靴だった。足袋に似て、先がつんと尖ったその靴は、清国で流行中のポヘと呼ばれる。
木綿10反、絹5疋、ポヘ20足を納入した男らは、次に来るときには木綿を20反も仕入れるようトンイに言われて、不思議そうに顔を見合わせた。
「近くに妓楼ができるんです。だから木綿の下着が必ず必要になるでしょう」
トンイはきっぱり言った。
取引だけでなく、部屋の拭き掃除まで何でもこなした。
こんな重宝な娘はいない。最近ではトンイのおかげで、社長はうんと楽ができていた。
トンイの姿が少しでも見えないと、社長はトンイと仲のいい下働きのじいさんを問いただした。「逃げたんじゃないだろうな…?!」
じいさんは心配になった。手塩にかけて世話を焼いた女だ。社長は殺してでも絶対トンイを手放しやしないだろう…
都へ届けて欲しいとトンイから何度か預かった手紙を、ピョン社長はこっそり引き出しの奥へしまい込んだ。

義州の港がひときわ賑やかなのは、清国の商人が来るからだった。港の桟橋からはじまる市場は、街の通りへと続き、その中にピョン商会もあった。ピョン商会の塀で囲まれた敷地内には、調理場、納屋、客用、使用人の住む小屋などがある。裏庭には調味料を寝かせた塀の高さと同じくらい大きな壺が、茶色のいい色つやをして20個以上も並んでいた。
あるとき朝廷から赤衣を着た長官がピョン社長を尋ねて来た。
流罪となった両班の男に部屋を提供して欲しい。若いがやっかいな男で頭痛の種になっている。その見返りに、都の貴賓客の接待を任せたい。上手くやれば倭国とも商売できるようになるだろう。ただしその方の来訪は隠密のため、周りには決して漏らさぬように…とのことである。
こういう根回しもあって、ピョン社長はなかなか商いが上手くやれているというわけだった。
そのやっかいな男、シム家の25代目は、ピョン商会へ顔を出すなり、宿賃を稼いで来いと、いきなり社長に黒豆の入ったカゴを押しつけられた。社長の用意したのは一間ばかりの客間だった。シムは渋々、市場へ出かけ、1升1銭で販売を開始したものの、どうも売れ行きは芳しくなかった。途中から黒豆を買ったらおまけに占いをつけるというアイデアを思いついた。するとさっそく客が1人ついた。持っていた歴史書「通鑑節要」を読み上げるふりをしながら、さももったいぶった口調で、でたらめに占ってやった。どうせ客は字など読めはしない。
この調子でいけば黒豆は全部さばけるだろうとシムがほくそ笑んだ矢先、とつぜん奴婢の格好をした若い女がしゃしゃり出てきて「通鑑節要」をバサリと取り上げた。
「あくどい商売はいけませんね。これは歴史書でしょう? 詐欺を働くなんてあんまりです!」
やむなくシムは、大量の豆を売り残して帰宅した。ピョン社長はシムの部屋を客間から納屋に移させた。
それにしてもシムには疑問がわいたのである。厨房にいた女にそれとなく聞いてみると、どうやらさっきのはトンイと言う名で、ピョン商会の下女だという。良家の娘達がその難しさに敬遠するほどの歴史書を知っているとは一体、何者なのだろうか?

トンイはピョン社長の部屋へ呼ばれて帳簿の整理を手伝った。途中で社長が出かけてからは、一人で片付けを済ませた。紙を折り畳み、細ヒモでくくった束を、足元の棚へ納めようと扉を開いたとき、手紙の束を発見した。トンイが書いたチョンス兄さんやヨンギ従事官宛のもので、今までのもの全てがここに貯め込まれてあった。
(最初から出す気がなかったんだわ!)
トンイはひどいショックを受けた。手紙が届けられてないとなると、いまだ自分は消息不明のはずだった。皆どんなに心配しているだろう!
こうしちゃいられない。何とか社長に気付かれずにピョン商会を抜け出そうと、風呂敷包1つまとめ、こっそり庭へ出た。
庭は賓客を迎える準備で、ちょうどごったがえし、下男たちが木づちでテントに杭を打ち込む音が響いた。リンゴやジャガイモがザルに山と盛られ、準備のため縁台には、とっくりが並べてあった。主婦たちは庭の空いたところにしゃがみ込んで料理の腕をふるった。
野菜の千切りを炒めながら、女は額の汗をぬぐった。衣をつけた輪切りかぼちゃが鉄鍋で焼かれた。おたまで生地を流してクレープも作った。
人混みと物の中を抜け、外に飛び出したトンイは、賓客をのせたコシがピョン商会の方へ、のんびりやって来るのに気付いた。
都から義州まで長旅の疲れからか、男は口をとがらせ、かったるそうに椅子にふんぞり返っている。
その顔が誰なのか、トンイにはすぐわかった…


2011/9/20更新


Posted by d_nose00 at 00:24  | トンイ(長いあらすじ) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする