November 05, 2011
Three years ago right now
オバマ大統領は3年前の今日選ばれました。オバマ大統領関係のメルマガ配信より転送。来年のいまごろ、再選挙がありますね。どうなるんでしょう。円高ドル安も。
(英文のみ)
Three years ago today, Barack Obama was elected President of the United States.
And right around this time, he stepped onstage in Chicago to address the American people for the first time as President-elect.
A lot has happened since that night in Grant Park.
But to win in 2012, we'll need a grassroots campaign that's even stronger than the last, and we can't afford to wait to get started.
Watch the video we put together highlighting election night 2008 and the last three years, and then commit to be a volunteer for 2012.
Here's what the President said three years ago tonight:
"Even as we celebrate tonight, we know the challenges that tomorrow will bring are the greatest of our lifetime. ... The road ahead will be long; our climb will be steep; we may not get there in one year or even in one term. But, America, I have never been more hopeful than I am tonight that we will get there. I promise you, we as a people will get there. ... but there's so much more to do."
Everyone should be proud of what we've accomplished since then, but as the President said, there's so much more to do. What happens on November 6th, 2012, is up to us.
Commit to volunteer:
http://my.barackobama.com/Commit-to-Volunteer-for-2012
Thanks,
Messina
Jim Messina
Campaign Manager
Obama for America
(英文のみ)
Three years ago today, Barack Obama was elected President of the United States.
And right around this time, he stepped onstage in Chicago to address the American people for the first time as President-elect.
A lot has happened since that night in Grant Park.
But to win in 2012, we'll need a grassroots campaign that's even stronger than the last, and we can't afford to wait to get started.
Watch the video we put together highlighting election night 2008 and the last three years, and then commit to be a volunteer for 2012.
Here's what the President said three years ago tonight:
"Even as we celebrate tonight, we know the challenges that tomorrow will bring are the greatest of our lifetime. ... The road ahead will be long; our climb will be steep; we may not get there in one year or even in one term. But, America, I have never been more hopeful than I am tonight that we will get there. I promise you, we as a people will get there. ... but there's so much more to do."
Everyone should be proud of what we've accomplished since then, but as the President said, there's so much more to do. What happens on November 6th, 2012, is up to us.
Commit to volunteer:
http://my.barackobama.com/Commit-to-Volunteer-for-2012
Thanks,
Messina
Jim Messina
Campaign Manager
Obama for America
【日記の最新記事】
November 03, 2011
アイデンティティを決めるのは自分
診断とレッテルの続きで思っていることを書いておきたい。
レッテルがだめだというのなら、「あなたはろう?難聴?聞こえる人?」と尋ねることもレッテルを貼ることになり、とても失礼だということになってしまう。
私はそこで、ちょっと待てよ、と思う。自分が何者か、というアイデンティティを持つことは非常に大事なんじゃないだろうか。自分はろう?難聴?聞こえる人?それすらも分からなくて、どうやって社会で生きていくんだろう、というのが、「私」の集合体である客観的な概念であると理解してきた。
ただし、アイデンティティというのは自分で決めるものである。まわりが「難聴だろう」と思っていても、本人が「ろう」だと思うと主張すれば、それを否定してはいけない。逆もまた真なりである。まわりが「ろうだろう」と思っていても、本人が難聴だと思っていれば、難聴でいいんじゃないか。「医学的には全ろうだけれど、本人は聴覚口話をマスターして聴者社会で生きようとしている。ろう者であるという意識は低く、ろう文化にたいする関心は低い」というようなアセスメントはできる。これはレッテルではない、と私は思う。
レッテルというのは、「あなたは聾だというけれど難聴にちがいない」というような行動のことを言うんじゃないだろうか。
ところが、こういうケースではどうだろう。「自分は聾とか難聴とか健聴とか考えたくない。決められたくない」と思っているケースで、医学的な診断をカミングアウトすることもなければ(つまり、障害者手帳何級だとか、聴力レベル何デシベルだとか)、ろうか難聴か健聴かということも言わない(言いたくない)人がいる。
私はそういう人に出会ったことがある。たしかに奇妙な感じがしたが、ま、いいか、と思った。なぜなら、手話で話すことができたからである。できれば、聞こえるか聞こえないか分かった方がありがたかったが。というのは、聞こえているかどうか分からないために、もし相手が聞こえていれば尋ねられる情報にアクセスしていいのかどうか分からないからである。でも、それも「尋ねず自分の関心の範囲は自分で解決する」と心を定めれば、大して問題にもならなかったし、議論する気にもならなかった。
「あっそう、わかった」
で終わったのである。ただ、私じしんは「あっそう、わかった」と一応なっとくして、論争もせず、私のメンタルノートに「Aさん、ろうか難聴か聴者か、アイデンティティ不明な人、手話はできる」と記したのであるが、多くの人に「変わった人だな」と思われるのは仕方がないと思った。事実、Aさんが多くの人に「なんで?」と思われて疲れるやりとりを重ねている風景を目の当たりにしたのだけれども。
で、私はちょっと考えたのである。もし、完全に聞こえるひとならば、「私はろうか難聴か健聴か考えたくない」となど決して言わないだろう。完全に聞こえる人は、聞こえる世界が当たり前で、ろうでも難聴でもないのである、さらにいうならば、健聴とか聴者ですらもなかったりする。健聴とか、聴者というのは、聞こえない世界の住人が使うキーワードなのだから。
だから、Aさんはたとえ聞こえていても、ちょっとは「完全に聞こえる人」よりは聞こえないのだろう、と私は思うことにした。
というわけで、何が言いたいかというと、レッテルというのは、アイデンティティを決めるのは自分、という言語文化の所属を自分で決めるという大原則を否定してしまうからダメな行為なんだろうけど、それ以外の、言語文化を持たない「身体障害」の部分に関しては、医学的に検査をして把握してもいいのではないだろうか。たとえば、聴力検査をして聴力何デシベルと知って、補聴器を試すとか試さないとか後のことは自分で決めるというふうに。それを簡潔に「聴覚障害2級です」というそういう「レッテル」の方法で簡易化して相手に伝えてもいいと私は思うのだ。
はぁ、なんだか疲れるなぁ、「レッテル」の概念に。
レッテルがだめだというのなら、「あなたはろう?難聴?聞こえる人?」と尋ねることもレッテルを貼ることになり、とても失礼だということになってしまう。
私はそこで、ちょっと待てよ、と思う。自分が何者か、というアイデンティティを持つことは非常に大事なんじゃないだろうか。自分はろう?難聴?聞こえる人?それすらも分からなくて、どうやって社会で生きていくんだろう、というのが、「私」の集合体である客観的な概念であると理解してきた。
ただし、アイデンティティというのは自分で決めるものである。まわりが「難聴だろう」と思っていても、本人が「ろう」だと思うと主張すれば、それを否定してはいけない。逆もまた真なりである。まわりが「ろうだろう」と思っていても、本人が難聴だと思っていれば、難聴でいいんじゃないか。「医学的には全ろうだけれど、本人は聴覚口話をマスターして聴者社会で生きようとしている。ろう者であるという意識は低く、ろう文化にたいする関心は低い」というようなアセスメントはできる。これはレッテルではない、と私は思う。
レッテルというのは、「あなたは聾だというけれど難聴にちがいない」というような行動のことを言うんじゃないだろうか。
ところが、こういうケースではどうだろう。「自分は聾とか難聴とか健聴とか考えたくない。決められたくない」と思っているケースで、医学的な診断をカミングアウトすることもなければ(つまり、障害者手帳何級だとか、聴力レベル何デシベルだとか)、ろうか難聴か健聴かということも言わない(言いたくない)人がいる。
私はそういう人に出会ったことがある。たしかに奇妙な感じがしたが、ま、いいか、と思った。なぜなら、手話で話すことができたからである。できれば、聞こえるか聞こえないか分かった方がありがたかったが。というのは、聞こえているかどうか分からないために、もし相手が聞こえていれば尋ねられる情報にアクセスしていいのかどうか分からないからである。でも、それも「尋ねず自分の関心の範囲は自分で解決する」と心を定めれば、大して問題にもならなかったし、議論する気にもならなかった。
「あっそう、わかった」
で終わったのである。ただ、私じしんは「あっそう、わかった」と一応なっとくして、論争もせず、私のメンタルノートに「Aさん、ろうか難聴か聴者か、アイデンティティ不明な人、手話はできる」と記したのであるが、多くの人に「変わった人だな」と思われるのは仕方がないと思った。事実、Aさんが多くの人に「なんで?」と思われて疲れるやりとりを重ねている風景を目の当たりにしたのだけれども。
で、私はちょっと考えたのである。もし、完全に聞こえるひとならば、「私はろうか難聴か健聴か考えたくない」となど決して言わないだろう。完全に聞こえる人は、聞こえる世界が当たり前で、ろうでも難聴でもないのである、さらにいうならば、健聴とか聴者ですらもなかったりする。健聴とか、聴者というのは、聞こえない世界の住人が使うキーワードなのだから。
だから、Aさんはたとえ聞こえていても、ちょっとは「完全に聞こえる人」よりは聞こえないのだろう、と私は思うことにした。
というわけで、何が言いたいかというと、レッテルというのは、アイデンティティを決めるのは自分、という言語文化の所属を自分で決めるという大原則を否定してしまうからダメな行為なんだろうけど、それ以外の、言語文化を持たない「身体障害」の部分に関しては、医学的に検査をして把握してもいいのではないだろうか。たとえば、聴力検査をして聴力何デシベルと知って、補聴器を試すとか試さないとか後のことは自分で決めるというふうに。それを簡潔に「聴覚障害2級です」というそういう「レッテル」の方法で簡易化して相手に伝えてもいいと私は思うのだ。
はぁ、なんだか疲れるなぁ、「レッテル」の概念に。
診断とレッテル
「今」考えているということではないのだけれど。
前からずっと。そう、私が自分の障害に気が付いて、客観的に自分が聞こえないということを理解しはじめてからずっと、自分のこととしても考えていることがある。
世の中の現象を判断するのは、自分がキジュンだ。
私が見て、私が聞いて、私が感じることすべてが、これが標準、スタンダードなのだ。
世の中の「私」という個人のすべてがそう感じていて、それを主観という。
ところが、世の中には主観だけではないらしいということに気づき始めていく。
客観というものの存在がそれだ。
しかし、「客観」というのはやっかいである。
客観もまた、多数の「私」の集合体なのだから。
で、タイトルに戻ると、「障害は何かと探ることはマイナスであり、あるがままを受け止めて対応を考えていけばいい」という教育観があるということを、私はこの仕事についてからの研修で初めて知った。
あるがままに受け止めろ?
私はものすごく奇妙な気がしたし、あきれもしたし、自分はそんな風に「あるがまま」に扱われていたからこそ障害発見が遅れて良くも悪くも初期教育を逃したのだと思っていたから、腹が立ってきたというのが正直な感想だった。
耳が聞こえない子を、「私」を、あるがままに受け止めていたら、耳が聞こえないことには気が付かないし、どのくらい聞こえないかも検査をしないと分からない。その検査をしなくていい、レッテルをはらなくていいというのなら、私はことばを覚えるのは3歳半よりもっともっと後になっただろう。
なにせ、3歳半まで障害に気づかず、ちょっと発達の遅い子くらいに思われて、ひとことも話さないのに「あるがまま」ほったらかしにされたのだ。
一定数の同じような症状を呈する、あるいは医学的検査の特徴が集約できるならば、それを障害と呼ぶのがマイナスのイメージのレッテルならば、正しく対応するための、あるいはよりよく対応するためのワンステップと思えばいいのではないだろうか。
だから、私は「私」の体験から、有効な検査があればどんどん受けていけばいいと思っている。
その結果を受けて、その時代で最大限わかっている、判明している「有効な」方法を与えていくしかないのではないだろうか。
そのことは、レッテルを貼るというマイナスのイメージでとらえられてもいいのだろうか?
あらゆる検査、検査という表現が悪ければアセスメントでもいいが、ようするに実態把握のために検査をするわけだから、英語にしたってカタカナにしたっておおもとの根っこの概念はほぼ同じである。
診断は医者しかできないとか、そういうことなら医者がやればいい。そして、診断をして、このような傾向があるかもしれない、と判断をして、つきあっていくのが一番いいんじゃないだろうか。
それは、「本人の努力不足」と思われてがみがみ叱られたりするより、「障害なんだから治らないんだからしょうがない」と思ってもらえるほうが、精神的に健康なのだ、教えたり育てたりするほうもそうだし、扱われるほうもそうである。
なぜ、診断とレッテルはそんなにマイナスの目で見られるのだろう。私は信念を持って言う。障害は障害だと早くわかった方がいい。「障害」という言葉に抵抗があるのなら、「障がい」とひらがなにするとか、そういう枝のところはそれぞれが各論で論じたらいいのではないだろうか。
私は、「私」の体験として、「ちゃんと聞きなさい」とか「さっき言ったでしょ」とか「ぼーっとしているから分からないんだよ」と言われ続けて、「私はどうしてわからないんだろう、一生懸命見ているのに」と思っていた経験から、「聞こえなければ声だけで話をしてもつたわらない、それが障害だから」というふうに理解してもらったほうが、よほど傷つかずに生きることができたと思うのだ。
だから、診断とレッテルは悪だというような人の気持ちが分からない。そういうあなたは、自分に障害がないからそういうことを言うんじゃないか?とずっと思ってきた。でも、なんとなくそれを言ったら終わりな気がして、黙ってやりすごしてきた。
あるがままを受け止めろだって?
私のなかの「私」は、ものすごい葛藤と憤りを感じてしまう。それが本音なので書いておこう。また考えが変わるかもしれないけれど。心の底にあるもの、「私」の原体験はそうやすやすと拭い去れないと思う。
前からずっと。そう、私が自分の障害に気が付いて、客観的に自分が聞こえないということを理解しはじめてからずっと、自分のこととしても考えていることがある。
世の中の現象を判断するのは、自分がキジュンだ。
私が見て、私が聞いて、私が感じることすべてが、これが標準、スタンダードなのだ。
世の中の「私」という個人のすべてがそう感じていて、それを主観という。
ところが、世の中には主観だけではないらしいということに気づき始めていく。
客観というものの存在がそれだ。
しかし、「客観」というのはやっかいである。
客観もまた、多数の「私」の集合体なのだから。
で、タイトルに戻ると、「障害は何かと探ることはマイナスであり、あるがままを受け止めて対応を考えていけばいい」という教育観があるということを、私はこの仕事についてからの研修で初めて知った。
あるがままに受け止めろ?
私はものすごく奇妙な気がしたし、あきれもしたし、自分はそんな風に「あるがまま」に扱われていたからこそ障害発見が遅れて良くも悪くも初期教育を逃したのだと思っていたから、腹が立ってきたというのが正直な感想だった。
耳が聞こえない子を、「私」を、あるがままに受け止めていたら、耳が聞こえないことには気が付かないし、どのくらい聞こえないかも検査をしないと分からない。その検査をしなくていい、レッテルをはらなくていいというのなら、私はことばを覚えるのは3歳半よりもっともっと後になっただろう。
なにせ、3歳半まで障害に気づかず、ちょっと発達の遅い子くらいに思われて、ひとことも話さないのに「あるがまま」ほったらかしにされたのだ。
一定数の同じような症状を呈する、あるいは医学的検査の特徴が集約できるならば、それを障害と呼ぶのがマイナスのイメージのレッテルならば、正しく対応するための、あるいはよりよく対応するためのワンステップと思えばいいのではないだろうか。
だから、私は「私」の体験から、有効な検査があればどんどん受けていけばいいと思っている。
その結果を受けて、その時代で最大限わかっている、判明している「有効な」方法を与えていくしかないのではないだろうか。
そのことは、レッテルを貼るというマイナスのイメージでとらえられてもいいのだろうか?
あらゆる検査、検査という表現が悪ければアセスメントでもいいが、ようするに実態把握のために検査をするわけだから、英語にしたってカタカナにしたっておおもとの根っこの概念はほぼ同じである。
診断は医者しかできないとか、そういうことなら医者がやればいい。そして、診断をして、このような傾向があるかもしれない、と判断をして、つきあっていくのが一番いいんじゃないだろうか。
それは、「本人の努力不足」と思われてがみがみ叱られたりするより、「障害なんだから治らないんだからしょうがない」と思ってもらえるほうが、精神的に健康なのだ、教えたり育てたりするほうもそうだし、扱われるほうもそうである。
なぜ、診断とレッテルはそんなにマイナスの目で見られるのだろう。私は信念を持って言う。障害は障害だと早くわかった方がいい。「障害」という言葉に抵抗があるのなら、「障がい」とひらがなにするとか、そういう枝のところはそれぞれが各論で論じたらいいのではないだろうか。
私は、「私」の体験として、「ちゃんと聞きなさい」とか「さっき言ったでしょ」とか「ぼーっとしているから分からないんだよ」と言われ続けて、「私はどうしてわからないんだろう、一生懸命見ているのに」と思っていた経験から、「聞こえなければ声だけで話をしてもつたわらない、それが障害だから」というふうに理解してもらったほうが、よほど傷つかずに生きることができたと思うのだ。
だから、診断とレッテルは悪だというような人の気持ちが分からない。そういうあなたは、自分に障害がないからそういうことを言うんじゃないか?とずっと思ってきた。でも、なんとなくそれを言ったら終わりな気がして、黙ってやりすごしてきた。
あるがままを受け止めろだって?
私のなかの「私」は、ものすごい葛藤と憤りを感じてしまう。それが本音なので書いておこう。また考えが変わるかもしれないけれど。心の底にあるもの、「私」の原体験はそうやすやすと拭い去れないと思う。
流行とか世相とか
私は、いわゆる流行とか世相とかの類に敏感ではない。
ある意味、どうでもいいと思っている節がある。
昨日も、「森ガール、山ガール」の話題になっていた。
なんだかわからない。
テレビ見ないの?と言われて、あんまり…と言ったら
教えてもらった。
帰ってからちょっと調べた。
なるほど。
その時かわした会話を反芻するに。
どいうことに興味があるの?という話になったんだけど。
流行とか世相とかいうのは、
一種の勉強みたいなものだと思っている。
たとえば友達が大好きな韓国歌手とか俳優がいたとする。
私は、話題に合わせてちょっとはリサーチしたり、
そういう努力をして、次に会う時に共有できるよう
努力をするかもしれない。あるいは、暇つぶしに調べて
みたりするような気まぐれもあるかもしれない。
いずれにせよ、「勉強する」という感じである。
ちょうど数学の公式を覚えたり、英単語を覚えたりする
ように、化学記号を覚えたりするように、勉強の一種に
近い感覚がある。
そういう話を、もうちょっと会話的にぼつぼつと
カミングアウトしていたら、「そこまで努力ですか…(^^;)」
と言われた。
うん…だって基本的に興味ないんだもの。
森でも山でも好きな自分のソウルに合うものを着ていれば
いいんじゃない?
服の高い安いで、人格が決まるわけじゃないし、
色とかデザインの組み合わせも、センスがいいか悪いかと
いうより「勉強」なのだ。
小学生のとき、ファッションのセンスがないと言われた私。
友達が家まで来て、コーディネートしてくれた。
ピンクには茶色を合わせる。
水玉とチェックは合わせない。
柄物が入ったら、片方は無地にする。
黒はオールマイティ。
などなど、勉強した。
ひととおりパターンを暗記すれば、次からその組み合わせで
買えばいい。
「水玉にチェックはセンスが悪いと思われる」
と覚えてしまうことは、
「筆算は桁をそろえて書く」
というルールを覚えることとなんら違いはないだろう、と思うん
だけどいかがでしょう?
ある意味、どうでもいいと思っている節がある。
昨日も、「森ガール、山ガール」の話題になっていた。
なんだかわからない。
テレビ見ないの?と言われて、あんまり…と言ったら
教えてもらった。
帰ってからちょっと調べた。
なるほど。
その時かわした会話を反芻するに。
どいうことに興味があるの?という話になったんだけど。
流行とか世相とかいうのは、
一種の勉強みたいなものだと思っている。
たとえば友達が大好きな韓国歌手とか俳優がいたとする。
私は、話題に合わせてちょっとはリサーチしたり、
そういう努力をして、次に会う時に共有できるよう
努力をするかもしれない。あるいは、暇つぶしに調べて
みたりするような気まぐれもあるかもしれない。
いずれにせよ、「勉強する」という感じである。
ちょうど数学の公式を覚えたり、英単語を覚えたりする
ように、化学記号を覚えたりするように、勉強の一種に
近い感覚がある。
そういう話を、もうちょっと会話的にぼつぼつと
カミングアウトしていたら、「そこまで努力ですか…(^^;)」
と言われた。
うん…だって基本的に興味ないんだもの。
森でも山でも好きな自分のソウルに合うものを着ていれば
いいんじゃない?
服の高い安いで、人格が決まるわけじゃないし、
色とかデザインの組み合わせも、センスがいいか悪いかと
いうより「勉強」なのだ。
小学生のとき、ファッションのセンスがないと言われた私。
友達が家まで来て、コーディネートしてくれた。
ピンクには茶色を合わせる。
水玉とチェックは合わせない。
柄物が入ったら、片方は無地にする。
黒はオールマイティ。
などなど、勉強した。
ひととおりパターンを暗記すれば、次からその組み合わせで
買えばいい。
「水玉にチェックはセンスが悪いと思われる」
と覚えてしまうことは、
「筆算は桁をそろえて書く」
というルールを覚えることとなんら違いはないだろう、と思うん
だけどいかがでしょう?
November 02, 2011
筆談ボード追加オーダー
私の使っている筆談ボードがついに壊れた。

院生どうしで回したり、して使っているうちに落としたり、
落とされたり、しているうちにカバーがとれてしまったのだ。
それを接着剤でつけたら、つける位置が微妙にずれて、
消去ボタンが使えなくなった。
しかるべく箇所で押さなければ消去ボタンは機能しない。
そんなことは機能上疑うべくもない当然のことなのだけれど
瞬間接着剤を多量につけてしまったために、次にはがすと
壊れること必定なのである。
だから、はがせない。
という…たんに私のガサツな修理上のミスでもあるのだが、
そろそろ画面が汚いと感じていたこともあり、
もう、新しいものを買おうと決心したわけ。
そう、言い訳ですけど。
ここが一番安いので紹介しておきます。
送料無料で3500円から買えます。
カバーは自分で手作りしたらよろしい。
てか、ほかの院生は手作りしてる。
キルティングを四角に切って縫い合わせたら完成!
それに、ペンは100円ショップでゲームのペンが
あるでしょ?あれでも十分いいから。
筆談ボード(ブギーボード)最安値ショップ
ちなみに、私のブギボは、デコして使っている。
ストーンでラメデコ。
けっこう、便利。
手話の通じない世界では…あったほうが、便利というより…
(私は)必要です。
なぜなら、聞こえる人たちは書いたものが証拠に残るならと
気にして書かないことがあるから(情報がさらに減る)。
これなら消えるから、書いてもいい!=伝えてもいい!って
思ってもらえるなら、とてもありがたいじゃない?
って、完全、ブギボの宣伝隊になってしまいました。
ま、でも、書いたからと伝わるわけじゃないんだけど。
最近私の日本語もひどくて、意識してつけたししないと
意図が正しく伝わらないことが多くなってきた気がする。
手話では1つですむことを、実に多くの単語を並べ立てて
飾り立てないと伝わらないのが日本語か…という実感すらある。
で、そういう日本語を使いつづけていたら、ある、ろう者に
「ろう?難聴?聞こえる人?」と言われるように
なってしまい・・・自分でも難聴手話になってるなとか
思い始めてアイデンティティの揺らぎを感じることもあるんだな。
ねこ@アイデンティティ・クライシス。
で、この会話はちょっとおもしろかったので記録。
ある人 「あなた、ろう?難聴?聞こえる人?」
ねこ 「私はろう」
ある人 「いつから?」
ねこ 「前から」
ある人 「ろう、本当に?うーん、そうなのかな?」
ねこ 「うーん、だって、聞こえないもん」
ある人 「聞こえない、なるほど」
ねこ 「よろしく^^」
ある人 「よろしく、失礼しました^^」
院生どうしで回したり、して使っているうちに落としたり、
落とされたり、しているうちにカバーがとれてしまったのだ。
それを接着剤でつけたら、つける位置が微妙にずれて、
消去ボタンが使えなくなった。
しかるべく箇所で押さなければ消去ボタンは機能しない。
そんなことは機能上疑うべくもない当然のことなのだけれど
瞬間接着剤を多量につけてしまったために、次にはがすと
壊れること必定なのである。
だから、はがせない。
という…たんに私のガサツな修理上のミスでもあるのだが、
そろそろ画面が汚いと感じていたこともあり、
もう、新しいものを買おうと決心したわけ。
そう、言い訳ですけど。
ここが一番安いので紹介しておきます。
送料無料で3500円から買えます。
カバーは自分で手作りしたらよろしい。
てか、ほかの院生は手作りしてる。
キルティングを四角に切って縫い合わせたら完成!
それに、ペンは100円ショップでゲームのペンが
あるでしょ?あれでも十分いいから。
筆談ボード(ブギーボード)最安値ショップ
ちなみに、私のブギボは、デコして使っている。
ストーンでラメデコ。
けっこう、便利。
手話の通じない世界では…あったほうが、便利というより…
(私は)必要です。
なぜなら、聞こえる人たちは書いたものが証拠に残るならと
気にして書かないことがあるから(情報がさらに減る)。
これなら消えるから、書いてもいい!=伝えてもいい!って
思ってもらえるなら、とてもありがたいじゃない?
って、完全、ブギボの宣伝隊になってしまいました。
ま、でも、書いたからと伝わるわけじゃないんだけど。
最近私の日本語もひどくて、意識してつけたししないと
意図が正しく伝わらないことが多くなってきた気がする。
手話では1つですむことを、実に多くの単語を並べ立てて
飾り立てないと伝わらないのが日本語か…という実感すらある。
で、そういう日本語を使いつづけていたら、ある、ろう者に
「ろう?難聴?聞こえる人?」と言われるように
なってしまい・・・自分でも難聴手話になってるなとか
思い始めてアイデンティティの揺らぎを感じることもあるんだな。
ねこ@アイデンティティ・クライシス。
で、この会話はちょっとおもしろかったので記録。
ある人 「あなた、ろう?難聴?聞こえる人?」
ねこ 「私はろう」
ある人 「いつから?」
ねこ 「前から」
ある人 「ろう、本当に?うーん、そうなのかな?」
ねこ 「うーん、だって、聞こえないもん」
ある人 「聞こえない、なるほど」
ねこ 「よろしく^^」
ある人 「よろしく、失礼しました^^」




