2010年03月27日
絶景、ぜぇっけぇい〜京都二日目後半〜
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午後は、息子が一番楽しみにしていた慈照寺・銀閣の参観から始まった。

参観券を求めて行列が出来る程、銀閣は、金閣以上に混んでいた(-_-;)
望外に、本堂と国宝・東求堂をガイド付きで、特別拝観する事が出来た上に、銀閣の屋根も葺き替えられたばかりだと聞いた。言われれば、杮葺(こけらぶき)の屋根は、真新しく濃い茶色だった。苔が生すと、色がすぐに変わってしまうそうだ。
銀閣は、足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿の事で、3代将軍義満が建てた金閣、西本願寺の飛雲閣と併せて『京の三閣』と呼ばれる。
書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。
金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降の事で、金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていない。
「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説がある。ちなみに、悪妻として名高い日野富子は資金援助を一切しなかったらしい。
東求堂(とうぐどう)の拝観は、言葉に出来ないぐらい感動した。国宝の上を歩いたのだ\(^o^)/
義政の持仏堂で、1486年(文明18年)の建立である。池に面して建てられ、大きさは3間半四方。正面左は方2間の仏間、右奥は義政の書斎(同仁斎とよばれる)である。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上貴重な遺構である。
書院には、義政が使っていた当時と同じ様に、硯や筆、花が飾られ、情緒を盛り上げていた。
錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園は、「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているらしい。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。
従って、本堂や東求堂が、義政の生活空間をより忠実に残していると言える。
何度来ても、新しい発見があるのが、京都のようだ。
桜が五分咲きだったが、ユキヤナギとのコラボが見事だった\(^o^)/

哲学の道から向かった先は、苔に覆われた数寄屋造りの山門と物静かな庭園が見事な法然院と永観堂だ。
法然院の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代になり、1680年(延宝8年)に、知恩院の第38世である万無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したのが当寺であるとされる。
谷崎潤一郎や河上肇などの著名な学者や文人の墓が数多く存在することで有名だ。
本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されている。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。
永観堂は、正式には禅林寺(ぜんりんじ)と言い、浄土宗西山禅林寺派総本山だ。本尊は阿弥陀如来、開基は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古より「秋はもみじの永観堂」といわれる。境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれている。
総門は、「高麗門」と呼ばれ、「薬医門」と呼ばれる中門とともに、寺院建築よりは城郭、大名屋敷などに多く見られる形式である。
御影堂は、1912(大正元)年に完成した総ケヤキ造の仏堂。宗祖法然を祀る堂で、本尊を安置する阿弥陀堂よりも規模が大きい。
阿弥陀堂は、御影堂より一段高い敷地に位置し、堂内の壁の装飾が修復され、見事な色彩を放っていた。 本尊の「顧り(みかえり)阿弥陀」像は、左を向いているとても珍しい仏像だった。
多宝塔は、境内の最も高い位置にあり、景観上は、大変重要な位置を占めている。ここからは、京都の中心街を一望できた。
本日最後の拝観は、南禅寺。開基は亀山法皇、開山は無関普門(大明国師)で、日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式を持つ。
南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元(1264)年に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじでん)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の塔頭・南禅院はその後身である。
亀山上皇は正応2(1289)年、40歳の時に落飾(剃髪して仏門に入る)して法皇となった。2年後、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名付けた。
伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。
無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾(えんに)に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死にをうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師、1261 - 1313)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。
建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。
歴史と逸話の多い南禅寺だが、一番の見所は、これも特別拝観で、登る事の出来た山門だった。

歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐く「南禅寺山門」がここだ。
ただしそれは創作上の話で、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5(1628)年の建築だ(-_-;)
五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などを安置する。
天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。

琵琶湖疏水の水道橋と金地院、南禅院を拝観して、この日はタイムアップとなった。
それにしても、今日は良く歩いた。
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午後は、息子が一番楽しみにしていた慈照寺・銀閣の参観から始まった。
参観券を求めて行列が出来る程、銀閣は、金閣以上に混んでいた(-_-;)
望外に、本堂と国宝・東求堂をガイド付きで、特別拝観する事が出来た上に、銀閣の屋根も葺き替えられたばかりだと聞いた。言われれば、杮葺(こけらぶき)の屋根は、真新しく濃い茶色だった。苔が生すと、色がすぐに変わってしまうそうだ。
銀閣は、足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿の事で、3代将軍義満が建てた金閣、西本願寺の飛雲閣と併せて『京の三閣』と呼ばれる。
書院造につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。
金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降の事で、金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には銀箔は使用されていない。
「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説がある。ちなみに、悪妻として名高い日野富子は資金援助を一切しなかったらしい。
東求堂(とうぐどう)の拝観は、言葉に出来ないぐらい感動した。国宝の上を歩いたのだ\(^o^)/
義政の持仏堂で、1486年(文明18年)の建立である。池に面して建てられ、大きさは3間半四方。正面左は方2間の仏間、右奥は義政の書斎(同仁斎とよばれる)である。書斎の北側に設けられた付書院と違棚は現存最古の座敷飾りの遺構であり、書院造や草庵茶室の源流として、日本建築史上貴重な遺構である。
書院には、義政が使っていた当時と同じ様に、硯や筆、花が飾られ、情緒を盛り上げていた。
錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園は、「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われているらしい。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。
従って、本堂や東求堂が、義政の生活空間をより忠実に残していると言える。
何度来ても、新しい発見があるのが、京都のようだ。
桜が五分咲きだったが、ユキヤナギとのコラボが見事だった\(^o^)/
哲学の道から向かった先は、苔に覆われた数寄屋造りの山門と物静かな庭園が見事な法然院と永観堂だ。
法然院の起こりは、鎌倉時代に、法然が弟子たちと共に六時礼讃行を修した草庵に由来するという。江戸時代になり、1680年(延宝8年)に、知恩院の第38世である万無が、法然ゆかりの地に念仏道場を建てることを発願し、門弟の忍澂と共に再興したのが当寺であるとされる。
谷崎潤一郎や河上肇などの著名な学者や文人の墓が数多く存在することで有名だ。
本堂の本尊は阿弥陀如来坐像であり、法然上人立像なども安置されている。また、方丈にある狩野光信筆の襖絵は重要文化財に指定されている。また境内には、名水として有名な「善気水」が湧き出している。
永観堂は、正式には禅林寺(ぜんりんじ)と言い、浄土宗西山禅林寺派総本山だ。本尊は阿弥陀如来、開基は、空海の高弟の真紹僧都である。当寺は紅葉の名所として知られ、古より「秋はもみじの永観堂」といわれる。境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれている。
総門は、「高麗門」と呼ばれ、「薬医門」と呼ばれる中門とともに、寺院建築よりは城郭、大名屋敷などに多く見られる形式である。
御影堂は、1912(大正元)年に完成した総ケヤキ造の仏堂。宗祖法然を祀る堂で、本尊を安置する阿弥陀堂よりも規模が大きい。
阿弥陀堂は、御影堂より一段高い敷地に位置し、堂内の壁の装飾が修復され、見事な色彩を放っていた。 本尊の「顧り(みかえり)阿弥陀」像は、左を向いているとても珍しい仏像だった。
多宝塔は、境内の最も高い位置にあり、景観上は、大変重要な位置を占めている。ここからは、京都の中心街を一望できた。
本日最後の拝観は、南禅寺。開基は亀山法皇、開山は無関普門(大明国師)で、日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺のなかで最も高い格式を持つ。
南禅寺の建立以前、この地には、後嵯峨天皇が文永元(1264)年に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじでん)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に現存する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来する。
この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれ、うち「上の御所」に建設された持仏堂を「南禅院」と称した。現存する南禅寺の塔頭・南禅院はその後身である。
亀山上皇は正応2(1289)年、40歳の時に落飾(剃髪して仏門に入る)して法皇となった。2年後、法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名付けた。
伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。
無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾(えんに)に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死にをうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師、1261 - 1313)が指揮し、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299 - 1302年)のことという。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。
建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけ、京都五山と鎌倉五山に分割した。
歴史と逸話の多い南禅寺だが、一番の見所は、これも特別拝観で、登る事の出来た山門だった。
歌舞伎の『楼門五三桐』(さんもんごさんのきり)の二幕返しで石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」という名台詞を吐く「南禅寺山門」がここだ。
ただしそれは創作上の話で、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5(1628)年の建築だ(-_-;)
五間三戸(正面柱間が5間で、うち中央3間が出入口)の二重門(2階建ての門)。藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものである。上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などを安置する。
天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
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