2010年07月25日

東海道珍情報 阿仏尼歌碑

風わたる 濱名の橋の夕しほに
   さされてのぼるあまの釣舟   藤原為家

わがためや 浪もたかしの浜ならん
   袖の湊の浪はやすまで     阿仏尼




東海道白須賀宿と新居宿の間は、潮見坂を下ると見るものも何もない、休む場所も陽を避ける場所も全くない苦しい道行きとなる。そんなところに、阿仏尼の歌碑がある。

阿仏尼の夫藤原為家は、冷泉家の始祖として名高い歌人藤原定家の子である。為家も阿仏尼も歌人として名高かったが、為家の妻は阿仏尼だけではなかった。阿仏尼が産んだ為相には、異母兄為次がいた。為家は為次にほとんどの財産を譲ったのだが、いったん為次に渡した荘園の一部を、後に為相に譲ることにした。ところが為次はこの荘園を手放さなかった。そこで、阿仏尼は、我が子のために鎌倉の執権北条時宗を頼って、この土地争いを裁定してもらおうとしたのである。

この鎌倉への旅の様子を書いた日記が「十六夜日記(いざよいにっき)」である。当時、東海道は、まだ鎌倉街道と呼ばれていて、遠州灘に沿って続いていた。そのころは浜名湖が海と繋がる前だった。後に東海道は、この碑のすぐ東側で北に向かい、新居宿に至ってそこから浜名湖を船で渡るようになったが、鎌倉時代にはそのまま東に進んで浜名湖の南側を続いていた。碑にある歌は、阿仏尼が浜名湖の南側を通ったときに、その情景を詠んだ歌で、十六夜日記にも載っているものである。一緒に碑に記載されている為家の歌は、阿仏尼のついでに碑に刻まれたものである。

以上の事実だけを読むと、子を思う一心の阿仏尼の心情に心を打たれるが、阿仏尼が鎌倉に向かった弘安2年(1279)は、実は元寇の真っ最中であった。鎌倉幕府は、日本の存亡をかけて元との外交と軍備に大わらわだったときである。そこへ、「息子の財産を取り戻してください!」と家庭の事情を持ち込んできた阿仏尼さんって・・・

やっぱり、お公家さんだなあ・・・

と思わざるを得ないのであった。

阿仏尼歌碑の場所



ところで・・・

みなさん、このブログって、写真が小さいと思いません?
Posted by 永遠の美少年 at 22:31  |Comments(0)TrackBack(0) | 東海道 , 美しい歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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