2008年03月04日

江戸城外堀10 再び神田橋

再び神田橋である。



神田橋に戻ってきた私が、橋を渡り交差点へと向かおうとすると、その途中・・・

ぎょぎょぎょっ!!



なんじゃ、貴様あ〜〜〜!!

またもや宇宙人に遭遇か?実は、この得体の知れない像は金銅鎚起豊展観守像であった。名前を聞いてみれば他愛のない、普通の金銅鎚起豊展観守像であっ・・・

金銅鎚起豊展観守像って

なんなんだよう〜〜〜?!



この像は千代田区民の豊かさと区の発展を見守る姿を、黄金虫を擬人化して表現したものなのだそうである。今は亡き鍛金師・彫刻家の山下恒雄氏の作品である。私は、また私を誘拐しに来た宇宙人かと、すっかりビビってしまった。

神田橋の北側の交差点で横断歩道を渡ると、その角には物揚場跡の碑内神田一丁目の説明板がある。それによると、神田橋の横には物資を船から運び上げる物揚場があった。たしかに、外堀は神田川と日本橋川で隅田川につながっており、平和な江戸時代には、防御施設としての堀としてよりも物資運搬のための水路としての利用価値の方がはるかに重要だったであろう。



また、神田橋御門は、将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参拝するときに通った門であることから、おそらく警護の便をはかってのことであろう、神田橋の外側には何も建物を建てず空き地となっていた。空き地状態は何故か戦後まで続いていたという。

ここからしばらくは堀沿いの道がないので、外堀の北側を走っている都道402号を歩く。少し歩くと鎌倉橋に出るが、この橋は明治以降に架けられたものであるが、橋のたもとには鎌倉河岸の説明板がある。

神田橋から常磐橋の間には荷揚場があり(先に出てきた物揚場のことらしい)、徳川家康による江戸城建築の時に、鎌倉から運び込んだ石を揚げたことから「鎌倉河岸」の名が付いたといわれている。江戸時代に入ってからは、魚、青物といった食料から始まり、茅や木材などの建築資材まで雑多な品々が荷揚げされていた。

また、河岸の前の鎌倉町にあった酒屋「豊島屋十右衛門」がひな祭りに売り出す白酒は江戸の市民に大変な人気があり、卒倒者が出るほど客が押し寄せたという。

ところで、この豊島屋、現在も会社として存続している。千代田区猿楽町にある豊島屋本店と東村山市にある豊島屋酒造である。現在も2社で酒の製造と販売を分担して営んでいる。もちろん、白酒も販売している。



これは白酒じゃないわーーー!!

「酒」と聞くと見境がなくなるところが若干、まさに若干ある永遠の美少年であった。

→つづく

 
 
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2008年03月02日

江戸城外堀9 鳴くよウグイス・・・

神田橋、というより、実は錦橋一ツ橋の方が近いのであるが、神田橋から外堀の内側に入ってしまったついでに、この機会に見に行くことになった。

内堀(大手濠)のほとりに小さな公園がある。ランナーや憩いを求める人々が集うその公園だが、・・・

公園の真ん中に誰かいる?!

しかも背が高い!!

 

このレトロな格好をした人は、いったい誰であろうか?台石にプレートがはめ込まれている。



昭和初期の陸軍大臣・総理大臣であった林銑十郎の名前が書いてある。やはり、今流行の昭和レトロ!このような銅像まで昭和初期の格好をしているとは・・・

ちがうだろうーーー!!

これは奈良時代〜平安時代初期の服装であった。実は銅像を建てたのが林銑十郎であり、像のモデルになった人物は和気清麻呂である。

奈良時代の終わりころ、女帝であった称徳天皇は僧侶弓削道鏡を寵愛し、道鏡を太政大臣にして政治を行わせた上に法王の称号まで授けた。子のなかった称徳天皇であったが、そんなとき豊後の宇佐八幡宮(今の大分県宇佐市)で「道鏡を次の天皇にせよ。」という神託があったという話が伝わってきたため、称徳天皇は気に入りの道鏡を皇位に就けられると喜んだ。そこで、神護景雲3年(769)、神託を確認するために宇佐八幡宮に使者として遣わされたのが和気清麻呂であった。



ところで、天皇の寵愛をよいことに専横をふるう道鏡を快く思わないものは宮廷内に多く、さらに、その上皇族以外の者が天皇に就くなど以ての外というのが、口には出さねどほとんどの朝臣の考えであった。和気清麻呂もその一人で、宇佐から帰った清麻呂は、こう天皇に復命した。

「そんな神託は降りていません。

道鏡はただのハゲデブオヤジです。」

これを聞いて激怒した天皇と道鏡は、和気清麻呂を別部穢麻呂と改名するという子供じみた真似をした上、彼を大隅国に流してしまった。しかし、この清麻呂の勇気ある行動により、称徳天皇は道鏡に皇位を譲るのをあきらめ、称徳天皇の死後、かなり遠い親戚にあたる光仁天皇が即位し、道鏡は失脚して下野国に左遷され、代わって和気清麻呂は復権し、延暦13年(794)には・・・

「ウグイスが鳴いたから

平安京に遷都しましょう!!」

平安遷都を決定づける建言をした。



ちなみに、同じ公園内にあるイチョウの木は「震災イチョウ」と呼ばれている。関東大震災で焼け野原になった東京だったが、その中を生き残り、人々に復興の希望を与えたイチョウである。元々は一ツ橋1丁目にあったのだが、区画整備の折りにこの地に移植されたものである。



思い起こせば私が高校生のみぎり、小太り丸坊主数学の先生がいて、彼は教職員と生徒たちから

「道鏡先生!」

と呼ばれていた・・・。

→つづく


 
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2008年02月28日

江戸城外堀8 美男子!平将門!!

神田橋の南側、大手町にある三井物産ビルは、酒井雅楽頭家の上屋敷の跡に建っている。江戸時代、この屋敷の一角には、塚と石灯籠があった。平将門の墓と伝えられる「将門塚」である。それが、今も三井物産ビルの裏手に残っている。



塚は関東大震災で崩壊してしまったが、石灯籠は現存し、多くのが立てられている。石灯籠の前に立っている石塔婆は徳治2年(1307)に真教上人が将門の霊を供養して建てたもので、いったん損壊したため再建されたものである。また、戦前はこの地に大蔵省があったため、大蔵大臣河田烈が建てた「故蹟保存碑」もある。

 

平将門は、平安時代の中期、藤原氏による摂関政治が行われていた時代の人物である。摂関家や国司の搾取が行われる中、将門は一族間の所領争いを勝ち抜いて武力を蓄え、ついには関東八ヶ国の国府を襲って国司を京都に追い返したが、朝廷の命を受けた藤原秀郷(田原藤太)らの軍勢と戦い、そのさなかに頭に矢を受けて戦死した。天慶3年(940)のことである。

その京都に送られて東市に晒されていたが、関東を懐かしんで空を飛び、下総国を目指したが武蔵国江戸で力尽きて落ちたという。その地が大手町の将門塚である。なお、京都に晒されているときではなく、京都に首が運ばれる途中、箱根の山を越えるときに、首桶の蓋を破って首が飛び出し、大手町に力尽きて落ちたという説もある。遠い京都から飛んできたと言うよりも、近くて標高の高い箱根から飛んできて落ちたという方が信憑性がある話である。

どこに信憑性があるんじゃ!

首が空を飛ぶかーーー!!

過去の歴史の中で「逆賊」と呼ばれたこともあり、祟りをなすという伝説も生まれた平将門だが、後には神田明神に祀られ、江戸市民から慕われる存在となった。民衆を過酷に搾取していた京都の藤原氏政権や国司と戦ったことで、民衆を守った地元の英雄と考えられてきたのであろう。

そんな平将門は、現在に残る写真を見る限り、俳優の加藤剛の若いころによく似た美男子である。



昔の大河ドラマのDVDの

パッケージじゃろがーーー!!

ちなみに、妻は女優の真野響子の、側室は吉永小百合のいずれも若いころにそっくりだった平将門であった。

→つづく

 
 
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2008年02月26日

江戸城外堀7 カルガモ池

神田橋の南側には、三井物産、読売新聞、KDDI、JAなど大企業のビルが並んでいる。まさに日本経済の中心地である。ここ大手町では、このいかにも近代的ビル群の中に意外な名所が隠されているのだ。

まずは、内堀(大手濠)に面した三井物産ビルの敷地内には「カルガモ池」がある。



以前は「カルガモ池」という名前ではなかったが、昭和58年から、この池でカルガモが卵をかえして雛たちと生活するようになり、雛が大きくなると大手濠に引っ越していった。そのとき、濠との間の道路を親子で並んで横断する様子がニュースで評判となり、池の名前も「カルガモ池」となった。



池の周辺は休憩所になっており、ゴミ箱の蓋にもカルガモが描かれている。たまたまカルガモが巣を作ったために有名になったこの池だが、もしフェラガモが巣を作り、池を泳ぎ回っていたら、そのときはどうなっていただろうか・・・?

靴もバッグもずぶ濡れじゃろがーーー!!

ところで、この三井物産ビルがあるところに、江戸時代は酒井雅楽頭家の上屋敷があった。酒井雅楽頭家は徳川家康の譜代の臣酒井重忠を祖とし、老中を何人も輩出している家柄である。4代忠清のときには、この屋敷でいわゆる伊達騒動が起きている。

伊達騒動とは、放蕩を極めた仙台藩伊達家3代藩主綱宗を幕府が強制的に隠居させた後、綱宗の叔父で藩政を掌握した伊達宗勝と、伊達一門の伊達宗重(伊達安芸)とが対立し、その一環として、宗勝の甥の宗倫と宗重との間に起こった所領争いを宗重が幕府に訴えたことから、幕府は宗重と宗勝派の伊達家家老原田宗輔(原田甲斐)を、当時老中であった酒井忠清邸に召還したのだが、この屋敷内で原田宗輔が突如伊達宗重に斬りかかって殺害し、宗輔も宗重の家臣にその場で斬り殺されたため、訴訟は沙汰止みとなった事件である。

関係者が事件で死んでしまったため、真相はわからないのだが、山本周五郎の小説「樅の木は残った」では、原田甲斐が伊達家が幕府によって取り潰されるのを防ぐために起こした事件となっている。

さて、こんな事件もあった酒井雅楽頭で上屋敷であるが、この屋敷内の一角に塚と石灯籠があった。その石灯籠とは・・・

永遠の美少年的平安時代!!

→つづく

 
 
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2008年02月24日

江戸城外堀6 神田橋

外堀の古い石垣は、一ツ橋から隣の錦橋まで続く。ただし、錦橋は昭和2年に架けられたもので、江戸時代には橋は架かっていなかった。



次に見附門のあった神田橋は、一ツ橋から近い。錦橋を過ぎると、神田橋が見えてくるくらいである。



現在は緩やかなカーブを描いている日本橋川、かつての江戸城外堀であるが、江戸時代には神田川の西側で2回直角に屈折していた。



現在、首都高速の神田橋出口の下にある神田橋公園が、かつて外堀だった跡である。この公園内を歩いて神田橋へと向かうと・・・

ギョッッッ!!



こ、これは、エイリアンの卵か?プレデターの秘密基地か?私は先週宇宙人に誘拐されたばかりなのに、こんなに何度も遭遇するなんて・・・

冗談ではないっ!!



でもよく見ると、これとよく似たものを、子供のころに「まんが日本昔話」で見たような気がするな・・・

神田橋に着いた。かつての神田橋は、現在のものより少し東よりに架かっていて、橋の南側に見附門(神田橋御門)があった。今も橋の南側、高速道路のランプウェイの下に、当時の石垣の名残を見ることができる。

 

この神田橋を渡ると、橋の南側には大手町であり、商社などのビルが建ち並んでいる。ここで神田橋からそれらのビルの方へと歩いていくと、そこには・・・

→つづく

 
 
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2008年02月22日

江戸城外堀5 一橋

雉子橋から続く石垣の先には、一ツ橋がある。



徳川家康が江戸に入ったとき、この場所には丸太が1本架けてあるだけだったので、そのころから一ツ橋(一橋)と呼ばれていたという。その後、家康が江戸城を増改築したときにもここに橋を架けて見附門を設けた。一橋一橋御門である。この門の内側には、一橋家の上屋敷があり、最後の将軍徳川慶喜はこの一橋家の出身である。

ところで、家康が江戸入りしたとき、川に2本の橋が架かっていたと言われている場所もある。そこは二本橋と呼ばれていた。転じて今の日本橋である。え?「どうせいつものホラ話、人呼んで美少年ワールドだろう。」って???

本当だってば!!

本当の話をしても、なぜか誰も信じてくれない悲劇の永遠の美少年であった。

一橋に話を戻す。一ツ橋は、現在は「一ツ橋」と表記されるが、江戸時代には「一橋」が一般的だったようだ。私が持っている安政時代の地図にも「一橋」と書かれている。この江戸時代の一橋は明治6年にいったん撤去されたが、大正14年にコンクリート製の橋が架け直された。ところで、この橋の付近をよく見ると・・・

 

江戸時代の石垣がたくさん残されている。車で橋の上を通り過ぎてしまっては全く見つけることのできない発見である。これだから、歩く旅はやめられないのだ。しかも、一ツ橋の南側には・・・

 

この石垣はなんだ?!

実は、これが見附門の石垣の一部である。崩れかけているためコンクリで補修がしてあるが、今の時代に生き残った外堀の見附門の最初に見る遺構であった。

一ツ橋を渡ると、左手には丸紅ビルがある。その前に説明板と「一橋徳川家屋敷跡」の碑がある。



かつてこの辺りにあった一橋家の上屋敷は、この丸紅ビルの敷地から、東京消防庁のある辺りまで続いていた。

橋を渡って左側が一橋家上屋敷の跡なら、右手は御舂屋(おつきや)の跡である。御舂屋とは、江戸城内で消費される米などの穀物を脱穀していた場所である。

そして一ツ橋の南側には平川橋平川門が見える。



門の内側は、旧江戸城二の丸・三の丸で、現在は皇居東御苑となっている。現在は、東御苑の見学者の入口となっている平川門だが、江戸時代は不浄門であった。人糞尿の汲み取りや、城中で死者が出たときに運び出す門であった。つまり当時の考え方で、穢れたものを外に出す門だったのだ。

だから美しい私は

通ってはいけない!

そうなのか?不浄門とは本当にそういうものなのか?大いなる謎を残したまま、私は外堀に沿って神田橋へと向かう。

→つづく

 
 
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2008年02月18日

江戸城外堀4 雉子橋

俎橋から南側は、外堀沿いに造られたブロック塀に沿って進む。そのブロック塀が右にカーブし、太い道路に出たら、そこが雉子橋である。

 

現在の雉子橋は、大正14年に造られたものである。雉子橋の内側には、江戸時代には見附門が設けられていた。雉子橋御門である。雉子橋を渡ると正面に内堀である清水濠があり、右に進めば清水御門、左に進めば雉子橋御門を通って竹橋御門に至り、ともに江戸城北の丸の入口であった。



内堀に近いため、外堀の見附門の中でも雉子橋は警備が厳しかったといわれている。

   雉子橋で けんもほろろに叱られる

という川柳まであるくらいである。

現在は、車優先で道路が造られているため、清水濠は目の前に見えるものの、横断歩道のある信号が遠く、清水濠に歩いて接近するのは至難の業となっている。無理矢理道路を横断しようとすれば、右から車が来た!

ビュン!

これをかわしたら左から車が来た!!

ビュン!!

よけるために機敏に飛び下がったところに、右から車が!

ドゴッ!

転がり落ちたところに、またしても左から車が!

バゴッ!!

こうして痣だらけになりながら私がたどり着いた清水濠の写真がこれである。濠の向こう側には北の丸の高い石垣が続いている。



なお、8代将軍徳川吉宗は、将軍家の世継ぎが絶えたときのために、自分の子と孫に家を立てさせ、清水家、田安家、一橋家の御三卿を創設した。北の丸には、このうち清水家田安家上屋敷があった。



さて、雉子橋に話を戻すと、現在は太い道路が走り、橋があることすらわかりづらくなっているが、実は今の雉子橋は、大正14年に掛け替えられたときに100mほど位置をずらしている。雉子橋の付近で南北方向から東西方向に直角に曲がっているが、江戸時代の雉子橋は堀が曲がる手前に、大正時代に架けられた雉子橋は、堀が曲がった後に架けられているのだ。





雉子橋を過ぎたところで堀の内側を見ると、石垣が組んであるのがわかる。しかもこの石垣、明治以降のブロック塀のような長方形の石を整然と積んだものではなく、様々な形の石が精密に組み合わさって積んである。これは江戸時代特有の石垣の組み方である。この石垣は一ツ橋までつづく。



→話も一ツ橋へつづく!
 
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2008年02月17日

江戸城外堀3 俎橋

水戸黄門として有名な徳川光圀の兄で、水戸徳川家から分家した松平頼重は、まず下総下館に5万石で封せられて大名となり、ついで讃岐高松に転封して12万石となった。御三家である水戸家の分家であるから、讃岐高松藩松平家は親藩大名の中でも上位の地位を占め、その屋敷は外堀の門である小石川御門(小石川見附)を挟んで水戸家上屋敷の向かいに、上屋敷と中屋敷が並んで構えられていた。

 

その讃岐松平家の屋敷を北から南へと過ぎると、江戸城の外堀が始まっていた。現在は日本橋川は堀留から北に向かって伸び、神田川につながっているが、江戸時代には神田川から離れたところから外堀が始まっていた。



現在、外堀が始まっていた堀留と呼ばれていた場所には、新川橋が架かっている。ほとんどがコンクリで打たれてしまった日本橋川であるが、この新川橋のすぐ横だけは石垣で護岸がなされている。ただ、この石垣はどう見ても近世のものであり、江戸時代の石の組み方ではない。

 

外堀に沿って、さらに南に行くと、江戸時代には外堀最初の橋であったこおろぎ橋(「こおろぎ」の文字は虫偏に「車」)のあった場所の少し北に堀留橋が架かっている。



橋のたもとには、小さな地蔵堂がある。傳蔵地蔵尊である。地蔵堂の中に2つ並んだお地蔵様は、1つが昭和4年のもの、もう1つは昭和42年のもので、比較的新しいものだが、「傳蔵」の意味については、何の説明もないのでわからない。



堀留橋の接する護岸が石垣であるのは、新川橋と同じである。

さらに日本橋側沿いに南に進むと、南堀留橋に出る。この橋の西側にあるマンションに敷地内には、「滝沢馬琴硯の井戸跡」の説明板がある。



滝沢馬琴の代表作「南総里見八犬伝」もこの地で著されたと説明板にはある。南総里見八犬伝は、里見家の姫伏姫の体内から関東一円に飛び散った八つの玉を持つ剣士八人が、紆余曲折を経て里見家に仕官し、里見を攻めてきた古河公方との大合戦を勝利に導き、やがて仙人となって去っていくという物語である。馬琴は、この小説を27年にわたった書き続け、その途中で失明しながらも遂に物語を完結させたという、まさに馬琴の人生をかけた大作となっている。

南堀留橋を過ぎると、すぐに太い通りに出る。ここに俎橋が架かっている。江戸時代の俎橋は小さな橋であったが、道路の拡張によって今では川幅よりも道路幅の方が太い橋になってしまった。



この俎橋の近くには、幕末の剣豪斉藤弥九郎練兵館道場があった。神道無念流の斉藤弥九郎の練兵館、北辰一刀流の千葉周作の玄武館道場、鏡新明智流の桃井春蔵の士学館道場の三道場は。当時江戸の三大道場と呼ばれていた。幕末の志士たちの多くも、これらの道場で剣術を学んでいたのである。

現在では、この俎橋の上を通る道は靖国通りとなり、西へ行けば北の丸公園や靖国神社、東へ行けば専修大学や神田の書店街へと通じている。俎橋の西隣にある九段下交差点では、交差点を挟んで飯田町の名の由来の説明板と蕃書調所跡の説明板がある。

飯田町は、江戸入りした徳川家康をこの辺りに住む農民の飯田喜兵衛が案内したことから、名付けられた町である。後に飯田町は移転したため、その後は元飯田町と呼ばれるようになった。

蕃書調所は、幕府が外国書物の翻訳を通して諸外国の情報を収集するために設けた機関である。その後幾多の変遷を経て、現在の東京大学になる。

ところで、俎橋の西側には小さな公園がある。ここには・・・



な、何ヤツ!?!?

寿人遊星像である。像であるって言ったって、「寿人遊星」てえのが誰のことだかわからねえ。どうやら昭和61年のハレー彗星大接近を記念して作られた像のようだが、どうやら七福神の一人である寿老人がモデルだってえんだから驚きよ!神田周辺にはこんな像が7つもあって、「アート七福」って呼ばれてるってえんだから、こいつはおそれ入谷の鬼子母神だ。

突然江戸っ子になっちまった永遠の美少年だが、ここで次回に続くってぇところよ、てやんでえ。

→つづく

 
 
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2008年02月13日

江戸城外堀2 日本橋川

家を出たときには路面をが覆っていたのに、都内に入ってみるとほとんど雪は残っていなかった。どうやら、雪の中で遭難するおそれはなさそうで安心したが、話のネタを逃してちょっと残念。

さて、一口に江戸城の外堀といっても、江戸時代の江戸は、内堀、外堀を含めて縦横に水路が張り巡らされた水の都であった。



これら水路のうちどこが外堀に当たるのか、なかなかはっきりしないところもあるのだが、とりあえず歩くルートは、見附門が設置されていた堀、または堀の跡に沿うものである。

まずは外堀が始まっていた堀留のあった水道橋南方約300mのところから、現在の日本橋川に沿って一石橋まで進み、そこからは外堀を埋め立てて敷かれた外堀通りを歩いて有楽町へ、有楽町からは高速道路のガードに沿いに新橋まで進み、新橋からは外堀を埋め立てて造られた土地を挟む2本の道路を虎ノ門までたどり、虎ノ門から再び外堀通りを通って赤坂見附へ、そこからは外堀(弁慶堀)が残っているので堀沿いに進み、喰違に出たら外堀内側の土塁の上を行き、現存する外堀が神田川に出たら、神田川に沿って浅草橋まで歩いて隅田川に出るのが、私のプランである。

さて、いよいよ水道橋駅を降り、神田川の上流に200mほど歩くと、東西に流れる神田川から、日本橋川が南に分流している。あれ?

外堀は堀留から

始まるんじゃなかったのか?


実は、これには歴史の経緯がある。江戸に入った徳川家康は、江戸の地に新たに町を築いたのだが、実は町作りの上で悩みがあった。江戸の町を分断して流れる神田川と平川によって、町の中心部がしばしば洪水に見舞われたのだ。

そのため幕府は江戸市中の治水工事に乗り出し、2代将軍秀忠の治世となった元和6年(1620)、神田川を現在のように東に掘削して隅田川に流して運河とし、平川は神田川から分流させて江戸城の外堀とした。さらに明暦3年(1657)、明暦の大火後の町の再区画の折、堀留以北を北西方向に流れていた平川が埋め立てられて、流れのない完全な堀とされた。

以降、この状態が江戸時代の終わりまで続くのだが、明治36年、再び堀留から北方に向かって開削が行われて外堀は神田川につながれ、現在の日本橋川になったのである。

ところで、神田川から分かれた日本橋川に沿って歩いていると、川沿いの舗道上に説明版がある。ぞれぞれ、飯田町遺跡周辺の歴史、讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡、讃岐高松藩上屋敷の庭園跡の説明版だが、それらによると、今の日本橋川を挟んで西側には讃岐藩松平家の上屋敷が、東側には同藩の中屋敷が並んでいたという。

 

それら屋敷の跡を発掘した飯田町遺跡は、現在はビルの下に埋もれてしまっているが、そのとき発掘された屋敷内の土蔵跡の礎石が、日本橋川沿いの歩道に設置されたベンチに再利用されている。



そうして日本橋川に沿って歩いているうちに、新川橋に出た。ここが江戸時代の堀留で、ここから外堀が始まっていた。いよいよ外堀をめぐる旅の始まりである。

→つづく


 
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2008年02月10日

江戸城外堀 新たなる冒険へ

今度の冒険の旅は、都内が舞台である。すなわち、江戸城外堀跡を歩くのだ。その目的とは、もちろん・・・

江戸城攻略!!

ではなく、外堀跡を歩いて今も残る歴史遺産を探すのである。

江戸城外堀は、今も一部水が張られて残っているところがあるが、埋め立てられて道路や建物の敷地になっているところも多い。また、外堀に設けられた門は、見張り所の役割を兼ねていたことから「見附」と呼ばれるが、その見附門も遺構の石垣が残っているところは数ヶ所あるものの、全容が今に残っている場所はひとつもない。

そんな江戸城外堀は、安政時代の古地図によると、水道橋の少し南側から始まり、城の周りを「」の時に回って浅草橋で隅田川に注いでいた。



外堀は、豊臣秀吉によって国替えを命じられた徳川家康が関東に入ったとき、江戸の地を流れていた河川の流れを変え、それらの流れを利用した上に、新たに堀割を掘削して造ったものである。安政時代の江戸の地図にある「の」の字の形の外堀は、明暦3年(1657)の明暦の大火の直後ころできあがり、明治時代に埋め立てや新たな川の開削が行われるまで続いていた。

さて、江戸城外堀探検にいよいよ出かける今日の朝、目覚めてみると・・・

一面銀世界じゃないかーーー!!

こうして始まった江戸城外堀めぐり、前途多難な気がしないでもないが・・・

 

結構いろんなものがあったりして・・・

→つづく
 
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2007年10月04日

都電荒川線21 早稲田

ついに旅の終わりがやってきた。私を乗せた都電荒川線が、終着駅早稲田に着いたのだ。

 

三ノ輪橋から早稲田まで、ただ乗るだけなら52分で到着するところ、沿線をあちこち見て回って、ちょっとした日帰り旅行になってしまった。

旅の余韻に浸りながら、私が早稲田駅の構内を出ようとしたところ、背後から歓声が上がった。私が振り返ってみるとそこには・・・



ちがうわーーー!!



復古調車両9000形!

なんと、今日一日どこでも見ることができなかった復古調車両が、この日の最後に私の目の前に現れたのだ。

なんとなく得をしたような気分で早稲田駅を後にした私だったが、地図を見ながらふと思った。この近くには、JR地下鉄も・・・

最寄りの駅が全くない!!

大都会東京の真ん中に存在する陸の孤島「早稲田」!一度足を踏み込んだら、二度と抜け出すことのできない都会のブラックホール「早稲田」!!こうして、私の孤独でサバイバルな旅が、今始まろうとしていた。

都電荒川線の旅・完


 
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2007年10月02日

都電荒川線20 目白不動

次の駅は学習院下である。降りてみると、線路がずいぶん荒れている。草ボウボウの中を走る巨大なアオムシ・・・



学習院下という駅名からわかるとおり、この駅を降りると学習院大学の裏に出る。しかし、私が目指すのはそこではない。駅の目の前の道を入っていくと、左手に小学校が見えてくる。その小学校の裏にあるのが、私の目的地である

目白不動金乗院!

別にびっくりマークを付けて言うほどのものではないが、ここは8月25日に紹介したとおり、江戸の五色の不動尊の1つである。目白の地名も、この不動尊から来ている。この寺のご本尊様は、白目をムイてぶっ倒れているので、目白不動と呼ばれている。

ウソつけやあぁーーー!!



境内は、目黄不動と比べるとはるかに広い。本堂の戸が閉まっていたため、ぶっ倒れているという噂の真相を確かめることはできなかったが、本堂前にはお不動様の化身と言われる倶利伽羅不動の石像がある。



倶利伽羅不動とは、不動明王が竜の姿に化身し、人の邪心の象徴である剣を飲み込もうとしている像のことである。不動明王の絵によっては、明王が右手に持っている破邪の剣に竜が巻き付いているものもある。破邪の剣と邪心の象徴である剣とは全く意味が逆だと思うのだが、私にとって仏法は非常に難解である。

こうして私が倶利伽羅不動像を見ていると、庫裡から若いお坊さんが出てきた。彼は私を認めると、合唱をし、「こんにちは。」と挨拶をした。お、なかなか親切そうなお坊さんだ。

ところで、この寺には、2つほど有名人の墓がある。ひとつは青柳文蔵のもの。



青柳文蔵は、江戸時代、仙台の人である。子供のころ貧しかったが江戸に出て苦労して勉学に励み、公事師(今でいう弁護士)として財を蓄えた。自身が子供のころに本を手に入れることができなかった経験から、天保元年(1830)2万冊の蔵書と資金を仙台藩に贈り、人々に自由に閲覧できるようにした。これが青柳文庫であり、公共図書館の先覚をなすものであった。

もうひとつは、丸橋忠弥の墓である。



丸橋忠弥は由比正雪の弟子であり、彼が酒を飲んで倒幕計画をペラペラしゃべったために、正雪とその弟子たちみな捕らえられて処刑されてしまったと言われている。ところで、私は東海道品川宿で、丸橋忠弥の首塚を見ている。それが、なぜこんなところに墓があるのか?そうだ、さっきの親切そうな若いお坊さんに聞いてみよう。墓地の入口にある水場で、ちょうどそのお坊さんは作業をしていた。

「え?すいません。なぜここに丸橋忠弥の墓があるのかまで知りません。」

ちょっとがっかりした私は、都電荒川線に戻ると、終点の早稲田駅へと向かった。するとそこに現れたのは・・・

→つづく


 
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2007年09月30日

都電荒川線19 鬼子母神

雑司ヶ谷霊園を出た私を乗せた都電荒川線が次に停まったのは、鬼子母神前であった。

恐れいりやの鬼子母神!

東京地方限定のこの流行語で有名な鬼子母神であるが、ここにあるのは入谷の鬼子母神ではない。雑司ヶ谷の鬼子母神である。

ちなみに入谷の鬼子母神は、東京の初夏の風物詩「朝顔市」が開かれるところで、この期間は多くの人手で賑わう。境内も、前に進めないほどの混雑となるが、日頃は参拝者も少なく、静かな寺院である。「朝顔市」で行ったときには広く感じた境内も、実はこぢんまりとした小さな寺院である。



さて、雑司ヶ谷の鬼子母神の方は、鬼子母神前駅を降りると、すぐにケヤキ並木が見えてくる。これが鬼子母神の参道である。このケヤキ並木は、最初に植えられたのは天正のころで、その後も植え続けられたが、現在、江戸時代以前から生えているものは、樹齢400年のものなど4本しか残っていない。これらのケヤキ並木は、東京都の天然記念物に指定されている。



雑司ヶ谷の鬼子母神の境内は広い。その境内に入ると、まずは珍しい石像の仁王様。そういえば、仁王門がこの寺にはない。



そして、イチョウの古木。樹齢約600年で、これも東京都の天然記念物に指定されている。



本殿には、「鬼子母神」の扁額がかかっているが、「鬼」の時の上の点がない。鬼子母神は、もともとは鬼神の妻で、他人の子をさらってきては食べてしまうという所業を重ねていたが、釈迦によって自分の子をさらわれたことから、子を想う親の心情を知り、改心して釈迦の弟子となり、やがて安産子育ての神となったという。そのために、鬼子母神の頭からは角が取れ、点のない「鬼」の字になったという。



雑司ヶ谷の鬼子母神は、正式には法明寺という。本殿は、寛文4年(1578)に建てられたもので、東京都の有形文化財に指定されている。



ところで、境内にある1軒の小屋。



茶店である。そこには団子の模型が展示されている。



おせんだんご」である。鬼子母神には千人の子があったといわれ、それにちなんで名付けられた団子である。かつては、鬼子母神境内にはたくさんの茶店があり、だんごが売られていたが、いつの日か1軒もなくなってしまった。そこで、復活させたのが、この「おせんだんご」である。

これはうまそうだ!!



食うてやったわーーー!!

いよいよ終わりが近くなった都電荒川線の旅。鬼子母神を出た私が次に向かったのは・・・

→つづく


 
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2007年09月28日

都電荒川線18 雑司ヶ谷霊園

家並みの隙間から、サンシャイン60を見ながら、都電荒川線は進む。



次に私が降りたのは、雑司ヶ谷駅であった。駅を降りると、目の前は雑司ヶ谷霊園である。ここには、多くの有名人が眠っている。

まずは、泉鏡花



本名は泉鏡太郎。作家。代表作は、高野聖、夜叉ヶ池、天守物語など。耽美的な怪奇小説を得意とした。

泉鏡花に関しては、こんな逸話がある。泉は大変な潔癖性で、人からもらった食物は煮沸してからでないと決して食べることはなかったという。だから、もらったも、グラグラと煮てから飲んだという話だ。

ただのお湯じゃーーー!!

次に大川橋蔵

 

超二枚目の時代劇俳優。しかし、もともとは歌舞伎俳優だった。主演したテレビドラマ「銭形平次」は18年も続いた長寿番組となった。本名は丹羽富成。墓石にも「南無阿弥陀仏 丹羽家」と刻まれている。

ちなみに、銭形平次の名前は、新しい捕物帖の時代小説を執筆していた原作者野村胡堂が、主人公の名前を考えるのに苦労していたとき、目の前で工事をしていた銭高組を見て思いついたという。

永井荷風



浄閑寺でも出てきた永井荷風は、女好きのエロ小説家(失礼!)で、日記には生涯で交わった女性の名前がすべて書いてあるという。その自身の経験をもとに書いた小説が「墨東奇譚」である。

さて、都電荒川線もいよいよあと4駅を残すのみ、旅の終わりも近くなった。ここで私が次に行ったのは・・・

→つづく


 
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2007年09月26日

都電荒川線17 庚申塚

私が次に降り立ったのは、庚申塚駅であった。駅を降りると、目の前には巣鴨のとげぬき地蔵として名高い高岩寺へと通じる庚申塚通りが通っている。この庚申塚通り、実はきわめて重要な別の名がある。それは・・・

旧中山道!



この道は江戸時代、神君徳川家康公東照大権現様が定めた五街道のひとつ、中山道だったのである。庚申塚駅を降りたら、この道を左へ進めば東京日本橋、右へ進めば京都三条大橋に通じるのだ。

通りの名前も、駅の名前も、この近くにある庚申塚に由来している。人の体内には、その人を監視するために住み着いている3匹の虫がいるそうである。それらの虫は60日に1回巡ってくる庚申の日(こうしん:かのえさるの日)、人が寝ている間に体を抜け出し、その人の悪事を天帝に報告するという。そのため、庚申の日には、人々が集まって酒盛りをし、寝ずに一晩寝ずに過ごすという風習ができた。これが庚申講である。この庚申講を3年続けたとき、その記念として建てられるのが庚申塔である。

庚申の「申」は「猿」を意味する。そのため庚申塔は、日本神話に登場する猿田彦になぞらえて祀られることが多い。庚申塚とは、庚申塔を埋めて祀った塚のことであるが、ここでは猿田彦も一緒に祀られている。

 

ところで、庚申塚と交差点を隔てた向かい側には、手作りこけしを売る開運堂がある。



でもこのこけし、よく見るとちょっと変だ。



ぐわぉっ!!

なんと猿だらけ。ここは動物園か?猿の惑星か?ゾウとサルとキリンがおならをした。一番臭いのは誰だ?答え:「猿のは臭え」。い、いかん!ショックのあまり、いにしえのギャグを放ってしまった。

思わぬギャグに狼狽した私は、都電荒川線に乗ると、次の目的地へと向かった。ところが、そこで私の前に立ちはだかったのは・・・?

てえへんだーーー!

てえへんだーーー!!

→つづく


 
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2007年09月24日

都電荒川線16 西ヶ原一里塚

渋沢資料館の横から飛鳥山公園を出た私は、都道455号線を右に向かった。やがて見えてきたのは、警視庁滝野川警察署であった。

やはり悪いことをしておきながら、のうのうと生きているわけにはいかない。ここは潔く自首して、運命を司直の手にゆだねるべきである・・・

なぜ自首せにゃならんのじゃーーー!!

ここへ来た目的は、自首するためではない。実はこの都道455号線は、江戸時代は日光御成道という街道であった。本郷追分け中山道と分かれた日光御成道は、将軍が日光に参拝するための道であり、幸手宿の手前で日光道中と合流する。いわば日光へと向かう近道であった。

江戸幕府は、五街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)に一里塚を設け、さらに多くの脇街道にも、五街道にならい一里塚を設けた。日光御成道は将軍が利用するため脇街道の中でも主要な街道であり、それゆえにここにも一里塚が築かれていた。

滝野川警察署の前には、その日光御成道の一里塚が現存している。西ヶ原一里塚である。ひとつは都道455戦の東側に、もうひとつは455号線の中央分離帯にある。

 

確かに、都道に東側にあるものは、低くなっているとはいえ、ちゃんと土盛りも残っているし、てっぺんに木が生えているので一里塚と一目瞭然である。しかし、中央分離帯にあるものは、塚のほとんどが失われており、ほかにも木が生えているために、どこが一里塚なのか判然としない。これでは・・・

ただのグリーンベルトじゃないか!!

「現存」すると言われている一里塚は日本全国に多数があるが、実際に訪ねてみると、江戸時代以降手入れする人もいなくなり、荒れるにまかせて塚の形状を失っているものが多い。中央分離帯にある西ヶ原一里塚も、そのような運命をたどってしまったのであろう。

だが、しかし!このようなみすぼらしい姿となってしまった一里塚も、地元の人たちの心には生き続けていた。

 

酒屋の看板交差点の名前に残る一里塚。現代の機械文明の中を生きているうちに、歴史を過去のものとして忘れ去ってしまう人が多い中、こうして歴史を心にとどめている人たちがいることは実に頼もしい限りである。なにしろ、私たちが今ここにあるのは、過去の歴史があってこそなのである。親の名前を忘れることがあってはならないのと同様に、歴史も決して忘れてはいけないものなのだ。

西ヶ原一里塚を見た私は、飛鳥山駅から再び都電荒川線の乗客となった。次に降りた駅で私が見たものは・・・

○○の集団?!

→つづく


 
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2007年09月22日

都電荒川線15 3つの博物館

飛鳥山公園における数々の衝撃的な出会いによって、すっかり神経衰弱状態に陥った私の前に、大きな扉が現れた。



この扉を開けないと、先には進めない。しかし、扉はしっかりと閉じている。鍵穴も見あたらない。取っ手もない。私のほかにも、扉を開けられずに困ってしゃがみ込んでいる人たちがいる。ここは、いったいどうやって開けるのだろう。やはり、ここは扉を開くための秘密の言葉があるのだろうか。その秘密の言葉とは・・・?ここは飛鳥山・・・。乗ってきたのは都電荒川線・・・。すると秘密の言葉は・・・?

よし、わかった!!

ついに謎は解けた。私は秘密の言葉を唱えるために、扉の前まで進んだ。するとそのとき・・・

勝手に扉が開いた!

ただの自動ドアかよ!!

ここは紙の博物館。入館料300円。しかし、受付で都電荒川線の一日乗車券を提示すると、240円で入ることができる。



うおぉーーー!60円も安い!!

助かった!これで米が買える!!

内部については写真がないので、パンフレットの写真から。



製紙工場の機械の模型や、古来からの紙製品などが展示されている。この紙の博物館は、元々は王子製紙の工場跡に建てられていたのだが、平成10年に飛鳥山公園に3つの博物館が一斉に開館した折りに、この地に移転してきたのである。

その飛鳥山公園の3つの博物館とは、紙の博物館に続いて、北区飛鳥山博物館渋沢資料館とあるが、渋沢資料館はちょうど改装中のため休みであったので、次に北区飛鳥山博物館に行ってみた。入り口の扉の形は似ているが、その前には「ご注文いただいてから、ドリップします。」という博物館にあるまじきがはためいている。



常設展示は、やはり300円が一日乗車券で240円となり、常設展示室のある地下1階へと向かった。すると、階段を下りるとすぐに、高床式倉庫とそこで働く人々の実物大の模型が置かれている。これは平安時代の豊島郡衙正倉の模型で、律令制の下、税として集められた米を収納していた倉である。

それにしても、この実物大の模型には正直言ってビビった。実物大の人形が、妙に生々しいのだ。こうして、私がこの倉庫の模型の前でビビっていると、突然、背後から声がかかった。

「チケットをお見せいただけますか?」

ギョッ!

私以外に人がいたのか?!

なんと、模型に気をとられて全く気づかなかったが、模型に向かい合わせで入場受付があったのだ。私が模型の前でビビり上げている様子は、受付のお姉さんに逐一見られていたのだ。

ここからが常設展示室になるが、やはり撮影禁止なので、内部の様子はパンフレットから。なお、パンフレットの左下に写っているのが、恐怖の高床式倉庫の写真である。



発掘された歴史遺物の展示がほとんどで、縄文時代、弥生時代の遺跡の発掘物から、先に出てきた豊島一族関連の遺跡からの発掘物なども展示されている。

北区飛鳥山博物館を出ると、右手に改装工事中の渋沢資料館がある。明治の実業家渋沢栄一は、飛鳥山に居を構えていたことから、ここに資料館が建てられているのだ。今も旧渋沢邸の庭園が残り、「渋沢庭園」として公開されている。



さて渋沢資料館の横から、都道455号線へと出ることができる。ここを右へと行けば都電荒川線飛鳥山駅であるが、ここは左へと、もうちょっとだけ寄り道をしてみる。するとこの先にあるのは・・・

→つづく
 
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2007年09月20日

都電荒川線14 飛鳥山公園

飛鳥山公園には、3つの博物館があることで知られている。紙の博物館飛鳥山博物館渋沢資料館である。ところが、これらの博物館に至る道のりは、苦難と驚愕の連続であった。まずは飛鳥山駅を降りると・・・



た、高島礼子かよ?!

なんで白バイに乗ってるんだ?!

さらに公園内に入ると・・・



な、なんで人魚がいるんだ?!

あ!危ない!轢かれる!!

いきなり人魚登場である。「人魚に見えるのは、本当はジュゴンだよ。」なんてことを言う人もいるが、これはどう見ても人魚である。半魚人である。

そんなことより、どうしてここに都電の車両があるんだ?!



この車両は昭和54年まで現役で活躍していたのだが、引退を機に北区が譲り受け、子供たちの施設として飛鳥山公園に設置したものなのだという。ついでに、近くにはデゴイチ(D51)まである。なぜだ?!?!



いや、そんなものはまだまだ優しい。私が引き続いて遭遇したのは・・・



タ、タコかよ?!

しかも赤いぞ!茹でられているのか?はちまき巻いてるぞ!祭りか?いやいや、そんなことより・・・

なぜここにいるんじゃーー!!



こ、今度はゾウかよ?!

なぜここにいるかってことも重要だが、そんなことより、滑り台の下敷きになっているぞ。動物虐待じゃないのか?しかも歩き出そうとしたところへ滑り台を乗せられたものだから、動くに動けなくて片足を上げた状態で固まってるぞ!しかし、よく見ると、近くに子供が!!

あ、あぶない!!

あまりの衝撃に息も絶え絶えとなった私の前には・・・

→つづく


 
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2007年09月18日

都電荒川線13 音無親水公園

都電荒川線は、JR王子駅の下をぐりんぐりんと大きく急カーブを描きながら左に曲がる。

 

JR王子駅の前にも荒川線の駅がある。王子駅前駅である。ここで下車し、JRの下をくぐると小高い丘があり、ふもとを小川が流れている。音無親水公園である。



夏の一日、川辺に響くせせらぎの声。暑さを忘れるひとときである。小さな子供を連れた家族連れが、水遊びを楽しんでいた。心に安らぎを覚える、幸せそうな風景である。しかし、家族のない天涯孤独の私は、この幸せに嫉妬を覚えた・・・

鉄砲水カモ〜〜〜ン!!

親水公園から丘を登ると、そこには王子神社がある。



社殿は新しいが創建は古い神社で、戦国時代に現在の東京23区辺りを支配していた豊島氏が信奉していたというから、それ以前からあったことは確かだが、正確な創建年はわかっていない。もとは王子権現と呼ばれていたのだが、明治時代の神仏分離により王子神社と名を改めている。

ちなみに豊島氏は、一般的にあまり知られていない豪族なので、ちょっとだけ紹介する。戦国時代初期の関東では、本来統治者であるはずの関東公方足利氏が、部下であるはずの関東管領山内上杉氏扇谷上杉氏によって古河に追いやられ、関東公方と両上杉氏が、関東一円の豪族を巻き込んで抗争を繰り返していた。そんな中の文明8年(1476)、山内上杉氏の家老長尾景春が、主君への不満から反乱を起こした。豊島氏の当主豊島泰経とその弟豊島泰明は、このとき長尾景春に味方して戦っている。自分の領内に扇谷上杉の家老太田道灌が、勝手に江戸城を築いたことに反感を持ったことが、豊島兄弟が乱に加わった理由だと言われている。しかし、乱は太田道灌の活躍により鎮められ、豊島兄弟も宿敵道灌との戦いに敗れ、武蔵最大の豪族だった豊島氏は滅亡してしまった。



さて、王子神社の境内には都の天然記念物にも指定されているイチョウの古木がある。傍にある説明版を読んでも樹齢が書かれていないから、どうやらいつ頃から生えているのかわからないようだ。しかし、木の年齢は年輪の数を数えれば容易に知ることができる。しかも、木を勝手に切り倒しても、正直に申告して謝れば、怒られることはない。

ジョージ・ワシントンかーーー!!

天然記念物を伐ってはいかーーん!

このイチョウの木も、豊島氏がこの近辺を治めていたころから生えているものだと伝えられている。

都電荒川線王子駅前駅の隣は、飛鳥山駅である。この駅の前にも、音無親水公園から緑地が続いている。飛鳥山公園である。私はここで、衝撃の出会いをするのだ・・・

→つづく


 
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2007年09月16日

都電荒川線12 荒川車庫

荒川遊園地駅から再び都電荒川線に乗った私は、次の駅、荒川車庫前で下車した。すると目の前にあるのは・・・

都電荒川線の荒川車庫だ!!

※当たり前である。

荒川車庫といっても、寿司ネタになる海老の一種であるシャコではない。車両が停めてある車庫なのである。しかも、ただの車庫ではない。過去に都電の路線を走っていた車両2両が、車庫の隣で展示されているのだ。いかに親切な寿司屋でも、2両も展示しているシャコはない。

※だから・・・シャコじゃないってば!

まずは、クリーム色の車体のPCCカー。アメリカの路面電車の路面電車の製造権を購入して造られた、当時の最新鋭の車体である。低騒音・高加速の高性能をもって品川〜上野間を昭和42年まで走っていた車両である。



次に、オレンジ色の車体のこの車両は、学園号と呼ばれている。平成10年まで使われていた比較的新しい車両である。大塚〜町屋間を走り、通学する学生が多く利用したことからこの呼び名が付けられた。



そして車庫には、たくさんの緑色のずんぐりした車体が停められている。「アオムシの集団みたい!」などと失礼なことを言ってはいけない。これらが現在の都電荒川線を支えている主力車両なのである。これこそわれらが東京都交通局の誇る・・・



イモムシ軍団!!

これらイモムシ軍団以外にも、都電荒川線にはいろいろな車両が走っており・・・

 

さらに復古調の車両も走っているらしいが、ここでは見ることはできなかった。復古調の車両はなかなか見ることができないようだったので、諦めかけていた私だったが・・・

→つづく


 
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