
神田橋に戻ってきた私が、橋を渡り交差点へと向かおうとすると、その途中・・・
ぎょぎょぎょっ!!

なんじゃ、貴様あ〜〜〜!!
またもや宇宙人に遭遇か?実は、この得体の知れない像は金銅鎚起豊展観守像であった。名前を聞いてみれば他愛のない、普通の金銅鎚起豊展観守像であっ・・・
金銅鎚起豊展観守像って
なんなんだよう〜〜〜?!

この像は千代田区民の豊かさと区の発展を見守る姿を、黄金虫を擬人化して表現したものなのだそうである。今は亡き鍛金師・彫刻家の山下恒雄氏の作品である。私は、また私を誘拐しに来た宇宙人かと、すっかりビビってしまった。
神田橋の北側の交差点で横断歩道を渡ると、その角には物揚場跡の碑と内神田一丁目の説明板がある。それによると、神田橋の横には物資を船から運び上げる物揚場があった。たしかに、外堀は神田川と日本橋川で隅田川につながっており、平和な江戸時代には、防御施設としての堀としてよりも物資運搬のための水路としての利用価値の方がはるかに重要だったであろう。

また、神田橋御門は、将軍が上野寛永寺や日光東照宮に参拝するときに通った門であることから、おそらく警護の便をはかってのことであろう、神田橋の外側には何も建物を建てず空き地となっていた。空き地状態は何故か戦後まで続いていたという。
ここからしばらくは堀沿いの道がないので、外堀の北側を走っている都道402号を歩く。少し歩くと鎌倉橋に出るが、この橋は明治以降に架けられたものであるが、橋のたもとには鎌倉河岸の説明板がある。
神田橋から常磐橋の間には荷揚場があり(先に出てきた物揚場のことらしい)、徳川家康による江戸城建築の時に、鎌倉から運び込んだ石を揚げたことから「鎌倉河岸」の名が付いたといわれている。江戸時代に入ってからは、魚、青物といった食料から始まり、茅や木材などの建築資材まで雑多な品々が荷揚げされていた。
また、河岸の前の鎌倉町にあった酒屋「豊島屋十右衛門」がひな祭りに売り出す白酒は江戸の市民に大変な人気があり、卒倒者が出るほど客が押し寄せたという。
ところで、この豊島屋、現在も会社として存続している。千代田区猿楽町にある豊島屋本店と東村山市にある豊島屋酒造である。現在も2社で酒の製造と販売を分担して営んでいる。もちろん、白酒も販売している。

これは白酒じゃないわーーー!!
「酒」と聞くと見境がなくなるところが若干、まさに若干ある永遠の美少年であった。
→つづく




































































































