2012年05月25日

京都 ・ 野宮神社の鳥居

野宮神社(京都市右京区嵯峨野宮町)の鳥居は、ユニークである。

添付写真上は、本社の前の鳥居でいわゆる「黒木鳥居」。樹皮が付いたままであるから
伐採してきた原木をそのまま利用する。樹木はクヌギ。鳥居の形態も貫が出ず直線的で
鳥居として最も原初的形態でシンプルである。 元々この黒木鳥居は3年ごとに建て替え
られていたそうだが、現在の鳥居はクヌギの木の減少から防腐処置の後に香川県の某社が
寄進された鳥居である。
余談ながら昨日のBlogに書いたように、 能【野宮】で六条御息所の怨霊が消えたのが
この黒木鳥居の陰である(元素材「源氏物語」)。

添付写真下は、若宮の鳥居。なんと「両部鳥居」である。 このような水と関係ない場所で
両部鳥居に出会うと思っていなかったので、たいへん驚いた。
野宮神社の鳥居は本社・若宮、共にユニークな鳥居であった。
では鳥居の形態の選択とは? 改めて不思議に思えてくる。

今月20日の撮影。

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2012年05月24日

野宮

写真は 野宮神社(京都市右京区嵯峨野宮町)の社前。
鳥居は樹皮を剥がさずに建立したいわゆる、黒木鳥居である。
能楽の【野宮】では、ちょうどこの場所が舞台となっている。

( 能; 野宮 )
諸国一見の旅の僧が鳥居前で女に出会う。女は 今日、9月7日は昔を偲ぶ神事を行うから
立ち去って欲しいという。訊ねると、昔この野宮の地に世を避けていた六条御息所を光源氏が
訪ねた日が9月7日だという。語る女は寂しげに黒木鳥居の陰に消えていった。
女は六条御息所の亡霊であった。僧は六条御息所の霊を弔っていると 御息所の亡霊が現れて
葵上との車争いで辱められた恨みを晴らしてほしいと訴え、かつて光源氏が訪れてきた日々を
偲んで舞を静かに舞った。成仏できないのは神の意にもかなわぬことだと亡霊は消えていった。
  死してなお恨みの妄執から成仏できない地獄の苦しみを、静かな風情ある嵯峨野の情景に
重ねて舞うのは、風景の美しさを通り越した鬼気迫る凄みを内包しており、能ならではの
内容の曲である。

添付写真;今月20日の撮影。

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2012年05月22日

嵯峨野・小督庵

嵐山嵯峨野、大堰川に面した道路沿いに 小督庵 は静かな佇まいの門を構えている。
前を通る観光客は、見向きもしない。さらに通る人もまばらな脇道に入った処、
ちょうど小督庵の裏の一角に相当するであろうところに、五輪塔と背後に層搭が
あり 小督 の 供養塔 をなしている。

ここは 能楽小督】の謡蹟でもある。
(能;小督)
小督は桜町中納言藤原成範の女(むすめ)であったが、高倉天皇(第80代、在位1168〜80)
の寵愛を受けていた。高倉天皇の中宮は徳子、平清盛の女(むすめ)で後の建礼門院であるから
平家の圧迫を恐れた小督は、この地に身を隠した。
それを嘆いた高倉天皇は、源仲国に文を持たせて嵐山嵯峨野へ小督を探しに行かせた。
探すあてもなく名月の嵯峨野を仲国は馬でめぐる。そのとき、かすかに琴の音色が聴こえてきた。
「想夫恋(そうふれん)」という曲である。琴の音色をたよりにたどり着いた先は小督の隠れる
庵であったが、小督は仲国に会おうともしない。侍女のとりなしで小督に会った仲国は、高倉天皇
からの文を渡す。小督は帝の思し召しに感涙し、仲国は小督に見送られて都へ帰っていく。
この能は 女である小督の名前をタイトルとしながら シテは男である仲国であり、小督はツレである
のがユニークである。名月の嵐山嵯峨野、そして琴の音色に美女・小督。舞台は出来上がった、と
思うのだが舞は仲国がシテだから男舞というのが逆に小督の置かれた板ばさみの哀しみを表して
いるのかもしれない。

添付写真; 一昨日の撮影。 小督庵 の門と 供養の 五輪塔と層搭。

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2012年05月14日

旧北陸線、杉津・山中越え(1)

昨年の初夏、旧北陸線の柳ヶ瀬越えのルートを辿ったが、
昨日は旧北陸線の杉津越え・山中越え と呼ばれる区間を辿ってきた。
この区間は 福井県の 敦賀〜今庄 で、明治29(1896)年7月15日に開通した26.4Km の急勾配
路線である。途中には新保、杉津、大桐の3駅と 深山、葉原、山中の三箇所の信号所があった。
そのうちの山中信号所をサミットとして両側に、25パーミルの勾配が連続し、しかもその間に11もの
隧道が口を開けていた。北陸信越地方と京阪神を結ぶ動脈として物流は多く、貨物列車は1,000トン
クラスの重量列車が多かった。にもかかわらず急勾配の単線では列車本数の増加には、ままならぬものがあった。
重量貨物列車は本務機にD51、前補機にDD50またはDF50、そして列車の最後部補機にD51という場合に
よると4台運転が行われていた。その運転体制は、昭和37(1962)年6月10日に 北陸トンネル が
開通して複線電化されるまで続いた。
北陸トンネルが開通すると、それまでの杉津・山中越えのルートは廃線となった。しかし線路跡は
敦賀市内から郊外では国道476号線として、そして山越えの区間は県道207号線として生活道路に
用いられている。
昨日は 我がプリウス君で 敦賀〜今庄の間を辿ったが、線路の敷設されていた大築堤のカーブに
心熱くなり、対向車と交換不可能な当時のままの隧道を潜る時の乗務員の苦悩を感じ運転してきた。
国鉄北陸線としての役割を終えて、ちょうど今年で50年ということになる。50年という時間の経過は
各人にとって捉え方はまちまちであろう。まだ50年前 or そんな昔、、、私にとっては、D51の咆哮
が聞こえそうなルートを辿ることは、感動と共にここで撮影できなかった無念の混じりあった複雑な
気持ちというところだ。あと10年、いや20年 早く生まれていたら、ここで苦闘するD51を、思う存分
撮影したかもしれないのに。。。
杉津・山中越えを敦賀から行い今庄に下ると、「今庄ふれあい会館」前で D51が迎えてくれた。
このカマ、昭和15年に神戸の鷹取工場で生まれてから昭和29年に廃車になるまで、主に山陽・山陰
地区で活躍していた。早くに蒸気機関車が廃止になった区間ゆえ、北陸線に由来した機番のカマを
保存するのが難しかったのであろう。

添付写真; 今庄(福井県)の保存機 D51の481号機と、我がプリウスG's君。

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2012年03月30日

源家三代の墓

拙HPの掲示板でも 凡さんとの書き込みで出た、大阪府羽曳野市にある
源頼信・頼義・義家の源氏三代の墓を28年前(1984年8月17日)に訪れた。 
熱い、盛夏の一日であった。
うだるような真夏の太陽の下、公共交通機関で訪れた私は、バス停から延々と歩いた記憶がある。
源義家らの墓の周囲は何の畑か、野鳥を追うためか時々 空砲のような炸裂音がする場所だった。
源家三代の墓の場所は廃寺の跡なのか、石塔が草生した中に点在するような黄泉の世界であった。
あれから28年が経過した今、あの場所はどうなっているのだろうか。
変に整備されていないほうが、私的には好きなのだが。
草生した廃寺の木陰でまどろむと、何処からともなく現れた鎧武者。源義家の霊である。
義家は戦の修羅の様子を舞うと、回向してくれと云いながら消えていった。目が覚めて
気がつけば、それは夢の中のできごとであった。。。そんな 夢幻能のような荒れた情景が
想像できる方が好きである。

添付写真は、28年前に撮影したプリントを並べて複写した。すぐ写真が探せる点、やっぱり
銀鉛プリントはいいな。

上;周囲の畑の景色、 中;石塔累々の廃寺跡(?)、 下;源義家 墓所

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2011年12月17日

廃線・愛岐トンネル群散策(13)

公開されている1.7Kmの区間には、4つのトンネル(3〜6号隧道)や、橋梁跡が煉瓦組みで
残存し、また散策道となっている路にはかつての道床のバラスト石が残存していた。
今夜の添付写真は、廃線を歩いて特に目を引いた煉瓦群の一部のクローズアップ。
むろん組まれている煉瓦ではなく、廃棄された煉瓦の一部が置かれているので、その写真であるが。
その煉瓦を見ると、刻印を認めることができる。この隧道群を構築している煉瓦は、愛知県・岐阜県
そして三重県の煉瓦工場で焼かれた煉瓦が運ばれて用いられた。全ての煉瓦に刻印があるのではない
そうだが、煉瓦に込められた工場の思い入れが伺い知れる。例えば、片山・平坂・西浦・岡田・知多・
四日市・愛知県監獄署などである。 添付写真に写っている三角形の刻印は四日市煉瓦、十三と
読めるのは、愛知県監獄署と思われる。

(この回で、廃線散策UPは 完)

※ 旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。
(先月25日の撮影;愛知県と岐阜県にまたがる、国鉄時代の廃線跡)

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2011年12月16日

廃線・愛岐トンネル群散策(12)

愛岐トンネル群は、開業の明治33(1900)年から廃線になる昭和41(1966)年までの66年間、
電化されることなく蒸気機関車の活躍の場であった。
廃線から45年経った今でも、トンネルの壁には蒸気機関車の煤がこびり付いている。
2120型が、9600型が、9900(D50)型が、そしてD51型蒸気機関車が吐き出した煤が
何層にもなって重積しているのだ。
うっかり壁に手をついたら、手が煤で黒くなった。
蒸気機関車の活躍を思うと、手に付いた煤でさえ愛おしく思える。
6号トンネル(隠山第二隧道:333m)にて。

※ 旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。
(先月25日の撮影;愛知県と岐阜県にまたがる、国鉄時代の廃線跡)

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2011年12月15日

廃線・愛岐トンネル群散策(11)

6号トンネル(隠山第二隧道:333m)を北側(岐阜県側)へ抜けると(添付写真上)、
線路跡は煉瓦組みの橋脚跡を眼前に眺めるかたちで、突然に途切れる(添付写真下)。
深見沢という川に架かる橋が無くなっているが、ここが手前の愛知県と向こう側の岐阜県の
県境である。
ここが愛知県側の旧中央西線の廃線の、公開部分1.7Kmの終点である。
沢の向こうの岐阜県側に道路標識の一部が見えているが、その道路は廃線をブッタ切る形で
旧中央西線に並行して通る愛岐道路に合流している。
国鉄時代の旧中央西線の廃線とトンネル群、岐阜県側にはまだ7〜12号の五基の隧道が
人跡未踏状態の自然に戻る形で眠っている。その中には、愛岐トンネル群最長という諏訪第一隧道
全長607mも存在するが、現在愛知県側で調査・公開を行っているNPO法人愛岐トンネル群保存再生委員会の手では、
岐阜県側には手が出せないという。
岐阜県側には、その区間の調査や保存の意志は無いようで、残念なことである。

※ 旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。
(先月25日の撮影;愛知県と岐阜県にまたがる、国鉄時代の廃線跡)

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2011年12月14日

廃線・愛岐トンネル群散策(10)

廃線に眠るトンネル群、写真は 重箱の隅を突っつく ならぬ、隧道の隅を突っつくような写真。
2枚とも、6号トンネル(隠山第二隧道;333m)。

添付写真上; トンネルで入り口(坑門:ポータル)の穴の縁は、穴の周囲を縁取るようにアーチ形に煉瓦が組まれている。
巧い具合にアーチ状になるように角型の煉瓦が組んであるのだが、アーチ状になった部分の煉瓦を、
迫石(せりいし)という。この写真の迫石、何重になっているか数えると、七層になっている。
この迫石は通常は4〜5重巻きだそうで、7層になった迫石は全国でもこのトンネルだけと推察されている。
地盤が弱く、漏水や落盤が相次いだ難工事であったそうで、強度を高める目的らしいが、実際には装飾的意味合いが強いらしい。
添付写真下; その坑門(ポータル)の地面の中が、一部露出していた。その地中の煉瓦部分を、インバートと称する。
トンネルは穴の上からの土圧を受けるだけでなく、側面も、そして下からも穴を潰そうとする土圧がある。
ゆえに煉瓦を完全にリング状にして耐力を増加させて沈下・変状を防止したという。文字通り、縁の下の力持ちの部分が、インバートである。

※ 旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。
(先月25日の撮影;愛知県と岐阜県にまたがる、国鉄時代の廃線跡)

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2011年12月07日

廃線・愛岐トンネル群散策(9)

今夜の添付写真は、5号トンネル(隠山第一隧道;99m)の内部写真。
上写真は、待避所である、穴。 
まるで隧道ポータル(坑門)のアーチ部分である迫石(せりいし)を彷彿とする煉瓦積である。
三重になったアーチの迫石のカーブが、美しい。
隧道壁面も、いわゆるイギリス積みと云われる、イギリス人技師エドモンド・モレルの薫陶を受けた技師による、
芸術的な煉瓦積みが見事である。構築から110年以上経過し、しかも廃線で手入れの無かった期間が
40年以上あったとは思えない情況維持を保っている。

※ 旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。
(先月25日の撮影;愛知県と岐阜県にまたがる、国鉄時代の廃線跡)

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2011年12月06日

廃線・愛岐トンネル群散策(8)

今夜の添付写真は、5号トンネル(隠山第一隧道;全長99m)のポータル(坑門)と、ポータルのウイング(翼壁)部分に安置された、地蔵像。
この隧道と6号トンネルは、特に硬い岩盤に穿って設けられた。工事は困難を極め、表面積50坪という岩石の落盤事故が、この5号トンネルでは起こっている。その時、300発のダイナマイトと300人の作業員が救出作業に当ったが、6人が犠牲となったという。
ウイング部分の地蔵像は、廃線跡の整備中に地中から発見されたもので、像には 「昭●二十七●十二 鈴木仲二郎」 と銘がある。線路が既に使われているころの像だが、あるいは供養のために子孫が安置されたのか、あるいは客車からの転落事故などの犠牲者を悼んでの供養像であるかもしれない。像は地中から発見後、トンネル群保存再生委員会の手によりウイング部分に安置された。

※ 旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。
(先月25日の撮影;愛知県と岐阜県にまたがる、国鉄時代の廃線跡)

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2011年12月05日

廃線・愛岐トンネル群散策(7)

旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。
(先月25日の撮影;愛知県と岐阜県にまたがる、国鉄時代の廃線跡)

今夜の写真2枚は、4号トンネル(玉野第四隧道;75m)の写真。
隧道内の闇の世界から光の世界を見る。
闇の世界の壁面には、クラック(割れ目)がある(添付写真下)。
線路巾が拡大しており機関車が脱線し、壁面にもたれ掛かってできた割れ目だという。
(ただし、いつの事故か、年月日は不明)。
煤がこびり付いた壁面が、蒸気機関車の生きていた証である。

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2011年12月03日

廃線・愛岐トンネル群散策(6)〜 蒸機夢幻

旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に 電化複線化による新線切り替えで、
廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。

添付写真上; 第四トンネル(玉野第四隧道=全長75m)の南側(名古屋側)のポータル(坑門)。

廃線に響くドラフト(排気音)は、夢か幻か、、、。 幻影のようなD51が現れた。。。

添付写真下は、かつて愛岐トンネル群を駆け抜けたD51型蒸気機関車の同型機、498号機。
上越線の群馬県渋川市で、今年10月30日の撮影。夢の中のように定かでなく表現。)

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2011年12月02日

廃線・愛岐トンネル群散策(5)

旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群の散策。

添付写真上は、廃線跡を歩いて行くと、小川を渡る。その橋脚部分を見ると、やはり煉瓦で組んである。
添付写真下は、昨日UPしたトンネルの次に現れる、四号トンネル(玉野第四隧道)。写真は隧道開口部(ポータル)の南側(名古屋側)の山側斜面。山を削って隧道を穿ったのであろう、ポータル側面の山肌に補強のために煉瓦が組まれている。その横に岩石が露出しているが、開削から110年くらい経過し、なおかつ廃線で忘れられていた期間の未整備期間が40年もあったのに、若干の崩壊も無い強固な作りに驚いてしまう。

(先月27日の撮影; 愛知県、現在のJR東海・中央西線 定光寺〜古虎渓に相当する、旧線=廃線)

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2011年12月01日

廃線・愛岐トンネル群散策(4)

旧国鉄 中央西線の定光寺〜古虎渓〜多治見間に廃線後40年間 眠り続けた、愛岐トンネル群。

添付写真上は、昨日UPした3号トンネル(玉野第三隧道)のトンネル内から、北口(多治見側)を見た写真。
トンネルを出たすぐ左側には、線路を廃物利用した、落石防止柵が見られる。
線路は鉄道開業当時は機関車同様、輸入されていた。日本で線路の製造が始まったのは、明治34(1901)年のことである。この区間は、その前年に開通しているから、全て輸入レールに頼っていたわけである。余談だが、全て国産でレールが製造できるようになったのは、昭和6(1931)年のことである。レールの強度や精度を保つ技術力達成には、時間がかかったということか。
レールには製造年や製造所の刻印がある。この柵、チラリと見ただけでは分からなかった。 妻にハイキングということで同行してもらっているので、しつこく調査しなかった。。。

添付写真下は、その3号トンネルから北に100mくらい歩いた地点。道床のバラストが散在している。道巾も単線の鉄路にピッタリで、そそられる。

(先月27日の撮影; 愛知県、現在のJR東海・中央西線 定光寺〜古虎渓に相当する、旧線=廃線)

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2011年11月30日

廃線・愛岐トンネル群散策(3)

今月27日(日)、5日間だけ公開されていた旧国鉄中央西線廃線・愛岐トンネル群を歩いてきた。
JR東海・中央西線の定光寺駅の北方約300mの箇所で、庄内川沿いの用水路道から廃線に階段で上がる。
すると目の前に開口しているのが、3号トンネル(玉野第三隧道) 全長76mである。
建設は明治29(1896)年から始まり、開通は明治33(1900)年7月である。
つまり明治の隧道工事の技の結晶が、そのままの姿で眼前に存在するのである。
廃線から45年を経て尚、当時のままの姿を崩れることなく見られるとは、いかに強固に丁寧な仕事が
されていたか、驚くばかりである。
明治の蒸気機関車から蒸機時代の晩年のD51まで、素晴らしい機関車たちが通った隧道、耳をすませば
隧道へ入る汽笛が鳴り響いてくるような気がしてくる。

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 愛岐トンネル群、3号トンネルの南側(名古屋側)。
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 こちらは中央西線ではなく、関西本線の加太隧道で 拙者の撮影昭和47(1972)年3月14日の撮影。
中央西線の廃線のトンネル群でも、この写真のようなD51の噴出風景が見れたはずだが、私が蒸気機関車を撮影し始めた昭和45(1970)年当時には、すでに廃線になっていた。
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2011年11月29日

廃線・愛岐トンネル群散策(2)

旧国鉄の中央西線、定光寺〜多治見間の廃線区間を歩くUPの2回目。
昨日に続いて、今夜もプロローグ的UP。
昭和41(1966)年、同区間は複線電化により、それまでの線路が廃線となった。
以来、旧線は忘れ去られ、荒れた山の自然に埋もれた廃線が発見されたのは、廃線から40年後の平成18(2006)年のことであった。
その廃線区間の一部が「NPO法人 愛岐トンネル群保存再生委員会」により整備され、3年前から春秋の特定の数日間だけ歩けるようになっている。

以上は昨日も記したが、どのような場所か分かり難いと思う。
添付写真上は、現在のJR東海・中央西線の定光寺駅・上りホームから、廃線方面を望んだ写真である。
写真の左側に、現在の電化複線のトンネルが開口している。昭和41年開通の新線である。
旧線の散策には、定光寺駅を降りて庄内川沿いの用水路脇の小路を北に300mほど歩いて行く。テントが設置された場所で100円の保存と保険代を払い、枕木で組んだ階段を登って旧線跡に上がって行く。“舞!組曲”のクレジットの右側辺りに、階段がある。この写真では雑木の山に埋もれている辺りに、階段を登ってすぐ3号隧道(玉野第三隧道)が開口しており、一気にトワイライトゾーンに突入する。
添付写真下は、廃線跡に掲示されていた、過去現在の写真である。D51型蒸気機関車の重連が、第四号隧道に突入する寸前の車窓からの写真である。まさにD51が走った鉄路を、歩こうとしているのだ。

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2011年11月28日

廃線・愛岐トンネル群散策(1)

現在の中央西線の高蔵寺〜多治見間は、昭和41(1966)年に複線電化された際に敷設された新線である。
名古屋〜多治見間が開通したのは、それより遡ること66年の明治33(1900)年のことであった。その複線電化までの旧線は、廃線になるまでディーゼル化されることもなく、蒸気機関車の天下であった。
しかし廃線後、その旧線の特に定光寺〜多治見間の渓谷の山間部分は忘れられてしまった。そのような忘れられるということが有るものだなぁ〜というのが率直な感想だが、その定光寺〜多治見間の忘れられていた鉄路が遺構として発見されたのは、廃線後40年を経た平成18(2006)年のことである。
その区間には9箇所の隧道が遺構として残り、愛知県と岐阜県にまたがり存在することから、【愛岐トンネル群】という。
発見された時、鉄路の跡は自然に還るが如く荒れ果てて、雑木が生い茂った人の立ち入ることを拒む荒れ山と化していたという。
以来、「NPO法人 愛岐トンネル群保存再生委員会」なるボランティアグループが発足し中心となり、遺構の調査と保存が平成19年から行われてきた。その保存活動は、『旧国鉄中央西線の廃線とトンネル群保存再生プロジェクト』と云う。
平成20(2008)年の第1回市民見学会を行って以来、春と秋の数日間、その遺構を歩けるようになった。
今年の秋は 11月23日〜27日の5日間に廃線跡の見学が可能となったので、最終日の昨日に 妻と歩いてきた。

廃線区間の8Kmの間の1.7Kmが一般公開されている。主に愛知県内である。その1.7Kmの間に、煉瓦で組まれた隧道が4箇所存在する。隧道は電化に際して拡張されたり道路に再利用されるのとも無かったから、蒸気機関車が通って廃止になったままの姿で存在する。むろんレールは撤去されているが、道床の砂利(バラスト)は、そのまんま残っている。

その廃線跡について、順番に拙Blogに記していこうと思っている。今夜はプロローグ。

by HP【舞!組曲】www.photoland-aris.com/myanmar/

 廃線跡を、見学者がゾロゾロと歩いて探訪する。左側に5号隧道(隠山第一)が開口している。右下に、庄内川が流れる、渓谷路線だ。
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 妻と2ショット撮影。 隧道開口部の煉瓦の緻密さ、そして地面には線路のバラストが残る。
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2011年09月29日

一条戻橋

昨日UPしたのは鬼の出没する羅城門、鬼の続きで今夜は一条戻橋(上京区堀川通一条)。
羅城門に並び、魔界のエピソードの多い場所であるが、現在はコンクリートの橋で趣は無い。
この橋は内裏の鬼門(丑寅)方向にあり、橋の北側が葬送の場であったため、おどろおどろしい話がある。名前の由来の戻り橋とは、延喜18(918)年の逸話に由来する。文章博士の三善清行が亡くなったとき、子の浄蔵は熊野から急いで帰ってきた。そしてちょうど葬列がこの橋の上を通りがかった時に出くわし、神仏に懸命に祈念した。すると冥界から蘇生して現世に、戻って来たのだという。三善清行は安倍晴明のように式神を駆使したりはなかったようだが、陰陽家の一人であったから、なにやらの呪力を持っていたのかもしれない。その式神を駆使した安倍晴明の邸跡といわれる場所は、この橋の近くである。そして晴明が、その式神を隠したのも、この戻橋の下である。式神とは陰陽道で使役する鬼神であり十二神将であるが、これは陰陽道の占術の式占にみられる十二天将のことと云われる。その十二天将の一柱が或る時、鬼女に変じて京の都を徘徊する。羅城門の鬼退治でも有名な渡辺綱と、その鬼の一騎打ち。ことの真相を知った晴明は、青ざめたことであろう。鬼の跳梁跋扈する京の足跡を歩くのも、楽しいものだ。
添付写真は、今月18日撮影。
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Posted by gagaku at 21:05  | 史跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月28日

羅城門 (真野ちゃんカメラで撮る)

真野ちゃんカメラで、京都の羅城門跡を撮る。

桓武天皇が造った平安京、朱雀大路の南端にあった正門である羅城門の跡、今では石碑が立つのみである。
この羅城門、史跡として魔界として、そして雅楽の関連としても聖地である。
これまで行こうと思いながらも、なかなか寄れなかったが、壬生にも近いことから行ってみた。
九条通り千本東の羅城門バス停の近くなのだが、行き過ぎてしまい、現地人に尋ねた。すると、京都三大ガッカリだよ、と教えてくれた。なかなかユーモアある案内だ。
石碑が立つ小さい公園は九条通りから20mほど宅地に入り込んでおり、分かり難い。付近に駐車場も見当たらず、午前7時半という通行量の少ない時間なので、ハザードランプを点灯させたまま停車させ石碑へ急いだ。
この石碑(添付写真)は羅城門の北西位置に相当し、九条通りに我がプリウス君を駐車した辺りまでが羅城門の建物内だったのだ。大きな門、でか過ぎたのか、二度倒壊している。弘仁7(816)年に大風で 天元3(980)年には暴風雨で倒壊し、以後再建されることはなかった。倒壊後は、この辺りは平安京の域外となるからか、死体の捨てる場所となっていたようである。そのようなおどろおどろしい場所ゆえ、そして偉容を誇った羅城門が大きすぎて不気味だったためか、あるいは域外との結界だったためか、その全てだったろうが、鬼の棲む門として恐れられた。渡辺綱の鬼退治の話も羅城門を舞台にしている。そして雅楽関連で忘れてならないエピソードがある。雅楽で一番多く演奏されている曲は、「長慶子」であることは疑い無いであろう。その曲の作曲者は源博雅であるが、彼が都を歩いていると帝の元から盗まれた玄象(上)という琵琶の音色が聴こえてきた。どうやら盗んだ鬼が羅城門の上で弾いているようだ。結局、鬼は源博雅に名器の琵琶を返してくれるのであるが、鬼としても相手が源博雅だからがゆえだったのだろう。
このように羅城門には、結界、鬼の棲む魔界そして雅楽など、あらゆるエピソードが込められた場所である。そのような異界が、今では宅地の中で窮屈そうにしていた。

真野恵里菜ちゃんが10thシングル「My Days for You」のMVで使用したのは、ウエストレベルファインダーのカメラ。そのカメラで縦位置写真を撮影するのは、体を傾けてひねって撮影する必要があり、なかなか一筋縄でいかない撮影だった。
(今月18日撮影)
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Posted by gagaku at 21:15  | 能楽・雅楽 , 史跡 , まのちゃん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする