2011年05月08日
シニア世代向けテレビ漫画
昨日の昼過ぎ、何気なくテレビのチャンネルを変えていたら漫画番組に目が留まる。
昼間に放映される漫画の珍しさと巨人の星に似たタッチの画像に興味をそそられて、そのまま番組に見入ってしまう。
昭和30年代の東京蒲田を舞台に、従業員一人の町工場を営む一家の日常を描いた作品で番組名も「昭和物語」。
昨日の放送では、両親にこずかい値上げを執拗にねだる一家の息子が、近所の町工場に集団就職で上京して来たばかりの少年に会い、キャッチボールを教えて貰った後で少年が給料の大部分を田舎の両親に仕送りする事を聞き、何かを心に感じると言ったストーリー。
井沢八郎の「ああ上野駅」が挿入歌として流れ、ALWAYS三丁目の夕日を彷彿させるシニア世代向けにお薦めの漫画。

後で調べたところ7月までに全13話がテレビ放映されるが、関東地方ではテレビ埼玉、テレビ神奈川と千葉テレビの3局のみとの事。
昼間に放映される漫画の珍しさと巨人の星に似たタッチの画像に興味をそそられて、そのまま番組に見入ってしまう。
昭和30年代の東京蒲田を舞台に、従業員一人の町工場を営む一家の日常を描いた作品で番組名も「昭和物語」。
昨日の放送では、両親にこずかい値上げを執拗にねだる一家の息子が、近所の町工場に集団就職で上京して来たばかりの少年に会い、キャッチボールを教えて貰った後で少年が給料の大部分を田舎の両親に仕送りする事を聞き、何かを心に感じると言ったストーリー。
井沢八郎の「ああ上野駅」が挿入歌として流れ、ALWAYS三丁目の夕日を彷彿させるシニア世代向けにお薦めの漫画。
後で調べたところ7月までに全13話がテレビ放映されるが、関東地方ではテレビ埼玉、テレビ神奈川と千葉テレビの3局のみとの事。
2010年10月09日
【プラスα】第2回三国街道マラニック
先週の第2回三国街道マラニックのゴール地点「越後湯沢」で温泉に入った旅館、そこで昭和30〜40年代の懐かしい自動車や再現された風景に出会う。


上のボンネットバスは近隣で開催されるイベント時に運行されているとの事。
車内に入ってみると、板張りの床、リベット打ちの天井、文字通りの網棚がノスタルジーを誘う。
子供の頃は未だボンネットバスが主流だった為に、乗り合いバスはボンネット型、観光バスは箱型と言ったイメージを抱いていた様に記憶している。


左のマツダキャロル、中学生の時に英語の先生がキャロルに乗って通勤していたが、大きな体が運転席で窮屈そうに見えた。
フォルクスワーゲンの小型版と言った感じのスバル360、やはり「てんとう虫」の愛称が似合っている。


ALL WAYS三丁目の夕日にでてきそうな、昭和30年代の典型的な茶の間と街角のたばこ屋が再現された風景。
並べられたタバコの中央右寄りにある「しんせい」。子供の頃、親父の使いでよく買いにいったが、値段を調べてみると当時は1箱40円だが現在は240円(と言うか、未だ製造され売られているとは思ってもいなかった)。
上のボンネットバスは近隣で開催されるイベント時に運行されているとの事。
車内に入ってみると、板張りの床、リベット打ちの天井、文字通りの網棚がノスタルジーを誘う。
子供の頃は未だボンネットバスが主流だった為に、乗り合いバスはボンネット型、観光バスは箱型と言ったイメージを抱いていた様に記憶している。
左のマツダキャロル、中学生の時に英語の先生がキャロルに乗って通勤していたが、大きな体が運転席で窮屈そうに見えた。
フォルクスワーゲンの小型版と言った感じのスバル360、やはり「てんとう虫」の愛称が似合っている。
ALL WAYS三丁目の夕日にでてきそうな、昭和30年代の典型的な茶の間と街角のたばこ屋が再現された風景。
並べられたタバコの中央右寄りにある「しんせい」。子供の頃、親父の使いでよく買いにいったが、値段を調べてみると当時は1箱40円だが現在は240円(と言うか、未だ製造され売られているとは思ってもいなかった)。
2010年06月05日
時の記念日は5日後ですが
またもや懐古的なネタになり恐縮だが、6月10日の「時の記念日」に相応しい(?)話を。
左の写真は、今から約40年前の中学三年生の時に初めて買って貰った腕時計。
私立高校の入学試験を明日にひかえた前夜、隣町(と言っても随分離れているが)にしかなかった時計屋の主人が我家に来て、畳の上に数種類の腕時計を並べて勧めてくれる。
当時、未だ家に電話は無く依頼したわけでもないと思うのだが、タイミング良く受験前夜に時計屋の主人が現れたのが今考えると不思議。
その時の腕時計が写真のセイコー・ファイブ・アクタス。たしか、\11,500の値札が着いていた記憶がある。
翌日は、真新しい時計を腕にして意気揚々と受験会場の私立高校に向うが、試験中も左腕にはめた時計が気になり何度となく目が行き、いまいち試験問題に集中出来ず。
そのせいばかりでは無いと思うが、試験結果は見事に・・・・・。
そんな苦い思い出から付き合いが始まった時計だが、その後も10年ぐらいは腕で時を刻み続けてくれた。
その頃は頻繁に登山に出掛けていた為に、腕時計が山の岩で擦れたりして表面も本体も傷だらけになってしまったが、その傷が山行歴の記念にもなっている。
(時計の文字盤がボヤケて見えるのは、ピンボケのせいでは無く表面についた細かい傷の為)
今では引き出しの奥に眠っているが、手にした時のズッシリとした重量感は、40年間の時の流れが詰まった重さの様な気がする。
私立高校の入学試験を明日にひかえた前夜、隣町(と言っても随分離れているが)にしかなかった時計屋の主人が我家に来て、畳の上に数種類の腕時計を並べて勧めてくれる。
当時、未だ家に電話は無く依頼したわけでもないと思うのだが、タイミング良く受験前夜に時計屋の主人が現れたのが今考えると不思議。
その時の腕時計が写真のセイコー・ファイブ・アクタス。たしか、\11,500の値札が着いていた記憶がある。
翌日は、真新しい時計を腕にして意気揚々と受験会場の私立高校に向うが、試験中も左腕にはめた時計が気になり何度となく目が行き、いまいち試験問題に集中出来ず。
そのせいばかりでは無いと思うが、試験結果は見事に・・・・・。
そんな苦い思い出から付き合いが始まった時計だが、その後も10年ぐらいは腕で時を刻み続けてくれた。
その頃は頻繁に登山に出掛けていた為に、腕時計が山の岩で擦れたりして表面も本体も傷だらけになってしまったが、その傷が山行歴の記念にもなっている。
(時計の文字盤がボヤケて見えるのは、ピンボケのせいでは無く表面についた細かい傷の為)
今では引き出しの奥に眠っているが、手にした時のズッシリとした重量感は、40年間の時の流れが詰まった重さの様な気がする。
2010年02月21日
ボンネット型特急車両が消える
「鉄道マニア」ではないがボンネット型特急電車だけには思い入れがあり、このブログでも以前に2回記事にしているが今回で最後になる。
昭和30年代前半、東海道本線に「こだま号」として初登場したボンネット型特急車両、今では全国でその姿を見る事が出来るのは上野〜金沢間を走る深夜急行「能登」か、深夜迄のつかの間、「能登」がヘッドマークを取り替えて上野駅から宇都宮線(古河駅迄)と高崎線(鴻巣駅迄)を1往復する「ホームライナー」のみとの事。
その急行「能登」が3月のダイヤ改正で廃止になり、JR最後のボンネット型車両が姿を消す。それに合わせて、ホームライナーの車両も別の型式に変更される。


ボンネット型特急電車に思い入れがあると書いたのは、小学2年生の春休みに、父親・兄と一緒に東京に住む伯父の家へ行った時、帰りに乗車した東海道本線の「こだま号」が強烈な印象として残っている為。
確か東京駅7時発だった筈、早朝のホームまで見送りに来てくれた東京の叔父・叔母、目の前に停車しているクリーム色の車体が目に焼き付いている。
多分、東京の叔父が奮発して切符をプレゼントしてくれたのだと思うが、当時は田舎から東京へ出掛けて来るのは大変な事だった様だ。
東海道本線の車窓から初めて眺める富士山、生まれて初めてコーヒーを飲んだのも車内販売、座席にはイヤホン付きラジオ等々、名古屋駅までの4時間は田舎で育った小学生にとって別世界だった。
そんな思い出が残るボンネント型車両の走る姿を二度と見れなくなるのは、少し寂しい気がする。
また、レトロな話になってしまいました。
昭和30年代前半、東海道本線に「こだま号」として初登場したボンネット型特急車両、今では全国でその姿を見る事が出来るのは上野〜金沢間を走る深夜急行「能登」か、深夜迄のつかの間、「能登」がヘッドマークを取り替えて上野駅から宇都宮線(古河駅迄)と高崎線(鴻巣駅迄)を1往復する「ホームライナー」のみとの事。
その急行「能登」が3月のダイヤ改正で廃止になり、JR最後のボンネット型車両が姿を消す。それに合わせて、ホームライナーの車両も別の型式に変更される。
ボンネット型特急電車に思い入れがあると書いたのは、小学2年生の春休みに、父親・兄と一緒に東京に住む伯父の家へ行った時、帰りに乗車した東海道本線の「こだま号」が強烈な印象として残っている為。
確か東京駅7時発だった筈、早朝のホームまで見送りに来てくれた東京の叔父・叔母、目の前に停車しているクリーム色の車体が目に焼き付いている。
多分、東京の叔父が奮発して切符をプレゼントしてくれたのだと思うが、当時は田舎から東京へ出掛けて来るのは大変な事だった様だ。
東海道本線の車窓から初めて眺める富士山、生まれて初めてコーヒーを飲んだのも車内販売、座席にはイヤホン付きラジオ等々、名古屋駅までの4時間は田舎で育った小学生にとって別世界だった。
そんな思い出が残るボンネント型車両の走る姿を二度と見れなくなるのは、少し寂しい気がする。
また、レトロな話になってしまいました。
2009年12月23日
幻灯機
久々のブログ更新は、少しレトロな幻灯機の話。
最近は、環境問題への取り組みと経費削減を兼ねてペーパーレス化が推進され、職場の会議でも資料を配布せずにプロジェクタを利用する事が多くなった。
プロジェクタの元祖を辿っていくと、透明シートに文字や図を描きスクリーンに映しだすOHP(オーバヘッドプロジェクタ)、スライド映写機、更に遡り幻灯機と言ったところか。
子供の頃、月刊誌の付録についている紙製の幻灯機を組み立ててワクワクしながら部屋の壁に映すのだが、ピントの合わない小さな画面に期待が外れ、すぐに飽きてしまった記憶がある。
前月号の広告ページには、付録の幻灯機が部屋の壁に大きな画面を写している様子が描かれ、子供心に購買意欲をかき立てられたのだが。
左の写真は、30年程前名古屋に勤務していた頃に写真が趣味だった職場の上司から譲り受けたスライド映写機。
写真撮影にリバーサルフィルムを使用したりネガからスライドを作成した事が無いので、残念な事に譲り受けてからこの映写機を使用する機会は無かったが、映写用のランプも切れていないので機能的には未だ大丈夫な筈。
デジカメが普及し家庭用プロジェクタも買い易くなっているのでこの先も映写機を使用する機会は無いと思うが、思い出多き名古屋時代に繋がる品なので、いつまでも大切に手元に置いていたい。
最近は、環境問題への取り組みと経費削減を兼ねてペーパーレス化が推進され、職場の会議でも資料を配布せずにプロジェクタを利用する事が多くなった。
プロジェクタの元祖を辿っていくと、透明シートに文字や図を描きスクリーンに映しだすOHP(オーバヘッドプロジェクタ)、スライド映写機、更に遡り幻灯機と言ったところか。
子供の頃、月刊誌の付録についている紙製の幻灯機を組み立ててワクワクしながら部屋の壁に映すのだが、ピントの合わない小さな画面に期待が外れ、すぐに飽きてしまった記憶がある。
前月号の広告ページには、付録の幻灯機が部屋の壁に大きな画面を写している様子が描かれ、子供心に購買意欲をかき立てられたのだが。
写真撮影にリバーサルフィルムを使用したりネガからスライドを作成した事が無いので、残念な事に譲り受けてからこの映写機を使用する機会は無かったが、映写用のランプも切れていないので機能的には未だ大丈夫な筈。
デジカメが普及し家庭用プロジェクタも買い易くなっているのでこの先も映写機を使用する機会は無いと思うが、思い出多き名古屋時代に繋がる品なので、いつまでも大切に手元に置いていたい。
2008年12月23日
またもや、レトロな話です。
隣のY町に昭和レトロな屋台村がオープンし、左の写真はそのシンボルとも言うべきオート三輪トラック。
小学生の頃、舗装されていないデコボコ道を土ほこりをたてながら走るオート三輪トラックをよく見かけた。
村の道を走っているオート三輪トラックは、ボディーが紺色のマツダ車か薄緑色ダイハツ車かのどちらかだったと記憶している。
写真のオート三輪トラックは見覚えのあるダイハツ製。確かフロント部分に城が描かれたエンブレムが付いていた筈だが遠目には確認出来なかった。
下の写真は言うまでもなく、「All ways三丁目の夕日」では鈴木オートの社長も愛用していたダイハツミゼット。
当時のテレビコマーシャルで、大村昆さんと佐々十郎さんがミゼットの前に立ち、「ダイハツのミゼット」を連呼していたので今でも耳に残っている。
運転席を覘いてみると、内装はいたってシンプル。必要最低限のハンドル、スピードメータ、チョークレバー以外の備品は一切付いていない。
風通しがいい三角窓も、今では見られない工夫。
懐かしいオート三輪とミゼットを堪能して自分の車に戻り運転席に座ると、走行歴21年のタウンエースのインパネが一瞬だがすごく豪華に見えた。
2008年09月15日
愛機
8月の夏合宿の時にデジカメを少し濡らしてしまい電源が入らなくなる。調べてみるがバッテリーの問題では無い様なので、カメラ店へ持ち込み修理見積りを依頼。
この間は娘のデジカメを借りて写真を撮っていたが、先日カメラ店から連絡が有り修理見積は17,824円と予想外に高い。
修理するかどうか迷ったが、結局新たな機種を購入する。
ランニングをしながら写真を撮る機会が多いので、普通の使い方に比べてカメラに与えるインパクが大きい様で、ブログを初めて2年余で3台目のデジカメ。
そんな訳で、今度のカメラも1〜2年の寿命になるかも知れない為にリーゾナブル価格(値引きと旧カメラ引取り割引で17,500円)の機種を購入。
修理費より少し安い価格ながらも、機能は前の機種より多彩と言った矛盾に戸惑ってしまう。
今でこそ1〜2年の周期でカメラを買い換えているが、最初に購入したカメラは10数年使い続けて一度も故障した事が無く、その後は押入れの隅に眠っているものの未だ現役で使える筈。
34年前の1974年に買ったオリンパスOM-1(写真)がそれで、久々に押入れから登場して貰い、34年前の愛機を新しく買ったデジカメで最初の撮影。
カメラの知識は無かったが、OM-1のコンパクトに引き締まったボディーが気に入り購入。
当時はよく山へ出掛けていたので山行の時はいつもOM-1と一緒、自然条件の悪い中でも故障する事なく景色を残し、今有る山の写真は全てOM-1で撮ったもの。
それだけに愛着心もひとしおだった。
当時の様にカメラを大切に使う気持ちが薄れてしまったのがデジカメの頻繁な購入になってしまったのかも知れず、反省。
この間は娘のデジカメを借りて写真を撮っていたが、先日カメラ店から連絡が有り修理見積は17,824円と予想外に高い。
修理するかどうか迷ったが、結局新たな機種を購入する。
ランニングをしながら写真を撮る機会が多いので、普通の使い方に比べてカメラに与えるインパクが大きい様で、ブログを初めて2年余で3台目のデジカメ。
そんな訳で、今度のカメラも1〜2年の寿命になるかも知れない為にリーゾナブル価格(値引きと旧カメラ引取り割引で17,500円)の機種を購入。
修理費より少し安い価格ながらも、機能は前の機種より多彩と言った矛盾に戸惑ってしまう。
34年前の1974年に買ったオリンパスOM-1(写真)がそれで、久々に押入れから登場して貰い、34年前の愛機を新しく買ったデジカメで最初の撮影。
カメラの知識は無かったが、OM-1のコンパクトに引き締まったボディーが気に入り購入。
当時はよく山へ出掛けていたので山行の時はいつもOM-1と一緒、自然条件の悪い中でも故障する事なく景色を残し、今有る山の写真は全てOM-1で撮ったもの。
それだけに愛着心もひとしおだった。
当時の様にカメラを大切に使う気持ちが薄れてしまったのがデジカメの頻繁な購入になってしまったのかも知れず、反省。
2008年04月23日
上野駅にて
2008年04月20日
レストラン聚楽台の閉店
昨日の朝日新聞夕刊に、JR上野駅前の「レストラン聚楽台」の閉店が写真入りで報じられていた。
「聚楽台」が入居している西郷会館の立替に伴って、50年の歴史に一旦幕を下ろし2年半後には新たにオープンする予定との事。
御徒町駅方面から来る山手線が上野駅のホームに滑り込む辺りで上野公園方面に目を向けると、真正面にオレンジ色の外装を施したレトロな雰囲気の「レストラン聚楽台」が見える。
「レストラン聚楽台」には思い出が有り、閉店を伝える新聞記事を懐かしさと寂しさが織り交じった思いで読んだ。
「聚楽台」のオープンが昭和34年だから、開店間もない頃の思い出になる。
46年前の昭和37年、小学2年生の時に父親に連れられて、三重から東京に住む伯父を訪ね初めて上京し滞在した時、伯父に上野動物園へ連れて言って貰い昼食を食べたのがこの「聚楽台」だった。
広い店内の中央に、斜めのガラス面を水が流れる大きな滝が有り、その滝がガラスの裏面から青い光で照らされ、子供心になんとも豪華に見えた。
その光景が田舎育ちの自分とってよほど印象的だったのか、未だに記憶に残っている。
東京で勤務する様になり、山手線の窓から「聚楽台」を見るたびに当時の事を思い出し、立寄ろうかと何度も思った事があるが、30〜40年もたてば店の内装もスッカリ変わってしまっているだろうと思い、一度も店に入る事はなかった。
しかし、昨日の新聞に掲載されたレストラン内の写真を見ると、その時の「青い滝」が写っていて、店内の内装は開業当時も今も変わらないと紹介されている。
食事に連れて行ってくれた伯父も一緒に食事をした父親も既に他界し、子供の頃の淡い思い出として残るだけになってしまった。
閉店は明日、昔の装いのままだったのならば一度くらい食事に行き、ビールグラスを傾けながら伯父と親父を偲べば良かったかなと少し悔やまれる。
「聚楽台」が入居している西郷会館の立替に伴って、50年の歴史に一旦幕を下ろし2年半後には新たにオープンする予定との事。
御徒町駅方面から来る山手線が上野駅のホームに滑り込む辺りで上野公園方面に目を向けると、真正面にオレンジ色の外装を施したレトロな雰囲気の「レストラン聚楽台」が見える。
「レストラン聚楽台」には思い出が有り、閉店を伝える新聞記事を懐かしさと寂しさが織り交じった思いで読んだ。
「聚楽台」のオープンが昭和34年だから、開店間もない頃の思い出になる。
46年前の昭和37年、小学2年生の時に父親に連れられて、三重から東京に住む伯父を訪ね初めて上京し滞在した時、伯父に上野動物園へ連れて言って貰い昼食を食べたのがこの「聚楽台」だった。
広い店内の中央に、斜めのガラス面を水が流れる大きな滝が有り、その滝がガラスの裏面から青い光で照らされ、子供心になんとも豪華に見えた。
その光景が田舎育ちの自分とってよほど印象的だったのか、未だに記憶に残っている。
東京で勤務する様になり、山手線の窓から「聚楽台」を見るたびに当時の事を思い出し、立寄ろうかと何度も思った事があるが、30〜40年もたてば店の内装もスッカリ変わってしまっているだろうと思い、一度も店に入る事はなかった。
しかし、昨日の新聞に掲載されたレストラン内の写真を見ると、その時の「青い滝」が写っていて、店内の内装は開業当時も今も変わらないと紹介されている。
食事に連れて行ってくれた伯父も一緒に食事をした父親も既に他界し、子供の頃の淡い思い出として残るだけになってしまった。
閉店は明日、昔の装いのままだったのならば一度くらい食事に行き、ビールグラスを傾けながら伯父と親父を偲べば良かったかなと少し悔やまれる。
2007年02月12日
元祖パソコン
購入したのは約30年前の1979年。
それ以前はパソコンと言った呼び方はまだ無く、個人向けにはマイコンと呼ばれるワンボード型(基板の上に16進コードのキーとLEDを搭載)のコンピュータが普及しており、マシン語を使ったプログラミングを覚えるのに苦労した思い出がある。
写真を見ると判る様に、PC−8001はCPUが組み込まれたキーボードがパソコン本体になっている。電源を入れるとN−BASICと呼ばれる環境が起動し、BASIC言語によるプログラム作成が可能になる。
外部記憶媒体はカセットテープを利用していた為、ソフトをインストールする時にはカセットテープレコーダを接続するのだが、ローディングには数分を要した。ゲームは「ブロックくずし」「テニスゲーム」と言った、今では懐かしいものが楽しめた。
購入当時は物珍しさも手伝って簡単なプログラムを組んだりして利用していたが、いつの間にか押入れに片付けられてしまっていた。
その後、PC88、PC98シリーズやMacと言ったパソコンが発売されると、それに伴いゲーム、ワープロ、事務用のソフトも充実し、更にパソコン通信やインターネットの登場でパソコンが家庭まで一気に広がったのはご存知の通り。
久々に30年前のパソコンに思いを馳せ、今の時代のWindows と言ったOSへの進化も、その時代の技術力が礎となっている事をあらためて認識した。
故きをたずねて新しきを知る、パソコン温故知新と言ったところか。


