2011年02月14日
「辺野古しか残らなかった時に理由付けしなければならず、『抑止力』という言葉を使った。方便といわれれば方便だった」
昨日の琉球新報の記事「『抑止力は方便』断念理由後付け 鳩山前首相、普天間で証言」によって、鳩山前首相の「軽さ」がまた致命的な形で明らかになってしまった。個人的に在沖アメリカ海兵隊が「抑止力」になってはいないという考え方には同意するが、ならばなぜそれを堂々と主張しないのか。指導者としての資質が全くない。管首相も前原外務大臣もその発言にほとんど信頼性がないけれども、民主党にはもう、責任ある発言を期待することができる政治家は残されていないということか。
この記事へのトラックバックURL
http://blogs.dion.ne.jp/hikakun18/tb.cgi/9988449
※半角英数字のみのトラックバックは受信されません。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
抑止力は方便とは・・・
関連し、沖縄タイムスに13日付けに、鳩山氏がインタビューで「『抑止力』は方便だった、と説明した」とする記事を掲載。鳩山氏は14日、東京都内で記者団に「(自ら)『方便だ』と言っ..
仏の嘘は方便【アスヨミ!ニュースダイジェスト】 at 2011年02月17日 09:39
この記事へのコメント
日本の政治指導者は、民衆の感情をたきつけて自己の勢力を得ようとする。
民衆の感情が自己の力である。民衆が理性を取り戻すことを呼びかける者ではない。
感性あって、理性なし。指導者は、ブレーキの効かない機関車の役割を果たしている。
「理解」という日本語は、首を縦にふることであって、話の筋を把握することではない。
だから、理解しているにも拘わらず反対であるというと意味がわからなくなる。
国民の理解を求めるとは、あくまでも肯定せよということである。
一種の「長いものには、巻かれろ」という指導者の要求でもある。
決して民衆の理性に訴えるものではない。
理性のない民が問題である。国を危険にさらすのである。このことは、今も昔も変わらない。
リーズン (理性・理由・適当) の理解は、日本人にとって難しい。
それは、日本人が世界観を持たないことに関係がある。
世界観とは、自分がどのような世界に住みたいかという、非現実的な内容である。
自分が見たくもなく、聞きたくもなく、話したくもない内容の存在しない世界は、一体どのようなものであるかということである。
このような内容を持ち合わせていないならば、憲法を含む基本法の改正など思いもよらない。
日本語には時制がない。だから、日本語脳は、現実とは違った別世界の内容を考察するのには都合良くできていない。
日本人は、考えの上であっても現実の世界を脱出できない。
世界観の代わりに「世の中は、、、、」の内容を考えている。
「人をなぜ殺していいけないのか」の問いには、「それは、自分が殺されたくないからだ」と答えることになっている。
もしも、自分が殺されないのであれば、その時の基準はどうなるのであろうか。
恣意の世界の自由主義 (自由の履き違え) になるのであろうか。
現実の内容と非現実の内容を区別することなく語れば、それは空理空論となる。
これは、日本流高等教育の行き着く先でもある。卒業生は曲学阿世の人になる。
現実を離れた問答ができなければ、人間は、子供かアニマルのようになる。
これは、昔マッカーサが観察した姿の日本人と同じである。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
民衆の感情が自己の力である。民衆が理性を取り戻すことを呼びかける者ではない。
感性あって、理性なし。指導者は、ブレーキの効かない機関車の役割を果たしている。
「理解」という日本語は、首を縦にふることであって、話の筋を把握することではない。
だから、理解しているにも拘わらず反対であるというと意味がわからなくなる。
国民の理解を求めるとは、あくまでも肯定せよということである。
一種の「長いものには、巻かれろ」という指導者の要求でもある。
決して民衆の理性に訴えるものではない。
理性のない民が問題である。国を危険にさらすのである。このことは、今も昔も変わらない。
リーズン (理性・理由・適当) の理解は、日本人にとって難しい。
それは、日本人が世界観を持たないことに関係がある。
世界観とは、自分がどのような世界に住みたいかという、非現実的な内容である。
自分が見たくもなく、聞きたくもなく、話したくもない内容の存在しない世界は、一体どのようなものであるかということである。
このような内容を持ち合わせていないならば、憲法を含む基本法の改正など思いもよらない。
日本語には時制がない。だから、日本語脳は、現実とは違った別世界の内容を考察するのには都合良くできていない。
日本人は、考えの上であっても現実の世界を脱出できない。
世界観の代わりに「世の中は、、、、」の内容を考えている。
「人をなぜ殺していいけないのか」の問いには、「それは、自分が殺されたくないからだ」と答えることになっている。
もしも、自分が殺されないのであれば、その時の基準はどうなるのであろうか。
恣意の世界の自由主義 (自由の履き違え) になるのであろうか。
現実の内容と非現実の内容を区別することなく語れば、それは空理空論となる。
これは、日本流高等教育の行き着く先でもある。卒業生は曲学阿世の人になる。
現実を離れた問答ができなければ、人間は、子供かアニマルのようになる。
これは、昔マッカーサが観察した姿の日本人と同じである。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
Posted by noga at 2011年02月15日 00:26
>nogaさん
非常に興味深いコメントをありがとうございます。
日本人が世界観を持たないというのは、
日本人が戦略を持たないというのと同義ですよね。
アメリカがかつて旧ソ連の原潜をオホーツク海に封じ込めようとした時、
日本に対してその「戦略」を説明しても同意を得られないだろうから、
「シーレーン」を守るのだという現実的利益を前面に押し出して説明したとか。
また、日本語における時制の考え方から世界観の欠落を論じるというのは、
外国語大学に所属している僕にとって、非常に刺激的に思います。
英語における仮定法を理解できない受験生や学生が多いのは、
「考えの上であっても現実の世界を脱出できない」日本人であるが故なのでしょうか。
完了時制や仮定形が存在したかつての日本語の言語空間であれば、
現在とは違った思考パターンを有していたのかもしれませんよね。
いや、本当に興味深い視点です。勉強になりました。
非常に興味深いコメントをありがとうございます。
日本人が世界観を持たないというのは、
日本人が戦略を持たないというのと同義ですよね。
アメリカがかつて旧ソ連の原潜をオホーツク海に封じ込めようとした時、
日本に対してその「戦略」を説明しても同意を得られないだろうから、
「シーレーン」を守るのだという現実的利益を前面に押し出して説明したとか。
また、日本語における時制の考え方から世界観の欠落を論じるというのは、
外国語大学に所属している僕にとって、非常に刺激的に思います。
英語における仮定法を理解できない受験生や学生が多いのは、
「考えの上であっても現実の世界を脱出できない」日本人であるが故なのでしょうか。
完了時制や仮定形が存在したかつての日本語の言語空間であれば、
現在とは違った思考パターンを有していたのかもしれませんよね。
いや、本当に興味深い視点です。勉強になりました。
Posted by たちばな at 2011年02月15日 23:30

