2010年10月01日

夜啼貝〜補遺2

9/25記事のつづき)

東海道の北側、江戸から相模国を貫き箱根足柄峠を抜けて遠州沼津あたりまでを結ぶ矢倉沢往還は、東海道の脇街道として、そして何より大山への参詣道として、江戸時代にもずいぶん往来は盛んだったようです。

現在の国道246号は、そのかつての矢倉沢往還をなぞるように続いていますが、東京―沼津間のほぼ真ん中あたり、伊勢原中心街の西端から北へ逸れると大山の登山口、阿夫利神社へと続くだらだらの登り坂。
二十分ほど汗して自転車を漕ぐと、道沿いにある子易明神比々多神社の鳥居が見えて来ます。

こぢんまりとした佇まいですが、社殿はなかなか立派な造りで、社殿横の広場には遊具がいくつか据えられています。

koyasu_2_1.jpg

子宝・安産祈願のために削り取られたという左右の向拝柱は、中ほどまで赤い鉄枠で囲われています。右が男子、左が女子だそうです。


『新編相模国風土記稿』に二本あると書かれていた御神木は、宮司さんによるといずれもけやきで、一本は関東大震災の折に、崩れた地盤とともに倒れたそうです。

koyasu_2_2.jpg
震災を免れた方のけやきは幹の内側が大きな洞になっていて、宮司さんが子どものころ(昭和のはじめ)には、貝(キセルガイ)がまだ居たそうです。子どもたち七-八人が手をつないで囲むほどの、幹周りのりっぱな老樹でしたが、昭和四十年代の道路拡張に際して樹身の半分が削られて、いまでは貝の姿も見えなくなったとのことでした。


koyasu_2_3.jpg
道路側に廻り込んでみると、半身になった洞には小さな祠が納まり、幹の裂け目からはとかげが顔をのぞかせて、淡く揺れる木漏れ陽のなかで鈍く光っていました。


御神木の下でいろいろお話を伺っていると、ハーフパンツ姿の宮司さんの膝小僧に、蝉がちょこんと止まりました。
「ご神木と間違えて、止まったんですね」などと笑い合っている間に、宮司さんが蝉をそっと掌に収めて、指で羽根を伸ばすように撫でてから、かるく抛り上げると、蝉はまっすぐけやきの枝へと飛んで行きました。

傍らを、ちいさな鈴の音をさせながら小学生が通り過ぎます。道からいったんはずれて、わざわざ神社の境内を抜けて、またもとの道に戻って行くふたりです。

けやきについた貝を持ち帰る習俗についてお尋ねしましたが、そのような風習をしていた記憶は無いとのことでした。
現在は境内に自生している梛(なぎ)の木の葉を、肌守りに入れて配られているそうです。

子易明神の祭神木花咲耶姫は大山が祀る大山祇命の娘。大山参りに際しては子易明神にも参詣するのが習わしで、かつて門前には何件も宿屋が並び、関東一円からの信仰も篤く、本殿裏手には常陸国と刻まれた灯籠なども残されていて、拝殿の軒下に並ぶ奉納札には江戸の町名が目立ちます。

この辺りはまた、東大寺開山、良弁上人生誕の地ともいわれる土地で、上人は子易明神を勧進した染屋太郎時忠夫妻の子とも言われているそうです。

宮司さんは、たいへん詳しくお話をしてくださり、今回の記事はそのお話を元に起こしました。

子易明神のあたりは以前の住所を上糟屋郡字子易といったようで、余談ですが、こちらの記事にある福岡の宇美八幡の住所も偶然“糟屋郡”でした。

大山参りについてはこちら↓
http://kkubota.cool.ne.jp/ooyamamairi.html

浮世絵などからも当時の賑わいが偲ばれます。

この記事へのトラックバックURL

http://blogs.dion.ne.jp/hinboh/tb.cgi/9697065
※半角英数字のみのトラックバックは受信されません。
 
※半角英数字のみのコメントは投稿できません。