2010年10月01日
夜啼貝〜補遺2
(9/25記事のつづき)
東海道の北側、江戸から相模国を貫き箱根足柄峠を抜けて遠州沼津あたりまでを結ぶ矢倉沢往還は、東海道の脇街道として、そして何より大山への参詣道として、江戸時代にもずいぶん往来は盛んだったようです。
現在の国道246号は、そのかつての矢倉沢往還をなぞるように続いていますが、東京―沼津間のほぼ真ん中あたり、伊勢原中心街の西端から北へ逸れると大山の登山口、阿夫利神社へと続くだらだらの登り坂。
二十分ほど汗して自転車を漕ぐと、道沿いにある子易明神比々多神社の鳥居が見えて来ます。
こぢんまりとした佇まいですが、社殿はなかなか立派な造りで、社殿横の広場には遊具がいくつか据えられています。

子宝・安産祈願のために削り取られたという左右の向拝柱は、中ほどまで赤い鉄枠で囲われています。右が男子、左が女子だそうです。
『新編相模国風土記稿』に二本あると書かれていた御神木は、宮司さんによるといずれもけやきで、一本は関東大震災の折に、崩れた地盤とともに倒れたそうです。

震災を免れた方のけやきは幹の内側が大きな洞になっていて、宮司さんが子どものころ(昭和のはじめ)には、貝(キセルガイ)がまだ居たそうです。子どもたち七-八人が手をつないで囲むほどの、幹周りのりっぱな老樹でしたが、昭和四十年代の道路拡張に際して樹身の半分が削られて、いまでは貝の姿も見えなくなったとのことでした。

道路側に廻り込んでみると、半身になった洞には小さな祠が納まり、幹の裂け目からはとかげが顔をのぞかせて、淡く揺れる木漏れ陽のなかで鈍く光っていました。
御神木の下でいろいろお話を伺っていると、ハーフパンツ姿の宮司さんの膝小僧に、蝉がちょこんと止まりました。
「ご神木と間違えて、止まったんですね」などと笑い合っている間に、宮司さんが蝉をそっと掌に収めて、指で羽根を伸ばすように撫でてから、かるく抛り上げると、蝉はまっすぐけやきの枝へと飛んで行きました。
傍らを、ちいさな鈴の音をさせながら小学生が通り過ぎます。道からいったんはずれて、わざわざ神社の境内を抜けて、またもとの道に戻って行くふたりです。
けやきについた貝を持ち帰る習俗についてお尋ねしましたが、そのような風習をしていた記憶は無いとのことでした。
現在は境内に自生している梛(なぎ)の木の葉を、肌守りに入れて配られているそうです。
子易明神の祭神木花咲耶姫は大山が祀る大山祇命の娘。大山参りに際しては子易明神にも参詣するのが習わしで、かつて門前には何件も宿屋が並び、関東一円からの信仰も篤く、本殿裏手には常陸国と刻まれた灯籠なども残されていて、拝殿の軒下に並ぶ奉納札には江戸の町名が目立ちます。
この辺りはまた、東大寺開山、良弁上人生誕の地ともいわれる土地で、上人は子易明神を勧進した染屋太郎時忠夫妻の子とも言われているそうです。
宮司さんは、たいへん詳しくお話をしてくださり、今回の記事はそのお話を元に起こしました。
子易明神のあたりは以前の住所を上糟屋郡字子易といったようで、余談ですが、こちらの記事にある福岡の宇美八幡の住所も偶然“糟屋郡”でした。
大山参りについてはこちら↓
http://kkubota.cool.ne.jp/ooyamamairi.html
浮世絵などからも当時の賑わいが偲ばれます。
東海道の北側、江戸から相模国を貫き箱根足柄峠を抜けて遠州沼津あたりまでを結ぶ矢倉沢往還は、東海道の脇街道として、そして何より大山への参詣道として、江戸時代にもずいぶん往来は盛んだったようです。
現在の国道246号は、そのかつての矢倉沢往還をなぞるように続いていますが、東京―沼津間のほぼ真ん中あたり、伊勢原中心街の西端から北へ逸れると大山の登山口、阿夫利神社へと続くだらだらの登り坂。
二十分ほど汗して自転車を漕ぐと、道沿いにある子易明神比々多神社の鳥居が見えて来ます。
こぢんまりとした佇まいですが、社殿はなかなか立派な造りで、社殿横の広場には遊具がいくつか据えられています。

子宝・安産祈願のために削り取られたという左右の向拝柱は、中ほどまで赤い鉄枠で囲われています。右が男子、左が女子だそうです。
『新編相模国風土記稿』に二本あると書かれていた御神木は、宮司さんによるといずれもけやきで、一本は関東大震災の折に、崩れた地盤とともに倒れたそうです。

震災を免れた方のけやきは幹の内側が大きな洞になっていて、宮司さんが子どものころ(昭和のはじめ)には、貝(キセルガイ)がまだ居たそうです。子どもたち七-八人が手をつないで囲むほどの、幹周りのりっぱな老樹でしたが、昭和四十年代の道路拡張に際して樹身の半分が削られて、いまでは貝の姿も見えなくなったとのことでした。

道路側に廻り込んでみると、半身になった洞には小さな祠が納まり、幹の裂け目からはとかげが顔をのぞかせて、淡く揺れる木漏れ陽のなかで鈍く光っていました。
御神木の下でいろいろお話を伺っていると、ハーフパンツ姿の宮司さんの膝小僧に、蝉がちょこんと止まりました。
「ご神木と間違えて、止まったんですね」などと笑い合っている間に、宮司さんが蝉をそっと掌に収めて、指で羽根を伸ばすように撫でてから、かるく抛り上げると、蝉はまっすぐけやきの枝へと飛んで行きました。
傍らを、ちいさな鈴の音をさせながら小学生が通り過ぎます。道からいったんはずれて、わざわざ神社の境内を抜けて、またもとの道に戻って行くふたりです。
けやきについた貝を持ち帰る習俗についてお尋ねしましたが、そのような風習をしていた記憶は無いとのことでした。
現在は境内に自生している梛(なぎ)の木の葉を、肌守りに入れて配られているそうです。
子易明神の祭神木花咲耶姫は大山が祀る大山祇命の娘。大山参りに際しては子易明神にも参詣するのが習わしで、かつて門前には何件も宿屋が並び、関東一円からの信仰も篤く、本殿裏手には常陸国と刻まれた灯籠なども残されていて、拝殿の軒下に並ぶ奉納札には江戸の町名が目立ちます。
この辺りはまた、東大寺開山、良弁上人生誕の地ともいわれる土地で、上人は子易明神を勧進した染屋太郎時忠夫妻の子とも言われているそうです。
宮司さんは、たいへん詳しくお話をしてくださり、今回の記事はそのお話を元に起こしました。
子易明神のあたりは以前の住所を上糟屋郡字子易といったようで、余談ですが、こちらの記事にある福岡の宇美八幡の住所も偶然“糟屋郡”でした。
大山参りについてはこちら↓
http://kkubota.cool.ne.jp/ooyamamairi.html
浮世絵などからも当時の賑わいが偲ばれます。
2010年09月25日
夜啼貝〜補遺-1
夜啼貝(よなきがい)について、以前いくつか記事を書きましたが、その中に、子どもの夜泣き封じのために、神社の境内の木に棲息しているキセルガイを持ち帰る、という習俗がありました。
このあいだ、江戸時代末に編纂された『新編相模国風土記稿』の索引をたまたま眺めていて、“子安貝”という文字があったので該当箇所を見てみると、
大住郡 巻之三に
○子易明神社
とあって、天平年間に、国主 染屋太郎時忠の妻が夫の遺志を継いで社頭を造営した、と経緯を述べた少しあとに、
“神木二株(以下小字で)一株は囲一丈六尺余、一株は殊に老樹、囲一丈三尺にして、幹より小貝を出す、子安貝と称し、安産の符として望む者に与ふ”
とあります。
幹周りが一丈三尺(約4.85m)のご神木に貝が棲みついていて、安産のお守りとして配っていたということのようです。

(『新編相模国風土記稿』第二巻 雄山閣)
クリックで拡大(画像サイズが少々大きいです)
大住郡は、かつて神奈川県中部の西寄りにあった郡部で、子易明神の場所は現在の伊勢原市にあたるようです。
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/kn1khh1.htm
自転車で二-三時間という場所なので、先日行ってみました。
(つづく)
このあいだ、江戸時代末に編纂された『新編相模国風土記稿』の索引をたまたま眺めていて、“子安貝”という文字があったので該当箇所を見てみると、
大住郡 巻之三に
○子易明神社
とあって、天平年間に、国主 染屋太郎時忠の妻が夫の遺志を継いで社頭を造営した、と経緯を述べた少しあとに、
“神木二株(以下小字で)一株は囲一丈六尺余、一株は殊に老樹、囲一丈三尺にして、幹より小貝を出す、子安貝と称し、安産の符として望む者に与ふ”
とあります。
幹周りが一丈三尺(約4.85m)のご神木に貝が棲みついていて、安産のお守りとして配っていたということのようです。

(『新編相模国風土記稿』第二巻 雄山閣)
クリックで拡大(画像サイズが少々大きいです)
大住郡は、かつて神奈川県中部の西寄りにあった郡部で、子易明神の場所は現在の伊勢原市にあたるようです。
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/kn1khh1.htm
自転車で二-三時間という場所なので、先日行ってみました。
(つづく)
2009年10月02日
ついでの夜泣き
え〜、オカシラサンというのがあるので、夜泣きの最後にこれだけ。
オカシラサンは絶滅したニホンオオカミの頭骨です。
(以下実名はイニシャルで)
(1)IN氏所蔵の頭骨は(中略)父親M氏の祖父N兵衛氏が170年ほど前に戸川三屋で捕獲したものという。(中略)この頭骨は今では桐の箱に納めてあるが、先代のM氏の代まではよく産育習俗などに使われたという。とくに子供の夜泣きのときには枕元にこの頭骨を置くと、不思議に子供が泣きやんだということで、近隣にも貸し出したことがあるという。
(2)KY氏所蔵の頭骨は現当主の父親KK氏が知人のSR氏とともに、明治二十六年(1893)八月水無川吹上付近で、暴風雨の増水に押し流され岸にはい上がって来たものを、農作業に出ていたときなので、鍬や鎌で撲殺したおおかみの頭骨であるといわれる。
捕獲したときはKK氏、SR氏ともにかなりおおかみとやりあい、けがもしたという。(中略)捕獲にかかわったSR氏は、この頭骨と同一個体の足骨を、たばこ入れの根付けとして永年使用されていたという(中略)
当家の頭骨は近隣でもよく知られており、子供の夜泣きやキツネツキのときには貸し出しをしたという。とくにキツネツキのときに貸し出されたときは、歯などが数本消失して戻って来たという。
現に四、五本の歯が消失しており、これは借りに来た人が、抜歯した歯をせんじて飲んだためという。
キツネツキによる貸し出しは昭和四十二、三年ごろまであり、最後に借りに来た人は隣村の大工で、十日間ほどオカシラサンを貸してくれと家人が頼みに来たという。
(2)にあるKY氏所蔵の頭骨を『秦野の文化財』(秦野市)よりトレースしました。(1)(2)の頭骨ともにニホンオオカミとしては、小型の部類とのこと。

(クリックで拡大)
ニホンオオカミの最後の捕獲例は、明治三十八年(1905)奈良県吉野郡でM.P.アンダーソンが入手した一頭の雄とのことで、この個体の剥製は現在大英博物館の所蔵。
(2)の例はそれより十二年ほど前になりますが、(1)(2)ともに捕獲された場所は山の中というわけではなく、市街地にかなり近い場所だったようです。
神奈川県秦野市は北側と西側を丹沢山地の麓に、南と東を台地に囲まれた浅い盆地で、オオカミが流されて来たという水無川は盆地の真ん中、市の中心部を東西に流れています。
オオカミの謂われは大神とも大咬(大きく口を広げて咬む)とも考えられるそうですが、山の神の眷属としての大神(大口真神おおくちのまかみ)は修験道でとくに信仰が篤く、また、狐、鹿、猪、など田畑を荒らす動物を捕食するので害獣除けとして、火難・盗難などの厄災除けとして、修験・山岳信仰と関わりの深い神社などではオオカミの描かれたお札が配られ、これを門口や田畑に掲げる習俗が、昔は盛んに行われたようです。
とはいえ、江戸時代の多くの博物書ではオオカミは珍獣という扱いになっていて、また、捕獲された個体が見世物になったり、この頃すでに希少種に近い扱いであったとも言えそうです。
明治になると畜産の盛んになった地方では、家畜を襲う害獣として積極的に駆除の対象にもなったとのことですが、ニホンオオカミ絶滅の原因については、犬の伝染病、乱獲など諸説あるようです。
上のオカシラサンが捕らえられたころは、ちょうど棲息数が急速に減り始めた時期に当たるでしょうか。
夜泣きや厄災をもたらす魔—キツネ—の天敵であるオオカミなので、狐憑きや夜泣きに効験がある、というような一面もあるかもしれません、でも、たぶんそれほど単純な図式ではないような気もします。
山梨県立博物館 シンボル展『オオカミがいた山』
ニホンオオカミ(Wikipedia)
オカシラサンは絶滅したニホンオオカミの頭骨です。
(以下実名はイニシャルで)
(1)IN氏所蔵の頭骨は(中略)父親M氏の祖父N兵衛氏が170年ほど前に戸川三屋で捕獲したものという。(中略)この頭骨は今では桐の箱に納めてあるが、先代のM氏の代まではよく産育習俗などに使われたという。とくに子供の夜泣きのときには枕元にこの頭骨を置くと、不思議に子供が泣きやんだということで、近隣にも貸し出したことがあるという。
(2)KY氏所蔵の頭骨は現当主の父親KK氏が知人のSR氏とともに、明治二十六年(1893)八月水無川吹上付近で、暴風雨の増水に押し流され岸にはい上がって来たものを、農作業に出ていたときなので、鍬や鎌で撲殺したおおかみの頭骨であるといわれる。
捕獲したときはKK氏、SR氏ともにかなりおおかみとやりあい、けがもしたという。(中略)捕獲にかかわったSR氏は、この頭骨と同一個体の足骨を、たばこ入れの根付けとして永年使用されていたという(中略)
当家の頭骨は近隣でもよく知られており、子供の夜泣きやキツネツキのときには貸し出しをしたという。とくにキツネツキのときに貸し出されたときは、歯などが数本消失して戻って来たという。
現に四、五本の歯が消失しており、これは借りに来た人が、抜歯した歯をせんじて飲んだためという。
キツネツキによる貸し出しは昭和四十二、三年ごろまであり、最後に借りに来た人は隣村の大工で、十日間ほどオカシラサンを貸してくれと家人が頼みに来たという。
(『秦野市史』別巻民俗編)
(2)にあるKY氏所蔵の頭骨を『秦野の文化財』(秦野市)よりトレースしました。(1)(2)の頭骨ともにニホンオオカミとしては、小型の部類とのこと。

(クリックで拡大)
ニホンオオカミの最後の捕獲例は、明治三十八年(1905)奈良県吉野郡でM.P.アンダーソンが入手した一頭の雄とのことで、この個体の剥製は現在大英博物館の所蔵。
(2)の例はそれより十二年ほど前になりますが、(1)(2)ともに捕獲された場所は山の中というわけではなく、市街地にかなり近い場所だったようです。
神奈川県秦野市は北側と西側を丹沢山地の麓に、南と東を台地に囲まれた浅い盆地で、オオカミが流されて来たという水無川は盆地の真ん中、市の中心部を東西に流れています。
オオカミの謂われは大神とも大咬(大きく口を広げて咬む)とも考えられるそうですが、山の神の眷属としての大神(大口真神おおくちのまかみ)は修験道でとくに信仰が篤く、また、狐、鹿、猪、など田畑を荒らす動物を捕食するので害獣除けとして、火難・盗難などの厄災除けとして、修験・山岳信仰と関わりの深い神社などではオオカミの描かれたお札が配られ、これを門口や田畑に掲げる習俗が、昔は盛んに行われたようです。
とはいえ、江戸時代の多くの博物書ではオオカミは珍獣という扱いになっていて、また、捕獲された個体が見世物になったり、この頃すでに希少種に近い扱いであったとも言えそうです。
明治になると畜産の盛んになった地方では、家畜を襲う害獣として積極的に駆除の対象にもなったとのことですが、ニホンオオカミ絶滅の原因については、犬の伝染病、乱獲など諸説あるようです。
上のオカシラサンが捕らえられたころは、ちょうど棲息数が急速に減り始めた時期に当たるでしょうか。
夜泣きや厄災をもたらす魔—キツネ—の天敵であるオオカミなので、狐憑きや夜泣きに効験がある、というような一面もあるかもしれません、でも、たぶんそれほど単純な図式ではないような気もします。
山梨県立博物館 シンボル展『オオカミがいた山』
ニホンオオカミ(Wikipedia)
2009年09月29日
まだ夜泣きが続くのかい?
ちょっと、まだ続きます。m(. .)m
前記事のオシャモジサマ引用部分で少し気になったのが、
(石造物について)“崩れてしまったところがあり、目や鼻はセメントで作り直している。”
という箇所。
ネットをみても、また同じ市域の他のオシャモジサマも、いずれも木や石の祠で、なかには鳥居が伴わないこともありますが神社の体裁です。祠の中にお札としゃもじを納めてあったりもしますが、神像が伴っているいるものは見た限りありません。
ことによると、お地蔵さんか石仏か何かをを転用したのではないか、と思って調べてみますと、『さがみはら石仏夜話』(つちのえ会編)という本に、件のオシャモジサマの由来として、
(江戸時代、明和の頃、風邪をこじらせ医者に見せても一向によくならない子供があり)“子供の病気を治してくれるお地蔵様があると聞きつけ、早速願をかけたところ子どもの病気はうす皮をはぐが如く良くなり、まもなく全快した。親たちはお礼として、たくさんの供物と、子どもの命の恩人、おしゃもじを奉納した。それからは、誰いうとなく、おしゃもじ様、と呼ばれるようになった。”
とあります。
“子どもの命の恩人”というのは、食事も喉を通らなかった病状が、食べられるようになった(のも、しゃもじのおかげ)ということになるでしょうか。
冒頭に“明和の頃”とあって、石像に刻まれた年記には明和七年とあり、明和は九年までなので、建立直後すでに評判になるということにやや疑問も感じますが(無いとは言えませんが、、、)、既存の言い伝えに、明和という年号だけがあとから付け加わったということもあるかもしれませんし、この、しゃもじが奉納されるきっかけ・由来自体が、年記を拠り所にして、後付けされた言い伝え・解釈ということも考えられるかもしれません。
ともあれ、どうやら社宮司のオシャモジサマから、オシャモジサマがひとり歩きをして、子育て地蔵と習合したということになるようです。
お稲荷さんがオシャモジサマと呼ばれている例は、しばしば見かけられるとのことですし、また、“シャグジ又はオシャモジと称せぬ祠や社で、杓子を進献する例も、多少はあったと思うが”(柳田国男『杓子と俗信』)
とのことですが、お地蔵さんがオシャモジサマと呼ばれることもあるようですね。
前記事のオシャモジサマ引用部分で少し気になったのが、
(石造物について)“崩れてしまったところがあり、目や鼻はセメントで作り直している。”
という箇所。
ネットをみても、また同じ市域の他のオシャモジサマも、いずれも木や石の祠で、なかには鳥居が伴わないこともありますが神社の体裁です。祠の中にお札としゃもじを納めてあったりもしますが、神像が伴っているいるものは見た限りありません。
ことによると、お地蔵さんか石仏か何かをを転用したのではないか、と思って調べてみますと、『さがみはら石仏夜話』(つちのえ会編)という本に、件のオシャモジサマの由来として、
(江戸時代、明和の頃、風邪をこじらせ医者に見せても一向によくならない子供があり)“子供の病気を治してくれるお地蔵様があると聞きつけ、早速願をかけたところ子どもの病気はうす皮をはぐが如く良くなり、まもなく全快した。親たちはお礼として、たくさんの供物と、子どもの命の恩人、おしゃもじを奉納した。それからは、誰いうとなく、おしゃもじ様、と呼ばれるようになった。”
とあります。
“子どもの命の恩人”というのは、食事も喉を通らなかった病状が、食べられるようになった(のも、しゃもじのおかげ)ということになるでしょうか。
冒頭に“明和の頃”とあって、石像に刻まれた年記には明和七年とあり、明和は九年までなので、建立直後すでに評判になるということにやや疑問も感じますが(無いとは言えませんが、、、)、既存の言い伝えに、明和という年号だけがあとから付け加わったということもあるかもしれませんし、この、しゃもじが奉納されるきっかけ・由来自体が、年記を拠り所にして、後付けされた言い伝え・解釈ということも考えられるかもしれません。
ともあれ、どうやら社宮司のオシャモジサマから、オシャモジサマがひとり歩きをして、子育て地蔵と習合したということになるようです。
お稲荷さんがオシャモジサマと呼ばれている例は、しばしば見かけられるとのことですし、また、“シャグジ又はオシャモジと称せぬ祠や社で、杓子を進献する例も、多少はあったと思うが”(柳田国男『杓子と俗信』)
とのことですが、お地蔵さんがオシャモジサマと呼ばれることもあるようですね。
2009年09月28日
また夜泣きかい!
しつこいですが、もうひとつだけ
近在の市立博物館に図書室があって、ちょっと知りたいことがあり、教育委員会がつくった冊子を閲覧しました。
目当ての件が載っていないことはすぐにわかったのですが。受付を通して探してもらった資料なので、ここで返却するのも申し訳ないと思い、読む振りをしてなんとなくぱらぱらとめくっていると
“オシャモジサマ”
という文字が目に留まりました。
少々長いですが引用します。(実名は伏せ字にします)
オシャモジサマ
○○家内に祀られているもので、元々つぶれ屋敷だったところを父親が土地を買ってシンタク(分家)に出たが、そのころからオシャモジサマがあり、自分の屋敷内にあるからということで○○家で祀ることになっているという。由来などは不明である。大きさは高さ44cm、幅22cm(台座は含まず)だが崩れてしまったところがあり、目や鼻はセメントで作り直している。文字は判読できないが、明和七年(1770)とある。
オシャモジサマは小学校に入学する前の子供の神様で、風邪や夜泣きを治してくれるといわれる。子供が病気になったらオシャモジサマにお参りし、初日は供えてある杓子を貰ってきて飯をよそる。病気が治るまで毎日お参りして杓子も毎日使い、治ったらお礼として新しい杓子を供える。大正ころには杓子がミカン箱一杯になるほど供えられていて、○○家では子供が悪戯などをしないように保管していたが、現在は燃やしてしまって残っていない。また、杓子の他にオサイセネ(お賽銭)が1銭、1円とあることがあり、それをためておいてアメ玉を買いオシャモジサマに供えたりしたこともあるという。
東京オリンピック当時は来る人が多かったが、現在ほとんどなく、昨年(1987年)は2本が供えられただけである。ただ最近でも近所の年寄りと夫婦が、子供の夜泣きが医者に行っても治らないということでお参りして線香をあげたり(すぐに治ってしまったという)、毎日夜明けにチョコレートを持って車でお参りに来る人などもいたという。
ものの本によると、
シャグジ、シャクジ、サグジ、ミシャグジなど、様々な名前で呼ばれる神様があって、オシャモジサマはその信仰の中のひとつ。
社宮司(しゃぐじ)神は、遠源を縄文時代にまで遡る、非常に多岐な信仰形態を持つ土俗的土着的傾向の強い自然神で、主に関東、甲信、東海地方に多く見られ、信州の諏訪大社の影響圏と重なる。
土地土地によって、祖霊神であったり、豊穣神であったり、産育神であったり様々で、御社宮司(みしゃぐじ)、佐久神、石神(しゃくじん)、尺神、遮軍神、作口神、守宮神(しゅぐじ)など、漢字の表記も様々。
諏訪大社の神職、神長官(じんちょうかん)の守矢氏では、氏神—御左口神(みさぐちのかみ)として篤く祀られている。
とのことです。
とはいえ、結局なかなかよくわからない神様で、“多くの民俗学者や歴史学者が手を染めては投げ出してしまった神で、『石神問答』(柳田国男)には諏訪のスの字も出てこない有様で、すっかり忘れられた神になっている”(『日本神祇由来事典』)
などとも書かれています。
ちなみに、東京にある石神井(しゃくじい)という地名もシャグジに関係していると考えられるそうです。
オシャモジサマは子供の病気(とくに喉のもの、喘息、百日咳など)や夜泣きに対して効験があるようで、シャグジとしゃもじの音が似ていることから起った信仰、との説が専らのようですが、柳田国男は、しゃもじ自体にも“神に捧げて祈祷の効果を増加する手段とするに、十分なる性質を具えていた”(『杓子と俗信』)と言っています。
引用文中では、社頭から借り請けたしゃもじでご飯をよそって食べる、となっていますが、多く見られる例は、しゃもじに子供の名と歳を書いて戸口に打付ける。あるいは患部を撫でる。
だそうで、効験があったときには新しいしゃもじを添えてお礼参りするので、社頭のしゃもじは段々増えていくそうです。
社宮司についてのページ↓ふたつ
http://kamnavi.jp/en/sinano/mishaguti.htm
http://www.geocities.jp/edelfalter/recture/misyaguji_tonari.htm
(オシャモジサマは夜泣き貝と直接は関係ないと思いますが、夜泣き封じに神社から物を貰い請けて、治れば返すという習俗としてあげておきます)
タイトルの“夜泣きかい!”は、夜泣き匙(がひ)というこじつけです。
匙(かい、かひ)
さじ、しゃくし。古くは貝殻を匙や杓子として用いていたことから、かいと称する。また、形が貝殻に似ているからとも。
しゃもじには、古く“飯匙(いひがひ)”との呼称も。
近在の市立博物館に図書室があって、ちょっと知りたいことがあり、教育委員会がつくった冊子を閲覧しました。
目当ての件が載っていないことはすぐにわかったのですが。受付を通して探してもらった資料なので、ここで返却するのも申し訳ないと思い、読む振りをしてなんとなくぱらぱらとめくっていると
“オシャモジサマ”
という文字が目に留まりました。
少々長いですが引用します。(実名は伏せ字にします)
オシャモジサマ
○○家内に祀られているもので、元々つぶれ屋敷だったところを父親が土地を買ってシンタク(分家)に出たが、そのころからオシャモジサマがあり、自分の屋敷内にあるからということで○○家で祀ることになっているという。由来などは不明である。大きさは高さ44cm、幅22cm(台座は含まず)だが崩れてしまったところがあり、目や鼻はセメントで作り直している。文字は判読できないが、明和七年(1770)とある。
オシャモジサマは小学校に入学する前の子供の神様で、風邪や夜泣きを治してくれるといわれる。子供が病気になったらオシャモジサマにお参りし、初日は供えてある杓子を貰ってきて飯をよそる。病気が治るまで毎日お参りして杓子も毎日使い、治ったらお礼として新しい杓子を供える。大正ころには杓子がミカン箱一杯になるほど供えられていて、○○家では子供が悪戯などをしないように保管していたが、現在は燃やしてしまって残っていない。また、杓子の他にオサイセネ(お賽銭)が1銭、1円とあることがあり、それをためておいてアメ玉を買いオシャモジサマに供えたりしたこともあるという。
東京オリンピック当時は来る人が多かったが、現在ほとんどなく、昨年(1987年)は2本が供えられただけである。ただ最近でも近所の年寄りと夫婦が、子供の夜泣きが医者に行っても治らないということでお参りして線香をあげたり(すぐに治ってしまったという)、毎日夜明けにチョコレートを持って車でお参りに来る人などもいたという。
『小祠調査報告書』(相模原市教育委員会)
ものの本によると、
シャグジ、シャクジ、サグジ、ミシャグジなど、様々な名前で呼ばれる神様があって、オシャモジサマはその信仰の中のひとつ。
社宮司(しゃぐじ)神は、遠源を縄文時代にまで遡る、非常に多岐な信仰形態を持つ土俗的土着的傾向の強い自然神で、主に関東、甲信、東海地方に多く見られ、信州の諏訪大社の影響圏と重なる。
土地土地によって、祖霊神であったり、豊穣神であったり、産育神であったり様々で、御社宮司(みしゃぐじ)、佐久神、石神(しゃくじん)、尺神、遮軍神、作口神、守宮神(しゅぐじ)など、漢字の表記も様々。
諏訪大社の神職、神長官(じんちょうかん)の守矢氏では、氏神—御左口神(みさぐちのかみ)として篤く祀られている。
とのことです。
とはいえ、結局なかなかよくわからない神様で、“多くの民俗学者や歴史学者が手を染めては投げ出してしまった神で、『石神問答』(柳田国男)には諏訪のスの字も出てこない有様で、すっかり忘れられた神になっている”(『日本神祇由来事典』)
などとも書かれています。
ちなみに、東京にある石神井(しゃくじい)という地名もシャグジに関係していると考えられるそうです。
オシャモジサマは子供の病気(とくに喉のもの、喘息、百日咳など)や夜泣きに対して効験があるようで、シャグジとしゃもじの音が似ていることから起った信仰、との説が専らのようですが、柳田国男は、しゃもじ自体にも“神に捧げて祈祷の効果を増加する手段とするに、十分なる性質を具えていた”(『杓子と俗信』)と言っています。
引用文中では、社頭から借り請けたしゃもじでご飯をよそって食べる、となっていますが、多く見られる例は、しゃもじに子供の名と歳を書いて戸口に打付ける。あるいは患部を撫でる。
だそうで、効験があったときには新しいしゃもじを添えてお礼参りするので、社頭のしゃもじは段々増えていくそうです。
社宮司についてのページ↓ふたつ
http://kamnavi.jp/en/sinano/mishaguti.htm
http://www.geocities.jp/edelfalter/recture/misyaguji_tonari.htm
(オシャモジサマは夜泣き貝と直接は関係ないと思いますが、夜泣き封じに神社から物を貰い請けて、治れば返すという習俗としてあげておきます)
タイトルの“夜泣きかい!”は、夜泣き匙(がひ)というこじつけです。
匙(かい、かひ)
さじ、しゃくし。古くは貝殻を匙や杓子として用いていたことから、かいと称する。また、形が貝殻に似ているからとも。
しゃもじには、古く“飯匙(いひがひ)”との呼称も。
2009年09月26日
夜泣きかい?(大尾)
(9/25 のつづき)
それにしても、境内の古木にキセルガイのいる神社は、全国的には相当な数になると思われますが、何らかのまじないや信仰と結びついていて、現在まで習俗の残っている例はかなり少ないように見受けられます。
キセルガイは寒くなると樹皮の下に潜り込んでしまって、なかなか見つけられないという、こどもの小指ほどのちいさな貝です。
必ずもとの樹に戻さなければご利益はなくなると言われ、貝が子供の訴えを一晩中聞いて、子守をしてくれるので夜泣きが止まるのだとも言われます。
地域で大切にされてきた杜の、大樹の幹にまとわりついているキセルガイの画像を見ながら、貝をそっとたなごころに包んで持ち帰る親の姿、枕の下でじっと殻を閉じているキセルガイ、こどもの寝姿など想像すると、いつくしみ、はぐくみ、はぐくまれるという言葉が自ずと思い浮かぶことでした。
最後に、ほかの夜泣き封じのおまじないをいくつかあげてみます。
全国的に広く行われているのは、
鶏の絵を布団や枕の下に入れたり、吊るしておく。
というものと、
「しのだのもりの しろぎつね ひるはないても よるなくな」
と唱えたり、紙などに書いて布団や枕の下に入れておく。
のふたつで、どちらも、置いたり掛けたり貼ったりするとき、逆さにするという例が結構あるようです。
しのだのもり は信太の森。
(安倍晴明は、安倍保名と信太の森に棲む牝狐(保名が命を助けた)との間に生まれたという伝承がある)
鶏は古来から瑞鳥として、魔が跋扈する夜を終わらせ、太陽を呼ぶ朝告鳥として特別な呪力があるとされ、また夜は鳴かないということで、夜泣きに効験があると考えられたようです。
その跋扈する魔の代表的なものとして狐があり、狐をなだめすかすために、呪文を唱えるのではないか。もともとは、蘆原や茅原の里のきつね〜で始まる呪言で、一般的な野原のきつねに対する呼びかけだったのが、いつの間にか信太の森伝説と結びついて広まったと考えられる、(『夜泣きの呪い習俗』)とのこと。
おむつを夜干しすると夜泣きする、という言い伝えも、おむつを干しておくと、子供が居ることを魔に気取られて憑かれてしまい、泣き出す、ということなのかもしれません。
ほかの夜泣き封じには、
橋の一部を削って来て煎じて飲ませたり、火を点して見せる。
巡査の用いる捕縄を借りて来て、枕の下に入れる。
庭から鎌を高く投げ上げて、屋根を越えさせる。
からすの羽を焼いて与える。
へその緒に針を通す。
こどもを背負い、紐の先に横槌を結びつけて引きずりながら、家の周りを三度まわる。(横槌 よこづちは、藁などを叩くための槌。円筒の一方側を細くして、ここを握るようにしたもの)
などもあります。
つばめの尿を飲ませる。というのもあるのですが、どうやって採取するのでしょう。
刀(枕の下に入れる)も鎌も巡査も、魔を追い払う強い存在と考えられ、横槌にもそんな力があるとされていたようです。(前掲書)
橋に願をかけて、願ほどきには小絵馬を橋にまつる。欄干にしめ縄を結んで願をかける。など橋も重要な存在です。
橋は、村落と外界の境で、さまざまな聖や邪の往来する特別な場所と考えられ、“はじめは神を請じ、その意志をきく場所であったのが、後世には神に代る者が、はるばるとどこからかきてそこに立ち、行き戻りする者のために、謎のような予祝・予言の文句を投造かける地域であった。”(『日本民俗語大事典』(桜楓社))
ということで、今回でひと区切りです。
何か分かってくるどころか謎は増えてしまい、結局記事はだらだらと脈絡なく続いてしまいました。
それにしても、境内の古木にキセルガイのいる神社は、全国的には相当な数になると思われますが、何らかのまじないや信仰と結びついていて、現在まで習俗の残っている例はかなり少ないように見受けられます。
キセルガイは寒くなると樹皮の下に潜り込んでしまって、なかなか見つけられないという、こどもの小指ほどのちいさな貝です。
必ずもとの樹に戻さなければご利益はなくなると言われ、貝が子供の訴えを一晩中聞いて、子守をしてくれるので夜泣きが止まるのだとも言われます。
地域で大切にされてきた杜の、大樹の幹にまとわりついているキセルガイの画像を見ながら、貝をそっとたなごころに包んで持ち帰る親の姿、枕の下でじっと殻を閉じているキセルガイ、こどもの寝姿など想像すると、いつくしみ、はぐくみ、はぐくまれるという言葉が自ずと思い浮かぶことでした。
最後に、ほかの夜泣き封じのおまじないをいくつかあげてみます。
全国的に広く行われているのは、
鶏の絵を布団や枕の下に入れたり、吊るしておく。
というものと、
「しのだのもりの しろぎつね ひるはないても よるなくな」
と唱えたり、紙などに書いて布団や枕の下に入れておく。
のふたつで、どちらも、置いたり掛けたり貼ったりするとき、逆さにするという例が結構あるようです。
しのだのもり は信太の森。
(安倍晴明は、安倍保名と信太の森に棲む牝狐(保名が命を助けた)との間に生まれたという伝承がある)
鶏は古来から瑞鳥として、魔が跋扈する夜を終わらせ、太陽を呼ぶ朝告鳥として特別な呪力があるとされ、また夜は鳴かないということで、夜泣きに効験があると考えられたようです。
その跋扈する魔の代表的なものとして狐があり、狐をなだめすかすために、呪文を唱えるのではないか。もともとは、蘆原や茅原の里のきつね〜で始まる呪言で、一般的な野原のきつねに対する呼びかけだったのが、いつの間にか信太の森伝説と結びついて広まったと考えられる、(『夜泣きの呪い習俗』)とのこと。
おむつを夜干しすると夜泣きする、という言い伝えも、おむつを干しておくと、子供が居ることを魔に気取られて憑かれてしまい、泣き出す、ということなのかもしれません。
ほかの夜泣き封じには、
橋の一部を削って来て煎じて飲ませたり、火を点して見せる。
巡査の用いる捕縄を借りて来て、枕の下に入れる。
庭から鎌を高く投げ上げて、屋根を越えさせる。
からすの羽を焼いて与える。
へその緒に針を通す。
こどもを背負い、紐の先に横槌を結びつけて引きずりながら、家の周りを三度まわる。(横槌 よこづちは、藁などを叩くための槌。円筒の一方側を細くして、ここを握るようにしたもの)
などもあります。
つばめの尿を飲ませる。というのもあるのですが、どうやって採取するのでしょう。
刀(枕の下に入れる)も鎌も巡査も、魔を追い払う強い存在と考えられ、横槌にもそんな力があるとされていたようです。(前掲書)
橋に願をかけて、願ほどきには小絵馬を橋にまつる。欄干にしめ縄を結んで願をかける。など橋も重要な存在です。
橋は、村落と外界の境で、さまざまな聖や邪の往来する特別な場所と考えられ、“はじめは神を請じ、その意志をきく場所であったのが、後世には神に代る者が、はるばるとどこからかきてそこに立ち、行き戻りする者のために、謎のような予祝・予言の文句を投造かける地域であった。”(『日本民俗語大事典』(桜楓社))
ということで、今回でひと区切りです。
何か分かってくるどころか謎は増えてしまい、結局記事はだらだらと脈絡なく続いてしまいました。
2009年09月25日
夜泣きかい?(続々々々々の下)
(9/23のつづき)
では次に、キセルガイをもらい請け、治ればもとに戻すという夜泣き封じのある神社。
立神熊野座神社(熊本県八代郡宮原町)
大瀬阿蘇神社(熊本県球磨郡球磨村)
日吉神社(熊本市平田町)
市房神社(熊本県球磨郡水上村)
松尾神社(熊本県山鹿市菊鹿町)
弓削神宮(熊本市龍田町弓削)
小山神社(熊本市小山町)
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/kusuoyama.html
津森神宮(熊本県上益城郡益城町)
http://homepage2.nifty.com/tsumori-jingu/keidai.html
七所宮(熊本県下益城郡城南町)
吉祥天 (熊本県阿蘇郡南阿蘇村)
(夜泣き貝ではなく子安貝と呼ばれる)
http://asp.nihon-kankou.or.jp/bnr/ctrl?evt=ShowBukken&ID=43431aj2200024957
日隈神社(大分県日田郡亀翁山)
熊本県玉名市 部落の小祠
参照した文献では、社名まで載っている神社は3つで、あとはネットでの検索です。
祭神までわかったのは、リストの1/3で、他のものは社名から察するばかりですが、どうも祭神は様々のようです。神功皇后に関連する伝説があるものなのかどうかも、わかりませんでした。
(ネット検索では、このあたりまでが限界ですね。)
何か関連があるのではないかと、蜷と神功皇后の言い伝えに注目してみましたが、夜泣きと神功皇后とキセルガイとの結びつきは、いまひとつしっくり来ません。(何となく、かすっているような気はしますが)
神功皇后は、応神天皇出産の経緯などもあって、軍神としてだけではなく、安産、子育ての守り神としてもひろく信仰をあつめていたので、由縁の深い蜷が、産育にまつわる特別な存在として扱われて、キセルガイ=夜泣き貝の習俗が行われるようになった、とも考えられるかもしれませんが、案外、まったく別の機縁から夜泣き貝の習俗が起ったのかもしれません。
それにしても、なぜ出産や疳の虫や疱瘡や百日咳などではなく、夜泣きに特化しているのか、なぜ習俗として残っているのが熊本(と周辺地域)なのか。。。。(これに関しては、他の地域での調査が十分に行われていないという可能性もあります)
おまじないや民間療法に使われる貝の場合、多くは貝殻を用いたり、貝の身を直接擦り付けたり、黒焼きにしたり、殻ごとすり潰したりなどされるようですが、夜泣き貝(キセルガイ、ナガニシ)の習俗は貝を傷つけないということでも、特異な部類です。
(餌もなく乾燥した状態でも、殻を閉じてひと月以上生きていられるそうですから、キセルガイの場合は2-3日の外泊はそれほどのダメージにはならないでしょう。)
宇佐八幡では放生会(ほうじょうや)として、蜷を海に放す神事があるようですが、ナガニシを海に、キセルガイをご神木に、夜泣きが治れば元居た場に戻すことと、どこか遠くで響き合っているのかもしれません。
『本草綱目啓蒙』によれば、ナガニシに関して、夜泣きが治れば海に放すという誓詞が伴っていますが、ちょっと見た限りではキセルガイにはそのようなものはないようで、このあたりの違いも何か気になります。
(つづく)
では次に、キセルガイをもらい請け、治ればもとに戻すという夜泣き封じのある神社。
立神熊野座神社(熊本県八代郡宮原町)
大瀬阿蘇神社(熊本県球磨郡球磨村)
日吉神社(熊本市平田町)
市房神社(熊本県球磨郡水上村)
松尾神社(熊本県山鹿市菊鹿町)
弓削神宮(熊本市龍田町弓削)
小山神社(熊本市小山町)
http://www.pref.kumamoto.jp/site/arinomama/kusuoyama.html
津森神宮(熊本県上益城郡益城町)
http://homepage2.nifty.com/tsumori-jingu/keidai.html
七所宮(熊本県下益城郡城南町)
吉祥天 (熊本県阿蘇郡南阿蘇村)
(夜泣き貝ではなく子安貝と呼ばれる)
http://asp.nihon-kankou.or.jp/bnr/ctrl?evt=ShowBukken&ID=43431aj2200024957
日隈神社(大分県日田郡亀翁山)
熊本県玉名市 部落の小祠
参照した文献では、社名まで載っている神社は3つで、あとはネットでの検索です。
祭神までわかったのは、リストの1/3で、他のものは社名から察するばかりですが、どうも祭神は様々のようです。神功皇后に関連する伝説があるものなのかどうかも、わかりませんでした。
(ネット検索では、このあたりまでが限界ですね。)
何か関連があるのではないかと、蜷と神功皇后の言い伝えに注目してみましたが、夜泣きと神功皇后とキセルガイとの結びつきは、いまひとつしっくり来ません。(何となく、かすっているような気はしますが)
神功皇后は、応神天皇出産の経緯などもあって、軍神としてだけではなく、安産、子育ての守り神としてもひろく信仰をあつめていたので、由縁の深い蜷が、産育にまつわる特別な存在として扱われて、キセルガイ=夜泣き貝の習俗が行われるようになった、とも考えられるかもしれませんが、案外、まったく別の機縁から夜泣き貝の習俗が起ったのかもしれません。
それにしても、なぜ出産や疳の虫や疱瘡や百日咳などではなく、夜泣きに特化しているのか、なぜ習俗として残っているのが熊本(と周辺地域)なのか。。。。(これに関しては、他の地域での調査が十分に行われていないという可能性もあります)
おまじないや民間療法に使われる貝の場合、多くは貝殻を用いたり、貝の身を直接擦り付けたり、黒焼きにしたり、殻ごとすり潰したりなどされるようですが、夜泣き貝(キセルガイ、ナガニシ)の習俗は貝を傷つけないということでも、特異な部類です。
(餌もなく乾燥した状態でも、殻を閉じてひと月以上生きていられるそうですから、キセルガイの場合は2-3日の外泊はそれほどのダメージにはならないでしょう。)
宇佐八幡では放生会(ほうじょうや)として、蜷を海に放す神事があるようですが、ナガニシを海に、キセルガイをご神木に、夜泣きが治れば元居た場に戻すことと、どこか遠くで響き合っているのかもしれません。
『本草綱目啓蒙』によれば、ナガニシに関して、夜泣きが治れば海に放すという誓詞が伴っていますが、ちょっと見た限りではキセルガイにはそのようなものはないようで、このあたりの違いも何か気になります。
(つづく)
2009年09月23日
夜泣きかい?(続々々々々の中)
(9/22のつづき 神功皇后と蜷にまつわる伝説)
宇美(うみ)八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町)
(夜泣きかい?(続々々)にある、『本草綱目啓蒙』キセルガイを使った出産占いの“筑前糟屋郡産村の八幡”)
身籠っていた神功皇后が、“産(うみ)の宮の槐(エンジュ)に取りすがりて、応神天皇を生み給いける”と伝わる。
寛政11年(1799)仁孝天皇出産に際し、安産祈願のために勅使が、子安縄とする“白羽二重”を持参して加持祈祷し、楠についた“蜷”、子安の木の枝、“産湯の水”を持ち帰った。
http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/69.html
(↑文中、蜷とあるのは、勿論キセルガイ)
玉垂神社(久留米市大善寺町)
祭神は武内宿彌、八幡大神、住吉大神
(神功皇后の出兵で功のあった藤大臣(玉垂命・高良大明神)が、この地で没したとの伝にちなむ)
征伐中に海が干上がったとき、敵船は横倒しになったが、味方の船は船底に蜷貝がびっしり取り付いて船を支えていた。
玉垂宮に凱旋して船をクスノキに繋いだので、今も大樟木には蜷貝がいる。
http://homepage3.nifty.com/ne/fu/fu-kaiho/fu-2008/2008-06/p-07.html
生立(おいたつ)八幡宮(福岡県京都郡)
神功皇后が征伐の帰路立ち寄り、軍船に付いていた蜷貝を自らここの楠に放し、木の守り神とした。
歯が痛い時に、この蜷を患部に当てて噛むと痛みが取れる。
http://www.town.miyako.lg.jp/kankou/rekisi/oitatsuhachiman.jsp
糸崎神社(広島県三原市)
応神天皇の御産髪を勧請して創祀したと伝わり、祭神は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。
神功皇后が西行の途中立ち寄った際、船をつないだ松(夜泪き松)があり、夜泣きする子どもには、この松の皮の削り片に火を点して見せたり、煎じて飲ませる。
香椎宮(福岡県福岡市東区)
祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神
仲哀天皇崩御の地に、神功皇后が祠を建て神霊を祀った。
境内の摂社に本邦で唯一、鶏を祀る鶏石神社があり、夜泣きに効験
http://www.jinja.sakura.ne.jp/higashiku/no09/no09.htm
住吉神社(大阪府岬町小島)
祭神は住吉三神、神功皇后
(出兵の際、神功皇后に下った二度目の神託は、住吉三神からのもの)
夜泣きする子どもに効くといって、紀州地方より参詣する人が多かった。
また、夜泣きではありませんが、キセルガイを護身のため戦場に携える謂れは。
神功皇后の出兵に際し住吉神社の命で、この貝が皇后の船に乗って、御座の周囲に貝の垣根をつくり敵の矢を防いだ、
という伝説からのようです。
http://www.c-spice.co.jp/cgi-bin/sc/hn?C=sc/sc_kiji.cgi&R=D&KJD=20040107-0040&TOP=&PHPSESSID=4b6
(つづく)
宇美(うみ)八幡宮(福岡県糟屋郡宇美町)
(夜泣きかい?(続々々)にある、『本草綱目啓蒙』キセルガイを使った出産占いの“筑前糟屋郡産村の八幡”)
身籠っていた神功皇后が、“産(うみ)の宮の槐(エンジュ)に取りすがりて、応神天皇を生み給いける”と伝わる。
寛政11年(1799)仁孝天皇出産に際し、安産祈願のために勅使が、子安縄とする“白羽二重”を持参して加持祈祷し、楠についた“蜷”、子安の木の枝、“産湯の水”を持ち帰った。
http://www.kyuhaku-db.jp/dazaifu/historic/69.html
(↑文中、蜷とあるのは、勿論キセルガイ)
玉垂神社(久留米市大善寺町)
祭神は武内宿彌、八幡大神、住吉大神
(神功皇后の出兵で功のあった藤大臣(玉垂命・高良大明神)が、この地で没したとの伝にちなむ)
征伐中に海が干上がったとき、敵船は横倒しになったが、味方の船は船底に蜷貝がびっしり取り付いて船を支えていた。
玉垂宮に凱旋して船をクスノキに繋いだので、今も大樟木には蜷貝がいる。
http://homepage3.nifty.com/ne/fu/fu-kaiho/fu-2008/2008-06/p-07.html
生立(おいたつ)八幡宮(福岡県京都郡)
神功皇后が征伐の帰路立ち寄り、軍船に付いていた蜷貝を自らここの楠に放し、木の守り神とした。
歯が痛い時に、この蜷を患部に当てて噛むと痛みが取れる。
http://www.town.miyako.lg.jp/kankou/rekisi/oitatsuhachiman.jsp
糸崎神社(広島県三原市)
応神天皇の御産髪を勧請して創祀したと伝わり、祭神は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。
神功皇后が西行の途中立ち寄った際、船をつないだ松(夜泪き松)があり、夜泣きする子どもには、この松の皮の削り片に火を点して見せたり、煎じて飲ませる。
香椎宮(福岡県福岡市東区)
祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神
仲哀天皇崩御の地に、神功皇后が祠を建て神霊を祀った。
境内の摂社に本邦で唯一、鶏を祀る鶏石神社があり、夜泣きに効験
http://www.jinja.sakura.ne.jp/higashiku/no09/no09.htm
住吉神社(大阪府岬町小島)
祭神は住吉三神、神功皇后
(出兵の際、神功皇后に下った二度目の神託は、住吉三神からのもの)
夜泣きする子どもに効くといって、紀州地方より参詣する人が多かった。
また、夜泣きではありませんが、キセルガイを護身のため戦場に携える謂れは。
神功皇后の出兵に際し住吉神社の命で、この貝が皇后の船に乗って、御座の周囲に貝の垣根をつくり敵の矢を防いだ、
という伝説からのようです。
http://www.c-spice.co.jp/cgi-bin/sc/hn?C=sc/sc_kiji.cgi&R=D&KJD=20040107-0040&TOP=&PHPSESSID=4b6
(つづく)
2009年09月22日
夜泣きかい?(続々々々々の上)
(9/20のつづき)
南方熊楠の『上京日記』に
「大分と別府との間にイズ原八幡あり。社辺の樟の木にゴウナ住む。ゴウナとはニナ(紀州ではゴンナイ)の形した小螺の海の泥中に生ずるをも、木の空洞に生ずるをも、この名で呼ぶ。その海泥中に生ずるははなはだうまい。
古伝に、神功皇后、応神帝を海浜に生み置き、征伐に出でたまう。その跡でゴウナ集まり、飴をもって養い参らせた。それにより宇佐八幡の境内の大樟の木の空洞の中にゴウナ住む。すなわちキセルガイだ。これを古来八幡神の眷属とし、飴を宇佐の名物とす。」
とあります。
産み置かれた皇子を蜷(ニナ)が飴で養う、という不思議な言い伝えですが、この飴は以前とりあげた宇佐飴ですね。
文中のイズ原八幡は、大分市の柞原(ゆすはら)八幡宮かと思われます。
祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。
境内の大楠は国の天然記念物。
ここで、神功皇后の九州での足跡を簡単に見てみると、
仲哀天皇が九州の熊襲を討つために、神功皇后と共に筑紫の香椎宮に向かったとき、西方にある金銀豊かな国を与えるとの神託があったが、仲哀天皇はこれを信じなかったため、神の怒りに触れてにわかに崩ぜられる。
大葬の後、再びの神託で、皇后の御腹の子が国を治めるべしとあり、(西方への)進軍の神示もあった。
神功皇后は懐胎の身をおして、軍船を整え新羅に渡り、これを征討して帰路、九州で誉田皇子(ほむだのみこ、のちの応神天皇)を産ませ給う。
ということのようです。
(古伝中では、朝鮮半島に渡る前に、皇子が誕生したようになっています)
神功皇后と蜷(ニナ)にまつわる言い伝えは九州を中心に、結構あるようで、夜泣きに関連したものと一緒に列記してみます。
(長くなりますので、つづく)
南方熊楠の『上京日記』に
「大分と別府との間にイズ原八幡あり。社辺の樟の木にゴウナ住む。ゴウナとはニナ(紀州ではゴンナイ)の形した小螺の海の泥中に生ずるをも、木の空洞に生ずるをも、この名で呼ぶ。その海泥中に生ずるははなはだうまい。
古伝に、神功皇后、応神帝を海浜に生み置き、征伐に出でたまう。その跡でゴウナ集まり、飴をもって養い参らせた。それにより宇佐八幡の境内の大樟の木の空洞の中にゴウナ住む。すなわちキセルガイだ。これを古来八幡神の眷属とし、飴を宇佐の名物とす。」
とあります。
産み置かれた皇子を蜷(ニナ)が飴で養う、という不思議な言い伝えですが、この飴は以前とりあげた宇佐飴ですね。
文中のイズ原八幡は、大分市の柞原(ゆすはら)八幡宮かと思われます。
祭神は仲哀天皇、応神天皇、神功皇后。
境内の大楠は国の天然記念物。
ここで、神功皇后の九州での足跡を簡単に見てみると、
仲哀天皇が九州の熊襲を討つために、神功皇后と共に筑紫の香椎宮に向かったとき、西方にある金銀豊かな国を与えるとの神託があったが、仲哀天皇はこれを信じなかったため、神の怒りに触れてにわかに崩ぜられる。
大葬の後、再びの神託で、皇后の御腹の子が国を治めるべしとあり、(西方への)進軍の神示もあった。
神功皇后は懐胎の身をおして、軍船を整え新羅に渡り、これを征討して帰路、九州で誉田皇子(ほむだのみこ、のちの応神天皇)を産ませ給う。
ということのようです。
(古伝中では、朝鮮半島に渡る前に、皇子が誕生したようになっています)
神功皇后と蜷(ニナ)にまつわる言い伝えは九州を中心に、結構あるようで、夜泣きに関連したものと一緒に列記してみます。
(長くなりますので、つづく)
2009年09月20日
夜泣きかい?(続々々々)
(9/17のつづき)
“ヨナキ”と名のつく貝を『日本貝類方言集』から抜き出して、貝の図を添えて一覧にしてみました。(少々サイズが大きいです)
http://www.h7.dion.ne.jp/~nidulus/yonakigai.jpg
こうして見てみると、ひと括りにナガニシ系としましたが、外形には思いのほか違いがあります。
テングニシは中でも、目立って大型ですし、和歌山の夜泣き貝はバリエーションが豊富です。
形態や生態からヨナキと付いたということも考えられますが、かなり可能性は低そうです。
そもそものはじまりは、夜啼螺だったわけですが、この『日本大歳時記』の記述のもとになったものは『本朝食鑑』のようで、長螺(ナガニシ)の記述中に、
小児の夜啼き止まざるとき、長螺一箇枕辺に置き、誓して曰く、汝、児の夜啼きを治めずば、則ち殻を破り、肉を抜き、野に棄てん、もし之を治めれば則ち江海に放つ、是に於いて夜啼き必ず止む、
とあります。
『日本貝類方言集』で見たかぎりでは、ナガニシ系で夜泣き貝を枕元に置くという習俗は、以前あげた千葉の例しか記述が無く(しかも、治らなければ遺棄する云々という部分はありません。)、一覧表で見るナガニシ系の分布の広さに比して、少ないようです。
“ヨナキ”の由来とされる、貝が夜に鳴く、や、海ホウズキを産む時に鳴く、というのも点在的な分布でしかなく、古くからヨナキという名前で呼ばれていたために、後付けされた謂れである可能性も否めませんし、同様のことは、夜泣きの封じの習俗の場合にも当てはまるかもしれません。ヨナキガイだから、夜泣きに効くだろう、という具合に。
キセルガイ系の場合は夜泣きにちなむ名称らしいわけですが、なぜ夜泣きとキセルガイ(あるいは神社、ご神木)が結びつくのかは謎です。
他に、乾燥や飢餓に耐えるので護身のため旅行・航海や戦場になどに携行される(山口県下関市住吉神社)、女子の早婚のまじない(山口県萩市見島)、煎じて飲めば母乳の出がよくなる(東京都府中市大国魂神社)といった習俗信仰もあるようですが、夜泣きと結びついているのは、熊本を中心として主に九州のようです。
和漢三才図会には、香螺(よなき、ながにし)に“今に云う夜啼螺(ヨナキ)”と出ていますが、夜啼きのいわれについてはありません。
『本朝食鑑』の記述の元になったものは何だったのでしょう。
夜泣き貝が採録された地域の郷土誌や民俗誌を丹念に調べてみれば、なにか見つかるのかもしれません。
神社のキセルガイがネット上にありましたので、
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/matuojinjya.html
『日本貝類方言集』には採録されていない神社です。
下関市住吉神社のキセルガイのお守り。↓「まじないと蝸牛」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/maimai/htmpage/mazinai6.htm
(つづく)
“ヨナキ”と名のつく貝を『日本貝類方言集』から抜き出して、貝の図を添えて一覧にしてみました。(少々サイズが大きいです)
http://www.h7.dion.ne.jp/~nidulus/yonakigai.jpg
こうして見てみると、ひと括りにナガニシ系としましたが、外形には思いのほか違いがあります。
テングニシは中でも、目立って大型ですし、和歌山の夜泣き貝はバリエーションが豊富です。
形態や生態からヨナキと付いたということも考えられますが、かなり可能性は低そうです。
そもそものはじまりは、夜啼螺だったわけですが、この『日本大歳時記』の記述のもとになったものは『本朝食鑑』のようで、長螺(ナガニシ)の記述中に、
小児の夜啼き止まざるとき、長螺一箇枕辺に置き、誓して曰く、汝、児の夜啼きを治めずば、則ち殻を破り、肉を抜き、野に棄てん、もし之を治めれば則ち江海に放つ、是に於いて夜啼き必ず止む、
とあります。
『日本貝類方言集』で見たかぎりでは、ナガニシ系で夜泣き貝を枕元に置くという習俗は、以前あげた千葉の例しか記述が無く(しかも、治らなければ遺棄する云々という部分はありません。)、一覧表で見るナガニシ系の分布の広さに比して、少ないようです。
“ヨナキ”の由来とされる、貝が夜に鳴く、や、海ホウズキを産む時に鳴く、というのも点在的な分布でしかなく、古くからヨナキという名前で呼ばれていたために、後付けされた謂れである可能性も否めませんし、同様のことは、夜泣きの封じの習俗の場合にも当てはまるかもしれません。ヨナキガイだから、夜泣きに効くだろう、という具合に。
キセルガイ系の場合は夜泣きにちなむ名称らしいわけですが、なぜ夜泣きとキセルガイ(あるいは神社、ご神木)が結びつくのかは謎です。
他に、乾燥や飢餓に耐えるので護身のため旅行・航海や戦場になどに携行される(山口県下関市住吉神社)、女子の早婚のまじない(山口県萩市見島)、煎じて飲めば母乳の出がよくなる(東京都府中市大国魂神社)といった習俗信仰もあるようですが、夜泣きと結びついているのは、熊本を中心として主に九州のようです。
和漢三才図会には、香螺(よなき、ながにし)に“今に云う夜啼螺(ヨナキ)”と出ていますが、夜啼きのいわれについてはありません。
『本朝食鑑』の記述の元になったものは何だったのでしょう。
夜泣き貝が採録された地域の郷土誌や民俗誌を丹念に調べてみれば、なにか見つかるのかもしれません。
神社のキセルガイがネット上にありましたので、
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/kankoh/03-rekishi/matuojinjya.html
『日本貝類方言集』には採録されていない神社です。
下関市住吉神社のキセルガイのお守り。↓「まじないと蝸牛」
http://www006.upp.so-net.ne.jp/maimai/htmpage/mazinai6.htm
(つづく)
2009年09月17日
夜泣きかい?(続々々)
つづけてキセルガイですが、どうやら江戸時代までは淡水産の貝、カワニナの一種と考えられていた節があります。
『本草綱目啓蒙』では、蜷(ミナ、ニナ、カワニナ)の項に含まれていて、
ニナのなかには水を離れても久しく生きるものがある、として出産の占いに用いられるニナについて、
筑前糟屋郡産村の八幡神社のクスノキに棲むニナを持ち帰って、生きていればお産が軽く、死んでしまえば難産になる、と述べてあります。
また、『本朝食鑑』に
ニナの肉は、解熱、黄疸、むくみ、産後血暈(出産後、血液循環機能の障害のために起こるめまい発作)などに効果がある。
ともあります。
キセルガイの霊力・呪力には漢方の薬効ということも関係があったかもしれません。
夜泣きの時には夜泣き貝を食べさせる(岡山県川上郡、広島県呉市)、という例もあるようです
それから、『日本貝類方言集』のユーナッケーシビ(ウミウサギ)の少し上に“ユーナチモーモー”というのが載っていて、気になりました。
ユーナチモーモー(スイジガイ)
モーモーは牛。貝の角からくる。
スイジガイ(水字貝)は、沖縄では厄よけ、魔除けとして広く用いられているそうで、突起の形が牛の角に似ていることからモーモーということのようです。
いくつかのサイトでは、ユーナチを世直しの意として、世直し牛貝と紹介していますが、
那覇の付近では、夜泣き封じに軒先に吊るす
http://saodep.jugem.jp/?eid=99
とあるので、つい、ユーナチは夜泣きでは?
と思いたくなります。
上掲書に
ユーナッケーシビ(ウミウサギ)を魔除けとして赤ちゃんの枕元に置いたり、シビ(こやす貝、たから貝)の類を、ンボーナー(子牛)といって与えたり、
また、
タカラガイを牛にみたてるのは、ま上から見ると牛の形にみえるからで、牛は龍宮の使いである。(谷川健一)
などともあります。
スイジガイは角のある成牛、タカラガイは角のない仔牛ということになるでしょうか。
貝を仔牛だとわざわざ宣言して与えるところを見ると、牛が夜泣きか、あるいはもっと広く魔除けの呪力を持っていると考えられたのかもしれません。
本州では、夜泣き封じに牛の沓、牛の縄、牛の絵などを使うという習俗もありました。
(つづく)
『本草綱目啓蒙』では、蜷(ミナ、ニナ、カワニナ)の項に含まれていて、
ニナのなかには水を離れても久しく生きるものがある、として出産の占いに用いられるニナについて、
筑前糟屋郡産村の八幡神社のクスノキに棲むニナを持ち帰って、生きていればお産が軽く、死んでしまえば難産になる、と述べてあります。
また、『本朝食鑑』に
ニナの肉は、解熱、黄疸、むくみ、産後血暈(出産後、血液循環機能の障害のために起こるめまい発作)などに効果がある。
ともあります。
キセルガイの霊力・呪力には漢方の薬効ということも関係があったかもしれません。
夜泣きの時には夜泣き貝を食べさせる(岡山県川上郡、広島県呉市)、という例もあるようです
それから、『日本貝類方言集』のユーナッケーシビ(ウミウサギ)の少し上に“ユーナチモーモー”というのが載っていて、気になりました。
ユーナチモーモー(スイジガイ)
モーモーは牛。貝の角からくる。
スイジガイ(水字貝)は、沖縄では厄よけ、魔除けとして広く用いられているそうで、突起の形が牛の角に似ていることからモーモーということのようです。
いくつかのサイトでは、ユーナチを世直しの意として、世直し牛貝と紹介していますが、
那覇の付近では、夜泣き封じに軒先に吊るす
http://saodep.jugem.jp/?eid=99
とあるので、つい、ユーナチは夜泣きでは?
と思いたくなります。
上掲書に
ユーナッケーシビ(ウミウサギ)を魔除けとして赤ちゃんの枕元に置いたり、シビ(こやす貝、たから貝)の類を、ンボーナー(子牛)といって与えたり、
また、
タカラガイを牛にみたてるのは、ま上から見ると牛の形にみえるからで、牛は龍宮の使いである。(谷川健一)
などともあります。
スイジガイは角のある成牛、タカラガイは角のない仔牛ということになるでしょうか。
貝を仔牛だとわざわざ宣言して与えるところを見ると、牛が夜泣きか、あるいはもっと広く魔除けの呪力を持っていると考えられたのかもしれません。
本州では、夜泣き封じに牛の沓、牛の縄、牛の絵などを使うという習俗もありました。
(つづく)
2009年09月16日
夜泣きかい?(続々)
(9/14のつづき)
さて、神社の境内に棲むキセルガイを枕の下に入れる、という熊本の習俗がありましたが、同じように枕元や枕の下に夜泣き封じの呪物を置く、という例は、東北から九州にかけてひろく分布しているようです。
『夜泣きの呪い習俗—横槌の呪力を中心に』(酒向伸行)や、『日本産育習俗資料集成』(恩賜財団母子愛育会)によると、
鬼の念仏の掛け物、鶏や鳥の絵、タコの絵、
牛の沓(蹄の保護や滑り止めのための藁ぐつ)、牛の縄、
「しのだのもりのしろぎつね ひるはなくともよるなくな」などと記した紙、
刀、鍛冶屋の鋏、箒、物差し、
紺屋の藍棒(藍甕(あいがめ)の縁についた藍汁の泡を集めて棒状に固めたもの。絵具などとして用いる)
父親の褌、屋根餅(上棟式で屋根から撒く餅)を投げた人の草履、大工の草履、
神社の破魔矢、源沢法師の墓所の石、子供相撲の大関の弓
など様々です。ちょっと不思議なものもあって、面白かったので羅列しました。
なんらかの謂れがあって、霊力、呪力があると考えられたものなのでしょう。壁に掛ける、かまどに貼る、天井に貼るという地方もあります。
熊本の例は、キセルガイ自体に呪力が備わっていると考えられていたのかもしれませんし、ご神木の霊気で養われているキセルガイに効験があると考えられたのかもしれません。
上に、墓所の石というのもありますが、一般に神社の境内の小石や樹の枝に効験があるとして、これをもらい請けてくるということは、古くから行われていたそうです。
キセルガイならばご神木を傷つける心配はないわけですし。
↓
夜泣き松
夜泣きが続くと、紫波岩手郡境にある夜泣き松を削って火をともし、明かりを生児にかざしてみせると止まるという。この松は盛んに削られたので枯死し、近ごろは盛岡市内の加賀野三明院普賢堂の松を用いる。
(つづく)
さて、神社の境内に棲むキセルガイを枕の下に入れる、という熊本の習俗がありましたが、同じように枕元や枕の下に夜泣き封じの呪物を置く、という例は、東北から九州にかけてひろく分布しているようです。
『夜泣きの呪い習俗—横槌の呪力を中心に』(酒向伸行)や、『日本産育習俗資料集成』(恩賜財団母子愛育会)によると、
鬼の念仏の掛け物、鶏や鳥の絵、タコの絵、
牛の沓(蹄の保護や滑り止めのための藁ぐつ)、牛の縄、
「しのだのもりのしろぎつね ひるはなくともよるなくな」などと記した紙、
刀、鍛冶屋の鋏、箒、物差し、
紺屋の藍棒(藍甕(あいがめ)の縁についた藍汁の泡を集めて棒状に固めたもの。絵具などとして用いる)
父親の褌、屋根餅(上棟式で屋根から撒く餅)を投げた人の草履、大工の草履、
神社の破魔矢、源沢法師の墓所の石、子供相撲の大関の弓
など様々です。ちょっと不思議なものもあって、面白かったので羅列しました。
なんらかの謂れがあって、霊力、呪力があると考えられたものなのでしょう。壁に掛ける、かまどに貼る、天井に貼るという地方もあります。
熊本の例は、キセルガイ自体に呪力が備わっていると考えられていたのかもしれませんし、ご神木の霊気で養われているキセルガイに効験があると考えられたのかもしれません。
上に、墓所の石というのもありますが、一般に神社の境内の小石や樹の枝に効験があるとして、これをもらい請けてくるということは、古くから行われていたそうです。
キセルガイならばご神木を傷つける心配はないわけですし。
↓
夜泣き松
夜泣きが続くと、紫波岩手郡境にある夜泣き松を削って火をともし、明かりを生児にかざしてみせると止まるという。この松は盛んに削られたので枯死し、近ごろは盛岡市内の加賀野三明院普賢堂の松を用いる。
(『日本産育習俗資料集成』)
(つづく)
2009年09月14日
夜泣きかい?(続)
日本貝類方言集に採録されている夜泣き貝の習俗を、抜き書きしてみます。
ヨナキ(ナガニシ)
千葉県富津市竹岡海岸では、この貝をヨナキ、ヨナギといっているが、これは「夜泣き」の意味で、赤ん坊がひきつけを起こしたとき、まくら元に置くと直るという言い伝えがある。
ヨナキガイ(キセルガイ)
熊本市平田町に日吉神社があり、このムクノキやイチョウにつく灰白色のキセルガイがいて、夜泣きする子供の枕の下に1個借りてきて入れ、夜泣きがなおったら神様にお返しするのだという。だからこの貝は夜泣き貝とよばれる。
ヨナキビナ
宮崎県東臼杵郡西郷村で。夜泣きする子供にはヨナキビナ(大木の根元にいる細長い巻貝)を呑ませるとよい、という。
ユーナッケー、ユーナケシビ(ウミウサギ)
魔除けとして産室の外にこの貝をかけておくと、風が当たって音がするからだと言い、又は子供の夜泣きを癒すまじないになるからだという。(八重山)
沖縄県八重山郡で、はヨナキガイに唱え言をして子供の耳につりさげ、子守唄をうたって聞かせると泣きやむという。
__ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _
熊本の、神社の境内に棲息するキセルガイというのは特徴的で、同県内の下益城郡城南町、人吉市南泉田町、などても同じ習俗があるように書いてあります。
枕の下に入れる数は、2個というもの、5、6個というものもあります。
ウミウサギの近縁で形も似ている、タカラガイ(子安貝)は南太平洋の広い範囲で、産育の呪符とされていますから、八重山、与論島の夜泣き貝と関連があるのかもしれません。
喜界島、八重山ではタカラガイをユナスビ、ユーナケーと呼ぶこともあるようです。
「タカラガイの貝殻はまた女性、繁栄、生誕、富などの象徴とされ、装身具やお守りとして身に着けられる。こうしたタカラガイに対するシンボリズムは、貝殻の形状が妊婦の腹のようであることや、下面から見ると女性器や目を連想させることに由来している」(Wikipedia)
ひとまず、夜泣き貝は西日本を中心とした民俗と思われますが、
ただ、参照したのが「日本貝類方言集」と「貝 I・II」だけで、しかもこの2冊は、夜泣き貝の引用元になっている文献が限定的で、かつ貝類の雑誌、研究誌が主のようです。
民俗関係の文献をもっと広く渉猟すれば、もうすこし分布の範囲は変わってくるかもしれません。
ナガニシ系とキセルガイ系は細長の形が類似していますが、ウミウサギ系はそれらとは違いがあります。
ただ、いずれも二枚貝でないということには注目してもいいのかもしれません。
__ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __ _ __
夜泣き貝の“貝”をカイと読んで、強引に“夜泣きかい?”というタイトルにしましたが、綜合日本民俗語彙に“ヨナキカイ”も載っています。
ヨナキカイ
長崎県北松浦郡の小値賀島では、夜泣きをする子があると「夜泣きを買おう」といって、銭を障子の穴から外へ投げる。
貝は大昔、貨幣として用いられていたわけですが、、、
多分関係ないですね ^_^
(つづく)
ヨナキ(ナガニシ)
千葉県富津市竹岡海岸では、この貝をヨナキ、ヨナギといっているが、これは「夜泣き」の意味で、赤ん坊がひきつけを起こしたとき、まくら元に置くと直るという言い伝えがある。
ヨナキガイ(キセルガイ)
熊本市平田町に日吉神社があり、このムクノキやイチョウにつく灰白色のキセルガイがいて、夜泣きする子供の枕の下に1個借りてきて入れ、夜泣きがなおったら神様にお返しするのだという。だからこの貝は夜泣き貝とよばれる。
ヨナキビナ
宮崎県東臼杵郡西郷村で。夜泣きする子供にはヨナキビナ(大木の根元にいる細長い巻貝)を呑ませるとよい、という。
ユーナッケー、ユーナケシビ(ウミウサギ)
魔除けとして産室の外にこの貝をかけておくと、風が当たって音がするからだと言い、又は子供の夜泣きを癒すまじないになるからだという。(八重山)
沖縄県八重山郡で、はヨナキガイに唱え言をして子供の耳につりさげ、子守唄をうたって聞かせると泣きやむという。
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熊本の、神社の境内に棲息するキセルガイというのは特徴的で、同県内の下益城郡城南町、人吉市南泉田町、などても同じ習俗があるように書いてあります。
枕の下に入れる数は、2個というもの、5、6個というものもあります。
ウミウサギの近縁で形も似ている、タカラガイ(子安貝)は南太平洋の広い範囲で、産育の呪符とされていますから、八重山、与論島の夜泣き貝と関連があるのかもしれません。
喜界島、八重山ではタカラガイをユナスビ、ユーナケーと呼ぶこともあるようです。
「タカラガイの貝殻はまた女性、繁栄、生誕、富などの象徴とされ、装身具やお守りとして身に着けられる。こうしたタカラガイに対するシンボリズムは、貝殻の形状が妊婦の腹のようであることや、下面から見ると女性器や目を連想させることに由来している」(Wikipedia)
ひとまず、夜泣き貝は西日本を中心とした民俗と思われますが、
ただ、参照したのが「日本貝類方言集」と「貝 I・II」だけで、しかもこの2冊は、夜泣き貝の引用元になっている文献が限定的で、かつ貝類の雑誌、研究誌が主のようです。
民俗関係の文献をもっと広く渉猟すれば、もうすこし分布の範囲は変わってくるかもしれません。
ナガニシ系とキセルガイ系は細長の形が類似していますが、ウミウサギ系はそれらとは違いがあります。
ただ、いずれも二枚貝でないということには注目してもいいのかもしれません。
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夜泣き貝の“貝”をカイと読んで、強引に“夜泣きかい?”というタイトルにしましたが、綜合日本民俗語彙に“ヨナキカイ”も載っています。
ヨナキカイ
長崎県北松浦郡の小値賀島では、夜泣きをする子があると「夜泣きを買おう」といって、銭を障子の穴から外へ投げる。
貝は大昔、貨幣として用いられていたわけですが、、、
多分関係ないですね ^_^
(つづく)
2009年09月13日
夜泣きかい?
以前、“夜啼螺(よなきほら)”を取り上げましたが
https://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=8575438
ナガニシのことを夜泣き貝という呼び方もするようで、また、陸棲巻貝の一種(キセルガイ)を夜泣き貝と称することもあるようです。
キセルガイ↓
http://www.bekkoame.ne.jp/~w.naoko/naoko_089.htm
綜合日本民俗語彙(平凡社)の、ヨナキガイの項には
夜啼貝。熊本県飽託郡で、森の木につく貝という。小児の夜泣きするとき、これを枕許におくと治るといい、また元の木にかえす。岡山県で長螺(ながにし)を夜泣貝という。子供が夜泣きをすると、これを子供の寝ている上に吊っておけばよいという。或は母親がこの貝を食えばよいとも。(岡山県産育民俗)。
とあります。
『貝 II』(法政大学出版局 白井祥平)によると、与論島などでは、ウミウサギを夜泣き貝と称するようで、ウミウサギの項に
与論島では、“ヨナキシビ”あるいは“ヤナキシビ”。貝の方言に詳しい広島県水産試験場の荒川好満博士によれば、“夜泣き”の意味で、その由来は、夜泣きするこどもの枕元にこの貝を置くと、効果(泣き止む)があるからだとする。
ところが、野必大(やひつだい)の『本朝食鑑』(1697)に記される“夜泣貝”はこの貝ではなくナガニシである。この貝をこどもの枕元に置くと夜泣きしないと記す。
とあります。
日本貝類方言集(未來社)なども参照しつつまとめると、
夜泣き貝には三種あって、
ナガニシ系(海産) 千葉、広島、岡山、和歌山、香川、高知、長崎(対馬)
http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data13/r001230.html
キセルガイ系(陸産) 熊本、岡山、宮崎、広島
http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data06/siebold.html
ウミウサギ系(海産) 奄美諸島(与論島)、沖縄、八重山諸島
http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data20/r001992.html
名前の由来は、ほとんどが子供の夜泣き封じに依るようですが、中には、夜、貝が鳴く、火の中に入れるとキューと鳴く、卵(海ホウズキ)を産む時に鳴く、夜に卵を産み、それ(海ホウズキ)を鳴らすと何か鳴くように聞こえる、この貝を採って来ると子供がよく泣く、とするものもあります。
沖縄、八重山などでは、ユーナッケー、ユーナケスビ、ユーナッケーシビ、ユーナッケという言い方になるようですが、ユーナッケは夜泣きのこと、スビ、シビは、貝を謂う“つぶ(螺)”のことだそうです。(『貝 I』(法政大学出版))
(つづく)
https://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=8575438
ナガニシのことを夜泣き貝という呼び方もするようで、また、陸棲巻貝の一種(キセルガイ)を夜泣き貝と称することもあるようです。
キセルガイ↓
http://www.bekkoame.ne.jp/~w.naoko/naoko_089.htm
綜合日本民俗語彙(平凡社)の、ヨナキガイの項には
夜啼貝。熊本県飽託郡で、森の木につく貝という。小児の夜泣きするとき、これを枕許におくと治るといい、また元の木にかえす。岡山県で長螺(ながにし)を夜泣貝という。子供が夜泣きをすると、これを子供の寝ている上に吊っておけばよいという。或は母親がこの貝を食えばよいとも。(岡山県産育民俗)。
とあります。
『貝 II』(法政大学出版局 白井祥平)によると、与論島などでは、ウミウサギを夜泣き貝と称するようで、ウミウサギの項に
与論島では、“ヨナキシビ”あるいは“ヤナキシビ”。貝の方言に詳しい広島県水産試験場の荒川好満博士によれば、“夜泣き”の意味で、その由来は、夜泣きするこどもの枕元にこの貝を置くと、効果(泣き止む)があるからだとする。
ところが、野必大(やひつだい)の『本朝食鑑』(1697)に記される“夜泣貝”はこの貝ではなくナガニシである。この貝をこどもの枕元に置くと夜泣きしないと記す。
とあります。
日本貝類方言集(未來社)なども参照しつつまとめると、
夜泣き貝には三種あって、
ナガニシ系(海産) 千葉、広島、岡山、和歌山、香川、高知、長崎(対馬)
http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data13/r001230.html
キセルガイ系(陸産) 熊本、岡山、宮崎、広島
http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data06/siebold.html
ウミウサギ系(海産) 奄美諸島(与論島)、沖縄、八重山諸島
http://shell.kwansei.ac.jp/~shell/pic_book/data20/r001992.html
名前の由来は、ほとんどが子供の夜泣き封じに依るようですが、中には、夜、貝が鳴く、火の中に入れるとキューと鳴く、卵(海ホウズキ)を産む時に鳴く、夜に卵を産み、それ(海ホウズキ)を鳴らすと何か鳴くように聞こえる、この貝を採って来ると子供がよく泣く、とするものもあります。
沖縄、八重山などでは、ユーナッケー、ユーナケスビ、ユーナッケーシビ、ユーナッケという言い方になるようですが、ユーナッケは夜泣きのこと、スビ、シビは、貝を謂う“つぶ(螺)”のことだそうです。(『貝 I』(法政大学出版))
(つづく)
2009年07月17日
夜泣き? ほら、、、
以前、『啼き貝』といういい加減な記事を書きましたが、先日、夜啼螺(よなきほら)というのを見つけました。
『日本大歳時記』(講談社 1983)
の“長辛螺(ながにし)”という項を書き写してみます。夏の季語です。
ーーーーーー ー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長辛螺(ながにし)|さかさほおずき・甲香(へなたり)・香螺(こうら)
女の子がおもちゃなどにして遊ぶ。形はほら貝に似ている巻貝のことである六、七月頃が産卵期で、漁期も同じこの時期。考証によると、この貝には
「夜啼螺(よなきほら)」あるいは「辺奈多礼(へなたれ)」という呼び名があるという。すなわち、夜啼きの癖を持つ子供の枕辺にこの貝を置いて、子供の夜啼きを治さなければ肉を抜き、治せば海へ放してやると言うと、必ず夜啼きが治癒するという言い伝えから出た名前であろう。(中略)その卵嚢(らんのう)は海酸漿(うみほおずき)になり、また貝は粉末にして麝香(じゃこう)などと混ぜて香に用いる。 [広瀬直人]
ーーーーーー ー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ナガニシ(長辛螺)
http://www.zukan-bouz.com/makigai/sinfukusoku/itomakibora/naganisi.html
『日本大歳時記』(講談社 1983)
の“長辛螺(ながにし)”という項を書き写してみます。夏の季語です。
ーーーーーー ー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長辛螺(ながにし)|さかさほおずき・甲香(へなたり)・香螺(こうら)
女の子がおもちゃなどにして遊ぶ。形はほら貝に似ている巻貝のことである六、七月頃が産卵期で、漁期も同じこの時期。考証によると、この貝には
「夜啼螺(よなきほら)」あるいは「辺奈多礼(へなたれ)」という呼び名があるという。すなわち、夜啼きの癖を持つ子供の枕辺にこの貝を置いて、子供の夜啼きを治さなければ肉を抜き、治せば海へ放してやると言うと、必ず夜啼きが治癒するという言い伝えから出た名前であろう。(中略)その卵嚢(らんのう)は海酸漿(うみほおずき)になり、また貝は粉末にして麝香(じゃこう)などと混ぜて香に用いる。 [広瀬直人]
ーーーーーー ー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ナガニシ(長辛螺)
http://www.zukan-bouz.com/makigai/sinfukusoku/itomakibora/naganisi.html

