2012年05月05日
対話を求めて14
家事や「ケア」は労働なのか?上野千鶴子さんが昨年8月『ケアの社会学』という本を出し、立岩さんが12月に『家族性分業論前哨』という本を出しました。ケアとつながる家事労働論をめぐって交差しているのですが、ふたりとも家事労働というところで議論を進めています。どうもわたしは「労働とは何か」というもっと根本的な議論が必要ではないかと思っています。
上野さんはマルクス主義フェミニズムの流れの不払い労働というところから家事やケアとらえています。上野さんの本には他者の労働概念をひいていますが、自分が労働をどう定義するのかが出てきません。
さて、語学が苦手なわたしが、逆にそこを逆手にとって、労働という語について、それに相当する英語の問題から考えます。苦手なことなので、批判を仰ぎながら、そこで論が進む可能性もなきにしもあらず、という観点での提起です。
一般に「家事労働」という場合、どうもその「労働」の英語はワークのようなのです。で、もうひとつ、労働に相当するラバーという語があります。で、日本語のニュアンスとして労働というのは、ラバーがフィットするのです。わたしは、日本語の一般的ニュアンスとして包含関係として、活動⊃仕事⊃労働と成っているのではと思います。
さて、わたしは今村仁司さんを援用して仕事という語を、仕事⊃労働とおかず、別概念で使っているのですが、まず最初に、一般的用法に習います。活動というときは趣味や個人的営為という事も含みます。仕事というとき、そこには他者との関係を含んできます。わたしは仕事という場合、今村さんの仕事概念を援用して「みんなのためにする活動」というとらえ返しをしています。一方労働は、労働の生物学の規定に通じることで、「他者のためにする活動」というまとめ方ができます。
わたしは労働をマルクス的な概念として賃金が払われる(搾取という概念と結びついている)活動、それからもう一つ考えられるのは、強いられておこなう労苦としての活動(端的な例は奴隷労働)、と規定します(ちなみに、マルクスは資本主義社会の労働を賃金奴隷制と規定しています。働かなきゃ食べられないというところで、強いられることとしてあるのです)。
ですから家事労働=不払い労働という概念はどうみてもアンチノミー(二律背反)、二つの相容れない概念を結びつけた、存在矛盾になる概念なのです。確かに、不払い労働というのは別様でありえます。それは、サービス残業などの不当労働行為、資本主義社会においてもある奴隷的な労働を指すことばとして、です。繰り返しますが、語学の苦手なわたしの定義です。そんなの語の定義もなしえない戯言だと批判される方には、是非、労働という言葉の定義から始めた提起をお願いしたいと思います。
ちなみに、立岩さんの論はどうも労働労苦論になっているようなのですが、労苦ではない労働があるし、仕事とか、活動とか拡げると労苦論は成立しなくなります。
立岩さん上野さんの2人に共通するのは、現在社会の枠組みの中で論を展開するので、労働労苦論(厳密に言うと生産活動=労苦論なのですが)の枠組みから脱し得なくなります。
そもそも家事がなぜシャドーワークになっているのかの問題があります。それは労働の場が公的な場になっていて、それとは別に私的な場として家族が設定されるのです。それは私的なことを公的なことから区別しないと私有財産制度がなりたたなくなるからではないかと思います。ですから、突き詰めていくと、家事をシャドーワークにしないためには私有財産制度自体を止揚する必要があるのではないかと考えています。
ですから、立岩さんのように市場経済を前提した論では、家事がおとしめられることから抜け出せないのです。そもそも家事に関わる労働が安くされるのは再生産の費用を安くして賃金を安く抑えるという資本の論理から来ていることです。だから性差別の中で、家事を担う女性の賃金も安く抑えられるし、逆にその安い賃金の女性の仕事として、家事やケアに関する仕事が安くなるという相乗作用をもたらすのです。
さて、もうひとこと書き置きます。家事労働という概念です。家事労働というときは、家事使用人の労働や外部化された家事労働をさすことになります。「専業主婦」といわれるひとたちの活動は労働ではなくて、「家事の仕事」や「家事活動」なのです。
そもそも家事といわれる活動の内容は、どういうひとが担うかで性格が違ってきます。
たとえば、家族の中でひとつの共同生活をおくる中で、共同性というところで分担して担う仕事の家事は労働ではありません。役割分担が労働と家事の分業という形になったときに、専業主婦ということが生まれるのですが、「外」で担われる労働に比して家事も労働として扱おうという発想なのです。しかし、そもそもすでに多くの家族において共働きの情況になってきている時、問題ははっきりしてきます。家事の分担の「性による非対称性」というジェンダー(性役割分業)の問題なのです。
だから家事労働という概念は、「家政婦」と呼ばれるひとの労働や、家事の外部化という中でクリーニングとかで入ってくる労働、そして家事を私事とした上で、外からその家事の援助を得る、購入する労働を指すことになります。そして、ケアといわれることで、公的な制度が作られる中で、外から入って伝統的に家事としてあった、ケアを担う仕事にも家事労働という概念が適用されるようになります。それはまさに労働なのですが、賃金が払われないことは労働と規定できないことで、専業主婦のおこなう活動は労働ではありません。さきほど書いたように、そもそも専業主婦ということ自体が減少していっています。いま、パートやアルバイトなどに出て行くという構図が広がっていて、就労していない女性は減っています。「上流家庭」において専業主婦ということがあるのかも知れないのですが、こういう場合は「家事使用人」を雇い、家事もどきのことをするとしたら、趣味ですることになっていきます。立岩さんの本にも出て来る概念で「疑似家事」ともいえることです。ですから、不払い労働としての家事、その意味での家事労働という概念自体がそもそも成立しないのではないかと思っています。これは現代において、「中流家庭」の専業主婦ということが減少して、成立しなくなったというよりも、そもそも専業主婦の担う家事労働などということ自体が成立しないということなのだと考えています。
さて、大雑把にそのような規定をしています。もう少し詰めた議論をしてみます。不払いでも労働としてとらえられる問題を考えてみます。先に、不当労働行為としての不払いという問題を指摘しました。それ以外にも、自家消費用の生産をどうとらえるのかの問題があります。商品生産活動をした内で、自家用消費として売らない場合、そのものを作るのに要した活動は労働なのかという問題なのです。これは、そもそも商品生産活動が起きてくる場合の、逆パターンなのですが、わたしは商品にしない場合は、それは労働ではないと規定します。そもそも現在使われている意味での労働という概念がいつ、どのように出てきたのかということを押さえる事が必要です。
そもそも自給自足を基調にする社会を想定すればいいのですが、そこでは労働と家事と「個人的」営為ということが分けられるのかどうかの問題があるのではと思えます。もっとも生きるのにやっとという社会においては、ケとハレというところでケの活動の労働労苦的なことがあるのかもしれませんが。
家事の問題に話を戻します。家事を労働としてとらえることが起きてくるのは、労働=他者のためにする活動とおいたときに、家族は他者なのかどうかという問題ではないかと考えられます。子どもの養育ということでは子どもをまったくの他者とは規定できなくなります。家事労働というときに特に問題になっている多いケースとしては主婦の夫に対する活動が問題になっていて、夫が妻にお金を払うべきかとどうかいうような話として、です。そこで問題になっているのは家族観ではないかと思えます。そこになんらかの共同性があるとしたら、家事労働=他者のためにする活動という純粋な図式はなりたたなくなります。そもそも生きる営為における役割分担の問題で、それが非対称的に固定化され、分業になるというところでの問題です。役割分掌ということと、それが固定化された分業ということは区別する必要があります。性差別で土台的に問題になっているのは分業と性的な非対称性の問題なのです。
さて、立岩さんの論理は倫理なのですが、経済の問題を倫理にすり替えているのではないかという思いをずーっと抱き続けています。倫理の問題は結局パターナリズムに収束してしまいます。このあたりは、マルクス/エンゲルスが空想的社会主義批判とその背景にある唯物史観から検証すべきことです。尤も、この唯物史観がタダモノ論として曲解された「マルクス主義」としてひろまってしまっているという現実があります。そのあたりをちゃんと整理し、論的深化を成し遂げていく必要があります。立岩さんとの対話では、立岩さんが至りついている「ベーシックインカム」をめぐる議論として対話をしていくことを考えています。どうも、市場経済を否定できない立岩さんは、資本主義社会でもベーシックインカムは可能だと考えているようなのですが、マルクスを「復権」させようとしている廣松さんは資本家と労働者の労働力市場での非対称性を問題にしています。すなわち、資本家は資本を眠らせておくことはできるけど、労働者は働かねばならないという非対称性において、賃金奴隷制とマルクスが呼んだ事態が生じているのだと。で、ベーシックインカムをきちんと定義し、それを実行するとなると、その非対称性を崩壊してしまうことになるのです。資本主義社会とベーシックインカムはアンチノミーに陥るのです。ベーシックインカムの議論をしているネグリ/ハートの『<帝国>』におけるベーシックインカム論はまさに構造改革論―革命論としてのベーシックインカム論なのです。
尤も立岩さんも「働く者が働き、必要な者がとる」という、マルクスが『ゴーター綱領批判』で展開したよりも、もっと踏み込んだコミュニズム論と言う内容になっている事を展開しています。確かに、倫理の問題としては生殖医療・バイオテクノロジーとしては必要になってくるのですが、わたしが唯物史観として定式化している「ひとは、資本主義社会というゲゼルシャフトの世界では、総体的相対的には、倫理では動かない、利害をめぐって動く」となるのではと思います。問題は、今原発問題で端的に現れているように、その利害がとらえられにくくなっているという問題があるのです。誰が考えても、あんな受けいれがたいものが、目の前に札束積まれ、「今、ここで」の刹那的利害になったときにどうなるのかと言う問題なのです。
ですから、資本主義的市場経済的利害を批判していかないかぎり、倫理の問題として立てている中では、そもそも幾重ものアンチノミーが生じる中でアポリアにおちいっていくのではないか思っています。立岩さんが実際に何か方針の様なことを出しているとき、出そうとしているとき、公に宣言している市場経済の枠内で論を展開するとしていることをすでに踏み外しているのではないでしょうか? 立岩さん自身も気づいているのかもしれませんが。
さて、上野さんのケア論についても対話してみます。上野さんは現在の評価できるケアというのは、協業としてのケアであるとしているのですが、そのケアは犠牲的なボランティア精神によって成り立っているとしています。で、その危うさをとらえたところで、ケア労働のちゃんとした評価ということで、ちゃんと労働として評価させるという方向性を示しています。いわゆる不払い的なことをなくした労働としての確立ということなのです。ですが、そもそも資本主義的利潤追求の中でのケアも批判もしているのですから、明らかに矛盾を来しているのです。わたしはむしろケアの労働としての確立というところではなくて、すべての労働の廃棄、労働の仕事化という方針として出していく必要があるのではと思っています。
もちろん、そういう大きな方向性を出したところで、「今、ここで」どうするのかという問題も出て来るのですが、むしろ大局として、世の中変わらないから、「今、ここで」どうするかという議論に収束してしまっているわけで、そのことを突破していく理論的な整理がいまこそ必要になっていると思っています。わたしもその作業のほんの端の端を担って行きたいと思っています。
上野さんはマルクス主義フェミニズムの流れの不払い労働というところから家事やケアとらえています。上野さんの本には他者の労働概念をひいていますが、自分が労働をどう定義するのかが出てきません。
さて、語学が苦手なわたしが、逆にそこを逆手にとって、労働という語について、それに相当する英語の問題から考えます。苦手なことなので、批判を仰ぎながら、そこで論が進む可能性もなきにしもあらず、という観点での提起です。
一般に「家事労働」という場合、どうもその「労働」の英語はワークのようなのです。で、もうひとつ、労働に相当するラバーという語があります。で、日本語のニュアンスとして労働というのは、ラバーがフィットするのです。わたしは、日本語の一般的ニュアンスとして包含関係として、活動⊃仕事⊃労働と成っているのではと思います。
さて、わたしは今村仁司さんを援用して仕事という語を、仕事⊃労働とおかず、別概念で使っているのですが、まず最初に、一般的用法に習います。活動というときは趣味や個人的営為という事も含みます。仕事というとき、そこには他者との関係を含んできます。わたしは仕事という場合、今村さんの仕事概念を援用して「みんなのためにする活動」というとらえ返しをしています。一方労働は、労働の生物学の規定に通じることで、「他者のためにする活動」というまとめ方ができます。
わたしは労働をマルクス的な概念として賃金が払われる(搾取という概念と結びついている)活動、それからもう一つ考えられるのは、強いられておこなう労苦としての活動(端的な例は奴隷労働)、と規定します(ちなみに、マルクスは資本主義社会の労働を賃金奴隷制と規定しています。働かなきゃ食べられないというところで、強いられることとしてあるのです)。
ですから家事労働=不払い労働という概念はどうみてもアンチノミー(二律背反)、二つの相容れない概念を結びつけた、存在矛盾になる概念なのです。確かに、不払い労働というのは別様でありえます。それは、サービス残業などの不当労働行為、資本主義社会においてもある奴隷的な労働を指すことばとして、です。繰り返しますが、語学の苦手なわたしの定義です。そんなの語の定義もなしえない戯言だと批判される方には、是非、労働という言葉の定義から始めた提起をお願いしたいと思います。
ちなみに、立岩さんの論はどうも労働労苦論になっているようなのですが、労苦ではない労働があるし、仕事とか、活動とか拡げると労苦論は成立しなくなります。
立岩さん上野さんの2人に共通するのは、現在社会の枠組みの中で論を展開するので、労働労苦論(厳密に言うと生産活動=労苦論なのですが)の枠組みから脱し得なくなります。
そもそも家事がなぜシャドーワークになっているのかの問題があります。それは労働の場が公的な場になっていて、それとは別に私的な場として家族が設定されるのです。それは私的なことを公的なことから区別しないと私有財産制度がなりたたなくなるからではないかと思います。ですから、突き詰めていくと、家事をシャドーワークにしないためには私有財産制度自体を止揚する必要があるのではないかと考えています。
ですから、立岩さんのように市場経済を前提した論では、家事がおとしめられることから抜け出せないのです。そもそも家事に関わる労働が安くされるのは再生産の費用を安くして賃金を安く抑えるという資本の論理から来ていることです。だから性差別の中で、家事を担う女性の賃金も安く抑えられるし、逆にその安い賃金の女性の仕事として、家事やケアに関する仕事が安くなるという相乗作用をもたらすのです。
さて、もうひとこと書き置きます。家事労働という概念です。家事労働というときは、家事使用人の労働や外部化された家事労働をさすことになります。「専業主婦」といわれるひとたちの活動は労働ではなくて、「家事の仕事」や「家事活動」なのです。
そもそも家事といわれる活動の内容は、どういうひとが担うかで性格が違ってきます。
たとえば、家族の中でひとつの共同生活をおくる中で、共同性というところで分担して担う仕事の家事は労働ではありません。役割分担が労働と家事の分業という形になったときに、専業主婦ということが生まれるのですが、「外」で担われる労働に比して家事も労働として扱おうという発想なのです。しかし、そもそもすでに多くの家族において共働きの情況になってきている時、問題ははっきりしてきます。家事の分担の「性による非対称性」というジェンダー(性役割分業)の問題なのです。
だから家事労働という概念は、「家政婦」と呼ばれるひとの労働や、家事の外部化という中でクリーニングとかで入ってくる労働、そして家事を私事とした上で、外からその家事の援助を得る、購入する労働を指すことになります。そして、ケアといわれることで、公的な制度が作られる中で、外から入って伝統的に家事としてあった、ケアを担う仕事にも家事労働という概念が適用されるようになります。それはまさに労働なのですが、賃金が払われないことは労働と規定できないことで、専業主婦のおこなう活動は労働ではありません。さきほど書いたように、そもそも専業主婦ということ自体が減少していっています。いま、パートやアルバイトなどに出て行くという構図が広がっていて、就労していない女性は減っています。「上流家庭」において専業主婦ということがあるのかも知れないのですが、こういう場合は「家事使用人」を雇い、家事もどきのことをするとしたら、趣味ですることになっていきます。立岩さんの本にも出て来る概念で「疑似家事」ともいえることです。ですから、不払い労働としての家事、その意味での家事労働という概念自体がそもそも成立しないのではないかと思っています。これは現代において、「中流家庭」の専業主婦ということが減少して、成立しなくなったというよりも、そもそも専業主婦の担う家事労働などということ自体が成立しないということなのだと考えています。
さて、大雑把にそのような規定をしています。もう少し詰めた議論をしてみます。不払いでも労働としてとらえられる問題を考えてみます。先に、不当労働行為としての不払いという問題を指摘しました。それ以外にも、自家消費用の生産をどうとらえるのかの問題があります。商品生産活動をした内で、自家用消費として売らない場合、そのものを作るのに要した活動は労働なのかという問題なのです。これは、そもそも商品生産活動が起きてくる場合の、逆パターンなのですが、わたしは商品にしない場合は、それは労働ではないと規定します。そもそも現在使われている意味での労働という概念がいつ、どのように出てきたのかということを押さえる事が必要です。
そもそも自給自足を基調にする社会を想定すればいいのですが、そこでは労働と家事と「個人的」営為ということが分けられるのかどうかの問題があるのではと思えます。もっとも生きるのにやっとという社会においては、ケとハレというところでケの活動の労働労苦的なことがあるのかもしれませんが。
家事の問題に話を戻します。家事を労働としてとらえることが起きてくるのは、労働=他者のためにする活動とおいたときに、家族は他者なのかどうかという問題ではないかと考えられます。子どもの養育ということでは子どもをまったくの他者とは規定できなくなります。家事労働というときに特に問題になっている多いケースとしては主婦の夫に対する活動が問題になっていて、夫が妻にお金を払うべきかとどうかいうような話として、です。そこで問題になっているのは家族観ではないかと思えます。そこになんらかの共同性があるとしたら、家事労働=他者のためにする活動という純粋な図式はなりたたなくなります。そもそも生きる営為における役割分担の問題で、それが非対称的に固定化され、分業になるというところでの問題です。役割分掌ということと、それが固定化された分業ということは区別する必要があります。性差別で土台的に問題になっているのは分業と性的な非対称性の問題なのです。
さて、立岩さんの論理は倫理なのですが、経済の問題を倫理にすり替えているのではないかという思いをずーっと抱き続けています。倫理の問題は結局パターナリズムに収束してしまいます。このあたりは、マルクス/エンゲルスが空想的社会主義批判とその背景にある唯物史観から検証すべきことです。尤も、この唯物史観がタダモノ論として曲解された「マルクス主義」としてひろまってしまっているという現実があります。そのあたりをちゃんと整理し、論的深化を成し遂げていく必要があります。立岩さんとの対話では、立岩さんが至りついている「ベーシックインカム」をめぐる議論として対話をしていくことを考えています。どうも、市場経済を否定できない立岩さんは、資本主義社会でもベーシックインカムは可能だと考えているようなのですが、マルクスを「復権」させようとしている廣松さんは資本家と労働者の労働力市場での非対称性を問題にしています。すなわち、資本家は資本を眠らせておくことはできるけど、労働者は働かねばならないという非対称性において、賃金奴隷制とマルクスが呼んだ事態が生じているのだと。で、ベーシックインカムをきちんと定義し、それを実行するとなると、その非対称性を崩壊してしまうことになるのです。資本主義社会とベーシックインカムはアンチノミーに陥るのです。ベーシックインカムの議論をしているネグリ/ハートの『<帝国>』におけるベーシックインカム論はまさに構造改革論―革命論としてのベーシックインカム論なのです。
尤も立岩さんも「働く者が働き、必要な者がとる」という、マルクスが『ゴーター綱領批判』で展開したよりも、もっと踏み込んだコミュニズム論と言う内容になっている事を展開しています。確かに、倫理の問題としては生殖医療・バイオテクノロジーとしては必要になってくるのですが、わたしが唯物史観として定式化している「ひとは、資本主義社会というゲゼルシャフトの世界では、総体的相対的には、倫理では動かない、利害をめぐって動く」となるのではと思います。問題は、今原発問題で端的に現れているように、その利害がとらえられにくくなっているという問題があるのです。誰が考えても、あんな受けいれがたいものが、目の前に札束積まれ、「今、ここで」の刹那的利害になったときにどうなるのかと言う問題なのです。
ですから、資本主義的市場経済的利害を批判していかないかぎり、倫理の問題として立てている中では、そもそも幾重ものアンチノミーが生じる中でアポリアにおちいっていくのではないか思っています。立岩さんが実際に何か方針の様なことを出しているとき、出そうとしているとき、公に宣言している市場経済の枠内で論を展開するとしていることをすでに踏み外しているのではないでしょうか? 立岩さん自身も気づいているのかもしれませんが。
さて、上野さんのケア論についても対話してみます。上野さんは現在の評価できるケアというのは、協業としてのケアであるとしているのですが、そのケアは犠牲的なボランティア精神によって成り立っているとしています。で、その危うさをとらえたところで、ケア労働のちゃんとした評価ということで、ちゃんと労働として評価させるという方向性を示しています。いわゆる不払い的なことをなくした労働としての確立ということなのです。ですが、そもそも資本主義的利潤追求の中でのケアも批判もしているのですから、明らかに矛盾を来しているのです。わたしはむしろケアの労働としての確立というところではなくて、すべての労働の廃棄、労働の仕事化という方針として出していく必要があるのではと思っています。
もちろん、そういう大きな方向性を出したところで、「今、ここで」どうするのかという問題も出て来るのですが、むしろ大局として、世の中変わらないから、「今、ここで」どうするかという議論に収束してしまっているわけで、そのことを突破していく理論的な整理がいまこそ必要になっていると思っています。わたしもその作業のほんの端の端を担って行きたいと思っています。
対話を求めて13
時局川柳(1)
あゝ民主党
権力を握りたいだけのポピュリズム
信念のひといつのまにか朝令暮改
マニフェストどこへ逝ったの右往左往
政治主導いつのまにか官僚支配
大臣になったとたんにえらそうに
脱ダムをひっくり返すゼネコン大臣
順番に回ってきたけどどうすりゃいいの
仙谷発言起承転結
ニッポンの集団自殺と脅迫す
人類の集団自殺再稼働
百年の展望持った転換を
原発は展望すべてをふっとばす
エダノガワリ
豹変の類語生み出すエダノガワリ
政治家の初心忘れたエダノガワリ
増長す政治不信をエダリガワリ
原発擁護の御用学者
安全といっておけば金入る
証明は危険すぎて実験できず
危ないと証明できない安全だ
核実験放射能をばらまいた
汚染むかしはもっとひどかった
今はたいしたことはありしゃない
核実験どうして禁止したのかな
放射能からだにいいならなぜ避難
食品規制をなぜするの
御用学者学と論理を捨て去った
原発は人類に対する大罪よ
御用学者罪をばらまき御用にならぬ
無責任御用学者に金はいる
あゝ民主党
権力を握りたいだけのポピュリズム
信念のひといつのまにか朝令暮改
マニフェストどこへ逝ったの右往左往
政治主導いつのまにか官僚支配
大臣になったとたんにえらそうに
脱ダムをひっくり返すゼネコン大臣
順番に回ってきたけどどうすりゃいいの
仙谷発言起承転結
ニッポンの集団自殺と脅迫す
人類の集団自殺再稼働
百年の展望持った転換を
原発は展望すべてをふっとばす
エダノガワリ
豹変の類語生み出すエダノガワリ
政治家の初心忘れたエダノガワリ
増長す政治不信をエダリガワリ
原発擁護の御用学者
安全といっておけば金入る
証明は危険すぎて実験できず
危ないと証明できない安全だ
核実験放射能をばらまいた
汚染むかしはもっとひどかった
今はたいしたことはありしゃない
核実験どうして禁止したのかな
放射能からだにいいならなぜ避難
食品規制をなぜするの
御用学者学と論理を捨て去った
原発は人類に対する大罪よ
御用学者罪をばらまき御用にならぬ
無責任御用学者に金はいる
障害72
たわしの読書メモ・・ブログ201
・小澤勲/土本亜理子『物語としての痴呆ケア』三輪書店2004
これはブログ198の『痴呆を生きるということ』の続編として位置づけられた本です。前書が基調とすれば、この書は施設の職員に対してを軸に、ケアのあり方として、書かれた本です。一部がこの本の題名と同じの「物語としての痴呆ケア」というタイトルの小澤さんの講演録。二部が「小澤痴呆ケア論の源流を訪ねて」と表題がつけられた、小澤さんがケアを施設長として実践した「桃源の郷」の実践の記録、そして他の施設で活動している小澤さんゆかりのひとたちの小澤さんへの回顧録となっています。
再び書き置きますがこの本が出た直後当たりに、「痴呆」ということばが「認知症」に替わっています。著書にあわせて、そのまま「痴呆」という言葉を使います。
すでに前に読んだ小澤さんの本の読書メモに書いていますが、「物語」というのは、小澤さんの「痴呆ケア論」に基づいています。それは、他の痴呆ケアでどうしてそんな行動をするのか、ということを理解しようとするのではなく、まるごと抱え込むとか、ただ共にあるとか、そこでの「こころの交流」のようなことを求めていく指向に対して、小澤さんにもそういう指向もあるのですが、それ以前に、分かろうとすることにこだわる、物語として読み解くなかでケアを考えて行くという基本的姿勢です。これは、小澤さんが最初関わった「自閉症」のひとたちがこころを閉ざしているという定説に、指の隙間からこちらを見ている事態をどうとらえるのかという論考や、「認知症の人たちは本人は物事が分からないからつらいということはない」ということに対して、情動的なこと分からなくなるのは後の方なので、そんなことはないというような論考にも現れています。そのようなところで、当事者として自らの経験を語って、本を出したオーストラリアのクリスティーンさんの発言や本を援用しています。この本の最初にもクリスティーンさんの事が引用されています。(クリスティーンさんの本『私は誰になっていくの?』は今読んでいるところです。次回読書メモでコメントする予定です。)
というところで、小澤さんの指向は、あくまで当人の気持に寄り添うという姿勢を貫き通しているのです。まさに臨床のひと小澤さんなのです。
いつものようにことばの抜き書きも。
「私の本が売れている、という実感はほとんどない。痴呆を病む人の、そして彼らとともに生きてこられた方々の思いが、たまたま私という道を通って、世間に届けられている。私はそれをちょっと離れたところで見ていて、「よかったなあ」と喜んでいる、というふうなのだ」齠
「在宅介護者をボロボロにしてまで、かたちだけの在宅にこだわるな。入所を悪と決めつけ、入所を求める在宅介護者を責めるようなことがあってはならない。」4P
「痴呆は病だが、病を生きる生き方は百人百様で、それが見えてこないと痴呆のケアはできない。」15P
「それらの症状や行動の成り立ちを考え、その大本にケアを届かせるのではなく対処療法的ケアに終始するのでは、さきほどの医者(症状ごとに薬を出す医者・・・引用者)をやぶ医者と笑えませんよ。」19P
「 物語として痴呆ケア」というのは、「外側からの分かり方」ではなく「痴呆を病む人の体験をもとにした分かり方をしよう」ということ、そして、この時点で抱えた課題|塋鬚鯢造狄佑凌誉犬鮹里辰董彼らの症状や行動を彼ららしい表現として理解する―ストーリーを読む―縦断的物語、痴呆を病む人の不自由を知って彼らに届けるべきケアに具体的なかたちを与える―横断的に、今(、ここで)という時点で解析され、理解されるべき課題 24P
キッドウッドの公式25P・・×ということに留意
D(痴呆を生きる姿)=P(性格)×B(生活史)×H(身体条件)×
NI(脳損傷)×SP(社会意識)
「その人の抱えている不自由を知り、生きてきた軌跡や現在の状況をその方の人柄と併せて知ると、症状や「異常行動」としか見えていなかったものが、その人らしい表現と見えてきて、「なんか、**さんらしいなあ」とつい苦笑いして、そこでほんの少しやさしくなれるのです。/でも、人の心、暮らしを知ろうとする作業は常に相手を傷つける危険性をはらんでいることもまた忘れてはならないでしょうね。ですから、無理のない自然な日常のおしゃべりのなかで時間をかけて少しずつ彼らの人生を再構成するのが本来でしょう。」27P
「周辺症状の方は、中核症状を抱えて、暮らしの中で困り果て、右往左往しているうちに辿り着いた終着駅で、こちらは医学的説明によるのではなく、理解すべき対象です。」30P
「中核症状には脳の障害によって生じる器質性症状だけでなく、廃用性症状が含まれています。ケアが届かない、といったのは前者で、後者にはケアは届き、ケアで治せるのです。」33P
「「ケアで中核症状は治らない」という断言の間違いは、それだけではないのです。いったいケアを「治る」「治らない」で考えてよいのか、そのような考え方は偏った医学的発想ではないのか、ということです。/ケアは、治療が「治らない」と切り捨てたところから始まる、と言うことさえできます。」34P
「周辺症状に対するケアは痴呆を病む人の心に寄り添うケア」35P
「目の前の事象を物語として読み解き、固有名詞としての「**さん」を回復したいのです。言い換えれば。私は心というかたちのない対象を、それ自体として直接的に捉えようとしてきたのではなく、一人ひとりの人生に投影されたものとして、また生活世界における人と人との関係のなかに見ようとしてきました。/さらに、老いゆく人たちにとって身体という問題が抜き差しならない事態として迫っていることにも気づかされてきました。つまり、心は心としてひとり浮遊しているというより、身体、生活世界に深く根づいている問題として私には見えているのです。/そのこともあって、わたしは講演などで、痴呆を病む人の心・身体・生活世界を隔てる壁が低いことを繰り返しお話してきました。」39P
「身体の表情を読む」42P
「「ぽけてしまえば、当の本人は何も分からなくなるのだから幸せといえば幸せだよね。周りは困り果てるのだけれど」なんてとんでもない。」41P
痴呆を生きる心に共通する感情、喜怒哀楽だが、特に不安と寂しさ―喪失感43P
「知的補助具の提供」53P・・・「障害者運動」での、「頭を借りる」
「私が「自覚ができない」と言う時、それはあくまで認知の問題としてお話しているのです。情動の問題ではないのです。その都度は認知できなくても、人と人のつながりから生まれる情動の世界では「自覚できている」ような言葉や反応が返ってくるのはなんの不思議もありません。」79P
「もし、ポールさん(クリスティーンさん(・・・次回読書メモの著者)のパートナー・・・引用者)のようなすばらしいケア・パートナーと共に暮らし、その他の条件にも恵まれると、知的「私」の壊れも小さくてすむ、あるいは修復されるのではないか、という仮説です。魅力的仮説でしょう? でも、もしそうなら、今までの痴呆論は根底から考え直されねばなりません。そして、これまでの痴呆ケアのあり方も、です。是非、これからの実践のなかで 検証してみてください。」82P・・・「障害の否定性」はありつつもまさに関係論
「あまり大きなギャップはたしかに生きづらさを生み、周辺症状を生んで、本人にとっても大変です。ですから、そこにケアを届けて、ギャップを小さくする必要があります。ただ、ギャップはないといけないのです。ギャップは守り育てるものでもあるのです。」105P
「『痴呆を生きるということ』を読んでいただいた方から、この本は痴呆について書かれているが、老いるということ、死を迎えるということを巡っての思索ですね、と言われてうれしかったですね。」113P・・・講演の場での「小澤さんの哲学は?」の質問・・・「私には哲学なんかありません。」と応える・・・しかし、関係論的とらえ方という哲学
「目の前の痴呆をやむ人の、そして彼らとともに生きておられるご家族の暮らしが少しでもスムーズに進むように、彼らが不安や混乱から少しでも抜け出せて、生き生きと暮らせるようにくふうしましょうよ。そこからスタートするしかないんじゃないかしら?」114P
「私があまり情動的「私」という言い方をしないのは、理由があります。/認知する「私」はどこまで行っても自分が認知してる、という感覚から抜け出ることはないでしょう。ところが情動をもつ私は確かに私なのでしょうが、ともに喜び合い、いっしょに悲しんでいるうちに、それらは人と人とのつながりのなかに、あるいは自然のなかにとけ込んでゆき、 私たちの喜び、悲しみになって、あるところからは「私の情動」という感覚を超えるのではないでしょうか。」115P「情動の世界は自分の情動世界という感覚よりむしろ人と人とのつながりのなかにあるいは自然のなかにとけ込んでゆくものではないか、ということを 言いたいのです。」116P・・・認知の世界でもどこまで自分のだけといえることがあるのでしょうか?
マニュアルやプログラムは必要だけど、ズレを感じてその都度フィードバックをかける必要。
マニュアル化には「固有名詞をもった、丸ごとの**さん」を見失う危険性があります。119P
昔は高齢発症のアルツハイマー型痴呆は、むしろ正常の加齢がなんらかの原因で早まったものと考えられていた、今は、正常老化との間にギャップがあるととらえられている。127P
痴呆の予防・・・一次予防―痴呆の発病自体の予防、二次予防―急激な痴呆の進行の予防、三次予防―痴呆が深まっても、その時どきに痴呆の人が生き生きとくらす術―悲惨な最期とアイドルのような暮らし、それを分けるのはケアの違い(&それまでの当人の生・・引用者)
「制度は使うもので、使われてはならない」198P
「一言でいえば、分かるところも、分からないところも、『丸ごと』どう引き受けていくか、の工夫です。」234P
「「痴呆のお年寄りを丸ごと受け入れる雰囲気」が満ちた空間は一種独特であり、痴呆のない人にとっては時には受け入れがたい印象をもたれることもあるという、ここは現実社会とは違う、しかしまったくの空想でもない、現実と空想の間にある「もう一つの世界」だとも感じる。」252P・・・「今、ここで」を超えた「もう一つの世界」が普遍化しえる可能性・・・運動的課題
幻覚・・・「知覚の異常」、妄想・作話・・・「思考の異常」、妄想はわかりにくく作話はわかりやすい
「矛盾は解決しようと思うな、矛盾は拡げろ」295P
いくつかのコメントを挟んでおきます。施設というと、「新しい障害者運動」は、「コロニー解体」が大きなテーマになっていたのですが、もう一方で家族から離れての自立生活運動ということとして始まったのです。高齢者の場合は、欧米では家族同居の割合がかなり減っているのですが、日本の場合も減ってきているとはいえ、まだかなりの割合です。で、介護保険制度ができても、その制度自体がおかしな制度で、なお家族が介助の軸となるような体制が続いています。そこで、小澤さんは「形だけで在宅にこだわるよりも・・・」というところで、老健という病院と在宅の「中間的施設」でのよいケアをめざした活動をしていたのだと思うのです。そして現在では「新しい障害者運動」でも施設ということを必ずしも否定的には見ないというような動きも出ています。わたしは「いま、ここで」という現実にどうするのかということと、そもそもどのような関係性を作っていくのかを、とりあえずわけて考える必要があるのではと思っています。そのあたりは、小澤さんが「認知症」を反転させてみせたことの危うさとつながっていることです。「いま、ここで」できることからやっていくなかで、できることのその危うさのなかで、どのような関係を作っていけば脆弱ではない関係が作れるのかを考えていくことではないかと思えます。
もう一つ気になっていることがあります。それは小澤さんは自分ががんになって、その中で「がんになってよかったなんて思ったことは一度もありませんが、がんになったおかげで、そして余命が限られたおかげで、私はこの二年間で二〇年分の生を生きたと感じているのもまた、紛れもない事実です。」と言い、「同じように、痴呆を生きる人たちに痴呆になってよかったなんて口が裂けても言いませんが、それでも彼らが痴呆という病を抱えたおかげで新しい世界が開け、今までにないほど安らかな気持ちで過ごせるようになったと感じていただける道はあるはずだと思うのです。」147Pという言い方をしています。自分で選択したことではないことが起きたことに、よいとか、わるい―よくない、とか言う問題でもないのでしょうが、そして当事者と非当事者の位相の違いかあり、非当事者が当事者に「よかった?」とか訊けることではないと思うのです。小澤さんも、「死ぬときに「幸せだった」と当事者が言えるケア」のようなことを言っています。ともかく病を必ずしも否定的にはとらえないという意味で、わたしは、当事者なら「幸せ」と言えることの延長として、「よかった」とまで言うようなこともあるのではと思ったりしていました。
最後に、小澤さんも対話のなかで言っているように「認知症」の問題は単に「認知症」だけの問題ではなく、老いや障害ということのなかに含まれていく問題だと思うのです。だから、老いと言うことが必ずしも否定的にとらえられない関係とは何かというところから、ユニバーサルなところで、すべてのひとの生の問題としてとらえ、「障害者が生きやすい・すみやすい街はみんなが生きやすい・住みやすい街」の「障害者」に「高齢者」の言葉も入れ替え得ることで、老いと言うことが否定的にとらえられない関係をどう作っていくのかの問題だと思うのです。
・小澤勲/土本亜理子『物語としての痴呆ケア』三輪書店2004
これはブログ198の『痴呆を生きるということ』の続編として位置づけられた本です。前書が基調とすれば、この書は施設の職員に対してを軸に、ケアのあり方として、書かれた本です。一部がこの本の題名と同じの「物語としての痴呆ケア」というタイトルの小澤さんの講演録。二部が「小澤痴呆ケア論の源流を訪ねて」と表題がつけられた、小澤さんがケアを施設長として実践した「桃源の郷」の実践の記録、そして他の施設で活動している小澤さんゆかりのひとたちの小澤さんへの回顧録となっています。
再び書き置きますがこの本が出た直後当たりに、「痴呆」ということばが「認知症」に替わっています。著書にあわせて、そのまま「痴呆」という言葉を使います。
すでに前に読んだ小澤さんの本の読書メモに書いていますが、「物語」というのは、小澤さんの「痴呆ケア論」に基づいています。それは、他の痴呆ケアでどうしてそんな行動をするのか、ということを理解しようとするのではなく、まるごと抱え込むとか、ただ共にあるとか、そこでの「こころの交流」のようなことを求めていく指向に対して、小澤さんにもそういう指向もあるのですが、それ以前に、分かろうとすることにこだわる、物語として読み解くなかでケアを考えて行くという基本的姿勢です。これは、小澤さんが最初関わった「自閉症」のひとたちがこころを閉ざしているという定説に、指の隙間からこちらを見ている事態をどうとらえるのかという論考や、「認知症の人たちは本人は物事が分からないからつらいということはない」ということに対して、情動的なこと分からなくなるのは後の方なので、そんなことはないというような論考にも現れています。そのようなところで、当事者として自らの経験を語って、本を出したオーストラリアのクリスティーンさんの発言や本を援用しています。この本の最初にもクリスティーンさんの事が引用されています。(クリスティーンさんの本『私は誰になっていくの?』は今読んでいるところです。次回読書メモでコメントする予定です。)
というところで、小澤さんの指向は、あくまで当人の気持に寄り添うという姿勢を貫き通しているのです。まさに臨床のひと小澤さんなのです。
いつものようにことばの抜き書きも。
「私の本が売れている、という実感はほとんどない。痴呆を病む人の、そして彼らとともに生きてこられた方々の思いが、たまたま私という道を通って、世間に届けられている。私はそれをちょっと離れたところで見ていて、「よかったなあ」と喜んでいる、というふうなのだ」齠
「在宅介護者をボロボロにしてまで、かたちだけの在宅にこだわるな。入所を悪と決めつけ、入所を求める在宅介護者を責めるようなことがあってはならない。」4P
「痴呆は病だが、病を生きる生き方は百人百様で、それが見えてこないと痴呆のケアはできない。」15P
「それらの症状や行動の成り立ちを考え、その大本にケアを届かせるのではなく対処療法的ケアに終始するのでは、さきほどの医者(症状ごとに薬を出す医者・・・引用者)をやぶ医者と笑えませんよ。」19P
「 物語として痴呆ケア」というのは、「外側からの分かり方」ではなく「痴呆を病む人の体験をもとにした分かり方をしよう」ということ、そして、この時点で抱えた課題|塋鬚鯢造狄佑凌誉犬鮹里辰董彼らの症状や行動を彼ららしい表現として理解する―ストーリーを読む―縦断的物語、痴呆を病む人の不自由を知って彼らに届けるべきケアに具体的なかたちを与える―横断的に、今(、ここで)という時点で解析され、理解されるべき課題 24P
キッドウッドの公式25P・・×ということに留意
D(痴呆を生きる姿)=P(性格)×B(生活史)×H(身体条件)×
NI(脳損傷)×SP(社会意識)
「その人の抱えている不自由を知り、生きてきた軌跡や現在の状況をその方の人柄と併せて知ると、症状や「異常行動」としか見えていなかったものが、その人らしい表現と見えてきて、「なんか、**さんらしいなあ」とつい苦笑いして、そこでほんの少しやさしくなれるのです。/でも、人の心、暮らしを知ろうとする作業は常に相手を傷つける危険性をはらんでいることもまた忘れてはならないでしょうね。ですから、無理のない自然な日常のおしゃべりのなかで時間をかけて少しずつ彼らの人生を再構成するのが本来でしょう。」27P
「周辺症状の方は、中核症状を抱えて、暮らしの中で困り果て、右往左往しているうちに辿り着いた終着駅で、こちらは医学的説明によるのではなく、理解すべき対象です。」30P
「中核症状には脳の障害によって生じる器質性症状だけでなく、廃用性症状が含まれています。ケアが届かない、といったのは前者で、後者にはケアは届き、ケアで治せるのです。」33P
「「ケアで中核症状は治らない」という断言の間違いは、それだけではないのです。いったいケアを「治る」「治らない」で考えてよいのか、そのような考え方は偏った医学的発想ではないのか、ということです。/ケアは、治療が「治らない」と切り捨てたところから始まる、と言うことさえできます。」34P
「周辺症状に対するケアは痴呆を病む人の心に寄り添うケア」35P
「目の前の事象を物語として読み解き、固有名詞としての「**さん」を回復したいのです。言い換えれば。私は心というかたちのない対象を、それ自体として直接的に捉えようとしてきたのではなく、一人ひとりの人生に投影されたものとして、また生活世界における人と人との関係のなかに見ようとしてきました。/さらに、老いゆく人たちにとって身体という問題が抜き差しならない事態として迫っていることにも気づかされてきました。つまり、心は心としてひとり浮遊しているというより、身体、生活世界に深く根づいている問題として私には見えているのです。/そのこともあって、わたしは講演などで、痴呆を病む人の心・身体・生活世界を隔てる壁が低いことを繰り返しお話してきました。」39P
「身体の表情を読む」42P
「「ぽけてしまえば、当の本人は何も分からなくなるのだから幸せといえば幸せだよね。周りは困り果てるのだけれど」なんてとんでもない。」41P
痴呆を生きる心に共通する感情、喜怒哀楽だが、特に不安と寂しさ―喪失感43P
「知的補助具の提供」53P・・・「障害者運動」での、「頭を借りる」
「私が「自覚ができない」と言う時、それはあくまで認知の問題としてお話しているのです。情動の問題ではないのです。その都度は認知できなくても、人と人のつながりから生まれる情動の世界では「自覚できている」ような言葉や反応が返ってくるのはなんの不思議もありません。」79P
「もし、ポールさん(クリスティーンさん(・・・次回読書メモの著者)のパートナー・・・引用者)のようなすばらしいケア・パートナーと共に暮らし、その他の条件にも恵まれると、知的「私」の壊れも小さくてすむ、あるいは修復されるのではないか、という仮説です。魅力的仮説でしょう? でも、もしそうなら、今までの痴呆論は根底から考え直されねばなりません。そして、これまでの痴呆ケアのあり方も、です。是非、これからの実践のなかで 検証してみてください。」82P・・・「障害の否定性」はありつつもまさに関係論
「あまり大きなギャップはたしかに生きづらさを生み、周辺症状を生んで、本人にとっても大変です。ですから、そこにケアを届けて、ギャップを小さくする必要があります。ただ、ギャップはないといけないのです。ギャップは守り育てるものでもあるのです。」105P
「『痴呆を生きるということ』を読んでいただいた方から、この本は痴呆について書かれているが、老いるということ、死を迎えるということを巡っての思索ですね、と言われてうれしかったですね。」113P・・・講演の場での「小澤さんの哲学は?」の質問・・・「私には哲学なんかありません。」と応える・・・しかし、関係論的とらえ方という哲学
「目の前の痴呆をやむ人の、そして彼らとともに生きておられるご家族の暮らしが少しでもスムーズに進むように、彼らが不安や混乱から少しでも抜け出せて、生き生きと暮らせるようにくふうしましょうよ。そこからスタートするしかないんじゃないかしら?」114P
「私があまり情動的「私」という言い方をしないのは、理由があります。/認知する「私」はどこまで行っても自分が認知してる、という感覚から抜け出ることはないでしょう。ところが情動をもつ私は確かに私なのでしょうが、ともに喜び合い、いっしょに悲しんでいるうちに、それらは人と人とのつながりのなかに、あるいは自然のなかにとけ込んでゆき、 私たちの喜び、悲しみになって、あるところからは「私の情動」という感覚を超えるのではないでしょうか。」115P「情動の世界は自分の情動世界という感覚よりむしろ人と人とのつながりのなかにあるいは自然のなかにとけ込んでゆくものではないか、ということを 言いたいのです。」116P・・・認知の世界でもどこまで自分のだけといえることがあるのでしょうか?
マニュアルやプログラムは必要だけど、ズレを感じてその都度フィードバックをかける必要。
マニュアル化には「固有名詞をもった、丸ごとの**さん」を見失う危険性があります。119P
昔は高齢発症のアルツハイマー型痴呆は、むしろ正常の加齢がなんらかの原因で早まったものと考えられていた、今は、正常老化との間にギャップがあるととらえられている。127P
痴呆の予防・・・一次予防―痴呆の発病自体の予防、二次予防―急激な痴呆の進行の予防、三次予防―痴呆が深まっても、その時どきに痴呆の人が生き生きとくらす術―悲惨な最期とアイドルのような暮らし、それを分けるのはケアの違い(&それまでの当人の生・・引用者)
「制度は使うもので、使われてはならない」198P
「一言でいえば、分かるところも、分からないところも、『丸ごと』どう引き受けていくか、の工夫です。」234P
「「痴呆のお年寄りを丸ごと受け入れる雰囲気」が満ちた空間は一種独特であり、痴呆のない人にとっては時には受け入れがたい印象をもたれることもあるという、ここは現実社会とは違う、しかしまったくの空想でもない、現実と空想の間にある「もう一つの世界」だとも感じる。」252P・・・「今、ここで」を超えた「もう一つの世界」が普遍化しえる可能性・・・運動的課題
幻覚・・・「知覚の異常」、妄想・作話・・・「思考の異常」、妄想はわかりにくく作話はわかりやすい
「矛盾は解決しようと思うな、矛盾は拡げろ」295P
いくつかのコメントを挟んでおきます。施設というと、「新しい障害者運動」は、「コロニー解体」が大きなテーマになっていたのですが、もう一方で家族から離れての自立生活運動ということとして始まったのです。高齢者の場合は、欧米では家族同居の割合がかなり減っているのですが、日本の場合も減ってきているとはいえ、まだかなりの割合です。で、介護保険制度ができても、その制度自体がおかしな制度で、なお家族が介助の軸となるような体制が続いています。そこで、小澤さんは「形だけで在宅にこだわるよりも・・・」というところで、老健という病院と在宅の「中間的施設」でのよいケアをめざした活動をしていたのだと思うのです。そして現在では「新しい障害者運動」でも施設ということを必ずしも否定的には見ないというような動きも出ています。わたしは「いま、ここで」という現実にどうするのかということと、そもそもどのような関係性を作っていくのかを、とりあえずわけて考える必要があるのではと思っています。そのあたりは、小澤さんが「認知症」を反転させてみせたことの危うさとつながっていることです。「いま、ここで」できることからやっていくなかで、できることのその危うさのなかで、どのような関係を作っていけば脆弱ではない関係が作れるのかを考えていくことではないかと思えます。
もう一つ気になっていることがあります。それは小澤さんは自分ががんになって、その中で「がんになってよかったなんて思ったことは一度もありませんが、がんになったおかげで、そして余命が限られたおかげで、私はこの二年間で二〇年分の生を生きたと感じているのもまた、紛れもない事実です。」と言い、「同じように、痴呆を生きる人たちに痴呆になってよかったなんて口が裂けても言いませんが、それでも彼らが痴呆という病を抱えたおかげで新しい世界が開け、今までにないほど安らかな気持ちで過ごせるようになったと感じていただける道はあるはずだと思うのです。」147Pという言い方をしています。自分で選択したことではないことが起きたことに、よいとか、わるい―よくない、とか言う問題でもないのでしょうが、そして当事者と非当事者の位相の違いかあり、非当事者が当事者に「よかった?」とか訊けることではないと思うのです。小澤さんも、「死ぬときに「幸せだった」と当事者が言えるケア」のようなことを言っています。ともかく病を必ずしも否定的にはとらえないという意味で、わたしは、当事者なら「幸せ」と言えることの延長として、「よかった」とまで言うようなこともあるのではと思ったりしていました。
最後に、小澤さんも対話のなかで言っているように「認知症」の問題は単に「認知症」だけの問題ではなく、老いや障害ということのなかに含まれていく問題だと思うのです。だから、老いと言うことが必ずしも否定的にとらえられない関係とは何かというところから、ユニバーサルなところで、すべてのひとの生の問題としてとらえ、「障害者が生きやすい・すみやすい街はみんなが生きやすい・住みやすい街」の「障害者」に「高齢者」の言葉も入れ替え得ることで、老いと言うことが否定的にとらえられない関係をどう作っていくのかの問題だと思うのです。
障害71
たわしの読書メモ・・ブログ200
・小澤勲『痴呆老人からみた世界』岩崎学術出版社1998
前のブログ199『認知症とは何か』をとりあげましたが、その元になったとも言える学術的なところを含むかなり細かい論攷です。前のブログにも書いたように、まだ「痴呆」という表現が使われていたときの論攷で、その表現に合わせたメモとして書き置きます。
著者のいう「周辺症状」の「もの盗られ妄想」を軸にした「老いゆく人たち、ぼけゆくひとたちの心の世界に分け入ろうした」257P労作です。
まず、この著を読んで感じたことの要点を書き置きます。ひとつは関係論ともいうべき展開があり、わたしがひとつの課題としてつきだしている「障害関係論」と共鳴し、このことを多くの論考にいかしていけるとの思いを強くしています。メモでそのことを抜き出しつつ(太文字にします)、「小澤「認知症論」と障害の関係モデル」(仮題)という論考でまとめたいと思っています。もうひとつは、著者は「中核症状の不自由」という展開をしているのですが、むしろその不自由ということを反転させた論考も展開していて、そもそもその不自由とは何か、ということをもう一歩掘り下げて展開する必要を感じています。確かに、「今、ここで」というところの現実との軋轢下における「不自由」なのですが、論攷を「今、ここで」に限定してしまうところでの不自由であり、著者が反転を描いているところの問題も、「今、ここで」のその反転の危うさ(希少さ)となってしまうのではと思います。「今、ここで」ということで言えば、「今、ここで」が利己主義的刹那主義に陥っていく現実の中での、あやうさではないかと思います。今、わたしが取り組んでいる「他の」問題でいえば、原発維持体制がなぜつくられているのかというと、まさにこの「利己主義的刹那主義」なのですが、そのようなことを超えていくためにも、「今、ここで」だけでない、関係性の生み直しの作業が必要なのだと考えています。
もうひとつは、「疾病論」から「中核症状」、「周辺症状」、そして「周辺症状」を規定する関係論的なところに踏み込んでいっているのですが、そもそもそこで論じている「周辺症状」を生じさせるのは、「認知症」といわれることだけではないのではないか、そもそも「周辺症状」といわれることと「疾病論」と「中核症状」ということをきりはなしたところで、「周辺症状」の存在構造ということを関係論的なところで検証していく必要があるのではないかという思いを抱いています。もっともこのあたりは、既に論攷があるのかもしれませんが。
さて、いつものようにページをおったメモを残します。
医学的規定はその規定として押さえるところでのメモです。
主語を当事者に齡P
「疾患と症状」
「できること」と「できないこと」を分ける3P
医学的規定2-6P 図1-1中核症状と周辺症状4P
中核症状―周辺症状・・・笠原など・・著者も
基礎症候群―副症候群・・・シュテルス
器質的欠陥症状―機能性症状・・・あえて 原田
主軸症状―辺縁症状・・・ホッヘ(クレペリンの疾患単位論を批判して)
これらはいずれも”須/必須でないという臨床統計的分類改善可能/不可能という療論的見方D樟榲症状/修飾的症状という臨床脳病理的記述から来ているが、厳密には異なる
鏡像現象へのコメント4-5P
フーバーの規定 基底障害理論モデル図1-2 7P
痴呆研究の課題 図1-3 12P
痴呆を生きる生き方 サリバンの「分裂病」の押さえ方の援用39P
不自由から人格の再統合 伝統的象徴的機能を保持しようという試み54P
「もの盗られ妄想」の課題三つ・・・,覆爾發療陲蕕譴箸い主題が選択されたのか△修里茲Δ兵臑蠅なぜ妄想という形で表出されねばならなかったのかもの盗られという主題の妄想が、他ならぬその時に発症しなければならなかったのか54P
老いを生きるとは喪失感を重ねること 79P
「痴呆を、そして老いを名詞でかんがえるべきではない、動詞として、つまりぼけゆく過程、老いゆく過程としてとらえるべきである」81P
「ほんの小さな“ゆらぎ”が全体を巻き込む“ゆらぎ”をもたらす、これが老いの常である。」90P
老いと痴呆のなかでのライフ・イベント→危機91P
ライフ・イベントの積み重ねの中での一つのイベント
老人にとって「物」には人生が詰まっている93P
生活人―物への執着としての「もの盗られ妄想」122P
チオンピの“ゆらぎFluktuation”論、ヴァイゼッカーの危機論(Krise 原義は「分離・区別・選択」・・・転機と言う意味でとらえる)・・・6章
危機という名詞よりも“ゆらぎ”という動詞でとらえる196P
チオンピ システム/均衡/空間―時間」構造
ヴァイゼッカー 秩序/構造
サリバン 生き方way of life
安定した秩序は相対的安定に過ぎない・・・想定した世界と現実のズレ196P
「“ゆらぎ”とは、まさにこのような不安定な過渡を生きねばならない事態を意味する。」197P
老いのなかでの、心・身・生活世界の透過性の高さ199P
「“ゆらぎ”は心・身・生活世界のいずれかの領域にみられるのではなく、それらを貫く行動原理自体に、あるいは行動原理によって組織化された秩序・構造総体に生じる、と考えた方がより正確であろう。」199P・・・各個にとどめえたら、“ゆらぎ”は大きくならない。現実は・・・
「エーが知能について主張したように、もし情動をもつという意味での主体ではなく、それ自体が情動であるような主体があると想定すれば(それは主体と名づけるより、むしろ共同性あるいは関係性というべきであろうが)、そのような心的領域には大きな侵襲はみられない。」202P
「症状」は自己保身の負担軽減のために起きるが、逆に周囲との軋轢の中でより困難さをもたらす208P
病態失認的態度、メタ記憶の障害、判断の障害・・・「主体としての知能」の障害209P
これらが「妄想という心的構造を獲得する」209P
もの盗られ妄想が起きない事例・・・「病前性格における精力性の欠如、病態失認の弱さ、“ゆらぎ”をもたらすことの少ない穏やかな生活状況、少なくとも責任の所在を追求しない状況、そして何よりも“ゆらぎ”を緩衝しうる状況と人間関係があると考えている。」210P
「責任の所在追及からの解放」・・・関係性として障害の実体化・内自有化批判
集団は生き物のように育つ222P
7章 ストーリーを読む/責任の所在追及からの解放/喪失感を受けとめる/薬物療法
こころの交流228P
知的人格の解体と感情反応性の保持231P・・・ 「 まさに保持されている人格の感情的側面によって原初的な共同性と関係性が現出するさまを示している。」231P
知的領域(の解体)と情的領域(の保持)との乖離232P
「「わたし」は「わたし」と生まれてくるのではない。わたしは「わたし」になる」242P・・シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』の冒頭
ファンツの実験・・・人間の顔パターンの認識242P
メルツォフの共鳴動作243P
「人が一個の身体をもつという原規定性を生きざるをえないと同様に人は共同性と関係性を生きるのである。」243P
「ヒトの赤ちゃんは全面的にその存在を人に依存する存在であることを考えれば、人はその誕生においてすでに共同性と関係性を生きる以外に生存をつづけることさえ適わない存在であり、そのための原器を備えて誕生してくるのである。」243-244P
「このような共同性と関係性によって人は育ち、人は人になるのだとすれば、「わたし」があって共同性が生まれるのではなく、むしろ共同性と関係性のなかから「わたし」が生まれてくる、と考えねばならない。発達心理学者山田も同様のことを述べている。つまり、発達の最初期においては、実体としての、あるいは分割を重ねてこれ以上分けられない究極の単位としての個人が先に存在していて、その個人と個人とが結びつくような関係が後から生まれてくると考えてはならない。人と人とが共存する「ここ」という心理的場所(トポス)だけがある。人は個としてあるのではなく、場所のなかに溶け込んでいる。それは私たちが「雰囲気」とか「その場の空気」とかよんでいるものに近い。そこには「風」が起こり、次々と響き共鳴する活動が生じるのだ、と。彼女(メルツォフ・・・引用者)の描写はまるで「馴染みの仲間」のことを述べていると私には読める」244P・・・廣松関係の一次性論に通底
「類に偏した生き方としてのアルツハイマー型痴呆、個に偏した生き方としての脳血管性痴呆」244P・・・理念型としての分類、実際の個々の事例はこのような生き方の混淆245P
「アルツハイマー型痴呆は「その人の長年磨きあげてきた個性の喪失」から「わたし忘れ」へ、そして原初的な「わたしたち」を生きる存在へと偏してゆく。」244-245P
「「わたし」の解体の先に「わたしたち」という生き方が用意されている」245P
「彼ら(「脳血管性痴呆」の人たち・・・引用者)の場合の関係性は信頼できる特定の人を発見して、その対象との二項関係によって形成される「わたしたち」であることが多い。」246P
「個別性と共同性の統合が崩されていくところに痴呆の痴呆たる所以があるというべきなのかもしれない。」246P・・???個別性―自己同一性へのとらわれではないのでしょうか?
霜山徳爾さんの老い論「喪失によってもたらされる真の人間の豊穣さ」しかし、痴呆には否定的250P・・・著者は豊穣性を感じている
「今、ここを生き生きと生きられる場にすること、身の丈に合った生き方を発見する手助けをすること」252P・・・身の丈??「今、ここで」ということで、差別される関係に規定される問題が出て来る、なぜ「今、ここで」老いや認知症が否定的にとらえられるのか、その状況をどうするのか?
「食べる、排泄する、衣服をつける、入浴する、そういった日常生活への援助を日々続ける。そこから「ただ、ともにある」という感覚が生まれる。ともに過ごしてきた時間の重なりが理解を超えるのである。」255P・・・ここは「理解」でなく「認知」という表現がいいのでは?
・小澤勲『痴呆老人からみた世界』岩崎学術出版社1998
前のブログ199『認知症とは何か』をとりあげましたが、その元になったとも言える学術的なところを含むかなり細かい論攷です。前のブログにも書いたように、まだ「痴呆」という表現が使われていたときの論攷で、その表現に合わせたメモとして書き置きます。
著者のいう「周辺症状」の「もの盗られ妄想」を軸にした「老いゆく人たち、ぼけゆくひとたちの心の世界に分け入ろうした」257P労作です。
まず、この著を読んで感じたことの要点を書き置きます。ひとつは関係論ともいうべき展開があり、わたしがひとつの課題としてつきだしている「障害関係論」と共鳴し、このことを多くの論考にいかしていけるとの思いを強くしています。メモでそのことを抜き出しつつ(太文字にします)、「小澤「認知症論」と障害の関係モデル」(仮題)という論考でまとめたいと思っています。もうひとつは、著者は「中核症状の不自由」という展開をしているのですが、むしろその不自由ということを反転させた論考も展開していて、そもそもその不自由とは何か、ということをもう一歩掘り下げて展開する必要を感じています。確かに、「今、ここで」というところの現実との軋轢下における「不自由」なのですが、論攷を「今、ここで」に限定してしまうところでの不自由であり、著者が反転を描いているところの問題も、「今、ここで」のその反転の危うさ(希少さ)となってしまうのではと思います。「今、ここで」ということで言えば、「今、ここで」が利己主義的刹那主義に陥っていく現実の中での、あやうさではないかと思います。今、わたしが取り組んでいる「他の」問題でいえば、原発維持体制がなぜつくられているのかというと、まさにこの「利己主義的刹那主義」なのですが、そのようなことを超えていくためにも、「今、ここで」だけでない、関係性の生み直しの作業が必要なのだと考えています。
もうひとつは、「疾病論」から「中核症状」、「周辺症状」、そして「周辺症状」を規定する関係論的なところに踏み込んでいっているのですが、そもそもそこで論じている「周辺症状」を生じさせるのは、「認知症」といわれることだけではないのではないか、そもそも「周辺症状」といわれることと「疾病論」と「中核症状」ということをきりはなしたところで、「周辺症状」の存在構造ということを関係論的なところで検証していく必要があるのではないかという思いを抱いています。もっともこのあたりは、既に論攷があるのかもしれませんが。
さて、いつものようにページをおったメモを残します。
医学的規定はその規定として押さえるところでのメモです。
主語を当事者に齡P
「疾患と症状」
「できること」と「できないこと」を分ける3P
医学的規定2-6P 図1-1中核症状と周辺症状4P
中核症状―周辺症状・・・笠原など・・著者も
基礎症候群―副症候群・・・シュテルス
器質的欠陥症状―機能性症状・・・あえて 原田
主軸症状―辺縁症状・・・ホッヘ(クレペリンの疾患単位論を批判して)
これらはいずれも”須/必須でないという臨床統計的分類改善可能/不可能という療論的見方D樟榲症状/修飾的症状という臨床脳病理的記述から来ているが、厳密には異なる
鏡像現象へのコメント4-5P
フーバーの規定 基底障害理論モデル図1-2 7P
痴呆研究の課題 図1-3 12P
痴呆を生きる生き方 サリバンの「分裂病」の押さえ方の援用39P
不自由から人格の再統合 伝統的象徴的機能を保持しようという試み54P
「もの盗られ妄想」の課題三つ・・・,覆爾發療陲蕕譴箸い主題が選択されたのか△修里茲Δ兵臑蠅なぜ妄想という形で表出されねばならなかったのかもの盗られという主題の妄想が、他ならぬその時に発症しなければならなかったのか54P
老いを生きるとは喪失感を重ねること 79P
「痴呆を、そして老いを名詞でかんがえるべきではない、動詞として、つまりぼけゆく過程、老いゆく過程としてとらえるべきである」81P
「ほんの小さな“ゆらぎ”が全体を巻き込む“ゆらぎ”をもたらす、これが老いの常である。」90P
老いと痴呆のなかでのライフ・イベント→危機91P
ライフ・イベントの積み重ねの中での一つのイベント
老人にとって「物」には人生が詰まっている93P
生活人―物への執着としての「もの盗られ妄想」122P
チオンピの“ゆらぎFluktuation”論、ヴァイゼッカーの危機論(Krise 原義は「分離・区別・選択」・・・転機と言う意味でとらえる)・・・6章
危機という名詞よりも“ゆらぎ”という動詞でとらえる196P
チオンピ システム/均衡/空間―時間」構造
ヴァイゼッカー 秩序/構造
サリバン 生き方way of life
安定した秩序は相対的安定に過ぎない・・・想定した世界と現実のズレ196P
「“ゆらぎ”とは、まさにこのような不安定な過渡を生きねばならない事態を意味する。」197P
老いのなかでの、心・身・生活世界の透過性の高さ199P
「“ゆらぎ”は心・身・生活世界のいずれかの領域にみられるのではなく、それらを貫く行動原理自体に、あるいは行動原理によって組織化された秩序・構造総体に生じる、と考えた方がより正確であろう。」199P・・・各個にとどめえたら、“ゆらぎ”は大きくならない。現実は・・・
「エーが知能について主張したように、もし情動をもつという意味での主体ではなく、それ自体が情動であるような主体があると想定すれば(それは主体と名づけるより、むしろ共同性あるいは関係性というべきであろうが)、そのような心的領域には大きな侵襲はみられない。」202P
「症状」は自己保身の負担軽減のために起きるが、逆に周囲との軋轢の中でより困難さをもたらす208P
病態失認的態度、メタ記憶の障害、判断の障害・・・「主体としての知能」の障害209P
これらが「妄想という心的構造を獲得する」209P
もの盗られ妄想が起きない事例・・・「病前性格における精力性の欠如、病態失認の弱さ、“ゆらぎ”をもたらすことの少ない穏やかな生活状況、少なくとも責任の所在を追求しない状況、そして何よりも“ゆらぎ”を緩衝しうる状況と人間関係があると考えている。」210P
「責任の所在追及からの解放」・・・関係性として障害の実体化・内自有化批判
集団は生き物のように育つ222P
7章 ストーリーを読む/責任の所在追及からの解放/喪失感を受けとめる/薬物療法
こころの交流228P
知的人格の解体と感情反応性の保持231P・・・ 「 まさに保持されている人格の感情的側面によって原初的な共同性と関係性が現出するさまを示している。」231P
知的領域(の解体)と情的領域(の保持)との乖離232P
「「わたし」は「わたし」と生まれてくるのではない。わたしは「わたし」になる」242P・・シモーヌ・ド・ボーヴォワール『第二の性』の冒頭
ファンツの実験・・・人間の顔パターンの認識242P
メルツォフの共鳴動作243P
「人が一個の身体をもつという原規定性を生きざるをえないと同様に人は共同性と関係性を生きるのである。」243P
「ヒトの赤ちゃんは全面的にその存在を人に依存する存在であることを考えれば、人はその誕生においてすでに共同性と関係性を生きる以外に生存をつづけることさえ適わない存在であり、そのための原器を備えて誕生してくるのである。」243-244P
「このような共同性と関係性によって人は育ち、人は人になるのだとすれば、「わたし」があって共同性が生まれるのではなく、むしろ共同性と関係性のなかから「わたし」が生まれてくる、と考えねばならない。発達心理学者山田も同様のことを述べている。つまり、発達の最初期においては、実体としての、あるいは分割を重ねてこれ以上分けられない究極の単位としての個人が先に存在していて、その個人と個人とが結びつくような関係が後から生まれてくると考えてはならない。人と人とが共存する「ここ」という心理的場所(トポス)だけがある。人は個としてあるのではなく、場所のなかに溶け込んでいる。それは私たちが「雰囲気」とか「その場の空気」とかよんでいるものに近い。そこには「風」が起こり、次々と響き共鳴する活動が生じるのだ、と。彼女(メルツォフ・・・引用者)の描写はまるで「馴染みの仲間」のことを述べていると私には読める」244P・・・廣松関係の一次性論に通底
「類に偏した生き方としてのアルツハイマー型痴呆、個に偏した生き方としての脳血管性痴呆」244P・・・理念型としての分類、実際の個々の事例はこのような生き方の混淆245P
「アルツハイマー型痴呆は「その人の長年磨きあげてきた個性の喪失」から「わたし忘れ」へ、そして原初的な「わたしたち」を生きる存在へと偏してゆく。」244-245P
「「わたし」の解体の先に「わたしたち」という生き方が用意されている」245P
「彼ら(「脳血管性痴呆」の人たち・・・引用者)の場合の関係性は信頼できる特定の人を発見して、その対象との二項関係によって形成される「わたしたち」であることが多い。」246P
「個別性と共同性の統合が崩されていくところに痴呆の痴呆たる所以があるというべきなのかもしれない。」246P・・???個別性―自己同一性へのとらわれではないのでしょうか?
霜山徳爾さんの老い論「喪失によってもたらされる真の人間の豊穣さ」しかし、痴呆には否定的250P・・・著者は豊穣性を感じている
「今、ここを生き生きと生きられる場にすること、身の丈に合った生き方を発見する手助けをすること」252P・・・身の丈??「今、ここで」ということで、差別される関係に規定される問題が出て来る、なぜ「今、ここで」老いや認知症が否定的にとらえられるのか、その状況をどうするのか?
「食べる、排泄する、衣服をつける、入浴する、そういった日常生活への援助を日々続ける。そこから「ただ、ともにある」という感覚が生まれる。ともに過ごしてきた時間の重なりが理解を超えるのである。」255P・・・ここは「理解」でなく「認知」という表現がいいのでは?
障害70
たわしの読書メモ・・ブログ198・199
・小澤勲『痴呆を生きるということ』岩波書店 (岩波新書)2003
・小澤勲『認知症とは何か』岩波書店 (岩波新書)2005
小澤さんの「認知症」関係のわかりやすい本2冊です。この2冊の本の出版のあいだで、「痴呆」という表現が「認知症」ということへ変わっています。このメモはその本の表記に合わせたままにします。前者は概観とも言える内容です。後者はその続編としてとらえられます。一部で医学的なことを展開し、二部でケアとりわけ「周辺症状」の緩和ということで、そのケアのあり方を示し、そもそも「認知症とは何か」という問いかけをしています。
まず前者の本です。
本書の目的
「周辺症状の成り立ちは、中核症状によって抱えることになった不自由、その不自由を生きる一人ひとりの生き方、そして、彼らが置かれた状況、これら三者が絡みあって生じる複雑な過程である。そして、この過程を読み解くのが、本書の主な目的の一つである。」9p・・・+αとしての、(疾病)―「中核症状」→「周辺症状」
図1-2 8P 脳障害→中核症状→周辺症状
↑
心理的・身体的・状況的要因
サリバン「分裂病(ママ)という病があるのではなく、分裂病者と呼ばれる人たちの特有の生き方があるのだ。」10P→「痴呆という生き方」
医師として「中核症状という不自由」をとらえている11P・・・「中核症状」自体の不自由はあるのか
「周辺症状は、医学的に副産物とみなされてきたが、痴呆ケアという立場からは、むしろ主な対象である。」12P
室伏君士「痴呆とはと問うのではなく、痴呆老人とはと問うことによって、彼らは痴呆というハンディをもちながらも、一生懸命に努力している姿として認められる。」13P
「悲惨さを突き抜けて希望に至る道を見いださねばならない。/希望の源はさまざまであり得る。しかし、痴呆を病むということは、人の手を借りることなく暮らし、生きていくことが困難になるということだから、ひととひとのつながりに依拠する部分が大きくなるということである。とすれば、希望はこの関係性にみいだされねばならない。/ここに書かれた悲惨さを生きる二人の姿は、あるいは代えがたいものを喪う二人の言いようのない哀しさは、なぜか私たちに生きる力をよみがえらせ、私たちが常に失いがちな希望さえ与えてくれるように私には思える。」45P・・・反転させている、悲惨なのか―近代的自我における「自己同一性の崩壊」という悲惨さ←近代的自我―個我の論理自体への批判
「規範からの逸脱は、見様を変えれば、規範へのとらわれからの自由である。」56P・・・反転
「喪失感こそが妄想の根底にある彼らの本質的感情で、攻撃性はいわば二次的に生み出されている、と考えられるからである。」89P
吉本隆明を引用して生理的なものだけでない「老いというドラマ」91P
痴呆を固定的な名詞でなく、過程としての動詞としてとらえる93P
孤老状態の国による違い、欧米では10%未満から10%台、日本では同居が60%台118P
「未来への不安もなく、過去への執着からも抜け出して、彼らは、今・ここを精一杯生き始める。彼らをみていると、ほとけの笑顔に出会った思いがする。悟りの境地とさえ感じることもある。」147P・・・「悲惨」や「不自由」がなぜ出て来るのか・・・「彼らの悟りは脆い」148P・・・その存在を脆くする、否定的にする関係性―大情況の問題では
「ただ、共にある」という感覚150P
「アルツハイマー」のクリスティーンさんの援助者との関係で障害がなくなるという情況164P
「痴呆を抱える不自由を大胆に単純化してしまうと、自らの責任でことを処理することの困難であり、状況のなかでの自分の位置を認知し、その認知を行為に結びつけることの困難さである。」172P・・・なぜ、「自らの責任」でなければならないのか
認知と行動のズレが症状を生む174P
「なぜ、彼らが妄想というかたちで自分のこころを表現できたのか」176P・・・反転、「できない」のでなく「できる」
(「認知症者」は)「こころ・からだ・生活世界それぞれの透過性が高い」187P
「廃用症候群を抱えている」というところでの実際に何かやっていくことの必要194P
二つの必要”埃由を知る△海海蹐亡鵑蠹困Α二つのバランス195P
ストーリーを読む197P
その人らしい表現199P
真偽が問題なのではなく、ストーリーによってやさしさが生み出されるかの問題199P
障害の受容という個人の問題でなく、関係性の問題として考える214P
(「認知症者」の違いは)「彼らがかかえる痴呆という病の異なりによってというより、むしろ彼らの置かれた状況の違いによって作られている。痴呆を病む人たちの不幸や悲惨は、私たちがつくり出した不幸であり、悲惨なのだ。」218P
終章にほんとに詩的な素敵な文があります。かなり長くなりますが引用します。「彼らと生きていると、人の生は個を超えていると感じる」「今、私はあるイメージを幻視している。それは、複雑に絡みあったほとんど無限のつながりの網がある。このつながりは複雑なだけでなく、生き物のようにうごめき、一瞬、一瞬変化している。一人ひとりはそのむすぼれである。/ そのつながりの網は、生命の海ともよんだらよいようなものに変幻する。一人ひとりはその海を浮遊している。一つひとつの生命の灯はふっと消え、海の暗闇に還ってゆく。その暗闇から別の灯が生まれる。潮流のうねりと蛍のように明滅する灯。/この生命の海が滞り(とどこお)なく流れていれば、その流れを漂う生もまた滞りなく流れていく。ところが、この生命の海に滞りがみられるようになると、そうでなくても滞りがちな生はよどみに取り残され、光りを失っていく。そのよどみは、生命の海の滞りをさらに深刻なものにしていく。しかし、よどみに置き去りにされた生が、再び光りを放ち、生命の海に漂い始めると、生命の海は輝きに満ちてくる。
あわ雪の中に顕(た)ちたる三千(みち)大千世界(おほち)またその中に沫雪ぞふる 良寛」220-221P・・・障害関係論 「むすぼれ」は、「関係性の網の目の結節点」として廣松さんが展開していることにわたしのなかでつながっています。「むすぼれ」は関係性の網の目の結節点として廣松さんは展開していることにわたしのなかでつながっています。
後者の本。
「受容」というのは逃げであり、差別である79P
「向き合ってもらうケア」と「包む込むケア」と間のバランス80P
固有名詞を奪い返すケア103P
主人公にする思いに添ったケア103P
「本当の自分」である魂の自己が現れる107P
生命の海108P
私たちの喜び、私たちの悲しみになり、「私の情動」という感覚を超える109P―「人と人とのつながりのなかに、あるいは自然のなかにとけ込んでいくものではないか」110P
「認知症を病む人たちとともに生きていると、人の生は個を超えていると感じる。・・・つながりの結び目としての自分という感覚の方が強くなっている。」110P
「それ以上に、それらを統括する知的「私」が壊れる。」141P
臨床心理学者ラザルスらによって提唱されたコーピンクという理論154P
つくられたものとしての「症状」や行動157P
なくなったものを探す・・・なにかわからない・・・実は自己同一性168P←近代的個我の論理自体への批判
「彼らの体験は、生きるのがますます困難になりつつある、この世にもたらす光明である。」189P
「しかし、それは「虚構の世界」である。なんと言ってもこの世は、できる人、金を稼げる人、常識や規範に沿って生きている人だけが尊重される世界である。だから「虚構の世界」はいつも宙づりになっていて、現実に足を引っ張られがちであり、ケアの現場も在宅介護者も、現実の世界と虚構の世界とに引き裂かれてしまうのである。」193P
さて、2冊の本を読みながら思っていたのは、「認知」症の「中核症状」を「不自由」とか著者は書いています。そして、否定性を反転させた現実におきていることを「虚構の世界」と書いているのですが、著者はむしろ反転させたことが存在し、そこに自分の思いのようなことを展開しようとしています。ですから、「虚構」を現実にしえる関係ということを考えて行くことではないでしょうか? 著者は医者として「今、ここで」の困難さをいかに解決し軽減するかを考えしまうのかもしれませんが。むしろ、関係性としていて押さえていて、そこで関係性の変革としての運動的に展開していくことではないかと思うのです。著者の原点としてあった、社会変革志向を押さえ直す必要があるのではと思っています。
・小澤勲『痴呆を生きるということ』岩波書店 (岩波新書)2003
・小澤勲『認知症とは何か』岩波書店 (岩波新書)2005
小澤さんの「認知症」関係のわかりやすい本2冊です。この2冊の本の出版のあいだで、「痴呆」という表現が「認知症」ということへ変わっています。このメモはその本の表記に合わせたままにします。前者は概観とも言える内容です。後者はその続編としてとらえられます。一部で医学的なことを展開し、二部でケアとりわけ「周辺症状」の緩和ということで、そのケアのあり方を示し、そもそも「認知症とは何か」という問いかけをしています。
まず前者の本です。
本書の目的
「周辺症状の成り立ちは、中核症状によって抱えることになった不自由、その不自由を生きる一人ひとりの生き方、そして、彼らが置かれた状況、これら三者が絡みあって生じる複雑な過程である。そして、この過程を読み解くのが、本書の主な目的の一つである。」9p・・・+αとしての、(疾病)―「中核症状」→「周辺症状」
図1-2 8P 脳障害→中核症状→周辺症状
↑
心理的・身体的・状況的要因
サリバン「分裂病(ママ)という病があるのではなく、分裂病者と呼ばれる人たちの特有の生き方があるのだ。」10P→「痴呆という生き方」
医師として「中核症状という不自由」をとらえている11P・・・「中核症状」自体の不自由はあるのか
「周辺症状は、医学的に副産物とみなされてきたが、痴呆ケアという立場からは、むしろ主な対象である。」12P
室伏君士「痴呆とはと問うのではなく、痴呆老人とはと問うことによって、彼らは痴呆というハンディをもちながらも、一生懸命に努力している姿として認められる。」13P
「悲惨さを突き抜けて希望に至る道を見いださねばならない。/希望の源はさまざまであり得る。しかし、痴呆を病むということは、人の手を借りることなく暮らし、生きていくことが困難になるということだから、ひととひとのつながりに依拠する部分が大きくなるということである。とすれば、希望はこの関係性にみいだされねばならない。/ここに書かれた悲惨さを生きる二人の姿は、あるいは代えがたいものを喪う二人の言いようのない哀しさは、なぜか私たちに生きる力をよみがえらせ、私たちが常に失いがちな希望さえ与えてくれるように私には思える。」45P・・・反転させている、悲惨なのか―近代的自我における「自己同一性の崩壊」という悲惨さ←近代的自我―個我の論理自体への批判
「規範からの逸脱は、見様を変えれば、規範へのとらわれからの自由である。」56P・・・反転
「喪失感こそが妄想の根底にある彼らの本質的感情で、攻撃性はいわば二次的に生み出されている、と考えられるからである。」89P
吉本隆明を引用して生理的なものだけでない「老いというドラマ」91P
痴呆を固定的な名詞でなく、過程としての動詞としてとらえる93P
孤老状態の国による違い、欧米では10%未満から10%台、日本では同居が60%台118P
「未来への不安もなく、過去への執着からも抜け出して、彼らは、今・ここを精一杯生き始める。彼らをみていると、ほとけの笑顔に出会った思いがする。悟りの境地とさえ感じることもある。」147P・・・「悲惨」や「不自由」がなぜ出て来るのか・・・「彼らの悟りは脆い」148P・・・その存在を脆くする、否定的にする関係性―大情況の問題では
「ただ、共にある」という感覚150P
「アルツハイマー」のクリスティーンさんの援助者との関係で障害がなくなるという情況164P
「痴呆を抱える不自由を大胆に単純化してしまうと、自らの責任でことを処理することの困難であり、状況のなかでの自分の位置を認知し、その認知を行為に結びつけることの困難さである。」172P・・・なぜ、「自らの責任」でなければならないのか
認知と行動のズレが症状を生む174P
「なぜ、彼らが妄想というかたちで自分のこころを表現できたのか」176P・・・反転、「できない」のでなく「できる」
(「認知症者」は)「こころ・からだ・生活世界それぞれの透過性が高い」187P
「廃用症候群を抱えている」というところでの実際に何かやっていくことの必要194P
二つの必要”埃由を知る△海海蹐亡鵑蠹困Α二つのバランス195P
ストーリーを読む197P
その人らしい表現199P
真偽が問題なのではなく、ストーリーによってやさしさが生み出されるかの問題199P
障害の受容という個人の問題でなく、関係性の問題として考える214P
(「認知症者」の違いは)「彼らがかかえる痴呆という病の異なりによってというより、むしろ彼らの置かれた状況の違いによって作られている。痴呆を病む人たちの不幸や悲惨は、私たちがつくり出した不幸であり、悲惨なのだ。」218P
終章にほんとに詩的な素敵な文があります。かなり長くなりますが引用します。「彼らと生きていると、人の生は個を超えていると感じる」「今、私はあるイメージを幻視している。それは、複雑に絡みあったほとんど無限のつながりの網がある。このつながりは複雑なだけでなく、生き物のようにうごめき、一瞬、一瞬変化している。一人ひとりはそのむすぼれである。/ そのつながりの網は、生命の海ともよんだらよいようなものに変幻する。一人ひとりはその海を浮遊している。一つひとつの生命の灯はふっと消え、海の暗闇に還ってゆく。その暗闇から別の灯が生まれる。潮流のうねりと蛍のように明滅する灯。/この生命の海が滞り(とどこお)なく流れていれば、その流れを漂う生もまた滞りなく流れていく。ところが、この生命の海に滞りがみられるようになると、そうでなくても滞りがちな生はよどみに取り残され、光りを失っていく。そのよどみは、生命の海の滞りをさらに深刻なものにしていく。しかし、よどみに置き去りにされた生が、再び光りを放ち、生命の海に漂い始めると、生命の海は輝きに満ちてくる。
あわ雪の中に顕(た)ちたる三千(みち)大千世界(おほち)またその中に沫雪ぞふる 良寛」220-221P・・・障害関係論 「むすぼれ」は、「関係性の網の目の結節点」として廣松さんが展開していることにわたしのなかでつながっています。「むすぼれ」は関係性の網の目の結節点として廣松さんは展開していることにわたしのなかでつながっています。
後者の本。
「受容」というのは逃げであり、差別である79P
「向き合ってもらうケア」と「包む込むケア」と間のバランス80P
固有名詞を奪い返すケア103P
主人公にする思いに添ったケア103P
「本当の自分」である魂の自己が現れる107P
生命の海108P
私たちの喜び、私たちの悲しみになり、「私の情動」という感覚を超える109P―「人と人とのつながりのなかに、あるいは自然のなかにとけ込んでいくものではないか」110P
「認知症を病む人たちとともに生きていると、人の生は個を超えていると感じる。・・・つながりの結び目としての自分という感覚の方が強くなっている。」110P
「それ以上に、それらを統括する知的「私」が壊れる。」141P
臨床心理学者ラザルスらによって提唱されたコーピンクという理論154P
つくられたものとしての「症状」や行動157P
なくなったものを探す・・・なにかわからない・・・実は自己同一性168P←近代的個我の論理自体への批判
「彼らの体験は、生きるのがますます困難になりつつある、この世にもたらす光明である。」189P
「しかし、それは「虚構の世界」である。なんと言ってもこの世は、できる人、金を稼げる人、常識や規範に沿って生きている人だけが尊重される世界である。だから「虚構の世界」はいつも宙づりになっていて、現実に足を引っ張られがちであり、ケアの現場も在宅介護者も、現実の世界と虚構の世界とに引き裂かれてしまうのである。」193P
さて、2冊の本を読みながら思っていたのは、「認知」症の「中核症状」を「不自由」とか著者は書いています。そして、否定性を反転させた現実におきていることを「虚構の世界」と書いているのですが、著者はむしろ反転させたことが存在し、そこに自分の思いのようなことを展開しようとしています。ですから、「虚構」を現実にしえる関係ということを考えて行くことではないでしょうか? 著者は医者として「今、ここで」の困難さをいかに解決し軽減するかを考えしまうのかもしれませんが。むしろ、関係性としていて押さえていて、そこで関係性の変革としての運動的に展開していくことではないかと思うのです。著者の原点としてあった、社会変革志向を押さえ直す必要があるのではと思っています。
2012年04月06日
対話を求めて12
原発はなぜ存在してきたのか?
−原発の再稼働を阻止するために−
昨年3・11の福島原発震災の後、定期検査でつぎつぎに原発が停止していたのですが、再稼働の動きが出ていますし、原発の輸出の動きさえ出てきています。
どうしても、理解できないのです。マスコミに出て稼働賛成の意見を言っているひとたちの発言の意味がどうしても理解できないのです。
いくつかのおかしな発言をとりあげて批判し、反対の世論作りにわずかなりとも参加したいと思います。
まだ安全性を主張するひとたち
そもそも原子爆弾開発の副産物として開発された技術です。そして、核兵器の潜在的所有のための国策としての原発が導入されたのです。
そして、人間の自然の支配とか征服とかいうことで、核エネルギーを制御できるのだと、科学幻想を作り上げてきたことです。
その破綻は、スリーマイル、チェルノブイリ、そして日本での数々の事故で示されてきたのです。
それなのに、まだ懲りないで、事故を起こさない態勢を作り得ると主張しているのです。
そもそも事故の検証も、なぜ事故が起きてきたのかということも押さえないままに、そもそも事故が起こる構図を押さえないままに、なんの反省もなく、再稼働を主張しているのです。
なぜ、危険なものをわざわざ再稼働させる必要があるのでしょうか?
この文を書いている最中に地震と津波の想定が大幅に変更され、浜岡原発の安全策がそれに達していないということが示されていました。そもそも事故が起きたときに繰り返されていた、「想定外」という発言自体への反省がないのです。想定を更新しなくてはいけないような巨大事を起こす危険なものは廃止すべきなのです。
うそとペテン、問題のすりかえを繰り返すひとたち
原発事故が起きたとき、「直ちに危険はありません。」という言葉が繰り返されました。それがうそとペテンであったことが次第に明らかになってきました。そして、「風評被害」ということも語られてきましたが、風評被害をもたらしたのは、ちゃんとした情報を提供しなかった、東電や政府関係者の責任以外のなにものでもないのです。
その他、御用学者や東電に取り込まれているひとたちから、「放射線はからだにいい」とか「今回の事故で死んだひとはいない」と事故被害をないものとするかのような発言をするひとさえいましたし、再稼働で「電気が止まれば手術中に死ぬひとも出て来る」とか電力不足で経済不況におちいり死ぬひとも出てくるとかいうひとがいます。「からだにいい」とかいう話は、医療で放射線が使われていることで問題をすり替えている発言なのですが、今回の原発事故で放出された放射線がからだにいいと誰が言えるのでしょうか、もしそういうことをいうひとは、ボランティアで事故現場での事故処理に当たればいいのです。「今回の事故で死んだひとはいない」というのは放射線被害は後発性の問題もあるということが分からないひと、分かろうとしてないひとの発言です。チェルノブイリの事故の被害を知っているひとはこんな発言はできなくなります。そもそも緊急避難という中で、捜索が為されない中で、死んだひとの存在、それから避難を強いられる中で亡くなったひとの存在があります。「電気が止まれば手術中に死ぬひとも出て来る」ということは、そもそも病院運営で必要な非常用電源を整備していくことで、そのことを棚上げしています。そもそもそのような発言をしているひとは、原子力発電などというたびたびの事故で止まってしまうようなことを電源にしていること自体をとらえれば、そのような不安定な電源は廃止すべきだと主張することです。
このような発言がでてくるのがどうしても信じられないのです。自分の発言が何をもたらすのかということを考えていないのです。発言に責任が問われる政治家がその責任という概念がないという絶望的情況があります。そもそも「安全神話」を作り上げてきたひとたちが、今回の事故でちゃんと反省しているひとたちがほとんどいないで、まだ危険か安全かの議論が平行線だとかいう話をしているのがどうしても分からないのです。スリーマイルやチェルノブイリの事故がおきたときにも、人為ミスだとか国民性だとかいいつつ、日本ではおこらないということがいわれていました。そのことが起きたのです。むしろ反原発ということで論をはっていた学者が力及ばずして、事故に至ったと反省していたのに、原発推進派のひとたちが反省したということがないというのが信じられないのです。
この事故が何をもたらしたのか、その被害の大きさは、もっともっと後代になって検証されてくることですが、原発推進してきたひとたちの責任は、人類に対する罪とでも言い得ることになっていくことだとわたしは思っています。
電力不足・電気料金高騰による経済沈滞を言いつのるひとたち
わたしは原発事故の直後の東電の計画的停電がおこなわれていたとき、これは原発態勢維持のための世論操作という側面があると指摘していました。その後の「電力不足」の宣伝にも同じようなことがあります。経済停滞という宣揚や電気料金の値上げに関しては、何か問題をすり替えているとしか言いようがありません。そのようなことを考えるひとは、電気料金値上げ以前に、安い労働力を求めて、資本が海外流失していくことをどうするのかを先決すべきはずです。経済停滞という心配以前にひとの命の問題として原発をどうするのかを考えることです。命より経済が大切とでもいうのでしょうか? 経済不況で死者が出ていくという話をするひとがいます。そもそもそんな話しをするひとは問題をすり替えているのです。日本社会において、餓死者がでるというのは総体的貧困ではなくて、格差の問題です(世界的にも同じことです。グロバリーゼーションの進行の中で、国家間格差と一国の中での格差の拡大という中での餓死の問題なのです)。そもそも儲けは個人的に、損害は国家や社会が負うとして、「国民」にそれを転化していくしくみ自体が問題なのです。東電や電力会社の資本所有で儲けていたひとたちは、儲けるだけ儲けて、その儲けの体制から得ていたものを、今回の事故でいくらかなりともかえそうという意識はさらさらありません。経済的なダメージ云々というひとたちには、ひとの命よりも儲けを主張するのかと批判することですし、もし、そのような経済を問題にしなければならないのなら、経済体制自体を変えようと提起することです。
危険-損害、未来世代への負担を考えない、飽くなき利潤を追求するひとたち
命のことを考えないで、経済を優先することを批判してきました。その上で、経済的に原発が採算が合うのか、という問題もあります。国策として進めたということで、原発体制が税金で維持されてきたということがあります。そして事故がおきたときには国が最終的に保障にあたるという前提で進めてきた体制があります。また、そもそも、いろんな危険性や廃棄物をどうするのかを考えたとき、こんなもの存在し得るのかということがあるのです。今回の福島の原発事故で定期検査で停止中の4号機の燃料プールの燃料棒が制御不能になり、爆発事故を起こしました。原発が廃棄された後も、その廃棄物の処理に膨大なエネルギーと危険性が伴うことが検証されたのです。放射性廃棄物には、10万年100万年の管理が必要だと言われています。そんなものを作り出していくこと自体がどうしても信じられないのです。そのうえに、その廃棄物の処理をどうするのかを決めないままに、どんどん作り出しているのです。トイレのないマンションといういい方がされていますが、うんこはメタンで爆発することがあるかもしれませんが、巨大事故にはいたりません。こんな人体への内部・外部の被害、海産物、農産物への被害、そして日本・世界総体へのストレス被害をもたらすものを維持することが許されるのでしょうか? 原発のストレステストなど実施する前に、ひとへのストレスということを考えたら、原発のストレステスト以前に原発の廃止という結論に至るはずです。
これは現在に生きるひとだけの問題ではないことです。一体、10万年100万年の管理を必要とするもの、ストレスを生み出すものをなぜ後代に押しつけようとするのでしょうか、放射線被害は、未来のひとたちへの生きる環境を奪う差別そのものです。そのようなことがどうして許されるのでしょうか?
もはや、膨大な放射線廃棄物を生みだしています。それは後代のひとから、ナチスドイツのホロコースト以上に人類に対する罪として告発されてしまうことです。もうこれ以上罪をかさねることを止めるべきことです。
原発の即時廃棄−原発輸出阻止のために
以上のことから、脱原発ということではなく、即時原発の廃止という自明の結論が出て来ることです。原発事故直後のまだマスコミが原発推進から脱し得なかった時のこととは言え、AERAの特集で、原発反対派と推進派の議論の並行ということが語られていました。ですが、反対派と推進派の議論のやりとりをちゃんと読んでいくと、話しは平行線ではなく、危険性の指摘の妥当性は事故以前に明確だったのです。それが事故で検証され、自明なことになったのです。自明のことをきちんとみんなに拡げていきたい、この読者の皆さんからの発信も含めて、いろんな場で拡げていきたいとと思っています。
さらに、もっと驚くべき事態がきています。それは、今回の事故処理で無力さを露呈し、試行錯誤を繰り返している状態で、そして事故の検証も、反省もない情況下で、日本の企業が原発の輸出を策動していることです。しかも、政府がそのバックアップをしているのです。かねてから、公害の輸出などということなどで、資本主義の儲け至上主義や倫理のかけらもなさを示してきたのですが、こんなことが一体許されるのでしょうか?
かねて、日本には恥の文化があるという指摘がありましたが(恥の概念の是非はさておき)、こんな事態は恥のかけらもないというべき事態です。かねてから、被害ということばかり先行し、加害ということへの反省が欠落しているという自戒も出されています。放射線への被害ということでも、福島原発事故ですでに加害者になってしまったのですが、被害ということを言いつのるだけでなく、もうこれ以上の加害者にはならないということをひとつの大きな課題にして、世界から原発をなくしていくための取り組みをしていきたいと考えています。
追記
わたしの父は長崎で被爆し、母(わたしにとっては祖母)と連れ合い、娘を亡くしました。その父には左半身にケロイドがあり、わたしが小学生まで父の爪が黒く生えかわってくることを見続け、放射線被害ということをずっと意識していました。その父は被曝から40年後、肝臓ガンで入院して二週間でなくなりました(「因果関係」はわかりません)。子どもであるわたしはいわゆる「被爆二世」なのですが、放射線被害の次世代への影響ということで、ストレスを受けてきました。わたしは子どものときにけがをすると必ず化膿するとかがあり、白血球が少ないとかいう指摘をうけたことがあり、白血病を発症するのではという思いを持ち続け、それがストレスとなっていました。人生観に及ぼした影響も指摘できることです。ですから、そのようなことも込めて、原発を廃止しなくてはと思いを深めています。具体的な行動を考えて行きたいと思っています。
(み)
−原発の再稼働を阻止するために−
昨年3・11の福島原発震災の後、定期検査でつぎつぎに原発が停止していたのですが、再稼働の動きが出ていますし、原発の輸出の動きさえ出てきています。
どうしても、理解できないのです。マスコミに出て稼働賛成の意見を言っているひとたちの発言の意味がどうしても理解できないのです。
いくつかのおかしな発言をとりあげて批判し、反対の世論作りにわずかなりとも参加したいと思います。
まだ安全性を主張するひとたち
そもそも原子爆弾開発の副産物として開発された技術です。そして、核兵器の潜在的所有のための国策としての原発が導入されたのです。
そして、人間の自然の支配とか征服とかいうことで、核エネルギーを制御できるのだと、科学幻想を作り上げてきたことです。
その破綻は、スリーマイル、チェルノブイリ、そして日本での数々の事故で示されてきたのです。
それなのに、まだ懲りないで、事故を起こさない態勢を作り得ると主張しているのです。
そもそも事故の検証も、なぜ事故が起きてきたのかということも押さえないままに、そもそも事故が起こる構図を押さえないままに、なんの反省もなく、再稼働を主張しているのです。
なぜ、危険なものをわざわざ再稼働させる必要があるのでしょうか?
この文を書いている最中に地震と津波の想定が大幅に変更され、浜岡原発の安全策がそれに達していないということが示されていました。そもそも事故が起きたときに繰り返されていた、「想定外」という発言自体への反省がないのです。想定を更新しなくてはいけないような巨大事を起こす危険なものは廃止すべきなのです。
うそとペテン、問題のすりかえを繰り返すひとたち
原発事故が起きたとき、「直ちに危険はありません。」という言葉が繰り返されました。それがうそとペテンであったことが次第に明らかになってきました。そして、「風評被害」ということも語られてきましたが、風評被害をもたらしたのは、ちゃんとした情報を提供しなかった、東電や政府関係者の責任以外のなにものでもないのです。
その他、御用学者や東電に取り込まれているひとたちから、「放射線はからだにいい」とか「今回の事故で死んだひとはいない」と事故被害をないものとするかのような発言をするひとさえいましたし、再稼働で「電気が止まれば手術中に死ぬひとも出て来る」とか電力不足で経済不況におちいり死ぬひとも出てくるとかいうひとがいます。「からだにいい」とかいう話は、医療で放射線が使われていることで問題をすり替えている発言なのですが、今回の原発事故で放出された放射線がからだにいいと誰が言えるのでしょうか、もしそういうことをいうひとは、ボランティアで事故現場での事故処理に当たればいいのです。「今回の事故で死んだひとはいない」というのは放射線被害は後発性の問題もあるということが分からないひと、分かろうとしてないひとの発言です。チェルノブイリの事故の被害を知っているひとはこんな発言はできなくなります。そもそも緊急避難という中で、捜索が為されない中で、死んだひとの存在、それから避難を強いられる中で亡くなったひとの存在があります。「電気が止まれば手術中に死ぬひとも出て来る」ということは、そもそも病院運営で必要な非常用電源を整備していくことで、そのことを棚上げしています。そもそもそのような発言をしているひとは、原子力発電などというたびたびの事故で止まってしまうようなことを電源にしていること自体をとらえれば、そのような不安定な電源は廃止すべきだと主張することです。
このような発言がでてくるのがどうしても信じられないのです。自分の発言が何をもたらすのかということを考えていないのです。発言に責任が問われる政治家がその責任という概念がないという絶望的情況があります。そもそも「安全神話」を作り上げてきたひとたちが、今回の事故でちゃんと反省しているひとたちがほとんどいないで、まだ危険か安全かの議論が平行線だとかいう話をしているのがどうしても分からないのです。スリーマイルやチェルノブイリの事故がおきたときにも、人為ミスだとか国民性だとかいいつつ、日本ではおこらないということがいわれていました。そのことが起きたのです。むしろ反原発ということで論をはっていた学者が力及ばずして、事故に至ったと反省していたのに、原発推進派のひとたちが反省したということがないというのが信じられないのです。
この事故が何をもたらしたのか、その被害の大きさは、もっともっと後代になって検証されてくることですが、原発推進してきたひとたちの責任は、人類に対する罪とでも言い得ることになっていくことだとわたしは思っています。
電力不足・電気料金高騰による経済沈滞を言いつのるひとたち
わたしは原発事故の直後の東電の計画的停電がおこなわれていたとき、これは原発態勢維持のための世論操作という側面があると指摘していました。その後の「電力不足」の宣伝にも同じようなことがあります。経済停滞という宣揚や電気料金の値上げに関しては、何か問題をすり替えているとしか言いようがありません。そのようなことを考えるひとは、電気料金値上げ以前に、安い労働力を求めて、資本が海外流失していくことをどうするのかを先決すべきはずです。経済停滞という心配以前にひとの命の問題として原発をどうするのかを考えることです。命より経済が大切とでもいうのでしょうか? 経済不況で死者が出ていくという話をするひとがいます。そもそもそんな話しをするひとは問題をすり替えているのです。日本社会において、餓死者がでるというのは総体的貧困ではなくて、格差の問題です(世界的にも同じことです。グロバリーゼーションの進行の中で、国家間格差と一国の中での格差の拡大という中での餓死の問題なのです)。そもそも儲けは個人的に、損害は国家や社会が負うとして、「国民」にそれを転化していくしくみ自体が問題なのです。東電や電力会社の資本所有で儲けていたひとたちは、儲けるだけ儲けて、その儲けの体制から得ていたものを、今回の事故でいくらかなりともかえそうという意識はさらさらありません。経済的なダメージ云々というひとたちには、ひとの命よりも儲けを主張するのかと批判することですし、もし、そのような経済を問題にしなければならないのなら、経済体制自体を変えようと提起することです。
危険-損害、未来世代への負担を考えない、飽くなき利潤を追求するひとたち
命のことを考えないで、経済を優先することを批判してきました。その上で、経済的に原発が採算が合うのか、という問題もあります。国策として進めたということで、原発体制が税金で維持されてきたということがあります。そして事故がおきたときには国が最終的に保障にあたるという前提で進めてきた体制があります。また、そもそも、いろんな危険性や廃棄物をどうするのかを考えたとき、こんなもの存在し得るのかということがあるのです。今回の福島の原発事故で定期検査で停止中の4号機の燃料プールの燃料棒が制御不能になり、爆発事故を起こしました。原発が廃棄された後も、その廃棄物の処理に膨大なエネルギーと危険性が伴うことが検証されたのです。放射性廃棄物には、10万年100万年の管理が必要だと言われています。そんなものを作り出していくこと自体がどうしても信じられないのです。そのうえに、その廃棄物の処理をどうするのかを決めないままに、どんどん作り出しているのです。トイレのないマンションといういい方がされていますが、うんこはメタンで爆発することがあるかもしれませんが、巨大事故にはいたりません。こんな人体への内部・外部の被害、海産物、農産物への被害、そして日本・世界総体へのストレス被害をもたらすものを維持することが許されるのでしょうか? 原発のストレステストなど実施する前に、ひとへのストレスということを考えたら、原発のストレステスト以前に原発の廃止という結論に至るはずです。
これは現在に生きるひとだけの問題ではないことです。一体、10万年100万年の管理を必要とするもの、ストレスを生み出すものをなぜ後代に押しつけようとするのでしょうか、放射線被害は、未来のひとたちへの生きる環境を奪う差別そのものです。そのようなことがどうして許されるのでしょうか?
もはや、膨大な放射線廃棄物を生みだしています。それは後代のひとから、ナチスドイツのホロコースト以上に人類に対する罪として告発されてしまうことです。もうこれ以上罪をかさねることを止めるべきことです。
原発の即時廃棄−原発輸出阻止のために
以上のことから、脱原発ということではなく、即時原発の廃止という自明の結論が出て来ることです。原発事故直後のまだマスコミが原発推進から脱し得なかった時のこととは言え、AERAの特集で、原発反対派と推進派の議論の並行ということが語られていました。ですが、反対派と推進派の議論のやりとりをちゃんと読んでいくと、話しは平行線ではなく、危険性の指摘の妥当性は事故以前に明確だったのです。それが事故で検証され、自明なことになったのです。自明のことをきちんとみんなに拡げていきたい、この読者の皆さんからの発信も含めて、いろんな場で拡げていきたいとと思っています。
さらに、もっと驚くべき事態がきています。それは、今回の事故処理で無力さを露呈し、試行錯誤を繰り返している状態で、そして事故の検証も、反省もない情況下で、日本の企業が原発の輸出を策動していることです。しかも、政府がそのバックアップをしているのです。かねてから、公害の輸出などということなどで、資本主義の儲け至上主義や倫理のかけらもなさを示してきたのですが、こんなことが一体許されるのでしょうか?
かねて、日本には恥の文化があるという指摘がありましたが(恥の概念の是非はさておき)、こんな事態は恥のかけらもないというべき事態です。かねてから、被害ということばかり先行し、加害ということへの反省が欠落しているという自戒も出されています。放射線への被害ということでも、福島原発事故ですでに加害者になってしまったのですが、被害ということを言いつのるだけでなく、もうこれ以上の加害者にはならないということをひとつの大きな課題にして、世界から原発をなくしていくための取り組みをしていきたいと考えています。
追記
わたしの父は長崎で被爆し、母(わたしにとっては祖母)と連れ合い、娘を亡くしました。その父には左半身にケロイドがあり、わたしが小学生まで父の爪が黒く生えかわってくることを見続け、放射線被害ということをずっと意識していました。その父は被曝から40年後、肝臓ガンで入院して二週間でなくなりました(「因果関係」はわかりません)。子どもであるわたしはいわゆる「被爆二世」なのですが、放射線被害の次世代への影響ということで、ストレスを受けてきました。わたしは子どものときにけがをすると必ず化膿するとかがあり、白血球が少ないとかいう指摘をうけたことがあり、白血病を発症するのではという思いを持ち続け、それがストレスとなっていました。人生観に及ぼした影響も指摘できることです。ですから、そのようなことも込めて、原発を廃止しなくてはと思いを深めています。具体的な行動を考えて行きたいと思っています。
(み)
障害69
たわしの読書メモ・・ブログ197
・小澤勲『ケアってなんだろう』医学書院2006
小澤さんは反精神医学というところで医療サイドの運動も含めて理論的に担っていたひとです。日本に新しい「自閉症論」を持ち込んだということでも特筆されるひとです。わたしはかつて、「自閉症児」と呼ばれた子どもへの通所施設での体罰事件の裁判支援をしていたときに、小澤さんの本を勧められて何冊か読んでいました。わたしがやろうとしていた「「障害の否定性」の否定」というところで共鳴する論攷があり、その論攷に共鳴的に揺さぶられていました。それに関係論的な押さえに認識論的なものも含んで論攷を展開していけるのではという期待もありました。しかし、否定を貫こうとしていたわたしには、「必ずしも否定というだけではみない」という論理の進め方、そして医師として直すなり軽くするというところでの関わりかたに、結局反精神医学には医者の立場を捨てない限りたちえないのかという思いをもったものです。
その後、小澤さんは「自閉症」から離れ、高齢者とりわけ「認知症」と呼ばれるひとたちへのケアの問題に転じて、何冊かの本を出されていて、それうち何冊か買い求めていたのですが、読めないままでいました。で、死(2008)の直前に出された『自閉症とはなにか』を、当時「発達障害」関係の本を読んでいる中で、改めて「自閉症論」を押さえておこうと読みました。
そして、この本も買い求めていました。で、またもや積ん読状態になっていたのですが、上野さんのケア論を読む中で、この本の紹介がなされている中で、ケア論の必読書というべきこの本に至りついたのです。
わたしは「吃音者」の立場で、今の社会に広がつて居て、当事者たちもとらわれている「吃音−障害の否定性」をどう批判し得るのかということを考え、論を展開してきました。で、そこにかかわっている非当事者の言語療法士・学者のひとたちの少しでも気持ちを軽くしたい、二次障害をなくしていくという現実的運動をそれも必要なのだろうけど、悪無限的対処行動になるのではと批判してきたのです。
高齢者の「認知症」の場合、関係性の変革など進めても実際的にそれは本人には届かない、だから「いま、ここで」の臨床こそが問題になり、そこで少しでも生きがたさを軽くするというころでの関わりになっていくのだろうと思っています。そのようなこととして社会運動から臨床へ軸を移したのだと思います。医者という立場であり続ける限りは当然のことだったのかもしれません。体制の変革を問題にしていた立場からは転向ともいいえることですが、むしろ臨床医としてはこの本の中で書かれている「棒として貫かれている」ことなのでしょう。
ですが、パターナリズムから逃れ得るために、ラジカルな根底的な変革をめざすわたしとしてはあくまで体制の変革を志向している中で、「いま、ここで」という臨床には違和を持ち続けてしまうのです。
この本は対談で進んでいます。吃瑤蓮峺かいあって考える」として、作家の田口ランディさん、「べてるの家」の向谷地生良さん、精神科医の滝川一廣さん、作家の瀬戸内寂聴さん。
局瑤麓禺蠍Φ羃函弊樟郛,気鵝⊇亳泰靖さん、天田城介さん)との対談とその研究家による小澤論とも言える論文。敬瑤肋澤さんの「認知症論」のエッセンスとでも言うべき講演録。孤瑤蓮崘知症」を題材にしている作品への評論ともいえる文集です。最後に遺言的なコメントがあります(著者は肺がんで余命宣告を超えて著作を出していて、この本もその中で紡ぎ出している著作です)。
書かれていることを、うまく伝え得ません。いつものようにメモ的になっていますが、抜き書きとコメントです。
「「私は私」を守ってくれるという意味で「人権」という言葉もあるのでしょう。」27P・・・近代的個我の論理としての人権
「自分が網の目の一つのようにあって、生きている」27P・・・廣松
「人間にとって不要なもの、後から付け加わったものがどんどんそぎ落とされて、最後に「これは人間のいちばん根底にあるものだ」という感じで生きておられる。」29P
スウェーデン型福祉30P 田口「スウェーデンで語れることは、人間としてどう扱うか、だけです。その「人間」という枠が私には窮屈すぎる感じがする。」・・・キリスト教・パーソン論・近代的個我の論理
「なんでQOLなんていう言葉が出てきたかというと、アメリカの本などではひじょうに明確なんですよ。治療をしてその効果があまりない人に対しては、医療費を投入するのはムダだ。そこで、治療をしなくても不満を持たずに暮らしてもらうためにはどうしたらいいのかというところで、QOLという言葉が出てくる。」31P
「欧米では、人はどんなに重いハンディを背負っても自立に向かって努力しなさいという感じが強いです。人権という言葉の裏には、当然そういう義務みたいなものを要求されます。」31P
「分割払いでもオッケーということですね」40P・・・ずっとつきあえないということで、分割して(時間でくぎって)つきあっていくということ。
滝川「反精神医学の場合、本人の外にある環境のとらえが少し狭いという感じがします。政治的環境、経済的環境に限定しすぎているので、それを推し進めていくと窮屈な一種の倫理主義になってしまったり、政治主義になってしまって、身動きがとれなくなってしまう。」「私たちのこころの働き自体が、社会的・共同的なもので、その社会的・共同的なものをヒトという個体が脳の中で一生懸命やっているわけだから、そこにはやっぱり無理もある。その無理の結果として精神障害という、ある“在り方”が生じてくる」78-79P
「つながりというか共同性がまずあって、それを基盤にして、「私は私」になった。ところが個別性と共同性が乖離して、非常に不自由なものが生まれてきた。」79P
「運動に巻き込まれていると「社会が変われば人間も変わる」というような感じが強かったのかもしれませんね。でも、ほんとうにそんなふうに思っていたのかと言われると、わかんないですよ。だからもう一度臨床に沈潜して、基本的なものごとから考え直さないと、「とうていこのままではやっていけないな」と、どこかで感じていたんですね。」79P
「情動性と共同性あるいはつながりは、ほとんどイコールである」80P
滝川「「共同的な存在でないと生きていけない」というふうに、人間は最初からできています。共同性というのはそれだけ根が深いものなのでしょう。」80P
対人関係の水準が上がってきている88P・・障害としてのしんどさ
名前を知られすぎると歪む92P
物語を読む93P
相手の心を理解しようとする志を捨てていいとは思わない94P
物語を作るのではなく、読む95P
いろんな人の中に私がいる112P
生き切って、自然にいなくなった114P
西川「「粋」をかたちづくるような諦め」120P
「 認知症を病気、 障害であるというのは、結局社会的な見方だろうと言いました。でも一方で、いまの世の中でわれわれは生きているのだから、やはり病であり、障害であると思っているのです。」122P
西川「寂しさを何とかする哲学など聞いたことがない」123P
分かりやすい人−脆弱性140P
相手の不自由を知って的確なケアをそこに届けることがやさしさにつながる148P
愛情労働(からくるやさしさ)でなく、技術の問題として
言葉で理解する、言葉で届けるむずかしさ159P
認知ではなく、情動でとらえる167P
「ああ、きれい」という情動169P
虚構の場−世界173Pと現実の世界の反転
変革される世界と構築された世界
ギャップは守り育てるもの175P
虚構の場とギャップのコインの裏表の関係177P
「 これらはすべて、まわりのひととつながろうとしていることの証である」181P
すでに保持することが困難になった自己同一性へのこだわりが周辺症状に転化させる182P
立ち止まってみる、「少し止まる」・・「歩み」という文字の構成185P
掛け違えて余ったボタンへの出会い・・歌186P
「棒の如きもの」188P・・・小澤さんの人生・・棒として貫かれている
「<政治>と<実践>の「接続の技術論」の一つとして「物語りとして解釈する」」191P
「原因論では争わない」190P
「工夫しようとする現場をどう作るのか」192P
「専門職がいかに力を行使しているか」193P・・・なくせない権力関係を押さえ続ける
「読み解いたことの傲慢さ」194P
二元論ではなく、「過剰に持ち上げられたものは適切な位置に戻そうよ」ということ201P
勘・・・コトバや論理は後からついてくる203P・・・ミネルバの梟
天田さんの小澤さんがやろうとしていたことの分析8つ222P
二元論批判と原因論で争わない230P・・・因果論自体の批判
豊かな虚構の世界をあちこちにつくり出す231P
「私たちがケアの現場で認知症を抱える人にとって異常な状況をつくっているのではないか、無理矢理その状況に適応をしいているんではないか。そのことが認知症の人にさまざまな反応を引き起こしているのではないか。いつもそう疑い、反省してケアにあたらねばならないだろう、と思います。」254P・・・反転させたところでの自戒
一番つらいのは本人?・・・自我へのとらわれでのつらさ257P
「アルツハイマー病がもたらした砂漠に、愛はたくさんのオアシスを作った」268P
関係があって「私」が生まれる286P・・・関係論
補助自我(としてのサポート)292P
ここまで書いてきたことは「物語」の素材を精微にする作業の一つ294P
・小澤勲『ケアってなんだろう』医学書院2006
小澤さんは反精神医学というところで医療サイドの運動も含めて理論的に担っていたひとです。日本に新しい「自閉症論」を持ち込んだということでも特筆されるひとです。わたしはかつて、「自閉症児」と呼ばれた子どもへの通所施設での体罰事件の裁判支援をしていたときに、小澤さんの本を勧められて何冊か読んでいました。わたしがやろうとしていた「「障害の否定性」の否定」というところで共鳴する論攷があり、その論攷に共鳴的に揺さぶられていました。それに関係論的な押さえに認識論的なものも含んで論攷を展開していけるのではという期待もありました。しかし、否定を貫こうとしていたわたしには、「必ずしも否定というだけではみない」という論理の進め方、そして医師として直すなり軽くするというところでの関わりかたに、結局反精神医学には医者の立場を捨てない限りたちえないのかという思いをもったものです。
その後、小澤さんは「自閉症」から離れ、高齢者とりわけ「認知症」と呼ばれるひとたちへのケアの問題に転じて、何冊かの本を出されていて、それうち何冊か買い求めていたのですが、読めないままでいました。で、死(2008)の直前に出された『自閉症とはなにか』を、当時「発達障害」関係の本を読んでいる中で、改めて「自閉症論」を押さえておこうと読みました。
そして、この本も買い求めていました。で、またもや積ん読状態になっていたのですが、上野さんのケア論を読む中で、この本の紹介がなされている中で、ケア論の必読書というべきこの本に至りついたのです。
わたしは「吃音者」の立場で、今の社会に広がつて居て、当事者たちもとらわれている「吃音−障害の否定性」をどう批判し得るのかということを考え、論を展開してきました。で、そこにかかわっている非当事者の言語療法士・学者のひとたちの少しでも気持ちを軽くしたい、二次障害をなくしていくという現実的運動をそれも必要なのだろうけど、悪無限的対処行動になるのではと批判してきたのです。
高齢者の「認知症」の場合、関係性の変革など進めても実際的にそれは本人には届かない、だから「いま、ここで」の臨床こそが問題になり、そこで少しでも生きがたさを軽くするというころでの関わりになっていくのだろうと思っています。そのようなこととして社会運動から臨床へ軸を移したのだと思います。医者という立場であり続ける限りは当然のことだったのかもしれません。体制の変革を問題にしていた立場からは転向ともいいえることですが、むしろ臨床医としてはこの本の中で書かれている「棒として貫かれている」ことなのでしょう。
ですが、パターナリズムから逃れ得るために、ラジカルな根底的な変革をめざすわたしとしてはあくまで体制の変革を志向している中で、「いま、ここで」という臨床には違和を持ち続けてしまうのです。
この本は対談で進んでいます。吃瑤蓮峺かいあって考える」として、作家の田口ランディさん、「べてるの家」の向谷地生良さん、精神科医の滝川一廣さん、作家の瀬戸内寂聴さん。
局瑤麓禺蠍Φ羃函弊樟郛,気鵝⊇亳泰靖さん、天田城介さん)との対談とその研究家による小澤論とも言える論文。敬瑤肋澤さんの「認知症論」のエッセンスとでも言うべき講演録。孤瑤蓮崘知症」を題材にしている作品への評論ともいえる文集です。最後に遺言的なコメントがあります(著者は肺がんで余命宣告を超えて著作を出していて、この本もその中で紡ぎ出している著作です)。
書かれていることを、うまく伝え得ません。いつものようにメモ的になっていますが、抜き書きとコメントです。
「「私は私」を守ってくれるという意味で「人権」という言葉もあるのでしょう。」27P・・・近代的個我の論理としての人権
「自分が網の目の一つのようにあって、生きている」27P・・・廣松
「人間にとって不要なもの、後から付け加わったものがどんどんそぎ落とされて、最後に「これは人間のいちばん根底にあるものだ」という感じで生きておられる。」29P
スウェーデン型福祉30P 田口「スウェーデンで語れることは、人間としてどう扱うか、だけです。その「人間」という枠が私には窮屈すぎる感じがする。」・・・キリスト教・パーソン論・近代的個我の論理
「なんでQOLなんていう言葉が出てきたかというと、アメリカの本などではひじょうに明確なんですよ。治療をしてその効果があまりない人に対しては、医療費を投入するのはムダだ。そこで、治療をしなくても不満を持たずに暮らしてもらうためにはどうしたらいいのかというところで、QOLという言葉が出てくる。」31P
「欧米では、人はどんなに重いハンディを背負っても自立に向かって努力しなさいという感じが強いです。人権という言葉の裏には、当然そういう義務みたいなものを要求されます。」31P
「分割払いでもオッケーということですね」40P・・・ずっとつきあえないということで、分割して(時間でくぎって)つきあっていくということ。
滝川「反精神医学の場合、本人の外にある環境のとらえが少し狭いという感じがします。政治的環境、経済的環境に限定しすぎているので、それを推し進めていくと窮屈な一種の倫理主義になってしまったり、政治主義になってしまって、身動きがとれなくなってしまう。」「私たちのこころの働き自体が、社会的・共同的なもので、その社会的・共同的なものをヒトという個体が脳の中で一生懸命やっているわけだから、そこにはやっぱり無理もある。その無理の結果として精神障害という、ある“在り方”が生じてくる」78-79P
「つながりというか共同性がまずあって、それを基盤にして、「私は私」になった。ところが個別性と共同性が乖離して、非常に不自由なものが生まれてきた。」79P
「運動に巻き込まれていると「社会が変われば人間も変わる」というような感じが強かったのかもしれませんね。でも、ほんとうにそんなふうに思っていたのかと言われると、わかんないですよ。だからもう一度臨床に沈潜して、基本的なものごとから考え直さないと、「とうていこのままではやっていけないな」と、どこかで感じていたんですね。」79P
「情動性と共同性あるいはつながりは、ほとんどイコールである」80P
滝川「「共同的な存在でないと生きていけない」というふうに、人間は最初からできています。共同性というのはそれだけ根が深いものなのでしょう。」80P
対人関係の水準が上がってきている88P・・障害としてのしんどさ
名前を知られすぎると歪む92P
物語を読む93P
相手の心を理解しようとする志を捨てていいとは思わない94P
物語を作るのではなく、読む95P
いろんな人の中に私がいる112P
生き切って、自然にいなくなった114P
西川「「粋」をかたちづくるような諦め」120P
「 認知症を病気、 障害であるというのは、結局社会的な見方だろうと言いました。でも一方で、いまの世の中でわれわれは生きているのだから、やはり病であり、障害であると思っているのです。」122P
西川「寂しさを何とかする哲学など聞いたことがない」123P
分かりやすい人−脆弱性140P
相手の不自由を知って的確なケアをそこに届けることがやさしさにつながる148P
愛情労働(からくるやさしさ)でなく、技術の問題として
言葉で理解する、言葉で届けるむずかしさ159P
認知ではなく、情動でとらえる167P
「ああ、きれい」という情動169P
虚構の場−世界173Pと現実の世界の反転
変革される世界と構築された世界
ギャップは守り育てるもの175P
虚構の場とギャップのコインの裏表の関係177P
「 これらはすべて、まわりのひととつながろうとしていることの証である」181P
すでに保持することが困難になった自己同一性へのこだわりが周辺症状に転化させる182P
立ち止まってみる、「少し止まる」・・「歩み」という文字の構成185P
掛け違えて余ったボタンへの出会い・・歌186P
「棒の如きもの」188P・・・小澤さんの人生・・棒として貫かれている
「<政治>と<実践>の「接続の技術論」の一つとして「物語りとして解釈する」」191P
「原因論では争わない」190P
「工夫しようとする現場をどう作るのか」192P
「専門職がいかに力を行使しているか」193P・・・なくせない権力関係を押さえ続ける
「読み解いたことの傲慢さ」194P
二元論ではなく、「過剰に持ち上げられたものは適切な位置に戻そうよ」ということ201P
勘・・・コトバや論理は後からついてくる203P・・・ミネルバの梟
天田さんの小澤さんがやろうとしていたことの分析8つ222P
二元論批判と原因論で争わない230P・・・因果論自体の批判
豊かな虚構の世界をあちこちにつくり出す231P
「私たちがケアの現場で認知症を抱える人にとって異常な状況をつくっているのではないか、無理矢理その状況に適応をしいているんではないか。そのことが認知症の人にさまざまな反応を引き起こしているのではないか。いつもそう疑い、反省してケアにあたらねばならないだろう、と思います。」254P・・・反転させたところでの自戒
一番つらいのは本人?・・・自我へのとらわれでのつらさ257P
「アルツハイマー病がもたらした砂漠に、愛はたくさんのオアシスを作った」268P
関係があって「私」が生まれる286P・・・関係論
補助自我(としてのサポート)292P
ここまで書いてきたことは「物語」の素材を精微にする作業の一つ294P
エコロジー37
たわしの読書メモ・・ブログ196
・『情況 2012年 03・04月号 [雑誌]特集;激動するアフリカ 福島第一原発3・11事故一年』
情況出版2012
『情況』の原発震災関係の特集の第六弾です。
一周年に向けた現地と全国的な動き、経産省前テントひろばを巡る動きの報告などです。
現地の脱原発の運動の動きで会結成の動きが出ているようです。また子どもの放射線許容量を巡る運動と原発の副教材で原発を容認するようなものが相変わらず出てくることに対して、独自の教材を作ろうとかいう現地教組の活動が報告されています。
もうひとつは「テントひろば」の動きです。テントは九条阻止の会が最初動いたのですが、福島の女性たちも泊まり込みを始め、経産省の撤去の動きが出て、また右翼の攻撃なども出ていてひとつの大きな焦点になっています。かなり幅広いひとと柔軟なとりくみです。海外からの取材もきているようなのですが、日本マスコミではほとんど取り上げられていません。ブログが出ています。
アフリカの特集もやっています。グロバリーゼーションということで、ひとつの焦点になるとろですが、わたしはほとんど押さええていません。後日ちゃんと読みたいと思っています。
・『情況 2012年 03・04月号 [雑誌]特集;激動するアフリカ 福島第一原発3・11事故一年』
情況出版2012
『情況』の原発震災関係の特集の第六弾です。
一周年に向けた現地と全国的な動き、経産省前テントひろばを巡る動きの報告などです。
現地の脱原発の運動の動きで会結成の動きが出ているようです。また子どもの放射線許容量を巡る運動と原発の副教材で原発を容認するようなものが相変わらず出てくることに対して、独自の教材を作ろうとかいう現地教組の活動が報告されています。
もうひとつは「テントひろば」の動きです。テントは九条阻止の会が最初動いたのですが、福島の女性たちも泊まり込みを始め、経産省の撤去の動きが出て、また右翼の攻撃なども出ていてひとつの大きな焦点になっています。かなり幅広いひとと柔軟なとりくみです。海外からの取材もきているようなのですが、日本マスコミではほとんど取り上げられていません。ブログが出ています。
アフリカの特集もやっています。グロバリーゼーションということで、ひとつの焦点になるとろですが、わたしはほとんど押さええていません。後日ちゃんと読みたいと思っています。
障害68
たわしの読書メモ・・ブログ195
・上野千鶴子/中西正司編『ニーズ中心の福祉社会へ―当事者主権の次世代福祉戦略』医学書院2008
上野さんと中西さんでフェミニズムと障害問題が交差する『当事者主権』という新書版を出しています。そのコンビでの高齢者福祉ということでの編集で、当事者主権という内容をもった論文集です。「障害者福祉」からの照射という内容も出てきます。それなりに会議をもって確認の作業をしながらの本の出版に至ったようなのです。当事者という概念の新たな概念づけも出ています。
どうも北欧型の福祉国家論なりがモデルとしてあるようです。国家論というより、政府政策論というところで、三つの政府というようなことも出ています。どうもわからないのは、スウェーデンでの断種手術の発覚以降出ている、「北欧型の福祉も優生思想やパターナリズムというところから抜けだせていない」ということをどう押さえているのかという問題があるのですが、そのことが対象化されていないようなのです。それ以前に、そもそも障害問題をどう押さえるのかの問題があります。『当事者主権』という本が出されたときにコメントしたのですが、そもそも『構築主義とはなにか』という本の編集共著をした上野さんが、労働概念の脱構築なり、人権論の脱構築なり、障害概念の脱構築なりに踏み込まないということがあります。障害の社会モデルが脱構築主義そのものであるというとらえ方ができると思うのですが、そのあたりの論攷が出てこないということがわたしは理解出来ないし、労働概念なりをどう押さえるのかという問題もあるはずです。
ベーシックインカムの議論もでているのですが、この本は市場経済は問題にしないというところで進んでいます。そもそもベーシックインカムは市場経済の否定に進んでいきます。というのは、ベーシックインカムはマルクスが資本主義的労働を賃金奴隷制と規定した、資本家と労働者が労働力市場で契約を結ぶとき、資本家はその資本を遊ばせておけるけれど、労働者は働かないと食えないというところで、その非対称性において、賃金奴隷制という情況になっている、ベーシックインカムはその賃金奴隷制を崩壊させる、というところで、市場経済を前提にするということが崩れるか、ベーシックインカムが実現できないかどちらかにしかならないということではないかとわたしは押さえています。そもそもベーシックインカムの定義も含めた議論が必要だと思っています。
さて、いつものように章ごとのメモを貼り付けておきます。
1章 上野千鶴子「当事者とは誰か? ニーズ中心の福祉社会のために」
上野さんが基調的・原理的文とも言えるこのタイトルの文を書いています。
当事者主権という概念がどうしても理解できません。「当事者主権トラブル」というべき混乱が生み出されているのではないでしょうか?
当事者に主体性をもったものという意味を含ませようとしています。それはむしろ主体化された当事者ということで当事者主体という概念になるはずです。ところがそれがもともとあった当事者主体ということばを当事者主権ということばに変えてしまったのです。むしろ主権という概念は潜在的なものではないでしょうか? わたしは権利や人権という概念に疑問をもつています。さらにそのような概念は、差別はいけないことという相互承認の上に成り立つ概念で、そのような概念のないところでは成立しなくなります。そういう意味で潜在的なのです。
当事者というとことはむしろ被差別当事者の意味で使われてきたことではないでしょうか? 反差別というところで主体が形成されていなくとも、差別ということを感じられる当事者性があること。だから当事者ということが主体形成されてなくても、論理化されていなくても、その差別の問題での把握できる可能性が大きいと言えます。専門家を批判する被差別当事者の当事者ということでの専門性ということがそこにあったはずです。確かに被差別当事者といっても、差別されるのはいやだということは、反差別の立場に立つのではなく、自分が差別される側になりたいことも含みえます。ですから、被差別当事者と区別される、当事者主体という概念が生きてくるのです。それを主権などということばを持ち出すと混乱するだけではないでしょうか。反差別としての当事者主体ということがそこで突き出しえるはずです。その反差別ということがあいまいになる人権概念をつかっていくことで、差別の構造そのものを問題にしていく反差別ということの突き出しでない、機会均等派の登場もそのような概念の曖昧化と混乱から生みだされるのではないでしょうか?
さて、この論攷で使われている「当事者」ということばと「第三者」ということばは弁証法の対概念として出てきます。
そもそもヘーゲルあたりが出した概念で、マルクスやその流れの中の弁証法として転換したことです(参考文献として廣松渉『弁証法の論理』をあげることができます)。当事者意識フェア・ウンスと第三者意識フェア・エスの弁証法です。この本では第三者ということばは差別する側というとこで収束してしまっています。行政とか専門家、学者と名を連ねています。ですが、わたしのいう被差別当事者が主体化したところで、当事者主体になるというところで、問題をほりさげてとらえた第三者的に学的にとらえ返した、高次化するという弁証法なのです。当事者と学者は必ずしも対立するわけではありません。そもそも当事者の学者もいます。それにこの本の著者の学者のひとたちは、行政サイドや、抑圧的専門家、「御用学者」とは区別されるはずです。「第三者」といっても多様性がある、行政側と反差別側で対峙することもあるはずです。当事者でない学者にはつねにずれを生じてしまっているというところで、自戒的に対立してしまうという自覚をもって論攷を進める姿勢には、拍手を送りたいのですが。「第三者」という概念を弁証法的概念から照射することも必要ではないかと思います。
当事者には被差別当事者ということで、被差別体験の有無が当事者性の問題の核にあります。そのあたりは代行主義批判として議論されてきたことなのです。そのことが風化しているので、このような混乱も障害問題でおきているようなのです。そのことの高齢者版として出されていることで、きちんと整理していく必要があります。
2章 笹谷春美「ケアサービスのシステムと当事者主権」
ケア・ワーカーのケアする立場での裁量権を問題にしています。
ケアリングという相互性の概念を出しているところは興味深いことです。
ジェンダー秩序を問題にしています。
旧来の密接なケア+賃金の保障ということがこの著者が求めることのようです。
当事者主体ということを押さえると、その主体化には労働概念のとらえ返しが必要になるのではと、この論文を読みながら考えていました。
この本の中でこの論文を筆頭にサービスということばが多用されていくのですが、サービスという概念を突き詰めていく必要があるのではないかと思っています。サービスという語の使い方には、「やってあげている」という概念がつきまとっているからです。
3章 齋藤暁子「高齢者のニーズ生成のプロセス 介護保険サービスの利用者の語りから」
当事者の定義のおかしさ171P
第三者のとらえかたのおかしさ、行政側というところでしか第三者になっていない
認定者は行政から認定されるもの
行政サイドの専門化・学者と反差別の立場に立とうとする人たちの区別がついていない
4章 春日キスヨ「ニーズはなぜ潜在化するのか 高齢者虐待問題と増大する「息子」加害者」
せっかくフェミニストの論客が高齢者ケアを問題にしているのにフェミニズムが議論してきたことが脱け落とされ、生かされていないのではと感じていました。フェミニズムが押さえた母−息子関係がないのです。息子の問題から制度的なところにいきなり飛躍しているのですが、被差別の中で母の子に対する抑圧性の問題を展開していないのです。子に夢を託す子離れしていない母の構図、そこでの過保護、そういう中での母が動けなくなったらどうなるかの問題、それらも含めてとらえかえしていく必要があるのではと思うのです。いろんなケースがあるとは思いますが、家庭内暴力の問題とかもつながっていることではないかと思うのです。過保護や抑圧の反作用としての息子の母への暴力という側面での問題です。
5章 上野千鶴子「福祉多元社会における協セクターの役割」
最近出された上野本『ケアの社会学』の凝縮した内容になっています
ケアというサービス商品には淘汰は働かない131P
理念や協の経営参加という名による低賃金化が競争し得る条件を作っている側面をとらえると協の負の側面があり、その問題をどう押さえるのかということをもう少し展開する必要があるのではと思ったりしていました。介助の仕事で飯が食えないという現実をどうするのか、ということにも通じることです。
6章 池田徹「福祉事業における非営利・協同セクターの実践 生活クラブ生協千葉の事例から」
ベーク報告156P・・・これは共の論理ではないかと感じていました。
社会的経済と社会的企業という概念
生協の協
7章 大沢真理「三つの福祉政府体系と当事者主権」
機能の集合という概念 それを欠くということをニーズとしてとらえる180P・・障害の社会モデルに通じることです。
当事者に寄り添った形での協同−ユニバーサル197P
三つの福祉体系・・・国家ではない、地方政府・中央政府・福祉基金政府
8章 広井良典「これからの社会保障政策と障害福祉 高齢者ケアとの統合を含む社会サービスの可能性を視野に」
医療・福祉重点型の社会保障
日本は高齢者福祉偏重なっていて、そうではない「人生前半の社会保障」の必要性を訴えています。
9章 立岩真也「楽観していいはずだ」
立岩さんの論攷はこれまでにいくつか読んできています。著者の市場経済を前提にした議論ということを、ここでは踏み外しているのではないかと読み取っていました。そうなると立岩さんの倫理を軸にした論攷がなり立たなくなるのです。一体どうなるのでしょう?
10章 中西正司「当事者主権の福祉戦略 ユーザーユニオンの結成に」
全体のまとめ 北欧型の福祉モデルが全体を貫いているということをここまで来て気付きました。
パターナリズムに支配されている限りは福祉抑制の論理が働くのです。
ちょっと気になること。
「誰も好きこのんで障害者になったのではない」257Pという文言が出てきます。これほど「障害者運動」を担ってきたひとが「障害の否定性」にとらわれた文を書いているということに驚いているのですが。
どうも分からないことがもうひとつあります。それは「障害者運動」を担っているひとたちには「障害の社会モデル」ということが浸透して行っているのに、この著者はまったくそのとらえ方が出てこないのです。労働という概念のとらえ方もない、北欧もとらえられていた優生思想という押さえ方もないのです。
さて、以上メモ的に書いてきましたが、全体の概観からこの本についてコメントしておきます。
最初に問題にするのはニーズということです。この本では当事者をニーズを自覚したものとしてとらえているのですが、そもそも被差別者が差別の中で、自らのニーズということをとらえられてこなかったという歴史をどうとらえるのかの問題があります。このあたりは「障害者運動」の中で議論されてきた、「自己決定権」をそのままとらえるわけにはいけないという問題にも通じることです。このことを押さえるには、当事者ということ、すなわち被差別当事者と当事者主体の間の断絶を問題にしなくてはなりません。この本の当事者の定義で「ニーズを自覚したもの」という使い方をしてしまうと、被差別当事者の主体化の道筋が出て来なくなります。わたしは当事者という概念規定は、被差別当事者に戻すべきだと提起します。もうひとつ、ニーズということでいえば、「なぜニーズが出てこないか」ということで、そもそも受験競争という中で何をしたいのか奪われているとか、フェミニズムが問題にした男性への従属のなかで女性が相対的総体的に主体性を奪われる問題にも通じている問題があるのではないかと言い得ます。
さて、もうひとつは、北欧型福祉の過大評価という問題です。これについては福祉の先進モデルといわれていたスウェーデンで「障害者」への断種手術が為されていたということをめぐっての議論の中で出されていたことが、この本の中ではとらえ返されていないという問題です。この本の中でもパターナリズムから抜け出す必要があるという論攷が出ているのですが、北欧型の福祉もパターナリズムから抜け出せていないという批判が出て来ています。西洋思想の近代的個我の論理なり、そこから来るパーソン論批判をめぐって、議論されていたことがあったはずです。この本の中ではそのようなことがすっかり抜け落ちています。
この本は高齢者福祉を主題にしているのですが、障害問題からの照射をしています。そこで、そもそも障害差別の根拠はどこから来ているのかの分析をもっての照射ができるのではないでしょうか?
わたしは障害差別の土台には労働力の価値をめぐる差別があると押さえています。この本の著者たちは、市場経済を前提にして議論を進めるか、せいぜい市場経済ということをカッコにくくって論攷を進めているのです。資本主義社会である限り、労働能力の違いによる区別は差別ではないという論理に陥ります。労働力の価値という概念から抜け出せないのです。ですから、優生思想や競争原理からも抜け出せません。そういうところではパターナリズムからも抜け出せないのです。
そもそもフェミニズムも含めて、労働価値説という錯誤に陥っていることがあり、そもそも労働とは何かという問題から掘り起こしていく必要があります。
さて、もうひとつ、パターナリズムを超えるためにはベーシックインカムが必要だという議論が何人かのひとから出されています。資本主義社会において、パターナリズムから逃れ得ている福祉はないのではないでしょうか。そもそもベーシックインカムは市場原理とアンチノミー(二律背反)になるのです。
そもそもこの本の論攷で、部分的には市場経済の論理を超えているのに、そこから拡げようとしないで、市場経済の論理の枠内に収めてしまおうとするところで、齟齬を来しています。市場原理にのって議論を進めていくという前提を問題にしなければならないのではないでしょうか?
近代合理主義の生産性の論理から北欧も抜け出せていないのです。資本主義−近代的合理主義の中では、せいぜいできるのは「合理的配慮」という次元までです。そもそも偏見ということ以外では、「障害者は生産の合理的追求に合わない」として差別されるのです。「能力を個人がもっている」という世界観から抜け出せない限り、能力に応じた分配の論理から抜け出せないで、パターナリズムにとらわれていくのです。この本の論者の中には、そのことを倫理によって超えようという指向があるのですが、そのことは空想的社会主義批判として批判されていたことではないでしょうか? かつて議論されて蓄積されてきたことが活かされていないのです。いま一度きちんとした整理が必要だと考えています。
・上野千鶴子/中西正司編『ニーズ中心の福祉社会へ―当事者主権の次世代福祉戦略』医学書院2008
上野さんと中西さんでフェミニズムと障害問題が交差する『当事者主権』という新書版を出しています。そのコンビでの高齢者福祉ということでの編集で、当事者主権という内容をもった論文集です。「障害者福祉」からの照射という内容も出てきます。それなりに会議をもって確認の作業をしながらの本の出版に至ったようなのです。当事者という概念の新たな概念づけも出ています。
どうも北欧型の福祉国家論なりがモデルとしてあるようです。国家論というより、政府政策論というところで、三つの政府というようなことも出ています。どうもわからないのは、スウェーデンでの断種手術の発覚以降出ている、「北欧型の福祉も優生思想やパターナリズムというところから抜けだせていない」ということをどう押さえているのかという問題があるのですが、そのことが対象化されていないようなのです。それ以前に、そもそも障害問題をどう押さえるのかの問題があります。『当事者主権』という本が出されたときにコメントしたのですが、そもそも『構築主義とはなにか』という本の編集共著をした上野さんが、労働概念の脱構築なり、人権論の脱構築なり、障害概念の脱構築なりに踏み込まないということがあります。障害の社会モデルが脱構築主義そのものであるというとらえ方ができると思うのですが、そのあたりの論攷が出てこないということがわたしは理解出来ないし、労働概念なりをどう押さえるのかという問題もあるはずです。
ベーシックインカムの議論もでているのですが、この本は市場経済は問題にしないというところで進んでいます。そもそもベーシックインカムは市場経済の否定に進んでいきます。というのは、ベーシックインカムはマルクスが資本主義的労働を賃金奴隷制と規定した、資本家と労働者が労働力市場で契約を結ぶとき、資本家はその資本を遊ばせておけるけれど、労働者は働かないと食えないというところで、その非対称性において、賃金奴隷制という情況になっている、ベーシックインカムはその賃金奴隷制を崩壊させる、というところで、市場経済を前提にするということが崩れるか、ベーシックインカムが実現できないかどちらかにしかならないということではないかとわたしは押さえています。そもそもベーシックインカムの定義も含めた議論が必要だと思っています。
さて、いつものように章ごとのメモを貼り付けておきます。
1章 上野千鶴子「当事者とは誰か? ニーズ中心の福祉社会のために」
上野さんが基調的・原理的文とも言えるこのタイトルの文を書いています。
当事者主権という概念がどうしても理解できません。「当事者主権トラブル」というべき混乱が生み出されているのではないでしょうか?
当事者に主体性をもったものという意味を含ませようとしています。それはむしろ主体化された当事者ということで当事者主体という概念になるはずです。ところがそれがもともとあった当事者主体ということばを当事者主権ということばに変えてしまったのです。むしろ主権という概念は潜在的なものではないでしょうか? わたしは権利や人権という概念に疑問をもつています。さらにそのような概念は、差別はいけないことという相互承認の上に成り立つ概念で、そのような概念のないところでは成立しなくなります。そういう意味で潜在的なのです。
当事者というとことはむしろ被差別当事者の意味で使われてきたことではないでしょうか? 反差別というところで主体が形成されていなくとも、差別ということを感じられる当事者性があること。だから当事者ということが主体形成されてなくても、論理化されていなくても、その差別の問題での把握できる可能性が大きいと言えます。専門家を批判する被差別当事者の当事者ということでの専門性ということがそこにあったはずです。確かに被差別当事者といっても、差別されるのはいやだということは、反差別の立場に立つのではなく、自分が差別される側になりたいことも含みえます。ですから、被差別当事者と区別される、当事者主体という概念が生きてくるのです。それを主権などということばを持ち出すと混乱するだけではないでしょうか。反差別としての当事者主体ということがそこで突き出しえるはずです。その反差別ということがあいまいになる人権概念をつかっていくことで、差別の構造そのものを問題にしていく反差別ということの突き出しでない、機会均等派の登場もそのような概念の曖昧化と混乱から生みだされるのではないでしょうか?
さて、この論攷で使われている「当事者」ということばと「第三者」ということばは弁証法の対概念として出てきます。
そもそもヘーゲルあたりが出した概念で、マルクスやその流れの中の弁証法として転換したことです(参考文献として廣松渉『弁証法の論理』をあげることができます)。当事者意識フェア・ウンスと第三者意識フェア・エスの弁証法です。この本では第三者ということばは差別する側というとこで収束してしまっています。行政とか専門家、学者と名を連ねています。ですが、わたしのいう被差別当事者が主体化したところで、当事者主体になるというところで、問題をほりさげてとらえた第三者的に学的にとらえ返した、高次化するという弁証法なのです。当事者と学者は必ずしも対立するわけではありません。そもそも当事者の学者もいます。それにこの本の著者の学者のひとたちは、行政サイドや、抑圧的専門家、「御用学者」とは区別されるはずです。「第三者」といっても多様性がある、行政側と反差別側で対峙することもあるはずです。当事者でない学者にはつねにずれを生じてしまっているというところで、自戒的に対立してしまうという自覚をもって論攷を進める姿勢には、拍手を送りたいのですが。「第三者」という概念を弁証法的概念から照射することも必要ではないかと思います。
当事者には被差別当事者ということで、被差別体験の有無が当事者性の問題の核にあります。そのあたりは代行主義批判として議論されてきたことなのです。そのことが風化しているので、このような混乱も障害問題でおきているようなのです。そのことの高齢者版として出されていることで、きちんと整理していく必要があります。
2章 笹谷春美「ケアサービスのシステムと当事者主権」
ケア・ワーカーのケアする立場での裁量権を問題にしています。
ケアリングという相互性の概念を出しているところは興味深いことです。
ジェンダー秩序を問題にしています。
旧来の密接なケア+賃金の保障ということがこの著者が求めることのようです。
当事者主体ということを押さえると、その主体化には労働概念のとらえ返しが必要になるのではと、この論文を読みながら考えていました。
この本の中でこの論文を筆頭にサービスということばが多用されていくのですが、サービスという概念を突き詰めていく必要があるのではないかと思っています。サービスという語の使い方には、「やってあげている」という概念がつきまとっているからです。
3章 齋藤暁子「高齢者のニーズ生成のプロセス 介護保険サービスの利用者の語りから」
当事者の定義のおかしさ171P
第三者のとらえかたのおかしさ、行政側というところでしか第三者になっていない
認定者は行政から認定されるもの
行政サイドの専門化・学者と反差別の立場に立とうとする人たちの区別がついていない
4章 春日キスヨ「ニーズはなぜ潜在化するのか 高齢者虐待問題と増大する「息子」加害者」
せっかくフェミニストの論客が高齢者ケアを問題にしているのにフェミニズムが議論してきたことが脱け落とされ、生かされていないのではと感じていました。フェミニズムが押さえた母−息子関係がないのです。息子の問題から制度的なところにいきなり飛躍しているのですが、被差別の中で母の子に対する抑圧性の問題を展開していないのです。子に夢を託す子離れしていない母の構図、そこでの過保護、そういう中での母が動けなくなったらどうなるかの問題、それらも含めてとらえかえしていく必要があるのではと思うのです。いろんなケースがあるとは思いますが、家庭内暴力の問題とかもつながっていることではないかと思うのです。過保護や抑圧の反作用としての息子の母への暴力という側面での問題です。
5章 上野千鶴子「福祉多元社会における協セクターの役割」
最近出された上野本『ケアの社会学』の凝縮した内容になっています
ケアというサービス商品には淘汰は働かない131P
理念や協の経営参加という名による低賃金化が競争し得る条件を作っている側面をとらえると協の負の側面があり、その問題をどう押さえるのかということをもう少し展開する必要があるのではと思ったりしていました。介助の仕事で飯が食えないという現実をどうするのか、ということにも通じることです。
6章 池田徹「福祉事業における非営利・協同セクターの実践 生活クラブ生協千葉の事例から」
ベーク報告156P・・・これは共の論理ではないかと感じていました。
社会的経済と社会的企業という概念
生協の協
7章 大沢真理「三つの福祉政府体系と当事者主権」
機能の集合という概念 それを欠くということをニーズとしてとらえる180P・・障害の社会モデルに通じることです。
当事者に寄り添った形での協同−ユニバーサル197P
三つの福祉体系・・・国家ではない、地方政府・中央政府・福祉基金政府
8章 広井良典「これからの社会保障政策と障害福祉 高齢者ケアとの統合を含む社会サービスの可能性を視野に」
医療・福祉重点型の社会保障
日本は高齢者福祉偏重なっていて、そうではない「人生前半の社会保障」の必要性を訴えています。
9章 立岩真也「楽観していいはずだ」
立岩さんの論攷はこれまでにいくつか読んできています。著者の市場経済を前提にした議論ということを、ここでは踏み外しているのではないかと読み取っていました。そうなると立岩さんの倫理を軸にした論攷がなり立たなくなるのです。一体どうなるのでしょう?
10章 中西正司「当事者主権の福祉戦略 ユーザーユニオンの結成に」
全体のまとめ 北欧型の福祉モデルが全体を貫いているということをここまで来て気付きました。
パターナリズムに支配されている限りは福祉抑制の論理が働くのです。
ちょっと気になること。
「誰も好きこのんで障害者になったのではない」257Pという文言が出てきます。これほど「障害者運動」を担ってきたひとが「障害の否定性」にとらわれた文を書いているということに驚いているのですが。
どうも分からないことがもうひとつあります。それは「障害者運動」を担っているひとたちには「障害の社会モデル」ということが浸透して行っているのに、この著者はまったくそのとらえ方が出てこないのです。労働という概念のとらえ方もない、北欧もとらえられていた優生思想という押さえ方もないのです。
さて、以上メモ的に書いてきましたが、全体の概観からこの本についてコメントしておきます。
最初に問題にするのはニーズということです。この本では当事者をニーズを自覚したものとしてとらえているのですが、そもそも被差別者が差別の中で、自らのニーズということをとらえられてこなかったという歴史をどうとらえるのかの問題があります。このあたりは「障害者運動」の中で議論されてきた、「自己決定権」をそのままとらえるわけにはいけないという問題にも通じることです。このことを押さえるには、当事者ということ、すなわち被差別当事者と当事者主体の間の断絶を問題にしなくてはなりません。この本の当事者の定義で「ニーズを自覚したもの」という使い方をしてしまうと、被差別当事者の主体化の道筋が出て来なくなります。わたしは当事者という概念規定は、被差別当事者に戻すべきだと提起します。もうひとつ、ニーズということでいえば、「なぜニーズが出てこないか」ということで、そもそも受験競争という中で何をしたいのか奪われているとか、フェミニズムが問題にした男性への従属のなかで女性が相対的総体的に主体性を奪われる問題にも通じている問題があるのではないかと言い得ます。
さて、もうひとつは、北欧型福祉の過大評価という問題です。これについては福祉の先進モデルといわれていたスウェーデンで「障害者」への断種手術が為されていたということをめぐっての議論の中で出されていたことが、この本の中ではとらえ返されていないという問題です。この本の中でもパターナリズムから抜け出す必要があるという論攷が出ているのですが、北欧型の福祉もパターナリズムから抜け出せていないという批判が出て来ています。西洋思想の近代的個我の論理なり、そこから来るパーソン論批判をめぐって、議論されていたことがあったはずです。この本の中ではそのようなことがすっかり抜け落ちています。
この本は高齢者福祉を主題にしているのですが、障害問題からの照射をしています。そこで、そもそも障害差別の根拠はどこから来ているのかの分析をもっての照射ができるのではないでしょうか?
わたしは障害差別の土台には労働力の価値をめぐる差別があると押さえています。この本の著者たちは、市場経済を前提にして議論を進めるか、せいぜい市場経済ということをカッコにくくって論攷を進めているのです。資本主義社会である限り、労働能力の違いによる区別は差別ではないという論理に陥ります。労働力の価値という概念から抜け出せないのです。ですから、優生思想や競争原理からも抜け出せません。そういうところではパターナリズムからも抜け出せないのです。
そもそもフェミニズムも含めて、労働価値説という錯誤に陥っていることがあり、そもそも労働とは何かという問題から掘り起こしていく必要があります。
さて、もうひとつ、パターナリズムを超えるためにはベーシックインカムが必要だという議論が何人かのひとから出されています。資本主義社会において、パターナリズムから逃れ得ている福祉はないのではないでしょうか。そもそもベーシックインカムは市場原理とアンチノミー(二律背反)になるのです。
そもそもこの本の論攷で、部分的には市場経済の論理を超えているのに、そこから拡げようとしないで、市場経済の論理の枠内に収めてしまおうとするところで、齟齬を来しています。市場原理にのって議論を進めていくという前提を問題にしなければならないのではないでしょうか?
近代合理主義の生産性の論理から北欧も抜け出せていないのです。資本主義−近代的合理主義の中では、せいぜいできるのは「合理的配慮」という次元までです。そもそも偏見ということ以外では、「障害者は生産の合理的追求に合わない」として差別されるのです。「能力を個人がもっている」という世界観から抜け出せない限り、能力に応じた分配の論理から抜け出せないで、パターナリズムにとらわれていくのです。この本の論者の中には、そのことを倫理によって超えようという指向があるのですが、そのことは空想的社会主義批判として批判されていたことではないでしょうか? かつて議論されて蓄積されてきたことが活かされていないのです。いま一度きちんとした整理が必要だと考えています。
エコロジー36
たわしの読書メモ・・ブログ194
・『情況 2012年 01・02月号 特集 脱原発運動 福島・ドイツ・経産省前テント村』
情況出版2012
『情況』の原発震災関係の特集の第五弾です。
脱原発を表明した俳優の山本太郎さんへのインタビュー。ドイツ椶療泙離悄璽鵑気鵑来日し、福島を訪れ交流インタビューした記事。除染の問題。「経産省前テントひろば」の運動。という内容になっています。
山本さんは、電力会社が社会的に力のある中で、マスメディア支配の情況がある中で、そして俳優やタレントなどは中立的なことを求められる中で、まさに「身を賭して」脱原発を突き出した思いということを語っています。
ドイツ椶療泙離悄璽鵑気鵑猟鶺は核心をついています。
「脱原発ということは原子力エネルギーを握っている巨大資本電力会社から鍵を奪い返して、各個人・地域経済・中小単位の経済にその鍵を渡すということです。さらに別のいい方をすれば、電力会社から権力を取り返し、個人・地域に力を取り返させることです。」26P
金融資本の救済と同じで、「損失は社会化し、利益は個人化する」26Pまさに資本主義の根源とも言えることへの批判の核心です。
そして資本の穀物投機によって餓死者が何百万と出るようなことと同じように原発への投機が、おそろしい被害を生み出す構造が類比がなされています。
除染が結局移染にしかなっていない、効果が疑問視されていることが書かれています。それでも地域への思いということで出てきていることなので、全否定はできないのでしょうが、少なくとも移住を希望するひとたちへの保障と、居続ける戻るひとたちへの医療保障や生活保障ということをきちんと要求し獲得していくことが必要なのだと思います。
「テントひろば」の運動は、運動をどのように回して行くのかということで、興味深いことがあります。今年になってテント撤去の動きが出ているのですが、このテントをめぐる攻防が重要な位置を占めているのだと認識しました。
この雑誌のこの特集を読んだのはちょうど原発震災から1年のときです。
テレビでも特集を組んでいて、それを見ていると、まさに福島―東北が原発震災で、難民を生みだし、そして地域に戻って生活するひとたちを刹那的なところに追い込んでいっている情況がとらえられます。どう考えても、こんなものどうして存在し得るのかというものなのです。核のゴミということをどう処理するのかという展望もなく、燃料ブールに使用済み核燃料をつけていて、福島第一原発4号機爆発の危機と同じような危機を抱え込んでいます。その数は地球を破滅させるのに十分な数なのです。安全などまさにまっかなウソであったのに、未だに安全とか口にするひとがいるのはどうしても信じられません。安全などということを口にした、口にするひとたちは、人類に対する罪として告発されることです。その前に「安全」ということを徹底的に論破しくし、反原発のうねりを作り出して行かなくてはなりません。「経産省前テント」は大きな焦点になっています。マスコミがとりあげようとしません。わたし自身動けないでいるのですが、できることから少しずつやっていきます。口コミ、インターネットなどを駆使して広める作業を担おうと思っています。「経産省前テントひろば」のブログはhttp://tentohiroba.tumblr.com/です。
わたし自身が、きちんと反原発の姿勢を示してこなかったという「罪」を背負いつつ、「福島原発事故を決して忘れない」などという問題ではなく、まさに原発をなくし、廃棄物をもう増やさないところから、その処理をどうしていくのかという問題も含めて、きちんと考え、訴え続けていきたいと思っています。
・『情況 2012年 01・02月号 特集 脱原発運動 福島・ドイツ・経産省前テント村』
情況出版2012
『情況』の原発震災関係の特集の第五弾です。
脱原発を表明した俳優の山本太郎さんへのインタビュー。ドイツ椶療泙離悄璽鵑気鵑来日し、福島を訪れ交流インタビューした記事。除染の問題。「経産省前テントひろば」の運動。という内容になっています。
山本さんは、電力会社が社会的に力のある中で、マスメディア支配の情況がある中で、そして俳優やタレントなどは中立的なことを求められる中で、まさに「身を賭して」脱原発を突き出した思いということを語っています。
ドイツ椶療泙離悄璽鵑気鵑猟鶺は核心をついています。
「脱原発ということは原子力エネルギーを握っている巨大資本電力会社から鍵を奪い返して、各個人・地域経済・中小単位の経済にその鍵を渡すということです。さらに別のいい方をすれば、電力会社から権力を取り返し、個人・地域に力を取り返させることです。」26P
金融資本の救済と同じで、「損失は社会化し、利益は個人化する」26Pまさに資本主義の根源とも言えることへの批判の核心です。
そして資本の穀物投機によって餓死者が何百万と出るようなことと同じように原発への投機が、おそろしい被害を生み出す構造が類比がなされています。
除染が結局移染にしかなっていない、効果が疑問視されていることが書かれています。それでも地域への思いということで出てきていることなので、全否定はできないのでしょうが、少なくとも移住を希望するひとたちへの保障と、居続ける戻るひとたちへの医療保障や生活保障ということをきちんと要求し獲得していくことが必要なのだと思います。
「テントひろば」の運動は、運動をどのように回して行くのかということで、興味深いことがあります。今年になってテント撤去の動きが出ているのですが、このテントをめぐる攻防が重要な位置を占めているのだと認識しました。
この雑誌のこの特集を読んだのはちょうど原発震災から1年のときです。
テレビでも特集を組んでいて、それを見ていると、まさに福島―東北が原発震災で、難民を生みだし、そして地域に戻って生活するひとたちを刹那的なところに追い込んでいっている情況がとらえられます。どう考えても、こんなものどうして存在し得るのかというものなのです。核のゴミということをどう処理するのかという展望もなく、燃料ブールに使用済み核燃料をつけていて、福島第一原発4号機爆発の危機と同じような危機を抱え込んでいます。その数は地球を破滅させるのに十分な数なのです。安全などまさにまっかなウソであったのに、未だに安全とか口にするひとがいるのはどうしても信じられません。安全などということを口にした、口にするひとたちは、人類に対する罪として告発されることです。その前に「安全」ということを徹底的に論破しくし、反原発のうねりを作り出して行かなくてはなりません。「経産省前テント」は大きな焦点になっています。マスコミがとりあげようとしません。わたし自身動けないでいるのですが、できることから少しずつやっていきます。口コミ、インターネットなどを駆使して広める作業を担おうと思っています。「経産省前テントひろば」のブログはhttp://tentohiroba.tumblr.com/です。
わたし自身が、きちんと反原発の姿勢を示してこなかったという「罪」を背負いつつ、「福島原発事故を決して忘れない」などという問題ではなく、まさに原発をなくし、廃棄物をもう増やさないところから、その処理をどうしていくのかという問題も含めて、きちんと考え、訴え続けていきたいと思っています。
フェミニズム4 障害67
たわしの読書メモ・・ブログ193
・立岩真也『家族性分業論前哨』生活書院2011
これは立岩さんがずっと前に書いた文をそのままにしておいたのをやっと本にしたもののようです。
その文は、上野さんの『家父長制と資本主義』と対話という内容をもっていて、しかも、今回たまたまかも知れないのですが、上野さんの『ケアの社会学』が出された直後に出版されたということで、わたしが連続して読んだということもあるにせよ、対比しかながら読んでいくとケアということをめぐる、家事ということをめぐる問題が浮きあがってきます。
立岩さんも上野さんも家事労働という概念で話を進めているのですが、そもそも「家事は労働なのか」という問い返しこそが必要なのだと考えています。これについては別稿で文にします。
ここでは、各章に沿ったメモを残します。
1章
マルクスの『資本論』をめぐっての解釈があり、マルクス派の中ではかなり浸透しているのですが、それが著者には届いていないようです。で、「どのように搾取を論定できるかという問題は厄介で容易に答えられない問いだが」「労働価値説は極めて厳しい条件のもとでしか成立しないことを示した森嶋」とか、出てきます。・・・前者はマルクスが一応容易に答えているのですが、それに疑問をもったのでしょうか? 後者はそもそもマルクスの押さえ方で労働価値説は物象化的錯認としてあるというとらえ方出ているのが著者には届いていないようです。なぜ、性差による賃金格差が生じるのかというといかけが必要で、そのためには差別の起源論なり、根源論が必要なのですが、140Pで、自分はそれをやらないと宣言して論攷を進めているようなのです。障害学でも障害の規定をさておいて出発すると著者は宣言して、論攷を進めます。資本主義社会がどういうしくみで成り立っているのかの分析が必要だと思うのですが、著者は市場経済はなくならないと宣言してしまい、資本主義経済の経済的関係、資本主義社会がどのようなところで成り立っているのかの分析を止めてしまっているようにしかわたしにはとらえられないのです。著者の立場は、倫理実践主義とでもいうようなことになるのでしようか?
しかし、そのような倫理はどのようにして可能なのでしょうか?
わたしは、著者は経済の問題を倫理の問題にすり替えようとしているのではないかととらえ返しています。
そもそも肝心な分析をしないままで論を進めると、その論はあちこちで齟齬を来していきます。
この章の最後に、成長が資本主義に必要なこととして押さえていますが、成長ということが資本主義に必要というような著者の押さえ方が出てくるのですが45P、資本主義社会に必要なのは利潤なのではないでしょうか? 競争に打ち勝つというところで、悪無限的利潤の追求に陥ります。ここでも、問題は成長ではないのです。ほんとは安定した利潤を求めたいのですが、ただ、利潤率は低下していくので、そこで新しいことは始めざるを得ないのです。それを成長と取り違えているのではないでしょうか?(ときには戦争という最大の浪費や大手ゼネコンがゼネコンのための公共事業で利潤を得ることを想起してもらえば、求められているのは、成長ではないということがわかります。)
2章
タイトルの「妻の労働に夫はいくら払うか」自体がジェンダーへのとらわれを示しています。家事を担うのは女性なのでしょうか?(確かにジェンダーということで、女性が家事を多く担っている現実があるのですが、「主夫」ということばが出てきている現実もあります。)そもそも家事を不払い労働と規定することから搾取という概念さえ出てきますし、「誰が得をしているのか」という問いかけが起きてしまっています。
家事はそもそも労働なのでしょうか?
労働は別種の活動を生み出す・・・家事を労働としてとらえたらの話です。
家事は単身者の場合は労働ではないし、家族の中における家事は役割分担の問題ではないでしょうか? そこにおける非対称性の問題ではないかとわたしは押さえています。
夫婦・家族は生計を同じくする共同生活者・・共同生活をおくるとはどういうことかというところで、役割分掌をしていくことになります。それがなぜ非対称的になっているという問題ではないでしょうか?
家事分担が均等であれば、家事労働をいう意味がなくなるのです。86P・・・そもそも分担の問題で労働ではないのです。
註22・・・「不払い労働」という概念を「無償労働」と「搾取された労働」というふたつの意味で使っているのに、それらを全部同じものにしたことからする混乱という江原さんの指摘・・・無償労働は収奪であって、そもそも搾取という概念が伴う意味での労働ではない、搾取と収奪の混同
グロバリーゼーション・・・家父長制へ資本主義の論理が浸透していき、新しい形の「家父長制」が更新されていきます。
ジェンダー体制がもたらす意味
私有財産制を維持できる/女性の賃金を安くできる/男性労働者の賃金も引き下げ得る・・・労働の女性化/継続的本源的蓄積のひとつの項になっている/機会を奪うことへの損失という論理は、そもそもスキルを必要としない労働には当てはまらないのです。
ゼロサムではないゼロゼロ
上野さんの論攷への矛盾の指摘 註21〜24
得をするのは体制―すなわち総資本ではないでしょうか?
結論的文「事態の根本は、まず市場からからの排除そのものにある。その不当性は、夫の再生産に関わる労働が不当に(市場価格と比較して)低く評価されていることにはなく、むしろ予め市場と家庭との間に相互に交通不可能な境界を設定し、しかも家族から市場を見させることによって、夫が与えるものと妻が夫の再生産のために与えるものとの格差を確認させ、その格差を利用し、予め支払われないことに決まっているサービスを引き出す、あるいは妻の時間の全域を従属として意味づけることにある。」108P・・・そもそも専業主婦というところが解体されてきている中で、排除されているわけではないのでは? 家事が女性に多く担わされる非対称性から、再生産活動は労賃を低く抑えるところで最低限におかれるというところで、家事を非対称的に多く担わされる女性の「女性の仕事」が低賃金におかれるということではないでしょうか?
損失というお金の問題だけではない・・体制の維持ということが資本主義社会の大前提ではないでしょうか? 私有財産制の継続という資本主義の大命題。
3章
起源を問題にしない140Pという出発点が間違えています。家事がなぜシャドーワークになるのかがとらえられなくなるのです。・・私有財産制度の問題、私的所有ということでくくらないと私有財産制が正当化できない・・・立岩障害学で障害概念自体からとらえ返すことをねぐった同じ発想
なぜ性差別が起きるのかのといかけは、資本主義を不問にして、資本主義社会を前提にして論を進めると解けない問題になります。・・・性差別の根拠として、私有財産制度の維持継承ということが大前提にあるとわたしは押さえています。
「市場では労働する能力の違いにより差異を与えることが認められる、というか、良いも悪いもなく、事実差異が与えられる。」143P・・・意味不明です。このことが問題の核心で、これこそが資本主義の障害差別の根拠・土台としてあるのです。だから、これを「悪い」としないと、障害差別を批判できなくなるのではないでしょうか?
「格差をつけられる範疇が女性である必然性は何もない」150P・・・性差別は私有財産制を継続するために必要なのです。
「格差によって利益を得る者は一部に過ぎず、しかもこの格差はこの一部の者以外の購入者によって縮小されていくはずである。」152P・・・差別は継続的本源的蓄積に必要・・「帝国主義」段階の資本主義・・・グロバリーゼーションの意味、労働の女性化という事態・・・経済でだけではない政治経済学
「雇用側」159Pという概念で総資本としての利害がとらえられなくなります。
4章
「働ける人が働く、必要な人が取る」169P・・・これは市場経済の枠組みで論じていくという立岩さんの立脚点を踏み外してして、マルクスの能力主義的とらわれさえ止揚したコミュニズムとでもいうべき内容になっているのではないでしょうか?
5章
私有財産制度の維持継承という問題を抜け落としているのでは?
6章
ジェンダーなり、母性神話なり、家族幻想をふりまくことによって、それが浸透していくことによって、現体制を維持することになる(その中身は私有財産制の維持・継続ということ)。
「歴史性・相対性の指摘とは独立に、不当性をどのように言うかが問題である」224P・・・政治経済学の問題を倫理としてたててしまうことになる、歴史性・相対性の問題としての収奪と搾取。
立岩さんの論理は「私的所有を前提にしない倫理主義」になっていくのでは?・・・でも市場経済を前提にする論攷と矛盾する・・・私有財産制という制度―政治経済学の問題を倫理の問題にすりかえている!?
倫理は空回りする・・空想的社会主義批判と唯物史観の問題
立岩さんが立てているのは社会学ではなく倫理学・・倫理学はバイオテクノロジーなどの問題ではある種の有効性はあるにせよ!?
7章
主体と言う語の持つ意味241P・・・英語subjectやフランス語subjetで形容詞として使われるとき、〜に従属するとか、〜に支配されるという意味も含んでいる
8章
中村・川崎編2000支払われない労働が世界中にある256P・・・農業の自己消費、自然のなかで生きる民の仕事など。
エコフェミニズムの個性のひとつとしての「最低限の生物学的差異」、個別化の一つの要素・・要素論批判・・・「これに反対するひとはまずいないはずである」278P・・???「差異の浮かびあがる構造」・・「オトコとオンナの生物学的差異」から問題にしていくこと・・・障害学においても問題にできるのでは?
「私の作ったものは私のものである」284Pということには「わたしたちが作ったものはわたしたちのものである」と対峙できるのでは?
「その周囲の者たちは、その人がその人であるという、私と独立の存在がそこにあるというただそれだけのことによって承認しようとすることがある。そして、承認は、その人がどのように自分を作り、また表象するかの自由を認めることを含みながら、しかしそれだけでない行ないとしてなされる。この感覚のもとに、その一部として、その他人のことを決めてはならないという感覚そして倫理がある。/そして私の世界があることと、その一人の私である他者の存在の尊重とは関連もしている。その人の世界はその人にしかないこと、そのように思えることによって、その人の存在が支持されなければならないと思う。」86P・・・近代的個我の論理にとらわれた倫理主義的自己決定の尊重や相互承認・相互尊重・・・廣松共同主観的存在構造論から個我の論理を批判する必要があります。
脱構築論への誤解288P・・・「なんでもありであることを認めよ」ということではない、この社会の価値観・世界観にとらわれていることを脱構築するというだけの話
「所属と属性とは別に存在を承認する」295P・・・意味不明、価値付帯的にあるこの社会の変革なしにそんな倫理主義は成り立たない。
・立岩真也『家族性分業論前哨』生活書院2011
これは立岩さんがずっと前に書いた文をそのままにしておいたのをやっと本にしたもののようです。
その文は、上野さんの『家父長制と資本主義』と対話という内容をもっていて、しかも、今回たまたまかも知れないのですが、上野さんの『ケアの社会学』が出された直後に出版されたということで、わたしが連続して読んだということもあるにせよ、対比しかながら読んでいくとケアということをめぐる、家事ということをめぐる問題が浮きあがってきます。
立岩さんも上野さんも家事労働という概念で話を進めているのですが、そもそも「家事は労働なのか」という問い返しこそが必要なのだと考えています。これについては別稿で文にします。
ここでは、各章に沿ったメモを残します。
1章
マルクスの『資本論』をめぐっての解釈があり、マルクス派の中ではかなり浸透しているのですが、それが著者には届いていないようです。で、「どのように搾取を論定できるかという問題は厄介で容易に答えられない問いだが」「労働価値説は極めて厳しい条件のもとでしか成立しないことを示した森嶋」とか、出てきます。・・・前者はマルクスが一応容易に答えているのですが、それに疑問をもったのでしょうか? 後者はそもそもマルクスの押さえ方で労働価値説は物象化的錯認としてあるというとらえ方出ているのが著者には届いていないようです。なぜ、性差による賃金格差が生じるのかというといかけが必要で、そのためには差別の起源論なり、根源論が必要なのですが、140Pで、自分はそれをやらないと宣言して論攷を進めているようなのです。障害学でも障害の規定をさておいて出発すると著者は宣言して、論攷を進めます。資本主義社会がどういうしくみで成り立っているのかの分析が必要だと思うのですが、著者は市場経済はなくならないと宣言してしまい、資本主義経済の経済的関係、資本主義社会がどのようなところで成り立っているのかの分析を止めてしまっているようにしかわたしにはとらえられないのです。著者の立場は、倫理実践主義とでもいうようなことになるのでしようか?
しかし、そのような倫理はどのようにして可能なのでしょうか?
わたしは、著者は経済の問題を倫理の問題にすり替えようとしているのではないかととらえ返しています。
そもそも肝心な分析をしないままで論を進めると、その論はあちこちで齟齬を来していきます。
この章の最後に、成長が資本主義に必要なこととして押さえていますが、成長ということが資本主義に必要というような著者の押さえ方が出てくるのですが45P、資本主義社会に必要なのは利潤なのではないでしょうか? 競争に打ち勝つというところで、悪無限的利潤の追求に陥ります。ここでも、問題は成長ではないのです。ほんとは安定した利潤を求めたいのですが、ただ、利潤率は低下していくので、そこで新しいことは始めざるを得ないのです。それを成長と取り違えているのではないでしょうか?(ときには戦争という最大の浪費や大手ゼネコンがゼネコンのための公共事業で利潤を得ることを想起してもらえば、求められているのは、成長ではないということがわかります。)
2章
タイトルの「妻の労働に夫はいくら払うか」自体がジェンダーへのとらわれを示しています。家事を担うのは女性なのでしょうか?(確かにジェンダーということで、女性が家事を多く担っている現実があるのですが、「主夫」ということばが出てきている現実もあります。)そもそも家事を不払い労働と規定することから搾取という概念さえ出てきますし、「誰が得をしているのか」という問いかけが起きてしまっています。
家事はそもそも労働なのでしょうか?
労働は別種の活動を生み出す・・・家事を労働としてとらえたらの話です。
家事は単身者の場合は労働ではないし、家族の中における家事は役割分担の問題ではないでしょうか? そこにおける非対称性の問題ではないかとわたしは押さえています。
夫婦・家族は生計を同じくする共同生活者・・共同生活をおくるとはどういうことかというところで、役割分掌をしていくことになります。それがなぜ非対称的になっているという問題ではないでしょうか?
家事分担が均等であれば、家事労働をいう意味がなくなるのです。86P・・・そもそも分担の問題で労働ではないのです。
註22・・・「不払い労働」という概念を「無償労働」と「搾取された労働」というふたつの意味で使っているのに、それらを全部同じものにしたことからする混乱という江原さんの指摘・・・無償労働は収奪であって、そもそも搾取という概念が伴う意味での労働ではない、搾取と収奪の混同
グロバリーゼーション・・・家父長制へ資本主義の論理が浸透していき、新しい形の「家父長制」が更新されていきます。
ジェンダー体制がもたらす意味
私有財産制を維持できる/女性の賃金を安くできる/男性労働者の賃金も引き下げ得る・・・労働の女性化/継続的本源的蓄積のひとつの項になっている/機会を奪うことへの損失という論理は、そもそもスキルを必要としない労働には当てはまらないのです。
ゼロサムではないゼロゼロ
上野さんの論攷への矛盾の指摘 註21〜24
得をするのは体制―すなわち総資本ではないでしょうか?
結論的文「事態の根本は、まず市場からからの排除そのものにある。その不当性は、夫の再生産に関わる労働が不当に(市場価格と比較して)低く評価されていることにはなく、むしろ予め市場と家庭との間に相互に交通不可能な境界を設定し、しかも家族から市場を見させることによって、夫が与えるものと妻が夫の再生産のために与えるものとの格差を確認させ、その格差を利用し、予め支払われないことに決まっているサービスを引き出す、あるいは妻の時間の全域を従属として意味づけることにある。」108P・・・そもそも専業主婦というところが解体されてきている中で、排除されているわけではないのでは? 家事が女性に多く担わされる非対称性から、再生産活動は労賃を低く抑えるところで最低限におかれるというところで、家事を非対称的に多く担わされる女性の「女性の仕事」が低賃金におかれるということではないでしょうか?
損失というお金の問題だけではない・・体制の維持ということが資本主義社会の大前提ではないでしょうか? 私有財産制の継続という資本主義の大命題。
3章
起源を問題にしない140Pという出発点が間違えています。家事がなぜシャドーワークになるのかがとらえられなくなるのです。・・私有財産制度の問題、私的所有ということでくくらないと私有財産制が正当化できない・・・立岩障害学で障害概念自体からとらえ返すことをねぐった同じ発想
なぜ性差別が起きるのかのといかけは、資本主義を不問にして、資本主義社会を前提にして論を進めると解けない問題になります。・・・性差別の根拠として、私有財産制度の維持継承ということが大前提にあるとわたしは押さえています。
「市場では労働する能力の違いにより差異を与えることが認められる、というか、良いも悪いもなく、事実差異が与えられる。」143P・・・意味不明です。このことが問題の核心で、これこそが資本主義の障害差別の根拠・土台としてあるのです。だから、これを「悪い」としないと、障害差別を批判できなくなるのではないでしょうか?
「格差をつけられる範疇が女性である必然性は何もない」150P・・・性差別は私有財産制を継続するために必要なのです。
「格差によって利益を得る者は一部に過ぎず、しかもこの格差はこの一部の者以外の購入者によって縮小されていくはずである。」152P・・・差別は継続的本源的蓄積に必要・・「帝国主義」段階の資本主義・・・グロバリーゼーションの意味、労働の女性化という事態・・・経済でだけではない政治経済学
「雇用側」159Pという概念で総資本としての利害がとらえられなくなります。
4章
「働ける人が働く、必要な人が取る」169P・・・これは市場経済の枠組みで論じていくという立岩さんの立脚点を踏み外してして、マルクスの能力主義的とらわれさえ止揚したコミュニズムとでもいうべき内容になっているのではないでしょうか?
5章
私有財産制度の維持継承という問題を抜け落としているのでは?
6章
ジェンダーなり、母性神話なり、家族幻想をふりまくことによって、それが浸透していくことによって、現体制を維持することになる(その中身は私有財産制の維持・継続ということ)。
「歴史性・相対性の指摘とは独立に、不当性をどのように言うかが問題である」224P・・・政治経済学の問題を倫理としてたててしまうことになる、歴史性・相対性の問題としての収奪と搾取。
立岩さんの論理は「私的所有を前提にしない倫理主義」になっていくのでは?・・・でも市場経済を前提にする論攷と矛盾する・・・私有財産制という制度―政治経済学の問題を倫理の問題にすりかえている!?
倫理は空回りする・・空想的社会主義批判と唯物史観の問題
立岩さんが立てているのは社会学ではなく倫理学・・倫理学はバイオテクノロジーなどの問題ではある種の有効性はあるにせよ!?
7章
主体と言う語の持つ意味241P・・・英語subjectやフランス語subjetで形容詞として使われるとき、〜に従属するとか、〜に支配されるという意味も含んでいる
8章
中村・川崎編2000支払われない労働が世界中にある256P・・・農業の自己消費、自然のなかで生きる民の仕事など。
エコフェミニズムの個性のひとつとしての「最低限の生物学的差異」、個別化の一つの要素・・要素論批判・・・「これに反対するひとはまずいないはずである」278P・・???「差異の浮かびあがる構造」・・「オトコとオンナの生物学的差異」から問題にしていくこと・・・障害学においても問題にできるのでは?
「私の作ったものは私のものである」284Pということには「わたしたちが作ったものはわたしたちのものである」と対峙できるのでは?
「その周囲の者たちは、その人がその人であるという、私と独立の存在がそこにあるというただそれだけのことによって承認しようとすることがある。そして、承認は、その人がどのように自分を作り、また表象するかの自由を認めることを含みながら、しかしそれだけでない行ないとしてなされる。この感覚のもとに、その一部として、その他人のことを決めてはならないという感覚そして倫理がある。/そして私の世界があることと、その一人の私である他者の存在の尊重とは関連もしている。その人の世界はその人にしかないこと、そのように思えることによって、その人の存在が支持されなければならないと思う。」86P・・・近代的個我の論理にとらわれた倫理主義的自己決定の尊重や相互承認・相互尊重・・・廣松共同主観的存在構造論から個我の論理を批判する必要があります。
脱構築論への誤解288P・・・「なんでもありであることを認めよ」ということではない、この社会の価値観・世界観にとらわれていることを脱構築するというだけの話
「所属と属性とは別に存在を承認する」295P・・・意味不明、価値付帯的にあるこの社会の変革なしにそんな倫理主義は成り立たない。
2012年02月27日
対話を求めて11
裁こうとする者は裁かれる者
―刑事事件と差別の関係から裁判員裁判をとらえ返す―
最近、「障害者運動」の中で、裁判員裁判制度の裁判員になるための保障というような話が出てきています。制度から排除することは差別だと一応言えます。そこで、裁判員制度に参加するための保障を求めるということが出てきます。
制度から排除するのは差別だ、という主張が出されたぞっとするような例をわたしは想起します。それは第一次湾岸戦争の際に、アメリカの女性団体が「女性兵士を前線に出さないのは差別だ。女性兵士も前線に配置しろ」というような要求を出したことです。そもそも、戦争のという差別の極の問題をとらえられないで、差別に参加させないのは差別だというようなおそろしい論理になっているのです。これに関しては、日本のフェミニストからも批判が出されていました。
そもそも戦争とは何かということで批判がなされたように、そもそも裁判員制度とは何かということを考える必要があるのではないでしょうか?
わたしはそもそも現在の社会で刑事裁判はどのような意味をもっているのか、ということを押さえておく必要があると思います。刑事事件ということが、どのようなところで起きているのかということを押さえていくと、ざっくり言ってしまいますが、そこに差別の問題があり、その差別の反作用という形で刑事事件、いわゆる「犯罪」といわれることが起きてくると言い得ると考えています。そして、その「犯罪」行為自体が差別的な行為である場合が多いのですが。その「犯罪」といわれることを「社会」が生みだして行くという性格があるのです。だから、そこにおいて、犯罪を犯したひとを裁くというのなら、そのひとを「犯罪」へ追い込んだ「社会」も裁かれることですし、その「社会」を構成しているひとりひとりも裁かれることではないかと思うのです。そのようなこととして裁判員自体も裁かれるひとなのです。
このようなことを書くと個人の責任や主体性を切り捨てるのかという批判が起きてきます。それは個々の主体性を無視した決定論になるという批判にもつながっていきます。ですが、そもそも多くの「犯罪」といわれることの分析のようなことがきちんとなされないまま、被告は裁かれていきます。いや、むしろ、そのあたりのことを抜きにして、ときには情状ということでくみこまれることはあったとしても、行為自体を裁いているのです。その行為はどこから来ているのかということをスポイルしているのです。
たとえば、秋葉原の無差別殺傷事件は、非正規雇用の拡大の影ということが言われました。これはグロバリーゼーションの推進の中で拡大してきたことで、その標語は自己責任−自己決定です。非正規雇用の拡大は個人の責任ではありません。「犯罪」と言うことが起きるとき「家庭環境」とか、教育の問題も浮かびあがってきます。昔、「僕らは銃や機関銃のかわりに鉛筆と消しゴムをもって戦争している」と、戦争拒否ということで自死した小学生がいました。「受験戦争」ということで、戦争の影のようなこととして、事件がおきるようなことがあります。いったい、ひととひととの関係を大切にとか仲間を大切にとかいうタテマエと競争で周りのものの足を引っ張り自分が這いあがっていくという受験戦争の本音との間でひとは価値観の引き裂かれに陥っていくのです。そして、よく言われる「よき教育者との出会いの中で、立ち直っていく」というようなことさえも、教育行政が教員に対するしめつけと主体性を奪う中で、奪われていきます。
今の時代、何か事故や災害がおきれば、そして会社の倒産などもそうですが、いっぺんに、生活設計が崩壊し、高学歴者のホームレスも生み出されています。そして、そのようなときの保障としての「生活保護」もきちんと機能していず、餓死者を生み出す状況もあります。
いったい、そこで個人の責任ということはどういうこととしてあるのでしょうか?
わたしはむしろ逆の意味で、個人の責任ということが問題になっているのでないかと思うのです。
昨年3.11の原発震災がおきたとき、原発を推進してきたひとたちの責任というようなことが少しは語られました。しかし、当人たちで、そのような責任を感じているひとはほとんどいません。むしろ、反原発の活動をしていた科学者が、力及ばず原発を止められなかったと自らの責任を語って涙していました。
先日、JR西日本の脱線事故での刑事裁判で統括責任者の社長に無罪判決が出ました。予期できなかったということでの無罪判決なのですが、予期できなかったのではなくて、原発震災の「想定外」の話と同じように、予期しようとしなかった、安全より利益を優先させたというところでの責任なのです。組織ということで、それを構成している個人の責任があいまいにされるのです(註1)。
差別する側のひとの差別的な行為自体がほとんど裁かれないのです。裁かれた数少ない例が東京裁判などの「戦争犯罪」の裁判((註1))や、カンボジアのポルポト裁判などのような体制崩壊後の前政権の虐殺事件くらいです。企業の責任などが刑事事件として裁かれた例はほとんどなくなります。被害としては、数の問題ではないとはいえ、これらの方が膨大な被害なのです。
さて、そのような差別の問題をおさえたところで、裁判員裁判とはなにかということです。そもそも刑事事件ということを、差別の反作用としておさえると、「被告の責任」という論理もあるとしても、その「犯罪」においやった差別の問題、そこの責任という問題があるはずです。そのことを捨象して、あくまで個人の責任にして、犯罪という事を「社会防衛論」的に見せしめ的なところも含めて抑え込もうとするところで裁こうということなのです。個人を裁こうというなら、そこへ追いやった「社会」も裁かれる、すなわち社会を変えるということの中において初めて可能なはずです。それなのに社会防衛というところで、「犯罪」を生み出す「差別の構造」そのものを守ろうとしているのです。そして裁判員裁判とは、これまでの刑事裁判が、それがどうして成り立つのかという批判をしないというところで、「社会」への働きかけをなにもしないというところで、刑事裁判制度を支えていたことを、「社会防衛論」的なところで、裁判に加担するという制度なのです。ようするに「差別の構造」を無自覚的に支えてしまっていたことを、(「犯罪」を生み出す「構造」−差別ということを意識しない、スポイルしたところで)社会防衛的なところで意識的に支えさせるという制度なのです。
だから、差別ということを問題にしている立場ならば、そのような差別には加担しないとして裁判員裁判制度を廃止させる運動に取り組むか、少なくともボイコットするようなことのはずです。それなのに、自分たちの受けてきた差別を問題にしてきた「障害者」が、他の差別をとらえられず、差別的な体制に加担させろということとして、裁判員裁判への参加(のための保障)要求になってしまっているのです。
このような議論がほとんどなされないままに、それなりに差別ということを問題にしてきたひとたちがこの裁判員裁判に取り込まれていくことにわたしは恐ろしさを感じて、この文を書き置きます。議論を起こしていきたいと願っています。
最後に、死刑制度を未だに維持している国の裁判員裁判の裁判員になろうとするひとへよびかけ文として話をまとめてみます。
あなたが裁判員裁判で死刑の判断を下すのなら、その前にそのひとを犯罪に追い込んだ「社会」にも死刑の判決を下してください。そして、その「社会」を構成しているあなたの責任を考え、果たしてください。
(註)
1 そもそも近代知の因果論的な世界観にとらわれているので、「犯罪」がどのようなところで起きてくるのかと分析がちゃんと為されないままに終わるのです。その近代知の個我の論理が、関係の中の「個」というとらえ方を妨げているのです。
2 「戦争犯罪」は勝った側は裁かれることはありません。アメリカの原爆投下などはまさに「戦争犯罪」と言えることです。そして、日本の場合は、A級戦犯の靖国合祀で、その「戦争犯罪」さえあいまいにして、国(民)総体の「戦争責任」ということさえ、その責任−罪をあいまいにしたのです。そのような国の(司法)機関が、被差別者でもある「犯罪者」の責任だけ裁こうとするのです。
(み)
―刑事事件と差別の関係から裁判員裁判をとらえ返す―
最近、「障害者運動」の中で、裁判員裁判制度の裁判員になるための保障というような話が出てきています。制度から排除することは差別だと一応言えます。そこで、裁判員制度に参加するための保障を求めるということが出てきます。
制度から排除するのは差別だ、という主張が出されたぞっとするような例をわたしは想起します。それは第一次湾岸戦争の際に、アメリカの女性団体が「女性兵士を前線に出さないのは差別だ。女性兵士も前線に配置しろ」というような要求を出したことです。そもそも、戦争のという差別の極の問題をとらえられないで、差別に参加させないのは差別だというようなおそろしい論理になっているのです。これに関しては、日本のフェミニストからも批判が出されていました。
そもそも戦争とは何かということで批判がなされたように、そもそも裁判員制度とは何かということを考える必要があるのではないでしょうか?
わたしはそもそも現在の社会で刑事裁判はどのような意味をもっているのか、ということを押さえておく必要があると思います。刑事事件ということが、どのようなところで起きているのかということを押さえていくと、ざっくり言ってしまいますが、そこに差別の問題があり、その差別の反作用という形で刑事事件、いわゆる「犯罪」といわれることが起きてくると言い得ると考えています。そして、その「犯罪」行為自体が差別的な行為である場合が多いのですが。その「犯罪」といわれることを「社会」が生みだして行くという性格があるのです。だから、そこにおいて、犯罪を犯したひとを裁くというのなら、そのひとを「犯罪」へ追い込んだ「社会」も裁かれることですし、その「社会」を構成しているひとりひとりも裁かれることではないかと思うのです。そのようなこととして裁判員自体も裁かれるひとなのです。
このようなことを書くと個人の責任や主体性を切り捨てるのかという批判が起きてきます。それは個々の主体性を無視した決定論になるという批判にもつながっていきます。ですが、そもそも多くの「犯罪」といわれることの分析のようなことがきちんとなされないまま、被告は裁かれていきます。いや、むしろ、そのあたりのことを抜きにして、ときには情状ということでくみこまれることはあったとしても、行為自体を裁いているのです。その行為はどこから来ているのかということをスポイルしているのです。
たとえば、秋葉原の無差別殺傷事件は、非正規雇用の拡大の影ということが言われました。これはグロバリーゼーションの推進の中で拡大してきたことで、その標語は自己責任−自己決定です。非正規雇用の拡大は個人の責任ではありません。「犯罪」と言うことが起きるとき「家庭環境」とか、教育の問題も浮かびあがってきます。昔、「僕らは銃や機関銃のかわりに鉛筆と消しゴムをもって戦争している」と、戦争拒否ということで自死した小学生がいました。「受験戦争」ということで、戦争の影のようなこととして、事件がおきるようなことがあります。いったい、ひととひととの関係を大切にとか仲間を大切にとかいうタテマエと競争で周りのものの足を引っ張り自分が這いあがっていくという受験戦争の本音との間でひとは価値観の引き裂かれに陥っていくのです。そして、よく言われる「よき教育者との出会いの中で、立ち直っていく」というようなことさえも、教育行政が教員に対するしめつけと主体性を奪う中で、奪われていきます。
今の時代、何か事故や災害がおきれば、そして会社の倒産などもそうですが、いっぺんに、生活設計が崩壊し、高学歴者のホームレスも生み出されています。そして、そのようなときの保障としての「生活保護」もきちんと機能していず、餓死者を生み出す状況もあります。
いったい、そこで個人の責任ということはどういうこととしてあるのでしょうか?
わたしはむしろ逆の意味で、個人の責任ということが問題になっているのでないかと思うのです。
昨年3.11の原発震災がおきたとき、原発を推進してきたひとたちの責任というようなことが少しは語られました。しかし、当人たちで、そのような責任を感じているひとはほとんどいません。むしろ、反原発の活動をしていた科学者が、力及ばず原発を止められなかったと自らの責任を語って涙していました。
先日、JR西日本の脱線事故での刑事裁判で統括責任者の社長に無罪判決が出ました。予期できなかったということでの無罪判決なのですが、予期できなかったのではなくて、原発震災の「想定外」の話と同じように、予期しようとしなかった、安全より利益を優先させたというところでの責任なのです。組織ということで、それを構成している個人の責任があいまいにされるのです(註1)。
差別する側のひとの差別的な行為自体がほとんど裁かれないのです。裁かれた数少ない例が東京裁判などの「戦争犯罪」の裁判((註1))や、カンボジアのポルポト裁判などのような体制崩壊後の前政権の虐殺事件くらいです。企業の責任などが刑事事件として裁かれた例はほとんどなくなります。被害としては、数の問題ではないとはいえ、これらの方が膨大な被害なのです。
さて、そのような差別の問題をおさえたところで、裁判員裁判とはなにかということです。そもそも刑事事件ということを、差別の反作用としておさえると、「被告の責任」という論理もあるとしても、その「犯罪」においやった差別の問題、そこの責任という問題があるはずです。そのことを捨象して、あくまで個人の責任にして、犯罪という事を「社会防衛論」的に見せしめ的なところも含めて抑え込もうとするところで裁こうということなのです。個人を裁こうというなら、そこへ追いやった「社会」も裁かれる、すなわち社会を変えるということの中において初めて可能なはずです。それなのに社会防衛というところで、「犯罪」を生み出す「差別の構造」そのものを守ろうとしているのです。そして裁判員裁判とは、これまでの刑事裁判が、それがどうして成り立つのかという批判をしないというところで、「社会」への働きかけをなにもしないというところで、刑事裁判制度を支えていたことを、「社会防衛論」的なところで、裁判に加担するという制度なのです。ようするに「差別の構造」を無自覚的に支えてしまっていたことを、(「犯罪」を生み出す「構造」−差別ということを意識しない、スポイルしたところで)社会防衛的なところで意識的に支えさせるという制度なのです。
だから、差別ということを問題にしている立場ならば、そのような差別には加担しないとして裁判員裁判制度を廃止させる運動に取り組むか、少なくともボイコットするようなことのはずです。それなのに、自分たちの受けてきた差別を問題にしてきた「障害者」が、他の差別をとらえられず、差別的な体制に加担させろということとして、裁判員裁判への参加(のための保障)要求になってしまっているのです。
このような議論がほとんどなされないままに、それなりに差別ということを問題にしてきたひとたちがこの裁判員裁判に取り込まれていくことにわたしは恐ろしさを感じて、この文を書き置きます。議論を起こしていきたいと願っています。
最後に、死刑制度を未だに維持している国の裁判員裁判の裁判員になろうとするひとへよびかけ文として話をまとめてみます。
あなたが裁判員裁判で死刑の判断を下すのなら、その前にそのひとを犯罪に追い込んだ「社会」にも死刑の判決を下してください。そして、その「社会」を構成しているあなたの責任を考え、果たしてください。
(註)
1 そもそも近代知の因果論的な世界観にとらわれているので、「犯罪」がどのようなところで起きてくるのかと分析がちゃんと為されないままに終わるのです。その近代知の個我の論理が、関係の中の「個」というとらえ方を妨げているのです。
2 「戦争犯罪」は勝った側は裁かれることはありません。アメリカの原爆投下などはまさに「戦争犯罪」と言えることです。そして、日本の場合は、A級戦犯の靖国合祀で、その「戦争犯罪」さえあいまいにして、国(民)総体の「戦争責任」ということさえ、その責任−罪をあいまいにしたのです。そのような国の(司法)機関が、被差別者でもある「犯罪者」の責任だけ裁こうとするのです。
(み)
フェミニズム3 障害66
たわしの読書メモ・・ブログ192
・上野千鶴子『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ』太田出版2011
出されたころに店頭でみつけ買った本なのですが、しばらく積読していました。障害学研究会のメーリングリストで話題になっていて、急遽フェミニズムの学習を挟み、最初に読み始めます。そうとう厚い本なので、章ごとにメモを残していきます。
初版への序文 ケア−共助の思想と実践
「大震災の後で」という導入部につづき全体の構成を紹介しています。
「大震災の後で」というところは、介護保険制度が作られた後ということで、それなりのケアがなされた、という評価になっているのですが、むしろ著者も書いているように、その後に続く「関連死」がかなり出ていることや、「精神病院」の置き去り事件、そして岩手は「障害者」にとって在宅介助の態勢が作られていず、施設入所者が多かったなどから、かなり深刻な事態になっていることの情報などを見ると、著者のこの評価がどこから来るのか不思議でなりませんでした。
現在の介護保険制度などの評価も、そして後期高齢者医療制度をめぐって「姥捨て山」といわれていた事からすると、どうも分からない制度の押さえ方になっています。本文の中で検証したいと思っています。
以下、本文に実際にあたっていくことですが、この全体の紹介の中でもとらえられること、後に本文で検証しますが、とりあえずメモっておきます。
そもそもケア労働とか、家事労働ということを、著者は「労働なのか?」と問いかけをしているのに、きちんととらえ返さないまま、労働として話を進めているようなのです。このところはよく分かりません。上野さんはマルクス主義フェミニズム(略称、マル・フェミ)の日本における紹介者なのですが、どうも「ロシア・マルクス主義−官許マルクス主義」の労働概念にとらわれているようです。マル・フェミもそのあたりで2つに分岐していくと思うのですが、上野さんは「マルクス主義者ではない」と自称することによって、マルクスのとらえ返しをネグってしまったようです。
この著は全編、どうも資本主義的生産様式それ自体から問題にするという観点はないようで、したがって市場経済の論理の枠内での論攷になっていて、問題のほりさげもそれ以上は進んでいないようです。
ですから、協の活動に資本主義的なことを超えていく指向があるのに、それを資本主義社会の枠内で論じようとしているとしかとらえられません。このあたりは実際に本文のところで検証します。
第1章 ケアとは何か
ケアという概念でくくられるかどうかの問題があるのですが、書かれた歴史は上流階級の家事やケアを使用人が担っていたというところで、労働という概念はあったのかもしれませんが、その当時の多くのひとが従事した農業の中において、家事は労働であったのでしょうか? そもそも奴隷制以後では、農作業が労働になったのは、プランテーションが始まってからではないでしょうか?
「ケアが労働ではない特殊ケース」40Pとありますが、歴史的には「ケアが労働になった特殊ケース」として現在のケアや家事があるのではないでしょうか?
「ケアが労働として取り扱われるべきこと」というデイリーの立場を著者は共有しているのですが、そもそも労働の定義がないのです。
ワーク(work)とラバー(labor)という英語の意味が、ケアの正負の両義性に対応しているのではないでしょうか?
ケアの概念には、依存性という概念と結びついているようですが、依存的でないひとなどいないのではないでしょうか?
ケアということを「本質的」に規定するのではなく、文脈依存的にとらえようとしています。すなわち「いかなる文脈のもとで、ある行為はケアになるのか? またいかなる文脈のもとで、ケアは労働になるのか?」という問いかけです。
「ケアワーク」を「ケア労働」と訳することに混乱があります。労働という場合、わたしは資本主義社会では搾取という概念と結びつく商品生産活動というマルクスの定義と結びつきます。ワークには仕事という訳もあり、これを必ずしも労働ではない仕事というとらえ方ができます。労働というとき、他者使われるとか、他者のためにする活動という観点も出てきます。仕事には著者がいう相互性なり関係性ということがあり、共や協ということが生み出されていきます。ちなみに、わたしは過去の労働を巡る議論を受けて、仕事を「みんなのためにする活動」と規定しています。
著者はマルクス主義フェミニズムの家事=シャドーワーク・不払い労働=労働力の生産・再生産活動というところのとらえ方があり、家事労働というところからケア労働という概念を導き出しているのですが、そもそも労働とはなにかというところをマルクスから導き出そうとしていたなら、このあたりの問題がとけていくのではと思います。マルクス主義者ではないという著者にはマルクスとの対話がないのです(官許マルクス主義者の物象化された家事労働論に著者もとらわれています)。
労働とは何かというとらえ返しがマルクスとの対話も含めて必要なのです。
ケアの定義としてデイリーの「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係。」を出してそれに同意しています。39Pその同意の理由を6つあげています。
「この定義に社会的かつ歴史的文脈依存性が書き込まれていて、比較可能な概念であること/同じく社会学的であるメリットとして、それが相互作用的であること/役割とその遂行の社会的配置を含むことで、介護、介助、看護、そして育児までの範囲を覆い/身体と情緒の両方を含むことで、ケアの持つ世話と配慮の両面をカバーし/規範から実践までを含むことで、ケアの規範的アプローチと記述的アプローチをともに可能とする。もっと正確に言えば、ケアの規範自体を社会学的文脈の変数とすることで、ケアについての規範的アブローチを脱構築する点でも、すぐれて社会学的と言えよう。」39-40P(この最後の処は、唯物史観の問題と、廣松さんが関係主義的な観点で新カント派を援用して函数連関的とらえ方をしていることとリンクします。)
この読書メモの最後にケア概念をわたしも出してみようと思っています。むしろ、ケアということで異化してくること自体の批判になるのではという思いを抱いているのですが。
第2章 ケアとは何であるべきか?―ケアの規範理論
このような規範的な問題の立て方自体にわたしは違和があります。倫理主義批判として展開してきたことです。
著者も規範的アプローチ(規範命題)から文脈的アプローチ(記述命題)への転換を提起しています46P。そのことと整合性がないのではと疑問に思いました。で、社会学が主題としてきた、記述―事実記述の中に規範が入り込んでこざるを得ないという事を著者は書いています。これは認識論的には命名判断の中に価値判断がすでに入り込んでいくということにも通じる問題なのですが、著者はケアの倫理か正義の倫理かという二者択一の問題ではないというところで展開しようとしていて、どちらかに還元することは不可能という提起もしています。そもそも倫理主義批判の問題として立てることではないかとわたしは考えています。
著者も規範的アプローチを脱構築し、文脈的なとらえ方をしようとしています。わたしはこれを関係論的なとらえかたとして、押さえています。
メイヤロフとギリガンとの対話の中でケアをとらえ返しているのですが、メイヤロフにはジェンダーという観点を欠落させている、ギリガンは逆にジェンダーにとらわれていると批判しています。メイヤロフ批判は48P
ケアの人権というところで、四つの人権をあげています。デイリーがあげていた三つの人権(ケアされる権利/ケアされる権利/ケアすることを強制されない権利)にもうひとつ「ケアされることを強制されない権利」を加えて、上野モデルとして突き出しています。これらはいずれも人権、福祉国家論での枠組みでの議論です。わたしはむしろここで論じていって出口があるのかと疑問に思っています。
「ジェンダーという変数は権力をめぐる変数にほかならない。」58Pという提起は関係論的な関数連関を想起させる提起で、フェミニストの上野さんの根底的な思いにつながっているのでしょうが、そのような指向が一貫してつらぬかれていくのかどうか、後の論攷を見たいのですが、権利とか労働ということをとらえかえそうとしていない姿勢の中で、わたしはむしろ、機会均等的なフェミニズムにしかならない、差別の問題が根底的にとらえられていないのではないかと思ってしまいます。
もうひとつ、「労働(苦役labor)」という表記が出てきます。このあたり「仕事(work)」というところで、とらえ返していくと、「ケアワーク」を「ケア労働」と訳するのではなく、「ケアの仕事」と訳し、労働概念次第をきちんと脱構築することではないかと思うのです。今村仁司さんの労働から仕事への転換論が留意されることです。
第3章 当事者とは誰か−ニーズと当事者主権
4つのニーズ・・・1承認ニーズ、2庇護ニーズ、3要求ニーズ、4非認知ニーズ70P
2における代行主義の問題、4における比較ニーズによる認知へ至る途の大切さ
「ニーズはあるのではなく、作られる」72P・・・構成主義・構築主義
もうひとつの顕在−潜在という観点からのとらえかえし
ニーズがうまれる・・無から生まれるのではない、そこにある被差別の問題・・排除と抑圧からのアンチとしてのニーズ
当事者のインフレ・・第一次ニーズ、第二次ニーズ、・・帰属という概念(内自有化)・・ 被差別の当事者性の位相・・・直接的被差別、他者を介した被差別
潜在の問題をどうするのか79P・・そこにある被差別の問題
当事者である−当事者になる(ニーズを出す・・・そこにある主体性)主権という概念よりも主体という概念がフィットする・・・そもそも主権概念は権利概念とつながる、物象化の問題がそこにあるのでは?
「親や支援者が「代弁」した当事者のニーズは最終的には当事者本人によって判定されなければならない。たとえそれが長期にわたる過程であっても。」83P
ニーズという問題を被差別という観点からとらえ返す作業が必要。
世界観の問題からのとらえかえし、ひととひとは助け合う相互関係からなりたっているという世界観からそれをさまたげる差別への批判−反差別の立場に立つのか、個人主義的競争原理の世界観に立つのか 旭川訴訟の原告のことば、「必要なときに手を貸してもらえない」ということを差別としてとらえる観点が必要なのです。
第4章 ケアの社会学
「高齢者介護はあってあたりまえのものとして自明視できない」87P
「育児支援、高齢者福祉政策、障害者福祉政策の間に一貫性がない」88P
「(生産活動に続く)廃棄・処分の過程を含める」92P・・・高齢者はゴミなのか? 「男は退職すると産業廃棄物になる」という上野さんのコピーライトは価値判断的資本主義批判としてあったのではなく、事実記載として展開していたのかも知れないと思い始めています。そもそも産業廃棄物というひとの物化が起きているという資本主義の批判として出しているのか、資本主義における物象化の批判をしているのか、それとも記述概念なのかという根本的問題がそこにあるのです。
「文明社会とはこの「廃棄・処分」の過程が長期化した時代」92P
官許マルクス主義者は家事の労働力の生産・再生産過程ということを記述記載にしています。物象化批判のマルクス派はこれを物象化として、資本主義批判をしています。前者は家事労働という概念を生み出すのですが、後者はひとの活動がなぜ、労働、家事労働、「個人的営為」に分けられるのかを批判しています。・・・官許マルクス主義フェミニズムと物象化批判(のマルクスうみなおし派の)フェミニズム
「註9経済学ではヒトも人的資源として、生産や配分の対象となる、人的資源の生産を問題にするなら、その廃棄も再生産のサイクルに含めるのは妥当だろう。」93P・・・資本主義経済学においてはという意味で、まさに「ひとの物化」です。
「移転・廃棄・処分」96P・・・労働崇拝からくる労働力の生産・再生産という概念という物象化的錯誤から出て来るひとの労働力の価値という物象化・物化・・・ここから、労働と家事労働、個人的営為という分化がおきてきます。・・・また「介護」や介助が社会負担的活動になってしまいます。・・・逆にいうと介助や介護から関係性をとらえられます。
生産・再生産活動というとき、共同性(関係性・生きる場)の生産・再生産という概念をいれることによって、オルタナティブな世界を描き得るし、新しい関係性を生み出し得るのではないでしょうか?
直接的生産過程と間接的(関係的)生産過程・・・後者は存在することによって関係性を作り得るという問題を含んでいます。
「帰属」98Pという線引きをする必要はないのでは?(資本主義−私有財産制度的線引き)
「社会的連帯」という資本主義的個人主義に基づく(近代的個我の論理に基づく)「連帯」・・・上野さんの近代主義・資本主義の枠内での論攷・・・近代的個我の論理の脱構築がなされていないのでは?
市場システムとそれを補完する家族(私的)扶養システム・社会扶養システムというところで問題を立てています。市場システムというところで完結していないところで、補完する二つのシステムを問題にしつつ、フェミニズムを主題にしてきた上野さんは、家族扶養システムの脱構築を計ろうとしているのです。そもそも市場経済ということがもつ主題的意味からすると、上野さんは市場経済システムだけでは完結しえないとしつつ98P、他の二つを市場経済システムを補完するシステムとしているのです。・・・ですが、どうして補完の方だけ問題にして、補完など必要でなくなる市場経済システムの脱構築をしようとしないのでしょうか? もつと根底的に市場経済システム自体を問題にすることなのに、マルクス主義者でないと自己規定した上野さんはそこには踏み込んで行かないのです。脱構築派としても、市場経済を脱構築しないところで、脱構築派でもないのです。近代主義者、機会均等派的差別への飲み込まれ派になってしまうのではないでしょうか?・・機会均等というのは偏見を問題にしているだけで、わたしの能力を正当に評価しろ、というところで能力主義におちいっていきます。「わたしも差別する権利を与えよ」という差別への飲み込まれ派に陥っていくのです。
わたしは結局、競争原理に基づく無限のひととひととの闘いの世界を選択するのか、ひととひとが支え合う差別のない社会を選択するのかという選択性の問題ではないかと考え出しています。「もうひとつの世界は可能だ」というオルターグロバリーゼーションの言葉の意味がここにあるのではと思います。
第5章 家族介護は「自然」か
高齢者問題とは近代以降に生じた問題で、最初は救貧政策であった。
ジェンダーを語らないことはジェンダー(という差別の)隠蔽になる。113P
そもそも過去にも多くはなかった「家族介護」という虚為に基づく制度設計。116P
国民年金の3号保険という「優遇」は専業主婦という虚構の制度で女性の従属の装置、これが介護の制度にも取り入れられる。118P
「「日本型福祉」とはけっして日本の「伝統」などではなく、八〇年代、近未来に到来しつつある「高齢社会」を視野に入れたうえで、「家族介護」を資源として設計された政策の集合のことにほかならない。」119P
家族介護を軸にした政策批判
家族介護というジェンダーまみれの概念の隠蔽122P
家族介護とジェンダーを主題に、先駆的な研究を積み重ねてきたアンガーソン123P
アンガーソンは家族介護には「役割や権力関係の逆転を「受け容れることへの抵抗」を、双方が経験することを指摘する」125P・・・わたしの母親への介助経験
家族介護がよいのか・・・著者はむしろ否定的130P
「家族が機能していれば、福祉国家は必要ない−それが日本型社会福祉論の含み資産説だった。132P・・・福祉の家族介護の補完主義の原則
「失敗」の「補完」としての介護保険制度133P
「のぞましいケア」・・・「相互行為としてのケアは、ケアの与え手がケアの対象と内容を選択し、ケアの受け手がその与え手のケアを選択したときに、双方の行為者にとって「のぞましい」ものになる。」133P
第6章 ケアとはどんな労働か
サービスの定義134P・・・奉仕、不払い労働、物ではない精神的付与・・・福祉事業サービスなる恩恵としての福祉につながる概念・・・サービス概念を整理する必要
ケアは家事労働か(−ヒメルワイトは「労働」に含めることに反対した)135P
ヒメルワイトは労働とよぶための条件を三つ必要とした。他人のためになされること/分業を形成していること/誰がおこなったかは問題ではない、この三つ目の条件を満たしていないとして家事を労働と呼ぶことに反対136P
「家事の定義の中には「第三者基準」というものがある。人間が生命・生活を維持するために不可欠な諸活動のうちには、食事、睡眠、排泄のように第三者に代替してもらうことができない活動がある。NHKの生活時間調査では、これを第一次活動と呼ぶ。次いで、生活や生計維持のためになくてはならない諸活動が第二次活動であり、さらに一日二四時間から第一次活動時間と第二次活動時間を差し引いた、余暇と呼ばれる自由裁量時間を、第三次活動時間と呼ぶ。第二次活動には、収入をともなう狭義の「労働」と収入をともなわない「家事」とが含まれる。最近まで、「労働時間」とは、第二次時間のうち「支払い労働時間」のみを指していた。だが、家事もまた「不払い労働」という名の労働だと社会的なコンセンサスが成り立つようになって、ようやく「労働時間」とは「支払い労働時間」と「不払い労働時間」の合計を指すようになった。」137-138P「家事とは、世帯内で生命・生活を維持するのになくてはならない活動のうち、自分以外の他者に移転できる活動をいう。これが家事の「第三者基準」である。」138P 註4 で「第一次活動−必需活動、第二次活動−拘束活動、第三次活動−自由活動」ということを出している139P・・・よけいおかしい・・・そもそも家事が労働であるという定義は間違っている。わたしは労働と家事と「個人的」営為という分け方をされているとしているけど、そもそもどうして三つに分けられるのかの問題
「都市型基準」138Pというものを出している・・・農村は違う分けられない
著者も「労働と労働のでないものとのあいだに連続性を仮設することで、両者を比較可能なカテゴリーのもとに置くためである。」140Pと書いている・・・そもそも労働の定義か必要
「家事労働に賃金を」はレトリック146P 立岩さんとの対話・・・註14
感情労働はアーリー・ホックシールドが出した150P
感情労働という概念のおかしさ151P註19・・・さらに労働という概念ではとらえられないことがあります(たとえば、夫婦間のsexは労働なのでしょうか)。
労働とは資本主義社会においては商品生産活動そのもので労賃が払われること
それ以前の労働ははっきりとした強制されておこなう活動−奴隷労働や徒弟労働
「家事労働(不払い労働)に賃金を」というスローガンは成立しない、不払い活動はそもそも労働ではない、家事も賃金が払われたら労働になっている 家事の外部化の進行、使用人の家事労働。
第7章 ケアされるとはどんな経験か
この章での著者の主題は、高齢者がなぜ当事者主体として運動を起こさないのかというところにあります。
ケアという概念の二重性・・・高齢者の介護と育児・医療・「障害者」の介助・相談事業などの全てを含む概念との区別があいまい。・・・著者は自らが身近に迫った高齢者の問題で、介護ということ、そしてフェミニズムのケアすることを負わされている介護者としての女性ということでの課題で展開しています。しかし、逆にそのことにひきずられ、そのあたりの区別と連関があいまいになっているようです。
当事者として主体化されるためには、その集合的カテゴリーへの自己同一化が先行しなければならない。165P
なぜ、主流の「障害者運動」は介護保険制度そのものに反対するのではなく、切り離しを計ったのでしょうか?
金満里180P・・身体の意識との乖離を主題にして表現活動にはいっていったのではないか? 身体と意識の乖離は、「障害者」だけではない、身体をめぐる他者との関わり。
「身体とは最初の他者である」181P
「老化という現象は、その裏返しの過程、すなわち身体が他者になっていく経験と言ってよいかもしれない。」181P・・・身体と意識の乖離が、むしろ反転して他者との交流−共生の根拠となるのかも知れないと考えています。
「すなわち、多くの「健常者」は、「身体は自己のものであろうか?」という問いを忘れている(いられる)からである。逆に言えば、この問いを忘れていられる状態のことを「健常」と呼ぶこともできる。」181P・・・「健常者」という概念は反照規定でしかありません。そもそもどちらにも実体などないのです。
介助される経験において、高齢者は「障害者」の「あとから来た者」たち182P
『ひとりさまの老後』の10ケ条182P・・・いまここでの生活のスキルにすぎないのではないか? と感じています。読んでみますー
「介助されるプロ」小山内さんの提起183P・・「プライドを捨て、「わがまま」と言われるのを怖れない/排泄介助には、自分のお尻だと思ってケアしてもらう/相手がボランティアでも、言うべきことははっきり言う/「もういい?」は、ケアする側にとって禁句/自信過剰になり、迷いを失ったケアには落とし穴がある」「心地よいケアを受けることは自分との戦いであり、命がけのギャンブルのようなもの」「なにをしてほしいかは、わたしに聞いてください」
小山内さんの提起は原基本な突き出しで、共鳴できるのですが、「差別される者は差別するくらいでないと対等になれない」ということを書いていると紹介されているところはよく理解できません。差別的関係そのものをなくしていくというのが運動だと思うからです。差別はなくならないということがそこにあるのかも知れません。介助者手足論も同じ批判ができます。ひとを物化するのは反差別というところにはなりません。
ダイレクトペイントメント184P・・・恩恵としての福祉の枠組みではほとんど意味をなさないのではないでしょうか?・・・市場原理の中では差別から抜け出せないのです。
介助のADLへの限定は「働くな」という意味でしかない。184P・・・そもそも「障害者」の側からの労働崇拝的なところへの批判「労働は悪だ」という青い芝の突き出し、フェミニズムの総撤退論・・・労働の廃棄と仕事化として生み直しが必要です。
第8章 「よいケア」とは何か−集団ケアから個別ケアへ
「個別ケア」が理想―しかし、介護保険制度の中での批判意識の高まりの中でユニットケアが広がり、施設の再評価が起きている。「施設ケア」を「個別ケア」に近づける試みです。(この章は施設のハード設計をした建築学の研究室とソフトを問題にしてきた上野さんの属する社会学の研究室が共同研究した論文を元にして書かれている章です)
介護の受け手は創造的消費者。介護は相互行為する関係、「ケアの質」の判定は与え手と受け手双方でなしていく創造的関係。ゼロ・サムでなく、ウィンウィンの関係。しかし「第一次ニーズ」の所在を間違えてはならない。186P
空間の身体感覚はひとりひとりのそれまでの生活経験の差の反映。198P
どちらにしても人員配置、労働のあり方が問題になる。ユニットケアは個別ケアであり、手厚い人手が必要。205P
理想の介護には答もマニュアルもない。「どうして欲しいかは、当事者に聞いてほしい。」213P・・・被差別の中でどうして欲しいかも分からない生き方(「わたしはなにをすればいいの」という主体性のなさ)をしてきたひとにどうするのかの問題も出て来ます。自己決定論には疑問もあります。この問題が被差別の問題について回ります。
第9章 誰が介護を担うのか―介護費用負担の最適混合へ向けて
官/民/協/私218P
ペストフの福祉三角形223P
エスピン−アンデルセンの三類型・・・自由主義福祉レジーム/社会民主主義福祉レジーム/保守主義福祉レジーム
脱商品化、脱家族化という流れ231P
本書の問題意識233P・・・「第一は、国家、市場、家族に付け加えて、福祉多元社会論にいう「非営利市民セクター」、本書でいう「協セクター」を含めることで、四元図式のもとにケアの費用配分考察することである。/第二に、エスピン−アンデルセンから「脱商品化」「脱家族化」の概念を受け継ぎつつ、それをさらに厳密に使うことである。/第三に、ケアのジェンダーのアプローチを前提に、「脱ジェンダー化」の指標をこれに付け加えることである。」
ケアの社会化のうち、本書はとりわけ協セクターに注目して理論的・経験的分析を試みる234P・・・後から、協が「安上がりの福祉」の元凶という側面もあるという指摘がなされています。
第10章 市民事業体と参加型福祉
「官(公)でもなく、民(私)でもない」第三の領域240P
意思決定というところの参加だけでない参加241P
住民参加型福祉のおける「住民参加」・・・その内容「(1)有償サービスであるが、ボランティア精神がないとできない活動でもあり、高い価値観、精神性を必要とする。/(2)ある局面では住民が担い手であり、ある局面では受け手になる「住民相互の助け合いのシステム」である。/(3)活動のあらゆる利益を社会や地域に還元し、組織のための利益活動をしない。/(4)単なる直接サービスの提供にこだわらず、コミュニティづくりを志向する。単に供給体としてサービス提供するだけでなく、住民が主体的に取り組む活動であり、「社会福祉」を市民、住民に取り戻すための活動である。」241P・・・この(2)〜(4)は共−コミュニズムと言える内容ではないでしょうか?
NPOの取り違え・・・「「介護型NPOはNPOではない」という怨嗟」248P・・・???経営の論理
福祉経営259P・・・京極高宣さんが自立支援法で応益負担を突き出した所に通じること・・・経営の論理が何を生み出すのでしょうか?
「福祉経営」の定義「(1)ケアの受け手とケアの与え手双方の利益が最大化するような、(2)持続可能な事業の、(3)ソフトとハード両面にわたる経営管理のありかた、と定義してきたが、・・中略・・これに(4)市民の合意と資源の調達、および(5)社会的設計の提案と実践をつけ加えたい。」260P
「「競争優位」を求めて消費者の選択」264P・・・競争が何を意味するのでしょうか?
第11章 生協福祉
安全な食品という消費者運動が始まった協同組合運動が、消費からワーカーズ・コレクティブという生産活動に(・・・協の中に共の芽があるのか)
適正利潤という協の指向276P
市場的な循環に対して資本主義批判から生産と消費の「もうひとつの流通の回路」を作ろうというワーカーズ・コレクディブの指向
官・・税金資本セクター、民・・産業資本セクター、協・・(参加型システムによる)市民資本セクター276P
相対的に経済的に豊かな活動専業主婦が生協運動の担い手283P
パート労働における低賃金、ワーカーズ・コレクディブにおける低賃金・・・いずれもジェンダーの問題がそこにある・・・性差別における感度の鈍さ284P
パート労働よりひくいワーカーズ・コレクディブの賃金は、パート職と差別化するための「プライドの値段」285P・・・そこにある活動専業主婦の「ジェンダー的な労働の忌避」、それらのことが生協系の活動の競争力の支えとなっている。
第12章 グリーンコープの福祉ワーカーズ・コレクディブ
著者を生協福祉の研究に導いたのはグリーンコープ連合からの講演依頼と福祉連帯基金の顧問就任の依頼286-287P
アクションリサーチの手法「自分自身の課題を解決するために、運動から調査を生み、調査から運動を生む方法」・・・「当事者研究」288P
現場情報をもっているひとが調査にあたることの強み288P
逆に弊害もあり、それを補う手法を考えている289P
様々なニーズ
「経営コスト」という概念のなさ303P・・・逆に「経営コスト」ということへの批判も必要では?
横並びシステムと合意形成のための会議307P
「コミュニティ・オプティマム」(略称コミオプ)福祉という概念を作り出した。313P
国家が保障するナショナル・ミニマムに、自治体がシビル・ミニマムを追加した上に地域住民の参加型福祉によって「最適福祉水準」を達成する・・・競合やネグレクトは?
コミュニティワークとコミニティ価格317P
コミュニティ価格におけるジェンダーと専業主婦の労働忌避のプライド318P
「貨幣そのものは善でも悪でもない」319P??・・・市場経済に対する評価の問題、市場経済こそが問題。「介護保険のサービス商品市場は、価格の統制された準市場であって、価格メカニズムの働く自由市場ではない。」319P
第13章 生協のジェンダー編成
「生協は女性の運動であっても女性運動ではない。」312P
食の安全というところで母親役割というジェンダー的とらわれから起きている。
「消費者」「生活者」ということで脱ジェンダー化(?用語がおかしい・・ジェンダーということがとらえられなかった、という意味?)323P
「消費者−生産者、生活者−労働者」という対比323P?・・・分けられること自体の問題があるのでは?
「男女共同参画」という行政語とそれ自体がガイアツとして出てきた限界326P
労働と活動の不払い労働概念での労働への統一327P?・・労働の廃棄という方向性も考えられることでは?
生協活動の時代区分328P
第一期創設期/第二期活動と労働の二重構造/第三期労働のフレックス化/活動の労働化/第四期三重構造(ペイド/半ペイド/アンペイド・ワーク)
生協も他の企業と同じジェンダー中立を装う間接差別の態勢・・「5」の項全体の内容327-331P
組合の活動を不払い活動として析出(宅配や会議)334P
非正規の労働のパート化と有償の活動のワーカーズ・コレクディブ化334P
有償ボランティア価格の意味338P
「(1)パートに出ざるをえない経済階層の女性を結果として排除し、(2)低報酬によって自発性と労働の価値とを担保し、(3)その見返りに利用者の「感謝」を「見えない報酬」として評価し、他方で (4)ボランティア性によって労働の質と責任を問われずすむ言い訳としてきた。」
「ワーカーズ・コレクディブは、増殖する異型細胞、つまりガンのごとき存在だと、わたしは考えている。」339P・・・ワーカーズ・コレクディブの不完全な労働化という押さえ方、上野さんのちゃんと労働化すべきとの考え、わたしはむしろ逆にとらえる
三重構造340P・・・「組合員のアンペイド・ワーク、パートおよびワーカーズ・コレクティブの半ペイドワーク、そして正規雇用の専従職員のペイドワーク」
「ワーカーズ・コレクティブの拡大は、組合員の労働参加を通じて、組合員と職員の分離にもとづく二重構造から成り立っていた生協を、実質的な組合員主権に変える契機を持っているからである。それは生協が「活動」と「労働」の一致という創設期の理念に、ひとまわりして回帰することを意味する。」342P
「「すべての活動を、ワーカーズ・コレクディブへ」と唱えるのは決して荒突無稽な標語ではない。というのも、彼 (グリンコープの指導者) がいう通り、「生協はもともとワーカーズ・コレクディブだったから」である。」―「協セクターの生協には、「一般企業」とは異なっていてほしい、というわたしの期待が込められている。」―「(生協の活動の持つ意義として読み込めば・・・引用者)第一に、生協自身が組合主権や組合員民主主義を理念として掲げる団体だからであり、第二に、組合員女性とはフェミニズムが共に闘うべき姉妹だからであり、第三に、生協の変貌のなかには、生協をフェミニズムの方向へと内発的に導いていくプロセスが見て取れるからである。」344P・・・このあたりは労働概念から問題にして、協の共的展開していく可能性がとらえられないことはない、もう少しこのあたりを詰めて欲しいといういつものないものねだり。
第14章 協セクターにおける先進ケアの実践―小規模多機能型居宅介護の事例
「このゆびとーまれ」をはじめとする富山方式の協セクターの小規模多機能型居宅介護の紹介。
適正な市場競争350P・・・?競争の論理はかぎりなく民になっていく、そうではなくて、適正な効率性の問題なのでは?
市民という概念での「志の共同」性の追求、選択の自由−選択縁(市民事業体)351P
「協セクターによる持続可能な経営とは何か」ということが本書を貫くテーマ351P
富山方式、種別を超えた共生型の運営・・・行政が追随353P
現場の実践―特区指定−国の制度を変える254P
看取りまでの実践365P
「家族でないからやさしくなれるし、過去の記憶やしがらみがないのに気持ちよく介護ができる」375P、時間限定、強制労働にならない(?労苦にならない)
「家族のような」批判・・・家族介護を理想と考え、福祉を補完主義モデルで考える事への批判376P
10章で書いた福祉経営の存在可能性376P、「このゆびとーまれ」を存在可能にしたこと・・・「(1)創業者の篤志というべき持ち出しを初期投資とし、(2)意欲と能力の高いワーカーの、(3)サービス残業を含む低賃金で支えられている。それに加えて、(4)メディア効果という無形の創業者利得を得ていることも指摘できる。」376P・・・(4)は「べてるの家」にも通じること。
「このゆびとーまれ」の「最後まで在宅で」という高齢者の在宅支援が可能であったら、オルタナティブ・ビジョンをもたらしたことになる。・・・微妙な表現・・・「経営を存続させていることは綱渡りに似た「奇跡」」379P
第15章 官セクターの成功と挫折−秋田県旧鷹巣の場合
「ケアタウンたかのす」という日本で最初のユニットケアを導入した、官セクター
2002年厚労省が新型特養のモデルに切り替える要因になった388P
しかし、介護保険制度の「改正」で個室ユニットにホテルコストを導入するという、二階に上げてはしごをはずすような制度改変をした。395P
介護保険制度には光と影405P
そもそも介護保険制度は医療費の負担の削減という事で作られたという経緯がある405P
ネオリベの受益者負担と自己責任・自己決定ということ(「構造改革」)が何をもたらしたか?・・・在宅という意図に反して、施設入所を促した406P
「たかのす」の破綻・・・政権交代とそれ以前の地方の自治を規定する国の政策変更409P
介護保険と独立採算制ということでの福祉の規定・・・相矛盾する、そもそも「福祉」を相対的にとらえることが必要。
官のNPO支援も民の圧迫になる・・・そもそもここでいう「民」−市場経済に期待できることがあるのでしょうか?
行政主導ということは恩恵としての福祉になる406P・・・?行政は恩恵としての福祉路線だから、得てして行政主導は恩恵としての福祉に収束されるという意味?
介護保険の枠内では理想の介護はできない409P
平成の大合併は標準化をもたらした、しかも低い福祉のレベルで410P
「たかのす」の破綻で総括すべきことは、ワーキング・グループが持続的な機能をしなかったということ・・・著者はこのワーキング・グループが今日まで持続する可能性があったと押さえています。411P・・・協への著者の思い入れ
「彼らは(協セクターの事業体・・・引用者)はむしろ自分たちの使い勝手の良い制度を要求し、制度をつくりかえてきたのだ。協セクターの実践の強みは、制度があるからサービスがある、ということにはない、むしろ制度がなくても―そこにニーズがあるから―サービスがある、という初心を持ちこたえてきたところにある。」411P
著者がひくNPO関係者の発言「行政には期待しない。わたしたちがやることの邪魔をしないでくれさえすればよい」411P
著者は介護保険制度への批判をまとめきれているようには思えません。それは経営とか市場原理とかから語っていて、そもそも介護制度の独立採算制という事への批判が為し切れていないように思えるのです。そもそも資本主義においては、労働力の生産再生産活動のコストを最小限におさえる、個人や家族に転化することから抜け出せないという性格があるとおさえたところで、ケアというところをとらえかえすことではないでしょうか?
第16章 協セクターの優位性
協セクターの競争優位の項ではじまります?・・・まさに資本主義的生産様式の中での競争にさらされる、競争原理だけでは成り立たないケア活動なのですが。
「先進ケア」の成立の条件として三つあげています。
「(1)高い理念を持った指導力のある経営者が、(2)高い能力をもったワーカーを、 (3)低い労働条件で使う」414P
ワーカーズ・コレクディブの自らの労働条件の切り下げによる地域福祉の先進ケースとなっているというあやうさ422P
福祉でくわなくてもいい一部の高学歴・高経済階層の既婚女性の「労働」422P・・・くわなくもいい階層がいなくなることで生協福祉がノスタルジアとして語られる時代がくるかもしれない423P・・・食わなくてもいいこととしてのベーシックインカムの議論(しかし、資本主義社会においてベーシックインカムの可能性は?)
NPO型の先進ケアが成り立つ四つの条件423P・・・376Pの再出
各モデルの地域特性・・・大都市郊外型=生協福祉/地方都市型=小規模多機能/農村型(官セクター、入会地のような共・協セクター424-426P・・・「共・協セクター」の語源であるコモン(common)は、本来は英語で中世までの「入会地」を指す用語425P
「ワーカーの不満は、彼らの高いモラルや経営理念への共感によって抑制されている。裏返しに言えば彼らが高いモラルや理念への共感を失ったときに、彼らは「ただのワーカー」に転じ、先進施設は「ふつうの施設」に転落する。」426P
「低賃金は、現行の介護保険の介護報酬規定によって制約されている。」・・・?市場原理に任せたままだったら、どうなっていたか、むしろ、もっと低いのをいくらかなりとも押し上げた? 問題は労働力の生産再生産コストを抑えて賃金をおさえ利潤率をあげるという資本主義のしくみのなかにあるのではないでしょうか? だから労働力の生産・再生産過程としてのケアは低く抑えられざるをえない、資本主義であるかぎり。
「「先進ケア」は、制度から逸脱することではじめて「先進的」たりえているのである。」428P
「「ケアの質」を問うには、ケアする側とケアされる側、両方の成長が必要とされるだろう」428P
著者のこの章最後での協セクターへの期待の表明・・・しかし、危うさも感じ続けている。著者は労働としての確立の方向をめざしているようです。・・・しかし、そもそも「不払い活動としてのケア」としての出発で、そこから抜け出せるのでしょうか?・・・資本主義社会における、労働力の生産再生産活動はどう位置づけられるのかという問題なのです。
第17章 ふたたびケア労働をめぐって―グロバリーゼーションとケア
「ケアワークとは「最後に選ばれる職業」」434P
「政府は介護報酬を低く抑え、事業者は労働者の賃金を上げようとせず、利用者はできるだけ低価格のサービスを使いたいと選好してきたのである。」435P
「介護保険内外のサービスは、以下の三層に分解する。第一は保険内利用を利用者一割負担の公定価格で提供する準市場サービス、第二は、保健外サービスを利用者全額負担のもとに公定価格に準じる市場価格で提供するサービス、第三は同じく保険外サービスを採算を度外視した低料金で提供するボランティア価格のサービス」439P
「不完全に商品化されたサービス」439P
著者はその労賃自体で世代間の再生産も含めて、そして「老後の生活」も含めて労働力の再生産が不可能な状態を示してしているようです。ですが、どうも常用雇用という意味にもとれる内容になっています。・・・資本主義生産様式では、賃金をもらう活動を労働というのであって、雇用形態の問題ではないとわたしは考えています。なぜ、家事から労働化された家事労働やケア活動が安いのでしょうか? もし高かったら、資本主義の宿命たる利潤追求に支障がでるから、労働力の再生産費用たる賃金をできるだけ低く抑え、利潤を大きくしたいという資本主義の原理から来ているからではないでしょうか? もし自分の労賃より高かったら、家事やケアを「外」部化しないのです。
労働と労働力の区別439P・・・マルクスからの引用、ただ、「不完全に(労働力)商品化された」という概念をもってくるところで、マルクスの労働力概念とずれているのではとわたしは感じています。もっといえば官許マルクス主義のマルクスの歪曲に乗っているのではと思います。そもそも労働力商品という概念自体が物象化された相で成立していることの押さえがなされているとは思えないのです。
「介護保険の枠内サービスは公定価格によって統制された公共サービスの一種だから商品ではないが、・・・」441P・・・意味不明です。・・商品だが公的資金を導入することによって、価格を低く抑えているだけでは?
「労働者には、自分の労働だけを売って、労働力を商品化しない自由がある。」444P・・・意味不明です。労働をしたときには労働力に賃金が払われています。常用か臨時かというだけではないでしょうか? 臨時、非正規雇用に確かに自由があります。ただし、飢え死にする自由とセットになっているのです。上野さんは派遣法がそもそもはスキルをもった労働者をイメージして作られたということを書いていますが、現実にどうなったのかという問題なのです。スキルをもった学者の立場での「自由」ではないでしょうか?
障害学研究会のメーリングリストで、提起されたところでとりあけられた箇所が443-444Pにあります。
文を引用することなのですが、断りが必要になってくるので、解釈的要約をしてみます。要するに、介助する側のひとから、ボランティア的なところで介助に入ることによって労働の価格破壊を持たらしていると著者の書いている趣旨が読み取れる、それはボランティア的に入っているひとにとって、その活動を否定されると感じられるという話です。まず、押さえておかねばならないのは、介助を受ける側のひとが、安定した介助のための態勢作りとして、介助の有償化を進めてきたということです。そのあたり、介助を受ける側のひとたちの中にも有償化に反対する意見はあったのですが、大きな流れとしては有償化の要求になりました。ですから、まず、なぜ有償化の方向に進んだのかの問題なのです。時間を守らないひとがいて、守るどころか、守らないひとの分までオーバーして介助をするひとがいた、それで態勢が回っていけばすむのですが、回らないでは生命さえも脅かされる、だから「安定した」制度をもとめた、そのひとつが有償化ということだったのでないでしょうか?
もうひとつ、書いておかねばならないのは、そもそも著者は協セクターということを評価しているという意味において、ボランティア的活動を一概に否定していません。ただ、「適正な労働の評価による労働力化」を指向しています。著者はこの問題だけでなく、ふたつの相矛盾することの中で揺れ動いていて、何を言いたいのかつかみにくいところがあります。
このあたりのこと、ちょっと整理してみます。福祉とくくられてしまっていることは、資本主義社会では恩恵としての福祉に収束される傾向が強くあります。そこにおいて、ケアがどのように位置づけられるのかの問題なのです。著者は協という概念を出して、そこから新しい関係つくりを志向しています。ですが、自身が書いているように、協は再生産活動を安上がりにしておくために使われていく、そのジレンマに陥るのです。その解決の途は協を共的に展開しきるということにあるように思えるのですが、これについては長くなるので改めて文を起こします。
さて、そのことは著者の移民・外国人労働者の問題の両義性にもつながっていきます。著者はトータルに差別の問題を考えるひとなので移民・外国人労働者を排除しないという姿勢を示しています。しかし価格破壊をもたらす要因になっていると書いています。そしてしわ寄せは外国人労働者の家族、またそれを家事労働で支える労働者の家族へとしわ寄せが及んでいく問題まで押さえています。446Pですが、この両義性をどうするのかが出てこず、何を言いたいのかがつかめないのです。
労働450P・・・著者の叫びとも言うべきといかけ「人間の生命産み育て、その死をみとるという労働(再生産活動)がその他のすべての労働の下位におかれるのか」(『家父長制と資本制』からの引用)・・・そもそも資本主義社会における労働とは、資本の利潤追求の中に位置づけられ、再生産活動費用は低く抑えられなければならないということです。そのような搾取する労働の廃棄こそが必要なのではないでしょうか?
本書は『家父長制と資本制』の直接の続編452P
もう一度「不完全に商品化された労働力」について
介護保険制度などで制度的に補完される労働力の再生産とその破滅的情況。介護職の
ワーキングプア化という情況は破滅的情況の端的な現れではないでしょうか?
第18章 次世代福祉社会の構想
社会保障は「市場の失敗」の補完453P
市場は自己完結性をもたない454P
「市場の失敗」ではないのでは? そもそも自由競争だけでやれば、資本主義は自壊するのではないでしょうか?
規制・補完のない市場原理はないのです。失敗というのはそこで完結させる事から出ているのではないでしょうか?
「国家の失敗」454P・・・著者のここでの論攷は協セクターの「国家の失敗の補完」ということになってしまっているのではないでしょうか?・・・むしろ、ここはオルタナティブ・グロバリーゼーションの「もうひとつの世界は可能だ」というところで展開していくことではないでしょうか?
ポランニの四類型(後述)がいずれの社会においても存在した。454P・・・失敗の補完ということではない、互いに「補完」することとして存在するのです。
「家族の失敗」・・・家族がケアを担うことという論理になってしまっているのではないでしょうか?
「社会保障とは安全保障」・・・?逸脱や例外としてではない安全保障456P?・・・安全保障とは逸脱や例外的なときにでてくるのではないでしょうか、むしろここでは生活保障という概念がフィットするのではないでしょうか?
ポランニの四つの類型に対応する再配分−官/交換−民/互酬性−協/贈与−私456P
新しい共同体としての協456P・・・著者の論攷では補完にしかなっていないのでは?
私セクターを代替え不可能な領域としている459P・・・家族幻想・家族神話
「合成の誤謬」458P・・・市場原理は強者の論理であって、誤謬の問題ではないのでは?
協と私(愛情労働や家族幻想ということで協を私におしとどめる)458-459P・・・オルタナティブとしての家族
「連帯」459P?・・・近代社会の個の析出、あくまで個人の責任が先にあるではないでしょうか、それでは協にはならないのです? 協はつねに資本主義社会の競争原理から押さえつけられるのでは?
権丈さんの修正としての再分配論459Pとマルクスは違うのです。マルクスは(再)分配論ではなく、生産手段の私的所有から問題にしているのです。
福祉のあり方として、公的責任において供給するという提起をしています。その理由として、「(1)福祉ニーズを満たす対人サービスは、水や電気のようにライフラインと同じく、生命と健康を支えるインフラであるから、この供給には市場ではなく公的セクターが責任を持つ必要がある。(2)ライフラインにあたる対人サービスは、市場メカニズムのもとでの需給と価格の変動にさらされてはならない。一方での価格破壊を、他方で価格の高騰を防止するために、価格統制のもとで準市場のもとにおかれるべきである(脱商品化)(3)購買力がいくらあっても市場に購買可能なサービスの供給があると限らない。市場に供給をゆだねることは、ライフラインにあたる対人サービスを提供する公的責任を免責することになる。(4)とりわけケアというサービスは、サービスの受益者と購買者とが一致しない場合が多く、この場合はサービス利用者にとって何がよいサービスであるかの市場選択が機能しない。(5)購買力は他のどんな選択肢へも向けられる。当事者が当事者たりえない場合(アルコール中毒者がアルコール消費にカネを使う。生活保護受給者がギャンブルに消費する等)も想定しなければならない。また現金給付がサービスの再家族化を促進する場合もある。したがつて、貨幣給付よりは現物給付の方に合理性がある。」463P
「高齢者と障害者の自立の概念の違い」464P・・・???「障害者」にも自立の概念はふたつあるのです。身辺自立は高齢者の自立と言えるのでしようか?
「障害者は先に行くモデル」・・・そちらに合わせる465P
老障幼の統合468P
ユーザーユニオンとなると対象は2000万人・・・当事者主権としてマイナーではない展開の可能性を指摘しています。470P
さて、章ごとのメモをおえて、著者への思いのようなこととして文を書き加えておきます。
上野さんには日本におけるフェミニズム理論の旗手とかいう評価も出ていました。わたしは反差別論をやっていて、そこでフェミニズムも必要ということで学習していました。そして自ら「障害者」として優生思想にとらわれるなかで、「両性関係」ということを閉じてしまったことから、そこでの自らの差別性を実践的に脱却していくことをなしえぬままに、少なくとも理論的には超えなくてはという思いもありました。そういう中で、一時期、わたしの当事者として中心課題としてきた障害問題よりもフェミニズムの本をたくさん読んでいるという事態もありました。
その学習、わたしのフェミニズム学習の水先案内人は上野さんでした。特に、「マルクス主義フェミニズム」と「ポスト構造主義的フェミニズム」学習で、実にわかりやすく導いてくれました。このひとはまるでコピーライターのようなキャッチフレーズで、大きな波紋を生み出す一石を投じるのです。上野さんはわたしがフェミニズムの著者の中で一番読んだ本が多い著者です。そして、上野さんの論攷には反差別としての怒りがその論攷を生み出すという差別されてきた女性としての「怨念」を体現したようなことがあるのです。喧嘩を売るというようなその論攷のスタイルに「吃音者」としての「怨念」を自らのエネルギーを自称するわたしは共鳴していたのです。
で、わたしの読書は一時その著に全部あたっていく勢いがあったのですが、どうもなにかおかしいという思いを抱き始めました。
論攷が荒いのです。ぐっとつかむキャッチフレーズは時として語弊のある言い方になります。わたしは差別を問題にしていくとき、誤解を生むような表現が差別を再生産するというところで、ことばを厳密に選んでいくのですが、上野さんはそのようなところで誤解を生むことを恐れず、誤解を生めば、むしろそこで対話が成立していくというような指向を感じさせる、躊躇せずわかりやすい言葉で論攷を進めていくのです。
もうひとつの、違和感は、問いかけをやめてしまうということにありました。問いかけたことに最後まできちんと答えない、一石を投じるという手法で、投じてそのあとに自分でそれをトコトン堀り下げて行くというような指向が感じられません。読んでいて消化不良に陥っていくのです。この書でも、一体何が言いたいのかわからなくなっていくところがあります。障害学研究会のメーリングリストで取り上げられていた箇所がまさに然りです。
もっとも、一石を投じて、オープンな議論を引き起こしていくということの意義においては、むしろその方がいいのでしょうが。
ともかく、わたしのフェミニズムの水先案内人であった上野さんへの批判への躊躇があります。ですが、上野さんはそのような躊躇を超えてオープンな議論をしているのではないかというわたしの勝手な思い込みかもしれないのですが、あえて、その思い込みに立脚して、この読書メモを出しておきます。
さて、この本を読んでいて、もうひとつ感じていたのは、ことばの定義ももう少し煮詰める必要があります。なぜ、「障害者」へのケアが「介助」で、高齢者へのケアが「介護」なのか(その「ケア」という概念も煮詰める必要があるのですが)、どうも高齢者はできるだけ身辺自立することをもとめられるということのようによみとれるのですが、そんなことは「障害者」もこの差別的社会からもとめられてきたことで、そこで区別する必要はないのです。ですから、「介護」ということばは批判しつつ法律用語的なところでしか使えないことです。
そして、もっとも基底的問題として、労働ということのとらえ返しが必要ということがあります。そこでのマルクスのとらえ返しの必要性です。繰り返しマルクスに立ち返る、乗り越え不可能な思想ととらえ返した、サルトルやデリダの提起がよみがえるのです。マルクス―廣松の物象化論、唯物史観、反差別ということを織り込んだコミュニズムという三点セットで、マルクスの再評価の必要性を、このケア論のほりさげへのほりさげきれないところで、わたしは押さえています。上野さんの主題にしてきたフェミニズムというところでいえば、物象化批判の(マルクス派の)フェミニズムの形成がいま必要になってきているのだと思っています。
話をこの書に戻してまとめます。
この書はケア論を総体的に展開しようとしている労作です。一石を投じるという意味において、大きな波紋を描いています。わたしも改めて、考えさせられ、今後の論攷に生かして行きたいと思っています。特に、労働論的展開として。
立岩さんが障害学研究会のメーリングリストで、「この本よりも自分の本の方が」というような自負心を示す本を出しています。わたしはこの本を次の本として読み出そうとしています。またそれについて読書メモを出し論点を煮詰めていきたいと思っています。
・上野千鶴子『ケアの社会学――当事者主権の福祉社会へ』太田出版2011
出されたころに店頭でみつけ買った本なのですが、しばらく積読していました。障害学研究会のメーリングリストで話題になっていて、急遽フェミニズムの学習を挟み、最初に読み始めます。そうとう厚い本なので、章ごとにメモを残していきます。
初版への序文 ケア−共助の思想と実践
「大震災の後で」という導入部につづき全体の構成を紹介しています。
「大震災の後で」というところは、介護保険制度が作られた後ということで、それなりのケアがなされた、という評価になっているのですが、むしろ著者も書いているように、その後に続く「関連死」がかなり出ていることや、「精神病院」の置き去り事件、そして岩手は「障害者」にとって在宅介助の態勢が作られていず、施設入所者が多かったなどから、かなり深刻な事態になっていることの情報などを見ると、著者のこの評価がどこから来るのか不思議でなりませんでした。
現在の介護保険制度などの評価も、そして後期高齢者医療制度をめぐって「姥捨て山」といわれていた事からすると、どうも分からない制度の押さえ方になっています。本文の中で検証したいと思っています。
以下、本文に実際にあたっていくことですが、この全体の紹介の中でもとらえられること、後に本文で検証しますが、とりあえずメモっておきます。
そもそもケア労働とか、家事労働ということを、著者は「労働なのか?」と問いかけをしているのに、きちんととらえ返さないまま、労働として話を進めているようなのです。このところはよく分かりません。上野さんはマルクス主義フェミニズム(略称、マル・フェミ)の日本における紹介者なのですが、どうも「ロシア・マルクス主義−官許マルクス主義」の労働概念にとらわれているようです。マル・フェミもそのあたりで2つに分岐していくと思うのですが、上野さんは「マルクス主義者ではない」と自称することによって、マルクスのとらえ返しをネグってしまったようです。
この著は全編、どうも資本主義的生産様式それ自体から問題にするという観点はないようで、したがって市場経済の論理の枠内での論攷になっていて、問題のほりさげもそれ以上は進んでいないようです。
ですから、協の活動に資本主義的なことを超えていく指向があるのに、それを資本主義社会の枠内で論じようとしているとしかとらえられません。このあたりは実際に本文のところで検証します。
第1章 ケアとは何か
ケアという概念でくくられるかどうかの問題があるのですが、書かれた歴史は上流階級の家事やケアを使用人が担っていたというところで、労働という概念はあったのかもしれませんが、その当時の多くのひとが従事した農業の中において、家事は労働であったのでしょうか? そもそも奴隷制以後では、農作業が労働になったのは、プランテーションが始まってからではないでしょうか?
「ケアが労働ではない特殊ケース」40Pとありますが、歴史的には「ケアが労働になった特殊ケース」として現在のケアや家事があるのではないでしょうか?
「ケアが労働として取り扱われるべきこと」というデイリーの立場を著者は共有しているのですが、そもそも労働の定義がないのです。
ワーク(work)とラバー(labor)という英語の意味が、ケアの正負の両義性に対応しているのではないでしょうか?
ケアの概念には、依存性という概念と結びついているようですが、依存的でないひとなどいないのではないでしょうか?
ケアということを「本質的」に規定するのではなく、文脈依存的にとらえようとしています。すなわち「いかなる文脈のもとで、ある行為はケアになるのか? またいかなる文脈のもとで、ケアは労働になるのか?」という問いかけです。
「ケアワーク」を「ケア労働」と訳することに混乱があります。労働という場合、わたしは資本主義社会では搾取という概念と結びつく商品生産活動というマルクスの定義と結びつきます。ワークには仕事という訳もあり、これを必ずしも労働ではない仕事というとらえ方ができます。労働というとき、他者使われるとか、他者のためにする活動という観点も出てきます。仕事には著者がいう相互性なり関係性ということがあり、共や協ということが生み出されていきます。ちなみに、わたしは過去の労働を巡る議論を受けて、仕事を「みんなのためにする活動」と規定しています。
著者はマルクス主義フェミニズムの家事=シャドーワーク・不払い労働=労働力の生産・再生産活動というところのとらえ方があり、家事労働というところからケア労働という概念を導き出しているのですが、そもそも労働とはなにかというところをマルクスから導き出そうとしていたなら、このあたりの問題がとけていくのではと思います。マルクス主義者ではないという著者にはマルクスとの対話がないのです(官許マルクス主義者の物象化された家事労働論に著者もとらわれています)。
労働とは何かというとらえ返しがマルクスとの対話も含めて必要なのです。
ケアの定義としてデイリーの「依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係。」を出してそれに同意しています。39Pその同意の理由を6つあげています。
「この定義に社会的かつ歴史的文脈依存性が書き込まれていて、比較可能な概念であること/同じく社会学的であるメリットとして、それが相互作用的であること/役割とその遂行の社会的配置を含むことで、介護、介助、看護、そして育児までの範囲を覆い/身体と情緒の両方を含むことで、ケアの持つ世話と配慮の両面をカバーし/規範から実践までを含むことで、ケアの規範的アプローチと記述的アプローチをともに可能とする。もっと正確に言えば、ケアの規範自体を社会学的文脈の変数とすることで、ケアについての規範的アブローチを脱構築する点でも、すぐれて社会学的と言えよう。」39-40P(この最後の処は、唯物史観の問題と、廣松さんが関係主義的な観点で新カント派を援用して函数連関的とらえ方をしていることとリンクします。)
この読書メモの最後にケア概念をわたしも出してみようと思っています。むしろ、ケアということで異化してくること自体の批判になるのではという思いを抱いているのですが。
第2章 ケアとは何であるべきか?―ケアの規範理論
このような規範的な問題の立て方自体にわたしは違和があります。倫理主義批判として展開してきたことです。
著者も規範的アプローチ(規範命題)から文脈的アプローチ(記述命題)への転換を提起しています46P。そのことと整合性がないのではと疑問に思いました。で、社会学が主題としてきた、記述―事実記述の中に規範が入り込んでこざるを得ないという事を著者は書いています。これは認識論的には命名判断の中に価値判断がすでに入り込んでいくということにも通じる問題なのですが、著者はケアの倫理か正義の倫理かという二者択一の問題ではないというところで展開しようとしていて、どちらかに還元することは不可能という提起もしています。そもそも倫理主義批判の問題として立てることではないかとわたしは考えています。
著者も規範的アプローチを脱構築し、文脈的なとらえ方をしようとしています。わたしはこれを関係論的なとらえかたとして、押さえています。
メイヤロフとギリガンとの対話の中でケアをとらえ返しているのですが、メイヤロフにはジェンダーという観点を欠落させている、ギリガンは逆にジェンダーにとらわれていると批判しています。メイヤロフ批判は48P
ケアの人権というところで、四つの人権をあげています。デイリーがあげていた三つの人権(ケアされる権利/ケアされる権利/ケアすることを強制されない権利)にもうひとつ「ケアされることを強制されない権利」を加えて、上野モデルとして突き出しています。これらはいずれも人権、福祉国家論での枠組みでの議論です。わたしはむしろここで論じていって出口があるのかと疑問に思っています。
「ジェンダーという変数は権力をめぐる変数にほかならない。」58Pという提起は関係論的な関数連関を想起させる提起で、フェミニストの上野さんの根底的な思いにつながっているのでしょうが、そのような指向が一貫してつらぬかれていくのかどうか、後の論攷を見たいのですが、権利とか労働ということをとらえかえそうとしていない姿勢の中で、わたしはむしろ、機会均等的なフェミニズムにしかならない、差別の問題が根底的にとらえられていないのではないかと思ってしまいます。
もうひとつ、「労働(苦役labor)」という表記が出てきます。このあたり「仕事(work)」というところで、とらえ返していくと、「ケアワーク」を「ケア労働」と訳するのではなく、「ケアの仕事」と訳し、労働概念次第をきちんと脱構築することではないかと思うのです。今村仁司さんの労働から仕事への転換論が留意されることです。
第3章 当事者とは誰か−ニーズと当事者主権
4つのニーズ・・・1承認ニーズ、2庇護ニーズ、3要求ニーズ、4非認知ニーズ70P
2における代行主義の問題、4における比較ニーズによる認知へ至る途の大切さ
「ニーズはあるのではなく、作られる」72P・・・構成主義・構築主義
もうひとつの顕在−潜在という観点からのとらえかえし
ニーズがうまれる・・無から生まれるのではない、そこにある被差別の問題・・排除と抑圧からのアンチとしてのニーズ
当事者のインフレ・・第一次ニーズ、第二次ニーズ、・・帰属という概念(内自有化)・・ 被差別の当事者性の位相・・・直接的被差別、他者を介した被差別
潜在の問題をどうするのか79P・・そこにある被差別の問題
当事者である−当事者になる(ニーズを出す・・・そこにある主体性)主権という概念よりも主体という概念がフィットする・・・そもそも主権概念は権利概念とつながる、物象化の問題がそこにあるのでは?
「親や支援者が「代弁」した当事者のニーズは最終的には当事者本人によって判定されなければならない。たとえそれが長期にわたる過程であっても。」83P
ニーズという問題を被差別という観点からとらえ返す作業が必要。
世界観の問題からのとらえかえし、ひととひとは助け合う相互関係からなりたっているという世界観からそれをさまたげる差別への批判−反差別の立場に立つのか、個人主義的競争原理の世界観に立つのか 旭川訴訟の原告のことば、「必要なときに手を貸してもらえない」ということを差別としてとらえる観点が必要なのです。
第4章 ケアの社会学
「高齢者介護はあってあたりまえのものとして自明視できない」87P
「育児支援、高齢者福祉政策、障害者福祉政策の間に一貫性がない」88P
「(生産活動に続く)廃棄・処分の過程を含める」92P・・・高齢者はゴミなのか? 「男は退職すると産業廃棄物になる」という上野さんのコピーライトは価値判断的資本主義批判としてあったのではなく、事実記載として展開していたのかも知れないと思い始めています。そもそも産業廃棄物というひとの物化が起きているという資本主義の批判として出しているのか、資本主義における物象化の批判をしているのか、それとも記述概念なのかという根本的問題がそこにあるのです。
「文明社会とはこの「廃棄・処分」の過程が長期化した時代」92P
官許マルクス主義者は家事の労働力の生産・再生産過程ということを記述記載にしています。物象化批判のマルクス派はこれを物象化として、資本主義批判をしています。前者は家事労働という概念を生み出すのですが、後者はひとの活動がなぜ、労働、家事労働、「個人的営為」に分けられるのかを批判しています。・・・官許マルクス主義フェミニズムと物象化批判(のマルクスうみなおし派の)フェミニズム
「註9経済学ではヒトも人的資源として、生産や配分の対象となる、人的資源の生産を問題にするなら、その廃棄も再生産のサイクルに含めるのは妥当だろう。」93P・・・資本主義経済学においてはという意味で、まさに「ひとの物化」です。
「移転・廃棄・処分」96P・・・労働崇拝からくる労働力の生産・再生産という概念という物象化的錯誤から出て来るひとの労働力の価値という物象化・物化・・・ここから、労働と家事労働、個人的営為という分化がおきてきます。・・・また「介護」や介助が社会負担的活動になってしまいます。・・・逆にいうと介助や介護から関係性をとらえられます。
生産・再生産活動というとき、共同性(関係性・生きる場)の生産・再生産という概念をいれることによって、オルタナティブな世界を描き得るし、新しい関係性を生み出し得るのではないでしょうか?
直接的生産過程と間接的(関係的)生産過程・・・後者は存在することによって関係性を作り得るという問題を含んでいます。
「帰属」98Pという線引きをする必要はないのでは?(資本主義−私有財産制度的線引き)
「社会的連帯」という資本主義的個人主義に基づく(近代的個我の論理に基づく)「連帯」・・・上野さんの近代主義・資本主義の枠内での論攷・・・近代的個我の論理の脱構築がなされていないのでは?
市場システムとそれを補完する家族(私的)扶養システム・社会扶養システムというところで問題を立てています。市場システムというところで完結していないところで、補完する二つのシステムを問題にしつつ、フェミニズムを主題にしてきた上野さんは、家族扶養システムの脱構築を計ろうとしているのです。そもそも市場経済ということがもつ主題的意味からすると、上野さんは市場経済システムだけでは完結しえないとしつつ98P、他の二つを市場経済システムを補完するシステムとしているのです。・・・ですが、どうして補完の方だけ問題にして、補完など必要でなくなる市場経済システムの脱構築をしようとしないのでしょうか? もつと根底的に市場経済システム自体を問題にすることなのに、マルクス主義者でないと自己規定した上野さんはそこには踏み込んで行かないのです。脱構築派としても、市場経済を脱構築しないところで、脱構築派でもないのです。近代主義者、機会均等派的差別への飲み込まれ派になってしまうのではないでしょうか?・・機会均等というのは偏見を問題にしているだけで、わたしの能力を正当に評価しろ、というところで能力主義におちいっていきます。「わたしも差別する権利を与えよ」という差別への飲み込まれ派に陥っていくのです。
わたしは結局、競争原理に基づく無限のひととひととの闘いの世界を選択するのか、ひととひとが支え合う差別のない社会を選択するのかという選択性の問題ではないかと考え出しています。「もうひとつの世界は可能だ」というオルターグロバリーゼーションの言葉の意味がここにあるのではと思います。
第5章 家族介護は「自然」か
高齢者問題とは近代以降に生じた問題で、最初は救貧政策であった。
ジェンダーを語らないことはジェンダー(という差別の)隠蔽になる。113P
そもそも過去にも多くはなかった「家族介護」という虚為に基づく制度設計。116P
国民年金の3号保険という「優遇」は専業主婦という虚構の制度で女性の従属の装置、これが介護の制度にも取り入れられる。118P
「「日本型福祉」とはけっして日本の「伝統」などではなく、八〇年代、近未来に到来しつつある「高齢社会」を視野に入れたうえで、「家族介護」を資源として設計された政策の集合のことにほかならない。」119P
家族介護を軸にした政策批判
家族介護というジェンダーまみれの概念の隠蔽122P
家族介護とジェンダーを主題に、先駆的な研究を積み重ねてきたアンガーソン123P
アンガーソンは家族介護には「役割や権力関係の逆転を「受け容れることへの抵抗」を、双方が経験することを指摘する」125P・・・わたしの母親への介助経験
家族介護がよいのか・・・著者はむしろ否定的130P
「家族が機能していれば、福祉国家は必要ない−それが日本型社会福祉論の含み資産説だった。132P・・・福祉の家族介護の補完主義の原則
「失敗」の「補完」としての介護保険制度133P
「のぞましいケア」・・・「相互行為としてのケアは、ケアの与え手がケアの対象と内容を選択し、ケアの受け手がその与え手のケアを選択したときに、双方の行為者にとって「のぞましい」ものになる。」133P
第6章 ケアとはどんな労働か
サービスの定義134P・・・奉仕、不払い労働、物ではない精神的付与・・・福祉事業サービスなる恩恵としての福祉につながる概念・・・サービス概念を整理する必要
ケアは家事労働か(−ヒメルワイトは「労働」に含めることに反対した)135P
ヒメルワイトは労働とよぶための条件を三つ必要とした。他人のためになされること/分業を形成していること/誰がおこなったかは問題ではない、この三つ目の条件を満たしていないとして家事を労働と呼ぶことに反対136P
「家事の定義の中には「第三者基準」というものがある。人間が生命・生活を維持するために不可欠な諸活動のうちには、食事、睡眠、排泄のように第三者に代替してもらうことができない活動がある。NHKの生活時間調査では、これを第一次活動と呼ぶ。次いで、生活や生計維持のためになくてはならない諸活動が第二次活動であり、さらに一日二四時間から第一次活動時間と第二次活動時間を差し引いた、余暇と呼ばれる自由裁量時間を、第三次活動時間と呼ぶ。第二次活動には、収入をともなう狭義の「労働」と収入をともなわない「家事」とが含まれる。最近まで、「労働時間」とは、第二次時間のうち「支払い労働時間」のみを指していた。だが、家事もまた「不払い労働」という名の労働だと社会的なコンセンサスが成り立つようになって、ようやく「労働時間」とは「支払い労働時間」と「不払い労働時間」の合計を指すようになった。」137-138P「家事とは、世帯内で生命・生活を維持するのになくてはならない活動のうち、自分以外の他者に移転できる活動をいう。これが家事の「第三者基準」である。」138P 註4 で「第一次活動−必需活動、第二次活動−拘束活動、第三次活動−自由活動」ということを出している139P・・・よけいおかしい・・・そもそも家事が労働であるという定義は間違っている。わたしは労働と家事と「個人的」営為という分け方をされているとしているけど、そもそもどうして三つに分けられるのかの問題
「都市型基準」138Pというものを出している・・・農村は違う分けられない
著者も「労働と労働のでないものとのあいだに連続性を仮設することで、両者を比較可能なカテゴリーのもとに置くためである。」140Pと書いている・・・そもそも労働の定義か必要
「家事労働に賃金を」はレトリック146P 立岩さんとの対話・・・註14
感情労働はアーリー・ホックシールドが出した150P
感情労働という概念のおかしさ151P註19・・・さらに労働という概念ではとらえられないことがあります(たとえば、夫婦間のsexは労働なのでしょうか)。
労働とは資本主義社会においては商品生産活動そのもので労賃が払われること
それ以前の労働ははっきりとした強制されておこなう活動−奴隷労働や徒弟労働
「家事労働(不払い労働)に賃金を」というスローガンは成立しない、不払い活動はそもそも労働ではない、家事も賃金が払われたら労働になっている 家事の外部化の進行、使用人の家事労働。
第7章 ケアされるとはどんな経験か
この章での著者の主題は、高齢者がなぜ当事者主体として運動を起こさないのかというところにあります。
ケアという概念の二重性・・・高齢者の介護と育児・医療・「障害者」の介助・相談事業などの全てを含む概念との区別があいまい。・・・著者は自らが身近に迫った高齢者の問題で、介護ということ、そしてフェミニズムのケアすることを負わされている介護者としての女性ということでの課題で展開しています。しかし、逆にそのことにひきずられ、そのあたりの区別と連関があいまいになっているようです。
当事者として主体化されるためには、その集合的カテゴリーへの自己同一化が先行しなければならない。165P
なぜ、主流の「障害者運動」は介護保険制度そのものに反対するのではなく、切り離しを計ったのでしょうか?
金満里180P・・身体の意識との乖離を主題にして表現活動にはいっていったのではないか? 身体と意識の乖離は、「障害者」だけではない、身体をめぐる他者との関わり。
「身体とは最初の他者である」181P
「老化という現象は、その裏返しの過程、すなわち身体が他者になっていく経験と言ってよいかもしれない。」181P・・・身体と意識の乖離が、むしろ反転して他者との交流−共生の根拠となるのかも知れないと考えています。
「すなわち、多くの「健常者」は、「身体は自己のものであろうか?」という問いを忘れている(いられる)からである。逆に言えば、この問いを忘れていられる状態のことを「健常」と呼ぶこともできる。」181P・・・「健常者」という概念は反照規定でしかありません。そもそもどちらにも実体などないのです。
介助される経験において、高齢者は「障害者」の「あとから来た者」たち182P
『ひとりさまの老後』の10ケ条182P・・・いまここでの生活のスキルにすぎないのではないか? と感じています。読んでみますー
「介助されるプロ」小山内さんの提起183P・・「プライドを捨て、「わがまま」と言われるのを怖れない/排泄介助には、自分のお尻だと思ってケアしてもらう/相手がボランティアでも、言うべきことははっきり言う/「もういい?」は、ケアする側にとって禁句/自信過剰になり、迷いを失ったケアには落とし穴がある」「心地よいケアを受けることは自分との戦いであり、命がけのギャンブルのようなもの」「なにをしてほしいかは、わたしに聞いてください」
小山内さんの提起は原基本な突き出しで、共鳴できるのですが、「差別される者は差別するくらいでないと対等になれない」ということを書いていると紹介されているところはよく理解できません。差別的関係そのものをなくしていくというのが運動だと思うからです。差別はなくならないということがそこにあるのかも知れません。介助者手足論も同じ批判ができます。ひとを物化するのは反差別というところにはなりません。
ダイレクトペイントメント184P・・・恩恵としての福祉の枠組みではほとんど意味をなさないのではないでしょうか?・・・市場原理の中では差別から抜け出せないのです。
介助のADLへの限定は「働くな」という意味でしかない。184P・・・そもそも「障害者」の側からの労働崇拝的なところへの批判「労働は悪だ」という青い芝の突き出し、フェミニズムの総撤退論・・・労働の廃棄と仕事化として生み直しが必要です。
第8章 「よいケア」とは何か−集団ケアから個別ケアへ
「個別ケア」が理想―しかし、介護保険制度の中での批判意識の高まりの中でユニットケアが広がり、施設の再評価が起きている。「施設ケア」を「個別ケア」に近づける試みです。(この章は施設のハード設計をした建築学の研究室とソフトを問題にしてきた上野さんの属する社会学の研究室が共同研究した論文を元にして書かれている章です)
介護の受け手は創造的消費者。介護は相互行為する関係、「ケアの質」の判定は与え手と受け手双方でなしていく創造的関係。ゼロ・サムでなく、ウィンウィンの関係。しかし「第一次ニーズ」の所在を間違えてはならない。186P
空間の身体感覚はひとりひとりのそれまでの生活経験の差の反映。198P
どちらにしても人員配置、労働のあり方が問題になる。ユニットケアは個別ケアであり、手厚い人手が必要。205P
理想の介護には答もマニュアルもない。「どうして欲しいかは、当事者に聞いてほしい。」213P・・・被差別の中でどうして欲しいかも分からない生き方(「わたしはなにをすればいいの」という主体性のなさ)をしてきたひとにどうするのかの問題も出て来ます。自己決定論には疑問もあります。この問題が被差別の問題について回ります。
第9章 誰が介護を担うのか―介護費用負担の最適混合へ向けて
官/民/協/私218P
ペストフの福祉三角形223P
エスピン−アンデルセンの三類型・・・自由主義福祉レジーム/社会民主主義福祉レジーム/保守主義福祉レジーム
脱商品化、脱家族化という流れ231P
本書の問題意識233P・・・「第一は、国家、市場、家族に付け加えて、福祉多元社会論にいう「非営利市民セクター」、本書でいう「協セクター」を含めることで、四元図式のもとにケアの費用配分考察することである。/第二に、エスピン−アンデルセンから「脱商品化」「脱家族化」の概念を受け継ぎつつ、それをさらに厳密に使うことである。/第三に、ケアのジェンダーのアプローチを前提に、「脱ジェンダー化」の指標をこれに付け加えることである。」
ケアの社会化のうち、本書はとりわけ協セクターに注目して理論的・経験的分析を試みる234P・・・後から、協が「安上がりの福祉」の元凶という側面もあるという指摘がなされています。
第10章 市民事業体と参加型福祉
「官(公)でもなく、民(私)でもない」第三の領域240P
意思決定というところの参加だけでない参加241P
住民参加型福祉のおける「住民参加」・・・その内容「(1)有償サービスであるが、ボランティア精神がないとできない活動でもあり、高い価値観、精神性を必要とする。/(2)ある局面では住民が担い手であり、ある局面では受け手になる「住民相互の助け合いのシステム」である。/(3)活動のあらゆる利益を社会や地域に還元し、組織のための利益活動をしない。/(4)単なる直接サービスの提供にこだわらず、コミュニティづくりを志向する。単に供給体としてサービス提供するだけでなく、住民が主体的に取り組む活動であり、「社会福祉」を市民、住民に取り戻すための活動である。」241P・・・この(2)〜(4)は共−コミュニズムと言える内容ではないでしょうか?
NPOの取り違え・・・「「介護型NPOはNPOではない」という怨嗟」248P・・・???経営の論理
福祉経営259P・・・京極高宣さんが自立支援法で応益負担を突き出した所に通じること・・・経営の論理が何を生み出すのでしょうか?
「福祉経営」の定義「(1)ケアの受け手とケアの与え手双方の利益が最大化するような、(2)持続可能な事業の、(3)ソフトとハード両面にわたる経営管理のありかた、と定義してきたが、・・中略・・これに(4)市民の合意と資源の調達、および(5)社会的設計の提案と実践をつけ加えたい。」260P
「「競争優位」を求めて消費者の選択」264P・・・競争が何を意味するのでしょうか?
第11章 生協福祉
安全な食品という消費者運動が始まった協同組合運動が、消費からワーカーズ・コレクティブという生産活動に(・・・協の中に共の芽があるのか)
適正利潤という協の指向276P
市場的な循環に対して資本主義批判から生産と消費の「もうひとつの流通の回路」を作ろうというワーカーズ・コレクディブの指向
官・・税金資本セクター、民・・産業資本セクター、協・・(参加型システムによる)市民資本セクター276P
相対的に経済的に豊かな活動専業主婦が生協運動の担い手283P
パート労働における低賃金、ワーカーズ・コレクディブにおける低賃金・・・いずれもジェンダーの問題がそこにある・・・性差別における感度の鈍さ284P
パート労働よりひくいワーカーズ・コレクディブの賃金は、パート職と差別化するための「プライドの値段」285P・・・そこにある活動専業主婦の「ジェンダー的な労働の忌避」、それらのことが生協系の活動の競争力の支えとなっている。
第12章 グリーンコープの福祉ワーカーズ・コレクディブ
著者を生協福祉の研究に導いたのはグリーンコープ連合からの講演依頼と福祉連帯基金の顧問就任の依頼286-287P
アクションリサーチの手法「自分自身の課題を解決するために、運動から調査を生み、調査から運動を生む方法」・・・「当事者研究」288P
現場情報をもっているひとが調査にあたることの強み288P
逆に弊害もあり、それを補う手法を考えている289P
様々なニーズ
「経営コスト」という概念のなさ303P・・・逆に「経営コスト」ということへの批判も必要では?
横並びシステムと合意形成のための会議307P
「コミュニティ・オプティマム」(略称コミオプ)福祉という概念を作り出した。313P
国家が保障するナショナル・ミニマムに、自治体がシビル・ミニマムを追加した上に地域住民の参加型福祉によって「最適福祉水準」を達成する・・・競合やネグレクトは?
コミュニティワークとコミニティ価格317P
コミュニティ価格におけるジェンダーと専業主婦の労働忌避のプライド318P
「貨幣そのものは善でも悪でもない」319P??・・・市場経済に対する評価の問題、市場経済こそが問題。「介護保険のサービス商品市場は、価格の統制された準市場であって、価格メカニズムの働く自由市場ではない。」319P
第13章 生協のジェンダー編成
「生協は女性の運動であっても女性運動ではない。」312P
食の安全というところで母親役割というジェンダー的とらわれから起きている。
「消費者」「生活者」ということで脱ジェンダー化(?用語がおかしい・・ジェンダーということがとらえられなかった、という意味?)323P
「消費者−生産者、生活者−労働者」という対比323P?・・・分けられること自体の問題があるのでは?
「男女共同参画」という行政語とそれ自体がガイアツとして出てきた限界326P
労働と活動の不払い労働概念での労働への統一327P?・・労働の廃棄という方向性も考えられることでは?
生協活動の時代区分328P
第一期創設期/第二期活動と労働の二重構造/第三期労働のフレックス化/活動の労働化/第四期三重構造(ペイド/半ペイド/アンペイド・ワーク)
生協も他の企業と同じジェンダー中立を装う間接差別の態勢・・「5」の項全体の内容327-331P
組合の活動を不払い活動として析出(宅配や会議)334P
非正規の労働のパート化と有償の活動のワーカーズ・コレクディブ化334P
有償ボランティア価格の意味338P
「(1)パートに出ざるをえない経済階層の女性を結果として排除し、(2)低報酬によって自発性と労働の価値とを担保し、(3)その見返りに利用者の「感謝」を「見えない報酬」として評価し、他方で (4)ボランティア性によって労働の質と責任を問われずすむ言い訳としてきた。」
「ワーカーズ・コレクディブは、増殖する異型細胞、つまりガンのごとき存在だと、わたしは考えている。」339P・・・ワーカーズ・コレクディブの不完全な労働化という押さえ方、上野さんのちゃんと労働化すべきとの考え、わたしはむしろ逆にとらえる
三重構造340P・・・「組合員のアンペイド・ワーク、パートおよびワーカーズ・コレクティブの半ペイドワーク、そして正規雇用の専従職員のペイドワーク」
「ワーカーズ・コレクティブの拡大は、組合員の労働参加を通じて、組合員と職員の分離にもとづく二重構造から成り立っていた生協を、実質的な組合員主権に変える契機を持っているからである。それは生協が「活動」と「労働」の一致という創設期の理念に、ひとまわりして回帰することを意味する。」342P
「「すべての活動を、ワーカーズ・コレクディブへ」と唱えるのは決して荒突無稽な標語ではない。というのも、彼 (グリンコープの指導者) がいう通り、「生協はもともとワーカーズ・コレクディブだったから」である。」―「協セクターの生協には、「一般企業」とは異なっていてほしい、というわたしの期待が込められている。」―「(生協の活動の持つ意義として読み込めば・・・引用者)第一に、生協自身が組合主権や組合員民主主義を理念として掲げる団体だからであり、第二に、組合員女性とはフェミニズムが共に闘うべき姉妹だからであり、第三に、生協の変貌のなかには、生協をフェミニズムの方向へと内発的に導いていくプロセスが見て取れるからである。」344P・・・このあたりは労働概念から問題にして、協の共的展開していく可能性がとらえられないことはない、もう少しこのあたりを詰めて欲しいといういつものないものねだり。
第14章 協セクターにおける先進ケアの実践―小規模多機能型居宅介護の事例
「このゆびとーまれ」をはじめとする富山方式の協セクターの小規模多機能型居宅介護の紹介。
適正な市場競争350P・・・?競争の論理はかぎりなく民になっていく、そうではなくて、適正な効率性の問題なのでは?
市民という概念での「志の共同」性の追求、選択の自由−選択縁(市民事業体)351P
「協セクターによる持続可能な経営とは何か」ということが本書を貫くテーマ351P
富山方式、種別を超えた共生型の運営・・・行政が追随353P
現場の実践―特区指定−国の制度を変える254P
看取りまでの実践365P
「家族でないからやさしくなれるし、過去の記憶やしがらみがないのに気持ちよく介護ができる」375P、時間限定、強制労働にならない(?労苦にならない)
「家族のような」批判・・・家族介護を理想と考え、福祉を補完主義モデルで考える事への批判376P
10章で書いた福祉経営の存在可能性376P、「このゆびとーまれ」を存在可能にしたこと・・・「(1)創業者の篤志というべき持ち出しを初期投資とし、(2)意欲と能力の高いワーカーの、(3)サービス残業を含む低賃金で支えられている。それに加えて、(4)メディア効果という無形の創業者利得を得ていることも指摘できる。」376P・・・(4)は「べてるの家」にも通じること。
「このゆびとーまれ」の「最後まで在宅で」という高齢者の在宅支援が可能であったら、オルタナティブ・ビジョンをもたらしたことになる。・・・微妙な表現・・・「経営を存続させていることは綱渡りに似た「奇跡」」379P
第15章 官セクターの成功と挫折−秋田県旧鷹巣の場合
「ケアタウンたかのす」という日本で最初のユニットケアを導入した、官セクター
2002年厚労省が新型特養のモデルに切り替える要因になった388P
しかし、介護保険制度の「改正」で個室ユニットにホテルコストを導入するという、二階に上げてはしごをはずすような制度改変をした。395P
介護保険制度には光と影405P
そもそも介護保険制度は医療費の負担の削減という事で作られたという経緯がある405P
ネオリベの受益者負担と自己責任・自己決定ということ(「構造改革」)が何をもたらしたか?・・・在宅という意図に反して、施設入所を促した406P
「たかのす」の破綻・・・政権交代とそれ以前の地方の自治を規定する国の政策変更409P
介護保険と独立採算制ということでの福祉の規定・・・相矛盾する、そもそも「福祉」を相対的にとらえることが必要。
官のNPO支援も民の圧迫になる・・・そもそもここでいう「民」−市場経済に期待できることがあるのでしょうか?
行政主導ということは恩恵としての福祉になる406P・・・?行政は恩恵としての福祉路線だから、得てして行政主導は恩恵としての福祉に収束されるという意味?
介護保険の枠内では理想の介護はできない409P
平成の大合併は標準化をもたらした、しかも低い福祉のレベルで410P
「たかのす」の破綻で総括すべきことは、ワーキング・グループが持続的な機能をしなかったということ・・・著者はこのワーキング・グループが今日まで持続する可能性があったと押さえています。411P・・・協への著者の思い入れ
「彼らは(協セクターの事業体・・・引用者)はむしろ自分たちの使い勝手の良い制度を要求し、制度をつくりかえてきたのだ。協セクターの実践の強みは、制度があるからサービスがある、ということにはない、むしろ制度がなくても―そこにニーズがあるから―サービスがある、という初心を持ちこたえてきたところにある。」411P
著者がひくNPO関係者の発言「行政には期待しない。わたしたちがやることの邪魔をしないでくれさえすればよい」411P
著者は介護保険制度への批判をまとめきれているようには思えません。それは経営とか市場原理とかから語っていて、そもそも介護制度の独立採算制という事への批判が為し切れていないように思えるのです。そもそも資本主義においては、労働力の生産再生産活動のコストを最小限におさえる、個人や家族に転化することから抜け出せないという性格があるとおさえたところで、ケアというところをとらえかえすことではないでしょうか?
第16章 協セクターの優位性
協セクターの競争優位の項ではじまります?・・・まさに資本主義的生産様式の中での競争にさらされる、競争原理だけでは成り立たないケア活動なのですが。
「先進ケア」の成立の条件として三つあげています。
「(1)高い理念を持った指導力のある経営者が、(2)高い能力をもったワーカーを、 (3)低い労働条件で使う」414P
ワーカーズ・コレクディブの自らの労働条件の切り下げによる地域福祉の先進ケースとなっているというあやうさ422P
福祉でくわなくてもいい一部の高学歴・高経済階層の既婚女性の「労働」422P・・・くわなくもいい階層がいなくなることで生協福祉がノスタルジアとして語られる時代がくるかもしれない423P・・・食わなくてもいいこととしてのベーシックインカムの議論(しかし、資本主義社会においてベーシックインカムの可能性は?)
NPO型の先進ケアが成り立つ四つの条件423P・・・376Pの再出
各モデルの地域特性・・・大都市郊外型=生協福祉/地方都市型=小規模多機能/農村型(官セクター、入会地のような共・協セクター424-426P・・・「共・協セクター」の語源であるコモン(common)は、本来は英語で中世までの「入会地」を指す用語425P
「ワーカーの不満は、彼らの高いモラルや経営理念への共感によって抑制されている。裏返しに言えば彼らが高いモラルや理念への共感を失ったときに、彼らは「ただのワーカー」に転じ、先進施設は「ふつうの施設」に転落する。」426P
「低賃金は、現行の介護保険の介護報酬規定によって制約されている。」・・・?市場原理に任せたままだったら、どうなっていたか、むしろ、もっと低いのをいくらかなりとも押し上げた? 問題は労働力の生産再生産コストを抑えて賃金をおさえ利潤率をあげるという資本主義のしくみのなかにあるのではないでしょうか? だから労働力の生産・再生産過程としてのケアは低く抑えられざるをえない、資本主義であるかぎり。
「「先進ケア」は、制度から逸脱することではじめて「先進的」たりえているのである。」428P
「「ケアの質」を問うには、ケアする側とケアされる側、両方の成長が必要とされるだろう」428P
著者のこの章最後での協セクターへの期待の表明・・・しかし、危うさも感じ続けている。著者は労働としての確立の方向をめざしているようです。・・・しかし、そもそも「不払い活動としてのケア」としての出発で、そこから抜け出せるのでしょうか?・・・資本主義社会における、労働力の生産再生産活動はどう位置づけられるのかという問題なのです。
第17章 ふたたびケア労働をめぐって―グロバリーゼーションとケア
「ケアワークとは「最後に選ばれる職業」」434P
「政府は介護報酬を低く抑え、事業者は労働者の賃金を上げようとせず、利用者はできるだけ低価格のサービスを使いたいと選好してきたのである。」435P
「介護保険内外のサービスは、以下の三層に分解する。第一は保険内利用を利用者一割負担の公定価格で提供する準市場サービス、第二は、保健外サービスを利用者全額負担のもとに公定価格に準じる市場価格で提供するサービス、第三は同じく保険外サービスを採算を度外視した低料金で提供するボランティア価格のサービス」439P
「不完全に商品化されたサービス」439P
著者はその労賃自体で世代間の再生産も含めて、そして「老後の生活」も含めて労働力の再生産が不可能な状態を示してしているようです。ですが、どうも常用雇用という意味にもとれる内容になっています。・・・資本主義生産様式では、賃金をもらう活動を労働というのであって、雇用形態の問題ではないとわたしは考えています。なぜ、家事から労働化された家事労働やケア活動が安いのでしょうか? もし高かったら、資本主義の宿命たる利潤追求に支障がでるから、労働力の再生産費用たる賃金をできるだけ低く抑え、利潤を大きくしたいという資本主義の原理から来ているからではないでしょうか? もし自分の労賃より高かったら、家事やケアを「外」部化しないのです。
労働と労働力の区別439P・・・マルクスからの引用、ただ、「不完全に(労働力)商品化された」という概念をもってくるところで、マルクスの労働力概念とずれているのではとわたしは感じています。もっといえば官許マルクス主義のマルクスの歪曲に乗っているのではと思います。そもそも労働力商品という概念自体が物象化された相で成立していることの押さえがなされているとは思えないのです。
「介護保険の枠内サービスは公定価格によって統制された公共サービスの一種だから商品ではないが、・・・」441P・・・意味不明です。・・商品だが公的資金を導入することによって、価格を低く抑えているだけでは?
「労働者には、自分の労働だけを売って、労働力を商品化しない自由がある。」444P・・・意味不明です。労働をしたときには労働力に賃金が払われています。常用か臨時かというだけではないでしょうか? 臨時、非正規雇用に確かに自由があります。ただし、飢え死にする自由とセットになっているのです。上野さんは派遣法がそもそもはスキルをもった労働者をイメージして作られたということを書いていますが、現実にどうなったのかという問題なのです。スキルをもった学者の立場での「自由」ではないでしょうか?
障害学研究会のメーリングリストで、提起されたところでとりあけられた箇所が443-444Pにあります。
文を引用することなのですが、断りが必要になってくるので、解釈的要約をしてみます。要するに、介助する側のひとから、ボランティア的なところで介助に入ることによって労働の価格破壊を持たらしていると著者の書いている趣旨が読み取れる、それはボランティア的に入っているひとにとって、その活動を否定されると感じられるという話です。まず、押さえておかねばならないのは、介助を受ける側のひとが、安定した介助のための態勢作りとして、介助の有償化を進めてきたということです。そのあたり、介助を受ける側のひとたちの中にも有償化に反対する意見はあったのですが、大きな流れとしては有償化の要求になりました。ですから、まず、なぜ有償化の方向に進んだのかの問題なのです。時間を守らないひとがいて、守るどころか、守らないひとの分までオーバーして介助をするひとがいた、それで態勢が回っていけばすむのですが、回らないでは生命さえも脅かされる、だから「安定した」制度をもとめた、そのひとつが有償化ということだったのでないでしょうか?
もうひとつ、書いておかねばならないのは、そもそも著者は協セクターということを評価しているという意味において、ボランティア的活動を一概に否定していません。ただ、「適正な労働の評価による労働力化」を指向しています。著者はこの問題だけでなく、ふたつの相矛盾することの中で揺れ動いていて、何を言いたいのかつかみにくいところがあります。
このあたりのこと、ちょっと整理してみます。福祉とくくられてしまっていることは、資本主義社会では恩恵としての福祉に収束される傾向が強くあります。そこにおいて、ケアがどのように位置づけられるのかの問題なのです。著者は協という概念を出して、そこから新しい関係つくりを志向しています。ですが、自身が書いているように、協は再生産活動を安上がりにしておくために使われていく、そのジレンマに陥るのです。その解決の途は協を共的に展開しきるということにあるように思えるのですが、これについては長くなるので改めて文を起こします。
さて、そのことは著者の移民・外国人労働者の問題の両義性にもつながっていきます。著者はトータルに差別の問題を考えるひとなので移民・外国人労働者を排除しないという姿勢を示しています。しかし価格破壊をもたらす要因になっていると書いています。そしてしわ寄せは外国人労働者の家族、またそれを家事労働で支える労働者の家族へとしわ寄せが及んでいく問題まで押さえています。446Pですが、この両義性をどうするのかが出てこず、何を言いたいのかがつかめないのです。
労働450P・・・著者の叫びとも言うべきといかけ「人間の生命産み育て、その死をみとるという労働(再生産活動)がその他のすべての労働の下位におかれるのか」(『家父長制と資本制』からの引用)・・・そもそも資本主義社会における労働とは、資本の利潤追求の中に位置づけられ、再生産活動費用は低く抑えられなければならないということです。そのような搾取する労働の廃棄こそが必要なのではないでしょうか?
本書は『家父長制と資本制』の直接の続編452P
もう一度「不完全に商品化された労働力」について
介護保険制度などで制度的に補完される労働力の再生産とその破滅的情況。介護職の
ワーキングプア化という情況は破滅的情況の端的な現れではないでしょうか?
第18章 次世代福祉社会の構想
社会保障は「市場の失敗」の補完453P
市場は自己完結性をもたない454P
「市場の失敗」ではないのでは? そもそも自由競争だけでやれば、資本主義は自壊するのではないでしょうか?
規制・補完のない市場原理はないのです。失敗というのはそこで完結させる事から出ているのではないでしょうか?
「国家の失敗」454P・・・著者のここでの論攷は協セクターの「国家の失敗の補完」ということになってしまっているのではないでしょうか?・・・むしろ、ここはオルタナティブ・グロバリーゼーションの「もうひとつの世界は可能だ」というところで展開していくことではないでしょうか?
ポランニの四類型(後述)がいずれの社会においても存在した。454P・・・失敗の補完ということではない、互いに「補完」することとして存在するのです。
「家族の失敗」・・・家族がケアを担うことという論理になってしまっているのではないでしょうか?
「社会保障とは安全保障」・・・?逸脱や例外としてではない安全保障456P?・・・安全保障とは逸脱や例外的なときにでてくるのではないでしょうか、むしろここでは生活保障という概念がフィットするのではないでしょうか?
ポランニの四つの類型に対応する再配分−官/交換−民/互酬性−協/贈与−私456P
新しい共同体としての協456P・・・著者の論攷では補完にしかなっていないのでは?
私セクターを代替え不可能な領域としている459P・・・家族幻想・家族神話
「合成の誤謬」458P・・・市場原理は強者の論理であって、誤謬の問題ではないのでは?
協と私(愛情労働や家族幻想ということで協を私におしとどめる)458-459P・・・オルタナティブとしての家族
「連帯」459P?・・・近代社会の個の析出、あくまで個人の責任が先にあるではないでしょうか、それでは協にはならないのです? 協はつねに資本主義社会の競争原理から押さえつけられるのでは?
権丈さんの修正としての再分配論459Pとマルクスは違うのです。マルクスは(再)分配論ではなく、生産手段の私的所有から問題にしているのです。
福祉のあり方として、公的責任において供給するという提起をしています。その理由として、「(1)福祉ニーズを満たす対人サービスは、水や電気のようにライフラインと同じく、生命と健康を支えるインフラであるから、この供給には市場ではなく公的セクターが責任を持つ必要がある。(2)ライフラインにあたる対人サービスは、市場メカニズムのもとでの需給と価格の変動にさらされてはならない。一方での価格破壊を、他方で価格の高騰を防止するために、価格統制のもとで準市場のもとにおかれるべきである(脱商品化)(3)購買力がいくらあっても市場に購買可能なサービスの供給があると限らない。市場に供給をゆだねることは、ライフラインにあたる対人サービスを提供する公的責任を免責することになる。(4)とりわけケアというサービスは、サービスの受益者と購買者とが一致しない場合が多く、この場合はサービス利用者にとって何がよいサービスであるかの市場選択が機能しない。(5)購買力は他のどんな選択肢へも向けられる。当事者が当事者たりえない場合(アルコール中毒者がアルコール消費にカネを使う。生活保護受給者がギャンブルに消費する等)も想定しなければならない。また現金給付がサービスの再家族化を促進する場合もある。したがつて、貨幣給付よりは現物給付の方に合理性がある。」463P
「高齢者と障害者の自立の概念の違い」464P・・・???「障害者」にも自立の概念はふたつあるのです。身辺自立は高齢者の自立と言えるのでしようか?
「障害者は先に行くモデル」・・・そちらに合わせる465P
老障幼の統合468P
ユーザーユニオンとなると対象は2000万人・・・当事者主権としてマイナーではない展開の可能性を指摘しています。470P
さて、章ごとのメモをおえて、著者への思いのようなこととして文を書き加えておきます。
上野さんには日本におけるフェミニズム理論の旗手とかいう評価も出ていました。わたしは反差別論をやっていて、そこでフェミニズムも必要ということで学習していました。そして自ら「障害者」として優生思想にとらわれるなかで、「両性関係」ということを閉じてしまったことから、そこでの自らの差別性を実践的に脱却していくことをなしえぬままに、少なくとも理論的には超えなくてはという思いもありました。そういう中で、一時期、わたしの当事者として中心課題としてきた障害問題よりもフェミニズムの本をたくさん読んでいるという事態もありました。
その学習、わたしのフェミニズム学習の水先案内人は上野さんでした。特に、「マルクス主義フェミニズム」と「ポスト構造主義的フェミニズム」学習で、実にわかりやすく導いてくれました。このひとはまるでコピーライターのようなキャッチフレーズで、大きな波紋を生み出す一石を投じるのです。上野さんはわたしがフェミニズムの著者の中で一番読んだ本が多い著者です。そして、上野さんの論攷には反差別としての怒りがその論攷を生み出すという差別されてきた女性としての「怨念」を体現したようなことがあるのです。喧嘩を売るというようなその論攷のスタイルに「吃音者」としての「怨念」を自らのエネルギーを自称するわたしは共鳴していたのです。
で、わたしの読書は一時その著に全部あたっていく勢いがあったのですが、どうもなにかおかしいという思いを抱き始めました。
論攷が荒いのです。ぐっとつかむキャッチフレーズは時として語弊のある言い方になります。わたしは差別を問題にしていくとき、誤解を生むような表現が差別を再生産するというところで、ことばを厳密に選んでいくのですが、上野さんはそのようなところで誤解を生むことを恐れず、誤解を生めば、むしろそこで対話が成立していくというような指向を感じさせる、躊躇せずわかりやすい言葉で論攷を進めていくのです。
もうひとつの、違和感は、問いかけをやめてしまうということにありました。問いかけたことに最後まできちんと答えない、一石を投じるという手法で、投じてそのあとに自分でそれをトコトン堀り下げて行くというような指向が感じられません。読んでいて消化不良に陥っていくのです。この書でも、一体何が言いたいのかわからなくなっていくところがあります。障害学研究会のメーリングリストで取り上げられていた箇所がまさに然りです。
もっとも、一石を投じて、オープンな議論を引き起こしていくということの意義においては、むしろその方がいいのでしょうが。
ともかく、わたしのフェミニズムの水先案内人であった上野さんへの批判への躊躇があります。ですが、上野さんはそのような躊躇を超えてオープンな議論をしているのではないかというわたしの勝手な思い込みかもしれないのですが、あえて、その思い込みに立脚して、この読書メモを出しておきます。
さて、この本を読んでいて、もうひとつ感じていたのは、ことばの定義ももう少し煮詰める必要があります。なぜ、「障害者」へのケアが「介助」で、高齢者へのケアが「介護」なのか(その「ケア」という概念も煮詰める必要があるのですが)、どうも高齢者はできるだけ身辺自立することをもとめられるということのようによみとれるのですが、そんなことは「障害者」もこの差別的社会からもとめられてきたことで、そこで区別する必要はないのです。ですから、「介護」ということばは批判しつつ法律用語的なところでしか使えないことです。
そして、もっとも基底的問題として、労働ということのとらえ返しが必要ということがあります。そこでのマルクスのとらえ返しの必要性です。繰り返しマルクスに立ち返る、乗り越え不可能な思想ととらえ返した、サルトルやデリダの提起がよみがえるのです。マルクス―廣松の物象化論、唯物史観、反差別ということを織り込んだコミュニズムという三点セットで、マルクスの再評価の必要性を、このケア論のほりさげへのほりさげきれないところで、わたしは押さえています。上野さんの主題にしてきたフェミニズムというところでいえば、物象化批判の(マルクス派の)フェミニズムの形成がいま必要になってきているのだと思っています。
話をこの書に戻してまとめます。
この書はケア論を総体的に展開しようとしている労作です。一石を投じるという意味において、大きな波紋を描いています。わたしも改めて、考えさせられ、今後の論攷に生かして行きたいと思っています。特に、労働論的展開として。
立岩さんが障害学研究会のメーリングリストで、「この本よりも自分の本の方が」というような自負心を示す本を出しています。わたしはこの本を次の本として読み出そうとしています。またそれについて読書メモを出し論点を煮詰めていきたいと思っています。
障害65
たわしの読書メモ・・ブログ191
・曽根英二『生涯被告「おっちゃん」の裁判 600円が奪った19年』平凡社2010
これは手話関係者の間で、知るひとぞ知ると話題になっていた「600円裁判」をテレビ局で取材していたひとの書いた本です。被告と支援のひとたち、そして裁判に関わったひとたちをドキュメントした貴重な記録となる本です。
「話題になっていた」と書いたのは、「聴覚障害者」司法関係に関わっていたひとの間で、被告の被差別の問題で、この事件は象徴的な事件だったのです。被告は小学校もろう学校にもいかず、手話も通じない、ホームレス状態に陥り、そこで事件に巻き込まれたのです。600円を事務所から盗んだとして起訴された事件です。
そして、手話通訳のあり方として、裁判における「手話通訳」の事例として、手話が通じないときにどうするかということでのイメージとしてこの裁判の例が使われていたことなのです。
後者に関しては全通研の「法定における手話通訳」の模擬ビデオの中に出てきます。ここでは、この問題は割愛します。前者は『聴覚障害者と刑事手続―公正な手話通訳と刑事弁護のために』という本の中でMさん裁判として出ています。刑事訴訟法の手続きとして黙秘権の告知ということがあるのですが、被告には黙秘権というとことが伝わっていない、刑事訴訟法的に裁判が成立しないはずたという内容です。そもそも600円という窃盗で、そして(そもそも立証自体をなす以前だった、その立証の議論さえできない状態の)差別の中で、検察が起訴猶予にしないで、なぜ起訴したのかの問題があります。さらに、そして裁判所が最初から「通訳鑑定」をしていない問題があります。手話が通じない、黙秘件の告知がなしえない中で裁判が成立しないという判断で公訴棄却にすることだったはずです。また刑事訴訟法的に取り調べ段階の黙秘権の告知がなされていない、公訴棄却にしなかったのかの問題があるのです。
さらに、この裁判は、裁判所の面子みたいなこととしかとらえられないのですが、裁判の停止などという決定がくだされました。被告が手話などをまなびコミュニケーションがとれるようになり、黙秘権の告知などを理解できるようになったら、裁判を再開するという主旨です。20年近く裁判が続いていた中で、そういう可能性があるのかどうか、分かりそうなものですが、そもそも事件が起きた時点での被告の置かれていた状況を無視した、ごまかしの決定です。また、裁判の迅速な進行ということを無視して、被告のままにすえおくということが許されるのか、という問題もあります。まさに日本の裁判史上の「汚点」なのです。
「生涯被告」ということは厳密には、違います。ほとんどその状態に置かれたという意味です。この裁判は、被告が癌になり、死期が迫る中で、やっと公訴棄却の決定がなされたのです。その間の被告の裁判への重荷がいかようであったか、この本の中でも描かれいろいろ推測されています。
この本の中には刑事訴訟法、それも裁判打ち切りの第一人者として証人となった学者の意見として「法廷での十分な弁護を受けるコミュニケーションができない場合に、果たしてそのまま裁判を進めることが正義にかなうかということが言いたかった。被告人にはコミュニケーションを教えなかったのは社会の責任ですよね。これは、現時点で打ち切りの結論が出た場合には、社会は責任を負わざるを得ないということだと思います。」、169Pと社会の責任が出てきます。わたしはそもそも刑事裁判とは何かということを考え続けています。差別の中でその反作用として刑事事件が起きてくるとき、社会防衛論的に「社会」が被告を裁く、そのようなことが許されるとしたら、被告を事件に追いやった「社会」も裁かれることでないかと思うのです。これについては、裁判員制度が始まっている現在、その事への批判も込めて別文で展開します(「反障害通信」33号の巻頭言で書きました)。
さて、以下、微妙な問題で、わたしにも結論的な事が出ないので、書くことをためらっていたのですが、わたしも別な裁判で支援の取り組みをした経験から、支援のあり方の問題として、あえて議論の材料として出しておきます。
それは死の間近になって、被告が支援の中心にいた中川さんにあたっていたということです。これに対して、中川さんが「おっちゃん」の死後分析しています。その一つとして、被告とコミュニケーションがとれない中で、支援の中心にいた中川さんが被告の意思の確認がとれないままに、いろんな判断や取材に対処していたことへの反発があったのではないかということです。いわゆる代行主義ということへの、当事者のそんな概念のないままでの、感覚的反発の問題です。わたしは中川さんがそのようなとらえ返しをし、そしてそれを口にしている姿勢に、運動家としての基本姿勢として押さえ、感じ入っていました。
確かに、そのようなことはあったのかもしれません。しかし、わたしは甘えられる関係になっていた、裁判の過酷さで反作用としてあたるひとが必要だった、裁判が被告に与えていた過酷さのあらわれではないかと思いのです。こんなことを書くのは、わたしの体験につながることがあるからです。ことばの教室の先生が、「吃音児」の生徒が引っ込み思案でおどおどしていたのに、関係が作れてくるなかで、その先生をなぐってきたりしてきた、そのことをその先生が自分が出せるようになってきたと喜んでいたと、いう場面にでくわせたことがあったのです。「おっちゃん」の話に戻すと、そのあたりの微妙なことは分からないのですが、そういうことも考えられます。
さて、もうひとつ、わたしは裁判の最初の方針として、どちらにしても執行猶予の判決が出るのだから裁判で罪状を認めて、情状酌量で早急に終わらせるという選択肢はあったのではないかという問題を考えていました。そもそもこのあたり被告の意見を与することなのですが、そんな判断は無理ということで、中川さんと弁護士さんとの間の議論で、公訴棄却の判決を勝ち取るという方向で進んだのです。さらに、20年も被告のままにおかれるという事態を予想できもしなかったのでしょうが。
わたしはこの裁判の取り組みの中で、「おっちゃん」がひととひととの関係を少しかどうかも分からないのですが、とにかく持ち得たことの中に救いのようなことを感じています。たら・ればの話をしても仕方がないし、何がどうだったのかもわたしには分かりません。ただ、もしこの方向で進まなかったら、「おっちゃん」はひととの交流のないまま、刑務所とホームレスの生活を行き来する可能性が強かったのだろうとの推測をしています。「おっちゃん」はつらかっただろうけど、この裁判でのひととの出会いの中に少しは楽しさやうれしさのようなことがあったのでは、と思っています。というより、思いたいのです。
・曽根英二『生涯被告「おっちゃん」の裁判 600円が奪った19年』平凡社2010
これは手話関係者の間で、知るひとぞ知ると話題になっていた「600円裁判」をテレビ局で取材していたひとの書いた本です。被告と支援のひとたち、そして裁判に関わったひとたちをドキュメントした貴重な記録となる本です。
「話題になっていた」と書いたのは、「聴覚障害者」司法関係に関わっていたひとの間で、被告の被差別の問題で、この事件は象徴的な事件だったのです。被告は小学校もろう学校にもいかず、手話も通じない、ホームレス状態に陥り、そこで事件に巻き込まれたのです。600円を事務所から盗んだとして起訴された事件です。
そして、手話通訳のあり方として、裁判における「手話通訳」の事例として、手話が通じないときにどうするかということでのイメージとしてこの裁判の例が使われていたことなのです。
後者に関しては全通研の「法定における手話通訳」の模擬ビデオの中に出てきます。ここでは、この問題は割愛します。前者は『聴覚障害者と刑事手続―公正な手話通訳と刑事弁護のために』という本の中でMさん裁判として出ています。刑事訴訟法の手続きとして黙秘権の告知ということがあるのですが、被告には黙秘権というとことが伝わっていない、刑事訴訟法的に裁判が成立しないはずたという内容です。そもそも600円という窃盗で、そして(そもそも立証自体をなす以前だった、その立証の議論さえできない状態の)差別の中で、検察が起訴猶予にしないで、なぜ起訴したのかの問題があります。さらに、そして裁判所が最初から「通訳鑑定」をしていない問題があります。手話が通じない、黙秘件の告知がなしえない中で裁判が成立しないという判断で公訴棄却にすることだったはずです。また刑事訴訟法的に取り調べ段階の黙秘権の告知がなされていない、公訴棄却にしなかったのかの問題があるのです。
さらに、この裁判は、裁判所の面子みたいなこととしかとらえられないのですが、裁判の停止などという決定がくだされました。被告が手話などをまなびコミュニケーションがとれるようになり、黙秘権の告知などを理解できるようになったら、裁判を再開するという主旨です。20年近く裁判が続いていた中で、そういう可能性があるのかどうか、分かりそうなものですが、そもそも事件が起きた時点での被告の置かれていた状況を無視した、ごまかしの決定です。また、裁判の迅速な進行ということを無視して、被告のままにすえおくということが許されるのか、という問題もあります。まさに日本の裁判史上の「汚点」なのです。
「生涯被告」ということは厳密には、違います。ほとんどその状態に置かれたという意味です。この裁判は、被告が癌になり、死期が迫る中で、やっと公訴棄却の決定がなされたのです。その間の被告の裁判への重荷がいかようであったか、この本の中でも描かれいろいろ推測されています。
この本の中には刑事訴訟法、それも裁判打ち切りの第一人者として証人となった学者の意見として「法廷での十分な弁護を受けるコミュニケーションができない場合に、果たしてそのまま裁判を進めることが正義にかなうかということが言いたかった。被告人にはコミュニケーションを教えなかったのは社会の責任ですよね。これは、現時点で打ち切りの結論が出た場合には、社会は責任を負わざるを得ないということだと思います。」、169Pと社会の責任が出てきます。わたしはそもそも刑事裁判とは何かということを考え続けています。差別の中でその反作用として刑事事件が起きてくるとき、社会防衛論的に「社会」が被告を裁く、そのようなことが許されるとしたら、被告を事件に追いやった「社会」も裁かれることでないかと思うのです。これについては、裁判員制度が始まっている現在、その事への批判も込めて別文で展開します(「反障害通信」33号の巻頭言で書きました)。
さて、以下、微妙な問題で、わたしにも結論的な事が出ないので、書くことをためらっていたのですが、わたしも別な裁判で支援の取り組みをした経験から、支援のあり方の問題として、あえて議論の材料として出しておきます。
それは死の間近になって、被告が支援の中心にいた中川さんにあたっていたということです。これに対して、中川さんが「おっちゃん」の死後分析しています。その一つとして、被告とコミュニケーションがとれない中で、支援の中心にいた中川さんが被告の意思の確認がとれないままに、いろんな判断や取材に対処していたことへの反発があったのではないかということです。いわゆる代行主義ということへの、当事者のそんな概念のないままでの、感覚的反発の問題です。わたしは中川さんがそのようなとらえ返しをし、そしてそれを口にしている姿勢に、運動家としての基本姿勢として押さえ、感じ入っていました。
確かに、そのようなことはあったのかもしれません。しかし、わたしは甘えられる関係になっていた、裁判の過酷さで反作用としてあたるひとが必要だった、裁判が被告に与えていた過酷さのあらわれではないかと思いのです。こんなことを書くのは、わたしの体験につながることがあるからです。ことばの教室の先生が、「吃音児」の生徒が引っ込み思案でおどおどしていたのに、関係が作れてくるなかで、その先生をなぐってきたりしてきた、そのことをその先生が自分が出せるようになってきたと喜んでいたと、いう場面にでくわせたことがあったのです。「おっちゃん」の話に戻すと、そのあたりの微妙なことは分からないのですが、そういうことも考えられます。
さて、もうひとつ、わたしは裁判の最初の方針として、どちらにしても執行猶予の判決が出るのだから裁判で罪状を認めて、情状酌量で早急に終わらせるという選択肢はあったのではないかという問題を考えていました。そもそもこのあたり被告の意見を与することなのですが、そんな判断は無理ということで、中川さんと弁護士さんとの間の議論で、公訴棄却の判決を勝ち取るという方向で進んだのです。さらに、20年も被告のままにおかれるという事態を予想できもしなかったのでしょうが。
わたしはこの裁判の取り組みの中で、「おっちゃん」がひととひととの関係を少しかどうかも分からないのですが、とにかく持ち得たことの中に救いのようなことを感じています。たら・ればの話をしても仕方がないし、何がどうだったのかもわたしには分かりません。ただ、もしこの方向で進まなかったら、「おっちゃん」はひととの交流のないまま、刑務所とホームレスの生活を行き来する可能性が強かったのだろうとの推測をしています。「おっちゃん」はつらかっただろうけど、この裁判でのひととの出会いの中に少しは楽しさやうれしさのようなことがあったのでは、と思っています。というより、思いたいのです。
対話を求めて10
反差別を全ての運動の基底に据えるために
最近、いろんな運動を見ていると、自分たちの直接の活動の枠内での活動にとどまっていて、「個別」の運動が「個別」の枠内でとどまり、その広がりがとらえられないという現象にたびたび出くわせます。そして、その「個別」の運動もその問題がどのようなこととしてあるのかということがとらえられないまま、その解決の道筋をどう方向付けて運動していくのか、そもそも自分たちが何をしようとしているのかも、明らかにならないままに活動しているという情況が広がっています。
わたしは運動を「問題解決のための活動」と規定しています。解決するためには、その問題がいかなる問題なのかをとらえかえさねばなりません。そして、長期的方針を立て、その中で今、何をなすべきかという具体的課題と目標を設定し、その活動を点検していく作業が必要です。そのオーソドックスな活動ということが、成立しなくなっています。
そもそもその問題がどういう問題なのかということをとらえ返していく作業がない、議論も成立しない中で、いきなり問題を表層的にとらえて、どう解決するかというところで動いていく、またそもそも解決するということ自体を目的にしているのか疑問に思える活動さえ出てきています。要するに、何かやっていることに自己満足していく、自己表現的活動に収束してしまいます。誤解のないように書いておきますが、自己表現的活動そのものを否定しているわけではありません。芸術とか文化的活動としての自己表現活動は大いに賞賛されることですし、むしろ芸術のみならず、みんなが自己表現的活動に生き甲斐を見いだせるような情況を生み出していくことが必要ではないかと思います。
わたしが問題にしているのは、運動が自己表現的に活動にすり替わることです。もちろん運動が同時に自己表現活動でもあるということは否定することではないのですが、運動の論理が成立しなくなる、自己表現的活動を問題にしているのです。
このような事態になっているのは、なってきたのは、運動の展望がみいだせなくなって、「個別の問題」を「個別の問題」の枠内で解決しようとしつつ、そこでも展望が出なくなっている中で、とにかく何かやっていくというような活動になっていることがあるのだと思います。
そのようなことも含めて、問題をきちんととらえ返す作業が必要です。
そして、そのとらえ返しの作業に、差別ということをキーワードとして読み解いていくことが、問題を「個別」の枠内でとどめないで総体的にとらえ返すのに必要だとわたしは考えています。
そのことは、以下に論じていきます。なかなか他者にちゃんと届く文が書けないのですが、読者のみなさんの批判や意見を仰ぎながら書き進めたいと思っています。
さて、わたしは今日の課題を大きく三つの課題としてとらえています。貧富・階級・労働問題、一般的に言われる「差別の問題」、エコロジー問題です。
三つの課題と書きましたが、それらは切り離されたことではなく、むすびついていることです。それらのことを差別というところからとらえ返してみたいと思います。
労働を巡る差別の問題
まずは貧富の問題・階級の問題・労働問題ということにおける差別の問題です。
70年代の後半に労働運動で「弱者救済国民春闘」というスローガンが出てきました。
そのことは、曲がりなりにも戦闘性をもち、他の社会問題との連帯の志向のあった労働運動の転換点を示していたのです。わたしは、そのスローガンを見たときに主流の労働運動の戦闘性の解体をはっきりと意識しました。そもそも労働者も弱者だったはずです。「先進国」の本工労働者がそれなりの既得権を得る中で「労働貴族」として、差別する側として、立ち現れていったことなのだと思います。「弱者」といわれているひとたちのことを他人事の問題にして、救済の対象にしてしまったのです。
さて、次次項のエコロジー問題にもつながる話を書いておきます。かつては電力労組の中でも、中国電力の反原発闘争があったのです。今日、電力会社の労組は労使協調路線に取り込まれ、労組が原発の復活・維持に動いて、連合とつながっている政権与党民主党に働きかける事態に陥っています。原発の働く労働者の使い捨て、都市―中央の地方への危険の押しつけ、・・・原発関係の交付金が地方財政に麻薬漬けのような情況を生み出していくこと、ウラン鉱での被曝などなど、差別の中で成立している産業を維持しようとしている労組、個別利害を追い求める「社会性の喪失」が、ここまで来ているのかという思いを抱いています。
さて、差別の問題をいろいろ考えていくとき、その出発点にマルクスがあるとわたしは押さえています。しかし、そのマルクスがいろいろな今日「個別差別」としてとらえられることをとらえきれていなかったという問題もあります。そして、マルクスが軸として据えた、労働問題においても、今日的には「非正規雇用」ととらえられる労働者を「ルンペンプロレタリアート」と規定したという差別の問題があります。これは当時非正規雇用のひとたちの動きが革命をつぶしたというところでの、マルクスの怒りの矛先が向いたのですが、今日的にはむしろ、多くの正規雇用労働者は労使協調というところに取り込まれ、自分たちの利害の追求、既得権の獲得擁護というところに走ってしまう傾向が出ています。
そこで、むしろ、労働運動は非正規雇用や失業者という人たちの中に見い出せる情況も出ています。プロレタリアートという語が意味をもつのはむしろ非正規雇用労働者においてあるのではないかと。
そもそも労働運動の衰退は本工主義というところに陥った、労働運動が自分たちの権益を護るというところに陥り、労使協調路線に陥って至った、そこで、臨時工などを切り捨てる、他の差別の問題を切り捨てるに至ったという問題なのです。いったい労働者間の差別を切り捨てたら、労働運動はどうなるのか、その悲惨な情況が今日の労働運動として現れていることなのです。それは労働能力というところでの賃金格差というところでの分断に乗った、そこでの反差別ということでの労働者の連帯の道筋を消してしまったということが第一番の問題です。そもそもマルクスの曲解としての労働価値説という錯誤の問題もそれに拍車をかけたのです。そもそも労働問題自体が、ひとの生きる営為の中で労働と言うことを優先させること、しかも労働崇拝的なところで労働力の価値というところでひとを価値付けしていく、そのこと自体が差別の問題だという観点を欠落しているのです。そのことをとらえ返さない限り、労働運動の再生はありえません。
「障害者運動」がすでに70年代に「労働は悪だ」とか、「(介助を受けるとき「障害者」が)腰を上げるのも労働だ」とかいう提起をしていたことが届かなかった、未整理な提起にとどまっていたという問題からもとらえ返すことができます。
一般的に言われる「差別の問題」
さて、一般に差別というと、障害差別、性差別、人種・民族差別、身分差別・・・と「個別」差別としてとらえられます。あれかこれかという差別のとらえ方です。そして、「差別ということで一般化して語ってはいけない」というひとさえいました。そういうとらえ方をするとき、「差異があるから差別がおきる、その差異はマチマチだ」というとらえかたになっているのではないでしょうか?
このことから批判をしていく必要があります。それに関しては、わたしが認識論的なところからのとらえ返しの作業をしてきました。で、むずかしいと批判され続けていることで、とりあえずはさておきます。ここでは、「自然的差異」があるから差別は自然的に起きることではない、「差別の構造」の中で、「差異」ということが浮かびあがってくるという事態をとらえられること、という指摘をしておきます。そこから、個別的に起きてくるととらえられる差別、障害差別、性差別、人種・民族差別、「身分」差別、都市の地域・農村への差別、学歴差別、・・・・ということなどを「差別の構造」(関係性総体としての差別)というところから演繹していく筋道がとらえられるのです。
実は、このようなとらえ方は、すでに出ています。1970年代に出ていた全障連の「障害者とは障害者差別を受けるものである」という規定や、90年代に日本に届いてきたイギリス発の「障害の社会モデル」の「障害とは社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁(と抑圧)である」(括弧内はわたしの書き加え)のとらえかたとらえ方です。そのようなことはフェミニズムにおいてはポスト構造主義フェミニズムという流れの中で、性差とは何かという議論で、性差ということ自体から脱構築するという議論も出ていますし、部落差別においても、出身階級や職業などから作られるというより、そこに住んでいるからというところで差別される構図が示されています。差別される何か「実体」のようなことがあるのでなく、差別される事項が構築されているというような差別です。
そのような「差別の構造」(関係性総体としての差別)のようなことをとらえ返して、そこから、もう一度ひとつひとつの差別をとらえ返していく作業が必要なのです。
ところが、往々にして、差別ということを自分が抱える被差別、そして自分が直接対象にしている差別に限定してしまっていることが出てきます。
分かりやすい例をとりあげます。わたしは永田町の代議員制的な政治の批判をしていますが、もっとも一般的にとらえやすいので、例としてあげてみます。個別差別の問題でその代表的に国会議員になったひとは、自分の被差別、自分が関わってきた差別の問題をほりさげることによって、政治総体を論じることができるようになることなのですが、自分の課題の差別に限定されて、他の問題を差別ということからとらえ返す作業ができないままでいるという事態が往々にしてあります。というより、そこから抜け出したひとをわたしは知りません。そして、自分の課題の差別ということでは一応反差別というところで動いていたとしても、他の差別の問題では差別に加担するような動き方さえしていて、唖然とさせられること多々です。こういう場合、「自分の課題の差別ということでは一応反差別というところで動いていた」と書きましたが、ほんとうに反差別という立場に立ち得ているかというと、いろいろ疑問も出てくることです。これは、わたしが一番の課題にしてきた障害差別の問題でいえば、日本の「障害者運動」はいま「障害者権利条約」を国内法の整備とともに批准する、そして「障害者差別禁止法」を制定するということを軸にして動いています。ところが、その「権利条約」自体に、わたしは疑問を感じています。「権利条約」のキーワードは合理的配慮」ということです。
「合理的配慮」ということはいったいなんなのでしょうか、60年代後半の教育学園闘争で、当時の大学再編を「近代合理主義に基づく教育の帝国主義的再編」と押さえて批判していましたし、労働運動の戦闘性は反合理化闘争として突き出されていました。そのようなところからとらえると、「合理的」ということばがどのような意味をもつのかがとらえられるはずです。むしろ、前項にあげた労働運動の中で、「弱者救済」などというスローガンをあげられてきたのは自らが反合理化闘争をひっこめたところからきているからではないかと押さえられます。そもそも「障害者」の多くは、一部エリート「障害者」をのぞいて、「合理性」という名の下に、労働市場から排斥されてきたのではないのでしょうか?
そもそも障害差別はどこから来ているのかというとらえかえしがないのです。その差別の土台に労働力の価値を巡る差別があるとおさえられるのではないでしょうか?
この土台ということばマルクスの唯物史観の観点から出てくる言葉です。
ところで、マルクス葬送ということが出て、唯物史観批判も出てきています。
その唯物史観の押さえ方自体がどうもおかしいのです。
たとえば、フェミニズムの議論の中で、ケア労働で無償で働くことによって、価格破壊が起き、ケア労働の価値を低めるという話をするひとが出てきています。そのひとは上野千鶴子さんです。上野さんはマルクス主義フェミニズムを日本へ紹介したひとですが、そのマルクス主義フェミニズムの押さえ方がおかしいのです。シャドーワーク論や家事労働概念がマルクス主義フェミニズムにあるのですが、マルクスは資本主義社会では家事や生活が労働力の生産・再生産過程と物象化された形で現れるといっているのであって、そのことを批判しているのです。ところが上野さんにはその批判がないのです。このひとは、マルクスが教条化されたマルクスの思想を批判する意味もこめてか、「わたしはマルクス主義者ではない」と言っています。しかし、そもそもマルクスが何を言わんとしているのかを理解しているとは思えないのです(上野さんはポスト構造主義の紹介者でもあるのですが、そのキーワードの「脱構築」ということでいえば、「労働概念の脱構築」という思いには至らなかったのでしょうか)。マルクスの唯物史観のとらえ返しが必要なのです。そこでは、流れ的には他の哲学・思想から出てきたサルトルやデリダが「マルクスの思想は現代社会では乗り越え不可能な思想である」という命題は生きているはずです。
そして、労働ということに留意することによって、労働問題自体も差別の問題であるというとらえ返しの中で、そして他の差別から労働ということをとらえ返すことによって、差別ということをキーワードにして読み解くことによって、あらゆる問題がとらえ返せてくるのではないでしようか?
そして、運動の分断を超えて広がりと深化を勝ち取るためにも、運動を運動として動かしていくためにもそのことは必要なのです。
エコロジー
さて、「もうひとつ」の問題、エコロジー問題をとりあげます。
実は3月の原発震災の以前において、わたしにとって、エコロジーはひとは生きる環境を破壊していきられないということは自明の論理だから、この資本主義社会においても解決の動きは出て来ると押さえていましたし、温暖化対策など少しは問題にされてきました。ただ、その自明な論理が、「資本の論理」の飽くなき利潤の追求の前にどこまで働くか、という思いがありました。原発などに見られるその危険性の自明な論理さえつぶしてきたことや、人々が自明なことと気付く前に、取り返しのつかない事態に成ることを畏れていました。いつも後追い的な対処で、もうすでに遅すぎたという事態がくるのではという恐れを抱いていました。わたしはむしろ資本主義社会をほうむりさることによって、環境問題を解決していく道筋のようなことを考えていました。
しかし、やはりそもそもこのエコロジーの自明の論理さえ通じないということの問題に底に何があるのかを、今回考え始めていました。
で、エコロジー関係の本を読んでいる中で高木さんのエコロジーに反差別の思想を織り込んだ論攷に出会いました。原発問題、エコロジー問題にリンクする差別の問題としてとらえてきてしまっていたのですが、そもそもエコロジーにおける差別そのものの問題がとらえていなかったことが、エコロジー関係の学習の中で出てきました。そのことは「反障害通信28号」の「反差別コミュニズム論序説の序―反差別と階級闘争とエコロジー―」」の中で少し展開しました。
エコロジーそのものにおける差別の問題をとらえ返す事は、ひとのひとに対する共時的差別だけに収束する事に陥る「一般に言う差別問題」に新たな観点を導き出せるのです。エネルギー資源を含む資源の未来世代からの収奪、そして占有という差別、また生きる環境の収奪という差別の観点がエコロジーそのものの差別ということで鮮明になっていくのです。
そればかりではありません。環境破壊を生み出す科学というところの、科学主義、専門性などによる知の抑圧の問題もあります。
さてエコロジーの運動というと、とりわけ、エコロジーというところだけの一致ということでの広がりの強みがあると同時に、それが時として運動的に屈折したり、他の差別の問題で差別的になっていくことから、逆に広がりを持ち得ないし、仲間作りもすすんでいかないという弊害もありました。エコロジー問題は、高木さんがやろうとしていたように、反差別というとこから総体的にとらえていく観点が必要なのです。
そのようなところでエコロジーということの重要性とその取り組みの必要性を提起することで、わたしも遅ればせながら、その輪の中に入っていきたいと思っています。
反差別ということでのトライアングルの活動を
もう一言書き加えます。かねてから、赤と緑の連合とかいう提言がありました。今回のわたしの文の中では、最初の項と最後の項との連合ということなのですが、果たしてそれは別々の問題として連合することなのでしょうか?
わたしは、それを反差別というところから、「個別被差別項」としてあらわれてくることの根底に何があるのかということも含めた、「差別の構造」(関係性総体としての差別)というところのとらえ返しの中で、つながっているトライアングルの問題としてとらえ返しができるのではと思います。
反差別というところからすべての問題をとらえ返していく作業が必要なのです。そこから分断を越える運動の結びつきの深化と広がりを獲得できるし、あきらめから起きてくる屈折した運動から希望の運動への道筋もでてくるのではと思います。
ここに反差別という観点からのとらえ返しの提起をした次第です。
まだ、まとめ切れていません。読者の皆さんとの対話の中で、批判と提起を受ける中で、この議論を拡げ深化させていきたいと願っています。
最近、いろんな運動を見ていると、自分たちの直接の活動の枠内での活動にとどまっていて、「個別」の運動が「個別」の枠内でとどまり、その広がりがとらえられないという現象にたびたび出くわせます。そして、その「個別」の運動もその問題がどのようなこととしてあるのかということがとらえられないまま、その解決の道筋をどう方向付けて運動していくのか、そもそも自分たちが何をしようとしているのかも、明らかにならないままに活動しているという情況が広がっています。
わたしは運動を「問題解決のための活動」と規定しています。解決するためには、その問題がいかなる問題なのかをとらえかえさねばなりません。そして、長期的方針を立て、その中で今、何をなすべきかという具体的課題と目標を設定し、その活動を点検していく作業が必要です。そのオーソドックスな活動ということが、成立しなくなっています。
そもそもその問題がどういう問題なのかということをとらえ返していく作業がない、議論も成立しない中で、いきなり問題を表層的にとらえて、どう解決するかというところで動いていく、またそもそも解決するということ自体を目的にしているのか疑問に思える活動さえ出てきています。要するに、何かやっていることに自己満足していく、自己表現的活動に収束してしまいます。誤解のないように書いておきますが、自己表現的活動そのものを否定しているわけではありません。芸術とか文化的活動としての自己表現活動は大いに賞賛されることですし、むしろ芸術のみならず、みんなが自己表現的活動に生き甲斐を見いだせるような情況を生み出していくことが必要ではないかと思います。
わたしが問題にしているのは、運動が自己表現的に活動にすり替わることです。もちろん運動が同時に自己表現活動でもあるということは否定することではないのですが、運動の論理が成立しなくなる、自己表現的活動を問題にしているのです。
このような事態になっているのは、なってきたのは、運動の展望がみいだせなくなって、「個別の問題」を「個別の問題」の枠内で解決しようとしつつ、そこでも展望が出なくなっている中で、とにかく何かやっていくというような活動になっていることがあるのだと思います。
そのようなことも含めて、問題をきちんととらえ返す作業が必要です。
そして、そのとらえ返しの作業に、差別ということをキーワードとして読み解いていくことが、問題を「個別」の枠内でとどめないで総体的にとらえ返すのに必要だとわたしは考えています。
そのことは、以下に論じていきます。なかなか他者にちゃんと届く文が書けないのですが、読者のみなさんの批判や意見を仰ぎながら書き進めたいと思っています。
さて、わたしは今日の課題を大きく三つの課題としてとらえています。貧富・階級・労働問題、一般的に言われる「差別の問題」、エコロジー問題です。
三つの課題と書きましたが、それらは切り離されたことではなく、むすびついていることです。それらのことを差別というところからとらえ返してみたいと思います。
労働を巡る差別の問題
まずは貧富の問題・階級の問題・労働問題ということにおける差別の問題です。
70年代の後半に労働運動で「弱者救済国民春闘」というスローガンが出てきました。
そのことは、曲がりなりにも戦闘性をもち、他の社会問題との連帯の志向のあった労働運動の転換点を示していたのです。わたしは、そのスローガンを見たときに主流の労働運動の戦闘性の解体をはっきりと意識しました。そもそも労働者も弱者だったはずです。「先進国」の本工労働者がそれなりの既得権を得る中で「労働貴族」として、差別する側として、立ち現れていったことなのだと思います。「弱者」といわれているひとたちのことを他人事の問題にして、救済の対象にしてしまったのです。
さて、次次項のエコロジー問題にもつながる話を書いておきます。かつては電力労組の中でも、中国電力の反原発闘争があったのです。今日、電力会社の労組は労使協調路線に取り込まれ、労組が原発の復活・維持に動いて、連合とつながっている政権与党民主党に働きかける事態に陥っています。原発の働く労働者の使い捨て、都市―中央の地方への危険の押しつけ、・・・原発関係の交付金が地方財政に麻薬漬けのような情況を生み出していくこと、ウラン鉱での被曝などなど、差別の中で成立している産業を維持しようとしている労組、個別利害を追い求める「社会性の喪失」が、ここまで来ているのかという思いを抱いています。
さて、差別の問題をいろいろ考えていくとき、その出発点にマルクスがあるとわたしは押さえています。しかし、そのマルクスがいろいろな今日「個別差別」としてとらえられることをとらえきれていなかったという問題もあります。そして、マルクスが軸として据えた、労働問題においても、今日的には「非正規雇用」ととらえられる労働者を「ルンペンプロレタリアート」と規定したという差別の問題があります。これは当時非正規雇用のひとたちの動きが革命をつぶしたというところでの、マルクスの怒りの矛先が向いたのですが、今日的にはむしろ、多くの正規雇用労働者は労使協調というところに取り込まれ、自分たちの利害の追求、既得権の獲得擁護というところに走ってしまう傾向が出ています。
そこで、むしろ、労働運動は非正規雇用や失業者という人たちの中に見い出せる情況も出ています。プロレタリアートという語が意味をもつのはむしろ非正規雇用労働者においてあるのではないかと。
そもそも労働運動の衰退は本工主義というところに陥った、労働運動が自分たちの権益を護るというところに陥り、労使協調路線に陥って至った、そこで、臨時工などを切り捨てる、他の差別の問題を切り捨てるに至ったという問題なのです。いったい労働者間の差別を切り捨てたら、労働運動はどうなるのか、その悲惨な情況が今日の労働運動として現れていることなのです。それは労働能力というところでの賃金格差というところでの分断に乗った、そこでの反差別ということでの労働者の連帯の道筋を消してしまったということが第一番の問題です。そもそもマルクスの曲解としての労働価値説という錯誤の問題もそれに拍車をかけたのです。そもそも労働問題自体が、ひとの生きる営為の中で労働と言うことを優先させること、しかも労働崇拝的なところで労働力の価値というところでひとを価値付けしていく、そのこと自体が差別の問題だという観点を欠落しているのです。そのことをとらえ返さない限り、労働運動の再生はありえません。
「障害者運動」がすでに70年代に「労働は悪だ」とか、「(介助を受けるとき「障害者」が)腰を上げるのも労働だ」とかいう提起をしていたことが届かなかった、未整理な提起にとどまっていたという問題からもとらえ返すことができます。
一般的に言われる「差別の問題」
さて、一般に差別というと、障害差別、性差別、人種・民族差別、身分差別・・・と「個別」差別としてとらえられます。あれかこれかという差別のとらえ方です。そして、「差別ということで一般化して語ってはいけない」というひとさえいました。そういうとらえ方をするとき、「差異があるから差別がおきる、その差異はマチマチだ」というとらえかたになっているのではないでしょうか?
このことから批判をしていく必要があります。それに関しては、わたしが認識論的なところからのとらえ返しの作業をしてきました。で、むずかしいと批判され続けていることで、とりあえずはさておきます。ここでは、「自然的差異」があるから差別は自然的に起きることではない、「差別の構造」の中で、「差異」ということが浮かびあがってくるという事態をとらえられること、という指摘をしておきます。そこから、個別的に起きてくるととらえられる差別、障害差別、性差別、人種・民族差別、「身分」差別、都市の地域・農村への差別、学歴差別、・・・・ということなどを「差別の構造」(関係性総体としての差別)というところから演繹していく筋道がとらえられるのです。
実は、このようなとらえ方は、すでに出ています。1970年代に出ていた全障連の「障害者とは障害者差別を受けるものである」という規定や、90年代に日本に届いてきたイギリス発の「障害の社会モデル」の「障害とは社会が「障害者」と規定するひとたちに作った障壁(と抑圧)である」(括弧内はわたしの書き加え)のとらえかたとらえ方です。そのようなことはフェミニズムにおいてはポスト構造主義フェミニズムという流れの中で、性差とは何かという議論で、性差ということ自体から脱構築するという議論も出ていますし、部落差別においても、出身階級や職業などから作られるというより、そこに住んでいるからというところで差別される構図が示されています。差別される何か「実体」のようなことがあるのでなく、差別される事項が構築されているというような差別です。
そのような「差別の構造」(関係性総体としての差別)のようなことをとらえ返して、そこから、もう一度ひとつひとつの差別をとらえ返していく作業が必要なのです。
ところが、往々にして、差別ということを自分が抱える被差別、そして自分が直接対象にしている差別に限定してしまっていることが出てきます。
分かりやすい例をとりあげます。わたしは永田町の代議員制的な政治の批判をしていますが、もっとも一般的にとらえやすいので、例としてあげてみます。個別差別の問題でその代表的に国会議員になったひとは、自分の被差別、自分が関わってきた差別の問題をほりさげることによって、政治総体を論じることができるようになることなのですが、自分の課題の差別に限定されて、他の問題を差別ということからとらえ返す作業ができないままでいるという事態が往々にしてあります。というより、そこから抜け出したひとをわたしは知りません。そして、自分の課題の差別ということでは一応反差別というところで動いていたとしても、他の差別の問題では差別に加担するような動き方さえしていて、唖然とさせられること多々です。こういう場合、「自分の課題の差別ということでは一応反差別というところで動いていた」と書きましたが、ほんとうに反差別という立場に立ち得ているかというと、いろいろ疑問も出てくることです。これは、わたしが一番の課題にしてきた障害差別の問題でいえば、日本の「障害者運動」はいま「障害者権利条約」を国内法の整備とともに批准する、そして「障害者差別禁止法」を制定するということを軸にして動いています。ところが、その「権利条約」自体に、わたしは疑問を感じています。「権利条約」のキーワードは合理的配慮」ということです。
「合理的配慮」ということはいったいなんなのでしょうか、60年代後半の教育学園闘争で、当時の大学再編を「近代合理主義に基づく教育の帝国主義的再編」と押さえて批判していましたし、労働運動の戦闘性は反合理化闘争として突き出されていました。そのようなところからとらえると、「合理的」ということばがどのような意味をもつのかがとらえられるはずです。むしろ、前項にあげた労働運動の中で、「弱者救済」などというスローガンをあげられてきたのは自らが反合理化闘争をひっこめたところからきているからではないかと押さえられます。そもそも「障害者」の多くは、一部エリート「障害者」をのぞいて、「合理性」という名の下に、労働市場から排斥されてきたのではないのでしょうか?
そもそも障害差別はどこから来ているのかというとらえかえしがないのです。その差別の土台に労働力の価値を巡る差別があるとおさえられるのではないでしょうか?
この土台ということばマルクスの唯物史観の観点から出てくる言葉です。
ところで、マルクス葬送ということが出て、唯物史観批判も出てきています。
その唯物史観の押さえ方自体がどうもおかしいのです。
たとえば、フェミニズムの議論の中で、ケア労働で無償で働くことによって、価格破壊が起き、ケア労働の価値を低めるという話をするひとが出てきています。そのひとは上野千鶴子さんです。上野さんはマルクス主義フェミニズムを日本へ紹介したひとですが、そのマルクス主義フェミニズムの押さえ方がおかしいのです。シャドーワーク論や家事労働概念がマルクス主義フェミニズムにあるのですが、マルクスは資本主義社会では家事や生活が労働力の生産・再生産過程と物象化された形で現れるといっているのであって、そのことを批判しているのです。ところが上野さんにはその批判がないのです。このひとは、マルクスが教条化されたマルクスの思想を批判する意味もこめてか、「わたしはマルクス主義者ではない」と言っています。しかし、そもそもマルクスが何を言わんとしているのかを理解しているとは思えないのです(上野さんはポスト構造主義の紹介者でもあるのですが、そのキーワードの「脱構築」ということでいえば、「労働概念の脱構築」という思いには至らなかったのでしょうか)。マルクスの唯物史観のとらえ返しが必要なのです。そこでは、流れ的には他の哲学・思想から出てきたサルトルやデリダが「マルクスの思想は現代社会では乗り越え不可能な思想である」という命題は生きているはずです。
そして、労働ということに留意することによって、労働問題自体も差別の問題であるというとらえ返しの中で、そして他の差別から労働ということをとらえ返すことによって、差別ということをキーワードにして読み解くことによって、あらゆる問題がとらえ返せてくるのではないでしようか?
そして、運動の分断を超えて広がりと深化を勝ち取るためにも、運動を運動として動かしていくためにもそのことは必要なのです。
エコロジー
さて、「もうひとつ」の問題、エコロジー問題をとりあげます。
実は3月の原発震災の以前において、わたしにとって、エコロジーはひとは生きる環境を破壊していきられないということは自明の論理だから、この資本主義社会においても解決の動きは出て来ると押さえていましたし、温暖化対策など少しは問題にされてきました。ただ、その自明な論理が、「資本の論理」の飽くなき利潤の追求の前にどこまで働くか、という思いがありました。原発などに見られるその危険性の自明な論理さえつぶしてきたことや、人々が自明なことと気付く前に、取り返しのつかない事態に成ることを畏れていました。いつも後追い的な対処で、もうすでに遅すぎたという事態がくるのではという恐れを抱いていました。わたしはむしろ資本主義社会をほうむりさることによって、環境問題を解決していく道筋のようなことを考えていました。
しかし、やはりそもそもこのエコロジーの自明の論理さえ通じないということの問題に底に何があるのかを、今回考え始めていました。
で、エコロジー関係の本を読んでいる中で高木さんのエコロジーに反差別の思想を織り込んだ論攷に出会いました。原発問題、エコロジー問題にリンクする差別の問題としてとらえてきてしまっていたのですが、そもそもエコロジーにおける差別そのものの問題がとらえていなかったことが、エコロジー関係の学習の中で出てきました。そのことは「反障害通信28号」の「反差別コミュニズム論序説の序―反差別と階級闘争とエコロジー―」」の中で少し展開しました。
エコロジーそのものにおける差別の問題をとらえ返す事は、ひとのひとに対する共時的差別だけに収束する事に陥る「一般に言う差別問題」に新たな観点を導き出せるのです。エネルギー資源を含む資源の未来世代からの収奪、そして占有という差別、また生きる環境の収奪という差別の観点がエコロジーそのものの差別ということで鮮明になっていくのです。
そればかりではありません。環境破壊を生み出す科学というところの、科学主義、専門性などによる知の抑圧の問題もあります。
さてエコロジーの運動というと、とりわけ、エコロジーというところだけの一致ということでの広がりの強みがあると同時に、それが時として運動的に屈折したり、他の差別の問題で差別的になっていくことから、逆に広がりを持ち得ないし、仲間作りもすすんでいかないという弊害もありました。エコロジー問題は、高木さんがやろうとしていたように、反差別というとこから総体的にとらえていく観点が必要なのです。
そのようなところでエコロジーということの重要性とその取り組みの必要性を提起することで、わたしも遅ればせながら、その輪の中に入っていきたいと思っています。
反差別ということでのトライアングルの活動を
もう一言書き加えます。かねてから、赤と緑の連合とかいう提言がありました。今回のわたしの文の中では、最初の項と最後の項との連合ということなのですが、果たしてそれは別々の問題として連合することなのでしょうか?
わたしは、それを反差別というところから、「個別被差別項」としてあらわれてくることの根底に何があるのかということも含めた、「差別の構造」(関係性総体としての差別)というところのとらえ返しの中で、つながっているトライアングルの問題としてとらえ返しができるのではと思います。
反差別というところからすべての問題をとらえ返していく作業が必要なのです。そこから分断を越える運動の結びつきの深化と広がりを獲得できるし、あきらめから起きてくる屈折した運動から希望の運動への道筋もでてくるのではと思います。
ここに反差別という観点からのとらえ返しの提起をした次第です。
まだ、まとめ切れていません。読者の皆さんとの対話の中で、批判と提起を受ける中で、この議論を拡げ深化させていきたいと願っています。
2012年01月30日
エコロジー35
たわしの読書メモ・・ブログ190
・高木仁三郎『高木仁三郎著作集第7巻 市民科学者として生きる機拏靴朕構餞2002
高木さんの本で絶版になっている本が多く、古本で探しても、フクシマ原発震災以降あっという間に、売れてしまいました。いくつか買い求め、復刊されたものもあったのですが、初期の頃の本で手に入らない本がありました。ちょうど、その探していた本が、著作集の7巻に集中していたので、買い求めました。相当の厚手の本、所収されている論攷に少しずつメモを残していきます。
実験化学者として出発した著者の立場から実践ということの大切さを学び、そして何よりも、わたしのなかにあったマルクスの発達史・進歩史観批判の核心のようなことがエコロジーとむすびついていることが明らかになりました。わたしの中で一つの転換点になるような本です。
「科学は変わる」
これは初期の頃の作品で、この作品の中に後に詳しく展開されるいろんなことが萌芽的に織り込まれています。巨大科学・テクノロジー批判、地産地消、市民の科学という内容の展開です。
AT(いくつかの語の略語になっているのですが、主にオルタナティブ・テクノロジーの略語)というポジティヴな突き出しもあります。
いつものように印象に残ったところを記しておきます。
担子菌の「改良」をしようとして松を枯らすことになったという事例39P
「「原子炉の大事故はめったに起こらない」というのは、結論でなく、いわば出発点だった」64P・・・そういうことにして出発したという意味。
「自然現象に制約されることのないエネルギー」の虚構73P
原爆製造に携わった科学者の叫びの引用80P
「科学者なんか一列に並べて銃殺してしまえという連中を、非難するわけにはいかない気がする。・・」
巨大科学においては実証の方法を科学は駆使できなくなる96P
エネルギーに関するパラダイムの変換に関する5冊の本の紹介101P
知的努力の好ましい方向付け119P
不平等を減らすこと 抑圧を減らすこと 自然と人間の関係の総合化 実践を媒介とした知の相対化
ムラサキツユクサのおしべが放射能汚染で、おしべの毛の色が青からピンクに変わるという生活的実践的観測の話130P
知の在り方、方向付け
「知は実践と分ち難く結びついています。実践に照らして知の確からしさを検証し、絶対的なものとして知がひとり歩きすることを防いでいく、そのような知のあり方が可能になっていくためには、人々が共通の実践に立ちうること、言いかえれば、差別や抑圧のない人と人の関係が絶対的な条件となります。人と人の関係において、支配―被支配という関係が徐々にせよ克服され、商品を通じての人と人の結びつきという関係が、より人間的な交流へと深化していくとき、そのときにのみ、私たちの自然に対する共通認識も深まりうると考えられます。そのような知のあり方を好ましいと考え、その方向に「科学」も方向づけていくべきだというのが私の考える方向づけです。」131-132P・・・高木さんの反差別的科学論の神髄・・「フェイルバッハに関するテーゼ」(「これまでの唯物論・・・」「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない・・・」)との結びつき
運動のありかた
「(ベトナム反戦の“正義の闘い”が)正義を実現するために、最大限に有効な運動の組織化が求められました。その結果、運動が機能的になり、力が強い、文章が達者だ、演説がうまい……等々、何らかの有能性にフルに頼った役割分担ができ上がり、そのような有能さを発揮できない人は追従していくだけという運動構造ができ上がりました。本来、反戦平和の運動が目指しているはずの差別や抑圧のない理念とは、まったく相反した運動の構造ができ上ったわけですが、・・・そのような歪みが、運動に参加した多くの人々を落胆させました。・・・ベトナム停戦より前に、運動は急速にしぼんでいったと・・」138P高木さんが引用した文です。・・・運動自体がどのような関係を求めているのかという目的を体現しつつ、その運動の現在性の中に関係性のあり方を示している・・イズム論
「従来の運動がある一つの情勢認識やそれに伴う闘争課題をあらかじめ打ち出し、それに従って最も有効なように運動を設定していくものであったのと対照的に、この運動は、人々の生活の抱える問題から出発して、運動を進める中で共通認識を深め、それに従って共同の行動をしていこうとしていることです。つまり、路線の絶対的正しさや“正義”の度合いが、運動の強さ、力になっているのではなく、人々の共通認識の深さが共同の行動への原動力となっていくということです。」139P・・・反差別というところでの共通認識の形成というところからのエコロジー論、そしてすべての運動論
市民の科学のはじまり
「(専門性をもった権威者に頼ろうとする傾向があったし、あるけれど、・・引用者)権威者は、専門性という利害関係をひきずっており、その発想は、市民・住民の発想とは大幅に異なります。科学や技術のそもそものあり方をめぐって、問われるはずの問題が、専門家同士の代理戦争となり、いつしかすでに述べたような問題設定→パズル解きの文脈の中に解消されてしまいます。/そのような経験を経ながら、最近では、市民・住民運動は、認識の主体を自分たちととらえて、そこに既存の専門性を取り込んでいく、という方向に踏み出しているように思えます。」141P
AT
ATの二つの意味・・適正技術(アプロブリエイト・テクノロジー)、もうひとつの技術(オルタナティブ・テクノロジー)
先進国における物質文明の批判といわゆる第三世界の自立的経済発展をめざすというふたつの流れ146P・・・オルター・グロバリーゼーションの内容をもつオルタナティブ・テクノロジー(AT)
AT論の詳しい展開があります。これが後の高木さんの科学のあり方論の原型を示しています。詳しく書きたいのですが、長くなるので割愛、後で高木さんの科学論とリンクさせて改めて対話したいのですが、とりあえず割愛します。
科学や技術だけの問題ではない、むしろ生き方、関係のあり方総体の問題
「「科学」や「知」や「技術」への志向が、ひとり科学や技術によって問題を解決できるという発想に転化しない限りにおいて、私はかかわっていきたいと思います。」161-162P・・・高木さんの市民の科学者として出発点的決意表明的文
パラダイム論は廣松さんのパラダイムチェンジ論との対話の中で、もっと深化できるのではないかと思っています。
「いま、普段着の科学者として考えること」
高木さんの母校―東大での学生向けの2回にわたる講演の記録。
一回目は高木さんの科学者としての個人史的遍歴は別な本でも出て来るのですが、ここでより詳しい展開です。
二回目は、それに続いて、科学者としてのあり方、科学のあり方について話しています。「政治の論理だけでない、科学自身の中にやっぱり問題とすべき種がしかけられているのではないか」202Pという小見出しにもなっている問いかけがあります。政治主導の巨大科学・テクノロジー批判です。人間の側に科学技術を引き寄せる215Pという提起につながっていて、著者が作った人間―科学・技術―政治・経済のトライアングルの図199Pがあり、人間に普段着、科学技術・テクノロジーに実験着・作業着、政治・経済に背広という対比させた展開があり222P、この論攷の表題の「普段着」につながっているのです。
「危機の科学」
元々、「科学の危機」というところで書こうとしていたのが、チェルノブイリの事故を受けで、危機感の中で、「危機の科学」となったという論攷です。これは巻末の西尾さんの「解題」の中に書かれています。
これは高木さんの巨大科学・テクノロジー批判の端緒とでもいうべき記念碑的論攷です。
「1章70年代の宇宙科学」「2章 70年代の原子力」で巨大科学・巨大技術をとりあげています。「3章 見えはじめた分岐」で巨大技術に対する適正技術としてATが分岐してきていること。「4章 危機の科学」はタイトルの本題。「5章 批判から変革へ」で、巨大科学への批判と未来のあり方を展開しています。
書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
原子力をはじめとする巨大科学は聖書のなかにあるバベルの塔的なこととしてあると冒頭に出てきます。229P
そして、三者(人間―科学・技術―政治・経済)の対話不能さの現実を書いています。236P
「国家科学」として巨大科学が現れているという指摘。238P
最初に数字があった・・・何パーセントを原子力でまかなうかという設定261P・・・巨大科学が立ち現れてくるときの流儀
コンピューターでの机上の想定していく実証性のない巨大科学266P
環境工学、生態学の危うさ287P・・・環境工学と名付けて細分化された専門家を寄せ集め、それらを総合化してとらえる観点がない。問題を一気にグローバルなものに還元することによって、個々の汚染に関係した企業の責任や科学技術のあり方を問わない一部の生態学者。
ソフト(・エネルギー)・パス288P・・・「異質な最終用途(エネルギーを用いてわれわれがおこなおうとする多くの異なる仕事)を、各々の仕事にもっとも効率的なやり方で供給された最小のエネルギーで満たすか」という発想から出発し、「より効率的なエネルギーの使い方と適当な再生可能エネルギーに頼るやり方」
国家プロジェクトとしての推進319P
教育―技術立国・愛国心ということでの突きだし
軍事技術と結びつく傾向
支配原理の異なる2つの世界(科学・化学の世界と自然的・生物的世界)の境界に様々な矛盾を経験344P
遺伝子工学 核 スペースシャトル
人間の側の論理や感性の優位を回復しなければならない344P
科学の中立論と科学者の社会的責任論の崩壊345P・・・国家が科学者軽視していた時代には有効だったが、国家が科学を国家プロジェクトとして推進していく時代には機能しない、むしろ巨大科学批判として展開する必要
巨大科学と国家プロジェクトへの人間の立場からの批判346P
トリレンマ・・・三極(人間―科学・技術―政治・経済)への分離347P
矛盾を積極的に背負い込む中での市民の科学・・・根拠地作り348P
ソフトな社会とハードな社会349P・・自然破壊的でテクノラート管理社会−ハードな社会とそれに対するアンチテーゼとして出てきたソフトな社会。
「統一性をもった体系」354P・・・「自然と人間の関係に関わるもの」と「人間と人間の関係、科学技術の社会的あり方に関わるもの」という二つのカテゴリーが両立し得るような「統一性をもった体系」
「私は“ソフトな社会”の青写真を描くことに性急であるよりも、現在社会の批判的とらえなおしこそが“ソフトな社会”の展望を豊かににすると思う。」355P・・・共生とド・イデ(理念や理想を求めるのではない、現実の矛盾に対する闘争)
本書の問題意識
「問題をなるべく生の形で、いわば進行する流れのなかでとらえ、評価し、状況に切り込んでいく」357P
「「暗い予感」が現実にひとつひとつ現実化し、「危機の科学」が一層浸透していくと感じさせるような出来事が、これからも次々と起こっていくことだろう。」358P・・・予感は原発震災として現実化した。
「わが内なるエコロジー」
これはエッセイ風の文で高木さんのエコロジーへの思いと実践を書いています。
「科学は変わる」と「いま、自然をどうとらえるか」と自然観でつながっているのではないかと感じています。高木さんのそこでの代表作のひとつとして記せるのではないかと思っています。まだ高木さんの論攷の全体像もとらえかえせていないのですが、そのとらえ返しの作業の途中で、自然観三部作と密かに押さえています。
三部構成になっています。「第一部 二つの自然像」は著者の中にもあり、引き裂かれている二つの自然像、「第二部 科学知の変革」は科学者でもあった宮沢賢治との著者の対話と哲学者の花崎さんとの対談です。「第三部 生活の変革−「実験としての生活」」は、実験科学者から出発し「市民の科学者」を標榜するようになる著者が「生活の実験」というところでのエコロジー的実践を記しています。
この論攷を読んでいると、このひとは共同体論的なことも含めてエコロジー的なことを実践にも踏み込もうとしたのだということを押さえられます。わたしはエコロジーはまさに机上の論としての域を出ないのですが、高木さんはまさに実践的にも踏み込もうとしていて、そして単にエコロジーということだけでなく、ということよりも、エコロジーということの中に含まれる、ひととひとの関係のあり方と、いうことも含めたエコロジー的な実践の試行もあったのだということが、このエッセー的な文の中で示されています。
ここでも、書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
二つの自然その中での揺れ動きに身を任せる402P
著者にとって自然は科学の対象としての自然と身近な自分の生活の中でいきる糧・条件としての自然に引き裂かれるということがあったのです。市民の科学者として、そのことの「統一」への道を歩もうとしたのでは。
「自分たちのもの」ではなく403P
「(海は)子や孫や、魚を食べるすべての人たちのもの」402P
「直接のやりとりとしての自然と社会を媒介にした自然」404P
観念的な共生を、宮澤賢治と旅から実感としてつかむ405P
旅・・・ 生き方そのものが思想という人たちとの出会い406P
自然への回帰ではない、一歩進めるもの406P
民衆の歴史 生活者の地平
実人生がその一環であるようなあり方においてしか、賢治にとっての科学は存在しえなかった。430P
レゾナンスとコンゾナンス443-444P
共鳴・・レゾナンス、協和・・・コンゾナンス、著者は全く同一性のものとしての共鳴ではなく、多様性の中での協和ということでの運動論を考えているのです。
「雪中炭」と「錦上花」458P
「毛沢東が『文芸講話』の中で、文芸における普及と向上を論じて、「雪中炭を送る」こと、つまり大衆のもっとも切実な要求に奉仕する態度と、「錦上花を添える」こと、つまり芸術としての向上を第一に考える態度を対比してみせています。それをわたしは「雪中炭」型と「錦上花」型とに類型化してみたんです。」・・科学も専門化としての道をひた走る「錦上花」型に対して、著者は「雪中炭」型の立場から批判しています。
「やはり問題の核心は技術の問題としてあるのではなく、人間相互の関係のあり方と、人間の自然に対する向き方の問題としてあるのだということが、私(たち)の問題意識である。共同の作業にあたる人々の関係の質、共同性の深さに応じてこそ、ひとつの技術は、真に民衆のものとして機能しうると、多少の経験も踏まえて考えるからである。」503P
「反原発・エコロジーについて」
講演録で、エコロジー論をきちんと展開しています。
「機.┘灰蹈検爾浪燭世蹐Δ」と「供.┘灰蹈検嫉彖曚寮立」でエコロジー論、「掘.┘灰蹈献坤爐糧稟重検討―マルクス主義と対比させて」、「検.┘灰蹈検識親阿里海譴ら―その批判的検討」と続きます。
わたしの問題意識で注目したのは、靴妊泪襯ス主義とエコロジーの関係にかなり突っ込んでコメントしていることです。
ただ、わたしは高木さんのマルクス主義のとらえかたが、どうも官許マルクス主義と批判されていることから抜け出せていないのではないかと思っています。
さて、わたしはそもそもマルクス主義とは何かということを考えています。よく、マルクスの影響を受けているひとで、「わたしはマルクス主義者ではない」という主張をしているひとに出会います。これにはわたしは二つのパターンがあると思っています。ひとつは、マルクスの理論を一部とりあげて自分の理論の中にとりいれているけれど、マルクスの理論には基本的に賛同し得ないという主張です。賛同し得ないというところの、よくある例としては、共産主義革命論です。これもいろんな細分化できるパターンがあって、革命の可能性はないと断言するひとから、それは困難だから、わたしはとりあえず、現在社会の枠組みからことを論じていくのだ、というパターン。また、過去のマルクス主義者の引き起こした運動への反発、またマルクスなどの共鳴を口にすると、学者として飯が食えなくなる、などなど、・・。
もうひとつは、そもそもマルクス主義ということが教条化され、マルクスへの個人崇拝のようなことが起きていることへの批判です。わたしもこの立場なのですが、そもそも、ひとの名を冠した○○主義などということが個人崇拝生む、反差別というような立場に立つものは個人崇拝のようなことは受け入れられないので、個人の名を冠した、「マルクス主義」などという表現は受け入れられないという立場があります。そもそもマルクスが「わたしはマルクス主義者ではない」といったことにもそれはつながっています。
そしてマルクス主義ということでは、マルクス−レーニン主義という三重に教条化された(すなわちマルクス主義という教条化、レーニン主義という教条化、さらにマルクスとレーニンを一体化させる教条化)が主流のマルクス主義として君臨してきた歴史があります。
さて、そもそもマルクス主義を口にするひとは大方、マルクスの思想を曲解した上で、それを教条主義的にとらえている、いわゆる官許マルクス主義なり(これはコミンテルンを支配したロシアマルクス主義の官許マルクス主義という意味です)、主流のマルクス主義ということがマルクスの思想をきちんと発展的に継承し得なかったという問題があります。
たとえば、マルクスの労働価値説や、マルクス主義フェミニズムの家事は労働力生産再生産労働だという規定があります。これはあまくまで、資本主義社会においては、労働が価値を生み出すかのような、家事が労働力の生産再生産活動のような物象化をもたらすということなのだと、これがマルクスがいわんとしたことだと、わたしは押さえています。そもそも「『資本論』は物象化ということで貫かれている」という廣松派の指摘があるのですが、それを物象化としてとらえないで、マルクスを資本主義の単なる分析家、国民経済学の完成者としておさえるような錯誤が起きているのです。ですから、「マルクスの労働というとらえ方がおかしい」とかいう、高木さんの批判もそこから出て来るのです。マルクスの思想をちゃんと押さえていくと、マルクスは労働の廃棄を訴えているとなります。それは今村仁司さん的にいえば、「労働から仕事への転換」ということになっていきます。
日本の「障害者」の間では、青い芝の「労働は悪だ」とか「介助を受けるとき腰を上げるのも労働だ」とか言う提起がありました。前者は労働の廃棄から仕事への転換ということでそのまま受け入れられ、後者は、それは労働ではなくて仕事という概念で押さえるということではないかと思います。
だいぶ、読書メモということを踏み外してしまいました。
いつものように印象に残ったところを、メモとして残しておきます。
「核と自然という現代社会の直面する二つの大きな問題」512P
「ドイツ語では「収奪」と「開発」は全く同じ言葉を使うのですが、これは一つの言葉に二つの意味があるというよりは、概念的に同じようなものと考えた方がいいと思います。」516P
「人間と自然の対峙でなく、人間を生態系の中でとらえ返す。」517P
「民衆のための」でなく、「民衆による」519P
8つの課題(資源の問題/安全性―命の問題/巨大な都市ではだめという都市の問題/反戦の問題/人口の問題―第三世界の問題/女性解放の問題/「自由」―反管理の問題)を出し、それを3つ(自然との共生、反戦、反差別・反管理)にまとめています。521-522P
運動形態・・草の根主義と非暴力直接行動522P
マルクスが労働を軸に立てているという批判523P・・マルクスは資本主義社会では労働を軸にたてられると批判しています・・・誤解
「マルクス主義では、生活は労働力の生産・再生産過程と位置付けられますから」526P・・・マルクスは資本主義社会では「生活は労働力の生産・再生産過程」という物象化が起きると言っているのです。・・・高木さんのマルクスのとらえ返しへの疑問
エコロジーの「強み」と「弱さ」527P 534P
「自分の身の回りの生活批判を通じて、」「生活領域の問題をひとつの総合的観点からとりあげ得たことによって、エコロジズムが新鮮な魅力をもった。」527P
「例えば食品添加物とか洗剤とかいった問題から、もっと大きな構造―例えば第三世界の人々との関係―に迫るというのは、そう簡単なことではないでしょう。エコロジズムが一方において身の回り主義になったり、他方できわめて抽象的な自然愛好に陥ったりする弱さ多くもっていることを指摘しておかなくてはならないでしょう。」527P
ジグソーパズルのはめ絵の例で、マルクス主義は行く先の絵が見える、しかし、ひとつひとつのコマとコマがどう結びつき合っていくのかがなかなか見えない。エコロジーはコマとコマがこう合うという形で問題をたてなおした、しかし将来の社会像が見えない。534P・・・反差別というところでエコロジーとマルクス的な社会変革論というふたつのことを、そしてすべてのことをつなげていけるのではないか
多様性536p
「弁証法というのは、二つの対立物の対立のダイナミズムを前提としています。運動論としては一つの主張への共鳴理論で、対立が止揚されて共鳴していくという感じです。しかしエコロジズムは多様性に立脚していますから、単一主張での共鳴ではなく、多様な主張を認めあったうえでの共同(協働)という方法論を育てなくては駄目です。」・・・多様性ということの中にある「違い」ということの意識の検証
「地球にとって大事なのは水と土なんだ」536P・・・太陽も
自然主義批判537P
「(総体的・「社会的」観点のない・・引用者)自然科学的自然観だけでは結局、自然モデルに人間を従属させる、自然の規範に人間を従わせるという“自然主義”にしかならなくて解放的ではありません。・・・(解放的な方向での議論の・・・引用者)そのひとつに、ラブロックの「ガイア理論」があります。これは、地上の生物の共生は、与えられた地物的条件に単に適合して生物が生きるということではなくて、生物が自己の生存の条件を主体的につくり出し、次第に豊かに成熟させていく、そういう協働作業だという考え方です。その意味で多様な生命の共生は、ひとつの文化を成熟させているという風に考えてもよい。」
「少数派の力を見なおす」
コワイということでは力にならない、理屈で理解しても運動には結びつかない、そこには共感というようなことが必要という主張をしています。
そして、少数というが力になる、少数ということを前提にして出発するという展開をしています。
また、共鳴ということよりも、多様性を認め合う、協和―ハーモニーという運動のあり方を提起しています。
そして、学問の方法を運動に(これは端的には自分を突き放してみる観点で必要とされることとして)、運動の方法を学問にという提起をしています。
「共著者の論文」
・「化学の危機から変革の科学へ 現代科学の問題としての原発」
いままでの科学の立て方を問題にしています。
わたしは自由競争ということで取り返しのつかないことをしていく、作り出して後から対処していくというやりかた、専門家の中で全体を見渡せないようになっている、と要約していました。
高木さんは5つの項目で展開しています。生産性・創造性の喪失/観念性と虚構性/巨大になりすぎた科学技術/細分化に伴う退廃と大衆遊離/管理強化と差別抑圧の進行
・「風車・反原発・三里塚 運動に新しい風を」
津村喬さんの司会、前田俊彦さん、橋爪健郎さんとの高木さんの対談です。
地域で風車を作った橋爪さんと三里塚の運動をしていた前田さん、反原発の高木さんの組み合わせ、新しい地域に根ざした開かれた運動を語っています。少数な単位での小さい地域からの地域に根ざした運動を開かれた運動として展開していこうという試みを語っています。将来のコミュニティのありかたのようなことが垣間見れます。問題はそれが総体的なあり方として、どうつなげていけるのかということなのですが、・・。
・「ソフトさとは何か ソフト・パスへの一視点」
ロビンソンのソフト・エネルギー・パスという論攷に対するコメントです。
ロビンソンは、社会のあり方ということとは切断して、エネルギーのあり方を論じていて、それがソフト・エネルギー・パスという、再生可能な自然エネルギーへの転換の主張なのです。著者はそれはそれで評価するし、賛成するけど、人間の対自然・対社会の2つの関係は共軛的という主張で629P、エネルギー(得る方法)だけの問題ではない、ソフトな太陽型の社会、ソフトな社会へのパスが必要、ソフトなパスの問題ではないという展開です。
「未公開資料」
いずれも『ぷろじぇ』に掲載された原稿です。70年代初期の全共闘運動の影響を受けた科学論・科学者論です。本格的に本の出版をする以前の論攷です。科学論とて展開される基礎的な哲学的論攷もあり、そしてマルクスの流れへのコメントがとてもわたしの問題意識では、刺激的であり参考になりました。
・「自然―人間―科学 試論」
その1 広重と渡部 その2 マルクス主義 その3 哲学総体
これは著者の哲学的な所への対話になっています。とりわけマルクス/エンゲルスへのコメントがわたしの中でこれまで考えていた、反差別論、進歩史観批判とリンクしました。
この論攷は、もう一度読み直して、きちんと対話したいと思っています。学習会などで使える論攷ではないかとも思っています。
とりあえずメモを残して置きます。
対象化された<知>の地平の明るみにおいてのみ把握することのあやまり、主体的人間を自然と対峙させる外的な存在としてとらえることのあやまり、ということが書かれています。
未知の自然―知り得ないものがあるというところから出発する必要が書かれています。
進歩という概念のとらえ返しの必要性を展開しています。・・深化の概念からのとらえ返し
高木さんの思想を要約するような印象的な2つの文「自然と自分との関係性が当然自己に強いてくる全人間的な問いかけをはっきりさせたいのである。そのことの中に近代知の構造を変革し、近代科学における価値観の転換のための鋭角的な突破口を求めているのである。」「自然科学者が自然という対象に対して、原初感性的に抱くであろう意識に切り結ぶことができれば、即ち言葉を換えれば、自己と自然との関係をそこまで普遍化することができれば、個別科学者をしてその個別科学の現場感覚から人間としての現場感覚に立ち戻らせ得ることができるであろう。」646P
科学の私有性652P
マルクスの対話からする私有性批判 エンゲルス640P その2の冒頭マルクスの引用などマルクス/エンゲルスの思想の検証として重要なコメントも出ています。
自然との交流―相互関係こそが人間性の証し658P
(自然)科学における展望は、私有性を否定することの中にある662P
マルクスが哲学から入ったように高木さんにも、初期に哲学的なところからとらえかえそうという指向があったことがとらえられます。・・・自然との交流を出発点にするというところからの世界観と哲学
・「折原書簡を読んで」
折原さんは教育学園闘争の中で授業の正常化を拒否して処分された教員です。その事へのコメント、高木さんは、むしろ中にいるところでの模索というみちがあったのではないかと、一応大学に残ったひとですが、何年か後に結局大学を辞めています。それこそ、当時科学をやっていたひとのいろんな選択があったのですが、高木さんは出版したものでは、あまり、教育学園闘争にふれていなくて、当時の時代情況の中でどうしていたのかがとらえられなかったのですが、やはり、教育学園闘争から多大な影響をうけていたのだということが、この文の中でとらえられました。
・「討論機叔瀘啝瓩悗亮蟷罅
エンゲルスからスターリンにつながる自然弁証法の基底性、自然史的歴史的必然性というのは、マルクスまでさかのぼれるという高木さんのとらえ返しです。それは生産力の発達と生産関係の矛盾が革命の力になるというとらえ方自体に問題があったという指摘です。生産力の発達というところでの進歩史観があるのです。それは科学の発達というところにバラ色の夢を抱いたということともつながっていきます。むしろ、科学が何をもたらしたかの批判もでています。そのあたりは、無限の経済発達という観念や、科学の無限の発達という観念自体に問題があるとも言えます。
廣松さんの文へのコメントも書かれています690P・・生産力と生産関係の矛盾というところからの革命という押さえ方への批判です。・・・生産力の発達というころに展望を見いだす、マルクスの進歩史観・発達史観への批判ということなのでしょう。
自然と対峙しつつ、自然であり続ける人間の弁証法―こそが、実証性の地平を越えた唯物弁証法として求められている690P
自然としての人間と自然と対峙する人間という中にあるがままの人間とみる。この永続的止揚の実践こそが人間の全体的過程(「全体化」という語に違和感、「歴史的行動」という意味?)
知と不知の弁証法 知の構造変革をその枠組みでとらえる692P
マルクスの限界699P
「解説」・・・高木さんと何回か対談してかなり共鳴していた哲学者の花崎さんの解説です。花崎さんの対話の続きのような解説です。
よくまとまっていて、わたしのメモなどよりも、これを読んでと言いたい内容です。
ただ、マルクスとの対話では、わたしにとって疑問を感じることが書かれています。
「解題」・・・高木さんが立ち上げた原子力資料室の共同代表の西尾さんの文です。この巻に収められている論攷の背景のようなことを書いてくれています。著作集の各巻にも同じ「解題」があるようです。
「市民科学通信」
高木さんと関わっていた人たちの高木さんのひととなりが伝わってくる思いでの記が小冊子として挟まれています。これは各巻に付録的についていて、同じタイトルで本になっています。
エコロジー関係の本を読むときは、なぜこんな自明なことが通じないのかという暗い気持ちになるのですが、高木さんの本を読むと、何かやすらぎのようなことを感じています。廣松さんの本も自分の居場所に帰ってきたというようなところがあるのですが、高木さんの本にもそんなところがあるのです。
さて、高木さんには反差別という立場性がはっきりしていて、そこでエコロジー論を展開しています。エコロジーの運動はときとして、他の問題と切り離して、エコロジーというところだけで閉じている事が多いのですが、このひとは開いているエコロジー論です。
このあたりは、階級闘争やプロレタリア革命論が反差別ということを欠いていることとかにもつながっていて、わたしは反差別というところで開いた運動が階級闘争やプロレタリア革命論、そしてエコロジーにも必要なのだと考えています。
たわしの読書メモ・・ブログ190
・高木仁三郎『高木仁三郎著作集第7巻 市民科学者として生きる機拏靴朕構餞2002
高木さんの本で絶版になっている本が多く、古本で探しても、フクシマ原発震災以降あっという間に、売れてしまいました。いくつか買い求め、復刊されたものもあったのですが、初期の頃の本で手に入らない本がありました。ちょうど、その探していた本が、著作集の7巻に集中していたので、買い求めました。相当の厚手の本、所収されている論攷に少しずつメモを残していきます。
実験化学者として出発した著者の立場から実践ということの大切さを学び、そして何よりも、わたしのなかにあったマルクスの発達史・進歩史観批判の核心のようなことがエコロジーとむすびついていることが明らかになりました。わたしの中で一つの転換点になるような本です。
「科学は変わる」
これは初期の頃の作品で、この作品の中に後に詳しく展開されるいろんなことが萌芽的に織り込まれています。巨大科学・テクノロジー批判、地産地消、市民の科学という内容の展開です。
AT(いくつかの語の略語になっているのですが、主にオルタナティブ・テクノロジーの略語)というポジティヴな突き出しもあります。
いつものように印象に残ったところを記しておきます。
担子菌の「改良」をしようとして松を枯らすことになったという事例39P
「「原子炉の大事故はめったに起こらない」というのは、結論でなく、いわば出発点だった」64P・・・そういうことにして出発したという意味。
「自然現象に制約されることのないエネルギー」の虚構73P
原爆製造に携わった科学者の叫びの引用80P
「科学者なんか一列に並べて銃殺してしまえという連中を、非難するわけにはいかない気がする。・・」
巨大科学においては実証の方法を科学は駆使できなくなる96P
エネルギーに関するパラダイムの変換に関する5冊の本の紹介101P
知的努力の好ましい方向付け119P
不平等を減らすこと 抑圧を減らすこと 自然と人間の関係の総合化 実践を媒介とした知の相対化
ムラサキツユクサのおしべが放射能汚染で、おしべの毛の色が青からピンクに変わるという生活的実践的観測の話130P
知の在り方、方向付け
「知は実践と分ち難く結びついています。実践に照らして知の確からしさを検証し、絶対的なものとして知がひとり歩きすることを防いでいく、そのような知のあり方が可能になっていくためには、人々が共通の実践に立ちうること、言いかえれば、差別や抑圧のない人と人の関係が絶対的な条件となります。人と人の関係において、支配―被支配という関係が徐々にせよ克服され、商品を通じての人と人の結びつきという関係が、より人間的な交流へと深化していくとき、そのときにのみ、私たちの自然に対する共通認識も深まりうると考えられます。そのような知のあり方を好ましいと考え、その方向に「科学」も方向づけていくべきだというのが私の考える方向づけです。」131-132P・・・高木さんの反差別的科学論の神髄・・「フェイルバッハに関するテーゼ」(「これまでの唯物論・・・」「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない・・・」)との結びつき
運動のありかた
「(ベトナム反戦の“正義の闘い”が)正義を実現するために、最大限に有効な運動の組織化が求められました。その結果、運動が機能的になり、力が強い、文章が達者だ、演説がうまい……等々、何らかの有能性にフルに頼った役割分担ができ上がり、そのような有能さを発揮できない人は追従していくだけという運動構造ができ上がりました。本来、反戦平和の運動が目指しているはずの差別や抑圧のない理念とは、まったく相反した運動の構造ができ上ったわけですが、・・・そのような歪みが、運動に参加した多くの人々を落胆させました。・・・ベトナム停戦より前に、運動は急速にしぼんでいったと・・」138P高木さんが引用した文です。・・・運動自体がどのような関係を求めているのかという目的を体現しつつ、その運動の現在性の中に関係性のあり方を示している・・イズム論
「従来の運動がある一つの情勢認識やそれに伴う闘争課題をあらかじめ打ち出し、それに従って最も有効なように運動を設定していくものであったのと対照的に、この運動は、人々の生活の抱える問題から出発して、運動を進める中で共通認識を深め、それに従って共同の行動をしていこうとしていることです。つまり、路線の絶対的正しさや“正義”の度合いが、運動の強さ、力になっているのではなく、人々の共通認識の深さが共同の行動への原動力となっていくということです。」139P・・・反差別というところでの共通認識の形成というところからのエコロジー論、そしてすべての運動論
市民の科学のはじまり
「(専門性をもった権威者に頼ろうとする傾向があったし、あるけれど、・・引用者)権威者は、専門性という利害関係をひきずっており、その発想は、市民・住民の発想とは大幅に異なります。科学や技術のそもそものあり方をめぐって、問われるはずの問題が、専門家同士の代理戦争となり、いつしかすでに述べたような問題設定→パズル解きの文脈の中に解消されてしまいます。/そのような経験を経ながら、最近では、市民・住民運動は、認識の主体を自分たちととらえて、そこに既存の専門性を取り込んでいく、という方向に踏み出しているように思えます。」141P
AT
ATの二つの意味・・適正技術(アプロブリエイト・テクノロジー)、もうひとつの技術(オルタナティブ・テクノロジー)
先進国における物質文明の批判といわゆる第三世界の自立的経済発展をめざすというふたつの流れ146P・・・オルター・グロバリーゼーションの内容をもつオルタナティブ・テクノロジー(AT)
AT論の詳しい展開があります。これが後の高木さんの科学のあり方論の原型を示しています。詳しく書きたいのですが、長くなるので割愛、後で高木さんの科学論とリンクさせて改めて対話したいのですが、とりあえず割愛します。
科学や技術だけの問題ではない、むしろ生き方、関係のあり方総体の問題
「「科学」や「知」や「技術」への志向が、ひとり科学や技術によって問題を解決できるという発想に転化しない限りにおいて、私はかかわっていきたいと思います。」161-162P・・・高木さんの市民の科学者として出発点的決意表明的文
パラダイム論は廣松さんのパラダイムチェンジ論との対話の中で、もっと深化できるのではないかと思っています。
「いま、普段着の科学者として考えること」
高木さんの母校―東大での学生向けの2回にわたる講演の記録。
一回目は高木さんの科学者としての個人史的遍歴は別な本でも出て来るのですが、ここでより詳しい展開です。
二回目は、それに続いて、科学者としてのあり方、科学のあり方について話しています。「政治の論理だけでない、科学自身の中にやっぱり問題とすべき種がしかけられているのではないか」202Pという小見出しにもなっている問いかけがあります。政治主導の巨大科学・テクノロジー批判です。人間の側に科学技術を引き寄せる215Pという提起につながっていて、著者が作った人間―科学・技術―政治・経済のトライアングルの図199Pがあり、人間に普段着、科学技術・テクノロジーに実験着・作業着、政治・経済に背広という対比させた展開があり222P、この論攷の表題の「普段着」につながっているのです。
「危機の科学」
元々、「科学の危機」というところで書こうとしていたのが、チェルノブイリの事故を受けで、危機感の中で、「危機の科学」となったという論攷です。これは巻末の西尾さんの「解題」の中に書かれています。
これは高木さんの巨大科学・テクノロジー批判の端緒とでもいうべき記念碑的論攷です。
「1章70年代の宇宙科学」「2章 70年代の原子力」で巨大科学・巨大技術をとりあげています。「3章 見えはじめた分岐」で巨大技術に対する適正技術としてATが分岐してきていること。「4章 危機の科学」はタイトルの本題。「5章 批判から変革へ」で、巨大科学への批判と未来のあり方を展開しています。
書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
原子力をはじめとする巨大科学は聖書のなかにあるバベルの塔的なこととしてあると冒頭に出てきます。229P
そして、三者(人間―科学・技術―政治・経済)の対話不能さの現実を書いています。236P
「国家科学」として巨大科学が現れているという指摘。238P
最初に数字があった・・・何パーセントを原子力でまかなうかという設定261P・・・巨大科学が立ち現れてくるときの流儀
コンピューターでの机上の想定していく実証性のない巨大科学266P
環境工学、生態学の危うさ287P・・・環境工学と名付けて細分化された専門家を寄せ集め、それらを総合化してとらえる観点がない。問題を一気にグローバルなものに還元することによって、個々の汚染に関係した企業の責任や科学技術のあり方を問わない一部の生態学者。
ソフト(・エネルギー)・パス288P・・・「異質な最終用途(エネルギーを用いてわれわれがおこなおうとする多くの異なる仕事)を、各々の仕事にもっとも効率的なやり方で供給された最小のエネルギーで満たすか」という発想から出発し、「より効率的なエネルギーの使い方と適当な再生可能エネルギーに頼るやり方」
国家プロジェクトとしての推進319P
教育―技術立国・愛国心ということでの突きだし
軍事技術と結びつく傾向
支配原理の異なる2つの世界(科学・化学の世界と自然的・生物的世界)の境界に様々な矛盾を経験344P
遺伝子工学 核 スペースシャトル
人間の側の論理や感性の優位を回復しなければならない344P
科学の中立論と科学者の社会的責任論の崩壊345P・・・国家が科学者軽視していた時代には有効だったが、国家が科学を国家プロジェクトとして推進していく時代には機能しない、むしろ巨大科学批判として展開する必要
巨大科学と国家プロジェクトへの人間の立場からの批判346P
トリレンマ・・・三極(人間―科学・技術―政治・経済)への分離347P
矛盾を積極的に背負い込む中での市民の科学・・・根拠地作り348P
ソフトな社会とハードな社会349P・・自然破壊的でテクノラート管理社会−ハードな社会とそれに対するアンチテーゼとして出てきたソフトな社会。
「統一性をもった体系」354P・・・「自然と人間の関係に関わるもの」と「人間と人間の関係、科学技術の社会的あり方に関わるもの」という二つのカテゴリーが両立し得るような「統一性をもった体系」
「私は“ソフトな社会”の青写真を描くことに性急であるよりも、現在社会の批判的とらえなおしこそが“ソフトな社会”の展望を豊かににすると思う。」355P・・・共生とド・イデ(理念や理想を求めるのではない、現実の矛盾に対する闘争)
本書の問題意識
「問題をなるべく生の形で、いわば進行する流れのなかでとらえ、評価し、状況に切り込んでいく」357P
「「暗い予感」が現実にひとつひとつ現実化し、「危機の科学」が一層浸透していくと感じさせるような出来事が、これからも次々と起こっていくことだろう。」358P・・・予感は原発震災として現実化した。
「わが内なるエコロジー」
これはエッセイ風の文で高木さんのエコロジーへの思いと実践を書いています。
「科学は変わる」と「いま、自然をどうとらえるか」と自然観でつながっているのではないかと感じています。高木さんのそこでの代表作のひとつとして記せるのではないかと思っています。まだ高木さんの論攷の全体像もとらえかえせていないのですが、そのとらえ返しの作業の途中で、自然観三部作と密かに押さえています。
三部構成になっています。「第一部 二つの自然像」は著者の中にもあり、引き裂かれている二つの自然像、「第二部 科学知の変革」は科学者でもあった宮沢賢治との著者の対話と哲学者の花崎さんとの対談です。「第三部 生活の変革−「実験としての生活」」は、実験科学者から出発し「市民の科学者」を標榜するようになる著者が「生活の実験」というところでのエコロジー的実践を記しています。
この論攷を読んでいると、このひとは共同体論的なことも含めてエコロジー的なことを実践にも踏み込もうとしたのだということを押さえられます。わたしはエコロジーはまさに机上の論としての域を出ないのですが、高木さんはまさに実践的にも踏み込もうとしていて、そして単にエコロジーということだけでなく、ということよりも、エコロジーということの中に含まれる、ひととひとの関係のあり方と、いうことも含めたエコロジー的な実践の試行もあったのだということが、このエッセー的な文の中で示されています。
ここでも、書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
二つの自然その中での揺れ動きに身を任せる402P
著者にとって自然は科学の対象としての自然と身近な自分の生活の中でいきる糧・条件としての自然に引き裂かれるということがあったのです。市民の科学者として、そのことの「統一」への道を歩もうとしたのでは。
「自分たちのもの」ではなく403P
「(海は)子や孫や、魚を食べるすべての人たちのもの」402P
「直接のやりとりとしての自然と社会を媒介にした自然」404P
観念的な共生を、宮澤賢治と旅から実感としてつかむ405P
旅・・・ 生き方そのものが思想という人たちとの出会い406P
自然への回帰ではない、一歩進めるもの406P
民衆の歴史 生活者の地平
実人生がその一環であるようなあり方においてしか、賢治にとっての科学は存在しえなかった。430P
レゾナンスとコンゾナンス443-444P
共鳴・・レゾナンス、協和・・・コンゾナンス、著者は全く同一性のものとしての共鳴ではなく、多様性の中での協和ということでの運動論を考えているのです。
「雪中炭」と「錦上花」458P
「毛沢東が『文芸講話』の中で、文芸における普及と向上を論じて、「雪中炭を送る」こと、つまり大衆のもっとも切実な要求に奉仕する態度と、「錦上花を添える」こと、つまり芸術としての向上を第一に考える態度を対比してみせています。それをわたしは「雪中炭」型と「錦上花」型とに類型化してみたんです。」・・科学も専門化としての道をひた走る「錦上花」型に対して、著者は「雪中炭」型の立場から批判しています。
「やはり問題の核心は技術の問題としてあるのではなく、人間相互の関係のあり方と、人間の自然に対する向き方の問題としてあるのだということが、私(たち)の問題意識である。共同の作業にあたる人々の関係の質、共同性の深さに応じてこそ、ひとつの技術は、真に民衆のものとして機能しうると、多少の経験も踏まえて考えるからである。」503P
「反原発・エコロジーについて」
講演録で、エコロジー論をきちんと展開しています。
「機.┘灰蹈検爾浪燭世蹐Δ」と「供.┘灰蹈検嫉彖曚寮立」でエコロジー論、「掘.┘灰蹈献坤爐糧稟重検討―マルクス主義と対比させて」、「検.┘灰蹈検識親阿里海譴ら―その批判的検討」と続きます。
わたしの問題意識で注目したのは、靴妊泪襯ス主義とエコロジーの関係にかなり突っ込んでコメントしていることです。
ただ、わたしは高木さんのマルクス主義のとらえかたが、どうも官許マルクス主義と批判されていることから抜け出せていないのではないかと思っています。
さて、わたしはそもそもマルクス主義とは何かということを考えています。よく、マルクスの影響を受けているひとで、「わたしはマルクス主義者ではない」という主張をしているひとに出会います。これにはわたしは二つのパターンがあると思っています。ひとつは、マルクスの理論を一部とりあげて自分の理論の中にとりいれているけれど、マルクスの理論には基本的に賛同し得ないという主張です。賛同し得ないというところの、よくある例としては、共産主義革命論です。これもいろんな細分化できるパターンがあって、革命の可能性はないと断言するひとから、それは困難だから、わたしはとりあえず、現在社会の枠組みからことを論じていくのだ、というパターン。また、過去のマルクス主義者の引き起こした運動への反発、またマルクスなどの共鳴を口にすると、学者として飯が食えなくなる、などなど、・・。
もうひとつは、そもそもマルクス主義ということが教条化され、マルクスへの個人崇拝のようなことが起きていることへの批判です。わたしもこの立場なのですが、そもそも、ひとの名を冠した○○主義などということが個人崇拝生む、反差別というような立場に立つものは個人崇拝のようなことは受け入れられないので、個人の名を冠した、「マルクス主義」などという表現は受け入れられないという立場があります。そもそもマルクスが「わたしはマルクス主義者ではない」といったことにもそれはつながっています。
そしてマルクス主義ということでは、マルクス−レーニン主義という三重に教条化された(すなわちマルクス主義という教条化、レーニン主義という教条化、さらにマルクスとレーニンを一体化させる教条化)が主流のマルクス主義として君臨してきた歴史があります。
さて、そもそもマルクス主義を口にするひとは大方、マルクスの思想を曲解した上で、それを教条主義的にとらえている、いわゆる官許マルクス主義なり(これはコミンテルンを支配したロシアマルクス主義の官許マルクス主義という意味です)、主流のマルクス主義ということがマルクスの思想をきちんと発展的に継承し得なかったという問題があります。
たとえば、マルクスの労働価値説や、マルクス主義フェミニズムの家事は労働力生産再生産労働だという規定があります。これはあまくまで、資本主義社会においては、労働が価値を生み出すかのような、家事が労働力の生産再生産活動のような物象化をもたらすということなのだと、これがマルクスがいわんとしたことだと、わたしは押さえています。そもそも「『資本論』は物象化ということで貫かれている」という廣松派の指摘があるのですが、それを物象化としてとらえないで、マルクスを資本主義の単なる分析家、国民経済学の完成者としておさえるような錯誤が起きているのです。ですから、「マルクスの労働というとらえ方がおかしい」とかいう、高木さんの批判もそこから出て来るのです。マルクスの思想をちゃんと押さえていくと、マルクスは労働の廃棄を訴えているとなります。それは今村仁司さん的にいえば、「労働から仕事への転換」ということになっていきます。
日本の「障害者」の間では、青い芝の「労働は悪だ」とか「介助を受けるとき腰を上げるのも労働だ」とか言う提起がありました。前者は労働の廃棄から仕事への転換ということでそのまま受け入れられ、後者は、それは労働ではなくて仕事という概念で押さえるということではないかと思います。
だいぶ、読書メモということを踏み外してしまいました。
いつものように印象に残ったところを、メモとして残しておきます。
「核と自然という現代社会の直面する二つの大きな問題」512P
「ドイツ語では「収奪」と「開発」は全く同じ言葉を使うのですが、これは一つの言葉に二つの意味があるというよりは、概念的に同じようなものと考えた方がいいと思います。」516P
「人間と自然の対峙でなく、人間を生態系の中でとらえ返す。」517P
「民衆のための」でなく、「民衆による」519P
8つの課題(資源の問題/安全性―命の問題/巨大な都市ではだめという都市の問題/反戦の問題/人口の問題―第三世界の問題/女性解放の問題/「自由」―反管理の問題)を出し、それを3つ(自然との共生、反戦、反差別・反管理)にまとめています。521-522P
運動形態・・草の根主義と非暴力直接行動522P
マルクスが労働を軸に立てているという批判523P・・マルクスは資本主義社会では労働を軸にたてられると批判しています・・・誤解
「マルクス主義では、生活は労働力の生産・再生産過程と位置付けられますから」526P・・・マルクスは資本主義社会では「生活は労働力の生産・再生産過程」という物象化が起きると言っているのです。・・・高木さんのマルクスのとらえ返しへの疑問
エコロジーの「強み」と「弱さ」527P 534P
「自分の身の回りの生活批判を通じて、」「生活領域の問題をひとつの総合的観点からとりあげ得たことによって、エコロジズムが新鮮な魅力をもった。」527P
「例えば食品添加物とか洗剤とかいった問題から、もっと大きな構造―例えば第三世界の人々との関係―に迫るというのは、そう簡単なことではないでしょう。エコロジズムが一方において身の回り主義になったり、他方できわめて抽象的な自然愛好に陥ったりする弱さ多くもっていることを指摘しておかなくてはならないでしょう。」527P
ジグソーパズルのはめ絵の例で、マルクス主義は行く先の絵が見える、しかし、ひとつひとつのコマとコマがどう結びつき合っていくのかがなかなか見えない。エコロジーはコマとコマがこう合うという形で問題をたてなおした、しかし将来の社会像が見えない。534P・・・反差別というところでエコロジーとマルクス的な社会変革論というふたつのことを、そしてすべてのことをつなげていけるのではないか
多様性536p
「弁証法というのは、二つの対立物の対立のダイナミズムを前提としています。運動論としては一つの主張への共鳴理論で、対立が止揚されて共鳴していくという感じです。しかしエコロジズムは多様性に立脚していますから、単一主張での共鳴ではなく、多様な主張を認めあったうえでの共同(協働)という方法論を育てなくては駄目です。」・・・多様性ということの中にある「違い」ということの意識の検証
「地球にとって大事なのは水と土なんだ」536P・・・太陽も
自然主義批判537P
「(総体的・「社会的」観点のない・・引用者)自然科学的自然観だけでは結局、自然モデルに人間を従属させる、自然の規範に人間を従わせるという“自然主義”にしかならなくて解放的ではありません。・・・(解放的な方向での議論の・・・引用者)そのひとつに、ラブロックの「ガイア理論」があります。これは、地上の生物の共生は、与えられた地物的条件に単に適合して生物が生きるということではなくて、生物が自己の生存の条件を主体的につくり出し、次第に豊かに成熟させていく、そういう協働作業だという考え方です。その意味で多様な生命の共生は、ひとつの文化を成熟させているという風に考えてもよい。」
「少数派の力を見なおす」
コワイということでは力にならない、理屈で理解しても運動には結びつかない、そこには共感というようなことが必要という主張をしています。
そして、少数というが力になる、少数ということを前提にして出発するという展開をしています。
また、共鳴ということよりも、多様性を認め合う、協和―ハーモニーという運動のあり方を提起しています。
そして、学問の方法を運動に(これは端的には自分を突き放してみる観点で必要とされることとして)、運動の方法を学問にという提起をしています。
「共著者の論文」
・「化学の危機から変革の科学へ 現代科学の問題としての原発」
いままでの科学の立て方を問題にしています。
わたしは自由競争ということで取り返しのつかないことをしていく、作り出して後から対処していくというやりかた、専門家の中で全体を見渡せないようになっている、と要約していました。
高木さんは5つの項目で展開しています。生産性・創造性の喪失/観念性と虚構性/巨大になりすぎた科学技術/細分化に伴う退廃と大衆遊離/管理強化と差別抑圧の進行
・「風車・反原発・三里塚 運動に新しい風を」
津村喬さんの司会、前田俊彦さん、橋爪健郎さんとの高木さんの対談です。
地域で風車を作った橋爪さんと三里塚の運動をしていた前田さん、反原発の高木さんの組み合わせ、新しい地域に根ざした開かれた運動を語っています。少数な単位での小さい地域からの地域に根ざした運動を開かれた運動として展開していこうという試みを語っています。将来のコミュニティのありかたのようなことが垣間見れます。問題はそれが総体的なあり方として、どうつなげていけるのかということなのですが、・・。
・「ソフトさとは何か ソフト・パスへの一視点」
ロビンソンのソフト・エネルギー・パスという論攷に対するコメントです。
ロビンソンは、社会のあり方ということとは切断して、エネルギーのあり方を論じていて、それがソフト・エネルギー・パスという、再生可能な自然エネルギーへの転換の主張なのです。著者はそれはそれで評価するし、賛成するけど、人間の対自然・対社会の2つの関係は共軛的という主張で629P、エネルギー(得る方法)だけの問題ではない、ソフトな太陽型の社会、ソフトな社会へのパスが必要、ソフトなパスの問題ではないという展開です。
「未公開資料」
いずれも『ぷろじぇ』に掲載された原稿です。70年代初期の全共闘運動の影響を受けた科学論・科学者論です。本格的に本の出版をする以前の論攷です。科学論とて展開される基礎的な哲学的論攷もあり、そしてマルクスの流れへのコメントがとてもわたしの問題意識では、刺激的であり参考になりました。
・「自然―人間―科学 試論」
その1 広重と渡部 その2 マルクス主義 その3 哲学総体
これは著者の哲学的な所への対話になっています。とりわけマルクス/エンゲルスへのコメントがわたしの中でこれまで考えていた、反差別論、進歩史観批判とリンクしました。
この論攷は、もう一度読み直して、きちんと対話したいと思っています。学習会などで使える論攷ではないかとも思っています。
とりあえずメモを残して置きます。
対象化された<知>の地平の明るみにおいてのみ把握することのあやまり、主体的人間を自然と対峙させる外的な存在としてとらえることのあやまり、ということが書かれています。
未知の自然―知り得ないものがあるというところから出発する必要が書かれています。
進歩という概念のとらえ返しの必要性を展開しています。・・深化の概念からのとらえ返し
高木さんの思想を要約するような印象的な2つの文「自然と自分との関係性が当然自己に強いてくる全人間的な問いかけをはっきりさせたいのである。そのことの中に近代知の構造を変革し、近代科学における価値観の転換のための鋭角的な突破口を求めているのである。」「自然科学者が自然という対象に対して、原初感性的に抱くであろう意識に切り結ぶことができれば、即ち言葉を換えれば、自己と自然との関係をそこまで普遍化することができれば、個別科学者をしてその個別科学の現場感覚から人間としての現場感覚に立ち戻らせ得ることができるであろう。」646P
科学の私有性652P
マルクスの対話からする私有性批判 エンゲルス640P その2の冒頭マルクスの引用などマルクス/エンゲルスの思想の検証として重要なコメントも出ています。
自然との交流―相互関係こそが人間性の証し658P
(自然)科学における展望は、私有性を否定することの中にある662P
マルクスが哲学から入ったように高木さんにも、初期に哲学的なところからとらえかえそうという指向があったことがとらえられます。・・・自然との交流を出発点にするというところからの世界観と哲学
・「折原書簡を読んで」
折原さんは教育学園闘争の中で授業の正常化を拒否して処分された教員です。その事へのコメント、高木さんは、むしろ中にいるところでの模索というみちがあったのではないかと、一応大学に残ったひとですが、何年か後に結局大学を辞めています。それこそ、当時科学をやっていたひとのいろんな選択があったのですが、高木さんは出版したものでは、あまり、教育学園闘争にふれていなくて、当時の時代情況の中でどうしていたのかがとらえられなかったのですが、やはり、教育学園闘争から多大な影響をうけていたのだということが、この文の中でとらえられました。
・「討論機叔瀘啝瓩悗亮蟷罅
エンゲルスからスターリンにつながる自然弁証法の基底性、自然史的歴史的必然性というのは、マルクスまでさかのぼれるという高木さんのとらえ返しです。それは生産力の発達と生産関係の矛盾が革命の力になるというとらえ方自体に問題があったという指摘です。生産力の発達というところでの進歩史観があるのです。それは科学の発達というところにバラ色の夢を抱いたということともつながっていきます。むしろ、科学が何をもたらしたかの批判もでています。そのあたりは、無限の経済発達という観念や、科学の無限の発達という観念自体に問題があるとも言えます。
廣松さんの文へのコメントも書かれています690P・・生産力と生産関係の矛盾というところからの革命という押さえ方への批判です。・・・生産力の発達というころに展望を見いだす、マルクスの進歩史観・発達史観への批判ということなのでしょう。
自然と対峙しつつ、自然であり続ける人間の弁証法―こそが、実証性の地平を越えた唯物弁証法として求められている690P
自然としての人間と自然と対峙する人間という中にあるがままの人間とみる。この永続的止揚の実践こそが人間の全体的過程(「全体化」という語に違和感、「歴史的行動」という意味?)
知と不知の弁証法 知の構造変革をその枠組みでとらえる692P
マルクスの限界699P
「解説」・・・高木さんと何回か対談してかなり共鳴していた哲学者の花崎さんの解説です。花崎さんの対話の続きのような解説です。
よくまとまっていて、わたしのメモなどよりも、これを読んでと言いたい内容です。
ただ、マルクスとの対話では、わたしにとって疑問を感じることが書かれています。
「解題」・・・高木さんが立ち上げた原子力資料室の共同代表の西尾さんの文です。この巻に収められている論攷の背景のようなことを書いてくれています。著作集の各巻にも同じ「解題」があるようです。
「市民科学通信」
高木さんと関わっていた人たちの高木さんのひととなりが伝わってくる思いでの記が小冊子として挟まれています。これは各巻に付録的についていて、同じタイトルで本になっています。
エコロジー関係の本を読むときは、なぜこんな自明なことが通じないのかという暗い気持ちになるのですが、高木さんの本を読むと、何かやすらぎのようなことを感じています。廣松さんの本も自分の居場所に帰ってきたというようなところがあるのですが、高木さんの本にもそんなところがあるのです。
さて、高木さんには反差別という立場性がはっきりしていて、そこでエコロジー論を展開しています。エコロジーの運動はときとして、他の問題と切り離して、エコロジーというところだけで閉じている事が多いのですが、このひとは開いているエコロジー論です。
このあたりは、階級闘争やプロレタリア革命論が反差別ということを欠いていることとかにもつながっていて、わたしは反差別というところで開いた運動が階級闘争やプロレタリア革命論、そしてエコロジーにも必要なのだと考えています。
・高木仁三郎『高木仁三郎著作集第7巻 市民科学者として生きる機拏靴朕構餞2002
高木さんの本で絶版になっている本が多く、古本で探しても、フクシマ原発震災以降あっという間に、売れてしまいました。いくつか買い求め、復刊されたものもあったのですが、初期の頃の本で手に入らない本がありました。ちょうど、その探していた本が、著作集の7巻に集中していたので、買い求めました。相当の厚手の本、所収されている論攷に少しずつメモを残していきます。
実験化学者として出発した著者の立場から実践ということの大切さを学び、そして何よりも、わたしのなかにあったマルクスの発達史・進歩史観批判の核心のようなことがエコロジーとむすびついていることが明らかになりました。わたしの中で一つの転換点になるような本です。
「科学は変わる」
これは初期の頃の作品で、この作品の中に後に詳しく展開されるいろんなことが萌芽的に織り込まれています。巨大科学・テクノロジー批判、地産地消、市民の科学という内容の展開です。
AT(いくつかの語の略語になっているのですが、主にオルタナティブ・テクノロジーの略語)というポジティヴな突き出しもあります。
いつものように印象に残ったところを記しておきます。
担子菌の「改良」をしようとして松を枯らすことになったという事例39P
「「原子炉の大事故はめったに起こらない」というのは、結論でなく、いわば出発点だった」64P・・・そういうことにして出発したという意味。
「自然現象に制約されることのないエネルギー」の虚構73P
原爆製造に携わった科学者の叫びの引用80P
「科学者なんか一列に並べて銃殺してしまえという連中を、非難するわけにはいかない気がする。・・」
巨大科学においては実証の方法を科学は駆使できなくなる96P
エネルギーに関するパラダイムの変換に関する5冊の本の紹介101P
知的努力の好ましい方向付け119P
不平等を減らすこと 抑圧を減らすこと 自然と人間の関係の総合化 実践を媒介とした知の相対化
ムラサキツユクサのおしべが放射能汚染で、おしべの毛の色が青からピンクに変わるという生活的実践的観測の話130P
知の在り方、方向付け
「知は実践と分ち難く結びついています。実践に照らして知の確からしさを検証し、絶対的なものとして知がひとり歩きすることを防いでいく、そのような知のあり方が可能になっていくためには、人々が共通の実践に立ちうること、言いかえれば、差別や抑圧のない人と人の関係が絶対的な条件となります。人と人の関係において、支配―被支配という関係が徐々にせよ克服され、商品を通じての人と人の結びつきという関係が、より人間的な交流へと深化していくとき、そのときにのみ、私たちの自然に対する共通認識も深まりうると考えられます。そのような知のあり方を好ましいと考え、その方向に「科学」も方向づけていくべきだというのが私の考える方向づけです。」131-132P・・・高木さんの反差別的科学論の神髄・・「フェイルバッハに関するテーゼ」(「これまでの唯物論・・・」「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない・・・」)との結びつき
運動のありかた
「(ベトナム反戦の“正義の闘い”が)正義を実現するために、最大限に有効な運動の組織化が求められました。その結果、運動が機能的になり、力が強い、文章が達者だ、演説がうまい……等々、何らかの有能性にフルに頼った役割分担ができ上がり、そのような有能さを発揮できない人は追従していくだけという運動構造ができ上がりました。本来、反戦平和の運動が目指しているはずの差別や抑圧のない理念とは、まったく相反した運動の構造ができ上ったわけですが、・・・そのような歪みが、運動に参加した多くの人々を落胆させました。・・・ベトナム停戦より前に、運動は急速にしぼんでいったと・・」138P高木さんが引用した文です。・・・運動自体がどのような関係を求めているのかという目的を体現しつつ、その運動の現在性の中に関係性のあり方を示している・・イズム論
「従来の運動がある一つの情勢認識やそれに伴う闘争課題をあらかじめ打ち出し、それに従って最も有効なように運動を設定していくものであったのと対照的に、この運動は、人々の生活の抱える問題から出発して、運動を進める中で共通認識を深め、それに従って共同の行動をしていこうとしていることです。つまり、路線の絶対的正しさや“正義”の度合いが、運動の強さ、力になっているのではなく、人々の共通認識の深さが共同の行動への原動力となっていくということです。」139P・・・反差別というところでの共通認識の形成というところからのエコロジー論、そしてすべての運動論
市民の科学のはじまり
「(専門性をもった権威者に頼ろうとする傾向があったし、あるけれど、・・引用者)権威者は、専門性という利害関係をひきずっており、その発想は、市民・住民の発想とは大幅に異なります。科学や技術のそもそものあり方をめぐって、問われるはずの問題が、専門家同士の代理戦争となり、いつしかすでに述べたような問題設定→パズル解きの文脈の中に解消されてしまいます。/そのような経験を経ながら、最近では、市民・住民運動は、認識の主体を自分たちととらえて、そこに既存の専門性を取り込んでいく、という方向に踏み出しているように思えます。」141P
AT
ATの二つの意味・・適正技術(アプロブリエイト・テクノロジー)、もうひとつの技術(オルタナティブ・テクノロジー)
先進国における物質文明の批判といわゆる第三世界の自立的経済発展をめざすというふたつの流れ146P・・・オルター・グロバリーゼーションの内容をもつオルタナティブ・テクノロジー(AT)
AT論の詳しい展開があります。これが後の高木さんの科学のあり方論の原型を示しています。詳しく書きたいのですが、長くなるので割愛、後で高木さんの科学論とリンクさせて改めて対話したいのですが、とりあえず割愛します。
科学や技術だけの問題ではない、むしろ生き方、関係のあり方総体の問題
「「科学」や「知」や「技術」への志向が、ひとり科学や技術によって問題を解決できるという発想に転化しない限りにおいて、私はかかわっていきたいと思います。」161-162P・・・高木さんの市民の科学者として出発点的決意表明的文
パラダイム論は廣松さんのパラダイムチェンジ論との対話の中で、もっと深化できるのではないかと思っています。
「いま、普段着の科学者として考えること」
高木さんの母校―東大での学生向けの2回にわたる講演の記録。
一回目は高木さんの科学者としての個人史的遍歴は別な本でも出て来るのですが、ここでより詳しい展開です。
二回目は、それに続いて、科学者としてのあり方、科学のあり方について話しています。「政治の論理だけでない、科学自身の中にやっぱり問題とすべき種がしかけられているのではないか」202Pという小見出しにもなっている問いかけがあります。政治主導の巨大科学・テクノロジー批判です。人間の側に科学技術を引き寄せる215Pという提起につながっていて、著者が作った人間―科学・技術―政治・経済のトライアングルの図199Pがあり、人間に普段着、科学技術・テクノロジーに実験着・作業着、政治・経済に背広という対比させた展開があり222P、この論攷の表題の「普段着」につながっているのです。
「危機の科学」
元々、「科学の危機」というところで書こうとしていたのが、チェルノブイリの事故を受けで、危機感の中で、「危機の科学」となったという論攷です。これは巻末の西尾さんの「解題」の中に書かれています。
これは高木さんの巨大科学・テクノロジー批判の端緒とでもいうべき記念碑的論攷です。
「1章70年代の宇宙科学」「2章 70年代の原子力」で巨大科学・巨大技術をとりあげています。「3章 見えはじめた分岐」で巨大技術に対する適正技術としてATが分岐してきていること。「4章 危機の科学」はタイトルの本題。「5章 批判から変革へ」で、巨大科学への批判と未来のあり方を展開しています。
書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
原子力をはじめとする巨大科学は聖書のなかにあるバベルの塔的なこととしてあると冒頭に出てきます。229P
そして、三者(人間―科学・技術―政治・経済)の対話不能さの現実を書いています。236P
「国家科学」として巨大科学が現れているという指摘。238P
最初に数字があった・・・何パーセントを原子力でまかなうかという設定261P・・・巨大科学が立ち現れてくるときの流儀
コンピューターでの机上の想定していく実証性のない巨大科学266P
環境工学、生態学の危うさ287P・・・環境工学と名付けて細分化された専門家を寄せ集め、それらを総合化してとらえる観点がない。問題を一気にグローバルなものに還元することによって、個々の汚染に関係した企業の責任や科学技術のあり方を問わない一部の生態学者。
ソフト(・エネルギー)・パス288P・・・「異質な最終用途(エネルギーを用いてわれわれがおこなおうとする多くの異なる仕事)を、各々の仕事にもっとも効率的なやり方で供給された最小のエネルギーで満たすか」という発想から出発し、「より効率的なエネルギーの使い方と適当な再生可能エネルギーに頼るやり方」
国家プロジェクトとしての推進319P
教育―技術立国・愛国心ということでの突きだし
軍事技術と結びつく傾向
支配原理の異なる2つの世界(科学・化学の世界と自然的・生物的世界)の境界に様々な矛盾を経験344P
遺伝子工学 核 スペースシャトル
人間の側の論理や感性の優位を回復しなければならない344P
科学の中立論と科学者の社会的責任論の崩壊345P・・・国家が科学者軽視していた時代には有効だったが、国家が科学を国家プロジェクトとして推進していく時代には機能しない、むしろ巨大科学批判として展開する必要
巨大科学と国家プロジェクトへの人間の立場からの批判346P
トリレンマ・・・三極(人間―科学・技術―政治・経済)への分離347P
矛盾を積極的に背負い込む中での市民の科学・・・根拠地作り348P
ソフトな社会とハードな社会349P・・自然破壊的でテクノラート管理社会−ハードな社会とそれに対するアンチテーゼとして出てきたソフトな社会。
「統一性をもった体系」354P・・・「自然と人間の関係に関わるもの」と「人間と人間の関係、科学技術の社会的あり方に関わるもの」という二つのカテゴリーが両立し得るような「統一性をもった体系」
「私は“ソフトな社会”の青写真を描くことに性急であるよりも、現在社会の批判的とらえなおしこそが“ソフトな社会”の展望を豊かににすると思う。」355P・・・共生とド・イデ(理念や理想を求めるのではない、現実の矛盾に対する闘争)
本書の問題意識
「問題をなるべく生の形で、いわば進行する流れのなかでとらえ、評価し、状況に切り込んでいく」357P
「「暗い予感」が現実にひとつひとつ現実化し、「危機の科学」が一層浸透していくと感じさせるような出来事が、これからも次々と起こっていくことだろう。」358P・・・予感は原発震災として現実化した。
「わが内なるエコロジー」
これはエッセイ風の文で高木さんのエコロジーへの思いと実践を書いています。
「科学は変わる」と「いま、自然をどうとらえるか」と自然観でつながっているのではないかと感じています。高木さんのそこでの代表作のひとつとして記せるのではないかと思っています。まだ高木さんの論攷の全体像もとらえかえせていないのですが、そのとらえ返しの作業の途中で、自然観三部作と密かに押さえています。
三部構成になっています。「第一部 二つの自然像」は著者の中にもあり、引き裂かれている二つの自然像、「第二部 科学知の変革」は科学者でもあった宮沢賢治との著者の対話と哲学者の花崎さんとの対談です。「第三部 生活の変革−「実験としての生活」」は、実験科学者から出発し「市民の科学者」を標榜するようになる著者が「生活の実験」というところでのエコロジー的実践を記しています。
この論攷を読んでいると、このひとは共同体論的なことも含めてエコロジー的なことを実践にも踏み込もうとしたのだということを押さえられます。わたしはエコロジーはまさに机上の論としての域を出ないのですが、高木さんはまさに実践的にも踏み込もうとしていて、そして単にエコロジーということだけでなく、ということよりも、エコロジーということの中に含まれる、ひととひとの関係のあり方と、いうことも含めたエコロジー的な実践の試行もあったのだということが、このエッセー的な文の中で示されています。
ここでも、書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
二つの自然その中での揺れ動きに身を任せる402P
著者にとって自然は科学の対象としての自然と身近な自分の生活の中でいきる糧・条件としての自然に引き裂かれるということがあったのです。市民の科学者として、そのことの「統一」への道を歩もうとしたのでは。
「自分たちのもの」ではなく403P
「(海は)子や孫や、魚を食べるすべての人たちのもの」402P
「直接のやりとりとしての自然と社会を媒介にした自然」404P
観念的な共生を、宮澤賢治と旅から実感としてつかむ405P
旅・・・ 生き方そのものが思想という人たちとの出会い406P
自然への回帰ではない、一歩進めるもの406P
民衆の歴史 生活者の地平
実人生がその一環であるようなあり方においてしか、賢治にとっての科学は存在しえなかった。430P
レゾナンスとコンゾナンス443-444P
共鳴・・レゾナンス、協和・・・コンゾナンス、著者は全く同一性のものとしての共鳴ではなく、多様性の中での協和ということでの運動論を考えているのです。
「雪中炭」と「錦上花」458P
「毛沢東が『文芸講話』の中で、文芸における普及と向上を論じて、「雪中炭を送る」こと、つまり大衆のもっとも切実な要求に奉仕する態度と、「錦上花を添える」こと、つまり芸術としての向上を第一に考える態度を対比してみせています。それをわたしは「雪中炭」型と「錦上花」型とに類型化してみたんです。」・・科学も専門化としての道をひた走る「錦上花」型に対して、著者は「雪中炭」型の立場から批判しています。
「やはり問題の核心は技術の問題としてあるのではなく、人間相互の関係のあり方と、人間の自然に対する向き方の問題としてあるのだということが、私(たち)の問題意識である。共同の作業にあたる人々の関係の質、共同性の深さに応じてこそ、ひとつの技術は、真に民衆のものとして機能しうると、多少の経験も踏まえて考えるからである。」503P
「反原発・エコロジーについて」
講演録で、エコロジー論をきちんと展開しています。
「機.┘灰蹈検爾浪燭世蹐Δ」と「供.┘灰蹈検嫉彖曚寮立」でエコロジー論、「掘.┘灰蹈献坤爐糧稟重検討―マルクス主義と対比させて」、「検.┘灰蹈検識親阿里海譴ら―その批判的検討」と続きます。
わたしの問題意識で注目したのは、靴妊泪襯ス主義とエコロジーの関係にかなり突っ込んでコメントしていることです。
ただ、わたしは高木さんのマルクス主義のとらえかたが、どうも官許マルクス主義と批判されていることから抜け出せていないのではないかと思っています。
さて、わたしはそもそもマルクス主義とは何かということを考えています。よく、マルクスの影響を受けているひとで、「わたしはマルクス主義者ではない」という主張をしているひとに出会います。これにはわたしは二つのパターンがあると思っています。ひとつは、マルクスの理論を一部とりあげて自分の理論の中にとりいれているけれど、マルクスの理論には基本的に賛同し得ないという主張です。賛同し得ないというところの、よくある例としては、共産主義革命論です。これもいろんな細分化できるパターンがあって、革命の可能性はないと断言するひとから、それは困難だから、わたしはとりあえず、現在社会の枠組みからことを論じていくのだ、というパターン。また、過去のマルクス主義者の引き起こした運動への反発、またマルクスなどの共鳴を口にすると、学者として飯が食えなくなる、などなど、・・。
もうひとつは、そもそもマルクス主義ということが教条化され、マルクスへの個人崇拝のようなことが起きていることへの批判です。わたしもこの立場なのですが、そもそも、ひとの名を冠した○○主義などということが個人崇拝生む、反差別というような立場に立つものは個人崇拝のようなことは受け入れられないので、個人の名を冠した、「マルクス主義」などという表現は受け入れられないという立場があります。そもそもマルクスが「わたしはマルクス主義者ではない」といったことにもそれはつながっています。
そしてマルクス主義ということでは、マルクス−レーニン主義という三重に教条化された(すなわちマルクス主義という教条化、レーニン主義という教条化、さらにマルクスとレーニンを一体化させる教条化)が主流のマルクス主義として君臨してきた歴史があります。
さて、そもそもマルクス主義を口にするひとは大方、マルクスの思想を曲解した上で、それを教条主義的にとらえている、いわゆる官許マルクス主義なり(これはコミンテルンを支配したロシアマルクス主義の官許マルクス主義という意味です)、主流のマルクス主義ということがマルクスの思想をきちんと発展的に継承し得なかったという問題があります。
たとえば、マルクスの労働価値説や、マルクス主義フェミニズムの家事は労働力生産再生産労働だという規定があります。これはあまくまで、資本主義社会においては、労働が価値を生み出すかのような、家事が労働力の生産再生産活動のような物象化をもたらすということなのだと、これがマルクスがいわんとしたことだと、わたしは押さえています。そもそも「『資本論』は物象化ということで貫かれている」という廣松派の指摘があるのですが、それを物象化としてとらえないで、マルクスを資本主義の単なる分析家、国民経済学の完成者としておさえるような錯誤が起きているのです。ですから、「マルクスの労働というとらえ方がおかしい」とかいう、高木さんの批判もそこから出て来るのです。マルクスの思想をちゃんと押さえていくと、マルクスは労働の廃棄を訴えているとなります。それは今村仁司さん的にいえば、「労働から仕事への転換」ということになっていきます。
日本の「障害者」の間では、青い芝の「労働は悪だ」とか「介助を受けるとき腰を上げるのも労働だ」とか言う提起がありました。前者は労働の廃棄から仕事への転換ということでそのまま受け入れられ、後者は、それは労働ではなくて仕事という概念で押さえるということではないかと思います。
だいぶ、読書メモということを踏み外してしまいました。
いつものように印象に残ったところを、メモとして残しておきます。
「核と自然という現代社会の直面する二つの大きな問題」512P
「ドイツ語では「収奪」と「開発」は全く同じ言葉を使うのですが、これは一つの言葉に二つの意味があるというよりは、概念的に同じようなものと考えた方がいいと思います。」516P
「人間と自然の対峙でなく、人間を生態系の中でとらえ返す。」517P
「民衆のための」でなく、「民衆による」519P
8つの課題(資源の問題/安全性―命の問題/巨大な都市ではだめという都市の問題/反戦の問題/人口の問題―第三世界の問題/女性解放の問題/「自由」―反管理の問題)を出し、それを3つ(自然との共生、反戦、反差別・反管理)にまとめています。521-522P
運動形態・・草の根主義と非暴力直接行動522P
マルクスが労働を軸に立てているという批判523P・・マルクスは資本主義社会では労働を軸にたてられると批判しています・・・誤解
「マルクス主義では、生活は労働力の生産・再生産過程と位置付けられますから」526P・・・マルクスは資本主義社会では「生活は労働力の生産・再生産過程」という物象化が起きると言っているのです。・・・高木さんのマルクスのとらえ返しへの疑問
エコロジーの「強み」と「弱さ」527P 534P
「自分の身の回りの生活批判を通じて、」「生活領域の問題をひとつの総合的観点からとりあげ得たことによって、エコロジズムが新鮮な魅力をもった。」527P
「例えば食品添加物とか洗剤とかいった問題から、もっと大きな構造―例えば第三世界の人々との関係―に迫るというのは、そう簡単なことではないでしょう。エコロジズムが一方において身の回り主義になったり、他方できわめて抽象的な自然愛好に陥ったりする弱さ多くもっていることを指摘しておかなくてはならないでしょう。」527P
ジグソーパズルのはめ絵の例で、マルクス主義は行く先の絵が見える、しかし、ひとつひとつのコマとコマがどう結びつき合っていくのかがなかなか見えない。エコロジーはコマとコマがこう合うという形で問題をたてなおした、しかし将来の社会像が見えない。534P・・・反差別というところでエコロジーとマルクス的な社会変革論というふたつのことを、そしてすべてのことをつなげていけるのではないか
多様性536p
「弁証法というのは、二つの対立物の対立のダイナミズムを前提としています。運動論としては一つの主張への共鳴理論で、対立が止揚されて共鳴していくという感じです。しかしエコロジズムは多様性に立脚していますから、単一主張での共鳴ではなく、多様な主張を認めあったうえでの共同(協働)という方法論を育てなくては駄目です。」・・・多様性ということの中にある「違い」ということの意識の検証
「地球にとって大事なのは水と土なんだ」536P・・・太陽も
自然主義批判537P
「(総体的・「社会的」観点のない・・引用者)自然科学的自然観だけでは結局、自然モデルに人間を従属させる、自然の規範に人間を従わせるという“自然主義”にしかならなくて解放的ではありません。・・・(解放的な方向での議論の・・・引用者)そのひとつに、ラブロックの「ガイア理論」があります。これは、地上の生物の共生は、与えられた地物的条件に単に適合して生物が生きるということではなくて、生物が自己の生存の条件を主体的につくり出し、次第に豊かに成熟させていく、そういう協働作業だという考え方です。その意味で多様な生命の共生は、ひとつの文化を成熟させているという風に考えてもよい。」
「少数派の力を見なおす」
コワイということでは力にならない、理屈で理解しても運動には結びつかない、そこには共感というようなことが必要という主張をしています。
そして、少数というが力になる、少数ということを前提にして出発するという展開をしています。
また、共鳴ということよりも、多様性を認め合う、協和―ハーモニーという運動のあり方を提起しています。
そして、学問の方法を運動に(これは端的には自分を突き放してみる観点で必要とされることとして)、運動の方法を学問にという提起をしています。
「共著者の論文」
・「化学の危機から変革の科学へ 現代科学の問題としての原発」
いままでの科学の立て方を問題にしています。
わたしは自由競争ということで取り返しのつかないことをしていく、作り出して後から対処していくというやりかた、専門家の中で全体を見渡せないようになっている、と要約していました。
高木さんは5つの項目で展開しています。生産性・創造性の喪失/観念性と虚構性/巨大になりすぎた科学技術/細分化に伴う退廃と大衆遊離/管理強化と差別抑圧の進行
・「風車・反原発・三里塚 運動に新しい風を」
津村喬さんの司会、前田俊彦さん、橋爪健郎さんとの高木さんの対談です。
地域で風車を作った橋爪さんと三里塚の運動をしていた前田さん、反原発の高木さんの組み合わせ、新しい地域に根ざした開かれた運動を語っています。少数な単位での小さい地域からの地域に根ざした運動を開かれた運動として展開していこうという試みを語っています。将来のコミュニティのありかたのようなことが垣間見れます。問題はそれが総体的なあり方として、どうつなげていけるのかということなのですが、・・。
・「ソフトさとは何か ソフト・パスへの一視点」
ロビンソンのソフト・エネルギー・パスという論攷に対するコメントです。
ロビンソンは、社会のあり方ということとは切断して、エネルギーのあり方を論じていて、それがソフト・エネルギー・パスという、再生可能な自然エネルギーへの転換の主張なのです。著者はそれはそれで評価するし、賛成するけど、人間の対自然・対社会の2つの関係は共軛的という主張で629P、エネルギー(得る方法)だけの問題ではない、ソフトな太陽型の社会、ソフトな社会へのパスが必要、ソフトなパスの問題ではないという展開です。
「未公開資料」
いずれも『ぷろじぇ』に掲載された原稿です。70年代初期の全共闘運動の影響を受けた科学論・科学者論です。本格的に本の出版をする以前の論攷です。科学論とて展開される基礎的な哲学的論攷もあり、そしてマルクスの流れへのコメントがとてもわたしの問題意識では、刺激的であり参考になりました。
・「自然―人間―科学 試論」
その1 広重と渡部 その2 マルクス主義 その3 哲学総体
これは著者の哲学的な所への対話になっています。とりわけマルクス/エンゲルスへのコメントがわたしの中でこれまで考えていた、反差別論、進歩史観批判とリンクしました。
この論攷は、もう一度読み直して、きちんと対話したいと思っています。学習会などで使える論攷ではないかとも思っています。
とりあえずメモを残して置きます。
対象化された<知>の地平の明るみにおいてのみ把握することのあやまり、主体的人間を自然と対峙させる外的な存在としてとらえることのあやまり、ということが書かれています。
未知の自然―知り得ないものがあるというところから出発する必要が書かれています。
進歩という概念のとらえ返しの必要性を展開しています。・・深化の概念からのとらえ返し
高木さんの思想を要約するような印象的な2つの文「自然と自分との関係性が当然自己に強いてくる全人間的な問いかけをはっきりさせたいのである。そのことの中に近代知の構造を変革し、近代科学における価値観の転換のための鋭角的な突破口を求めているのである。」「自然科学者が自然という対象に対して、原初感性的に抱くであろう意識に切り結ぶことができれば、即ち言葉を換えれば、自己と自然との関係をそこまで普遍化することができれば、個別科学者をしてその個別科学の現場感覚から人間としての現場感覚に立ち戻らせ得ることができるであろう。」646P
科学の私有性652P
マルクスの対話からする私有性批判 エンゲルス640P その2の冒頭マルクスの引用などマルクス/エンゲルスの思想の検証として重要なコメントも出ています。
自然との交流―相互関係こそが人間性の証し658P
(自然)科学における展望は、私有性を否定することの中にある662P
マルクスが哲学から入ったように高木さんにも、初期に哲学的なところからとらえかえそうという指向があったことがとらえられます。・・・自然との交流を出発点にするというところからの世界観と哲学
・「折原書簡を読んで」
折原さんは教育学園闘争の中で授業の正常化を拒否して処分された教員です。その事へのコメント、高木さんは、むしろ中にいるところでの模索というみちがあったのではないかと、一応大学に残ったひとですが、何年か後に結局大学を辞めています。それこそ、当時科学をやっていたひとのいろんな選択があったのですが、高木さんは出版したものでは、あまり、教育学園闘争にふれていなくて、当時の時代情況の中でどうしていたのかがとらえられなかったのですが、やはり、教育学園闘争から多大な影響をうけていたのだということが、この文の中でとらえられました。
・「討論機叔瀘啝瓩悗亮蟷罅
エンゲルスからスターリンにつながる自然弁証法の基底性、自然史的歴史的必然性というのは、マルクスまでさかのぼれるという高木さんのとらえ返しです。それは生産力の発達と生産関係の矛盾が革命の力になるというとらえ方自体に問題があったという指摘です。生産力の発達というところでの進歩史観があるのです。それは科学の発達というところにバラ色の夢を抱いたということともつながっていきます。むしろ、科学が何をもたらしたかの批判もでています。そのあたりは、無限の経済発達という観念や、科学の無限の発達という観念自体に問題があるとも言えます。
廣松さんの文へのコメントも書かれています690P・・生産力と生産関係の矛盾というところからの革命という押さえ方への批判です。・・・生産力の発達というころに展望を見いだす、マルクスの進歩史観・発達史観への批判ということなのでしょう。
自然と対峙しつつ、自然であり続ける人間の弁証法―こそが、実証性の地平を越えた唯物弁証法として求められている690P
自然としての人間と自然と対峙する人間という中にあるがままの人間とみる。この永続的止揚の実践こそが人間の全体的過程(「全体化」という語に違和感、「歴史的行動」という意味?)
知と不知の弁証法 知の構造変革をその枠組みでとらえる692P
マルクスの限界699P
「解説」・・・高木さんと何回か対談してかなり共鳴していた哲学者の花崎さんの解説です。花崎さんの対話の続きのような解説です。
よくまとまっていて、わたしのメモなどよりも、これを読んでと言いたい内容です。
ただ、マルクスとの対話では、わたしにとって疑問を感じることが書かれています。
「解題」・・・高木さんが立ち上げた原子力資料室の共同代表の西尾さんの文です。この巻に収められている論攷の背景のようなことを書いてくれています。著作集の各巻にも同じ「解題」があるようです。
「市民科学通信」
高木さんと関わっていた人たちの高木さんのひととなりが伝わってくる思いでの記が小冊子として挟まれています。これは各巻に付録的についていて、同じタイトルで本になっています。
エコロジー関係の本を読むときは、なぜこんな自明なことが通じないのかという暗い気持ちになるのですが、高木さんの本を読むと、何かやすらぎのようなことを感じています。廣松さんの本も自分の居場所に帰ってきたというようなところがあるのですが、高木さんの本にもそんなところがあるのです。
さて、高木さんには反差別という立場性がはっきりしていて、そこでエコロジー論を展開しています。エコロジーの運動はときとして、他の問題と切り離して、エコロジーというところだけで閉じている事が多いのですが、このひとは開いているエコロジー論です。
このあたりは、階級闘争やプロレタリア革命論が反差別ということを欠いていることとかにもつながっていて、わたしは反差別というところで開いた運動が階級闘争やプロレタリア革命論、そしてエコロジーにも必要なのだと考えています。
たわしの読書メモ・・ブログ190
・高木仁三郎『高木仁三郎著作集第7巻 市民科学者として生きる機拏靴朕構餞2002
高木さんの本で絶版になっている本が多く、古本で探しても、フクシマ原発震災以降あっという間に、売れてしまいました。いくつか買い求め、復刊されたものもあったのですが、初期の頃の本で手に入らない本がありました。ちょうど、その探していた本が、著作集の7巻に集中していたので、買い求めました。相当の厚手の本、所収されている論攷に少しずつメモを残していきます。
実験化学者として出発した著者の立場から実践ということの大切さを学び、そして何よりも、わたしのなかにあったマルクスの発達史・進歩史観批判の核心のようなことがエコロジーとむすびついていることが明らかになりました。わたしの中で一つの転換点になるような本です。
「科学は変わる」
これは初期の頃の作品で、この作品の中に後に詳しく展開されるいろんなことが萌芽的に織り込まれています。巨大科学・テクノロジー批判、地産地消、市民の科学という内容の展開です。
AT(いくつかの語の略語になっているのですが、主にオルタナティブ・テクノロジーの略語)というポジティヴな突き出しもあります。
いつものように印象に残ったところを記しておきます。
担子菌の「改良」をしようとして松を枯らすことになったという事例39P
「「原子炉の大事故はめったに起こらない」というのは、結論でなく、いわば出発点だった」64P・・・そういうことにして出発したという意味。
「自然現象に制約されることのないエネルギー」の虚構73P
原爆製造に携わった科学者の叫びの引用80P
「科学者なんか一列に並べて銃殺してしまえという連中を、非難するわけにはいかない気がする。・・」
巨大科学においては実証の方法を科学は駆使できなくなる96P
エネルギーに関するパラダイムの変換に関する5冊の本の紹介101P
知的努力の好ましい方向付け119P
不平等を減らすこと 抑圧を減らすこと 自然と人間の関係の総合化 実践を媒介とした知の相対化
ムラサキツユクサのおしべが放射能汚染で、おしべの毛の色が青からピンクに変わるという生活的実践的観測の話130P
知の在り方、方向付け
「知は実践と分ち難く結びついています。実践に照らして知の確からしさを検証し、絶対的なものとして知がひとり歩きすることを防いでいく、そのような知のあり方が可能になっていくためには、人々が共通の実践に立ちうること、言いかえれば、差別や抑圧のない人と人の関係が絶対的な条件となります。人と人の関係において、支配―被支配という関係が徐々にせよ克服され、商品を通じての人と人の結びつきという関係が、より人間的な交流へと深化していくとき、そのときにのみ、私たちの自然に対する共通認識も深まりうると考えられます。そのような知のあり方を好ましいと考え、その方向に「科学」も方向づけていくべきだというのが私の考える方向づけです。」131-132P・・・高木さんの反差別的科学論の神髄・・「フェイルバッハに関するテーゼ」(「これまでの唯物論・・・」「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない・・・」)との結びつき
運動のありかた
「(ベトナム反戦の“正義の闘い”が)正義を実現するために、最大限に有効な運動の組織化が求められました。その結果、運動が機能的になり、力が強い、文章が達者だ、演説がうまい……等々、何らかの有能性にフルに頼った役割分担ができ上がり、そのような有能さを発揮できない人は追従していくだけという運動構造ができ上がりました。本来、反戦平和の運動が目指しているはずの差別や抑圧のない理念とは、まったく相反した運動の構造ができ上ったわけですが、・・・そのような歪みが、運動に参加した多くの人々を落胆させました。・・・ベトナム停戦より前に、運動は急速にしぼんでいったと・・」138P高木さんが引用した文です。・・・運動自体がどのような関係を求めているのかという目的を体現しつつ、その運動の現在性の中に関係性のあり方を示している・・イズム論
「従来の運動がある一つの情勢認識やそれに伴う闘争課題をあらかじめ打ち出し、それに従って最も有効なように運動を設定していくものであったのと対照的に、この運動は、人々の生活の抱える問題から出発して、運動を進める中で共通認識を深め、それに従って共同の行動をしていこうとしていることです。つまり、路線の絶対的正しさや“正義”の度合いが、運動の強さ、力になっているのではなく、人々の共通認識の深さが共同の行動への原動力となっていくということです。」139P・・・反差別というところでの共通認識の形成というところからのエコロジー論、そしてすべての運動論
市民の科学のはじまり
「(専門性をもった権威者に頼ろうとする傾向があったし、あるけれど、・・引用者)権威者は、専門性という利害関係をひきずっており、その発想は、市民・住民の発想とは大幅に異なります。科学や技術のそもそものあり方をめぐって、問われるはずの問題が、専門家同士の代理戦争となり、いつしかすでに述べたような問題設定→パズル解きの文脈の中に解消されてしまいます。/そのような経験を経ながら、最近では、市民・住民運動は、認識の主体を自分たちととらえて、そこに既存の専門性を取り込んでいく、という方向に踏み出しているように思えます。」141P
AT
ATの二つの意味・・適正技術(アプロブリエイト・テクノロジー)、もうひとつの技術(オルタナティブ・テクノロジー)
先進国における物質文明の批判といわゆる第三世界の自立的経済発展をめざすというふたつの流れ146P・・・オルター・グロバリーゼーションの内容をもつオルタナティブ・テクノロジー(AT)
AT論の詳しい展開があります。これが後の高木さんの科学のあり方論の原型を示しています。詳しく書きたいのですが、長くなるので割愛、後で高木さんの科学論とリンクさせて改めて対話したいのですが、とりあえず割愛します。
科学や技術だけの問題ではない、むしろ生き方、関係のあり方総体の問題
「「科学」や「知」や「技術」への志向が、ひとり科学や技術によって問題を解決できるという発想に転化しない限りにおいて、私はかかわっていきたいと思います。」161-162P・・・高木さんの市民の科学者として出発点的決意表明的文
パラダイム論は廣松さんのパラダイムチェンジ論との対話の中で、もっと深化できるのではないかと思っています。
「いま、普段着の科学者として考えること」
高木さんの母校―東大での学生向けの2回にわたる講演の記録。
一回目は高木さんの科学者としての個人史的遍歴は別な本でも出て来るのですが、ここでより詳しい展開です。
二回目は、それに続いて、科学者としてのあり方、科学のあり方について話しています。「政治の論理だけでない、科学自身の中にやっぱり問題とすべき種がしかけられているのではないか」202Pという小見出しにもなっている問いかけがあります。政治主導の巨大科学・テクノロジー批判です。人間の側に科学技術を引き寄せる215Pという提起につながっていて、著者が作った人間―科学・技術―政治・経済のトライアングルの図199Pがあり、人間に普段着、科学技術・テクノロジーに実験着・作業着、政治・経済に背広という対比させた展開があり222P、この論攷の表題の「普段着」につながっているのです。
「危機の科学」
元々、「科学の危機」というところで書こうとしていたのが、チェルノブイリの事故を受けで、危機感の中で、「危機の科学」となったという論攷です。これは巻末の西尾さんの「解題」の中に書かれています。
これは高木さんの巨大科学・テクノロジー批判の端緒とでもいうべき記念碑的論攷です。
「1章70年代の宇宙科学」「2章 70年代の原子力」で巨大科学・巨大技術をとりあげています。「3章 見えはじめた分岐」で巨大技術に対する適正技術としてATが分岐してきていること。「4章 危機の科学」はタイトルの本題。「5章 批判から変革へ」で、巨大科学への批判と未来のあり方を展開しています。
書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
原子力をはじめとする巨大科学は聖書のなかにあるバベルの塔的なこととしてあると冒頭に出てきます。229P
そして、三者(人間―科学・技術―政治・経済)の対話不能さの現実を書いています。236P
「国家科学」として巨大科学が現れているという指摘。238P
最初に数字があった・・・何パーセントを原子力でまかなうかという設定261P・・・巨大科学が立ち現れてくるときの流儀
コンピューターでの机上の想定していく実証性のない巨大科学266P
環境工学、生態学の危うさ287P・・・環境工学と名付けて細分化された専門家を寄せ集め、それらを総合化してとらえる観点がない。問題を一気にグローバルなものに還元することによって、個々の汚染に関係した企業の責任や科学技術のあり方を問わない一部の生態学者。
ソフト(・エネルギー)・パス288P・・・「異質な最終用途(エネルギーを用いてわれわれがおこなおうとする多くの異なる仕事)を、各々の仕事にもっとも効率的なやり方で供給された最小のエネルギーで満たすか」という発想から出発し、「より効率的なエネルギーの使い方と適当な再生可能エネルギーに頼るやり方」
国家プロジェクトとしての推進319P
教育―技術立国・愛国心ということでの突きだし
軍事技術と結びつく傾向
支配原理の異なる2つの世界(科学・化学の世界と自然的・生物的世界)の境界に様々な矛盾を経験344P
遺伝子工学 核 スペースシャトル
人間の側の論理や感性の優位を回復しなければならない344P
科学の中立論と科学者の社会的責任論の崩壊345P・・・国家が科学者軽視していた時代には有効だったが、国家が科学を国家プロジェクトとして推進していく時代には機能しない、むしろ巨大科学批判として展開する必要
巨大科学と国家プロジェクトへの人間の立場からの批判346P
トリレンマ・・・三極(人間―科学・技術―政治・経済)への分離347P
矛盾を積極的に背負い込む中での市民の科学・・・根拠地作り348P
ソフトな社会とハードな社会349P・・自然破壊的でテクノラート管理社会−ハードな社会とそれに対するアンチテーゼとして出てきたソフトな社会。
「統一性をもった体系」354P・・・「自然と人間の関係に関わるもの」と「人間と人間の関係、科学技術の社会的あり方に関わるもの」という二つのカテゴリーが両立し得るような「統一性をもった体系」
「私は“ソフトな社会”の青写真を描くことに性急であるよりも、現在社会の批判的とらえなおしこそが“ソフトな社会”の展望を豊かににすると思う。」355P・・・共生とド・イデ(理念や理想を求めるのではない、現実の矛盾に対する闘争)
本書の問題意識
「問題をなるべく生の形で、いわば進行する流れのなかでとらえ、評価し、状況に切り込んでいく」357P
「「暗い予感」が現実にひとつひとつ現実化し、「危機の科学」が一層浸透していくと感じさせるような出来事が、これからも次々と起こっていくことだろう。」358P・・・予感は原発震災として現実化した。
「わが内なるエコロジー」
これはエッセイ風の文で高木さんのエコロジーへの思いと実践を書いています。
「科学は変わる」と「いま、自然をどうとらえるか」と自然観でつながっているのではないかと感じています。高木さんのそこでの代表作のひとつとして記せるのではないかと思っています。まだ高木さんの論攷の全体像もとらえかえせていないのですが、そのとらえ返しの作業の途中で、自然観三部作と密かに押さえています。
三部構成になっています。「第一部 二つの自然像」は著者の中にもあり、引き裂かれている二つの自然像、「第二部 科学知の変革」は科学者でもあった宮沢賢治との著者の対話と哲学者の花崎さんとの対談です。「第三部 生活の変革−「実験としての生活」」は、実験科学者から出発し「市民の科学者」を標榜するようになる著者が「生活の実験」というところでのエコロジー的実践を記しています。
この論攷を読んでいると、このひとは共同体論的なことも含めてエコロジー的なことを実践にも踏み込もうとしたのだということを押さえられます。わたしはエコロジーはまさに机上の論としての域を出ないのですが、高木さんはまさに実践的にも踏み込もうとしていて、そして単にエコロジーということだけでなく、ということよりも、エコロジーということの中に含まれる、ひととひとの関係のあり方と、いうことも含めたエコロジー的な実践の試行もあったのだということが、このエッセー的な文の中で示されています。
ここでも、書かれていることで印象に残ったことをメモとして残しておきます。
二つの自然その中での揺れ動きに身を任せる402P
著者にとって自然は科学の対象としての自然と身近な自分の生活の中でいきる糧・条件としての自然に引き裂かれるということがあったのです。市民の科学者として、そのことの「統一」への道を歩もうとしたのでは。
「自分たちのもの」ではなく403P
「(海は)子や孫や、魚を食べるすべての人たちのもの」402P
「直接のやりとりとしての自然と社会を媒介にした自然」404P
観念的な共生を、宮澤賢治と旅から実感としてつかむ405P
旅・・・ 生き方そのものが思想という人たちとの出会い406P
自然への回帰ではない、一歩進めるもの406P
民衆の歴史 生活者の地平
実人生がその一環であるようなあり方においてしか、賢治にとっての科学は存在しえなかった。430P
レゾナンスとコンゾナンス443-444P
共鳴・・レゾナンス、協和・・・コンゾナンス、著者は全く同一性のものとしての共鳴ではなく、多様性の中での協和ということでの運動論を考えているのです。
「雪中炭」と「錦上花」458P
「毛沢東が『文芸講話』の中で、文芸における普及と向上を論じて、「雪中炭を送る」こと、つまり大衆のもっとも切実な要求に奉仕する態度と、「錦上花を添える」こと、つまり芸術としての向上を第一に考える態度を対比してみせています。それをわたしは「雪中炭」型と「錦上花」型とに類型化してみたんです。」・・科学も専門化としての道をひた走る「錦上花」型に対して、著者は「雪中炭」型の立場から批判しています。
「やはり問題の核心は技術の問題としてあるのではなく、人間相互の関係のあり方と、人間の自然に対する向き方の問題としてあるのだということが、私(たち)の問題意識である。共同の作業にあたる人々の関係の質、共同性の深さに応じてこそ、ひとつの技術は、真に民衆のものとして機能しうると、多少の経験も踏まえて考えるからである。」503P
「反原発・エコロジーについて」
講演録で、エコロジー論をきちんと展開しています。
「機.┘灰蹈検爾浪燭世蹐Δ」と「供.┘灰蹈検嫉彖曚寮立」でエコロジー論、「掘.┘灰蹈献坤爐糧稟重検討―マルクス主義と対比させて」、「検.┘灰蹈検識親阿里海譴ら―その批判的検討」と続きます。
わたしの問題意識で注目したのは、靴妊泪襯ス主義とエコロジーの関係にかなり突っ込んでコメントしていることです。
ただ、わたしは高木さんのマルクス主義のとらえかたが、どうも官許マルクス主義と批判されていることから抜け出せていないのではないかと思っています。
さて、わたしはそもそもマルクス主義とは何かということを考えています。よく、マルクスの影響を受けているひとで、「わたしはマルクス主義者ではない」という主張をしているひとに出会います。これにはわたしは二つのパターンがあると思っています。ひとつは、マルクスの理論を一部とりあげて自分の理論の中にとりいれているけれど、マルクスの理論には基本的に賛同し得ないという主張です。賛同し得ないというところの、よくある例としては、共産主義革命論です。これもいろんな細分化できるパターンがあって、革命の可能性はないと断言するひとから、それは困難だから、わたしはとりあえず、現在社会の枠組みからことを論じていくのだ、というパターン。また、過去のマルクス主義者の引き起こした運動への反発、またマルクスなどの共鳴を口にすると、学者として飯が食えなくなる、などなど、・・。
もうひとつは、そもそもマルクス主義ということが教条化され、マルクスへの個人崇拝のようなことが起きていることへの批判です。わたしもこの立場なのですが、そもそも、ひとの名を冠した○○主義などということが個人崇拝生む、反差別というような立場に立つものは個人崇拝のようなことは受け入れられないので、個人の名を冠した、「マルクス主義」などという表現は受け入れられないという立場があります。そもそもマルクスが「わたしはマルクス主義者ではない」といったことにもそれはつながっています。
そしてマルクス主義ということでは、マルクス−レーニン主義という三重に教条化された(すなわちマルクス主義という教条化、レーニン主義という教条化、さらにマルクスとレーニンを一体化させる教条化)が主流のマルクス主義として君臨してきた歴史があります。
さて、そもそもマルクス主義を口にするひとは大方、マルクスの思想を曲解した上で、それを教条主義的にとらえている、いわゆる官許マルクス主義なり(これはコミンテルンを支配したロシアマルクス主義の官許マルクス主義という意味です)、主流のマルクス主義ということがマルクスの思想をきちんと発展的に継承し得なかったという問題があります。
たとえば、マルクスの労働価値説や、マルクス主義フェミニズムの家事は労働力生産再生産労働だという規定があります。これはあまくまで、資本主義社会においては、労働が価値を生み出すかのような、家事が労働力の生産再生産活動のような物象化をもたらすということなのだと、これがマルクスがいわんとしたことだと、わたしは押さえています。そもそも「『資本論』は物象化ということで貫かれている」という廣松派の指摘があるのですが、それを物象化としてとらえないで、マルクスを資本主義の単なる分析家、国民経済学の完成者としておさえるような錯誤が起きているのです。ですから、「マルクスの労働というとらえ方がおかしい」とかいう、高木さんの批判もそこから出て来るのです。マルクスの思想をちゃんと押さえていくと、マルクスは労働の廃棄を訴えているとなります。それは今村仁司さん的にいえば、「労働から仕事への転換」ということになっていきます。
日本の「障害者」の間では、青い芝の「労働は悪だ」とか「介助を受けるとき腰を上げるのも労働だ」とか言う提起がありました。前者は労働の廃棄から仕事への転換ということでそのまま受け入れられ、後者は、それは労働ではなくて仕事という概念で押さえるということではないかと思います。
だいぶ、読書メモということを踏み外してしまいました。
いつものように印象に残ったところを、メモとして残しておきます。
「核と自然という現代社会の直面する二つの大きな問題」512P
「ドイツ語では「収奪」と「開発」は全く同じ言葉を使うのですが、これは一つの言葉に二つの意味があるというよりは、概念的に同じようなものと考えた方がいいと思います。」516P
「人間と自然の対峙でなく、人間を生態系の中でとらえ返す。」517P
「民衆のための」でなく、「民衆による」519P
8つの課題(資源の問題/安全性―命の問題/巨大な都市ではだめという都市の問題/反戦の問題/人口の問題―第三世界の問題/女性解放の問題/「自由」―反管理の問題)を出し、それを3つ(自然との共生、反戦、反差別・反管理)にまとめています。521-522P
運動形態・・草の根主義と非暴力直接行動522P
マルクスが労働を軸に立てているという批判523P・・マルクスは資本主義社会では労働を軸にたてられると批判しています・・・誤解
「マルクス主義では、生活は労働力の生産・再生産過程と位置付けられますから」526P・・・マルクスは資本主義社会では「生活は労働力の生産・再生産過程」という物象化が起きると言っているのです。・・・高木さんのマルクスのとらえ返しへの疑問
エコロジーの「強み」と「弱さ」527P 534P
「自分の身の回りの生活批判を通じて、」「生活領域の問題をひとつの総合的観点からとりあげ得たことによって、エコロジズムが新鮮な魅力をもった。」527P
「例えば食品添加物とか洗剤とかいった問題から、もっと大きな構造―例えば第三世界の人々との関係―に迫るというのは、そう簡単なことではないでしょう。エコロジズムが一方において身の回り主義になったり、他方できわめて抽象的な自然愛好に陥ったりする弱さ多くもっていることを指摘しておかなくてはならないでしょう。」527P
ジグソーパズルのはめ絵の例で、マルクス主義は行く先の絵が見える、しかし、ひとつひとつのコマとコマがどう結びつき合っていくのかがなかなか見えない。エコロジーはコマとコマがこう合うという形で問題をたてなおした、しかし将来の社会像が見えない。534P・・・反差別というところでエコロジーとマルクス的な社会変革論というふたつのことを、そしてすべてのことをつなげていけるのではないか
多様性536p
「弁証法というのは、二つの対立物の対立のダイナミズムを前提としています。運動論としては一つの主張への共鳴理論で、対立が止揚されて共鳴していくという感じです。しかしエコロジズムは多様性に立脚していますから、単一主張での共鳴ではなく、多様な主張を認めあったうえでの共同(協働)という方法論を育てなくては駄目です。」・・・多様性ということの中にある「違い」ということの意識の検証
「地球にとって大事なのは水と土なんだ」536P・・・太陽も
自然主義批判537P
「(総体的・「社会的」観点のない・・引用者)自然科学的自然観だけでは結局、自然モデルに人間を従属させる、自然の規範に人間を従わせるという“自然主義”にしかならなくて解放的ではありません。・・・(解放的な方向での議論の・・・引用者)そのひとつに、ラブロックの「ガイア理論」があります。これは、地上の生物の共生は、与えられた地物的条件に単に適合して生物が生きるということではなくて、生物が自己の生存の条件を主体的につくり出し、次第に豊かに成熟させていく、そういう協働作業だという考え方です。その意味で多様な生命の共生は、ひとつの文化を成熟させているという風に考えてもよい。」
「少数派の力を見なおす」
コワイということでは力にならない、理屈で理解しても運動には結びつかない、そこには共感というようなことが必要という主張をしています。
そして、少数というが力になる、少数ということを前提にして出発するという展開をしています。
また、共鳴ということよりも、多様性を認め合う、協和―ハーモニーという運動のあり方を提起しています。
そして、学問の方法を運動に(これは端的には自分を突き放してみる観点で必要とされることとして)、運動の方法を学問にという提起をしています。
「共著者の論文」
・「化学の危機から変革の科学へ 現代科学の問題としての原発」
いままでの科学の立て方を問題にしています。
わたしは自由競争ということで取り返しのつかないことをしていく、作り出して後から対処していくというやりかた、専門家の中で全体を見渡せないようになっている、と要約していました。
高木さんは5つの項目で展開しています。生産性・創造性の喪失/観念性と虚構性/巨大になりすぎた科学技術/細分化に伴う退廃と大衆遊離/管理強化と差別抑圧の進行
・「風車・反原発・三里塚 運動に新しい風を」
津村喬さんの司会、前田俊彦さん、橋爪健郎さんとの高木さんの対談です。
地域で風車を作った橋爪さんと三里塚の運動をしていた前田さん、反原発の高木さんの組み合わせ、新しい地域に根ざした開かれた運動を語っています。少数な単位での小さい地域からの地域に根ざした運動を開かれた運動として展開していこうという試みを語っています。将来のコミュニティのありかたのようなことが垣間見れます。問題はそれが総体的なあり方として、どうつなげていけるのかということなのですが、・・。
・「ソフトさとは何か ソフト・パスへの一視点」
ロビンソンのソフト・エネルギー・パスという論攷に対するコメントです。
ロビンソンは、社会のあり方ということとは切断して、エネルギーのあり方を論じていて、それがソフト・エネルギー・パスという、再生可能な自然エネルギーへの転換の主張なのです。著者はそれはそれで評価するし、賛成するけど、人間の対自然・対社会の2つの関係は共軛的という主張で629P、エネルギー(得る方法)だけの問題ではない、ソフトな太陽型の社会、ソフトな社会へのパスが必要、ソフトなパスの問題ではないという展開です。
「未公開資料」
いずれも『ぷろじぇ』に掲載された原稿です。70年代初期の全共闘運動の影響を受けた科学論・科学者論です。本格的に本の出版をする以前の論攷です。科学論とて展開される基礎的な哲学的論攷もあり、そしてマルクスの流れへのコメントがとてもわたしの問題意識では、刺激的であり参考になりました。
・「自然―人間―科学 試論」
その1 広重と渡部 その2 マルクス主義 その3 哲学総体
これは著者の哲学的な所への対話になっています。とりわけマルクス/エンゲルスへのコメントがわたしの中でこれまで考えていた、反差別論、進歩史観批判とリンクしました。
この論攷は、もう一度読み直して、きちんと対話したいと思っています。学習会などで使える論攷ではないかとも思っています。
とりあえずメモを残して置きます。
対象化された<知>の地平の明るみにおいてのみ把握することのあやまり、主体的人間を自然と対峙させる外的な存在としてとらえることのあやまり、ということが書かれています。
未知の自然―知り得ないものがあるというところから出発する必要が書かれています。
進歩という概念のとらえ返しの必要性を展開しています。・・深化の概念からのとらえ返し
高木さんの思想を要約するような印象的な2つの文「自然と自分との関係性が当然自己に強いてくる全人間的な問いかけをはっきりさせたいのである。そのことの中に近代知の構造を変革し、近代科学における価値観の転換のための鋭角的な突破口を求めているのである。」「自然科学者が自然という対象に対して、原初感性的に抱くであろう意識に切り結ぶことができれば、即ち言葉を換えれば、自己と自然との関係をそこまで普遍化することができれば、個別科学者をしてその個別科学の現場感覚から人間としての現場感覚に立ち戻らせ得ることができるであろう。」646P
科学の私有性652P
マルクスの対話からする私有性批判 エンゲルス640P その2の冒頭マルクスの引用などマルクス/エンゲルスの思想の検証として重要なコメントも出ています。
自然との交流―相互関係こそが人間性の証し658P
(自然)科学における展望は、私有性を否定することの中にある662P
マルクスが哲学から入ったように高木さんにも、初期に哲学的なところからとらえかえそうという指向があったことがとらえられます。・・・自然との交流を出発点にするというところからの世界観と哲学
・「折原書簡を読んで」
折原さんは教育学園闘争の中で授業の正常化を拒否して処分された教員です。その事へのコメント、高木さんは、むしろ中にいるところでの模索というみちがあったのではないかと、一応大学に残ったひとですが、何年か後に結局大学を辞めています。それこそ、当時科学をやっていたひとのいろんな選択があったのですが、高木さんは出版したものでは、あまり、教育学園闘争にふれていなくて、当時の時代情況の中でどうしていたのかがとらえられなかったのですが、やはり、教育学園闘争から多大な影響をうけていたのだということが、この文の中でとらえられました。
・「討論機叔瀘啝瓩悗亮蟷罅
エンゲルスからスターリンにつながる自然弁証法の基底性、自然史的歴史的必然性というのは、マルクスまでさかのぼれるという高木さんのとらえ返しです。それは生産力の発達と生産関係の矛盾が革命の力になるというとらえ方自体に問題があったという指摘です。生産力の発達というところでの進歩史観があるのです。それは科学の発達というところにバラ色の夢を抱いたということともつながっていきます。むしろ、科学が何をもたらしたかの批判もでています。そのあたりは、無限の経済発達という観念や、科学の無限の発達という観念自体に問題があるとも言えます。
廣松さんの文へのコメントも書かれています690P・・生産力と生産関係の矛盾というところからの革命という押さえ方への批判です。・・・生産力の発達というころに展望を見いだす、マルクスの進歩史観・発達史観への批判ということなのでしょう。
自然と対峙しつつ、自然であり続ける人間の弁証法―こそが、実証性の地平を越えた唯物弁証法として求められている690P
自然としての人間と自然と対峙する人間という中にあるがままの人間とみる。この永続的止揚の実践こそが人間の全体的過程(「全体化」という語に違和感、「歴史的行動」という意味?)
知と不知の弁証法 知の構造変革をその枠組みでとらえる692P
マルクスの限界699P
「解説」・・・高木さんと何回か対談してかなり共鳴していた哲学者の花崎さんの解説です。花崎さんの対話の続きのような解説です。
よくまとまっていて、わたしのメモなどよりも、これを読んでと言いたい内容です。
ただ、マルクスとの対話では、わたしにとって疑問を感じることが書かれています。
「解題」・・・高木さんが立ち上げた原子力資料室の共同代表の西尾さんの文です。この巻に収められている論攷の背景のようなことを書いてくれています。著作集の各巻にも同じ「解題」があるようです。
「市民科学通信」
高木さんと関わっていた人たちの高木さんのひととなりが伝わってくる思いでの記が小冊子として挟まれています。これは各巻に付録的についていて、同じタイトルで本になっています。
エコロジー関係の本を読むときは、なぜこんな自明なことが通じないのかという暗い気持ちになるのですが、高木さんの本を読むと、何かやすらぎのようなことを感じています。廣松さんの本も自分の居場所に帰ってきたというようなところがあるのですが、高木さんの本にもそんなところがあるのです。
さて、高木さんには反差別という立場性がはっきりしていて、そこでエコロジー論を展開しています。エコロジーの運動はときとして、他の問題と切り離して、エコロジーというところだけで閉じている事が多いのですが、このひとは開いているエコロジー論です。
このあたりは、階級闘争やプロレタリア革命論が反差別ということを欠いていることとかにもつながっていて、わたしは反差別というところで開いた運動が階級闘争やプロレタリア革命論、そしてエコロジーにも必要なのだと考えています。
エコロジー35基礎学習30
たわしの読書メモ・・ブログ189
・佐々木力「ベイコン主義自然哲学の黄昏」(『思想 2011年 11月号』岩波書店2011所収)
佐々木さんは廣松さんの東大の科学哲学の講座を受け継いだひとで、廣松さんの影響も受けていて、以前から何冊かの本を読んでいます。書店で、毎月チェックしている雑誌のひとつ『思想』に、この著者のフクシマ原発震災へコメントがあるのを見てこれだけでも読みたいと買い求めました。
著者は東北大学で数学を専攻し、そこから科学哲学に入り込んだひとです。学生時代に同じ東北大だった(何回か前のブログで読書メモを書いた)小出さんと同じように女川原発の反対闘争にも取り組んだ経験があり、まさに今回3.11フクシマの原発震災の中で、心揺るがされる中で書かれた論攷です。
それは次の言葉に端的に表れています。
「十五年間も続いた「アジア・太平洋戦争」後の世界にとって、ヒロシマとナガサキは巨大な意味をもった。今度は、フクシマが二十一世紀の科学技術文明の在り方に深刻な問題を投げかけていると思う。」119-120P
さて、この論攷の表題で、なぜベーコンが出て来るのかというと、ベイコンは自然の支配や征服というような世界観の元祖とでもいうべきひとなのです。科学哲学を専攻してきた立場で、ベイコンからさかのぼって自然観・自然哲学を問題にしている論攷なのです。
ベイコンに関する筆者のコメントを引用します。
「ベイコンは。アリストテレスに代わる近代西欧の思想家としてみなされるようになってゆく」123P「近代自然科学は、アリストテレスの論理学を超えて構築された。ベイコンがその主要な唱道者であった。」130P
「ベイコンの新哲学の意義は、まず、認識関心の対象を、ソクラテス以前のギリシャ哲学者のと同じく、自然哲学に移動させ、さらに、思考の道具として、アリストテレス以来の論証法ではなく、普遍的自然法則の定式化をめざす批判的帰納法を彫琢したことであった。」126Pそれは「「テクノロジー科学」と私が名づけたエンジニア的科学概念」132P・・実験哲学・科学としてのベーコンの展開を示しています。
さて、このあたりはわたしが『通信』の28号で書いた「反差別コミュニズム論序説の序」の問題意識ともつながるのですが、著者はマルクスからトロッキーあたりの研究もしているひとで、帝国主義論としてリンクしていきます。そのあたりは筆者が引用している次のベイコンの言に表れています。ちょっと長くなりますが転載します。「人間の野心の三つの種類と、いわばその段階を区別することも的外れではないであろう。その第一は、自分の勢力を祖国ののうちに伸ばそうと欲する人々の野心であって、そのようなものは卑属で下等である。第二は、祖国の権力と人類の間に拡げようと努める人々の野心であって、そのようなものは品位はまさっているが、貪欲点では変わりはない。ところが、人類全体の権力と支配権を宇宙全体に対して建て直しを拡げようとする努力する人があるなら、そのような野心(それを野心と言ってよいなら)は、他のものよりは健全で高貴なものであることは疑いない。ところで、事物[自然界]への人間の支配権は、ただ技術と学問にのみによっている。自然は服従することによってでなければ、支配されないからである。」129-130P要するに「「事物への人間の支配権」は別様に「自然界に対する人間の帝国」とも訳すことができる」130Pという展開です。
これは、ベイコンが出てきた時代背景としての次の押さえともリンクしています。「ベイコンは、十七世紀初頭にあって英国が地理的に拡大するだけでなく、英国が地理的に拡大膨張するだけでなく、自然の深奥にまで人間の支配権及ぼそうとした学問―政治思想を唱道した思想家であった。」133Pそしてバイエルソンの「科学帝国主義」という概念を紹介しています。135P
そして著者は「帝国主義論」の押さえに入ります。まずは、マルクスの科学ということが資本主義の中にどう位置するのかの展開です。そこにマルクス自体は展開しなかった帝国主義論にもつながるコメントがあるのです。「すべての科学が資本に奉仕するとりこにされる。[・・・]発明がひとつの商売となり、また直接的生産への科学の応用それ自体が、科学にとって規定的な、またこれに刺激を与える視点となる。」140Pそして「帝国主義論」でレーニン、ローザ、トロッキー、マンデルと展開します。実際文は前後していますが、マンデルの文「テクノロジーの全能さに対する信仰こそ、後期資本主義に特異なブルジョワ・イデオロギーの形態なのである」139Pを紹介しています。
それは「自然に敵対する帝国主義」141P「古典的帝国主義期にあっては収奪の対象は、主として植民地・半植民地の被抑圧人民であった。今や自然生態系が先端科学技術で武装した先進資本主義諸国による収奪と破壊の対象になっている。」142Pという展開で、自然哲学やエコロジー・原発問題につながっているのです。
そして原子核エネルギーに問題に戻って、「その(原子核物理学・・引用者)学問的特性は、「不自然」にというよりは、むしろ「反自然的」な作為的なのである。そこにこそ、今日の原子力テクノロジーの抱えた最重要の学問的特性があるのである。」136P
著者のいた東大は原子力村の牙城で、筆者が反原発的なコメントをするたびに圧力をかけられたということを紹介してくれています。まさに国策としての原発推進・維持だったということなのです。そして、原発関係の資料をいろいろ上げてくれています。
要するに、著者は、ベイコンには「人間に損害を与えかねない機械技師の所業を「ダイダロス」の故事を参照することによって指弾し、抑止を示唆した」147Pのに、そのようなことさえないウルトラ・ベイコン的科学としての原子力テクノロジー、核科学という押さえ方をしていて、そこでのベーコンの位置づけと批判なのです。そして、無限の仮説としての科学論153Pや著者の師のクーンのパラダイム論にふれながら、エコロジー的な東アジアの自然観などにコメントしています。このあたりは廣松さんが東洋思想に流目していたことにもリンクしています。
そして筆者の環境社会主義というような提起でその論攷をまとめています。
「脱原子力の新しい時代を先導する旗幟こそ、二十一世紀においては環境社会主義の旗とそれに随伴した自然哲学でなければならない。その際に、十七世紀初頭、政治思想的に、そして自然哲学的に、根源的に試作したフランシス・ベーコンの自然哲学が今や黄昏も迎え、転換を要請していること、そしてその遺産のよきものを継承した、新しい自然哲学が必須になってきていることを認識することが肝要なのである。」157P
社会主義という概念自体の検証も必要ですが、コミュニズム論から、反差別ということから自然ということをとらえていく作業がいまこそ必要となっていると思うのです。
・佐々木力「ベイコン主義自然哲学の黄昏」(『思想 2011年 11月号』岩波書店2011所収)
佐々木さんは廣松さんの東大の科学哲学の講座を受け継いだひとで、廣松さんの影響も受けていて、以前から何冊かの本を読んでいます。書店で、毎月チェックしている雑誌のひとつ『思想』に、この著者のフクシマ原発震災へコメントがあるのを見てこれだけでも読みたいと買い求めました。
著者は東北大学で数学を専攻し、そこから科学哲学に入り込んだひとです。学生時代に同じ東北大だった(何回か前のブログで読書メモを書いた)小出さんと同じように女川原発の反対闘争にも取り組んだ経験があり、まさに今回3.11フクシマの原発震災の中で、心揺るがされる中で書かれた論攷です。
それは次の言葉に端的に表れています。
「十五年間も続いた「アジア・太平洋戦争」後の世界にとって、ヒロシマとナガサキは巨大な意味をもった。今度は、フクシマが二十一世紀の科学技術文明の在り方に深刻な問題を投げかけていると思う。」119-120P
さて、この論攷の表題で、なぜベーコンが出て来るのかというと、ベイコンは自然の支配や征服というような世界観の元祖とでもいうべきひとなのです。科学哲学を専攻してきた立場で、ベイコンからさかのぼって自然観・自然哲学を問題にしている論攷なのです。
ベイコンに関する筆者のコメントを引用します。
「ベイコンは。アリストテレスに代わる近代西欧の思想家としてみなされるようになってゆく」123P「近代自然科学は、アリストテレスの論理学を超えて構築された。ベイコンがその主要な唱道者であった。」130P
「ベイコンの新哲学の意義は、まず、認識関心の対象を、ソクラテス以前のギリシャ哲学者のと同じく、自然哲学に移動させ、さらに、思考の道具として、アリストテレス以来の論証法ではなく、普遍的自然法則の定式化をめざす批判的帰納法を彫琢したことであった。」126Pそれは「「テクノロジー科学」と私が名づけたエンジニア的科学概念」132P・・実験哲学・科学としてのベーコンの展開を示しています。
さて、このあたりはわたしが『通信』の28号で書いた「反差別コミュニズム論序説の序」の問題意識ともつながるのですが、著者はマルクスからトロッキーあたりの研究もしているひとで、帝国主義論としてリンクしていきます。そのあたりは筆者が引用している次のベイコンの言に表れています。ちょっと長くなりますが転載します。「人間の野心の三つの種類と、いわばその段階を区別することも的外れではないであろう。その第一は、自分の勢力を祖国ののうちに伸ばそうと欲する人々の野心であって、そのようなものは卑属で下等である。第二は、祖国の権力と人類の間に拡げようと努める人々の野心であって、そのようなものは品位はまさっているが、貪欲点では変わりはない。ところが、人類全体の権力と支配権を宇宙全体に対して建て直しを拡げようとする努力する人があるなら、そのような野心(それを野心と言ってよいなら)は、他のものよりは健全で高貴なものであることは疑いない。ところで、事物[自然界]への人間の支配権は、ただ技術と学問にのみによっている。自然は服従することによってでなければ、支配されないからである。」129-130P要するに「「事物への人間の支配権」は別様に「自然界に対する人間の帝国」とも訳すことができる」130Pという展開です。
これは、ベイコンが出てきた時代背景としての次の押さえともリンクしています。「ベイコンは、十七世紀初頭にあって英国が地理的に拡大するだけでなく、英国が地理的に拡大膨張するだけでなく、自然の深奥にまで人間の支配権及ぼそうとした学問―政治思想を唱道した思想家であった。」133Pそしてバイエルソンの「科学帝国主義」という概念を紹介しています。135P
そして著者は「帝国主義論」の押さえに入ります。まずは、マルクスの科学ということが資本主義の中にどう位置するのかの展開です。そこにマルクス自体は展開しなかった帝国主義論にもつながるコメントがあるのです。「すべての科学が資本に奉仕するとりこにされる。[・・・]発明がひとつの商売となり、また直接的生産への科学の応用それ自体が、科学にとって規定的な、またこれに刺激を与える視点となる。」140Pそして「帝国主義論」でレーニン、ローザ、トロッキー、マンデルと展開します。実際文は前後していますが、マンデルの文「テクノロジーの全能さに対する信仰こそ、後期資本主義に特異なブルジョワ・イデオロギーの形態なのである」139Pを紹介しています。
それは「自然に敵対する帝国主義」141P「古典的帝国主義期にあっては収奪の対象は、主として植民地・半植民地の被抑圧人民であった。今や自然生態系が先端科学技術で武装した先進資本主義諸国による収奪と破壊の対象になっている。」142Pという展開で、自然哲学やエコロジー・原発問題につながっているのです。
そして原子核エネルギーに問題に戻って、「その(原子核物理学・・引用者)学問的特性は、「不自然」にというよりは、むしろ「反自然的」な作為的なのである。そこにこそ、今日の原子力テクノロジーの抱えた最重要の学問的特性があるのである。」136P
著者のいた東大は原子力村の牙城で、筆者が反原発的なコメントをするたびに圧力をかけられたということを紹介してくれています。まさに国策としての原発推進・維持だったということなのです。そして、原発関係の資料をいろいろ上げてくれています。
要するに、著者は、ベイコンには「人間に損害を与えかねない機械技師の所業を「ダイダロス」の故事を参照することによって指弾し、抑止を示唆した」147Pのに、そのようなことさえないウルトラ・ベイコン的科学としての原子力テクノロジー、核科学という押さえ方をしていて、そこでのベーコンの位置づけと批判なのです。そして、無限の仮説としての科学論153Pや著者の師のクーンのパラダイム論にふれながら、エコロジー的な東アジアの自然観などにコメントしています。このあたりは廣松さんが東洋思想に流目していたことにもリンクしています。
そして筆者の環境社会主義というような提起でその論攷をまとめています。
「脱原子力の新しい時代を先導する旗幟こそ、二十一世紀においては環境社会主義の旗とそれに随伴した自然哲学でなければならない。その際に、十七世紀初頭、政治思想的に、そして自然哲学的に、根源的に試作したフランシス・ベーコンの自然哲学が今や黄昏も迎え、転換を要請していること、そしてその遺産のよきものを継承した、新しい自然哲学が必須になってきていることを認識することが肝要なのである。」157P
社会主義という概念自体の検証も必要ですが、コミュニズム論から、反差別ということから自然ということをとらえていく作業がいまこそ必要となっていると思うのです。
基礎学習29
たわしの読書メモ・・ブログ188
・『現代思想2011年12月号 特集=危機の大学』青土社 2011
野家啓一「大学と科学者の社会的責任」
最首悟「マイナスとゼロ」
野家さんの論文を読んでいると、大学の法人化の中で、文字通り産学共同が進められ基礎学習部門が解体されていく現状が押さえられます。「社会性」は必要としても、なにか違うのです。これも一種のグロバリーゼーションなのでしょう。
最首さんの文をこれまで論文として読み込もうとしていたのですが、むしろ科学性をもつたエッセーとして読んでいくことではないかと、ふと思っていました。
・『現代思想2011年12月号 特集=危機の大学』青土社 2011
野家啓一「大学と科学者の社会的責任」
最首悟「マイナスとゼロ」
野家さんの論文を読んでいると、大学の法人化の中で、文字通り産学共同が進められ基礎学習部門が解体されていく現状が押さえられます。「社会性」は必要としても、なにか違うのです。これも一種のグロバリーゼーションなのでしょう。
最首さんの文をこれまで論文として読み込もうとしていたのですが、むしろ科学性をもつたエッセーとして読んでいくことではないかと、ふと思っていました。
エコロジー34
たわしの読書メモ・・ブログ186
・高木仁三郎『宮澤賢治をめぐる冒険―水や光や風のエコロジー(新装版)』七つ森書館 2011(1995)
高木さんはたくさんの本を出しています。その本の中でも、高木さんの文学的指向で気になっていた本でした。原発震災の後、高木さんの本を探していたのですが、絶版になっている本が多く、この本もその一つでした。で、古本でもタッチの差で買い損ね、これは全集を買って読もうかなと思っていたら、その全集も書店の店頭で一時品切れで、やっと再度出てきたので、買おうとしたら、なんと、この本の新装版が出てきて、ラッキー、と即購入した本です。
高木さんは宮沢賢治とすごく共鳴しています。いくつかの共通項があるようです。というより、宮沢賢治を意識した高木さんが後を追ったという面もあるのです。
エコロジーや自然指向、科学指向、という共通項があります。教員をやめて羅須地人協会(賢治)と原子力資料室(高木さん)という民間のグループを作ったことが類比できます。
高木さんの詩的・文学的な側面での賢治への共鳴のようなこともあります。そのようなところは文学的な感性のないわたしにはうまく表現できません。いくつかの文やキーワードを示し、関心をもったひとに是非この本を読んでもらいたいと思います。
「宮澤賢治は、自然をこよなく愛した人であり、自然をすばらしく謳い上げた人です。・・・中略・・・それは、作品の上だけではないんです。彼は生きかたそのものの中で、非常に深いところで自然と交わっていて、それが作品に反映しているといえましょう。」6P
「彼の世界というのは、水であり、光であり、風である」7P
生きた水17P 深層地下水の汚染18P 賢治の水19P 命の流れ28P 生きる悲しみ、死ぬ悲しみ43P 大きな水の流れ48P
英語とドイツ語の環境という語についての説明があり、「西洋から来ている考え方で、いわば人間がいて、人間の周りに環境というのがあって、人間が生きるために環境が怪しくなってきた。だからこの環境を守らないといけない、そういう考え方が今の環境問題です。/・・・中略・・・そうではなくて、自然の大きな全体というのがあって、人間はそれに取り巻かれた一員でしかないんです。人間があって環境があるのではない。全体があって、その一部に、点のような存在として人間がある、そういう全体というのが賢治の書きたかった自然であると思います。/とくに賢治の書きたかった水というのは、人間全体を、生き物の世界全体、地球全体を大きく包んでくれる水だったのです。」50P・・・これは「全体」を「関係性総体」と置き換えると廣松さんの関係の一次性という論に繋がっていきます。
彼の銀河は流れであり、水の流れ52P
「根本はその一つ一つの計画でなくて、そういう人間と自然の在りようの根本みたいな所を、もう少し変えていかないと、・・・」66P
「科学をどのようにして人間的な場に戻すか、・・」80P
賢治のことば「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学を/われわれのものにできるか」81P
「彼はやはり科学というものの本質において、いままでの科学を超えたあるものを求めていたのではないか。そういうふうに、思わざるを得ないのです。」86P
「よりよく共に生きる」92P
「さて、私が考えていたのは、ただ原子力がダメだとか、反対だとかいうだけでなくて、本当にみんなが共に、安全に生きられるような科学や技術を作っていきたいということなのです。/私にとってこうした中で考えてきたことはエコロジーという言葉で、表現されるようになってきました。これは人間の生き方の基本を、人間がほかの生きものたちと共に生きる所に置く。・・」102-103P
科学する苦悩110P 時間の流れを包含した共に生きる120P 実験屋129P
オロオロとナミダヲナガシを原点に科学をやっていく149P
「雨ニモマケズ」の詩全体を自分の決意表明にしたい・・149P
(「」は引用です。「」になっていないところはかなりわたしの解釈・読み込みが入っています。)
・高木仁三郎『宮澤賢治をめぐる冒険―水や光や風のエコロジー(新装版)』七つ森書館 2011(1995)
高木さんはたくさんの本を出しています。その本の中でも、高木さんの文学的指向で気になっていた本でした。原発震災の後、高木さんの本を探していたのですが、絶版になっている本が多く、この本もその一つでした。で、古本でもタッチの差で買い損ね、これは全集を買って読もうかなと思っていたら、その全集も書店の店頭で一時品切れで、やっと再度出てきたので、買おうとしたら、なんと、この本の新装版が出てきて、ラッキー、と即購入した本です。
高木さんは宮沢賢治とすごく共鳴しています。いくつかの共通項があるようです。というより、宮沢賢治を意識した高木さんが後を追ったという面もあるのです。
エコロジーや自然指向、科学指向、という共通項があります。教員をやめて羅須地人協会(賢治)と原子力資料室(高木さん)という民間のグループを作ったことが類比できます。
高木さんの詩的・文学的な側面での賢治への共鳴のようなこともあります。そのようなところは文学的な感性のないわたしにはうまく表現できません。いくつかの文やキーワードを示し、関心をもったひとに是非この本を読んでもらいたいと思います。
「宮澤賢治は、自然をこよなく愛した人であり、自然をすばらしく謳い上げた人です。・・・中略・・・それは、作品の上だけではないんです。彼は生きかたそのものの中で、非常に深いところで自然と交わっていて、それが作品に反映しているといえましょう。」6P
「彼の世界というのは、水であり、光であり、風である」7P
生きた水17P 深層地下水の汚染18P 賢治の水19P 命の流れ28P 生きる悲しみ、死ぬ悲しみ43P 大きな水の流れ48P
英語とドイツ語の環境という語についての説明があり、「西洋から来ている考え方で、いわば人間がいて、人間の周りに環境というのがあって、人間が生きるために環境が怪しくなってきた。だからこの環境を守らないといけない、そういう考え方が今の環境問題です。/・・・中略・・・そうではなくて、自然の大きな全体というのがあって、人間はそれに取り巻かれた一員でしかないんです。人間があって環境があるのではない。全体があって、その一部に、点のような存在として人間がある、そういう全体というのが賢治の書きたかった自然であると思います。/とくに賢治の書きたかった水というのは、人間全体を、生き物の世界全体、地球全体を大きく包んでくれる水だったのです。」50P・・・これは「全体」を「関係性総体」と置き換えると廣松さんの関係の一次性という論に繋がっていきます。
彼の銀河は流れであり、水の流れ52P
「根本はその一つ一つの計画でなくて、そういう人間と自然の在りようの根本みたいな所を、もう少し変えていかないと、・・・」66P
「科学をどのようにして人間的な場に戻すか、・・」80P
賢治のことば「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学を/われわれのものにできるか」81P
「彼はやはり科学というものの本質において、いままでの科学を超えたあるものを求めていたのではないか。そういうふうに、思わざるを得ないのです。」86P
「よりよく共に生きる」92P
「さて、私が考えていたのは、ただ原子力がダメだとか、反対だとかいうだけでなくて、本当にみんなが共に、安全に生きられるような科学や技術を作っていきたいということなのです。/私にとってこうした中で考えてきたことはエコロジーという言葉で、表現されるようになってきました。これは人間の生き方の基本を、人間がほかの生きものたちと共に生きる所に置く。・・」102-103P
科学する苦悩110P 時間の流れを包含した共に生きる120P 実験屋129P
オロオロとナミダヲナガシを原点に科学をやっていく149P
「雨ニモマケズ」の詩全体を自分の決意表明にしたい・・149P
(「」は引用です。「」になっていないところはかなりわたしの解釈・読み込みが入っています。)
エコロジー33
たわしの読書メモ・・ブログ185
・小出裕章『原発のない世界へ』筑摩書房 2011
原発の問題を分かりやすく書いています。わたしもそれなりに情報の蓄積をしてきたので、すーっと読んで入ってきました。
いくつか目にとまったこと、新しい内容をしるしてみます。
癌へのリスク計算をわかりやすくざっくり書いてくれています。42P
また「自分事」としてとらえる観点は、わたしが今の社会に広がっている「他人事」の論理と通じることで、共鳴していました。60P
なんで、こんなおかしな原発が続いてくのか、どうしても分からない87P、という思いは反原発の立場に立つものには共通の思いなのですが、どうして、この思いがひろがっていかないのか、著者も書いていて、わたしも分析しているのですが、それでも「なぜ」という思いの中での反原発の運動なのです。一カ所、著者が職場で教授たちと論争し、論破するときに教授たちが持ち出す論理を紹介している箇所があります。187P
どこからが危なく、どこからが安全などということは被曝量と癌などの発生率は直線的比例関係にあり、閾値などないという指摘155Pや、六ヶ所村の再処理工場や、もんじゅ、人形峠の採掘現場などのついての話は、他の書などではあまり書かれていず、参考になりました。
著者は世界のエネルギーの独占・不公平という差別の問題をとりあげています。169P著者の主張は、エネルギー独占ということをやめて、とりわけ原発立地国でのエネルギー中毒からの脱出ということで表せるようです。「人類にとっての真の課題は、際限のないエネルギー供給ではなく、エネルギー中毒からいかに抜け出すかにある。」165P
著者は反差別の姿勢のあるひとで、障害問題にもふれています。171P
これについては、ちゃんととらえ返さねばならないので、別稿で書きます。
ひとりひとりの判断とか自己責任の論理は、また続いているようです。52P
筆者は反原発の運動は敗北の積み重ねだと書いています。190P
それは全ての運動に言えることで、その敗北の積み重ねの中から、何を蓄積し、どのように展望をきりひらいていくのかということだろうと思っています。
原発の再稼働の動きが出ていますし、自然エネルギーへの転換を押しつぶそうという動きも出ています。著者がどう考えてもおかしいという、再稼働・維持をつぶす運動をおこしていかなきゃいけないと思います。もうひとつ、著者が書いている世界的な格差による差別の構造の中で、今回の事故で明らかに加害国になった日本の政府と企業が一体となって原発の輸出をなそうとしています。このようなことは許されるはずがなく、阻止の運動をと思っています。
この著はいろんな資料を駆使し、とてもわかりやすく、そして著者には反差別の思想もあり、共鳴すること多々の貴重な本だと記して置きます。
・小出裕章『原発のない世界へ』筑摩書房 2011
原発の問題を分かりやすく書いています。わたしもそれなりに情報の蓄積をしてきたので、すーっと読んで入ってきました。
いくつか目にとまったこと、新しい内容をしるしてみます。
癌へのリスク計算をわかりやすくざっくり書いてくれています。42P
また「自分事」としてとらえる観点は、わたしが今の社会に広がっている「他人事」の論理と通じることで、共鳴していました。60P
なんで、こんなおかしな原発が続いてくのか、どうしても分からない87P、という思いは反原発の立場に立つものには共通の思いなのですが、どうして、この思いがひろがっていかないのか、著者も書いていて、わたしも分析しているのですが、それでも「なぜ」という思いの中での反原発の運動なのです。一カ所、著者が職場で教授たちと論争し、論破するときに教授たちが持ち出す論理を紹介している箇所があります。187P
どこからが危なく、どこからが安全などということは被曝量と癌などの発生率は直線的比例関係にあり、閾値などないという指摘155Pや、六ヶ所村の再処理工場や、もんじゅ、人形峠の採掘現場などのついての話は、他の書などではあまり書かれていず、参考になりました。
著者は世界のエネルギーの独占・不公平という差別の問題をとりあげています。169P著者の主張は、エネルギー独占ということをやめて、とりわけ原発立地国でのエネルギー中毒からの脱出ということで表せるようです。「人類にとっての真の課題は、際限のないエネルギー供給ではなく、エネルギー中毒からいかに抜け出すかにある。」165P
著者は反差別の姿勢のあるひとで、障害問題にもふれています。171P
これについては、ちゃんととらえ返さねばならないので、別稿で書きます。
ひとりひとりの判断とか自己責任の論理は、また続いているようです。52P
筆者は反原発の運動は敗北の積み重ねだと書いています。190P
それは全ての運動に言えることで、その敗北の積み重ねの中から、何を蓄積し、どのように展望をきりひらいていくのかということだろうと思っています。
原発の再稼働の動きが出ていますし、自然エネルギーへの転換を押しつぶそうという動きも出ています。著者がどう考えてもおかしいという、再稼働・維持をつぶす運動をおこしていかなきゃいけないと思います。もうひとつ、著者が書いている世界的な格差による差別の構造の中で、今回の事故で明らかに加害国になった日本の政府と企業が一体となって原発の輸出をなそうとしています。このようなことは許されるはずがなく、阻止の運動をと思っています。
この著はいろんな資料を駆使し、とてもわかりやすく、そして著者には反差別の思想もあり、共鳴すること多々の貴重な本だと記して置きます。

