2010年02月14日
廣松関係14
たわしの読書メモ・・ブログ71
・廣松渉『フッサール現象学への視角』青土社 1994
これは『現代思想』に1986-1989に連載されたA.シュッツの現象学的社会学を主題的に論じた「社会行為論ノート」の外篇として挟まれたフッサールの他我認識論への廣松さんの論攷を単行本化したものです。
連載された当時読んだ、というより読み飛ばしたのですが、単行本されて改めて読み直そうとしつつ、そのままにしていました。
木村敏さんの現象学的精神病理学を廣松さんサイドからどうとらえ返すかという課題の中で、この本を思い出しなぞるように読みました。
木村さんとの対話はむしろハイデッガーを読むことなのですが。最近、廣松さんを現象学派ととらえるような論攷と出会っていたし、この本がどうしようもなく気になり出して、急遽読書計画の中に挟み込みました。
そもそもフッサールから読んでいくことなのですが、フッサールはいくえもの断絶を経ていて、しかもいろいろな矛盾が指摘されているところで、とてもフッサールだけを追ってもその中で完結し得ない、むしろ周辺から外堀を埋めるような学習が必要なようで、踏み込めぬままになっています。で、またしても、なぞらえただけの学習に終わってしまうのですが、少なくとも廣松さんのフッサール批判の輪郭だけはおぼろげなりともつかみ、廣松さんが現象学派であるという規定が誤解であると追認したところです。
読書メモという性格で、誤読したことを恐れず、メモ的なことを後論のために残しておきます。
現象学派はというより、近代哲学の地平を超えようとしたいろいろな学派の多くが、結局、意識作用―意識内容―意識作用という三項図式を超ええていないという廣松さんの結論的指摘があります(全篇そのために論じられているのですが、特に151P)。一方で、「但し、皮肉なことに、フッサールの他我構成論、間主観性論が、認識論的論攷の場に初めて主題的にこの論件を投じ、そのことによって近代哲学のパラダイムそのものの理路閉塞性を自覚せしめる一大気炎はなりえた」(151P)という評価があります。そのあたりはフッサールの論攷の意議ということを押さえどのような課題が出てくるかを156-157Pで論じています。そのあたりのことは廣松さんが他の書で、ずーっと論じてきた、きていることです。廣松さんはこの論攷の単行本化の校正作業を終えて亡くなっているのですが。
さて、フッサールの現象学と廣松さんの違いというようなことですが、元々数学から哲学に入ったフッサールが数論の概念からブレンターノの指向性論を受けて、三項図式を超ええたという錯覚に陥ったとかいう指摘がでてきます(58-59P)。フッサールは結局カメラ的な視覚モデルにとらわれて、三項図式を超ええなかったという廣松さんの押さえ、廣松さんは視覚モデルに判断モデルを対置し、そこにおける役割理論をもって、共同主観性論、四肢構造論で三項図式を超えようとしたのです。四肢構造論も実体主義や物象化された世界に妥協し、引きずられがあるとしても、一応三項図式は超ええているのではと。
まさに自家用のメモに過ぎないことになっているのですが、何とかわたしのこの本から得たこととして記しておきます。
・廣松渉『フッサール現象学への視角』青土社 1994
これは『現代思想』に1986-1989に連載されたA.シュッツの現象学的社会学を主題的に論じた「社会行為論ノート」の外篇として挟まれたフッサールの他我認識論への廣松さんの論攷を単行本化したものです。
連載された当時読んだ、というより読み飛ばしたのですが、単行本されて改めて読み直そうとしつつ、そのままにしていました。
木村敏さんの現象学的精神病理学を廣松さんサイドからどうとらえ返すかという課題の中で、この本を思い出しなぞるように読みました。
木村さんとの対話はむしろハイデッガーを読むことなのですが。最近、廣松さんを現象学派ととらえるような論攷と出会っていたし、この本がどうしようもなく気になり出して、急遽読書計画の中に挟み込みました。
そもそもフッサールから読んでいくことなのですが、フッサールはいくえもの断絶を経ていて、しかもいろいろな矛盾が指摘されているところで、とてもフッサールだけを追ってもその中で完結し得ない、むしろ周辺から外堀を埋めるような学習が必要なようで、踏み込めぬままになっています。で、またしても、なぞらえただけの学習に終わってしまうのですが、少なくとも廣松さんのフッサール批判の輪郭だけはおぼろげなりともつかみ、廣松さんが現象学派であるという規定が誤解であると追認したところです。
読書メモという性格で、誤読したことを恐れず、メモ的なことを後論のために残しておきます。
現象学派はというより、近代哲学の地平を超えようとしたいろいろな学派の多くが、結局、意識作用―意識内容―意識作用という三項図式を超ええていないという廣松さんの結論的指摘があります(全篇そのために論じられているのですが、特に151P)。一方で、「但し、皮肉なことに、フッサールの他我構成論、間主観性論が、認識論的論攷の場に初めて主題的にこの論件を投じ、そのことによって近代哲学のパラダイムそのものの理路閉塞性を自覚せしめる一大気炎はなりえた」(151P)という評価があります。そのあたりはフッサールの論攷の意議ということを押さえどのような課題が出てくるかを156-157Pで論じています。そのあたりのことは廣松さんが他の書で、ずーっと論じてきた、きていることです。廣松さんはこの論攷の単行本化の校正作業を終えて亡くなっているのですが。
さて、フッサールの現象学と廣松さんの違いというようなことですが、元々数学から哲学に入ったフッサールが数論の概念からブレンターノの指向性論を受けて、三項図式を超ええたという錯覚に陥ったとかいう指摘がでてきます(58-59P)。フッサールは結局カメラ的な視覚モデルにとらわれて、三項図式を超ええなかったという廣松さんの押さえ、廣松さんは視覚モデルに判断モデルを対置し、そこにおける役割理論をもって、共同主観性論、四肢構造論で三項図式を超えようとしたのです。四肢構造論も実体主義や物象化された世界に妥協し、引きずられがあるとしても、一応三項図式は超ええているのではと。
まさに自家用のメモに過ぎないことになっているのですが、何とかわたしのこの本から得たこととして記しておきます。
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