2010年02月17日
手話9
たわしの読書メモ・・ブログ72
・亀井伸孝『手話の世界を訪ねよう』岩波ジュニア新書(岩波書店)2009
この本は朝日新聞の「ひと」欄で筆者紹介され(09.8.14)、厚生労働省社会保障審議会「児童福祉文化財」推薦図書に指定されています。
この本はこれから手話を学ぼうとするひとたちの入門書として広く読まれていくと思います。ですが、筆者は上述の「ひと」欄でインビューに答えて、「でもわたしは入り口までの案内人」と話しています。
この本で、繰り返し「文化人類学」の立場で書いた本だということが強調されています。これは二つの意味があるのではないかと推測しています。ひとつは文化人類学的に自文化を語る主体は当事者ということがあります。またろう運動的にも当事者主体の問題があり、筆者は当然それを押さえた上で、文化人類学的な比較人類学・文化論の立場で手話を論じるのだという姿勢を貫いているのではと。
で、彼はかなりろう者社会に入り込み、そして文化人類学の観点からのとらえ返しもあり、その手話・ろう文化論は鋭いことがあるのではとわたしは感じています。また、これほど要領よくまとめた案内書はみあたりません。文化人類学者は、比較文化の中で、伝えるということで的確な文を書けるようになるのではと感嘆しています。勿論、当事者ではないわたしが評価することは筋違いなのですが、わたしが知る限りのろう者の主張にきちんと棹さした論攷になっているのではと。
さて、ここで問題になっているのは実は、手話に対する考え方がいろいろあり、筆者の考えはそのひとつの流れの中にあるということです。
そのことはこの著でも音声対応手話と日本手話の違いということでちょっと書かれています。筆者は文化人類学的には当然彼の棹さす流れの中にあるのだという思いがあるのかもしれません。
ですが、問題なのは、彼は入り口までの案内係を自認しているのですが、その入り口の問題。手話の学習を始めるひとの多くが入り口を間違えているとしか思えない情況があります。そして、長年手話に関わっているひとが入り口を間違えて入ったまま、手話に対するおかしな考え方を持ち続けたままいることがあります。そして、筆者も書いているように手話を学ぶことはろう者の世界に入っていくことだと思うのですが、ろう者の世界の周辺に聴者の集団を作っている現実もあります。
実は、この本に対するわたしの一番の思いは、間違った手話・ろう者・ろう文化に対する考え方をこの本を読む中で是正して欲しいということなのですが、予断と偏見を抱いているひと(そういう思い込みが激しいひと)は、自分は手話のことを充分知っているというおごりから、きっとこの本を手にすることはないのかもしれません。
このあたりのことを筆者は書いていません。それは当事者間で解決すべきもので、口出すことではないという思いがあるのだと推測できるのですが、ですが、手話の案内ということで、この現実を書き落としたらどうなるのか、入り口を間違えている、そしてむしろ現実にはこちらの方が主流になっている現実をどうするのか、この本を読んで、もっともポピュラーなパターンとして、手話を学ぼうとして地域の手話講習会なり手話サークルの門をたたいたら、そのギャップに戸惑うのではないでしょうか、そのことを超えて手話を学ぼうという意志を持ち続けてくれたら良いのですが、・・。でも、筆者の文化人類学をやっている立場からはそのあたりのことは書けないのかも知れません。
前述したようにこの書は一つの流れの中に棹さしています。ということはその中の抱えている問題も一緒に抱え込んでいることがあります。
まず、結局医学生物学−医学モデルを脱しえていないということ。もうひとつ、そのことにつながっていくのですが、「難聴者」や「中途失聴者」が陥っていく陥穽をとらえきれないという問題です。これはわたしはマージナル・パーソンの先行研究からとらえかえすことではないかとわたしは思っています。それは人工内耳問題に関しても同じ視点からのとらえ返しが必要になるのではと思ったりしています。
さて、実はわたしはこの本をずーっと前から手にしていたのですが、ずーっと抱え込んでいました。というのは、この著にも書かれていますが、わたしは言語学習はネイティブなひとたちの中に飛び込んでいくことという思いがあり、手話を学ぶ前の入り口のようなことで入門書みたいなことを書く意味が分からなかったことです。しかも、何か手話を勉強するに当たってのマニュアルのような書き方、「しましょう」という表記に疑問をもってしまったのです。ひととひととの関係でマニュアルみたいなことが出てくることに抵抗感があったのです。でも、よく考えると、このあたりは、きっと、文化人類学がその文化の中に飛び込んでいくという姿勢だとしても、とりかえしのつかない事態に陥らないように、基本的なことをきちんと押さえておくと言うことで、基本的姿勢をたたきこまれるということで、筆者の学者の立場で展開があったのだと思い直しています。
もうひとつは、’参与観察’だとかいうことばがでてきます。これは筆者も書いているように、学という立場を超えて関わるひとが出てくるというところでは、むしろ’参与観察’というところから離脱していくのですが、筆者がなぜ参与観察ということばを続けて使っていくのかという思いを持ってしまったのですが、これはむしろ筆者が文化人類学者としての立場で関わっていくという思いがなせることなのかもしれません。運動家のわたしは、立場を超えて欲しいと思ったりしてしまいます。でも、ひとはそれぞれその人の立場で関わっていく、そこで「貢献」できるのかもしれません。むしろそれだからこそ、この本が出され、そして読み継がれていく本になっていくのだと思い直しています。
ろう者自身が手話、ろう文化について語ってときに、この本は参考図書にあけられていくのではとも、まさに入り口までの案内役を担っていくのだと。
いろいろ書きすぎ、まとまらぬまま、カットしようかとの思いを持ちつつ、あくまでメモとして書き残します。
・亀井伸孝『手話の世界を訪ねよう』岩波ジュニア新書(岩波書店)2009
この本は朝日新聞の「ひと」欄で筆者紹介され(09.8.14)、厚生労働省社会保障審議会「児童福祉文化財」推薦図書に指定されています。
この本はこれから手話を学ぼうとするひとたちの入門書として広く読まれていくと思います。ですが、筆者は上述の「ひと」欄でインビューに答えて、「でもわたしは入り口までの案内人」と話しています。
この本で、繰り返し「文化人類学」の立場で書いた本だということが強調されています。これは二つの意味があるのではないかと推測しています。ひとつは文化人類学的に自文化を語る主体は当事者ということがあります。またろう運動的にも当事者主体の問題があり、筆者は当然それを押さえた上で、文化人類学的な比較人類学・文化論の立場で手話を論じるのだという姿勢を貫いているのではと。
で、彼はかなりろう者社会に入り込み、そして文化人類学の観点からのとらえ返しもあり、その手話・ろう文化論は鋭いことがあるのではとわたしは感じています。また、これほど要領よくまとめた案内書はみあたりません。文化人類学者は、比較文化の中で、伝えるということで的確な文を書けるようになるのではと感嘆しています。勿論、当事者ではないわたしが評価することは筋違いなのですが、わたしが知る限りのろう者の主張にきちんと棹さした論攷になっているのではと。
さて、ここで問題になっているのは実は、手話に対する考え方がいろいろあり、筆者の考えはそのひとつの流れの中にあるということです。
そのことはこの著でも音声対応手話と日本手話の違いということでちょっと書かれています。筆者は文化人類学的には当然彼の棹さす流れの中にあるのだという思いがあるのかもしれません。
ですが、問題なのは、彼は入り口までの案内係を自認しているのですが、その入り口の問題。手話の学習を始めるひとの多くが入り口を間違えているとしか思えない情況があります。そして、長年手話に関わっているひとが入り口を間違えて入ったまま、手話に対するおかしな考え方を持ち続けたままいることがあります。そして、筆者も書いているように手話を学ぶことはろう者の世界に入っていくことだと思うのですが、ろう者の世界の周辺に聴者の集団を作っている現実もあります。
実は、この本に対するわたしの一番の思いは、間違った手話・ろう者・ろう文化に対する考え方をこの本を読む中で是正して欲しいということなのですが、予断と偏見を抱いているひと(そういう思い込みが激しいひと)は、自分は手話のことを充分知っているというおごりから、きっとこの本を手にすることはないのかもしれません。
このあたりのことを筆者は書いていません。それは当事者間で解決すべきもので、口出すことではないという思いがあるのだと推測できるのですが、ですが、手話の案内ということで、この現実を書き落としたらどうなるのか、入り口を間違えている、そしてむしろ現実にはこちらの方が主流になっている現実をどうするのか、この本を読んで、もっともポピュラーなパターンとして、手話を学ぼうとして地域の手話講習会なり手話サークルの門をたたいたら、そのギャップに戸惑うのではないでしょうか、そのことを超えて手話を学ぼうという意志を持ち続けてくれたら良いのですが、・・。でも、筆者の文化人類学をやっている立場からはそのあたりのことは書けないのかも知れません。
前述したようにこの書は一つの流れの中に棹さしています。ということはその中の抱えている問題も一緒に抱え込んでいることがあります。
まず、結局医学生物学−医学モデルを脱しえていないということ。もうひとつ、そのことにつながっていくのですが、「難聴者」や「中途失聴者」が陥っていく陥穽をとらえきれないという問題です。これはわたしはマージナル・パーソンの先行研究からとらえかえすことではないかとわたしは思っています。それは人工内耳問題に関しても同じ視点からのとらえ返しが必要になるのではと思ったりしています。
さて、実はわたしはこの本をずーっと前から手にしていたのですが、ずーっと抱え込んでいました。というのは、この著にも書かれていますが、わたしは言語学習はネイティブなひとたちの中に飛び込んでいくことという思いがあり、手話を学ぶ前の入り口のようなことで入門書みたいなことを書く意味が分からなかったことです。しかも、何か手話を勉強するに当たってのマニュアルのような書き方、「しましょう」という表記に疑問をもってしまったのです。ひととひととの関係でマニュアルみたいなことが出てくることに抵抗感があったのです。でも、よく考えると、このあたりは、きっと、文化人類学がその文化の中に飛び込んでいくという姿勢だとしても、とりかえしのつかない事態に陥らないように、基本的なことをきちんと押さえておくと言うことで、基本的姿勢をたたきこまれるということで、筆者の学者の立場で展開があったのだと思い直しています。
もうひとつは、’参与観察’だとかいうことばがでてきます。これは筆者も書いているように、学という立場を超えて関わるひとが出てくるというところでは、むしろ’参与観察’というところから離脱していくのですが、筆者がなぜ参与観察ということばを続けて使っていくのかという思いを持ってしまったのですが、これはむしろ筆者が文化人類学者としての立場で関わっていくという思いがなせることなのかもしれません。運動家のわたしは、立場を超えて欲しいと思ったりしてしまいます。でも、ひとはそれぞれその人の立場で関わっていく、そこで「貢献」できるのかもしれません。むしろそれだからこそ、この本が出され、そして読み継がれていく本になっていくのだと思い直しています。
ろう者自身が手話、ろう文化について語ってときに、この本は参考図書にあけられていくのではとも、まさに入り口までの案内役を担っていくのだと。
いろいろ書きすぎ、まとまらぬまま、カットしようかとの思いを持ちつつ、あくまでメモとして書き残します。
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