2011年08月17日
「永遠のゼロ」・・百田尚樹
数年前からこの本の存在は知っていたし、読んでみようと思いながらそのままになっていたもの。
やっとまわってきたと思ったら、終戦記念日をまたいで読む事になった、のはただの偶然。
特攻隊の悲惨さを訴える物語は、今に生きる戦争を知らない世代の感情を揺さぶりやすいのか、時に安易に時に過激に、読む者の感情を刺激する。
かつての私も、そうやって特攻隊もの、それに屡次する感情としての新選組ものを、読んだ記憶がある。
乙女チックな感傷とともに。
しかし、「聞けわだつみの声」に代表されるように、中学生だった私にはけっして読みやすいと言われるものではなかったなといったような事も・・ついでに、思い出す。
しかし、数を重ねればそう言ったものに対する目も肥えて行き
知識も増えて行く。
この本の内容に関しては、耳に新しいものも なくはなかったし、面白みもなかったわけではない。
だとしても、こんなに売れるほど?という気もしなくもない。
売れちゃってる要因の一つが、
「現代の若者が、特攻で死んだ自分たちの祖父の足跡を調べる」という構成だと想像する。
一人、また一人と、今も生きる生き残りの知己に祖父を語らせ、祖父の有様を浮かび上がらせていく。
でも、総じて人の生きざまっていうのは土壇場ではなおさら、そうそう恰好つけていられないから、子孫にほじくり返されたら赤面してしまうような事が多いもの。
この祖父、宮部久蔵は、しょっぱなこそ臆病者呼ばわりされこそするが、結局はイエス・キリストも釈尊も真っ青の聖人君子ぶり。おまけに坂本竜馬にも引けを取らない男っぷり。
…そう言った所に、私はちょっと引けちゃったのかもしれないなあ。
そう言った意味では、角田さんの「ツリーハウス」の方にリアルさを感じてしまう。
そもそも大半の史実に紛れているこの小説のフィクション性をみんなが
「実話」だと思い込み涙するところに
そうだ、そこに私は引いちゃってるのかもしれない・・・。
出だしは、第二次世界大戦中にアメリカの空母の乗組員だった兵士が、一機の零戦とそれに乗っていた男に思いを馳せるところからはじまる・・・。
その搭乗員こそが、特攻で散った祖父 宮部であるわけだが、
調査開始の一人目で「臆病者」と断言され「死にたくない」と憚らず言い続けたという祖父がどのような経緯で特攻に志願する事になったかを突き詰めて行くと言う謎解きのような趣向も絡ませられている。
その一人目の老人、長谷川梅雄に祖父をさんざんに貶められたせいで、孫たち姉弟は、かなりしょげかえるんだけれど、果敢にも次の人物に会いに四国の松山まで行く。
あっぱれ。
そして、松山の伊藤寛次の話を聞き 当初の「臆病者」としてのレッテルが少しだけ違って見えてくることとなる。
祖父は確かに命に執着していた。
言葉づかいも、軍隊になじまないヤワな雰囲気を漂わせ、確かに異端であったらしい、と。
しかし、零戦の搭乗員としてはたぐいまれなる能力を持っていた。
伊藤は、真珠湾もミッドウェーもつぶさに語る。
奇襲攻撃であった真珠湾がのちにだまし討ちのようなとらえ方をされた事に対する外務省駐米大使に対する批判。ミッドウェイでもまた真珠湾でも、指揮官が器として不足であった事。
戦争のやり方というものが根本から違っていたのではないかとの悔恨。
もちろんそれらを実質取り仕切ったのは、下っ端の彼ではなく、上級士官の指導者だったわけで、つまりは彼らに対するこれまた批判である。
実は、宮部久蔵という特攻隊員はこの語り手の健太郎にとって実質的遺伝子的には祖父ではあったが祖母が戦後に再婚しているために、再婚相手の大石賢一郎こそが真の祖父として存在していた。
つまり、祖父としての実感はまったく百分の一以下ほどだったのだ。
その後も健太郎は
病に伏せている井崎源次郎の病室を訪ねてラバウルとガダルカナルの激戦を知り、
和歌山に永井という元整備兵を訪ねては祖父の整備兵に対する真摯な態度を知り
岡山の老人ホームの谷川を訪ねては、戦争末期の日本という国の狂気を聞く。
そして千葉の県会議員を四期も務めたと言う元特攻隊員岡部に会い、操縦士の教官としての宮部の話を聞いて、祖父が厳しくも真の人間としての在り方を曲げない存在であった事を知る。
また、経済界の大物である武田貴則からは、当時の新聞というマスメディアに対する辛辣な批判を語られ祖父こそが「生き残らなければならない人」であったと聞かされる。
元やくざの景浦は、宮部こそ自分の憎む男だと言い切った。
弱虫で命を惜しむ男であると。嫌悪の対象であったと。
しかし心の底から敬愛してもいた。
彼の後の行動は、その次の次の章で語られる。
孫の健太郎と姉の慶子は、特攻基地であった鹿児島大隅半島へと向かう。
そこで特攻というものの匂いを嗅ぐ。
そしてその章のラスト、この物語の結末に重要な種明かしが待っている。
ネタバレします。
宮部があれほど渇望していた生への執着と引き換えにした者の正体を知る。
それこそが、現在の祖父、大石だったのだということ。
そして終章。
大石が、固く口を閉ざしていた過去。
宮部とのこと、祖母とのこと・・・
様々な伏線を拾い上げつつ語られ、物語は終結する。
そして語られた後に残るものは、
富士山にも届くほどに茫洋とそして燦然と輝く宮部の姿、となる。
なんだかまあ、このきれいごとっぷりが、私には相当に非現実的に思えて、やや嫌悪感を感じてしまったわけです。
美しすぎるというか・・。
まあ、フィクションなんだよなあと思えばいいんだけれども、
それにしても健太郎のお姉さん。
好きになれませんです。
どこかが、浅い女なんだよね・・・。
やっとまわってきたと思ったら、終戦記念日をまたいで読む事になった、のはただの偶然。
特攻隊の悲惨さを訴える物語は、今に生きる戦争を知らない世代の感情を揺さぶりやすいのか、時に安易に時に過激に、読む者の感情を刺激する。
かつての私も、そうやって特攻隊もの、それに屡次する感情としての新選組ものを、読んだ記憶がある。
乙女チックな感傷とともに。
しかし、「聞けわだつみの声」に代表されるように、中学生だった私にはけっして読みやすいと言われるものではなかったなといったような事も・・ついでに、思い出す。
しかし、数を重ねればそう言ったものに対する目も肥えて行き
知識も増えて行く。
この本の内容に関しては、耳に新しいものも なくはなかったし、面白みもなかったわけではない。
だとしても、こんなに売れるほど?という気もしなくもない。
売れちゃってる要因の一つが、
「現代の若者が、特攻で死んだ自分たちの祖父の足跡を調べる」という構成だと想像する。
一人、また一人と、今も生きる生き残りの知己に祖父を語らせ、祖父の有様を浮かび上がらせていく。
でも、総じて人の生きざまっていうのは土壇場ではなおさら、そうそう恰好つけていられないから、子孫にほじくり返されたら赤面してしまうような事が多いもの。
この祖父、宮部久蔵は、しょっぱなこそ臆病者呼ばわりされこそするが、結局はイエス・キリストも釈尊も真っ青の聖人君子ぶり。おまけに坂本竜馬にも引けを取らない男っぷり。
…そう言った所に、私はちょっと引けちゃったのかもしれないなあ。
そう言った意味では、角田さんの「ツリーハウス」の方にリアルさを感じてしまう。
そもそも大半の史実に紛れているこの小説のフィクション性をみんなが
「実話」だと思い込み涙するところに
そうだ、そこに私は引いちゃってるのかもしれない・・・。
出だしは、第二次世界大戦中にアメリカの空母の乗組員だった兵士が、一機の零戦とそれに乗っていた男に思いを馳せるところからはじまる・・・。
その搭乗員こそが、特攻で散った祖父 宮部であるわけだが、
調査開始の一人目で「臆病者」と断言され「死にたくない」と憚らず言い続けたという祖父がどのような経緯で特攻に志願する事になったかを突き詰めて行くと言う謎解きのような趣向も絡ませられている。
その一人目の老人、長谷川梅雄に祖父をさんざんに貶められたせいで、孫たち姉弟は、かなりしょげかえるんだけれど、果敢にも次の人物に会いに四国の松山まで行く。
あっぱれ。
そして、松山の伊藤寛次の話を聞き 当初の「臆病者」としてのレッテルが少しだけ違って見えてくることとなる。
祖父は確かに命に執着していた。
言葉づかいも、軍隊になじまないヤワな雰囲気を漂わせ、確かに異端であったらしい、と。
しかし、零戦の搭乗員としてはたぐいまれなる能力を持っていた。
伊藤は、真珠湾もミッドウェーもつぶさに語る。
奇襲攻撃であった真珠湾がのちにだまし討ちのようなとらえ方をされた事に対する外務省駐米大使に対する批判。ミッドウェイでもまた真珠湾でも、指揮官が器として不足であった事。
戦争のやり方というものが根本から違っていたのではないかとの悔恨。
もちろんそれらを実質取り仕切ったのは、下っ端の彼ではなく、上級士官の指導者だったわけで、つまりは彼らに対するこれまた批判である。
実は、宮部久蔵という特攻隊員はこの語り手の健太郎にとって実質的遺伝子的には祖父ではあったが祖母が戦後に再婚しているために、再婚相手の大石賢一郎こそが真の祖父として存在していた。
つまり、祖父としての実感はまったく百分の一以下ほどだったのだ。
その後も健太郎は
病に伏せている井崎源次郎の病室を訪ねてラバウルとガダルカナルの激戦を知り、
和歌山に永井という元整備兵を訪ねては祖父の整備兵に対する真摯な態度を知り
岡山の老人ホームの谷川を訪ねては、戦争末期の日本という国の狂気を聞く。
そして千葉の県会議員を四期も務めたと言う元特攻隊員岡部に会い、操縦士の教官としての宮部の話を聞いて、祖父が厳しくも真の人間としての在り方を曲げない存在であった事を知る。
また、経済界の大物である武田貴則からは、当時の新聞というマスメディアに対する辛辣な批判を語られ祖父こそが「生き残らなければならない人」であったと聞かされる。
元やくざの景浦は、宮部こそ自分の憎む男だと言い切った。
弱虫で命を惜しむ男であると。嫌悪の対象であったと。
しかし心の底から敬愛してもいた。
彼の後の行動は、その次の次の章で語られる。
孫の健太郎と姉の慶子は、特攻基地であった鹿児島大隅半島へと向かう。
そこで特攻というものの匂いを嗅ぐ。
そしてその章のラスト、この物語の結末に重要な種明かしが待っている。
ネタバレします。
宮部があれほど渇望していた生への執着と引き換えにした者の正体を知る。
それこそが、現在の祖父、大石だったのだということ。
そして終章。
大石が、固く口を閉ざしていた過去。
宮部とのこと、祖母とのこと・・・
様々な伏線を拾い上げつつ語られ、物語は終結する。
そして語られた後に残るものは、
富士山にも届くほどに茫洋とそして燦然と輝く宮部の姿、となる。
なんだかまあ、このきれいごとっぷりが、私には相当に非現実的に思えて、やや嫌悪感を感じてしまったわけです。
美しすぎるというか・・。
まあ、フィクションなんだよなあと思えばいいんだけれども、
それにしても健太郎のお姉さん。
好きになれませんです。
どこかが、浅い女なんだよね・・・。
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