2010年05月16日

はりまや橋物語

 「はりまや橋」は日本の3大名所である。「見てがっかりする」という不名誉な意味での名所として知られる。しかし、「ぼんさんかんざし買うをみた」というヨサコイ節の文句は、その一言に歴史の転換がこめられているように思われる。

 ということで、2007年12月に当ブログに書いた。先日、讃岐の方からコメントがあって「その後の純信」について、川之江の純信堂の記事が紹介された。調べてみると、そればかりでなく高知新聞社から「純信の実像を探る(矢野安民著)」「追跡! 純信お馬 - 駆け落ち150年 - (岩崎義郎著)」などが発刊されていて、純信・お馬の足跡も各地に残されているそうだ。
 
 はりまや橋は、播磨屋宗徳という商人が架けたことに始まる。播磨屋は播磨国飾磨の人で半士半商の高島与十郎と言う顔役だったそうだ。長宗我部元親の讃岐出兵の折、兵糧を調達したことから馴染みとなり、土佐に招かれ浦戸城下に居住したといわれる。浦戸湾の長浜に歴代の墓が埋もれて残っている。

 その後、山内一豊の城下町建設に伴い高知城下に移住した。一豊はこうした特権商人らを武士の住む郭中に近い場所に居住させた。播磨屋は町年寄役を務めることになる。さらに、慶長11年(1606)には、町役人としての仕事に専念させるために、藩庁により商売を禁止されている。この頃に、播磨屋と櫃屋とを往来する個人の橋として「はりまや橋」が架けられたらしい。「是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也」と「高知風土記」にあるという。

 さらに播磨屋は、寛文11年(1671)には櫃屋と共に大年寄役に任命され、元禄15年(1702)藩札発行の時、両家を札座(藩札発行所)の名義人にしている。その後も播磨屋は代々大年寄役をつとめ、藩主が邸宅に来遊したり、幕府の巡見使を宿泊させたりしている。

 はりまや橋は、公共の橋となり、江戸時代中期の記録によると、橋の長さは16間(約29m)、幅2間(約3.6m)であった。文政10年(1827)、橋上中央3間を除く東西両側での小商いが許された。店は「十九文屋」とよばれ、銭20文未満の子供用玩具・小細工物・生菓子類を売った。この許可を機に小商店ができ、播磨屋橋北の播磨屋町にも拡大して繁華街となっていった。五台山竹林寺の坊さんがかんざしを買ったのは、橋の南詰東側にあった「橘屋」という小間物屋であったといわれる。

 「ぼんさんかんざし」は、安政2年(1855)に実際にあった事件を歌っている。五台山竹林寺(四国88ケ所31番)に近所の鋳掛屋の娘がしばしば立ち寄っていた。娘は16才だった。若い修業僧・慶全はその娘お馬に恋をした。お馬の気をひくために彼はかんざしを買い、それを誰かに見られて噂になった。師であった南の坊住職・純信は、慶全を咎めて追放したらしい。慶全は純信を怨んでかんざしを買ったのは破戒僧・純信だと言いふらした。純信は36才の修業を積んだ僧であったが、そのために謹慎させられ、お馬は出入り禁止になった。しかし、慶全と純信がお馬をめぐって三角関係にあったと想像させるこうした経過は、事実かどうか分からない。

 純信は文政2年(1819)、江渕要作の長男として土佐市・市野々に生まれた。幼名を要といった。9歳で仏道修行のため京都に上り、帰国後、五台山竹林寺南の坊住職となった。現在、市野々には「僧純信生誕地」の案内板があり、ここにも純信堂があり、純信和尚百年祭の記念碑が建てられ、隣の歌碑には「夏の頃、菊のうたを恋しい人に遣わす」として「まち侘びし夏よりうえる菊なれば 秋咲くはなのものがたりして」とある。

 ともかく、安政2年5月、純信とお馬は手を携えて寺を抜け出し、京都をめざしたらしい。舟入川沿いを山田郷へ向かい、楠目村の安右衛門が道案内を勤めたという。さらに物部川沿いに山中にわけいった。そこには笹番所があるものの、人跡まれな山道でちょっと迂回すれば簡単に抜けられたのではないかと思われる。そして、クマザサに覆われた矢筈峠(標高1240m)を越えると、阿波・東祖谷山村に達する。昔の人は歩くことに慣れていたのか、登山に相当する逃避行を平気でやっていることに驚かされる。

 純信とお馬は吉野川に沿って池田町へ、さらに猪ノ鼻峠を越えて讃岐に入り、金比羅・一の坂の高知屋に宿をとった(一説には備前屋ともいわれる)。そこで追手に捕らえられ、土佐に連行された。

 4ヶ月の入牢の後、山田橋番所、三ツ頭番所(松ヶ鼻)、思案橋番所で3日間、面縛(晒しの刑)に処せられ、別々に追放となった。二人並んで筵に晒されているのを、多くの人が群がって見た。「お馬さんは可愛らしう御座いましたが、坊さんはいがいが坊さんでありました」「純信は四十歳ばかりに見え、肥肉鬚髯多くして美なる僧には非りしが、馬は未だ14、5歳の少女の様で肥肉色白、眼清やかにて、美婦なりき・・・」などの記録が残っている。

 お馬は安芸川以東へ追放、安田村の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公する身となった。一方純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意思で国外追放を願い、伊予国、川之江の塩屋の三軒屋・娚石(みょうといわ、本姓=川村)亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾(寺子屋)の教授となって、子弟の教育に専念する。

 お馬は、坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。純信は再び捕らえられ追放された、あるいはお馬が同行を拒否したとか、いろいろ書かれているがよく分からない。が、お馬は高岡郡・須崎の庄屋に預けられ、その後、土地の大工・寺崎米之助と結婚し、2男2女をもうけた。あるいは3人の子に恵まれたという。

 須崎市には「お馬神社」がある。今は、縁結びの神様としてお参りされているという。祠の左には、安永4年(1707)の「津波溺死之塚」が建つ。側の二股に分かれた大杉には、身に覚えの無い疑いをかけられた女性の悲話が残る。

 純信は、たまたま亀吉のもとに立ち寄った河田小竜に、お馬への手紙を託したという。小竜は手紙を届けることなく保管した。あるいは屏風に張って人前に披露したともいう。河田小竜は絵師であったが、先進的な学者でもあったようで、ジョン万次郎の取り調べに当たり、万次郎を自宅に寄宿させて読み書きを教えつつ、自身も英語を学び、友情を感じるまでとなった。小竜は、それを元に挿絵を加えて漂巽紀畧五巻を上梓し藩主に献上した。坂本竜馬とも出会い「貿易によって異国に追いつく事」が日本のとるべき道だと説いたという。

 川之江の純信堂には、純信のお馬への手紙が掲示されている。原文は全てひらがなだそうだが、掲示そのままを表記すると以下の通りである。

 「久しく遠々しく候。先ずと先ずとや御無事で御暮しと推し参らせ候。しつむ此節、川之江に寺子五、六十人ばかり世話致し居り候。とうせそもじを連れに参り申すべくと存じ居り候えともなかなか国の諾承り候にむつかしき故、たとい何年かかりても連れに行き申すべく候。左様御承知下さるべく自分に参り申さざる時は、人をやり申すべき故、お待ち下さるべくもし又それまでに嫁入りでもするか、又は心当たりの儀これあり候えばきっと存じ寄りこれあるべくかねて御噂なし置き候。誠に去年以来そもじが事にて艱難致し候事。又よき便り御座候えば川之江顔役夫婦岩亀吉と申す者のところへ尋ね参り申すべく、須崎より久万の町へ参り候えば、よりより川之江へ二十里ばかり故、どうでもして是非是非まかり越しもうすべく、琴平で金を使い、そもじが参り候わば売るなどといふ悪口に少しも御気ずかいなされまじく早く越し待ち参らせ候。先はあらあらかしこ 八月一九日 うま様 せんなり(禅之=修業時代の純信の名前)事 岡元要」

 この手紙が実物であるのかどうかと考える以前に、文面はいっさいの世間常識を無視して何の悔いも無い、お馬ひとりを求める熱情だけである。

 その純信も、亀吉の死後消息不明となった。地方の歴史家の調査によれば、純信はその後、中田与吉と名乗り結婚し、安政5年(1858)に長女サダヨ、元治元年(1864)には長男・熊太郎が誕生している。愛媛県美川村で、明治21年(1888)69歳で没し、慶翁徳念和尚として祀られているという。

 お馬は、長男・徳太郎が家業を継いで大工となり上京し、明治18年の夏、陸軍の御用大工となったのを機に一家をあげて東京に移住した。お馬は48歳となっていた。現在の東京都北区豊島2丁目10番に住み、明治36年、66才の生涯を閉じたということが、西福寺の過去帳によって確認され、境内に「お馬塚」が建てられた。

 「ぼんさんかんざし」のこの唄は、幕末から明治維新に活躍した勤皇の志士たちによって京阪でうたわれ、明治3年頃をピークに全国的に流行したそうだ。聖職者の不道徳を皮肉りながら、うらやましがってもいて、新しい価値観、新しい時代を求めているようにも聞こえる。

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