February 08, 2010

A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか/柴田元幸・沼野充義・藤井省三・四方田犬彦 編

世界は村上春樹をどう読むか世界は村上春樹をどう読むか
柴田 元幸

文藝春秋 2006-10
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ここのところ落ち込む出来事が多く、「いい歳してそんなことで悩めるなんてヒマ人だねぇ(笑)」と夫に揶揄されているのだけれど、結構私は「気にしい」である。本質的に人と話すのが苦手で内向的な性格。それに輪をかけたのが村上春樹との出会いだと思っている。

春樹の初期の作品は「デタッチメント」がテーマだと言われてきた。主人公たちは専門職に就いているかフリーターあるいは無職で、いわゆるサラリーマンの世界にはいない。本当に大切な一人か二人を別にすれば、自分のことが理解されなくてもいいと思っている。世の中の価値観―消費社会、高度資本主義―とは違う価値観で作りあげた小さな自分の世界で丁寧に暮らしている。

小学生の私が感応したのは、春樹の作品の持つ「疎外感」だったのではないかと思う。日常生活から逸脱した感じから、自分の居場所がここにはあるという感じへ。「こんなにしっくり来る世界観があるなんて」と思っていた(TVを持たないのも車の免許をとらなかったのも彼の影響だったのにいつしか春樹はポルシェに乗るようになっていた:笑)。

本書は2006年に日本で行われた村上春樹の各国語の翻訳家が集うシンポジウムの模様を採録したもの(春樹の小説は30カ国以上で翻訳されている)。基調講演はなんと「舞踏会へ向かう三人の農夫」「われらが歌う時」のリチャード・パワーズである。これがなかなか面白い。

春樹はリアルな世界を描くと同時に、その下に、あるいはそこからねじれた空間に鏡のようにパラレル・ワールドを描きだすが、パワーズはそこにミラーニューロンとグローバリズムを紐づけて論じる。春樹が多くの国で読まれている理由としてパワーズが指摘するのは、作品に登場するパスタ、チャールズ・ミンガスなどは、すでに場所の固有性を奪い、人の居場所を曖昧にするグローバル意識を作り出す要素なのだということ。

だからこそ、あらゆる国の人々の心を捉えるのは当然とも言える、それは「ナショナリティ、自己、その他かつて人をひとつの場所につなぎとめていたものたちが、グローバルな資本と貿易の互換性の流れにあっさり呑みこまれて行くのを感じて」きていているからだ。グローバリゼーションは「慣れ親しんだもの、地域的なもの」を破壊し、我々が住んでいるところは「異境」だと説く。

春樹の小説の主人公たちは、その異境に最初はこわごわと降り立ち、いつしか「発見のスリル」を示すようになる。言いかえれば、村上春樹の物語は「分散した自己を生きること、古い国家が消えていくなかで新しいコズモポリタニズム(世界主義)を生きることにめざましい心地よさを見出して」いるのだと。

最初読んだときは「なるほど!」と思ったのだけれど、こうして書いてみるとわかったようなわからないような(笑)。
本書はこういうカタい内容だけでなく、翻訳者の悲喜こもごも(?)を描き出して斜め読みしているだけでもとても楽しい。特に「夜のくもざる」所収の「スパナ」と「夜のくもざる」を各国語に翻訳してくらべるのなんてかなり笑える。だって、

「へっぽくらくらしまんがとてむや、くりにかますときみはこる、ぱこぱこ」

なんて、何て訳せばいいかわかりませんよね、やっぱり。

ところで「1Q84」の続編は4月に発売らしい。いやはや。
 
Posted by kaname at 22:11  |Comments(1)TrackBack(0) | 読書のよろこび

February 07, 2010

この胸に深々と突き刺さる矢を抜け (上・下) /白石一文

この胸に深々と突き刺さる矢を抜け〈上〉この胸に深々と突き刺さる矢を抜け〈上〉

講談社 2009-01
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この胸に深々と突き刺さる矢を抜け〈下〉この胸に深々と突き刺さる矢を抜け〈下〉

講談社 2009-01
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白石一文はこの作品で昨年山本周五郎賞を、「ほかならぬ人へ」で今年の直木賞を受賞したまさに旬の作家。私は彼のデビュー作「一瞬の光」を5、6年前に読んだだけだった。「一瞬の光」は面白い小説だったけれど、失礼ながら若干の古臭さとストレートさに違和感を持ち、次の作品を手にとろうという気には正直なところなれなかった。一度デートしてみたけれど、「ちょっと違うかな」とそれ以来会わなかった人みたいな感じ。

しかし、先日、読書家のと。さんが本書を2009年のベストに挙げていて、しかも春樹の「風の歌を聴け」以来、と書いてある。早速読んでみたら、これが思った以上に面白く、上下巻を一気読みしてしまった。

大手出版社で週刊誌の編集長を務めている42歳の主人公カワバタ。彼がビジネス上の見返りにグラビアアイドル、フジサキ・リコを抱くところから物語は始まる。東大准教授の美しい妻とは長女の後に生まれた息子を亡くして以来セックスレスの関係になっているが、定期的に会う愛人がいる。

世間で言うところの成功者であり、思い切り俗世間にまみれている人だなあと思いながら読み始めた。彼は政権党の大物Nの金銭スキャンダルをスクープしようとしているのだが、風向きが悪くなったことを感じ、「何事か流れを引き戻す儀式」として女を抱こうとするような人間なのだが、同時に彼は41歳で胃ガンを患い、再発に備えて薬を飲み続けている。カワバタは思う。

「すべてがくだらない、と何となく思った。この世界のすべてが、たしかに猛烈にくだらない。」

Nを巡るスクープ、フジサキ・リコとの再会、ガンで入院中に知り合った友人の死、パチンコ店での氏名手配犯との遭遇、会社での権力闘争など、カワバタの周囲で次々に起こるストーリーを縦軸とするなら、横軸になっているのはカワバタの思考である。

カワバタが懐疑のまなざしを向けるのは、格差社会においてのミルトン・フリードマンや小泉純一郎やイチローや松坂大輔であるし、「お金やキャリアのために仕事を優先し、乳飲み子を他人に預けている女性」である妻であるし、あるいは餓死寸前の子供たち2410人を1年間生き延びさせることができるのと同じギャラを30分のTV出演料で稼ぎだしているチャーリー・シーンである。社会や経済に関する書物からの引用がそこここになされ、マザー・テレサやアポロ13号の元乗組員が登場するなど、各所に刺激が散りばめられていて興味が尽きない。

面白かったのは、普段の我が家の会話をどこかで盗み聞きされているのでは?と思うほど、いくつもの問題提起が我が家でもよくある議論であったこと。ま、逆に言えば誰もが感じている疑問ということだろう。すべてがカワバタに共感するわけではないけれど、この社会で本当にこれって正しい?と思うことは限りなくあって、答えが見つからないまま考え続けていることはたくさんある。夫がこの本を読んだら溜飲を下げそうだ。カワバタの、女性への厳しい見方に特に共感しそう(笑)

小説、という容れものの中に、これだけの社会的かつ時事的でまた根源的でもある問いを盛り込みつつ、ストーリーで引っ張って飽きさせないというのはたいしたものだ。好き嫌いは分かれそうだが、私にはとても面白く読めた。
 
Posted by kaname at 13:08  |Comments(0)TrackBack(0) | 読書のよろこび

February 04, 2010

アムステルダム/イアン・マキューアン

アムステルダム (新潮文庫)
アムステルダム (新潮文庫)小山 太一

新潮社 2005-07
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おすすめ平均 star
star猥雑都市アムステルダムに死す
star著名作家の駄作。ブッカー賞に騙された。
star買いですが・・・。

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先日「初夜」を読んで、その的確な心理描写に強く感銘を受けていた夫(「今年のベスト10には入りそう?」「今年どころか、これまで読んだ本のベストに入るよ、この本は!」)が、まだ読んでいないマキューアン作品を片端から読み始めた。「アムステルダム」は私も未読だったので、この機会に読んでみた。

本書のブッカー賞受賞には賛否があって、前作「愛の続き」が傑作だったのに受賞しなかったから代わりに本作で受賞したのだという説もある。読んでみて驚いた。確かにマキューアンなのだけど、これまで読んだマキューアンとは一味違う。

冒頭、物語は葬儀で幕を開ける。ファッショナブルな才人で社交界の花形だったモリーが、40代半ばにして認知症を患って亡くなったのだ。そこではモリーの夫と、奔放だった彼女の元恋人たちが顔を合わせる。出版社社長、名門新聞の編集長、有名作曲家、次期首相を噂される外務大臣。いずれも高い地位についているインテリだ。かつてモリーを愛した編集長と作曲家は数十年来の親友でもあるが、やがて小さな行き違いが生じ、彼らの間で少しずつ歯車が狂い始める・・。

一人の女の死をきっかけに人間関係が崩壊し、狂気に駆られていく男たちの姿を描いたこの作品、これまで読んだマキューアン作品に比べて幾分俗っぽい?ような印象。淡々と余分なものを削ぎ落としたような文章は相変わらず。なのに俗っぽさを感じるのは、これまで読んできたマキューアン作品がどちらかというと重厚で私の中では「文学作品」という感じが強く、この作品の持つモダンさと諧謔味が、なんだか意外な感じがしたからだ。

中心となる男性4人はそれぞれに汚いところを抱え、ある意味とてもリアルに描かれている。それを描き出すマキューアンの冷徹な視線に読んでいた私は震え上がるところもあるのだが、深刻なラストの割には重苦しさがない。どことなく皮肉られているような、おちょくられているような感じもする。このへんのバランスが、さすがマキューアンなのである。
 
Posted by kaname at 21:24  |Comments(2)TrackBack(0) | 読書のよろこび

February 03, 2010

日本辺境論/内田 樹

日本辺境論 (新潮新書)日本辺境論 (新潮新書)

新潮社 2009-11
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いつも思うのだけれど、内田センセイの本を読むと「なるほど!」と膝を打ちたくなる私のような人間と、「無理やり理屈をこじつけて・・」と眉をしかめる人とに分かれるのではないだろうか(というか、内田ファンの私ですら、時々「センセイ、これはいくらなんでも飛躍しすぎでは・・」と思ってしまうのだが)。

今回の本で私のツボだったのは、第一章の「日本人は辺境人である」のくだり。他国との比較を通じてしか自国の国家戦略を語れないというのは卓見だと思う。自らの思想や行動の一貫性よりも場の親密性を優先する態度をとり、常に受動的である、「きょろきょろしている」、それが日本人だと。だからこそ、東京裁判で戦争主導者たちが「個人としては戦争したくなかったが、そうせざるを得なかったのだ」と一様に答えたのだと。

で、なぜそうなのか?と歴史を紐解くと、そもそも日本は成り立ちとして「中華王国」に対する朝貢国だった。魏帝から卑弥呼が「親魏倭王」の称号を与えられたというのは、魏帝から辺境の自治区の支配者として認められた、ということ。日本列島の政治意識は「辺境民としての自意識から出発した」からなのだ、という考え方は、私には目からウロコだった。

ちょっと飛躍が多くてわかりづらいだろうか。詳しく知りたい方はぜひ本書をご一読ください(笑)

さらに、先日来、加藤陽子佐藤亜紀の本を読んでなぜ日本があの戦争を戦ったのかについて考えをめぐらしていた私には、内田センセイの主張はかなりフィットしたのだけれど、たとえばこんなロジック。

第一次大戦で疲弊していたヨーロッパの各国は国際平和と軍縮の必要性を実感し、ヴェルサイユ講和会議で新しい国際秩序を作り出そうとしていた。ところが日本はこれまで華夷秩序というコスモロジーの中でやってきたので、近代に入り今度は中国に変わり欧米列強を世界の中心と捉え、その手法を適用していく。「生き延びること」、つまり列強に「やらなければやられる」という一心でやってきた日本は、ヴェルサイユ講和会議の場で自国の権益以外の主張をしなかった。結果として、英国は「日本を『国際新秩序』へのパラダイム転換期に、日本はそれに何の関心も示さず、19世紀的な帝国主義スキームにしがみついていた」と捉え、日英同盟の解消に発展したのだと。

確かに内田センセイの言うとおり、日本人は「国際社会はこれからどうあるべきか」といった大きなイシューになると口をつぐむというのは本当にそうだと思う。大きな物語が語れない私たち。日本人が自前の世界戦略を持たないからだ、というのは説得力があるなあ。

そんな「辺境人としての日本」を肯定して本書は終わる(もちろん、この話だけではなくて、他の章ではもっと違った切り口で語られる)。本当にそうか?と思わないでもないのだけれど、相変わらずのウチダ節にするするとその疑問を飲み込んでしまった。もう少し寝かせて読み返したら、また違った感想を持つかもしれない。
 
Posted by kaname at 21:12  |Comments(0)TrackBack(0) | 読書のよろこび

February 02, 2010

陽気な黙示録―大蟻食の生活と意見‐これまでの意見編/ 佐藤 亜紀

陽気な黙示録―大蟻食の生活と意見‐これまでの意見編 (ちくま文庫)陽気な黙示録―大蟻食の生活と意見‐これまでの意見編 (ちくま文庫)

筑摩書房 2010-01-06
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昨夜は久しぶりの雪景色に大興奮。夫の愛車やら、遠くに見える桜の木やらに雪が積もっていく様子をカーテンの間からちらちらと、何度となく眺めていた。音が吸い込まれるような夜。
それなのに、今朝カーテンを開けたら、あっけなく白い世界は汚されていた。道には大きなタイヤの轍。現実はそんなもの。

さて。本題である。
ちくま文庫の表紙をみて、「なにこれ!」と夫がつぶやいた。飛行機がツインタワーに突っ込み、ビルは炎上し、ドス黒い雲が立ち込めている。そう、9.11テロの写真だ。

聡いひとである。
よく切れるナイフのような、すぱっとした発言に時折ひやりとさせられつつ、博識と論理性に裏打ちされた意見表明に圧倒される。

これまで各誌に発表されたエッセイ等を集めた本書、古いものでは94年が初出ということだから、彼女は当時30歳前後のはずなのだ。すごい。こんな洞察、その年頃の自分には絶対できなかったし、今もできないなぁ・・(自分と比べるあたりがそもそも間違っているが:笑)。本を読んでいて作者に会ってみたいと思うことは意外と少ないのだけれど、佐藤亜紀の実物に会ってみたいなあ。いったいどんな女性なんだろう。

第一章「文明の衝突?」では、たとえば過去の戦争について書く。

「私のように、大日本帝国の悪行の数々は、アジアのすみっこの貧乏国が何故か列強の一国だと思い込んで植民地を持とうとした勘違いと、個別の戦闘では勝てても全体としては絶望的なまでに勝てない戦略音痴と、植民地支配には何とも不向きなシステム的思考の欠如によるものであって、別段悪意によるものではなかった、と考えているとすれば尚更だ。善意溢れる下手糞は邪悪な巧緻よりも恥しい。」
ちょうど今読んでいる内田樹「日本辺境論」ではまた違う解釈で面白い(こちらは読み終えたらアップします)。


また、第四章「掟は天にはない」では、文学についてだ。手厳しいので心の準備をしてからどうぞ。

「大方の書き手はむしろ恐ろしく頭が悪い。故に、作者の自作に対するコメント、これは端から蒸ししてかかってよろしい。或いは自作にそれらしいコメントを与えることができる作者、自分の小説には試験問題のごとく百字で纏められる主張があるのだという作者など相手にしなくてよろしい、とも言える。自分の書いているものがまるでわかっていないか、わかる程度のものしか書けなかったのかの、どちらかだからだ。理想的な状態において、作者は常に作品より小さい。」

まあ確かにそうかもしれない。そして、読むという行為の創造性について作者は書く。あまりにも我々は左から右へと本を読みすぎた、読んだような気になりすぎたのだ、と。

「本を読む快感とは、そんなものではなかった筈だ。同じ文章、同じ物語が此方のアプローチに応じて変幻自在に姿を買え、意味を変えるのが、私が知る限りでは、文学の楽しみだった。残念ながらそういう読み方のできる小説は、現在の日本では殆ど書かれていないし、書かれる見込みもない。」

ああ、そして。
同じ章の別のエッセイで、彼女は通勤電車で本を読む人の多さに驚き、ブログで本の感想を毎日アップしているような輩を一刀両断にする。

「本を商売にしている人間が一体何を言い出すのか、とお思いかも知れないがさにあらず。この常軌を逸した読書の普及ぶりは、日本語文学崩壊寸前の状況と、表裏一体だからだ。
考えてもみてほしい―通勤電車の中で読んで理解できる本というのは、一体どういうレベルにあるのか。」

うう、確かに。本を読んで、私は何かを考えたのか?字面を追って、誰もが言いそうなことをそれらしく書いているだけじゃないの?何度も読み返し、その意味をじっくり味わうような読書をしているのだろうか?

歳をとればとるほど、表面的な人間になり、表面的な思考しかできなくなっていることを見透かされたようで、なんとも耳が痛いのである。
 
Posted by kaname at 20:46  |Comments(8)TrackBack(0) | 読書のよろこび

February 01, 2010

THIS IS IT

マイケル・ジャクソン THIS IS IT デラックス・コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]マイケル・ジャクソン THIS IS IT デラックス・コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2010-01-27
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待ちわびたDVDの発売日がやってきた。

昨年6月のマイケルの死と、その後の騒動―マイケル・リバイバル的な―は、なんとなく自分をやましい気持ちにさせていた。マイケルの全盛期である80年代、世間の喧騒とは裏腹に、ティーンネイジャーだった私は特に彼の音楽を熱心に聴いていたほうではなかった。今もそうだが、ど真ん中から外れたものに愛着を感じるたちだったから。あるいは「マス」というものに単に反抗したい年頃だっただけかもしれないが。

一方で、当時から今も一貫してマイケルの大ファンである夫は、これまでも幾度となくYOUTUBEで全盛期の映像を見ていた。近年では、音楽よりもスキャンダルで話題になることが多かったマイケルだったが、夫は変わらず彼の音楽を愛し、ダンスに見惚れていた。彼のライヴの中でも最高峰と言われるブカレスト・ライヴのカッコよさ。「ビリージーン」の長い、息もつかせぬ緻密なパフォーマンス。半ば無理矢理映像を見せられているうちに、彼がいかにKING OF POPだったか、不世出のアーティストであるかということを私も認めざるを得なくなっていた。

そんなとき突然の訃報がやってきた。皮肉なことに、亡くなった後にふたたび彼はチャートを駆け上がり、過去のDVDがバカ売れした。自分は、彼を冷遇してきたような気がしてやるせない気持ちになった。

しかし、このDVDを観て、そんなこと感じる必要がないんだということがよくわかった。マイケルのバックで踊るため、600人のダンサーが世界中から駆けつけた。オーディションに参加し、抱き続けてきたマイケルへの熱い思いを語る。ロンドン公演のプレス発表では、熱狂的なファンの叫び声で会場が満たされる。世界中にはマイケルを待ち続けるコアなファンがたくさん存在していたのだ。

THIS IS ITの中で、マイケルはスタッフに繰り返し言う。「みんなの全力を尽くして欲しい。」「愛だよ。」
理想を追い、新しいアイディアを出し、小さなこともけして疎かにしない姿勢に、彼のこのライヴに賭ける意気込みを、このライヴを唯一無二のものにしようとしていたことを感じる。誰もみたことがないショウを本気で作ろうとしていたマイケル。

メンバーも見事にそれに応えている。音楽だけではない。スワロフスキーを何万個も縫い付けた衣装や、ライヴのために開発された、電飾で光る衣装。50年代のフィルム・ノワールにマイケルが登場するPV、スリラーの3D映像。空中バレエやシルク・ド・ソレイユのようなパフォーマーたち。妥協を知らない人々の手になる前代未聞のショウが舞台で繰り広げられたはずだ。もしも、マイケルがあのまま生きていたら。

マイケルはギネス認定も念頭においていたようである。
彼は最後までなんと罪作りだったことか。一度でいいから、なぜこのライヴを実現させてくれなかったのか。最盛期に劣らぬしなやかな身体の動き。歌声。あの身体が特別に誂えられた衣装に包まれ、PVをバックに歌い踊ると、観客は現実と夢との区別がつかなくなっていたことだろう。マイケルは軽々とその境界線を超え、はるか遠くに行ってしまったのだ。
 

January 31, 2010

東御苑→三の丸尚蔵館→オーグードゥジュール ヌーヴェルエール

土曜は快晴で、皇居付近は気持ちのいい景色が広がっていた。友人のちゃくらいさんと会うことになっていて、彼女の提案で東御苑の散策後、ごはんを食べにいくことになったのである。私は職場でこそ「まじめだよね〜」とよく言われるが、ちゃくらいさんに較べたら!

大学の入学式で知り合った彼女はとってもまじめで温厚な女性。奇遇なことに就職先も同じで、同期で仲の良い6人のうちの一人だった。しっかり者で個性豊かな女性ばかりだったが、私以外の5人が退職してもう10年近くになる。いまだにそのうちに何人かと交流を続けているのはちゃくらいさんくらいのものだろう(私は年賀状だけのつきあいになりつつある)。これは彼女の人徳のなせるわざだなあと改めて思う。

竹橋で待ち合わせ、平川門を通り頃には多くのジョガーとすれ違う。ジョギングブームって80年代だったっけ?第二次ジョギングブームとも言える昨今、土曜の皇居周辺の雰囲気は、普通に歩いている我々のほうがおかしく感じられるほど走る人でいっぱい。ご近所、というのもそう多くはないだろうから、わざわざ電車に乗ってここまで来て走っているんですよね?そう思うと奇特なひとたちだなーとも思うが、走りやすいとか気持ちがいいとか一週5キロで数えやすいとか(?)いろんな理由がきっとあるのだろう。


0130-1.jpg

平川門から入って梅林坂をあがっていくと、梅は、4分の1くらいの枝しかまだ咲き始めていない。私は梅が好きだ。あの、上品でえも言われぬ香り。曲線で描くと漫画チックにデフォルメできるユーモラスなかわいらしさ。私にとっては、桜が薄幸の美女だとすると、梅は、おきゃんな、いいところの家のお嬢さん、というイメージである。

桃華楽堂や天守台を過ぎて、初めて三の丸尚蔵館に入る。今の展示は、御成婚50年・御即位20年記念特別展「両陛下−想い出と絆の品々」。入ってみると人気の美術展並みに混雑している。天皇皇后が各地を訪問した際に献上された品々だから、確かに見ごたえがあるのだ。螺鈿細工の施された硯、織物、備前や九谷などのやきもの、籠など。

その後のランチは新丸ビルまで歩いて、「オーグードゥジュール ヌーヴェルエール」で。
オーグードゥジュールには良い印象を持っていたので、ちゃくらいさんが予約してくれたときには嬉しかったのだけれど、我々の第一希望だった日本橋のメルヴェイユは10日前だったので既に予約がとれず。ヌーヴェルエールはミシュランの星がついているのにメルヴェイユのほうが人気なのだなあ。次回チャレンジしなければ。

入ってみると、思いほか狭い。全部で20席ちょっとだろうか。ガラス張りの窓際は夜景がきれいなことでも知られるヌーヴェルエールだけれど、現在は東京駅が改装中で残念ながら景観を楽しむ感じではないので、予約される方はご注意ください(笑)。


0130amuse.jpgアミューズ。
チーズのフィナンシェと豚のリエット、野菜のマリネ。まあこれは普通かな。










0130-2.jpg前菜。
私は本日の前菜ということで、リードヴォーのキャラメリゼを選んだ。焼肉屋さんに行くとホルモンは外せない私。仔牛胸腺のぷりっとした食感。ああ、このチョイスでよかった。初めて気づいたけれど、キャラメリゼって照り焼きのようなお味。だからすごくこの手の肉と合うんだけれど。


0130-3.jpgメインは本日のお魚ということで、真鯛を。あんきものソースというのに惹かれて。
盛り付けの美しさが、オーグードゥジュールグループのひとつのこだわりのようで、写真はイマイチですが実物はとっても綺麗だった。





0130-4.jpgデザート。
私はゆずのクリームブリュレ、さつまいもアイス添えを選んだのだけれど(酸味が強いクリームブリュレというのはかなり新鮮)、ちゃくらいさんのチョイスした苺とピスタチオのデザートがフォトジェニックなのでそちらをご紹介。色合わせといい、デザインといい、惚れ惚れするくらい美しかった。

女同士、積もる話をしていると、時間はあっという間。そろそろ・・と思う頃、ハーブティをサービスで出していただいた。こういう対応はさすが。ワイングラスが空いていてもなかなか聞きに来てくれなかったのは、まあ満席だから仕方ないかも。

お料理は、どれも美味しいけれどインパクトに欠ける気がするというのがちゃくらいさんの弁で、まさに同感。グラスワイン(赤)は1400円から。お料理はけして高いとは思わないけれど、うちの夫のようにランチでも4杯は飲まないと気がすまない人だと、やっぱり安くはないかなあ、というのが感想である。
 
Posted by kaname at 17:06  |Comments(2)TrackBack(0) | 美味あれこれ

January 27, 2010

昭和天皇のお食事/渡辺誠

昭和天皇のお食事 (文春文庫)昭和天皇のお食事 (文春文庫)

文藝春秋 2009-01-09
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すごく面白いからいいから読んでみな、とは夫の弁。特に皇室ウォッチャーというわけでもない私だけれど、そう言われたらやっぱり読んでみたくなる。

宮内庁の大膳課に勤務していたフランス料理人・渡辺誠さんの本。読んでみたら、これが滅法面白い(もちろんfunnyという意味ではなくてinterestingね)。ざっくり内容を分類すると、
1.昭和天皇のお食事
2.生い立ち、料理人修行
3.東宮御所(皇太子)のお食事
というところだろうか。

料理人ってここまで徹底したプロフェッショナルなんだ・・とか、昭和天皇ってこんなものを召し上がっていたんだ・・とか、皇太子ってこういう人柄なんだ・・といった新鮮な驚きの連続でまったく飽きさせない。この本を読むと、いろんなエピソードを人に話したくなること請け合い。皇室や料理に関するトリヴィア満載で、夫がすすめてきた理由がよくわかる。

例えば、昭和天皇の項で出てくる柏餅事件。
柏餅の葉をつけたまま出してしまい、著者は後で大目玉をくらう。天皇家ではお皿に盛り付けられたものはすべて食べられるもの、という掟があるそうで、天皇は柏の葉を中央の葉脈を残してばりばり召し上がってしまったのだそうだ。周囲に女官たちがいるのだからどうして注意して差し上げないのかと不思議に思う著者。ところが、天皇への直答はご法度。これは食べていいのか?と聞かれたら答えてもよいが、仕える側からはけして口にしてはいけないのだそうだ。

それから、那須の御用邸滞在中、山に出かけるときなどにサンドイッチを作る話。昭和天皇はイチゴジャムのサンドイッチがとりわけ好きだったそう。パンを12切りにして、具をはさんで箱に収めるのだけれど、切り目がわからないほど厚みを調整してきっちり詰められているので新人は「本当に切れているんでしょうか」と聞くのが定番だったとか。自分の皿にイチゴジャムのサンドイッチを3切れとらせて、「あとは皆に」と随員に回すように言い(もちろん随員分の弁当も用意している)、全員にゆきわたってから食べ始めたというエピソードも、人柄をしのばせるようで印象深かった。

このように昭和天皇の食事を担当するようになる渡辺氏だが、料理の世界に入ったのは18歳のとき。高輪プリンスホテルに入社する。料理人修行が厳しいと聞いたことがあるが、渡辺氏の修行時代の過酷さは想像をはるかに超えるものだ。例えば23時に仕事を終えたら盛り付け台の上にタオルを敷いて仮眠。午前1時には起き出して、先輩たちが揃う3時、4時までに掃除を済ませておく。自宅で寝る日のほうが少なかったという。

一人前の料理人となり大膳に職場を移してからも、さらに厳しい指導が待っていた。晩餐会の献立の中にグリーンピースのクリーム煮があり、なんと150人分のグリーンピースの皮―鞘ではなく、薄皮である―を一人で剥いたという話。じゃがいもをまん丸に剥いたつもりが、先輩が調理台の上を転がしてカーブしたら、「まん丸に剥けていたら、まっすぐ転がるはず」と言われ、すべてごみ箱に棄てられてしまった話。私のようなこらえ性のない者には考えられないほど、完璧主義の人たちの職場だったようだ。

渡辺氏が述懐しているように、大膳の流儀も時代とともに変わり、今はこんなふうではないと言う。確かに、美しさや舌触りのために惜しみなく野菜や魚の端を落とすことなど、今なら食べ物を粗末にしていいのか、エコの観点からいかがなものかと、あちこちから批判が飛んできそうだ。ただ、渡辺氏のように完璧な料理を天皇にお出しすることに誇りを見出していた人には、そこに一抹の寂しさがあったようだ。

真のプロフェッショナルとして、けして手を抜かず、相手に喜んでもらうことだけを自らの喜びとして生きたひと。ひとつのことを極めたひとの凄さに感服。
 
Posted by kaname at 22:42  |Comments(4)TrackBack(0) | 読書のよろこび