2012年04月08日
伊坂幸太郎『PK』
■ 三崎亜記『決起!』が過去を変える力の話しならば、伊坂幸太郎『PK』(講談社・2012年)には、未来が見える話しが出てきます。未来が見える話しといえば、有名なのは、デビット・クローネンバーク監督作品の映画『デッドゾーン』(1983年)ですね。原作は、スティーヴン・キングです。本書でも、登場人物の作家が、「特殊能力を持った人間が政治家と対決する話し」を発表して、評論家から『デッドゾーン』の二番煎じと揶揄されたと言っています。■ 『PK』には、3つの中編小説が収められています。そして、それぞれの話には、いくつかのエビソートが平行して語られていきます。表紙のドミノが象徴しているように、それぞれのエピソードは、1枚のドミノのようであり、その連なりが大きな物語を形づくります。
ワールドカップのアジア予選でPKを決めたサッカー選手。このサッカー選手がPKの直前に同僚に声を掛けられる、その内容が気になって仕方がない大臣。謎の男から、言うとおりに書き換えないと「大変なことになる」と脅される小説家。未来の出来事が携帯で知らされる警備会社の営業マン。未来に起こる人類の破滅を救うためにある依頼を受ける「私」。そして、人と握手するために5秒間時間を奪う特殊能力を持つ「僕」。それぞれのお話がどのように繋がるのか、繋がらないのかは、読んでのお楽しみ。
■ 私たちの行為には、意図した結果と、そして、無数の意図せざる結果がともないます。私たちは、この意図せざる結果にどこまで道徳的な責任を負うことになるか。意図した結果が得られず、意図せざる悪い結果が生まれるのを恐れて何もしないのが「臆病」。意図した正しい結果が得られると信じ、意図せざる結果も引き受けようと行動するのが「勇気」。『PK』のなかで繰り返し引用される言葉が、「臆病は伝染する」、そして「勇気も伝染する」。『PK』は、その勇気が世界を変える可能性についての物語と言ってよいかもしれません。
2012年04月05日
三崎亜記『決起!』
■ 三崎亜記さんの「コロヨシ」第2弾『決起!』(角川書店・2012年)を読みました。「コロヨシ」は、高校の部活でのみ許された「活動制限スポーツ」掃除に打ち込む高校生たちを描く「部活小説」とも読めます。あるいは、主人公の樹に掃除の手ほどきをしつつ謎の失踪を遂げた祖父、そして樹が掃除をすることに激しく反対する両親、そういった家族の繋がりと確執を書いた「家族小説」とも読めるでしょう。あるいはまた、かつての大戦で敗戦を喫した架空の国を舞台にした「ファンタジー」としても読めます。いろいろな読み方、楽しみ方のある物語です。この第2弾では、前作では明かされなかった、さまざまな謎が解き明かされていきます。なぜ樹の祖父は、失踪したのか。なぜ樹の両親は、掃除を嫌うのか。なぜ樹のライバル大介は、突然掃除に真剣に取り組むようになったのか。なぜ樹のペアである偲は、故郷帰ってしまったのか。なぜ樹を指導してきた顧問の寺西先生は、学校を辞めてしまったのか。そして、なぜ掃除というスポーツが高校時代にのみ許された「活動制限スポーツ」と決められたのか。こういった数々の謎に対する答えが、樹と偲の成長とともに明らかにされていきます。いろいろな伏線が余さず回収されていくところは、「ミステリ」さながらです。
■ この物語の根底には、「国家と国民の記憶」にかかわる問いがあります。国家は、ときに、国の歴史を捏造し、国民の記憶をねじ曲げ、国家の正統性をその作られた歴史に基礎づけようとします。それは、国家にとって、1つの「統治のテクノロジー」だからです。いっそのこと、国民の記憶自体を直接書き換えることができたなら。そんなふうに考える国家の指導者もいるでしょう。では、そんな大きな力が与えられた個人は、その力をどう扱ったらよいのだろうか。樹と偲は、迷い、悩み、苦しみながら懸命に答えを見つけようとします。
今日は、私の勤める大学の入学式。入学する学生たちも、樹や偲のように、迷い、悩み、苦しみながら逞しく成長していって欲しいものです。爆弾低気圧も去って今日はいい天気です。頃よし!
タグ:大学
2012年03月25日
「救済の憲法」と「与えられた憲法」
■ 善と悪は、まったく異なるカテゴリーに属するわけではない。むしろ、善のなかにすでに「悪の芽」が胚胎されていたり、善の堕落した形が悪であったりすることのほうが世の中多いのではないか。「行きすぎた勇気」が無謀であり、「過ぎた正義」が独善であるように。このような善と悪の関係について見方が、Jack Balkin,Constitutional Redemption: Political Faith in an Unjust World (Harvard UP:2011)の議論の底流にある。本書のキーワードは、「物語」、「救済」、そして「信仰」の3つでしょう。Balkin教授の議論を乱暴に要約するならば、アメリカ合衆国憲法は、その制定時から奴隷制を容認し、ときに奴隷制を合理化するという「重大な悪」を抱え込んでいた。それにもかかわらず、憲法の正統性が疑われなかったのは、いずれ、その悪は取り除かれ、よりよい世界が実現するに違いない、という「救済」の「物語」を多くのアメリカ人民が信じていたからにほかならない。このような「救済」への「信仰」がアメリカ合衆国憲法の正統性を支えてきたのだとされます。
Balkin教授は、一方で、憲法を過度に理想化し「偶像崇拝」に堕することを戒め、しかし、憲法が内包する「悪」ゆえに、憲法を「悪魔」との契約としこれを忌避する態度も間違いであるとします。また、Balkin教授は、「何が憲法か」を判断する権限を人民一人ひとりの手に取り戻す「憲法プロテスタンティズム」を支持しつつ、「何が憲法か」を最終的に確定する権威を連邦最高裁の裁判官に与える「憲法カトリシズム」の必要性を説きます。さらに、憲法の解釈理論の2つの対立する流れである、「生きた憲法」論と「原意主義」の統合を目指していきます。最後の点は、近著Living Originalism(Belknap Press:2011)でより詳しく論じられています(未読ですが)。
■ 本書の議論は、2つの意味で、日本の読者にはすーっと腑に落ちるものではありません。1つは、議論がきわめて宗教的な色彩を帯びているからです。もう1つは、アメリカ合衆国憲法固有の歴史と伝統を前提にした議論だからです。Balkin教授の議論が日本にも通用する「普遍性」を持っているかは、いまの私には判断がつきません。もちろん、Balkin教授自身も、そのような「普遍性」を期待して本書を書いたわけではないでしょう。
それでも敢えてBalkin先生の議論に乗っかって論じてみましょう。日本国憲法を支える「物語」はどのようなものになるか。戦後日本には、2つの憲法の物語が拮抗していました。1つは、敗戦後、連合国(アメリカ)によって「押しつけられた憲法」であるという物語(「改憲の物語」)であり、もう1つは、「贈り物としての憲法」(誰かに贈られたかはともかく)という物語(「護憲の物語」)です。「押しつけられた憲法」の物語は、日本国憲法の正統性を否定するものであり、それ自体「憲法の物語」と呼ぶにふさわしいかどうかはわかりません。しかし、この2つの物語は、その正統性の是非についての見方は180度異なるけれども、いずれも「与えられた憲法」の物語である点では共通しています。オリジナリティのない手垢じみた議論ですね。止めておきます。
2012年03月18日
Lee C. Bollinger, Uninhibited, Robust, and Wide-Open(2010)
■ アメリカの第1修正法学の第一人者のBollinger教授のUninhibited, Robust, and Wide-Open: A Free Press for a New Century(Oxford UP:2010)をようやく読む。アメリカ連邦最高裁が確立してきた表現の自由の法理には「3つの柱」があるという。第1の柱は、検閲の禁止である。その代表的な判例が、本書のタイトルの由来でもあるNew York Times v. Sullivanです。第2の柱が、プレスの特権に対する消極的な姿勢である。第3の柱が、印刷メディアと放送メディアとの二元的保障である。第3の柱は、多様な情報の流れを確保するための制度的な仕掛けである、というのがBollinger教授の見立てです。
本書の1つの狙いは、この「3本柱」がメディアの商業化とグローバル化のなかで大きく揺らいでいることを様々な事例を挙げながら指摘し、それに対して警鐘を鳴らすことです。グローバル化する世界において、国際問題について多様な情報が必要です。しかし、外国の特派員や通信社は、取材活動が厳しく制限された状況で報道を行わなければならない。報道の世界では、「アメリカン・スタンダード」は決して「グローバル・スタンダード」ではなく、報道のためにときに妥協を余儀なくされる。このことが、結果的に「3本柱」を掘り崩すことになります。
本書のもう1つの狙いは、グローバル化する世界においてますます「強いプレス」が必要であることを説明し、「強いプレス」の確立に必要な方策を具体的に提示することです。Bollinger教授は、インターネットは決して「プレス」の代わりにはならないことを力説します。同感です。
本書の1つの狙いは、この「3本柱」がメディアの商業化とグローバル化のなかで大きく揺らいでいることを様々な事例を挙げながら指摘し、それに対して警鐘を鳴らすことです。グローバル化する世界において、国際問題について多様な情報が必要です。しかし、外国の特派員や通信社は、取材活動が厳しく制限された状況で報道を行わなければならない。報道の世界では、「アメリカン・スタンダード」は決して「グローバル・スタンダード」ではなく、報道のためにときに妥協を余儀なくされる。このことが、結果的に「3本柱」を掘り崩すことになります。
本書のもう1つの狙いは、グローバル化する世界においてますます「強いプレス」が必要であることを説明し、「強いプレス」の確立に必要な方策を具体的に提示することです。Bollinger教授は、インターネットは決して「プレス」の代わりにはならないことを力説します。同感です。
2012年03月10日
柳広司『キング&クイーン』
■ 『グレイヴディッカー』は、映画的手法を駆使した小説だとすれば、柳広司『キング&クイーン』(講談社・2012年)は、映画では難しい、小説ならではのトリックが堪能できるミステリです。■ 安奈は、祖父から古武術の手ほどきを受け、警察官だった父から強い正義感を受け継ぐSPでした。しかし、彼女は、政治的な思惑から警護対象だった政治家を「見殺し」したことから、SPの仕事に欠かすことのできない「誇り」に疑問を抱く。結果的に、安奈は辞表を出すことになります。そんな彼女がバーテン兼「用心棒」として働いてた六本木のバーに、常連客のホステスが仕事を持ってきます。それは、チェスの元世界チャンピオンのアンディー・ウォーカーの警護でした。
アンディーは、傍若無人で、チェスのわからない奴はみんな「馬鹿」だと言って憚らない嫌味な男で気まぐれ。チャンピオンという「地位」にはまったく拘らず、最初の防衛戦の前に雲隠れし、その後10年間消息を絶つ。復帰戦で現チャンピオンを打ち負かすも、またしても行方知れずに。そんなアンディーが日本にいて、謎の男たちに拉致それそうになったという。安奈は、渋々その警護を引き受けることになります。「目の前で困っている人は見捨てない」という父の教えに従って。
■ 物語は、安奈によるアンディーの警護を主軸に、安奈がSPを辞めるに至った話しと、アンディーのチェスを始めた頃の「天才」ぶりのエピソードが挿入されながら進みます。アンディーの警護が「白」の物語ならば、アンディーの「神童」ぶりは「黒」の物語です。そして、盤上の白黒の模様は、最後の最後に反転します。もちろん、よくある手と言えば、よくある手です。しかし、騙され知りつつ楽しむのがフィクションの楽しみですから、柳さんの騙しに気持ちよく騙されてほしいと思います。
2012年03月07日
Andrei Marmor,Philosophy of Law
■ 最近は、買った本だけでなく、読んだ本すら忘れてしまうので、とりあえず備忘録代わりに何でも記録しておこう。Andrei Marmor,Philosophy of Law (Princeton U.P.2010) 読了しました。Marmorは、おそらく、Hans Kelsen、H.L.A.Hart、Joseph Razの流れを汲む最も正統な法実証主義者といってよいでしょう。この本は、そのMarmorの法理論のエッセンスを詰め込んだ一冊で、きれいに枝葉を切り払い、法実証主義の現在の到達点をくっきりと示した好著です。余計なものがないからといって無味乾燥な本ではなく、具体的な事例を的確に示すことで、読み手を飽きさせることがありません。
本書では、まず、Kelsenの純粋法学から出発し、法の妥当性を道徳的な正当性から切り離すことの重要性を確認したうえで、その妥当性を仮定的な「根本規範」に依拠することの限界を指摘します。そのうえで、法の妥当性をその社会で生きる人々の信念や態度に求める、H.L.A.Hartの議論を支持します。しかし、Hartが論じるように、法は「社会的ルール」の一種であるが、その規範的性格の本質は「権威的な指示」にあるとし、Joseph Razの法理論にMarmorは与します。そこから、法の解釈的性格から法と道徳の峻別を否定するRonald Dworkinの議論と正面から対決していきます。
■ Marmorの議論は、きわめて分析的です。しかし、その議論は、極端に走りがちな哲学的議論を抑え、私たちの法についての「常識」を踏まえたものであり大変説得的です。次年度の法哲学の講義は、この本をベースに展開する予定です。うーん、我ながらチャレンジング。
本書では、まず、Kelsenの純粋法学から出発し、法の妥当性を道徳的な正当性から切り離すことの重要性を確認したうえで、その妥当性を仮定的な「根本規範」に依拠することの限界を指摘します。そのうえで、法の妥当性をその社会で生きる人々の信念や態度に求める、H.L.A.Hartの議論を支持します。しかし、Hartが論じるように、法は「社会的ルール」の一種であるが、その規範的性格の本質は「権威的な指示」にあるとし、Joseph Razの法理論にMarmorは与します。そこから、法の解釈的性格から法と道徳の峻別を否定するRonald Dworkinの議論と正面から対決していきます。
■ Marmorの議論は、きわめて分析的です。しかし、その議論は、極端に走りがちな哲学的議論を抑え、私たちの法についての「常識」を踏まえたものであり大変説得的です。次年度の法哲学の講義は、この本をベースに展開する予定です。うーん、我ながらチャレンジング。
2012年03月03日
高野和明『グレイヴディッガー』
■ 『ジェノサイド』で昨年のミステリの主要なタイトルを総なめにした高野和明さん。21世紀に入ってからの江戸川乱歩賞受賞作のなかで群を抜いて面白い、『13階段』。この受賞作後の第1作が『グレイヴディッガー』(角川文庫・2012年)です。この度、講談社文庫から版を変えて角川文庫から再刊されました。『13階段』が持っていたサスペンスの熱を持続させた、タイムリミット・ミステリーです。■ 主人公八神は、その悪党顔に違わぬ、悪党。しかし、殺人や強盗などの粗暴犯ではなく、せいぜい脅迫と詐欺で小金を稼ぐタイプの、いうなれば小悪党です。その彼が、人生をやり直そうと、骨髄バンクにドナー登録をし、ついに2日後には移植手術を待つ身となつた。入院前に、金を借りようと知り合いを訪ねると、その知り合いは既に殺されていた。しかも、全裸にされて、両手足は奇妙な方法で縛られ、ナイフで十字架が刻まれ、風呂で釜ゆでにされていた。その部屋は事情があって八神名義で借りたもので、八神は「やばい」と直感します。
そこから、彼の三重の逃走劇が始まります。殺人の重要参考人として警察に追われ、殺された知り合いの仲間から拉致されようとし、そして、謎の猟奇殺人者「グレイヴディッガー」に見えない火を放つボウガンで狙われる。八神からの骨髄移植を待つ患者は、すでに免疫のない状態で管理されている。もし彼の到着が遅れれば、患者は死ぬ可能性がある。はたして、八神は、三重の追ってから逃れながら、東京の南北を縦断し、時間までに移植手術の行われる病院に到着することができるのか。
■ 八神はなぜ走るのか。このミステリは、それが説得力をもって語られるか否かにかかっています。八神自身は、昔騙して、その夢を叩きつぶした300人の少女に対する「罪滅ぼし」と言います。だから、自分の骨髄はだれか子どもに移植されたらいいな、と考えます。それに対して、移植医の主治医は、子どもを騙したことなど気にすることはないと言います。なぜなら、「今の大人みんながそうだから」。耳が痛い。
しかし、八神が走る動機は、八神自身のもっと深いことろから発しています。それは、八神が高校生のときに、かつあげで捕まえた警察官によって語られます。子どもが子どもでいられる居場所の大切さ。それを知っている八神だから八神は走り続ける。彼の命を掛け金にした、人生最大の博打の結末は。高野さんの用意した結末は、決して読者を裏切りません。


