2010年08月15日

プライバシー小説−夏の文庫三昧(7)

yorunosemi.jpeg■ プライバシーという権利は、私たちの私生活を世間の好奇な眼から覆い隠すためのヴェールとして、あるいは、私生活上の秘密が公の領域へと漏れ伝わることを防ぐための防護壁として働く権利です。私的な“空間”や“情報”の保護としてプライバシーを理解したとき、この権利の意義は、どこにあるのでしょうか。プライバシーが“人権”である以上、それは“人格的自律”にとって不可欠な権利でなければなりません。では、どのような意味で“人格的な自律”に必要不可欠であるといえるのでしょうか。

■ 一般には、プライバシーには4つの価値があると言われます。第1に、現代社会のようなストレスフルな社会では、私たちには、“素に戻る”ことのできる場所が必要です。“緊張感を楽しむ”ことのできるアスリートにしたって、試合の直前には、1人になりたいはずです。第2に、自分自身を世間の人々にどう見せるかは、私たちにとって大切なことで、私たちは、自分の姿を人々の目にさらす前に、誰もいないところでリハーサルする必要があります。そのリハーサルの場を見られるのは、恥ずかしい。デートの前に、鏡の向かって髪型、化粧、服装を入念にチェツクする姿は、あまり人に見られたくはないでしょう。しかし、そういう意味では、電車や地下鉄で化粧をする女性は、“プライバシー感覚”を欠いているといえるかもしれません。

第3に、私たちは、社会的な役割やTPOに応じて、いくつもの顔(“ペルソナ”−仮面)を使い分けて活動しています。父親の顔、大学教員の顔、“すすきのの顔”(笑)などなど。子どもを叱りつけたり、すすきのの女性と“危ない話し”をしたりしている、そのある一場面だけを切り取られて、それがネットなどを通じて学生の知るところになれば、私が、子どもの人権や性差別について授業で真面目に話したとしても、学生は、ほとんど冗談としてしか聞いてくれないでしょう。第4に、私たちは、自分にとって大切なことを、誰にどんな順番でどのタイミングで話すかを気にします。それは、人間にとって、信頼、友情や愛情などを育むうえで重要なことです。親友に結婚の報告をいの一番にするはずだったのに、なにかの手違いで、直接話す前に、親友に知られることになったら、お互い気まずい思いをするでしょう。

■ 北村薫さんの“円紫師匠と私”シリーズの第2弾『夜の蝉』(創元推理文庫・1996年)には、第1弾の『空飛ぶ馬』同様、どれもが深い味わいのある、3つの作品が収められています。“私”の友だち正ちゃんがバイトしている神田の本屋で奇妙な出来事がある。平棚に置かれている本が、ある一角だけ、上下逆さまになっている。誰が何のためにわざわざ何冊もの本を逆さまにしたのか。その裏には、本をこよなく愛する“私”には到底信じられない“悪意”が潜んでいることを、円紫師匠が見抜く(「朧夜の底」)。姉妹でも“他人”。“私”には、優しく美しく、いつも父に愛されている姉は、特別な存在である。その姉が、酔っぱらて家に帰ってきて、缶ビールを片手に“私”の前でほろほろと泣く。女性の心に巣くう“お化け”が姉を泣かせたのだった(「夜の蝉」)。

そして、「六月の花嫁」が絶品です。この作品は、“プライバシーとは何か”を見事に結晶化させた作品といえます。親友の江美ちゃんと“私”は、友だち5人で軽井沢の別荘に遊びに行く。男女2組のカップルができて、何となく“私”だけ、余しの感じがする。そんな別荘で、ちょっとした悪戯めいた“謎解き”ゲームが始まります。みんなで興じたチェスの駒が行方不明となって、その駒が、冷蔵庫の卵入れから発見される。そして、今度は、卵が1個消えてしまう。この悪戯の裏側で密やかに進んでいたものとは。円紫師匠の一言が、プライバシーの本質を衝いています。
「水鳥の脚使いではありませんが、何かを秘めていない人はいません。何をどれぐらい表にし裏にするかは人によって違います。どんなにしてもいえないことというのは誰にでもあるのです。……ある意味では、その割合こそが、動かしようのないその人らしさを作るのです。」〔177頁〕

■ そして、この出来事があってしばらくしてから、江美ちゃんが、“私”に誰よりも早くあることを告げることになります。このエンディングは、私が授業で百万言尽くしたところで学生に伝えることのできない、プライバシーの意味を実に見事に教えてくれます。やっぱり、北村薫さんの作品は、素晴らしい。
Posted by 憲文録 at 11:50  |Comments(0) | 読書 , 憲法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
 
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