2011年05月13日

新江戸日記

何ができるのかな?

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何ができるのかな?

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2004年12月09日

目黒不動



2004120966dd4b73.jpg目黒不動は、江戸の五色不動の一つで、不動明王を本尊とする7世紀に開山した関東最古の不動霊場との事。なんでも、鷹狩りの帰りに立ち寄って以来深く帰依した家光が、火災で消失し仮本堂のままになっていた本堂を再建して以来、歴代将軍の保護を受け、江戸時代には、信仰と富士山景勝の行楽地として栄えたそうです。実際、境内は広大で、本堂・仁王門・書院・鐘楼と壮麗な伽藍立ち並び、又、本堂へ続く階段の左側には「独鈷の滝」という湧水まであります。大変立派で、いかにも御利益がありそうです。家内安全・商売繁盛の祈願をしましたが、目黒不動さんのホームページでは災厄難を除ける不動尊でした。家内安全は災厄難かな?
(お江戸の昔も変わらぬ景色です)
目黒不動浮世絵

















今回で終わりとします。アクセスして頂いた方、ありがとうございます。


Posted by kitora at 20:52  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月02日

鬼子母神


20041202b7d341cd.jpg鬼子母神というと「恐れいりや鬼子母神」という言葉が良く知られていて入谷という感じですが、雑司が谷も「すすきのみみずく」を名物にしていて有名です。
鬼子母神は、子授け・安産・子育ての神様です。来歴として伝わるのは、多くの子どもを育てるのに他人の子どもの肉を食っていた鬼子母神が、お釈迦様に自分の子どもの一人を隠され嘆き哀しみ、その事でやっと自分のおろかさに改心して母と子を守る神となったというもの。
石榴の実は、子供の肉を食べたくなったらかわりに食べてものとして、お釈迦様から渡されたとの事です。
ひどく恐ろしい伝説ですが、石榴ってそんな味がしていましたっけ。アボガドと山葵でトロの味だそうですので、結構どこかで繋がっているのかもしれません。
(下の写真は石榴の絵馬です)
石榴絵馬
Posted by kitora at 08:37  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月01日

品川


鉄道品川は、江戸時代には東海道五十三次の第一番目の宿として栄えました。日本橋から歩けば二里(約8キロ)といった距離です。
ここは又、「鉄道創業の地」だそうです。
日本最初の鉄道は新橋−横浜間を走ったはずですが、これに先立つ4ケ月前から品川−横浜間で仮開業していたので、最初に鉄道が走った品川駅が鉄道創業の地なのだそうです。
では何故新橋ー品川間が遅れたかというと、用地確保で困難を極めた為。特に高輪は陸軍部の土地があったのですが、測量さえさせてもらえない状態でした。そこで、鉄道推進派の大隈重信が大英断を行い、「陸軍部の土地なぞいらん。陸蒸気を海に通せ」という事で、田町〜品川間の約3キロを堤防を築いて。蒸気機関車を、海の中を走らせることになったという事です。
その結果、下の様な錦絵の風景となりました。
しかし、この景色は結構魅力的、どこかで復元しないかな。
高輪鉄道

Posted by kitora at 08:13  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月25日

愛宕山


20041125602ec3a2.jpg「鉄道唱歌」に《愛宕の山に入り残る月を旅路の友として》と歌われた愛宕山。江戸府内ではもっとも高い山だったそうです。高さは26メートルで、江戸時代には、東京湾から房総の山々までが一望できたとの事。
頂上には愛宕神社があり、江戸有数の景勝地として、浮世絵にも多く描かれています。特に見晴らしの素晴らしさは江戸随一で、正面の男坂を上ったあたりには多くの茶屋が軒を並べていました。
この男坂、鳥居から正面に向かう八十六の石段の急階段で、実際登るとかなり息が上がります。しかし、ここを馬で登った人がいるそうです。 世の中も太平になった頃、曲垣平九郎いう侍が皆が逡巡している中を馬でこの石段を上り下りして梅の一枝を家光公にさしあげ日本一の馬乗りとして出世したそうです。その為男坂は「出世の石段」と呼ばれています。
そう言えば愛宕神社に行く時はいつも神谷町方面から来ていて、裏の参道を登りこの石段は下ってばかりしていました。「しまった、道理で出世しないはずだ」
愛宕神社
Posted by kitora at 20:46  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月17日

両国橋


20041117550f30a0.jpg隅田川に架かる江戸五橋のうち両国橋は、千住大橋に次いで古い橋で、武蔵と下総の二国を結ぶ橋なので両国橋と名づけられたそうです。
広重の名所江戸百景で両国橋というと花火を描いていますが、江戸時代には、両国の川開きとして花火大会が実施され、この日から隅田川に舟を浮かべて納涼することが許されたとの事。花火の日には、あちこちから屋形船、屋根船、猪牙船(ちょきぶね)など、ありとあらゆる舟が橋の下へ集まってきて、川の水が隠れてしまうほどであったという事です。
これらの船は樽廻船などの海船と比べて、川船というそうです。大名や武家の間の乗り物が屋形船で、大小二種類がありました。屋形船ほど大きくないが屋根つき、というのが屋根船で町人も利用でき、今の屋形船はこちらに近いそうです。船首が鋭く猪の牙の形をしているのが「猪牙船」で吉原や深川など通う為の移動手段として利用された小型の客船です。
ご多分に洩れず、大名や裕福な町人達が豪華を競って、金・銀・漆・絵画とあらゆる手段で屋形を飾り付けたりして、幕府が装飾や大きさに制限を加えるほどだったそうです。
バブルははじけましたが、現代に復元されたら人気がでそうですね。でも大きいと大変、猪牙船がいいとこ、とすると屋形がない。
(右端の屋根なしが猪牙船です。やはり小さい)
両国橋

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2004年11月15日

永代橋


20041115061572a9.jpg隅田川には、千住大橋、吾妻橋(大川橋)・両国橋(大橋)・新大橋・永代橋の江戸五橋がありましたが、永代橋は第4番目の橋として元禄年間に現在の場所よりも上流約150mに架けられました。このあたりを永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名づけられたそうです。江戸時代、永代橋付近には多くの廻船が停泊していたとの事です。
そもそも、和船は海船と川船に分かれますが、海船は海上輸送に耐える構造の大型帆船で、主に関西から檜垣廻船、樽廻船が荷を運んでいました。これらの船は隅田川河口の江戸湊(三十間堀・八丁堀・霊岸島箱崎の辺りの一帯)まで商品を積んできて停泊し、荷は問屋からの小舟に積み替え陸揚げしていました。その為、永代橋は廻船が航行できるよう橋桁を十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房・上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の景観だったそうです。
現在眺望は望むまでもない状態ですが、ここら辺はベイエリアとして開発され、永代橋も夜にはイルミネーションが点され、それはそれで情緒があります。ブルーの光が魅力的で、橋上からの眺めより、今では屋形船での水面から眺めが勝っているのではと思います。
浮世絵永代橋
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2004年11月05日

兜町


2004110557b67f7c.jpg兜町という名称の由来はこの地にある兜神社の「兜岩(かぶといわ)」にあります。
この石にはいくつかの伝承がありますがひとつは、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が平将門の首を打ち、兜と一緒にここへ持ってきました。そして兜だけを埋めて塚を築いたことから兜山と呼ぶようになったとの事です。
現在、兜町といえば東京証券取引所といわれるほどに「株の町」として有名です。そして兜神社も商売の神様として親しまれていて、祀られているのも商業の守護神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、合祀の神さまを大黒様と恵比寿様としています。又、証券業界の守り神にもなっていて、東京証券取引所が氏子総代を務めており、例大祭では、証券業界関係者らが、相場の活況を祈ったりするらしいです。
となるとここは、兜神社の勇ましい御名前や、将門様のパワーにあやかって、株で儲ける事での考えましょうか。オット最後に討ち取られてはいけない!!。
芳年平将門
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2004年11月04日

将門塚


200411047a0b1d39.jpg 東京都千代田区大手町一丁目。ここに将門の首を葬っているとされる「将門塚」があります。
江戸時代は酒井雅楽頭(うたのかみ)という方のお屋敷の中にあったとの事ですが、何故この地なのでしょうか?なんでも、討ち取られた将門は、怨霊としての力が分散するように、首、胴、腹、手、足の五体に分けられ離れ離れにされました。その中で首は京へ送られ、一旦は東の市に晒されましたが、体の他の部分を探し求めて大音響や怪しげな光を発しながら東の空へと飛び去り、そして力つきて落ちた場所が武蔵国豊島郡芝崎村、つまり現在の将門塚の場所という事らしいです。
場所は皇居とJR東京駅に挟まれた東京の一等地で、良く残っているなというのが本当の感想なのですが、祟りを恐れて手厚く祀られていた歴史があり、その中にはマッカーサーに陳情を繰り返したりもして現在の形となっているそうです。
帝都物語では、主人公が帝都を破棄すべく帝都の守護神、平将門を復活させようとする。それを、阻止すべく陰陽師が平将門の首塚に結界を張るが、陰陽師は殺され結界も破られ平将門はみごと復活したが・・という話でした。確かに、周辺が近代的なオフィス街にあって、この塚だけは周囲の喧騒から切り離されたかのような、すこし不気味な異空間の雰囲気を漂わせています。怨霊伝説を聞いている程、凄みがでる様な・・。

芳年生首
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2004年11月01日

水天宮


20041101690a022a.jpg江戸日本橋の水天宮は、久留米の殿様有馬頼徳公が領地の水天宮より分社として勧請された社との事。その為、当初は三田の藩邸内にあったが、明治元年有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年現在地に移られました。
ここは、安産の神様として有名です。なんでも、御社殿の前の鈴紐を鈴乃緒と呼ぶそうですが、これは月に一度新しい物と交換するので、鈴乃緒のおさがりを頂いた妊婦の方が腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから、人づてにこの御利益が広まったそうです。従ってもともとは水の神様ですが、現在は、安産・子授け・水難除・渡航安全の神様となっています。
ところで、水天宮には我が家もお世話になりました。
お産が軽い言われる「イヌ」にあやかり「戌の日」に安産の御祈祷を済ませ「鈴乃緒」を買ってきました。境内には、「子宝いぬ」がありご利益が目で見えるようです。子いぬが実感です。
子宝いぬ
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2004年10月29日

日本橋・薮伊豆


20041029db606cf5.jpgそばは江戸時代のファーストフードで、江戸の終わりには市中に蕎麦屋が今のコンビニと同じ位の数あったそうです。
従って老舗の蕎麦屋といっても数ある訳ですが、
もう単純に高校時代の同級生が店主という事で
私の中では老舗の蕎麦屋といったら、「薮伊豆」です。とはいっても、宴会中心でしかお邪魔していませんから、必ず酒付きのコースで蕎麦を食べています。
ここの蕎麦は美味しいです。コースの品には蕎麦寿司のような蕎麦屋特有のものから、焼き物、煮物と揃っています。最後の締めに蕎麦が出てきます。汁は濃厚な味わいで、蕎麦は喉ごしの良さが最高です。蕎麦は世界で一番美味しいヌードルだと書いてあったものを読んだ記憶がありますが、心底同意してしまう味です。
ところで、毎回究極の旨さとなる訳ではありません。やはり自分の状態が一番大切な様です。(酒は飲みすぎに注意)
蕎麦屋
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2004年10月19日

富塚


20041019aa53b514.jpg小伝馬町から南へ少し行くと椙森神社とその境内に冨塚があります。椙森神社は江戸時代、江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられた神社で、商売繁盛の神様、恵比寿様を祭っています。又、古くから富くじ興行が行なわれていた為、それを記念して富塚碑が大正時代に建てられました。
富くじは、社寺の修復費用をまかなうために考え出されたもので、谷中の感応寺、湯島天神、目黒不動の富くじが有名ですが、江戸時代結構人気があった様です。富くじの販売所は町の各所にあり、抽選は社寺の広間に据えられた箱に番号を書いた木札を入れ、小さな穴から錐で突き刺して行われたそうです。
落語には千両富とか出てきますが、1等が当たると1000両か500両だったとの事で、一方札を買うには1分(ぶ、1分は1/4両)、従って4000倍の賞金があたります。万馬券より倍率が高いですが、今の3億円宝籤より低いです。その為落語では結構一等があたる訳かと納得します。
富塚碑は本来お参りする様な処ではありませんが、一先ずはお願いをしてみます。3億円宝籤とは言いませんが、せめて年賀はがき1等があたってみたいもの。
椙森神社
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2004年10月15日

日本橋石町・時の鐘


2004101587c7f1dd.jpg日本橋石町(こくちょう)は,米穀類を販売する業者が住んでいたことからこの名がついたそうです。ここは又、江戸で最古の時の鐘があった場所との事。
時の鐘は人々に時刻を知らせる役割を持ち、城鐘(または太鼓),市民の時鐘,村には寺の梵鐘が時を報じて生活のリズムを生み出していました。しかし、内藤新宿の鐘は、江戸城へ通勤するにはちょっと距離がある武士たちのためにちょっと早めに鐘を鳴らしていたとの事ですし、ここの鐘も小伝馬牢屋敷で斬罪があるときは、わざと時を遅らせてついたそうで、運用は人情に従って弾力的にされていたようです。
時の鐘といわれてイメージするのは、やはり小江戸川越ですが、これは高い櫓の上に鐘が設置されていて、いかにも特別なものといった感じ。石町の鐘は江戸のものが現存し近くの十思公園にありますが、建物は2階建てと意外と低く見栄えがしません。江戸には九ケ所に時鐘があったとの事ですから、ほどほどの鐘の音で良かったのでしょうが、これでは観光名所の金の音は鳴らない?
(下のは川越の時の鐘)
川越時の鐘

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2004年10月14日

小伝馬町


小伝馬町牢屋敷伝馬町の地名は、江戸時代、公の旅行者の荷物や馬の世話をする伝馬役が住んでいたことに由来します。小伝馬町は江戸とその周辺、大伝馬町は地方の旅を担当する人が住んでいたそうです。
又、この地には、吉田松蔭終焉の地でもある小伝馬町牢屋敷がありました。この牢屋は江戸幕府最大でもあったとの事です。
昔、親戚の家の近くの刑務所があり、高い塀をめぐらしていて、子供心に不気味だった事を覚えています。その点では、ここは江戸下町の真ん中ですので、つくづく凄い処にあったと思います。まわりは濠をめぐらしてとか書いてあるものもありますが、幕末の地図では濠が無く、想像し難いところがあります。そんな事ばかり考えていると妄想が膨らんで暗い処が怖くなる?
国芳妖怪

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2004年10月08日

日本橋駿河町


20041008e63b1e0c.jpg浮世絵に描かれている日本橋駿河町の通り、両側全域を占めていたのは、呉服店越後屋(現三越)との事。伊勢松坂の商人であった三井高利が江戸へ出て、従来の掛け売りを排して、その分商品を安く売ったり等の新商法を次々と成功させ、大きな店となっていました。
ところで、駿河町の名は富士山のある駿河に由来するとの事、通りに立って南西を望むと真正面に富士山を見られるように都市計画がなされており、富士の眺めは江戸一番と評判であったと書いてあります。前回の駿河台が近辺で一番良く富士が見えたはずですが、こちらの方が都市美とのコラボレーションの成果という事でしょうか?それにしても富士山がでかい!!
(上は三越の正面にあるライオン像)
日本橋駿河町
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2004年10月07日

駿河台


200410073927e5ff.jpg駿河台という名前の由来は、家康が晩年を暮らした駿府城を守っていた側近の旗本衆(駿河衆)が、家康の死後この地に移り住んだためだそうです。
ここは、昔、神田山という山であったという事です。その神田山を切り開いてできたのが駿河台。確かに御茶ノ水に向かって、秋葉原・水道橋・小川町どこから来ても登りとなります。それ程登るわけではないので、山と言うより丘といった感じですが、確かに周辺で一番高い位置になります。その為、江戸時代には神田近辺で一番良く富士山が見えたらしく、浮世絵にもいろいろな形で富士が描かれています。
現在でも、富士見坂の名前が神田小川町に残っていて、南西に向かって緩やかな下り坂となっていますが、狭くごみごみした商店街で残念ながらとても富士山など見えない状態です。 むしろ、ビルの屋上の方が富士が良く見えそうですが、遮るものは、昔、鯉のぼりだったのが、今は建物という事でしょうか?
水道橋駿河台
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2004年10月06日

お玉が池


20041006e49a6fac.jpg神田のお玉が池は、坂本竜馬が習った北辰一刀流千葉周作道場のあった場所として有名ですが、又、江戸の文化人の居住地でもあったとの事です。
現在その地名は残っていませんが、於玉稲荷という小さな祠があり、由来も記されていました。
「この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、除々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事からお玉が池と呼ばれるようになったといいます」
於玉稲荷には花が手向けてあり、綺麗に掃除をしてありました。
ところで、桜が池というのは桜の名所であったが為との事でしたが、江戸も終わりとなると同じ場所で、池と桜の換わりに、染め物屋の物干し台にたなびく反物の風情が江戸の風物詩だったようです
神田紺屋町
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2004年10月05日

浜町


200410055eb7a991.jpg以前は隅田川の浜辺であったことから浜町となったそうです。
江戸時代は肥後藩細川氏の下屋敷など大名家屋敷が並ぶ武家地でした。又、この地と本所・深川を結ぶ新大橋が架かっていました。この橋は元禄年間に作られましたが、当時両国橋が大橋と呼ばれていたことから、それに対する意味で新大橋と名づけられたそうです。この橋を描いた安藤広重の「名所江戸百景」中の「おおはしあたけの夕立」は雨の描写が絶妙な逸品です。
ところで、現在の浜町というと、浜町公園と明治座。
浜町公園には、運動場や総合スポーツセンターが有り充実したスポーツ施設になっています。
一方、明治座はその名の通り、文明開化の時代になって浜町が花街として発展した中で明治の中頃開かれたそうです。歌舞伎からミュージカルまで幅広く利用されているとの事で、10月公演は「大石内蔵助」。ここで江戸の雰囲気に浸って、帰りに創業100年を越える老舗も在るという甘酒横丁で伝統の味に楽しむというのが定番なのでしょうか?
新大橋

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2004年10月04日

薬研堀


20041004c6f9936e.jpeg柳橋の少し南に薬研堀(やげんぼり)があります。
元々は堀があったのですが、現在「薬研掘」は薬研掘不動院にその名を残すだけとなっています。この不動尊、江戸華やかなりし頃は目黒、目白とともに江戸三大不動として知られたとの事ですが、今は階段を昇って、お堂があるだけというビルの谷間に取り残された小さな空間になっています。元々の堀を広重の『名所江戸百景』の中で探すと、「両国回向院元柳橋」に描かれています。中央に見える橋の下が薬研掘、上に架かっている橋が元柳橋です。「柳橋」の名は、もともとは薬研堀にかかる橋の名として使われていたのですが、そこへ現在の柳橋が加わったため、重複を避けてこちらは「元柳橋」と呼ばれるようになりました。
ところで、薬研堀は幕府の米蔵「矢之御蔵」へ出入りする船のための堀だったそうで、行き止まりです。薬研堀の名前の由来も、「薬研」が薬草を粉末にする道具で、薬種が集まるV字のくぼみを「薬研堀」と呼ぶ事からという事。同じ様に形から名前がついたものを考えると、カエデや野草のイヌフグリ位しか思いつきません。「かえで」は蛙の手、「いぬふぐり」はイヌのフグリ(陰嚢)の事で2個連結したように見える果実の形がオス犬のそれにそっくりだということからついた名とか。薬研
の洒落た名前とは格落ちでした。
両国回向院元柳橋

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2004年10月01日

馬喰町、横山町


2004100162e92417.jpg神田川に架かる浅草橋を南に渡ると馬喰町、横山町です。
地名の由来は、横山町が御家人の横山氏の知行地だった為、一方馬喰町は幕府の博労頭(牛馬の売買や仲介をおこなう人たちのこと)が住んでいた為との事です。家康の入国の際、この地を気に入り地下七尺の所に蠣殻(かきがら)を五尺埋め砂を敷かせた初音の馬場とよばれる自慢の馬場を作り、馬喰町のほかは馬の売買が禁じたそうです。その為、博労たちが出入りする旅籠屋がずらりと並んだ旅宿街になり、江戸で泊まると言えばここ、馬喰町だったらしい。さらに附近に問屋が集中するようになり、馬喰町の宿屋に泊って品物を選ぶといった事で、地方の人々をここに引きつけていたそうです。しかし明治になってから東京駅の開業で、宿屋の方はどんどん減って、現在は、繊維、文具、小間物、雑貨の問屋街となっています。
ギラギラのファッションのお店や、和服の専門店などバラエティがあり、品数も豊富ですから興味のある方には、たまらない町だと思います。ところで、東京の地下は掘ると温泉が出たりしますが、この地は貝殻とかが出るのでしょうか?
(下の絵は馬喰町初音の馬場)
馬喰町初音の馬場
Posted by kitora at 21:20  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月30日

九品仏


200409307b2ab82b.jpeg東急大井町線の自由が丘の次が九品仏。
浄土宗のお寺で本堂に対峙して並ぶ上品・中品・下品の3つのお堂に、それぞれに三体づつ9体の阿弥陀如来像が安置されています。
九品浄土という言葉があるそうで、阿弥陀様は往生した人を極楽浄土に救い上げてくれますが、その浄土には、上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生とあり、その人の生前の所行によってどこに迎え入れられるか決まっているそうです。そして阿弥陀如来様が極楽浄土から迎えにくる際は、その人にふさわしい印を表すとの事で、実際それぞれの仏像の結んでいる手の型、印が異なっています。
九品仏はクホンブツと読みます。知らないとなかなか読めないですが、読みの難しさでは、我孫子(アビコ)が有名。ところで上野駅ですらコウズケと読む人がいると以前テレビでやっていました。日本語は難しい。
九品仏三堂

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2004年09月29日

豪徳寺


20040929a4effcae.jpeg東急世田谷線沿線に豪徳寺があり、招き猫で有名です。
言い伝えでは、彦根藩二代目藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに門前を通りかかると、手招きをする猫がいる。不審に思って寺に寄り、和尚の話を聞きながら渋茶など飲んでいると、一天にわかにかき曇り大変な雷雨になった。直孝はこの幸運を喜び、福を招く猫のいる寺としてこの寺を大事にし井伊家の菩提寺とした。以来豪徳寺は大変に栄えたという事です。
招き猫は右手を挙げているものはお金(幸運)を、左手を挙げているものは人を呼ぶといわれています。又、色は、白の招き猫は幸運を呼び、黒は魔除けの意味が、また赤は厄よけあるいは疫病よけの意味があるそうです。
豪徳寺のは幸運を呼ぶ白い招き猫です。招き猫だけでもいろいろ進化するものですね。たくさん居るけど人を呼ぶのはどの猫さん?
招き猫

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2004年09月28日

目青不動


20040928a3f71eba.jpeg三軒茶屋キャロットタワーの近くに目青不動があります。
目黒不動は有名ですが、なんでも江戸には五色の不動があるそうです。寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、三代将軍家光が、江戸府内の不動尊を指定し、天下泰平国家安穏を祈願した事に由来するとの事。色は目の色でなく、陰陽五行の方角を表し、同じ趣旨で土俵の上の房の色やキトラ古墳の壁画の色が使われているのですが、東が青、南は赤、西に白、北を黒、それに中央が黄色となります。
それぞれの不動尊は、目青不動が世田谷区太子堂、目赤不動が文京区本駒込、目白不動が豊島区高田、目黒不動が目黒区下目黒、目黄不動が台東区三ノ輪。
方角だとするとそれぞれの不動尊が在る場所とあっていない様な気がします。目の色の方がわかりやすい?!。
目青不動本尊


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2004年09月27日

三軒茶屋


2004092787ad06e2.jpg江戸時代の中ごろから丹沢の大山阿夫利神社へお参りに行く人が増え、大山道(今の世田谷通り)がにぎわうようになり、又近道(今の国道246)も作られて、分岐点にあたるここの地に三軒の茶屋「石橋屋」「角屋」「田中屋」ができ大山詣や多摩川行楽の人々の休み処となったとの事です。
現在はキャロットタワーがランドマークとなっています。都心と違い周りに高いビルが無い為、26階展望台からは、富士山や横浜のランドマークタワーがすっきり見る事ができます。
又、このビルは東急世田谷線のターミナルにもなっています。幹線道路で信号待ちはしてしまいますが、専用軌道を走る都内で珍しい路面電車です。その結果、展望台から見るとまるで模型のような眺めの出来上がりです。
世田谷線
Posted by kitora at 20:49  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月24日

合羽橋


2004092419bd739e.jpg下の浮世絵は浅草田甫酉の町の詣という題ですが、銀座線で浅草の手前は田原町ですから、ここら辺かと勝手に思う。
田原町という名の由来もこの地が田畑であったことからとの事。でも今は田原町といえばかっぱ橋道具街となります。ここは食器具・調理器具・サンプル品・調理衣装など,調理に関するものなら,ありとあらゆるものが揃う問屋街である。特に目的が無くても、結構時間をつぶせて面白い。小売りも行っており,こだわった調理器具を買う場合は絶対お薦めだ。
ゴリラ
ところで、合羽橋を代表する大型店はニイミ洋食器店だが、建物屋上には巨大なコック像が設置されていてランドマークにもなっている。インパクト充分ですが、三軒茶屋のゴリラとどっちが迫力ありますか?!

浅草田浮世絵
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2004年09月23日

雷門


2004092345ec9aff.jpeg浅草のシンボルといえば雷門の大提灯。高さ4m、直径3.4m、重さ670kgで、「雷神」と「風神」を奉るものとの事で、提灯の向って右に風神像,左に雷神像がある。山門自体は、切妻造・本瓦茸きの立派なもの、気の短い江戸っ子が風神を略して「雷門」と呼んだのが由来とか。大提灯下の金具には何故か「松下電器」の文字があるが、これは松下幸之助元会長が原因不明のひざの痛みに苦しんでいた折、浅草寺に祈願祈祷を受けて快癒された縁で寄進をされた為である。
雷門に因んで「雷おこし」が江戸時代中ごろから浅草のおみやげとして売り出された。東京みやげというと「東京ばな奈」「ひよ子」なのだろうが、意外と「雷おこし」は好きだった。昔も、江戸詰めが済んで故郷に戻った時に、浅草寺の土産で、とかしていたのだろうか?
金龍山浅草寺

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2004年09月22日

駒形


2004092207a05ba8.jpg蔵前から浅草寺に行く道すがらではそのまま通ってしまう感じですが、やはり「駒形どぜう」だけははずせません。
ドジョウというと裂いて骨をはずして(これを「さき」というらしい)玉子でとじる『柳川』ですが、ここは泥鰌の上に刻んだ「ゴボウ」を若干乗せ、その上に大量の「ネギ」を乗せた「どぜうなべ」が名物のよう。
しかし、丸のままなので初めてだと手がでません。
慣れてくると丸のまま(通称「まる」)の「ほろ苦さ」が美味しいと感じるようになると聞きました。納豆・くさやと思い描くと個性の有る食品ほど好きになると徹底的に惚れこむものの様です。しかし最初のハードルは高そうで、食って後悔するか、食わずに一生思い残すか、さてさて?!、という人の為に”さきなべ”というのがあったそうです。
(浮世絵は駒形堂吾嬬橋)
駒形堂吾嬬橋

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2004年09月21日

蔵前


20040921890e3cdb.gif隅田川沿いの蔵前は、かつて船で輸送され収納された幕府の米の蔵があり、蔵の前の町であったことから付けられました。
「巨人・大鵬・玉子焼き」の頃は国技館がありましたが、今は花火で有名です。
隅田川の花火大会は江戸時代に川開きとして始まったものが、発展したとの事で、ここは第二会場のお膝元。以前メーカーのSEをやっていましたが、蔵前のお客様がいらっしゃり、ビルの真正面に花火がみえて特等席でした。暑い夏、涼しい部屋でビールを飲みながらの花火見物はまさに天国でした。
ところで、この手の天国はともかく運が大切です。花火見物では大吉でしたが、別のお客様では宝籤を付き合わされて・・。強運は続きません。
蔵前花火

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2004年09月17日

浅草橋


2004091704df7bae.jpeg神田川に架けられた橋は柳橋の上流が浅草橋です。
ここは奥州街道が通り浅草寺への道筋にあたります。幕府は主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築きましたが、ここら辺の門が浅草御門と呼ばれ、そのため橋の名も、浅草橋となったそうです。
現在浅草橋は人形問屋が軒を並べています。
雛人形を飾る風習は江戸時代広まりましたが、江戸市中には雛市が立ち日本橋や浅草橋に人形店がたちならび賑わったとの事です。
私も娘のお雛様を買いにきましたが、名前の聞いたことが有るお店は全て並んでおり、又、店毎のお顔も違ってそれぞれ特徴があります。その為、買う段になると迷いますし又家内とも意見があいません。9回同点引き分けという事で、あとは1人が決めるとなりました。という事で家内安全の実践です。
(下の絵は江戸時代の次郎左衛門雛)
次郎左衛門雛

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2004年09月16日

ベロ藍


20040916defac1bc.jpgその昔、絵画で青色というと藍とかラピスラズリになっていました。
藍は染料としてお馴染みで独特の深みがある良い色ですが、渋い感じとなります。
一方、ラピスラズリ(瑠璃)はアフガニスタンでしかとれない鉱石で非常に高価でした。
フェルメールの「真珠の首飾りの少女」に使われ大変美しい色ですが、効果的な処に大切に大切に使うといった感じです。
その様な中、北斎や広重の時代になって、人造顔料のプルシャンブルー別名ベロリン藍(ベルリン・ブルー)が作られました。
プルシャンブルーはなんでもプロシアで出来たのでこの名とか。命名はえらく簡単ですが、これにより鮮明な薄青色や澄明な濃紺色を表現でき、浮世絵史上に風景画のジャンルが確立したそうです。
冨嶽三十六景神奈川沖浪裏の様に、藍を基調とした濃淡で色調を整え他の色を抑えた浮世絵が可能となった訳です。ところで新橋色の世界とベロ藍の世界、どちらがお好きですか?浮世絵は再評価されましたが、芸者さんの世界はもう時代が変わった様です。江戸より東京が遠くに在ります。
神奈川沖浪裏

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2004年09月15日

柳橋


2004091525437ee0.jpeg神田川が隅田川にそそぐところにあったことから、当初は「川口出口の橋」 と呼ばれていましたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれる様になったとの事。 江戸中期の頃から花街として知られ、橋のほとりは船宿が並んで賑わっており、料亭および芸者衆も多かったそうです。
芸者さんとは当然縁の無い人生を送っていますが、唯一思い出すのは祖父が貿易商をやっていて化学染料のメチレンブルーを輸入し、これが新橋色と呼ばれ花柳界の人気染色であったとの話。
従って思い描く芸者さんというと、やはり色から入りたいですね。新橋色で包まれて、△?#■*!▽□▲%☆★¥◆$!◇▼?!
柳橋芸者

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2004年09月14日

水道橋


200409149d121121.jpg神田上水が神田川の上を懸樋で渡った為、水道橋の名前の由来となっている。
江戸時代、下町は埋め立て地であり井戸を掘っても真水が望めなかったため、上水道として神田上水が作られた。神田川の少し上流で堰を作って水を取り、後楽園や今のドームを経由し、水道橋の処で神田川を渡って、神田・日本橋方面の飲み水として利用されていたとの事。
現在、懸樋があった処には、神田上水懸樋記念碑として座りの良い石が置いてある。川沿いの道端に作られた小さな空間だ。わざわざ見に行く程でも無いとは思うが、犬を散歩しているおじさんがラジオ体操をしていて定員オーバーとなり、近寄れなかった。
(上の絵は水道橋からの眺め、赤い線あたりに懸樋があった)
神田上水懸樋記念碑

Posted by kitora at 21:08  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月13日

後楽園


2004091349446dae.jpgここら辺は水戸藩の上屋敷があった処で、後楽園は庭園の名残との事です。池を中心にした作りになっていて、「回遊式泉水庭園」という形式だとか。各地の景勝を模した湖・山・川・田園などの景観が表現され、西湖の堤、竹生島、白糸の滝、円月橋、松原、稲田とかがある。
儒学思想の下に築園された為、「水と緑」「光と影」の趣深い場所。精神的な世界に入っていける気持ちに成れて、外人とか人気がありそうな感じ。大変美しい庭園です。
しかし入園してまず圧倒されるのは、「アレ?あの高い建物は東京ドームホテル、白くて大きいのはビックエッグ!!デカイ」。(上の絵)
後楽園蓬莱島


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2004年09月08日

湯島聖堂


200409085d669ce0.jpeg昌平坂学問所と名づけられ、幕府の正式の学校であったとか。
ところが聖堂自体は、建物の形も中国風なら内には孔子廟があり日本でない様に思われる。
実際構内に建てられている孔子像は世界一大きく中華民国台北ライオンズクラブから贈られた物だそうです。
事前に知識もなくいきなり行った為、時間も空間も連続性が無く、なんだナンダここはナンダという感じ。でも、緑が深く静謐な空気に囲まれ暫しの快適な旅行をした様なそんな感じの異空間でした。
下の浮世絵は名所江戸百景:昌平橋聖堂神田川、御茶の水から秋葉原への風景です。
湯島聖堂浮世絵
Posted by kitora at 23:25  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神田明神


神田明神神田明神、大国様と恵比寿様と平将門が祭られています。そして、東京三大祭の神田祭で有名。
祭は2年に1度の5月に開催され、神田ッ子は祭りが大好きで4月になるとそわそわするというのをアド街でやっていました。氏子のエネルギーを感じられます。
境内は思った程は広くないが、屋台が出てたり「献燈ちょうちん」があったりと活気が有り、又、参道には元和二年創業の「三河屋」と弘化三年創業の「天野屋」という二軒の老舗があって、共に地下の麹室で江戸以来変わらぬ製法の甘酒と納豆を作り続けているとの事。
ここでは歴史が生きているのですね。
神田祭

Posted by kitora at 00:29  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月06日

御茶ノ水


20040906aa6a633d.jpgちょろちょろ流れる御茶ノ水、粋な姉ちゃん立ち小便。ってフーテンの寅さんが叩き売りの口上をやっていた。
御茶の水の由来は、将軍が鷹狩りの帰りにこの辺りの名水でお茶を飲んでから、将軍御用達の御茶の水になったためとの事。今はこの名水は無くちょろちょろも確認できない。
ここを流れるのは神田川だが、JRのホームから見ると、水面の位置ははるかに低い。なんでも、江戸時代に治水の為、丘のど真ん中を川が突っ切る工事を行い「お茶の水渓谷」を作ったとの事。
浮世絵を見ても、左右対称・直線的な川はたしかに人工的だが、昔の粋な姉ちゃんは立ち小便をしていたもの?。
御茶ノ水浮世絵
Posted by kitora at 20:52  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月04日

御徒町


200409041ea0e484.jpeg上野広小路は門前町として、江戸一番の繁華街を誇っていたが、その東側の地域は、御徒士衆(おかちしゅう)という身分の低い侍たちが住んでいた所で、そのため御徒町の地名になったという。
現在も又、山の手線内側にアメ横が有り大いに賑わっている。
一方、宝石の卸商が集まっている事でも有名で、これは山の手線の外側。小売もやっていて、ウインドショッピングが楽しめる。ガラスと宝石の違いが判らない身にとっても、値のはる商品は魅力的で妖しく輝いている。しかし素人のそれも男にとってみれば大判・小判の方が分かり易く、大した物です。
御徒町宝石街
Posted by kitora at 16:51  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月02日

不忍の池


不忍の池周囲2kmとの事で都会の真ん中にある事を思えば結構大きい。一周できるので、良い散歩(ランニング?)コースとなっている。
湯島方向から来ると、池の面は蓮だらけ。花の時期は綺麗なのだろうが、水面が見えない。しかし、少し歩くと池全体を見渡せる様なり落ち着ける。
形は琵琶湖に似ているのだという。その為、先人は竹生島(ちくぶじま)に擬した中島まで築いており、そこに弁財天のお堂がある。ここは結構な観光スポットで人ごみとなっていました。弁天というとつい鎌倉の「銭洗い弁天」を思ってしまうが、この様な言い伝えは無い様で残念。
不忍の池浮世絵


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2004年09月01日

上野広小路


20040901ac95e004.jpeg上野の寛永寺は江戸城の丑虎の位置にあったことから、鬼門を抑える寺として建立されたことは有名。
その寛永寺に将軍が参詣する道筋(御成道)の一部が、明暦の大火(1657)後、類焼を防ぐ目的で拡幅されたのが上野広小路との事。火除けのための大きな空間があけられ、浅草・両国と共に三大広小路のひとつとなった。
広小路には、すぐ取り払えることを条件に露店や見世物小屋の開店が許可され、にぎやかな繁華街となったという。
都市化して、どこも同じ様な町並みとなっているが、ここら辺も道沿いは松坂屋が中心となっている普通の町並み。しかし、近辺は、昭和以降に発展した場所にはない、いろいろと面白い老舗があって発見する楽しみがある。
上野広小路浮世絵

Posted by kitora at 20:46  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月31日

湯島天神


20040831e859c3f1.jpg言わずとしれた「学問の神様」
御茶ノ水方向から来ると、道がアップダウンを繰り返した最後の突き当たりに天神様がある。従って崖の上という事で、湯島からくると、男坂か女坂を一気に登る事となる。この坂、江戸時代からある様で、浮世絵を見た雰囲気では昔も今も変わらない。
本堂は改築したばかりか大層立派で、有名な梅の木もたくさん植えてある。又、願掛けの絵馬が山の様に奉納してあり、この中だけでも定員オーバーしているのではないかと思ってしまう。
自分の受験の願掛けをしたものだが、今回は娘のになってしまった。
(下の絵の右手男坂、向こう側女坂)

天神浮世絵

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2004年08月30日

庚申塚


20040830ae976841.jpeg庚申塚は「庚申さま」を信仰する人々が供養のために建てた石塔との事。
この庚申信仰はなんでも次の通り。人間の体には三尸(さんし)という虫(霊物)がいて、庚申の夜に昇天し、その人の罪科を天帝に告げ寿命を削る為、この晩を不眠で通し三尸を退治するため祈って、天帝に罪を訴えることをできないようにしたとの事。その為、人々は講をつくり、庚申の夜に集まり飲食をし、健康長寿を祈った。
昔の人もいろいろ理由をつけて楽しんでいたのだなと思いますが、結局、年を取るとそうそう徹夜できないので、まとめて天帝様に訴えられ、返って寿命を縮めるのではないかとも思う。
庚申塚はとげぬき地蔵の少し先。境内はとっても狭く、驚く。庚申塚自体が地名になるのも珍しいとの事で、江戸時代はこういう事もあったのだなという感じ。
(下の絵の右端中央に見える石塔が庚申塚)

庚申塚浮世絵
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2004年08月27日

とげぬき地蔵


20040827c59fe877.jpeg「おばあちゃんの原宿」として有名な巣鴨で人を集める中心がとげぬき地蔵(高岩寺)。
境内に長い行列ができていましたが、これは観音様を白い手ぬぐいで洗う為です。なんでも、自分の治したいところと同じところを洗うと病のトゲが抜けるとか。
現在は2代目で以前の観音様はあまりに多くの方のお願いで洗ったため磨滅し、現在は後ろの厨子に納められているとの事。
お寺さんが意外と狭いのと人が多いのが印象的でした。
近くに有名なカレーうどん屋さんがありますが、こちらも長い行列。

とげぬき地蔵
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2004年08月26日

日本橋続き


200408269b8ea2da.jpeg今は築地にある魚河岸が日本橋のたもとの川岸に関東大震災まではあったとの事。
その為、子供頃三越などに行くと母は3軒並んでいるうちのこの店が一番だとかいいながら,いつも同じ寿司屋に通っていた。懐かしい。
実際、日本橋魚河岸跡の碑まである。
橋自体は立派な親柱中柱があり初めて見た時子供心に感心した。
獅子や麒麟の青銅像が置かれ洋灯が立つ明治期の代表的な建造物である。
又、橋の欄干の柱に被せる金属製の帽子のようなものを擬宝珠(ぎぼし)と言うらしいが、江戸時代には、これがその橋の 「格」 を表し、五街道の起点に相応しいものであったという。
ただ、現在は橋の上を高速道路が走っており、圧迫感があり残念です。

日本橋擬宝珠
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2004年08月25日

日本橋

道中唄に歌われたお江戸日本橋七つ立ちだが、これは京に初めて旅行する時の話とか。
江戸時代は日の長さによって変わる不定時法。
時の呼び方は日の出前に星が見えなくなる時刻を「明け六つ(あけむつ)」、
日が暮れて星が見える時刻を「暮れ六つ(くれむつ)」として、
昼夜とも順に五つ、四つ、九つ、八つ、七つと数えた。
七つは従って夜明け2時間前。
午前3時頃に日本橋出発し、夜明けは品川あたり。
「コチャ 高輪(たかなわ)夜あけて提灯(ちょうちん)消す」となる。コチャエ コチャエ
日本橋
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2004年08月24日

井の頭公園

20040824d8a1885b.jpeg井の頭池は、神田上水の水源、命名者は三代将軍徳川家光で、「このうえなくうまい水を出す井戸」という意味だとの事、甘美な湧き水が弁財天のお堂の脇にあったそうです。
また、お花見で有名。では一度見に行こうということで家内と出かけたことがある。
ところがこの井の頭公園。池でボートに乗ったカップルは必ず別れるという噂がある。
何故この様な悪いイメージが広まったのか不思議だが、入口に焼き鳥屋があって酒飲みにはイチャイチャしたアベックは嫌いだったのではという気がした。
因みに、花見はVery Goodで、家庭内の波乱も起きませんでした。
(上の絵は井の頭池弁財天)
井の頭花見
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2004年08月23日

吉原

200408235ce90257.jpeg廻れば大門の見返り柳とたけくらべに書かれている
大門はオオモンとの事。ずっとダイモンと思っていたが、ダイモンは芝。
ちなみに、ここら辺の地名は千束で、洗足という地名が目黒にあるので、紛らわしい。
吉原は日本堤のイメージで川岸(しかも隅田川)と思っていたので、初めて行った時は、水の気配がさらさら無くいったいどこへ歩いているのかと焦った記憶がある。
大門は今は無く、見返り柳はいうと当然それどころでは無いので知りません。
(上の絵の右下が大門、中央やや上に見返り柳)
見返り柳
Posted by kitora at 20:59  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月22日

富岡八幡宮

200408221e6ed65a.jpeg門前仲町には大きな寺社が2つ、深川不動尊と富岡八幡宮が並んでいて驚く。
駅からの参道は深川不動へとなっているが、元々は富岡八幡の門前町で、明治になって深川不動が成田山新勝寺の別院として建てられたとの事。
どちらの方が御利益があるのかと思ったが、二股かけては神様にも相手にされなくなると考え富岡八幡にお参りする事とした。
境内は広く、日本一大きいといわれる御輿が展示されているし、本堂裏には横綱力士碑があり巨大な石に明治の大横綱から朝青龍まで名前が刻まれいる
ちょうど骨董市迄開催されており、家内は掘り出しものはないかと物色していたが、こちらは趣味でないので、良い迷惑。
富岡八幡本殿
Posted by kitora at 09:45  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月21日

洲崎

洲崎
広重の深川洲崎十万坪、鳥の視線で雪景色を描いた魅力的な構図で好きな絵ですが、洲崎ってどこ?と思ってしまう。なんでも、現在の江東区千田・海辺・千石一帯、JR錦糸町の南、地下鉄東西線迄いかない処だから、今では海岸線よりはるかの内陸になる。しかも、この深川十万坪自体、江戸時代の埋め立てた土地だという。
近くの清澄公園・富岡八幡は行った事がありますが、潮の香りはさらさら無く、大都会の真ん中です。


Posted by kitora at 10:57  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月20日

こんにゃく閻魔

200408203f89375d.jpeg東京ドームの近くに「こんにゃく閻魔」源覚寺がある。何故こんにゃく閻魔と言うかといえば、眼病をわずらった老婆が思い余って閻魔大王に祈願を込めたところ満願の日に治り、以来、老婆は好物の「こんにゃく」を断ち供えるようにした為との事。
老婆の身代わりとなられた為、本堂の閻魔様の右目部分は割れて黄濁しているのだが、当然よくわからない。
同じ境内の塩地蔵の方が感激(下の写真)。こういうイメージは雪景色でしか記憶がないのだが、ここのは塩が地蔵様を覆っている。これって300年の蓄積なのだろうか?
塩地蔵

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2004年08月19日

王子、名主の滝

200408198a2dd8e4.jpeg王子稲荷の少し先に、江戸時代にここら辺の名主であった人が作った庭がある。
崖を利用し滝のある庭園で、同じ作りとしては椿山荘の庭園があるが、名主さんの作の方が風情があり良かった。こんな場所が雑踏の中にもあるのだと感動してしまう。(実は、女性と一緒に行った為かもしれない。椿山荘は結婚式の後で野郎ばっかでしたから)
王子稲荷は「あれ?これだけの広さ?」という感じであったが、ここはゆっくり歩いて廻れるだけの空間の大きさが魅力。後は虫さえいなければ・・・。
男滝

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2004年08月18日

王子稲荷

2004081840be3c16.jpeg王子稲荷は関八州の稲荷の「もとじめ」、その為、広重の「王子装束榎・大晦日の狐火」の狐さんがお参りをする事となる。
周りは都市化して全く雰囲気がないが、ここだけは木立も深く、うしろ山に赤い鳥居が並び広重の世界を彷彿とさせる。
装束榎はJRの線路の反対側にあるそうだが、イメージを壊さない様、行かない事とした。
広重王子
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2004年08月17日

浅草寺

浅草寺
浅草の観音様は金龍山浅草寺とのこと。
縁起によれば時代は飛鳥期、投網にかかって引き上げられたのが聖観世音菩薩のご尊像。御丈わずか1寸8分。
なのに境内は広い事広い事。
家族3人で行ったのですが、お御籤は面白い事に大吉・吉・半吉となりました。ここは凶が多いお寺なのですが、一先ず凶にならず安心。
浅草寺2やはり大ちょうちんは欠かせません。提灯の下をみると龍が彫ってました。
Posted by kitora at 21:16  | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする