2011年05月13日
2004年12月09日
目黒不動
目黒不動は、江戸の五色不動の一つで、不動明王を本尊とする7世紀に開山した関東最古の不動霊場との事。なんでも、鷹狩りの帰りに立ち寄って以来深く帰依した家光が、火災で消失し仮本堂のままになっていた本堂を再建して以来、歴代将軍の保護を受け、江戸時代には、信仰と富士山景勝の行楽地として栄えたそうです。実際、境内は広大で、本堂・仁王門・書院・鐘楼と壮麗な伽藍立ち並び、又、本堂へ続く階段の左側には「独鈷の滝」という湧水まであります。大変立派で、いかにも御利益がありそうです。家内安全・商売繁盛の祈願をしましたが、目黒不動さんのホームページでは災厄難を除ける不動尊でした。家内安全は災厄難かな?
(お江戸の昔も変わらぬ景色です)
今回で終わりとします。アクセスして頂いた方、ありがとうございます。
2004年12月02日
鬼子母神
鬼子母神というと「恐れいりや鬼子母神」という言葉が良く知られていて入谷という感じですが、雑司が谷も「すすきのみみずく」を名物にしていて有名です。鬼子母神は、子授け・安産・子育ての神様です。来歴として伝わるのは、多くの子どもを育てるのに他人の子どもの肉を食っていた鬼子母神が、お釈迦様に自分の子どもの一人を隠され嘆き哀しみ、その事でやっと自分のおろかさに改心して母と子を守る神となったというもの。
石榴の実は、子供の肉を食べたくなったらかわりに食べてものとして、お釈迦様から渡されたとの事です。
ひどく恐ろしい伝説ですが、石榴ってそんな味がしていましたっけ。アボガドと山葵でトロの味だそうですので、結構どこかで繋がっているのかもしれません。
(下の写真は石榴の絵馬です)

2004年12月01日
品川
品川は、江戸時代には東海道五十三次の第一番目の宿として栄えました。日本橋から歩けば二里(約8キロ)といった距離です。ここは又、「鉄道創業の地」だそうです。
日本最初の鉄道は新橋−横浜間を走ったはずですが、これに先立つ4ケ月前から品川−横浜間で仮開業していたので、最初に鉄道が走った品川駅が鉄道創業の地なのだそうです。
では何故新橋ー品川間が遅れたかというと、用地確保で困難を極めた為。特に高輪は陸軍部の土地があったのですが、測量さえさせてもらえない状態でした。そこで、鉄道推進派の大隈重信が大英断を行い、「陸軍部の土地なぞいらん。陸蒸気を海に通せ」という事で、田町〜品川間の約3キロを堤防を築いて。蒸気機関車を、海の中を走らせることになったという事です。
その結果、下の様な錦絵の風景となりました。
しかし、この景色は結構魅力的、どこかで復元しないかな。

2004年11月25日
愛宕山
「鉄道唱歌」に《愛宕の山に入り残る月を旅路の友として》と歌われた愛宕山。江戸府内ではもっとも高い山だったそうです。高さは26メートルで、江戸時代には、東京湾から房総の山々までが一望できたとの事。頂上には愛宕神社があり、江戸有数の景勝地として、浮世絵にも多く描かれています。特に見晴らしの素晴らしさは江戸随一で、正面の男坂を上ったあたりには多くの茶屋が軒を並べていました。
この男坂、鳥居から正面に向かう八十六の石段の急階段で、実際登るとかなり息が上がります。しかし、ここを馬で登った人がいるそうです。 世の中も太平になった頃、曲垣平九郎いう侍が皆が逡巡している中を馬でこの石段を上り下りして梅の一枝を家光公にさしあげ日本一の馬乗りとして出世したそうです。その為男坂は「出世の石段」と呼ばれています。
そう言えば愛宕神社に行く時はいつも神谷町方面から来ていて、裏の参道を登りこの石段は下ってばかりしていました。「しまった、道理で出世しないはずだ」

2004年11月17日
両国橋
隅田川に架かる江戸五橋のうち両国橋は、千住大橋に次いで古い橋で、武蔵と下総の二国を結ぶ橋なので両国橋と名づけられたそうです。広重の名所江戸百景で両国橋というと花火を描いていますが、江戸時代には、両国の川開きとして花火大会が実施され、この日から隅田川に舟を浮かべて納涼することが許されたとの事。花火の日には、あちこちから屋形船、屋根船、猪牙船(ちょきぶね)など、ありとあらゆる舟が橋の下へ集まってきて、川の水が隠れてしまうほどであったという事です。
これらの船は樽廻船などの海船と比べて、川船というそうです。大名や武家の間の乗り物が屋形船で、大小二種類がありました。屋形船ほど大きくないが屋根つき、というのが屋根船で町人も利用でき、今の屋形船はこちらに近いそうです。船首が鋭く猪の牙の形をしているのが「猪牙船」で吉原や深川など通う為の移動手段として利用された小型の客船です。
ご多分に洩れず、大名や裕福な町人達が豪華を競って、金・銀・漆・絵画とあらゆる手段で屋形を飾り付けたりして、幕府が装飾や大きさに制限を加えるほどだったそうです。
バブルははじけましたが、現代に復元されたら人気がでそうですね。でも大きいと大変、猪牙船がいいとこ、とすると屋形がない。
(右端の屋根なしが猪牙船です。やはり小さい)

2004年11月15日
永代橋
隅田川には、千住大橋、吾妻橋(大川橋)・両国橋(大橋)・新大橋・永代橋の江戸五橋がありましたが、永代橋は第4番目の橋として元禄年間に現在の場所よりも上流約150mに架けられました。このあたりを永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名づけられたそうです。江戸時代、永代橋付近には多くの廻船が停泊していたとの事です。そもそも、和船は海船と川船に分かれますが、海船は海上輸送に耐える構造の大型帆船で、主に関西から檜垣廻船、樽廻船が荷を運んでいました。これらの船は隅田川河口の江戸湊(三十間堀・八丁堀・霊岸島箱崎の辺りの一帯)まで商品を積んできて停泊し、荷は問屋からの小舟に積み替え陸揚げしていました。その為、永代橋は廻船が航行できるよう橋桁を十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房・上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の景観だったそうです。
現在眺望は望むまでもない状態ですが、ここら辺はベイエリアとして開発され、永代橋も夜にはイルミネーションが点され、それはそれで情緒があります。ブルーの光が魅力的で、橋上からの眺めより、今では屋形船での水面から眺めが勝っているのではと思います。

2004年11月05日
兜町
兜町という名称の由来はこの地にある兜神社の「兜岩(かぶといわ)」にあります。この石にはいくつかの伝承がありますがひとつは、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が平将門の首を打ち、兜と一緒にここへ持ってきました。そして兜だけを埋めて塚を築いたことから兜山と呼ぶようになったとの事です。
現在、兜町といえば東京証券取引所といわれるほどに「株の町」として有名です。そして兜神社も商売の神様として親しまれていて、祀られているのも商業の守護神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、合祀の神さまを大黒様と恵比寿様としています。又、証券業界の守り神にもなっていて、東京証券取引所が氏子総代を務めており、例大祭では、証券業界関係者らが、相場の活況を祈ったりするらしいです。
となるとここは、兜神社の勇ましい御名前や、将門様のパワーにあやかって、株で儲ける事での考えましょうか。オット最後に討ち取られてはいけない!!。

2004年11月04日
将門塚
東京都千代田区大手町一丁目。ここに将門の首を葬っているとされる「将門塚」があります。江戸時代は酒井雅楽頭(うたのかみ)という方のお屋敷の中にあったとの事ですが、何故この地なのでしょうか?なんでも、討ち取られた将門は、怨霊としての力が分散するように、首、胴、腹、手、足の五体に分けられ離れ離れにされました。その中で首は京へ送られ、一旦は東の市に晒されましたが、体の他の部分を探し求めて大音響や怪しげな光を発しながら東の空へと飛び去り、そして力つきて落ちた場所が武蔵国豊島郡芝崎村、つまり現在の将門塚の場所という事らしいです。
場所は皇居とJR東京駅に挟まれた東京の一等地で、良く残っているなというのが本当の感想なのですが、祟りを恐れて手厚く祀られていた歴史があり、その中にはマッカーサーに陳情を繰り返したりもして現在の形となっているそうです。
帝都物語では、主人公が帝都を破棄すべく帝都の守護神、平将門を復活させようとする。それを、阻止すべく陰陽師が平将門の首塚に結界を張るが、陰陽師は殺され結界も破られ平将門はみごと復活したが・・という話でした。確かに、周辺が近代的なオフィス街にあって、この塚だけは周囲の喧騒から切り離されたかのような、すこし不気味な異空間の雰囲気を漂わせています。怨霊伝説を聞いている程、凄みがでる様な・・。

2004年11月01日
水天宮
江戸日本橋の水天宮は、久留米の殿様有馬頼徳公が領地の水天宮より分社として勧請された社との事。その為、当初は三田の藩邸内にあったが、明治元年有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年現在地に移られました。ここは、安産の神様として有名です。なんでも、御社殿の前の鈴紐を鈴乃緒と呼ぶそうですが、これは月に一度新しい物と交換するので、鈴乃緒のおさがりを頂いた妊婦の方が腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから、人づてにこの御利益が広まったそうです。従ってもともとは水の神様ですが、現在は、安産・子授け・水難除・渡航安全の神様となっています。
ところで、水天宮には我が家もお世話になりました。
お産が軽い言われる「イヌ」にあやかり「戌の日」に安産の御祈祷を済ませ「鈴乃緒」を買ってきました。境内には、「子宝いぬ」がありご利益が目で見えるようです。子いぬが実感です。

2004年10月29日
日本橋・薮伊豆
そばは江戸時代のファーストフードで、江戸の終わりには市中に蕎麦屋が今のコンビニと同じ位の数あったそうです。従って老舗の蕎麦屋といっても数ある訳ですが、
もう単純に高校時代の同級生が店主という事で
私の中では老舗の蕎麦屋といったら、「薮伊豆」です。とはいっても、宴会中心でしかお邪魔していませんから、必ず酒付きのコースで蕎麦を食べています。
ここの蕎麦は美味しいです。コースの品には蕎麦寿司のような蕎麦屋特有のものから、焼き物、煮物と揃っています。最後の締めに蕎麦が出てきます。汁は濃厚な味わいで、蕎麦は喉ごしの良さが最高です。蕎麦は世界で一番美味しいヌードルだと書いてあったものを読んだ記憶がありますが、心底同意してしまう味です。
ところで、毎回究極の旨さとなる訳ではありません。やはり自分の状態が一番大切な様です。(酒は飲みすぎに注意)

2004年10月19日
富塚
小伝馬町から南へ少し行くと椙森神社とその境内に冨塚があります。椙森神社は江戸時代、江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられた神社で、商売繁盛の神様、恵比寿様を祭っています。又、古くから富くじ興行が行なわれていた為、それを記念して富塚碑が大正時代に建てられました。富くじは、社寺の修復費用をまかなうために考え出されたもので、谷中の感応寺、湯島天神、目黒不動の富くじが有名ですが、江戸時代結構人気があった様です。富くじの販売所は町の各所にあり、抽選は社寺の広間に据えられた箱に番号を書いた木札を入れ、小さな穴から錐で突き刺して行われたそうです。
落語には千両富とか出てきますが、1等が当たると1000両か500両だったとの事で、一方札を買うには1分(ぶ、1分は1/4両)、従って4000倍の賞金があたります。万馬券より倍率が高いですが、今の3億円宝籤より低いです。その為落語では結構一等があたる訳かと納得します。
富塚碑は本来お参りする様な処ではありませんが、一先ずはお願いをしてみます。3億円宝籤とは言いませんが、せめて年賀はがき1等があたってみたいもの。

2004年10月15日
日本橋石町・時の鐘
日本橋石町(こくちょう)は,米穀類を販売する業者が住んでいたことからこの名がついたそうです。ここは又、江戸で最古の時の鐘があった場所との事。時の鐘は人々に時刻を知らせる役割を持ち、城鐘(または太鼓),市民の時鐘,村には寺の梵鐘が時を報じて生活のリズムを生み出していました。しかし、内藤新宿の鐘は、江戸城へ通勤するにはちょっと距離がある武士たちのためにちょっと早めに鐘を鳴らしていたとの事ですし、ここの鐘も小伝馬牢屋敷で斬罪があるときは、わざと時を遅らせてついたそうで、運用は人情に従って弾力的にされていたようです。
時の鐘といわれてイメージするのは、やはり小江戸川越ですが、これは高い櫓の上に鐘が設置されていて、いかにも特別なものといった感じ。石町の鐘は江戸のものが現存し近くの十思公園にありますが、建物は2階建てと意外と低く見栄えがしません。江戸には九ケ所に時鐘があったとの事ですから、ほどほどの鐘の音で良かったのでしょうが、これでは観光名所の金の音は鳴らない?
(下のは川越の時の鐘)

2004年10月14日
小伝馬町
又、この地には、吉田松蔭終焉の地でもある小伝馬町牢屋敷がありました。この牢屋は江戸幕府最大でもあったとの事です。
昔、親戚の家の近くの刑務所があり、高い塀をめぐらしていて、子供心に不気味だった事を覚えています。その点では、ここは江戸下町の真ん中ですので、つくづく凄い処にあったと思います。まわりは濠をめぐらしてとか書いてあるものもありますが、幕末の地図では濠が無く、想像し難いところがあります。そんな事ばかり考えていると妄想が膨らんで暗い処が怖くなる?

2004年10月08日
日本橋駿河町
浮世絵に描かれている日本橋駿河町の通り、両側全域を占めていたのは、呉服店越後屋(現三越)との事。伊勢松坂の商人であった三井高利が江戸へ出て、従来の掛け売りを排して、その分商品を安く売ったり等の新商法を次々と成功させ、大きな店となっていました。 ところで、駿河町の名は富士山のある駿河に由来するとの事、通りに立って南西を望むと真正面に富士山を見られるように都市計画がなされており、富士の眺めは江戸一番と評判であったと書いてあります。前回の駿河台が近辺で一番良く富士が見えたはずですが、こちらの方が都市美とのコラボレーションの成果という事でしょうか?それにしても富士山がでかい!!
(上は三越の正面にあるライオン像)

2004年10月07日
駿河台
駿河台という名前の由来は、家康が晩年を暮らした駿府城を守っていた側近の旗本衆(駿河衆)が、家康の死後この地に移り住んだためだそうです。ここは、昔、神田山という山であったという事です。その神田山を切り開いてできたのが駿河台。確かに御茶ノ水に向かって、秋葉原・水道橋・小川町どこから来ても登りとなります。それ程登るわけではないので、山と言うより丘といった感じですが、確かに周辺で一番高い位置になります。その為、江戸時代には神田近辺で一番良く富士山が見えたらしく、浮世絵にもいろいろな形で富士が描かれています。
現在でも、富士見坂の名前が神田小川町に残っていて、南西に向かって緩やかな下り坂となっていますが、狭くごみごみした商店街で残念ながらとても富士山など見えない状態です。 むしろ、ビルの屋上の方が富士が良く見えそうですが、遮るものは、昔、鯉のぼりだったのが、今は建物という事でしょうか?

2004年10月06日
お玉が池
神田のお玉が池は、坂本竜馬が習った北辰一刀流千葉周作道場のあった場所として有名ですが、又、江戸の文化人の居住地でもあったとの事です。現在その地名は残っていませんが、於玉稲荷という小さな祠があり、由来も記されていました。
「この辺りに昔、お玉が池という池がありました。江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、除々に埋め立てられ姿を消したといいます。最初桜が池と呼ばれましたが、ほとりにあった茶店のお玉という女性が池に身を投げたとの古事からお玉が池と呼ばれるようになったといいます」
於玉稲荷には花が手向けてあり、綺麗に掃除をしてありました。
ところで、桜が池というのは桜の名所であったが為との事でしたが、江戸も終わりとなると同じ場所で、池と桜の換わりに、染め物屋の物干し台にたなびく反物の風情が江戸の風物詩だったようです

2004年10月05日
浜町
以前は隅田川の浜辺であったことから浜町となったそうです。江戸時代は肥後藩細川氏の下屋敷など大名家屋敷が並ぶ武家地でした。又、この地と本所・深川を結ぶ新大橋が架かっていました。この橋は元禄年間に作られましたが、当時両国橋が大橋と呼ばれていたことから、それに対する意味で新大橋と名づけられたそうです。この橋を描いた安藤広重の「名所江戸百景」中の「おおはしあたけの夕立」は雨の描写が絶妙な逸品です。
ところで、現在の浜町というと、浜町公園と明治座。
浜町公園には、運動場や総合スポーツセンターが有り充実したスポーツ施設になっています。
一方、明治座はその名の通り、文明開化の時代になって浜町が花街として発展した中で明治の中頃開かれたそうです。歌舞伎からミュージカルまで幅広く利用されているとの事で、10月公演は「大石内蔵助」。ここで江戸の雰囲気に浸って、帰りに創業100年を越える老舗も在るという甘酒横丁で伝統の味に楽しむというのが定番なのでしょうか?

2004年10月04日
薬研堀
柳橋の少し南に薬研堀(やげんぼり)があります。元々は堀があったのですが、現在「薬研掘」は薬研掘不動院にその名を残すだけとなっています。この不動尊、江戸華やかなりし頃は目黒、目白とともに江戸三大不動として知られたとの事ですが、今は階段を昇って、お堂があるだけというビルの谷間に取り残された小さな空間になっています。元々の堀を広重の『名所江戸百景』の中で探すと、「両国回向院元柳橋」に描かれています。中央に見える橋の下が薬研掘、上に架かっている橋が元柳橋です。「柳橋」の名は、もともとは薬研堀にかかる橋の名として使われていたのですが、そこへ現在の柳橋が加わったため、重複を避けてこちらは「元柳橋」と呼ばれるようになりました。
ところで、薬研堀は幕府の米蔵「矢之御蔵」へ出入りする船のための堀だったそうで、行き止まりです。薬研堀の名前の由来も、「薬研」が薬草を粉末にする道具で、薬種が集まるV字のくぼみを「薬研堀」と呼ぶ事からという事。同じ様に形から名前がついたものを考えると、カエデや野草のイヌフグリ位しか思いつきません。「かえで」は蛙の手、「いぬふぐり」はイヌのフグリ(陰嚢)の事で2個連結したように見える果実の形がオス犬のそれにそっくりだということからついた名とか。薬研
の洒落た名前とは格落ちでした。

2004年10月01日
馬喰町、横山町
神田川に架かる浅草橋を南に渡ると馬喰町、横山町です。地名の由来は、横山町が御家人の横山氏の知行地だった為、一方馬喰町は幕府の博労頭(牛馬の売買や仲介をおこなう人たちのこと)が住んでいた為との事です。家康の入国の際、この地を気に入り地下七尺の所に蠣殻(かきがら)を五尺埋め砂を敷かせた初音の馬場とよばれる自慢の馬場を作り、馬喰町のほかは馬の売買が禁じたそうです。その為、博労たちが出入りする旅籠屋がずらりと並んだ旅宿街になり、江戸で泊まると言えばここ、馬喰町だったらしい。さらに附近に問屋が集中するようになり、馬喰町の宿屋に泊って品物を選ぶといった事で、地方の人々をここに引きつけていたそうです。しかし明治になってから東京駅の開業で、宿屋の方はどんどん減って、現在は、繊維、文具、小間物、雑貨の問屋街となっています。
ギラギラのファッションのお店や、和服の専門店などバラエティがあり、品数も豊富ですから興味のある方には、たまらない町だと思います。ところで、東京の地下は掘ると温泉が出たりしますが、この地は貝殻とかが出るのでしょうか?
(下の絵は馬喰町初音の馬場)

2004年09月30日
九品仏
東急大井町線の自由が丘の次が九品仏。浄土宗のお寺で本堂に対峙して並ぶ上品・中品・下品の3つのお堂に、それぞれに三体づつ9体の阿弥陀如来像が安置されています。
九品浄土という言葉があるそうで、阿弥陀様は往生した人を極楽浄土に救い上げてくれますが、その浄土には、上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生とあり、その人の生前の所行によってどこに迎え入れられるか決まっているそうです。そして阿弥陀如来様が極楽浄土から迎えにくる際は、その人にふさわしい印を表すとの事で、実際それぞれの仏像の結んでいる手の型、印が異なっています。
九品仏はクホンブツと読みます。知らないとなかなか読めないですが、読みの難しさでは、我孫子(アビコ)が有名。ところで上野駅ですらコウズケと読む人がいると以前テレビでやっていました。日本語は難しい。

2004年09月29日
豪徳寺
東急世田谷線沿線に豪徳寺があり、招き猫で有名です。言い伝えでは、彦根藩二代目藩主・井伊直孝が鷹狩りの帰りに門前を通りかかると、手招きをする猫がいる。不審に思って寺に寄り、和尚の話を聞きながら渋茶など飲んでいると、一天にわかにかき曇り大変な雷雨になった。直孝はこの幸運を喜び、福を招く猫のいる寺としてこの寺を大事にし井伊家の菩提寺とした。以来豪徳寺は大変に栄えたという事です。
招き猫は右手を挙げているものはお金(幸運)を、左手を挙げているものは人を呼ぶといわれています。又、色は、白の招き猫は幸運を呼び、黒は魔除けの意味が、また赤は厄よけあるいは疫病よけの意味があるそうです。
豪徳寺のは幸運を呼ぶ白い招き猫です。招き猫だけでもいろいろ進化するものですね。たくさん居るけど人を呼ぶのはどの猫さん?

2004年09月28日
目青不動
三軒茶屋キャロットタワーの近くに目青不動があります。目黒不動は有名ですが、なんでも江戸には五色の不動があるそうです。寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、三代将軍家光が、江戸府内の不動尊を指定し、天下泰平国家安穏を祈願した事に由来するとの事。色は目の色でなく、陰陽五行の方角を表し、同じ趣旨で土俵の上の房の色やキトラ古墳の壁画の色が使われているのですが、東が青、南は赤、西に白、北を黒、それに中央が黄色となります。
それぞれの不動尊は、目青不動が世田谷区太子堂、目赤不動が文京区本駒込、目白不動が豊島区高田、目黒不動が目黒区下目黒、目黄不動が台東区三ノ輪。
方角だとするとそれぞれの不動尊が在る場所とあっていない様な気がします。目の色の方がわかりやすい?!。

2004年09月27日
三軒茶屋
江戸時代の中ごろから丹沢の大山阿夫利神社へお参りに行く人が増え、大山道(今の世田谷通り)がにぎわうようになり、又近道(今の国道246)も作られて、分岐点にあたるここの地に三軒の茶屋「石橋屋」「角屋」「田中屋」ができ大山詣や多摩川行楽の人々の休み処となったとの事です。現在はキャロットタワーがランドマークとなっています。都心と違い周りに高いビルが無い為、26階展望台からは、富士山や横浜のランドマークタワーがすっきり見る事ができます。
又、このビルは東急世田谷線のターミナルにもなっています。幹線道路で信号待ちはしてしまいますが、専用軌道を走る都内で珍しい路面電車です。その結果、展望台から見るとまるで模型のような眺めの出来上がりです。

2004年09月24日
合羽橋
下の浮世絵は浅草田甫酉の町の詣という題ですが、銀座線で浅草の手前は田原町ですから、ここら辺かと勝手に思う。田原町という名の由来もこの地が田畑であったことからとの事。でも今は田原町といえばかっぱ橋道具街となります。ここは食器具・調理器具・サンプル品・調理衣装など,調理に関するものなら,ありとあらゆるものが揃う問屋街である。特に目的が無くても、結構時間をつぶせて面白い。小売りも行っており,こだわった調理器具を買う場合は絶対お薦めだ。

ところで、合羽橋を代表する大型店はニイミ洋食器店だが、建物屋上には巨大なコック像が設置されていてランドマークにもなっている。インパクト充分ですが、三軒茶屋のゴリラとどっちが迫力ありますか?!

2004年09月23日
雷門
浅草のシンボルといえば雷門の大提灯。高さ4m、直径3.4m、重さ670kgで、「雷神」と「風神」を奉るものとの事で、提灯の向って右に風神像,左に雷神像がある。山門自体は、切妻造・本瓦茸きの立派なもの、気の短い江戸っ子が風神を略して「雷門」と呼んだのが由来とか。大提灯下の金具には何故か「松下電器」の文字があるが、これは松下幸之助元会長が原因不明のひざの痛みに苦しんでいた折、浅草寺に祈願祈祷を受けて快癒された縁で寄進をされた為である。雷門に因んで「雷おこし」が江戸時代中ごろから浅草のおみやげとして売り出された。東京みやげというと「東京ばな奈」「ひよ子」なのだろうが、意外と「雷おこし」は好きだった。昔も、江戸詰めが済んで故郷に戻った時に、浅草寺の土産で、とかしていたのだろうか?

2004年09月22日
駒形
蔵前から浅草寺に行く道すがらではそのまま通ってしまう感じですが、やはり「駒形どぜう」だけははずせません。ドジョウというと裂いて骨をはずして(これを「さき」というらしい)玉子でとじる『柳川』ですが、ここは泥鰌の上に刻んだ「ゴボウ」を若干乗せ、その上に大量の「ネギ」を乗せた「どぜうなべ」が名物のよう。
しかし、丸のままなので初めてだと手がでません。
慣れてくると丸のまま(通称「まる」)の「ほろ苦さ」が美味しいと感じるようになると聞きました。納豆・くさやと思い描くと個性の有る食品ほど好きになると徹底的に惚れこむものの様です。しかし最初のハードルは高そうで、食って後悔するか、食わずに一生思い残すか、さてさて?!、という人の為に”さきなべ”というのがあったそうです。
(浮世絵は駒形堂吾嬬橋)

2004年09月21日
蔵前
2004年09月17日
浅草橋
神田川に架けられた橋は柳橋の上流が浅草橋です。ここは奥州街道が通り浅草寺への道筋にあたります。幕府は主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築きましたが、ここら辺の門が浅草御門と呼ばれ、そのため橋の名も、浅草橋となったそうです。
現在浅草橋は人形問屋が軒を並べています。
雛人形を飾る風習は江戸時代広まりましたが、江戸市中には雛市が立ち日本橋や浅草橋に人形店がたちならび賑わったとの事です。
私も娘のお雛様を買いにきましたが、名前の聞いたことが有るお店は全て並んでおり、又、店毎のお顔も違ってそれぞれ特徴があります。その為、買う段になると迷いますし又家内とも意見があいません。9回同点引き分けという事で、あとは1人が決めるとなりました。という事で家内安全の実践です。
(下の絵は江戸時代の次郎左衛門雛)

2004年09月16日
ベロ藍
その昔、絵画で青色というと藍とかラピスラズリになっていました。藍は染料としてお馴染みで独特の深みがある良い色ですが、渋い感じとなります。
一方、ラピスラズリ(瑠璃)はアフガニスタンでしかとれない鉱石で非常に高価でした。
フェルメールの「真珠の首飾りの少女」に使われ大変美しい色ですが、効果的な処に大切に大切に使うといった感じです。
その様な中、北斎や広重の時代になって、人造顔料のプルシャンブルー別名ベロリン藍(ベルリン・ブルー)が作られました。
プルシャンブルーはなんでもプロシアで出来たのでこの名とか。命名はえらく簡単ですが、これにより鮮明な薄青色や澄明な濃紺色を表現でき、浮世絵史上に風景画のジャンルが確立したそうです。
冨嶽三十六景神奈川沖浪裏の様に、藍を基調とした濃淡で色調を整え他の色を抑えた浮世絵が可能となった訳です。ところで新橋色の世界とベロ藍の世界、どちらがお好きですか?浮世絵は再評価されましたが、芸者さんの世界はもう時代が変わった様です。江戸より東京が遠くに在ります。

2004年09月15日
柳橋
2004年09月14日
水道橋
神田上水が神田川の上を懸樋で渡った為、水道橋の名前の由来となっている。江戸時代、下町は埋め立て地であり井戸を掘っても真水が望めなかったため、上水道として神田上水が作られた。神田川の少し上流で堰を作って水を取り、後楽園や今のドームを経由し、水道橋の処で神田川を渡って、神田・日本橋方面の飲み水として利用されていたとの事。
現在、懸樋があった処には、神田上水懸樋記念碑として座りの良い石が置いてある。川沿いの道端に作られた小さな空間だ。わざわざ見に行く程でも無いとは思うが、犬を散歩しているおじさんがラジオ体操をしていて定員オーバーとなり、近寄れなかった。
(上の絵は水道橋からの眺め、赤い線あたりに懸樋があった)

2004年09月13日
後楽園
2004年09月08日
湯島聖堂
神田明神
神田明神、大国様と恵比寿様と平将門が祭られています。そして、東京三大祭の神田祭で有名。祭は2年に1度の5月に開催され、神田ッ子は祭りが大好きで4月になるとそわそわするというのをアド街でやっていました。氏子のエネルギーを感じられます。
境内は思った程は広くないが、屋台が出てたり「献燈ちょうちん」があったりと活気が有り、又、参道には元和二年創業の「三河屋」と弘化三年創業の「天野屋」という二軒の老舗があって、共に地下の麹室で江戸以来変わらぬ製法の甘酒と納豆を作り続けているとの事。
ここでは歴史が生きているのですね。

2004年09月06日
御茶ノ水
2004年09月04日
御徒町
2004年09月02日
不忍の池
2004年09月01日
上野広小路
上野の寛永寺は江戸城の丑虎の位置にあったことから、鬼門を抑える寺として建立されたことは有名。その寛永寺に将軍が参詣する道筋(御成道)の一部が、明暦の大火(1657)後、類焼を防ぐ目的で拡幅されたのが上野広小路との事。火除けのための大きな空間があけられ、浅草・両国と共に三大広小路のひとつとなった。
広小路には、すぐ取り払えることを条件に露店や見世物小屋の開店が許可され、にぎやかな繁華街となったという。
都市化して、どこも同じ様な町並みとなっているが、ここら辺も道沿いは松坂屋が中心となっている普通の町並み。しかし、近辺は、昭和以降に発展した場所にはない、いろいろと面白い老舗があって発見する楽しみがある。

2004年08月31日
湯島天神
2004年08月30日
庚申塚
庚申塚は「庚申さま」を信仰する人々が供養のために建てた石塔との事。この庚申信仰はなんでも次の通り。人間の体には三尸(さんし)という虫(霊物)がいて、庚申の夜に昇天し、その人の罪科を天帝に告げ寿命を削る為、この晩を不眠で通し三尸を退治するため祈って、天帝に罪を訴えることをできないようにしたとの事。その為、人々は講をつくり、庚申の夜に集まり飲食をし、健康長寿を祈った。
昔の人もいろいろ理由をつけて楽しんでいたのだなと思いますが、結局、年を取るとそうそう徹夜できないので、まとめて天帝様に訴えられ、返って寿命を縮めるのではないかとも思う。
庚申塚はとげぬき地蔵の少し先。境内はとっても狭く、驚く。庚申塚自体が地名になるのも珍しいとの事で、江戸時代はこういう事もあったのだなという感じ。
(下の絵の右端中央に見える石塔が庚申塚)

2004年08月27日
とげぬき地蔵
「おばあちゃんの原宿」として有名な巣鴨で人を集める中心がとげぬき地蔵(高岩寺)。境内に長い行列ができていましたが、これは観音様を白い手ぬぐいで洗う為です。なんでも、自分の治したいところと同じところを洗うと病のトゲが抜けるとか。
現在は2代目で以前の観音様はあまりに多くの方のお願いで洗ったため磨滅し、現在は後ろの厨子に納められているとの事。
お寺さんが意外と狭いのと人が多いのが印象的でした。
近くに有名なカレーうどん屋さんがありますが、こちらも長い行列。

2004年08月26日
日本橋続き
2004年08月25日
日本橋
道中唄に歌われたお江戸日本橋七つ立ちだが、これは京に初めて旅行する時の話とか。
江戸時代は日の長さによって変わる不定時法。
時の呼び方は日の出前に星が見えなくなる時刻を「明け六つ(あけむつ)」、
日が暮れて星が見える時刻を「暮れ六つ(くれむつ)」として、
昼夜とも順に五つ、四つ、九つ、八つ、七つと数えた。
七つは従って夜明け2時間前。
午前3時頃に日本橋出発し、夜明けは品川あたり。
「コチャ 高輪(たかなわ)夜あけて提灯(ちょうちん)消す」となる。コチャエ コチャエ

江戸時代は日の長さによって変わる不定時法。
時の呼び方は日の出前に星が見えなくなる時刻を「明け六つ(あけむつ)」、
日が暮れて星が見える時刻を「暮れ六つ(くれむつ)」として、
昼夜とも順に五つ、四つ、九つ、八つ、七つと数えた。
七つは従って夜明け2時間前。
午前3時頃に日本橋出発し、夜明けは品川あたり。
「コチャ 高輪(たかなわ)夜あけて提灯(ちょうちん)消す」となる。コチャエ コチャエ

2004年08月24日
井の頭公園
井の頭池は、神田上水の水源、命名者は三代将軍徳川家光で、「このうえなくうまい水を出す井戸」という意味だとの事、甘美な湧き水が弁財天のお堂の脇にあったそうです。また、お花見で有名。では一度見に行こうということで家内と出かけたことがある。
ところがこの井の頭公園。池でボートに乗ったカップルは必ず別れるという噂がある。
何故この様な悪いイメージが広まったのか不思議だが、入口に焼き鳥屋があって酒飲みにはイチャイチャしたアベックは嫌いだったのではという気がした。
因みに、花見はVery Goodで、家庭内の波乱も起きませんでした。
(上の絵は井の頭池弁財天)

2004年08月23日
吉原
2004年08月22日
富岡八幡宮
2004年08月21日
洲崎

広重の深川洲崎十万坪、鳥の視線で雪景色を描いた魅力的な構図で好きな絵ですが、洲崎ってどこ?と思ってしまう。なんでも、現在の江東区千田・海辺・千石一帯、JR錦糸町の南、地下鉄東西線迄いかない処だから、今では海岸線よりはるかの内陸になる。しかも、この深川十万坪自体、江戸時代の埋め立てた土地だという。
近くの清澄公園・富岡八幡は行った事がありますが、潮の香りはさらさら無く、大都会の真ん中です。
2004年08月20日
こんにゃく閻魔
2004年08月19日
王子、名主の滝
2004年08月18日
王子稲荷
王子稲荷は関八州の稲荷の「もとじめ」、その為、広重の「王子装束榎・大晦日の狐火」の狐さんがお参りをする事となる。周りは都市化して全く雰囲気がないが、ここだけは木立も深く、うしろ山に赤い鳥居が並び広重の世界を彷彿とさせる。
装束榎はJRの線路の反対側にあるそうだが、イメージを壊さない様、行かない事とした。






























やはり大ちょうちんは欠かせません。提灯の下をみると龍が彫ってました。