昨日は憲法記念日。はたしてどれだけ憲法が話題になったのだろうか。
私自身、子どもの相手に疲れて、ロクにテレビを見ることもなく、新聞や雑誌を読むこともなく、翌日の朝になってしまった。Webのいくつかのポータルサイトを見てはみたが、憲法特集を組んでいるところはないようだった。勿論、丹念に見たわけではないので、見落としているのかも知れないが、それにしても見落としてしまうほどの取り扱いだったということである。
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「
内田樹の研究室」というブログをよく覗く。内田樹については、今更説明は要らないだろう。
ともあれ、このブログを読んでいて、私はこの人のエネルギーに圧倒され続けている。とにかく活動(関心)の幅はすさまじく広いし、そこからアウトプットされる文書量も桁違いである。
その「内田樹の研究室」というブログに、ニートについて次のような文章があった。
「勤労の義務」は憲法27条に明記されているのであるから、ニートは存在自体が違憲なのである。
2006年05月03日 skype とニート論
そうか。ニートって、違憲な存在だったんだ。確かに。
「日本国憲法」の前文に依る限り、自衛隊が違憲な存在になってしまうことは疑いがないであろう。しかし、ニートを「違憲な存在」とする発想は、私にはなかった。
そこで、今一度「日本国憲法」が国民に求めていること(制定当時の人々が願ったこと)を、私なりに確認してみようと思う。
小学校でも習ったことだが、「日本国憲法」が国民に課している義務は、わずかに3つだけである。
第二十六條
2. すべて國民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通敎育を受けさせる義務を負ふ。義務敎育は、これを無償とする。
第二十七條
1. すべて國民は、勤勞の權利を有し、義務を負ふ。
第三十條
國民は、法律の定めるところにより、納稅の義務を負ふ。
Wikisource
たったこれだけである。
義務なんてものは、なるべく少ない方が良い。削って削って、それでも削り切れなかったものが、この3つである。
第30条「納税の義務」は、分かりやすい。社会的コストはみんなで分担し合いましょうということである。一部の人間だけが負担することになると、どうしてもその人々に特権が生じてしまう。
問題は、第26条「教育を受けさせる義務」と第27条「勤労の義務」である。
唐突ながら、私は、この2つを「楽天的であることの義務」と読みたい。
「投企」という言葉がある。ハイデガーのEntwurfやサルトルのprojetの訳語として使われている。ハイデガーにせよサルトルにせよ、「人間は投企的存在である」という風に使っていたのではなかったかと思う。
私は哲学史に詳しくないので、両者の言葉がどうして同じ訳語で表現されるのか、また、両者がそれぞれどういう文脈でこの語を用いているのか、詳しくは知らない。それでも(或いは、それ故に)、この語は私にとって魅力的に映る。何故ならば、この言葉は、現在を未来から眺めようとしているからである。
現在の自分が常に未来への道程上に捉えられる。逆に言えば、未来が想定できないところには現在を規定することもできない。しかるに、未来を想定するとは、常に楽天的な営為である。少なくとも未来に自らが存在すると想定しなくてはならない。この一点だけを取ってみても、未来を前提とする行為は楽天的であると言わねばならないであろう。いかに絶望的な未来であろうとも、未来が想定されているという点で、その視線は未来に向けられている。その点、目の前の雑事に追われて先を見る余裕のない普段の私とは明らかに違う状況である。
勤労とりわけ教育は、未来のために現在を制限することを是とする行為である。何故現在を制限するのか。それは、想定している未来をより確実なものにするためである。
同じ眉間にしわを寄せ唇をゆがめている表情ではあっても、足下しか見えていないのと先を見据えているのとでは、後者の方がイイ。顔を上げて未来を見つめようとする姿勢には、たとえその表情がどのようなものであれ、希望が表れているからである。
憲法記念日。
私たちはどのような未来を思い描くのか。
ゴールデンウィークが明けると、しばらく祝日はない。目前の忙しさに埋没せざるを得なくなる。これを機会に、「私はどのような未来を求めているのか」を具体的に考えてみたい。
改憲論議が少しずつ報道に出てくるようになった。だが、未来を語る改憲論議は、極めて少ないように思う。
「存在自体が違憲」ということがらがある以上(そしてそれを解消することがにわかには難しい以上)、改憲は不可避であるように思う。
しかし、「現状に合わせた」改憲だけは避けて欲しいものだと思う。