2012年05月27日
今年も打てんのぉ〜
投手陣の整備が進み今シーズンに期待を抱かせた我が広島カープであるが、プロ野球に興味のある方なら知っての通り、非常に残念な結果で推移している.
こういう結果になっている原因が打線にあることは、衆目一致するところであろう.
4番栗原は予想通りのスロースタート(これについても言いたいことは山ほどあるが・・・)であったばかりかケガで戦列を離れたし、その他大勢の期待された若手も全く良いところが出てこない.
希望は、新外国人助っ人のニックさんとプリンス堂林さんぐらいである.
このあまりに打てない(あえて数字は上げないが悲惨です)打線ゆえ、投手陣には12球団イチのプレッシャーが常にのしかかっているハズで、投手陣の調子が多少狂ってしまうことがあっても、それは誰も攻められないと思う.
新人の野村選手など、他球団なら既に5勝くらいしているのではないか.それでも毎試合、ゼロに抑えるべく懸命に投げる姿を見ていると、全く申し訳ない気持ちでいっぱいである.
要は、「打てない」にもほどがある、状況なのだ.
支配下選手を総替え出来る訳ではないのだから、現在のメンバーを前提になんとか上昇させて行くのが監督やコーチに役目である.
ではあるが、今のところ結果が出てないということは彼等の力量不足である.
そのような指導やコーチング、マネージメントをしているのか、マスコミなどから知る限りではその全てを伺い知ることはできないが、是非とも、各選手の目線に立った指導をお願いしたいものである.
スター選手だった人が監督やコーチをやると打てない選手に、「良いから思い切って打て」、「ストライクが来たら打て」式の指導をしてしまいがちになるが、言うまでもなくこれは間違いである.
あくまでも、その選手の実力、確実に出来る行為に落とし込んで指示をださなければ駄目だ.
まぁ、そんなことは分かっていると思うが、言わずに居られない状態なのである.
たのむよ〜!
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2012年05月26日
フェイス・エヴォリューション
先日、仕事の関係で何人かの現役大学生と会う機会があった.
最初は「どんな人が現れるのだろう」と、未知との遭遇を経験する時のおそれに近い感情や、いくぶんかの警戒心があった.実際、会ってみると見た目は今風のルックスで、何より清潔感あふれていて、我々の学生時代とは隔世の感がある.まるで女の子みたいな気の使いようだなぁ、と思ったが、それは別に悪い事ではない.
そればかりか、言葉使いは丁寧で、礼儀もわきまえているし、何より自らの研究内容を問われると、途端に熱く語り始めたのには軽い感動すら覚えた.
「最近の大学生は・・」なんて、ステレオタイプなネガティブ評価がマスコミなどで繰り返される事もあるが、なんの、なんの、大多数の学生さんはこういう感じなのだろうと納得した.
ところで彼等の顔が、イメージとしてアゴが細く、両目が間隔が開い(いわゆるヒラメ顔)ていることに軽い驚きを感じた.ひとりひとりを見ると全員がそうという訳ではないのだが、最大公約数的なイメージとして、そのように感じられたのだった.
アゴが細くなるのは、昔から人類の進化の方向として色々なところで言われていたように思うので、それほど意外に思わない.食料の大部分がやわらかいものになるに従って、咀嚼する回数も、強さも減ってくるだろうから、その結果としてアゴが細くなるのは必然だろう.
しかるに、両目の間が広がるのはなぜだろう.
確かに、テレビなどに登場する人達の間でも、そういう顔種が増えてきているように思ったことはあったが、こうして現実に接してみると「これはいかなる必然なのか」と不思議でならない.
両目の間隔を広げる生活習慣とは、一体、いかなる進化の方向なのだろうか.
考えれば考えるほど、不思議でならないのだ.
2012年05月25日
musiQ/オレンジレンジ
「オレンジレンジのファンだ」と言うと、怪訝な表情をされることが多かった.
「多かった」と過去形なのは、オレンジレンジが新しい音楽の可能性を求めて(?)インディーズ化して以来、ポピュラー音楽に接するのがテレビの音楽番組ぐらいで自らCDを買い求めることもほとんどしない、イマドキの世間からすれば、オレンジレンジは目の前から居なくなった存在に近いからだ.
おかげで、「今度のオレンジレンジの曲、聴きましたか?全くフザケてますよね」とか「やっぱり何がやりたいのか全然わかりません」とか「この曲もパクリですかね」と言われる事が無くなった.
オレンジレンジを愛好する自分として、このような言葉に接することは、それなりに胸痛め、哀しい気持ちにさせられる出来事であるが、オレンジレンジを好きになる理由もあれば、嫌いになる理由も当然あるのだから、ここは仕方のないところである.
そんなわけで、オレンジレンジ普及委員でも、オレンジレンジ教の信者でもない私は、そういう中傷に対して、あえて反論を試みることはしなかった.
でもハッキリしているのは、オレンジレンジを嫌う、あるいは、それほどでなくても「ちょっと」悪く言う人は他のミュージシャンの比でないくらい多い.それだけ、好き嫌いが別れる明確なキャラクターを持ったバンドなんだと、良いように解釈する.
彼等の音楽に初めて意識的に接したのはこのアルバムにも収められている「花」という曲で、「ああ、良い曲だな」と思った.「歌が下手」とか言う人もいるけれど、そんな風には全く感じなかった.
この曲がきっかけとなってオレンジレンジを知り、このCDを買い求めた.
聴き始めると「花」のイメージとはちょっと異なる音楽のオンパレードに戸惑った.しかし、聴き続けていくととにかく音楽を楽しんでいる光景が目に浮かび、その楽しげな雰囲気が聴いているこちら側にも伝わってくるのだった.それは正に「音を楽しむ=音楽の風景」だった.
思い思いに音楽を楽しむ上で、スタイルとか、作法とか、そんなことは些細な事で、その時にもっとも自分の心が翼を拡げて羽ばたける音楽を自由に演るんだ、とでも言いたげな音楽である.だから、何がやりたいか分からないと思われることもあるかもしれないが、ロックだ、ポップだ、ヒップホップだ、とひとつの世界にカテゴライズされない「自由さ」と考えたら良いのではないか.
何かを表現する上で、それはとても大切な事だと思う.
それ以来、インディーズになった今に至るまで、彼等の音楽を自分のペースで追い続けている.新しいアルバムを発表するたびに、新たな世界を見せてくれるのも自分の趣味に合っている.
最新のアルバムはちょと行き過ぎて、手を出せなかったが、別にガッカリはしてない.
これが自分の好きなオレンジレンジだ、と納得しているからだ.

2012年05月24日
奇跡の1枚
撮ってきた写真の出来映えに満足する時は来るのだろうか.
先日、招待されて参加した結婚式で撮ってきた写真を整理しながら、改めてそんなことを考えた.でも、その答えが「否」であることは、とうの昔に悟っている.
「そんな瞬間が来るわけがない」、と、「そう簡単に来てもらっても困る」というニュアンスを半分含んで確信しているのだ.
そんなわけだから、撮ってきた写真は400枚近くになるのだが、被写体ブレやピンボケ写真をサクッと切捨て(ブレることで意外な味を感じさせている写真はもちろん残す)、「これは一体、何を狙って撮ったものかわからない」ものをバサッと消去し、連射で撮った写真は出来の良い1枚だけを残し・・、とやっていると、これで既に、写真の枚数は半分くらいになる.
残りは、1枚1枚ていねいにチェックするのだが、新郎が目を開けていると新婦が目をつむっていたり(あるいは、その逆)、二人の目線が全く反対の方向を向いていたり、という「テーマにふさわしくない」写真を、「あーっ!」とか、「うわー?」とか言いながら落としていく.すると、最後に残るのは、だいたい最初の1/4くらいだ.
だが、残った1/4にも「満足」という言い切れるだけの写真は、もちろん無い.
だけどこれを捨てたりお蔵入りにすると、人間関係に多少の影響を及ぼすかも知れないので、これ以上、ジタバタするのはあきらめてDVDに焼いて主役の2人にプレゼントするのだ.
なんとなく挫折感に満ちあふれる瞬間である.
けれども、「満足いく出来映え」を求めて悪戦苦闘する過程に写真とカメラの面白さがあり、それはフィルムカメラの時代からデジタルの時代に移っても、変わることなく多くの人をひきつけて止まない.
その過程で、「ああでもない」「こうでもない」と撮影条件を考え、立ち位置やアングルを工夫し、果てには、カメラを買い換えたり、(一般の感覚から言えば異常なほど)高価なレンズを買い争ったりするのだろう.
言うなれば、「奇跡の1枚を求める終わりなき旅」なのである.
2012年05月23日
母親ってうらやましい
日食の前日、実家の母から電話があった.
いったい何事かと思って電話に出てみると、要するに、
「お前は明日の日食を観察するつもりだろうう.お前は昔からそういうのが好きだったからね.でも、肉眼で直接見ると眼に良くないらしいから、絶対に、直接見てはいけないよ」
という事だった.
このアラフィフのオッサンをつかまえて、何を小学生に向かってするような注意をしているのだろう.しかも、わざわざ電話してきてまで・・・、と思ったが、そのことを言葉を荒げて指摘することなどせずに、ありがたく忠告に耳を傾けていた.
若い頃なら、「いつまでも子供扱いすんじゃねぇ」って剣幕で、電話を一方的に切ったかもしれないが、年月は人をかくも丸くするものなのだ.
この出来事で思い出したのが高校生の時のこと.
私はある同人に参加していて、今思い出すと恥ずかしくなるような小説や随筆を書いていて、その中でも出来の良さそうなものが年1回発行の同人誌に掲載されていた.
その誌面に目を通した母が、「これは何を手本にして書いたのか」「本当に何も見ないで書いたのか」と、しつこく聞かれて辟易としたのであった.
本当、母親にとって子供というのは、いつまでも自分の手で守り育てた幼い姿のままなんだなと、改めて思った.そして、自分自身が人の親になって分かるのは、こういう感覚は父親にはちょっと共感できないのではないか、という事だ.
いつまでもそういう気持ちになれる母親って、不思議な存在だ.
悔しいけど、ちょっぴりうらやましい.
2012年05月22日
(金環)日食の朝
昨日、日本では久しぶりに金環日食が観測された.
なんでも、これだけ多くの地域で観測できるのは平安時代以来の930年振りとか、次に広い範囲で見られるのは300年後とか、北海道では18年後に観測可能とか.
とにかく天体現象だけあって、さすがに時間スケールが普通の人間生活スケールとは桁違いで、それらの数字を聞いているだけでも、なんとなくワクワクしてくる.
残念ながら住んでいる地域では部分日食しか見られなかったが、それでも滅多に見られない現象であることは間違いない.
当日は早朝に雨が降るなどして、観測は無理かと思われたが、「欠け」が始まる頃には雲の隙間から太陽が姿を現したり隠れたりという天候になり、右上から少しずつ輪郭を消して行く太陽の姿を楽しむことが出来た.
最も、欠けが大きくなるタイミングは、ちょうど出勤時間と重なっていたから、歩きながら太陽の姿を追って駅へ急いだ.いわゆる「日食メガネ」は持参してなかったが、ちょうど良い加減の厚みの雲が太陽を覆っていて、巧い具合の姿を肉眼で見ることが出来た.
まぁ、言ってしまえば「太陽がちょこっと欠けるだけ」なのだが、実際に、少しずつ周囲が暗くなり、気のせいか吹く風さえもどことなく涼しく感じられると、その現象の規模の大きさに感動する.
ところが、周囲を見回してみると、嬉しそうに空を見上げているのは自分と小学生くらいであって、「意外なほど」に皆、冷静で眼中に無い雰囲気である.まるで、「日食ごときに気は取れらないぞ」と無理して無視を決め込んでいるようにさえ見える.
通勤電車の中でもそれは同じで、窓越しに太陽の姿を追っているのは自分くらいのものだ.まぁ、客観的に見るとちょっとウザイおやじだったかもしれないが・・・.
ちょっと寂しい気持ちを残して、日食は終わろうとしていた.
2012年05月21日
黄金の景色(後)
桜の樹からはたくさんのイモムシがぶら下がっていたのである.
緑に近い黄色の身体、背中の左右に点々黒いドット模様が並び、異様なほど白い腹がアコーディオンのように蛇腹状になったイモムシ達が、蜘蛛の糸のような細く白い糸を使って桜の樹からぶら下がっていたのである.
彼らは身体を思い思いにくねらせて、ある者は「く」の字、ある者は「し」の字で蠢いている.よく見ると、ゆっくりと降下している者もいる.
そういえば、桜の樹は葉が覆い茂ったあと、毛虫やイモムシで満ちあふれることを忘れていたが、昔から、そういうものだった.
桜並木のランニングコースを走っていると、そんなイモムシが少なくとも数10メートルに一匹はぶら下がっている.700メートル近い並木を最初から最後まで走り抜けると、一体、何匹のイモムシと出会えるであろう.
走りながら、想像しかけて止めた.
なぜなぜかと言うと、案の定、地面を這っているヤツも居たからである.これは、足元にも注意しながら走らねばなるまい.踏んでしまっては、色々な意味で大変である.
ふと見ると、向こうから年老いたおじさんがこちらへ歩いて来ていて、ぶらさがっているイモムシを見つけては、糸のところで切り離し、そっと桜の葉の上に戻してやる、という行為を続けているようだった.
太陽と風、草木、虫たちの息吹と、かくも豊かな自然に囲まれて生活していること、そんな自然と共生を願う人が居ること、のんびりとした気持ちで自分の身体とだけ対話をしながら走って、なんだか、とても良い光景をたくさん見た思いでいっぱいであった.
そう思いながら、走り終えようとしていると、散歩をする老夫婦が目に入った.
老紳士は連れた犬と年甲斐も無く(御容赦!)たわむれていたが、老婦人の方は犬でなく自分の旦那さんを見ながら、とても幸せそうな満面の微笑をたたえていた.
ああ、自分たちもこのように年老いることが出来れば.
黄金の景色を見た思いである.
2012年05月20日
黄金の景色(前)
ゴールデンウィークは体調が悪くて全く走れなかった.
実は今でもまだ尾を引いていて、鼻水が左側だけとまらない.
そんな状況なので、今週も自粛しようかと考えていたが、天気は良いし、景色は澄んで風もさわやか.おまけに身体の奥底には、しばらく散歩に連れて行かれてない犬のように、動くことに対する渇望の芽生えを感じないでもない.
しかも、家族は10時を過ぎても起きてくる気配がなく、若干、手もちぶさたでもある.
こうなると、家の窓から見える川辺の小道をウォーキングしている人達の姿が、ランニングへと誘っているように見えて仕様がない.
そこで、思い切って走りに出てみることにした.
いつもは5〜6時をランニング開始の時間にしているので、お昼前に走るというのは少し目に見え耳に聞こえる風景が変わっていて少し新鮮である.
それに加えて、4月終わり頃から走ってなかったので、走り慣れたはずのランニングコースもかなり様子が変わっていた.
確か、最後に走った時は、散った桜の花びらが道の両側に残り、桜の枝からは黄緑色の新鮮な葉っぱが勢いを増し始めていた.それでも、風は少し冷たく、見える風景も引き締まって見えていたものだ.
それが、桜の木は新緑の葉が覆い茂り、しっかりした影を道の上に作っている.
また、道端に生えている草は驚くほどの成長を遂げて深く広い緑の帯を作り出していた.まるで道幅が狭くなったように感じられるほどである.そこに、乾燥した空気を貫いてやってくる太陽の光が陰影を照らし出して、夏のように湿気を感じられない空気と相まって、日本じゃないみたい.
この光の加減は、明らかに朝と異なっているところだ.
でも、もっと驚いたのは「あれ」を見つけた時だった.
そう言えばこの時期は、あれですよ、あれ.
(続く)
2012年05月19日
キレてる先輩
仕事を始めたばかりの頃、とても頭のキレる先輩がいた.
いっしょに仕事をした事はなかったが、ある程度大きな問題が発生し各部署から人が集まって対策を練るときなど、たいてい末席に座って意見を言っていた.その内容が、論理的、かつ、深い洞察に富んでいて、新人だった私は、
「この人、頭の回転が早くてキレて、カッコイイ」
と感じた.もちろん他の出席者も同じだろうなと思っていた.
ところが驚いたことに、たいていの場合、その人の意見は参考程度にしか扱われなかったし、全く無視されることも少なくなかった.
どうしてそんなことになるのだろう、と不思議に思うとともに、この職場はちょっと問題があるのではないかと、無邪気にそう思ったものだ.
しかし問題があったのは、私の方だった.
やがて少しずつ状況が分かってみると、その先輩は、言ってみれば、「出来ない理由」を理路整然と語るスペシャリストだったのだ.思い返してみると、建設的な意見は全く記憶に残ってなかった.
若い頃は、とかく、反体制的態度に惹かれてしまうものだが、その先輩を必要以上にカッコよく感じたのも、そんなところに理由があったのかもしれない.
また、その先輩は、決して自分で決定しようとしない人だった.たいてい、「○○が問題だと思うが、△△さんが言うから、これでやります」という思考で自分の仕事を進めているのだった.
そんな態度であることを皆は知っていて、「言っていることはもっともだが、どこまで責任持っていっているのか」「コイツの意見は、なんとなく信用できない」というニュアンスの空気が出来上がっていたのだった.
個人的には、今でも本当に「頭のキレる人だったよなぁ」と思っているが・・・
実際の世の中を生きて行くには、きっと、頭が良すぎるだけでは駄目なんだね.
2012年05月18日
はじめて電気自動車と出会った
そのクルマは何の前触れもなく左からやってきた.
そこは時間制駐車場の出入り口で、歩道を歩いていた私の目の前に白く見慣れない車体が左側からスルスルと現れてきたのである.そう、正に「音もなく」という形容がぴったりな感じで.
そのクルマの名前は日産リーフ、話題の電気自動車である.
昨年の日本カーオブザイヤーを受賞したクルマだが、販売開始はおそらく2010年の終わりから2011年の初め頃だったと記憶しているので、すでに1年と半年を経ている.
しかし、これまでの間、路上を走るリーフを一度も見かけたことがなかったので、「都会でしか売ってないのかな」と思っていたのだが、遂に接近遭遇を果たしたのである.
内燃機関という爆発をともなう駆動源がないので静かなのは当たり前かも知れないし、雑誌などのインプレッションでも静けさに対する言及を数多く読んでいたのだが、本物を目の当たりにすると、その次元の異なる静けさには全く驚かされた.
実際には多少の音が出ているのかもしれないが、街の喧噪の中では無音といっても言い過ぎでない.これがもっとスピードが出てくると風切り音とかも当然あるとおもうが、このくらいの走行速度ではそれもない.
歩道から車道に走り出る時、段差を降りるタイヤの「キュキュ」というきしみ音が異様なほど目立って聞こえるほどだ.
これは素晴らしいじゃないか.
パーソナル移動手段の行き着く先はこれに間違いないなと改めて確信した.街を行くクルマが全て電気自動車になったら、街の背景音は一変して、人々の生活にも影響を及ぼすのではないかと思う.
もちろん、この静けさゆえの問題もあるとは思うが・・・
ただ一方で、現状では「恵まれし者」の自動車であることも否めない.
例えば、全部のクルマが電気自動車になった時、どれだけ発電所を増設しなければならないのか、考えてみるだけでも絶望的な気分になる.
だから、今までも何倍、何十倍も関係するエンジニアの人達には頑張ってもらいたい.
「リーフ・トゥ・ホーム」、なんて言ってる場合じゃないよ.
ホント
2012年05月17日
気が抜けない人
気が抜けないけれど、気が置けない人がいる.
彼女もそんな大切な友人のひとりである.
年齢はふた周り近く下だし、性別はもちろん、育った環境や(これは当たり前だが)時代、いわゆる成長の軌跡といったものも全く異なる.
であるにも関わらず気が置けない感じがするのが、なんとも不思議な感じである.もっとも、先方がどう思っているかは全くの謎であるが.
であると同時に、気が抜けない人物でもある.
もちろん、隙を見せた瞬間、飛び掛って首を掻っ切られるわけじゃない.時として、こちらが予想もしなかった価値観をぶつけて来ることがあるので、気が抜けないのだ.
自分としては非常に個人的な価値観を押し付けようと考えている訳でない(つもり).
例えば、「こういう事に対する世間一般的の考え方って、こんな感じだよな」という漠然とした前提を考慮しながら会話するの普通なのだが、それに対する返答が「かなり想定外」であることが多いのだ.そのあまりの意外さに驚いて、でも、その妥当性、説得力の豊かさに圧倒され、次の言葉が継げなくなる「恐怖」に、気が抜けないのだ.
でも、「ああ、確かにそういう考え方もできるなぁ」と毎度ながら人生勉強している気分になるし、自分という人間の「狭小さ」に気づき反省するきっかけにもなる.
そんな人と知り合えた幸運をかみしめずにはいられない.
今日もまた、気が置けるけど、気が抜けない.
2012年05月16日
三線への道
いまどき、「沖縄」と言っても非常にゆるい話題で申し訳ない.
先の休日に、となり街のデパートで開催された「沖縄物産展」に行ってきた.
この沖縄物産展は毎年この時期に開催される恒例行事であるが、重度の「沖縄風邪」患者を自認する私がこの物産展に出掛けはじめて、もう7年連続となる.
初めての時は、「あれも、これも」と沖縄での思い出を思い起こさせる食べ物や、工芸品に興奮して、必要かどうかも考えないで色々なものを購入したものだ.
もちろん「プチ沖縄」の雰囲気に酔いしれる気持ちは変わりないが、7回目ともなるとそれなりに冷静になってきて、「あそこであれを買って、こちらでこれを買って」と、ほぼ完成された買い物リストに沿って進んでいくようになった.
海ぶどう→でいご屋の「島らっきょう」→オキハムの「タコス(レトルト)」と「ミミガー」→わかまつどうの「ちんすこう」→サータアンターギー→黒糖→牧志公設市場/和ミートの「らふてい」→わしたショップでCD物色.
と、まぁ、そんな感じで、最後はうちなぁ屋「沖縄そば」を食して終わりである.
数年前からは妻も一緒に出かけるようになり、彼女なりの視点が面白かったりする.例えば、壺屋焼きや沖縄グラスなど、私ひとりなら決して並べられた商品を見ることはなかったと思うものを、じっくり物色しているのが面白い.
そんな彼女が並べられた三線を見て、「買わないの?」と一言.
3年前に沖縄に家族で行った時、よっぽど買おうかと悩んだものの、「これ以上、物を増やさないで」という彼女の言葉で諦めて以来、購入意欲が急速に萎えて行ったのだが、その一言に、俄然と気分が盛り返してきたのだ.
さすがに、その場で衝動買いなど出来るはずもなかったが、本当に「買って良いのか??」
なんだか、ハシゴを外されそうな予感もするが、これから少しずつ、お金を貯めておくとしよう.
来年の物産展を目指して.
ふふふ.
2012年05月15日
この世間も捨てたモンじゃない
(5/14より続く)
「コンビニの駐車場を抜け道として利用する」ことは是か非か.
心は「非」とさけぶのだが、自分を納得させることのできる理由をいくら探してみても、宙をつかむかのように答えにたどりつかない.逆に、考えれば考えるほど、ぜいぜい安全に気をつけて利用するべきだ、という結論に到達してしまう.
当然、頭では理解出来ても、腹に落ちてこない.納得いかない.
考えてみると、納得しきれないのは「安全が担保されれば」という、「駐車場を抜け道として利用する」ために挙げた前提条件に無理があると考えているからかもしれない.
たしかに、これが自動車運転中でなく散歩の途中であったなら、迷うことなくコンビニの駐車場を横切らせてもらうような気がする.
今のように限られた台数ならば問題はないが、全てのドライバーが同様の行為に走ったならば、早晩、安全上の問題が発生するのは火を見るより明らかと思われる.
現在のように限られた利用者を前提として成り立っている行為に、自分が参加することで、「限られた台数」という前提が吹き飛んでしまうからだ.自分の参加を「プラス1人」ととらえるか、「現象の一般化」ととらえるかによっても、その判断は変わってくるが、前者でのとらえ方は、あまりに楽観的、自己中心的と思えるのだ.
さて、5日に渡って取り留めもなく考えてきた自問自答に対する答えだが、ここまでの展開をまとめると、
「自分が良ければそれで良い、という気持ちになれないから」
と言うことにでもなるのだろうか.
そして、コンビニを抜け道として利用しないドライバーの方がマジョリティであることを思い起こすと、まだまだこの世間も捨てたモンじゃないなと嬉しい気持ちになるのである.
(終)
「コンビニの駐車場を抜け道として利用する」ことは是か非か.
心は「非」とさけぶのだが、自分を納得させることのできる理由をいくら探してみても、宙をつかむかのように答えにたどりつかない.逆に、考えれば考えるほど、ぜいぜい安全に気をつけて利用するべきだ、という結論に到達してしまう.
当然、頭では理解出来ても、腹に落ちてこない.納得いかない.
考えてみると、納得しきれないのは「安全が担保されれば」という、「駐車場を抜け道として利用する」ために挙げた前提条件に無理があると考えているからかもしれない.
たしかに、これが自動車運転中でなく散歩の途中であったなら、迷うことなくコンビニの駐車場を横切らせてもらうような気がする.
今のように限られた台数ならば問題はないが、全てのドライバーが同様の行為に走ったならば、早晩、安全上の問題が発生するのは火を見るより明らかと思われる.
現在のように限られた利用者を前提として成り立っている行為に、自分が参加することで、「限られた台数」という前提が吹き飛んでしまうからだ.自分の参加を「プラス1人」ととらえるか、「現象の一般化」ととらえるかによっても、その判断は変わってくるが、前者でのとらえ方は、あまりに楽観的、自己中心的と思えるのだ.
さて、5日に渡って取り留めもなく考えてきた自問自答に対する答えだが、ここまでの展開をまとめると、
「自分が良ければそれで良い、という気持ちになれないから」
と言うことにでもなるのだろうか.
そして、コンビニを抜け道として利用しないドライバーの方がマジョリティであることを思い起こすと、まだまだこの世間も捨てたモンじゃないなと嬉しい気持ちになるのである.
(終)
2012年05月14日
それでも「何か違う」とさけんでる
(5/13より続く)
「コンビニの駐車場を抜け道として利用する」ことは法令に照らして是か否か.
法令に関しては詳しい知識を持たないが、おそらく、法令による厳密な判定は難しいのではないか.
たとえば、私有資産に対する不法侵入などを禁じた法令に抵触するかに思えるが、あくまでも被害を受けたと感じる側が、その損害を表明することで初めて法令は登場するのではないか.
だから、コンビニの駐車場を通り抜けしている(または、そのように見える)行為を、たまたまパトロール中に見掛けた警察官が「現行犯」として摘発することはないだろう.
もちろん駐車場内を走行する行為が、歩行者に対する危険行為とみなされば交通指導として、多少のお小言を頂戴することはあるかもしれないが、それと法令違反とは別の話である.
では、コンビニ側が「抜け道」行為に対して損害を感じているかというと、私の見る限り、多少の「迷惑」は感じているかも知れないが、そのような行為をするクルマの台数が限られているともあって、今のところは黙認している、という風である.
コンビニの軒で雨宿りしたり、トイレを借りに来たり、ゴミ箱を利用する行為に対する姿勢と、ほとんど変わることの無い対応、と言ったところである.
もっとも駐車場内でコンビニ利用客が、抜け道利用のクルマと接触するような事故でも起きれば、対応が激変する可能性はあると思われるが・・・
こうして突き詰めて考えると、コンビニの駐車場を抜け道として利用する是非は、
・メリット:信号待ちをしないことによる時間の節約(と、極めて少しの燃費改善)
・リスク :駐車場を横切る時に発生する危険性のある歩行者との接触事故
の双方を天秤に掛けて各自が判断すれば良い.という結果になってしまう.
つまり、安全さえ担保されるならば、どんどん抜け道利用して下さい、ということだ.
けれど、「それは何か違うだろう!」と、相変わらず心は叫ぶのだ.
(続く)
「コンビニの駐車場を抜け道として利用する」ことは法令に照らして是か否か.
法令に関しては詳しい知識を持たないが、おそらく、法令による厳密な判定は難しいのではないか.
たとえば、私有資産に対する不法侵入などを禁じた法令に抵触するかに思えるが、あくまでも被害を受けたと感じる側が、その損害を表明することで初めて法令は登場するのではないか.
だから、コンビニの駐車場を通り抜けしている(または、そのように見える)行為を、たまたまパトロール中に見掛けた警察官が「現行犯」として摘発することはないだろう.
もちろん駐車場内を走行する行為が、歩行者に対する危険行為とみなされば交通指導として、多少のお小言を頂戴することはあるかもしれないが、それと法令違反とは別の話である.
では、コンビニ側が「抜け道」行為に対して損害を感じているかというと、私の見る限り、多少の「迷惑」は感じているかも知れないが、そのような行為をするクルマの台数が限られているともあって、今のところは黙認している、という風である.
コンビニの軒で雨宿りしたり、トイレを借りに来たり、ゴミ箱を利用する行為に対する姿勢と、ほとんど変わることの無い対応、と言ったところである.
もっとも駐車場内でコンビニ利用客が、抜け道利用のクルマと接触するような事故でも起きれば、対応が激変する可能性はあると思われるが・・・
こうして突き詰めて考えると、コンビニの駐車場を抜け道として利用する是非は、
・メリット:信号待ちをしないことによる時間の節約(と、極めて少しの燃費改善)
・リスク :駐車場を横切る時に発生する危険性のある歩行者との接触事故
の双方を天秤に掛けて各自が判断すれば良い.という結果になってしまう.
つまり、安全さえ担保されるならば、どんどん抜け道利用して下さい、ということだ.
けれど、「それは何か違うだろう!」と、相変わらず心は叫ぶのだ.
(続く)
2012年05月13日
社会通念は千差万別
(5/12より続く)
「信号を待たずに、コンビニの駐車場を抜け道として利用する」か、しないか.
「利用しない」派である私は、その理由のひとつを、人の行動をある意味制約している在外律としての「社会通念(あるいは、世間の常識、モラル)」に求めようとした.
しかし、よく考えてみると、「社会通念」なんてものはこれが実に頼りない.
コンビニの駐車場はコンビニを利用する人、言ってみれば「お客さん」のためにコンビニ事業者が用意したものであって、利用もしない人が赤信号をパスするための抜け道として、そこを通過するのは問題がある.
本件の場合、おそらくこのような社会通念が、コンビニ駐車場を抜け道として利用しない人達の行動を抑制していると思われる.
しかし、例えば、これが「突然降り出した雨の様子見のため、コンビニの軒先で雨宿り」する場合はどうだろうか.
あるいは、「急に催して来たので、コンビニのトイレを借りる」とか、「街頭でもらったチラシをコンビニのゴミ箱に捨てる」場合に社会通念の「うずき」はあるだろうか.
おそらく、これらの捉え方、感じ方も人によって千差万別で、「もちろん、全部NGでしょ」という人もいれば、「コンビニ駐車場の抜け道利用はNGだけど、この3つはOKだと思う」という方もいるだろう.
ちなみに、私は「雨宿り」以外はNGと感じているが、時と場合によってはその判断が簡単にひっくり返るだろうな、と半ば確信をもって考えている.
だから、社会通念を振りかざして駐車場の抜け道利用は駄目と言えないのである.
では社会通念のように、ある種、曖昧模糊としたものでなく厳密に文書化されたもの、すなわち法令の類からこの行為を切ると、どうなるのであろうか.
残念ながら法令に関しては詳しくないので、正確な判断は出来ない.
しかし、法令をもってしても厳密な判定は難しいのではないか、と思っている.
(続く)
「信号を待たずに、コンビニの駐車場を抜け道として利用する」か、しないか.
「利用しない」派である私は、その理由のひとつを、人の行動をある意味制約している在外律としての「社会通念(あるいは、世間の常識、モラル)」に求めようとした.
しかし、よく考えてみると、「社会通念」なんてものはこれが実に頼りない.
コンビニの駐車場はコンビニを利用する人、言ってみれば「お客さん」のためにコンビニ事業者が用意したものであって、利用もしない人が赤信号をパスするための抜け道として、そこを通過するのは問題がある.
本件の場合、おそらくこのような社会通念が、コンビニ駐車場を抜け道として利用しない人達の行動を抑制していると思われる.
しかし、例えば、これが「突然降り出した雨の様子見のため、コンビニの軒先で雨宿り」する場合はどうだろうか.
あるいは、「急に催して来たので、コンビニのトイレを借りる」とか、「街頭でもらったチラシをコンビニのゴミ箱に捨てる」場合に社会通念の「うずき」はあるだろうか.
おそらく、これらの捉え方、感じ方も人によって千差万別で、「もちろん、全部NGでしょ」という人もいれば、「コンビニ駐車場の抜け道利用はNGだけど、この3つはOKだと思う」という方もいるだろう.
ちなみに、私は「雨宿り」以外はNGと感じているが、時と場合によってはその判断が簡単にひっくり返るだろうな、と半ば確信をもって考えている.
だから、社会通念を振りかざして駐車場の抜け道利用は駄目と言えないのである.
では社会通念のように、ある種、曖昧模糊としたものでなく厳密に文書化されたもの、すなわち法令の類からこの行為を切ると、どうなるのであろうか.
残念ながら法令に関しては詳しくないので、正確な判断は出来ない.
しかし、法令をもってしても厳密な判定は難しいのではないか、と思っている.
(続く)
2012年05月12日
モラルって意外と頼りない
(5/11より続く)
「なぜお前はコンビニの駐車場を抜け道にして信号をパスしないのか」
そう自問自答しても、実は直ぐに明快な答えは返ってこない.
やはり、そこはコンビニの駐車場であって利用する訳でもないのに、そこを横切って抜け道のように使うことが、なんとなく「道義的にいけない」ような気持ちがするだけだ.
それに、信号待ちと言っても生活に支障をきたすほど長い間待たされる訳でもないし、信号が青になるのを少しの間待てば良いだけのことなのだから、というのが正直なところで、何かの緊急事態で急いでそこを左折しなければならない時には、おそらく抜け道として利用するだろう.
では、コンビニの駐車場を抜けていくクルマのドライバーが、同様に、のっぴきならない状況に追い込まれた故の行動かというと、これはもう確かめ様がないのだが、たぶん違うと思う.
なぜなら、何台かのクルマは日常的にその駐車場を抜けて行るからだ.まるで、その交差点で左折するのに信号待ちすることがイレギュラーな行為であるかのように、それらのクルマは何の躊躇も見せないで走り去っていくのだ.
こうして考えると、コンビニの駐車場を抜け道として日常的に使う「抜け道派」と、そうでない「信号派」の間にある相違は、先にも挙げた「道義的」に「その行為を、自ら許すか許さないか」の違いぐらいしか思い当たらない.
すなわち、「信号派」は、例えば私のように「そこはコンビニの駐車場だから」という前提に基づいて、なんとなく社会通念というか、世間の常識というか、モラルと言うか、そんなものに反しているように考えているという事である.
逆に、「抜け道派」はそんな風に考えないか、考えてもそのバリアが低いということだ.
しかし良く考えてみると、ここで「信号派」が言う「社会通念(あるいは、世間の常識、モラル)」というもの.
実は、これが意外に頼りないと思うのだ.
(続く)
「なぜお前はコンビニの駐車場を抜け道にして信号をパスしないのか」
そう自問自答しても、実は直ぐに明快な答えは返ってこない.
やはり、そこはコンビニの駐車場であって利用する訳でもないのに、そこを横切って抜け道のように使うことが、なんとなく「道義的にいけない」ような気持ちがするだけだ.
それに、信号待ちと言っても生活に支障をきたすほど長い間待たされる訳でもないし、信号が青になるのを少しの間待てば良いだけのことなのだから、というのが正直なところで、何かの緊急事態で急いでそこを左折しなければならない時には、おそらく抜け道として利用するだろう.
では、コンビニの駐車場を抜けていくクルマのドライバーが、同様に、のっぴきならない状況に追い込まれた故の行動かというと、これはもう確かめ様がないのだが、たぶん違うと思う.
なぜなら、何台かのクルマは日常的にその駐車場を抜けて行るからだ.まるで、その交差点で左折するのに信号待ちすることがイレギュラーな行為であるかのように、それらのクルマは何の躊躇も見せないで走り去っていくのだ.
こうして考えると、コンビニの駐車場を抜け道として日常的に使う「抜け道派」と、そうでない「信号派」の間にある相違は、先にも挙げた「道義的」に「その行為を、自ら許すか許さないか」の違いぐらいしか思い当たらない.
すなわち、「信号派」は、例えば私のように「そこはコンビニの駐車場だから」という前提に基づいて、なんとなく社会通念というか、世間の常識というか、モラルと言うか、そんなものに反しているように考えているという事である.
逆に、「抜け道派」はそんな風に考えないか、考えてもそのバリアが低いということだ.
しかし良く考えてみると、ここで「信号派」が言う「社会通念(あるいは、世間の常識、モラル)」というもの.
実は、これが意外に頼りないと思うのだ.
(続く)


