「ちょっと見ると言語は自明な平凡なもののように思えるが、さて分析をはじめると、複雑な曲がりくねった構造をかくし持った、手のつけられぬ存在だということを思い知らされる。」(まえがき)
会話の音声も文字も、それ自体は空気の振動であったりペンのインクなどにすぎないのだが、「言語」として扱うや否や、それらは「感性的であるとともに超感性的な存在になってしまう」(同上)。ここでいう「感性的」とは目で見たり耳で聞くことができるなど五感でとらえられることを意味し、「超感性的」とは目や耳など五感ではとらえられないということを意味する。その意味でここでの「感性的」とは、「物質的」と言い換えてもよいだろう。
「・・・言語の謎を解きほぐして理論を建設するには、具体的な言語現象を集め整理しながらその背後の構造をさぐっていく仕事ももちろん必要であるが、逆に大きな観点から言語の本質は何かを考え、仮設を立てて実証的に具体化していく仕事も怠ってはなるまい。多くの言語学者は前者に重点をおいて業績を示して来たが、後者の努力が不足しているために前者の仕事も前進が阻まれているように思われる。」(同上)
「言語とは何か?」という問題を科学的に明らかにするためには、単に語彙や発音などを実証主義的に研究するだけでは解明することはできない。これはディーツゲン的な表現を借りるならば、手をいくら解剖したところで「書くとは何か?」という問題を明らかにすることはできないことと同じ論理である。
「認識は言語にとって直接の基盤で、言語についてまわる言語規範も認識の一形態であるが、これらはまた言語の側から規定されるという、深く多面的な関係にある。・・・科学的な認識の理論を持たずに言語の理論的な解明を志すのは、まっくらな道を手さぐりで前進しようとするようなものだといっても、いいすぎではない。手さぐりだと交錯した側面をとりちがえたり、転倒させて扱ったりしがちである。・・・本書は前半(引用者注・第一部)を認識の理論に、後半(引用者注・第二部)を言語の理論にあてて、かなり異色ある構成をとったが、それは右の事情を考慮したからである。誰も成功していないなら自分がやってみようと、認識から言語表現への過程を原理的に解明する仕事に手をつけてみたのである。」(同上)
以上のことからわかるとおり、第一部では認識の理論、いわゆる認識論が展開されている。認識論は『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)でも論じられているが、この本では認識論の定義など基礎的な部分がほとんど論じられていない。それに対して第一部は、認識論について体系性をもって書かれているので、興味のある方は合わせて読まれることをお勧めしたい。
なお三浦つとむのいう「認識」とは「現実の世界の映像であり模写」(P4、強調は原文)のことであり、「認識論」とは「認識に特殊な過程の特殊な法則性をとりあげる個別科学」(P79)をさすことを付言しておく。
まえがき
第一部 認識の発展
第一章 認識論と矛盾論
一 識論と言語学との関係
二 認識における矛盾
三 人間の観念的な自己分裂
四 「主体的立場」と「観察的立場」
五 認識の限界と真理から誤謬への転化
六 表象の位置づけと役割
七 予想の段階的発展――庄司の三段階連関理論
第二章 科学・芸術・宗教
一 法則性の存在と真理の体系化
二 仮説と科学
三 概念と判断の立体的な構造
四 欲望・情感・目的・意志
五 想像の世界――観念的な転倒
六 科学と芸術
七 宗教的自己疎外
第三章 規範の諸形態
一 意志の観念的な対象化
二 対象化された意志と独自の意志との矛盾
三 自然成長的な規範
四 言語規範の特徴
五 言語規範の拘束性と継承
六 国際語とその規範
第四章 パヴロフ理論とフロイト理論の検討
一 パヴロフの人間機械論と決定論
二 フロイト理論の礎石
三 不可知論と唯物論との間の彷徨
四 フロイトの基礎仮説−−「エス」「自我」「上位自我」
五 無意識論と精神的エネルギー論
六 夢と想像
七 性的象徴
八 「幼児期性生活」の正体
九 「エディプス・コンプレックス」の正体
十 エロスの本能と破壊本能
十一 右と左からのフロイト批判