July 18, 2011
大学の不自由、教室の自由
週末はあちこち3つの講演会・トークイベントに出かけたのだが、そのひとつを通して私が考えたことを少し。
講演会に参加して発言するときと発言しないときがある。たいていの場合、私はノートをとりながら自分の言うべきことを整理しているのだが、それを言い出せないことがしばしばある。いろいろ理由はあるが、今回は参加者の方々の話を伺いたいという思いで過ごしているといつのまにか終わってしまったという感じだった。
自分が言いたいことを言ってしまうと気が楽になって、考えていたことの多くを忘れてしまうのだが(あなたはあの時こう言ったが、と言われて覚えていないことが結構多い)、他方で発言しなかった、あるいはできなかった場合にはその考えが徐々に沸騰してきて何かに書きつけたくなる。逆に言えば、そのような沸騰がないかぎり、まとまったものを書くエネルギー量に達しない。
今日はいろいろ貴重なお話も伺ったのだが、ここに書くことは議論の本筋や参加者の発言とは基本的に関係がない。前回の反省から、まずそのことを記しておきたい。ただしそこで語られたことの断片を若干含むものになるので、これを括弧で明示したい。
*
震災以降の「大学の閉塞感」についてのお話があった。社会的その他さまざまな知識の担い手、その現場であるべき大学の沈黙。なぜか。大学は一つの官僚機構であり、文科省管轄の機関であり、世に対する多様な見解と思惑がせめぎ合う場でもある。その結果、大学は組織としてたとえば政府の方針に対してクリティカルな構えを示すことができていない。福島大学にあったように、たとえその一部が動議や声明を発したとしても、多数の沈黙の前に無力であることを強いられる。つまりこの危機に際して、(少なくとも多くの)大学は何もできていないし、そのような気配もあまり感じられない。
では、大学に何ができるだろうか。「大学として動く」ことは困難である。残念ながら、大学が組織全体として統一的な独自行動を行う余地はほとんどないように思う。基本的に多数決民主主義によって運営される大学が、百家争鳴のなかで統一見解を示すのは確かに大変なことだし、さらには上述のように一つの公的機関として、政府機関との権力関係も色々と存在するだろう。
しかし他方、多方面にわたる政府の圧力は囁かれるなかで、一人の「大学人」として、独自の判断の下に自分の能力の範囲で動くことは依然として完全に可能ではないだろうか。たしかに大学の組織には閉塞感があるかもしれない。しかし他方、教室は以前と変わらず完全に自由である。監視や検閲が入ることもない。たとえどこかにそのような意志があるとしても、さすがに社会はそこまでのことを行うコストがないとも言える。この意味で、教室は一種のアジールである。いま起こっている出来事や自分の肌感覚について口に出すことも憚られるような職場に毎日通う人々に比べれば、これはとても幸せなことである。
震災以降、今期の授業が始まったあとも、自分にとっての現場はどこなのかを漠然と考えていた。被災地か、シンポの会場か、街頭か、文筆か、友人たちとの会話か。そのどれもがそれぞれ異なる現場であって重要なものだと思うが、まずもって私は教室で何事かをなす、あるいはなすべき人間だと思うようになった。
(少なくとも関東以西の)教室は被災地から遠い安全な場所であると同時に、それについて何かを述べ、また何事かをなすべき民主主義の現場のひとつでもある。そこに集う学生に語り、いま自分が重要だと思うことを伝える。また彼らから率直なところを聞かせてもらう。自分が政治学のコマを担当していることも幸いしているが、今期はカリキュラムの合間にさまざまな話題を可能なかぎり挟みこんできた。
討論の中で「原発事故は世代を超えていく」という言葉があった。放射性物質の半減期を考えれば、それは世代どころか人類の歴史をも超えていくかもしれない。また「30年後の世界と人々のために今できること」をしていかなければならないというのもその通りである。今なすべき実にさまざまなことがあるだろう。私は、いま教室でなすべきことは、まだ若い人々にこの事態について率直に語ること、また語ってもらうことだと思う。「あのときなぜ何もしてくれなかったのか」という未来の子どもたちの声に苛まれることがないように、多少お節介でうるさいくらいでも、平静を装う世間にノイズを混ぜておくことで、ほんの少しでも違いが生まれるかもしれない。たかだか500人程度を相手にした行為にすぎないのかもしれないが、それでもここが私の第一の現場だと感じる。
「大学人」はかつて「知識人」と呼ばれたこともあった。特権的な存在としての知識人の終わりがささやかれて久しいが、しかし知識人というものが果たすべき役割が無用となったわけではない。出来事を見据え、記録し、出来事の証人となること。見えないもの――放射能、権力の作用、避難民、取り残された人々――を見ること。弱者を助け、不正な統治に抗議すること。これらをすべてひとりで行う必要はない。いま「知識人」は「多数の良心的な人々のネットワーク」に形を変えて、目立たないが着実に活動を続けていると思う。
いつも授業の冒頭で最近のニュースや出来事のブリーフィングをするのが習慣になっているが、昨日は「放射能から子どもを守る全国ネットワーク」キックオフミーティングの記事を取り上げた。原発事故までは市民活動などとは無縁だった人々が、放射能汚染の深刻さに仰天して「何かせねば」と自主的な活動を次々に立ち上げて汚染・被曝対策に奔走し、他方で政府行政の施策に抗議の声をあげている。いわゆる「プロ市民」の党派的な儀礼的行為とはかけ離れた、どこにでもいる人々によるプラクティカルな市民活動が出現している。
次に授業本編であるジョン・ロックの統治論の解説に入ったのだが、ここでふと思いあたった。
市民の生命と財産を守らない政府に抵抗し、これを交代させることができる。こんな中高の教科書にも当たり前のように書いてあることすら、いま日本では思いもよらないことなのであるということ。このことにあらためて膝を打つ自分に唖然とする。「政府は統治の都合を考えて個々の国民のことを考えない」。ベストセラー『災害ユートピア』の基本的主張でもあるこの命題は、今やわれわれの目の前に立ちはだかる巨大な壁である。この壁に猛然と突進して体当たりを繰り返している多数の人々、それがまさに「放射能から子どもを守る全国ネットワーク」の人々のようなポスト知識人ネットワークである。このことをまず500人に伝えることが私の役割なのだと思う。
講演会に参加して発言するときと発言しないときがある。たいていの場合、私はノートをとりながら自分の言うべきことを整理しているのだが、それを言い出せないことがしばしばある。いろいろ理由はあるが、今回は参加者の方々の話を伺いたいという思いで過ごしているといつのまにか終わってしまったという感じだった。
自分が言いたいことを言ってしまうと気が楽になって、考えていたことの多くを忘れてしまうのだが(あなたはあの時こう言ったが、と言われて覚えていないことが結構多い)、他方で発言しなかった、あるいはできなかった場合にはその考えが徐々に沸騰してきて何かに書きつけたくなる。逆に言えば、そのような沸騰がないかぎり、まとまったものを書くエネルギー量に達しない。
今日はいろいろ貴重なお話も伺ったのだが、ここに書くことは議論の本筋や参加者の発言とは基本的に関係がない。前回の反省から、まずそのことを記しておきたい。ただしそこで語られたことの断片を若干含むものになるので、これを括弧で明示したい。
*
震災以降の「大学の閉塞感」についてのお話があった。社会的その他さまざまな知識の担い手、その現場であるべき大学の沈黙。なぜか。大学は一つの官僚機構であり、文科省管轄の機関であり、世に対する多様な見解と思惑がせめぎ合う場でもある。その結果、大学は組織としてたとえば政府の方針に対してクリティカルな構えを示すことができていない。福島大学にあったように、たとえその一部が動議や声明を発したとしても、多数の沈黙の前に無力であることを強いられる。つまりこの危機に際して、(少なくとも多くの)大学は何もできていないし、そのような気配もあまり感じられない。
では、大学に何ができるだろうか。「大学として動く」ことは困難である。残念ながら、大学が組織全体として統一的な独自行動を行う余地はほとんどないように思う。基本的に多数決民主主義によって運営される大学が、百家争鳴のなかで統一見解を示すのは確かに大変なことだし、さらには上述のように一つの公的機関として、政府機関との権力関係も色々と存在するだろう。
しかし他方、多方面にわたる政府の圧力は囁かれるなかで、一人の「大学人」として、独自の判断の下に自分の能力の範囲で動くことは依然として完全に可能ではないだろうか。たしかに大学の組織には閉塞感があるかもしれない。しかし他方、教室は以前と変わらず完全に自由である。監視や検閲が入ることもない。たとえどこかにそのような意志があるとしても、さすがに社会はそこまでのことを行うコストがないとも言える。この意味で、教室は一種のアジールである。いま起こっている出来事や自分の肌感覚について口に出すことも憚られるような職場に毎日通う人々に比べれば、これはとても幸せなことである。
震災以降、今期の授業が始まったあとも、自分にとっての現場はどこなのかを漠然と考えていた。被災地か、シンポの会場か、街頭か、文筆か、友人たちとの会話か。そのどれもがそれぞれ異なる現場であって重要なものだと思うが、まずもって私は教室で何事かをなす、あるいはなすべき人間だと思うようになった。
(少なくとも関東以西の)教室は被災地から遠い安全な場所であると同時に、それについて何かを述べ、また何事かをなすべき民主主義の現場のひとつでもある。そこに集う学生に語り、いま自分が重要だと思うことを伝える。また彼らから率直なところを聞かせてもらう。自分が政治学のコマを担当していることも幸いしているが、今期はカリキュラムの合間にさまざまな話題を可能なかぎり挟みこんできた。
討論の中で「原発事故は世代を超えていく」という言葉があった。放射性物質の半減期を考えれば、それは世代どころか人類の歴史をも超えていくかもしれない。また「30年後の世界と人々のために今できること」をしていかなければならないというのもその通りである。今なすべき実にさまざまなことがあるだろう。私は、いま教室でなすべきことは、まだ若い人々にこの事態について率直に語ること、また語ってもらうことだと思う。「あのときなぜ何もしてくれなかったのか」という未来の子どもたちの声に苛まれることがないように、多少お節介でうるさいくらいでも、平静を装う世間にノイズを混ぜておくことで、ほんの少しでも違いが生まれるかもしれない。たかだか500人程度を相手にした行為にすぎないのかもしれないが、それでもここが私の第一の現場だと感じる。
「大学人」はかつて「知識人」と呼ばれたこともあった。特権的な存在としての知識人の終わりがささやかれて久しいが、しかし知識人というものが果たすべき役割が無用となったわけではない。出来事を見据え、記録し、出来事の証人となること。見えないもの――放射能、権力の作用、避難民、取り残された人々――を見ること。弱者を助け、不正な統治に抗議すること。これらをすべてひとりで行う必要はない。いま「知識人」は「多数の良心的な人々のネットワーク」に形を変えて、目立たないが着実に活動を続けていると思う。
*
いつも授業の冒頭で最近のニュースや出来事のブリーフィングをするのが習慣になっているが、昨日は「放射能から子どもを守る全国ネットワーク」キックオフミーティングの記事を取り上げた。原発事故までは市民活動などとは無縁だった人々が、放射能汚染の深刻さに仰天して「何かせねば」と自主的な活動を次々に立ち上げて汚染・被曝対策に奔走し、他方で政府行政の施策に抗議の声をあげている。いわゆる「プロ市民」の党派的な儀礼的行為とはかけ離れた、どこにでもいる人々によるプラクティカルな市民活動が出現している。
次に授業本編であるジョン・ロックの統治論の解説に入ったのだが、ここでふと思いあたった。
……立法権力は、特定の目的のために行動する単なる信託権力にすぎないから、国民の手には、立法権力が与えられた信託に反して行動していると彼らが考える場合には、それを移転させたり変更したりする最高権力が残されている。なぜならば、ある目的を達成するために信託によって与えられたいかなる権力もその目的によって制約されるので、その目的が明らかに無視されたり、反対を受けたりするときはいつでも、その信託は必然的に失効せざるをえず、その結果、その権力は再びそれを与えた者の手に戻り、彼らは、それを、自分たちの安全と保障とのためにもっともふさわしいと思われるところへ改めて委ねることができるからである。(『統治二論』第2編第13章 政治的共同体の諸権力の従属関係)
市民の生命と財産を守らない政府に抵抗し、これを交代させることができる。こんな中高の教科書にも当たり前のように書いてあることすら、いま日本では思いもよらないことなのであるということ。このことにあらためて膝を打つ自分に唖然とする。「政府は統治の都合を考えて個々の国民のことを考えない」。ベストセラー『災害ユートピア』の基本的主張でもあるこの命題は、今やわれわれの目の前に立ちはだかる巨大な壁である。この壁に猛然と突進して体当たりを繰り返している多数の人々、それがまさに「放射能から子どもを守る全国ネットワーク」の人々のようなポスト知識人ネットワークである。このことをまず500人に伝えることが私の役割なのだと思う。
【講演会・シンポの最新記事】
July 06, 2011
党派内討議に関する覚書
放射線安全基準をめぐるやり取りを見て思うこと。
党派性(パーシャルであること)というのは意図的な主義主張に劣らず、肌感覚からも、また前-意図的な意味認知からも生じる。こうした媒介は、「中立性」や「正しく恐れる」に到達することを妨げる。さらに、そもそも人間の認知というものがそういうものであるならば、中立性や客観性というのは人が理念として想定するアルキメデスの点であって、実際に人が立つことができる具体的地点ではないことになる。
したがって、まず自分の中にある潜在的党派性を認める、または頭の片隅においておくこと、自分の主義主張・肌感覚を保持しつつ、相手側の言葉がある程度聞こえるようにどこかのチャネルを開けておくことが必要になる。この態度をもたない人々のあいだでは、最小限の意味での対話ができない。
では、対話が開かれればいつか合意に達すると言えるかというと、先の党派性の性質のことを考えれば、楽観的な展望をもつことができない。意味-認知の齟齬や肌感覚の違いは容易に解消しない。だから私は、同じような考えを持つ人々が党派を形成することは避けられないと思う。
しかし他方、まず党派を形成して、その内部で互いの考えを吟味し洗練させる党派内討議を行うことに意味がある。それは個人の肌感覚を調整するのに役立つし、交流を通じてより多くの情報を共有することができる。また同じような考えを持つ人の意見は受け入れやすいという利点もある。そのような党派内討議や意見交換を経ることで、次の課題であるところの対立する立場の人々との議論はより有意義な、つまり論点が明確なものになる。社会科学で集合知というと「社会全体の知」が連想されることが多いかもしれないが、党派内討議もまた一つの集合的知性を生み出す。
また党派内討議は参加者たちのコミットメントの度合いが多様であることを許容する。ある人は不安を解消したいだけかもしれないし、誰かに悩みを打ち明けたいだけかもしれないが、別の人は反対派と真剣に議論したい、政治的決着によって事態を打開したいと思っているかもしれない。個々人全員が判断の自己責任の下で一から十まで引き受けるのは理想的ではあるが、あまりに高い要求である。他方、交流と討議を通じて形成された一つの立場をメンバーが支持するだけでも十分に政治は動く。
このように形成された集合知同士の対話(それは文字通りの対話ではなく、思想間の対話、または何らかの代表者による対話にならざるを得ないが)というものは、代表制民主政治の一つの基礎理念と言えるものではないだろうか。そんなことを思った。
(ツイッターの投稿を加筆修正)
党派性(パーシャルであること)というのは意図的な主義主張に劣らず、肌感覚からも、また前-意図的な意味認知からも生じる。こうした媒介は、「中立性」や「正しく恐れる」に到達することを妨げる。さらに、そもそも人間の認知というものがそういうものであるならば、中立性や客観性というのは人が理念として想定するアルキメデスの点であって、実際に人が立つことができる具体的地点ではないことになる。
したがって、まず自分の中にある潜在的党派性を認める、または頭の片隅においておくこと、自分の主義主張・肌感覚を保持しつつ、相手側の言葉がある程度聞こえるようにどこかのチャネルを開けておくことが必要になる。この態度をもたない人々のあいだでは、最小限の意味での対話ができない。
では、対話が開かれればいつか合意に達すると言えるかというと、先の党派性の性質のことを考えれば、楽観的な展望をもつことができない。意味-認知の齟齬や肌感覚の違いは容易に解消しない。だから私は、同じような考えを持つ人々が党派を形成することは避けられないと思う。
しかし他方、まず党派を形成して、その内部で互いの考えを吟味し洗練させる党派内討議を行うことに意味がある。それは個人の肌感覚を調整するのに役立つし、交流を通じてより多くの情報を共有することができる。また同じような考えを持つ人の意見は受け入れやすいという利点もある。そのような党派内討議や意見交換を経ることで、次の課題であるところの対立する立場の人々との議論はより有意義な、つまり論点が明確なものになる。社会科学で集合知というと「社会全体の知」が連想されることが多いかもしれないが、党派内討議もまた一つの集合的知性を生み出す。
また党派内討議は参加者たちのコミットメントの度合いが多様であることを許容する。ある人は不安を解消したいだけかもしれないし、誰かに悩みを打ち明けたいだけかもしれないが、別の人は反対派と真剣に議論したい、政治的決着によって事態を打開したいと思っているかもしれない。個々人全員が判断の自己責任の下で一から十まで引き受けるのは理想的ではあるが、あまりに高い要求である。他方、交流と討議を通じて形成された一つの立場をメンバーが支持するだけでも十分に政治は動く。
このように形成された集合知同士の対話(それは文字通りの対話ではなく、思想間の対話、または何らかの代表者による対話にならざるを得ないが)というものは、代表制民主政治の一つの基礎理念と言えるものではないだろうか。そんなことを思った。
(ツイッターの投稿を加筆修正)
April 26, 2011
緊急トークイベント「震災前後―地揺れするバビロンにて―」の感想メモ
ツイッターからの転載・整理です。
緊急トークイベント「震災前後―地揺れするバビロンにて―」
http://babylon77.blog94.fc2.com/blog-entry-2.html
@burningsan さんの「緊急トークイベント「震災前後―地揺れするバビロンにて―」のまとめ」
http://togetter.com/li/127474
【個人的な整理】
上野氏は、社会における「言葉の抗体」「劇薬」としての人文学の役割を語り、ガタリの「三つのエコロジー」に即して、「震災後」や「例外状態」等の言葉の生態を見ることの重要性を指摘した。これには同意するが、その実際の遂行の仕方に関する問いは残る。
上野氏は「3.11以後」「ポスト震災」「変革のとき」等の言葉遣いに懐疑的。むしろ「ずっと例外状態だった」という語りの生態系を探りたいと述べる。
高円寺デモに関して、上野氏はそれを肯定しつつも、デモがパーティ等に展開する流れを期待。またデモだけで社会を変えられるわけではない上、こうした運動で皆が浮足立って一方向に流れる危険性を指摘。活動の多様性が望ましいという主張。
これに対して二木氏は、「これを機に」考えや行動を変えた人々を大事にしたいと主張。意思表示のきっかけとしてのデモ。また、自分の周りで「なぜ自分はデモに行かないのか」と自問する人々が多いのに驚いたという。
二木氏はまた、自分の身近な人たちの意見があまりに違っているのに驚いたという。そこでは色々な人の「地金」が見えた。その点で、以前から危機の常態化があったことを認めた上でもなお、震災後は一つの「例外状態」ではないのかと。
二木氏は、デモに関しては「原発こわい」という素朴な思いからやったという。脱原発後の社会設計など難しいことは他の人が考えればいい。自分たちはまず「原発こわい」の思いを、自分たちの得意なやり方で表現したい。デモは別に粛々とやらなくても良いと。
これを勝手に整理すると、人文学的スタンスから活動の美的判断と生態系の洞察を唱える上野氏に対して、二木氏はデモの発生や人々の行動変化をよりプラグマティックに捉えている。ローティの言う「私的な自己創造」と「公的な連帯の語彙」の対比に近いかもしれない。
【個人的な感想】
今回15000人の参加があったことで社会運動の敷居が下がったことのメリットは大きいと考える。普通の人が「デモ行っても大丈夫、危なくない」と感じられるようになった。震災後の良い現象は基本的にプラグマティックに捉えたい。
政治学の授業でもこの種の事柄についてモノを言いやすくなった。社会運動を扱うのにもっぱら「遠い国の昔の話」に頼るのではなく(もちろん歴史は大事)、いま目の前で起こっている政治を示すことができれば、当然、学生の認識も違ってくる。
デモは直接に社会を変えない。しかしそれは社会の変革をバックアップする。多くの人が動いたことが記録され報道されれば、それは変革を唱える際の一つの口実(あるいは正当性の資源)になる。また燻っている人々の不安や不満を逃がす安全弁の役割を果たす。
デモの祝祭性と各人の趣味の問題。自分が話したデモ参加者の一人は、レイブのノリが非常に苦手だと言っていた。粛々と歩きたい人もいる。その意味ではパーティやカーニバルよりも「パレード」のほうが良い気もするが、主催者の企画の自由は当然ある。
「秘密結社的なもの」(上野)とデモカルチャーの関係。私は両者は対立しないと思う。組合文化なき時代に、震災後の日常の疑問について職場で声を上げる・団結するのは難しい(失業は個人にとって大震災に匹敵する)。その疑問は「オフ」の場に流れている。
社会変革はゼネストの形ではおそらく実現しないだろう。むしろオフの時間を使った「パートタイム市民」(R・ダール)活動の活発化が社会変革を後押しする図式が優勢になると思う。もちろんそれは他方における生態学的研究・実践を妨げるものではない。
後日、糸井重里氏の発言に関する森哲平氏のツイートが目にとまった。
「イトイ的構え」を身体化している「イトイ世代」なるものがあるかどうか自信がないが、自分の上の世代が示す「冷静さ」は、非常に洗練された「シラケ」という、一種の防衛機制なのではないかと漠然と思う。
先日のバビロン・トークの上野氏からも、この「非常に洗練されたシラケ」が感じられた(あるいは彼は、自らのそうしたハビトゥスと格闘しているようにも見えた)。これはローティの言う「フーコー派左翼」の振る舞いと関係ありだろう。
ということは、行動の過熱を抑制してくれる懐疑派は沢山いるのだから、行動派はそれをありがたく思いながら、心おきなく行動すればよいのか。行動派と懐疑派の抑制と均衡を通じた穏健な社会改革。つまり相手のやり方にいちいち腹を立てず、仲間を増やしながら好きなようにやるのが吉と(未完)。
緊急トークイベント「震災前後―地揺れするバビロンにて―」
http://babylon77.blog94.fc2.com/blog-entry-2.html
@burningsan さんの「緊急トークイベント「震災前後―地揺れするバビロンにて―」のまとめ」
http://togetter.com/li/127474
【個人的な整理】
上野氏は、社会における「言葉の抗体」「劇薬」としての人文学の役割を語り、ガタリの「三つのエコロジー」に即して、「震災後」や「例外状態」等の言葉の生態を見ることの重要性を指摘した。これには同意するが、その実際の遂行の仕方に関する問いは残る。
上野氏は「3.11以後」「ポスト震災」「変革のとき」等の言葉遣いに懐疑的。むしろ「ずっと例外状態だった」という語りの生態系を探りたいと述べる。
高円寺デモに関して、上野氏はそれを肯定しつつも、デモがパーティ等に展開する流れを期待。またデモだけで社会を変えられるわけではない上、こうした運動で皆が浮足立って一方向に流れる危険性を指摘。活動の多様性が望ましいという主張。
これに対して二木氏は、「これを機に」考えや行動を変えた人々を大事にしたいと主張。意思表示のきっかけとしてのデモ。また、自分の周りで「なぜ自分はデモに行かないのか」と自問する人々が多いのに驚いたという。
二木氏はまた、自分の身近な人たちの意見があまりに違っているのに驚いたという。そこでは色々な人の「地金」が見えた。その点で、以前から危機の常態化があったことを認めた上でもなお、震災後は一つの「例外状態」ではないのかと。
二木氏は、デモに関しては「原発こわい」という素朴な思いからやったという。脱原発後の社会設計など難しいことは他の人が考えればいい。自分たちはまず「原発こわい」の思いを、自分たちの得意なやり方で表現したい。デモは別に粛々とやらなくても良いと。
これを勝手に整理すると、人文学的スタンスから活動の美的判断と生態系の洞察を唱える上野氏に対して、二木氏はデモの発生や人々の行動変化をよりプラグマティックに捉えている。ローティの言う「私的な自己創造」と「公的な連帯の語彙」の対比に近いかもしれない。
【個人的な感想】
今回15000人の参加があったことで社会運動の敷居が下がったことのメリットは大きいと考える。普通の人が「デモ行っても大丈夫、危なくない」と感じられるようになった。震災後の良い現象は基本的にプラグマティックに捉えたい。
政治学の授業でもこの種の事柄についてモノを言いやすくなった。社会運動を扱うのにもっぱら「遠い国の昔の話」に頼るのではなく(もちろん歴史は大事)、いま目の前で起こっている政治を示すことができれば、当然、学生の認識も違ってくる。
デモは直接に社会を変えない。しかしそれは社会の変革をバックアップする。多くの人が動いたことが記録され報道されれば、それは変革を唱える際の一つの口実(あるいは正当性の資源)になる。また燻っている人々の不安や不満を逃がす安全弁の役割を果たす。
デモの祝祭性と各人の趣味の問題。自分が話したデモ参加者の一人は、レイブのノリが非常に苦手だと言っていた。粛々と歩きたい人もいる。その意味ではパーティやカーニバルよりも「パレード」のほうが良い気もするが、主催者の企画の自由は当然ある。
「秘密結社的なもの」(上野)とデモカルチャーの関係。私は両者は対立しないと思う。組合文化なき時代に、震災後の日常の疑問について職場で声を上げる・団結するのは難しい(失業は個人にとって大震災に匹敵する)。その疑問は「オフ」の場に流れている。
社会変革はゼネストの形ではおそらく実現しないだろう。むしろオフの時間を使った「パートタイム市民」(R・ダール)活動の活発化が社会変革を後押しする図式が優勢になると思う。もちろんそれは他方における生態学的研究・実践を妨げるものではない。
*
後日、糸井重里氏の発言に関する森哲平氏のツイートが目にとまった。
糸井氏
ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。
https://twitter.com/itoi_shigesato/status/62361426609704960
森氏(https://twitter.com/moriteppei)
別にぼくは糸井重里自体が嫌いではないけど、たまに糸井さんが見せる「正しさ」、「正義を語らない方を信用する」といった発言の「正しさ」に息苦しくなる(ああ、これがこの社会じゃ「正しい」とされるんだよなあ)のと、「同意」する人は彼のこの手の言語術にどこまで意識的なのか気になる時がある。
訳すと「ぼくのこの発言自体が、ぼくなら参考にするだろう発言[皆もそうだよな]」 …「参考にしようぜ」だと「正義」を語ることになるので、「ぼくは」とつけて脱正義臭。
ぼくはこの「息苦しさ」を、糸井重里が正しくなっていくんじゃなくって、「また一つ、正しさが糸井重里になっていく息苦しさ」と以前書いたことがある。http://twitter.com/moriteppei/status/13793525018 今も同じことを感じた。
別に煽れとも、無礼になれとも、スキャンダラスになれとも言わないけどさ(笑)。でも、「正義を語らない」安全な「正しさ」だけコツコツ拾ってく気楽さ、そこに一つ一つ糸井重里マルシーつけてく方法の「ずるさ」が続けられると、ほんと息苦しくって。
皮肉ではなく、真剣に。ぼくが今一番、糸井重里に語って欲しいのは、安全な「正しさ」ではなく、ズバリ「正義」ですよ。糸井が考える「正義」。
もう既に語ってるのかな。慎重でも構わないから、たとえば原子力政策について。糸井重里が何を正しいと思っているのか、コピーライターって職業も考えるとなおさら、もっと語ってほしいと思うよ。「より脅かしてないほう」を選ぶ(何が「脅し」か受け手によるよね)なんて当り前の話じゃなくてね。
「イトイ的構え」を身体化している「イトイ世代」なるものがあるかどうか自信がないが、自分の上の世代が示す「冷静さ」は、非常に洗練された「シラケ」という、一種の防衛機制なのではないかと漠然と思う。
先日のバビロン・トークの上野氏からも、この「非常に洗練されたシラケ」が感じられた(あるいは彼は、自らのそうしたハビトゥスと格闘しているようにも見えた)。これはローティの言う「フーコー派左翼」の振る舞いと関係ありだろう。
〈フーコー派左翼〉は……政治に対する哲学の重要性を誇張し、現に起こっていることの出来事の意味に洗練された理論的分析を行うべくそのエネルギーを濫費している。……フーコー派左翼の人々は、自由主義的改良主義のイニシアティヴを、信頼のできない自由主義的「ヒューマニズム」の徴候と見なすので、新しい社会的実験を立案することにあまり関心がない。(ローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』)http://amzn.to/gYws6B
ということは、行動の過熱を抑制してくれる懐疑派は沢山いるのだから、行動派はそれをありがたく思いながら、心おきなく行動すればよいのか。行動派と懐疑派の抑制と均衡を通じた穏健な社会改革。つまり相手のやり方にいちいち腹を立てず、仲間を増やしながら好きなようにやるのが吉と(未完)。
April 23, 2011
『ミツバチの羽音と地球の回転』鑑賞メモ
渋谷のユーロスペースで『ミツバチの羽音と地球の回転』を観ました。南の島を舞台にしているせいもあり、前作『六ヶ所村ラプソディ―』よりも明るい絵が多い。さらに島の人たちの陽気さ、取材先のスウェーデンの人たちのエスプリが、この映画に楽しい彩りを添えている。たとえ原発廃止に慎重な人であっても、思わず島の人たちを応援したくなるような巧さもある(このあたりは監督の人柄によるところも大でしょう)。題材の性質上、もちろん笑いだけの映画ではないものの、原発ドキュメンタリーという、ともすれば陰鬱になりがちな題材を、このように色彩豊かに織り上げる技量は高く評価したいと思います。
加えて、福島の事故前に撮られた映像が事故後のわれわれの目に強烈なメタ・メッセージとなって折れ返ってくるこの感覚は、皮肉なことではあるけれど、今となって初めて味わうことができるものでしょう。船上の中電社員が拡声器で「みなさんが心配しておられるような、海が壊れるようなことは絶対にありません。絶対と言っていいほど壊れません」と慇懃に呼びかける姿に、場内からは大きな苦笑が。
反対運動の主役は、30年以上にわたり反対運動を続けてきた島の「おばちゃん」たち、船を操る漁師たち、そして島に帰ってきたひとりの若者(32歳なのに、監督は「孝くん」と呼んでいた)。生活者たちの長い闘争があり、そこに最近の環境活動がようやく合流してきた経緯を知ることができる。そこには反原発=サヨク活動家のような構図は全然出てこない。(そもそもこの図式はどこから出てきたのだろうか?)現在の状況だけを見て、この運動の本質をイデオロギー的なものだと誤認してはならない。
原発なき社会のエネルギー持続可能性については、過去に国民投票で脱原発を決めたスウェーデンの取り組みが紹介される。その要点は、電力の自由化、地域のエネルギー自給政策、再生可能なエネルギー生産技術の推進である。
公共政策の教科書において、電力供給は公共財の具体例として扱われることが多い。送電網の整備には膨大なコストがかかるため、競争する各社が独自の送電線をもつことは採算性を損ね、社会環境や景観を悪化させる。こうしたインフラ整備の効率性の観点から独占が望ましいとされる。しかしスウェーデンでは送電網が道路と同じ公共財とされ、電力会社が顧客を求めて互いに競争している。消費者はどの会社のどんな種類の電気を購入するかを選択できる。結果として再生可能エネルギーのシェアは高まり、そのコストを低下させている。
三公社民営化により通信業の自由化がすでに行われている日本で、こうした議論があまりなされなかったのは不思議である。また、この方法が実現すれば「われわれは東電の電気を使ってきたのだから同罪だ」という主張を退けることができるだろう。
再生可能エネルギーの代表として紹介されているのは風力発電である。もちろん風力発電も万能ではない。十分な風を受けるための立地の問題、騒音の問題、安定した電力供給の問題がある。
風力発電所の立地による環境への影響に関して、スウェーデンの環境裁判所の紹介があった。この裁判所は自然環境保護の観点から、さまざまな社会活動に対する法的な勧告と措置を行っている。日本にも知的財産高等裁判所はあるが、今後、環境裁判所の設置も提唱されるかもしれない。映画ではこの裁判所の勧告により、古い自然森林の伐採が制限されたという話が紹介された。
他方、風力発電所の低周波騒音については触れられなかった。これは日本でもすでにいくつかの場所で問題になっている。長期的にはおそらく、風力発電は陸地から沿岸の海上(オフショア)へと立地を移すことになるだろう。
風力発電の他に紹介されたのはバイオマスによる地域温熱暖房、太陽熱給湯、波力発電など。太陽熱給湯装置については、アメリカで過去に広く普及したものの後に衰退した歴史とその理由がこちらで紹介されている。
日本はスウェーデンよりはるかに大きな人口を抱える国である。他にも自然環境の違いや政治文化の違いなども無視できない。スウェーデン・モデルがそのまま即座に適用可能だとは言えないだろう。しかし映画の中でも語られるように、日本は豊かな自然と優れた自然エネルギー技術を持っている。いずれ大きな台風にも耐える風力発電機も普通に生産されるようになるかもしれない。この分野の技術革新の速度は、装置の巨大さと放射性物質の危険に阻まれる原子力発電のそれよりも格段に速い。原発もまた補助金行政で動いている。研究開発補助の重点が少しでも移動すれば、代替エネルギー政策は急加速するだろう。政治が取り組まねばならないのは、電力自由化を実現するための制度改革である。実はこれこそ最大の困難と言えるものだが、この皮肉な好機に際して、われわれはいつまでも足踏みしているわけにはいかないだろう。
最後に監督からのメッセージ映像が流され、終わりには拍手が起こりました。この美しい映像、この美しい物語に比肩しうるものを、原発推進の立場から示すことは果たして可能だろうか。
加えて、福島の事故前に撮られた映像が事故後のわれわれの目に強烈なメタ・メッセージとなって折れ返ってくるこの感覚は、皮肉なことではあるけれど、今となって初めて味わうことができるものでしょう。船上の中電社員が拡声器で「みなさんが心配しておられるような、海が壊れるようなことは絶対にありません。絶対と言っていいほど壊れません」と慇懃に呼びかける姿に、場内からは大きな苦笑が。
反対運動の主役は、30年以上にわたり反対運動を続けてきた島の「おばちゃん」たち、船を操る漁師たち、そして島に帰ってきたひとりの若者(32歳なのに、監督は「孝くん」と呼んでいた)。生活者たちの長い闘争があり、そこに最近の環境活動がようやく合流してきた経緯を知ることができる。そこには反原発=サヨク活動家のような構図は全然出てこない。(そもそもこの図式はどこから出てきたのだろうか?)現在の状況だけを見て、この運動の本質をイデオロギー的なものだと誤認してはならない。
原発なき社会のエネルギー持続可能性については、過去に国民投票で脱原発を決めたスウェーデンの取り組みが紹介される。その要点は、電力の自由化、地域のエネルギー自給政策、再生可能なエネルギー生産技術の推進である。
公共政策の教科書において、電力供給は公共財の具体例として扱われることが多い。送電網の整備には膨大なコストがかかるため、競争する各社が独自の送電線をもつことは採算性を損ね、社会環境や景観を悪化させる。こうしたインフラ整備の効率性の観点から独占が望ましいとされる。しかしスウェーデンでは送電網が道路と同じ公共財とされ、電力会社が顧客を求めて互いに競争している。消費者はどの会社のどんな種類の電気を購入するかを選択できる。結果として再生可能エネルギーのシェアは高まり、そのコストを低下させている。
三公社民営化により通信業の自由化がすでに行われている日本で、こうした議論があまりなされなかったのは不思議である。また、この方法が実現すれば「われわれは東電の電気を使ってきたのだから同罪だ」という主張を退けることができるだろう。
再生可能エネルギーの代表として紹介されているのは風力発電である。もちろん風力発電も万能ではない。十分な風を受けるための立地の問題、騒音の問題、安定した電力供給の問題がある。
風力発電所の立地による環境への影響に関して、スウェーデンの環境裁判所の紹介があった。この裁判所は自然環境保護の観点から、さまざまな社会活動に対する法的な勧告と措置を行っている。日本にも知的財産高等裁判所はあるが、今後、環境裁判所の設置も提唱されるかもしれない。映画ではこの裁判所の勧告により、古い自然森林の伐採が制限されたという話が紹介された。
他方、風力発電所の低周波騒音については触れられなかった。これは日本でもすでにいくつかの場所で問題になっている。長期的にはおそらく、風力発電は陸地から沿岸の海上(オフショア)へと立地を移すことになるだろう。
風力発電の他に紹介されたのはバイオマスによる地域温熱暖房、太陽熱給湯、波力発電など。太陽熱給湯装置については、アメリカで過去に広く普及したものの後に衰退した歴史とその理由がこちらで紹介されている。
日本はスウェーデンよりはるかに大きな人口を抱える国である。他にも自然環境の違いや政治文化の違いなども無視できない。スウェーデン・モデルがそのまま即座に適用可能だとは言えないだろう。しかし映画の中でも語られるように、日本は豊かな自然と優れた自然エネルギー技術を持っている。いずれ大きな台風にも耐える風力発電機も普通に生産されるようになるかもしれない。この分野の技術革新の速度は、装置の巨大さと放射性物質の危険に阻まれる原子力発電のそれよりも格段に速い。原発もまた補助金行政で動いている。研究開発補助の重点が少しでも移動すれば、代替エネルギー政策は急加速するだろう。政治が取り組まねばならないのは、電力自由化を実現するための制度改革である。実はこれこそ最大の困難と言えるものだが、この皮肉な好機に際して、われわれはいつまでも足踏みしているわけにはいかないだろう。
最後に監督からのメッセージ映像が流され、終わりには拍手が起こりました。この美しい映像、この美しい物語に比肩しうるものを、原発推進の立場から示すことは果たして可能だろうか。
April 14, 2011
一杯の水を飲むのに必要なこと
川崎市で福島県のごみ引き受けが問題となっているという。市は廃棄物の安全性に関する文書を出して混乱を収束させようとしているが、この騒ぎを大きくしたのはどうやら2chのとあるスレッドのようだ。
通常、人はさまざまな危険に囲まれながらも、大体において日々平穏に生活している。われわれはそうした危険をまったく知らないわけではない。われわれは危険をある程度「認識」しつつも、それを意識の外にうまく追いやったり、意識にのぼる場合はそれを「引き受け」ていく術を身につけている。
他方、楽観派を「情弱」と呼ぶ2ch住民の懐疑には出口がない。彼らが言う通り、この問題において「絶対」安全なものはない。誰しも被曝や発癌の危険から「完全に」逃れることはできない。確実性を求めれば、文字通り、息もできなくなる。
この記事は、放射線の健康被害に関する楽観派と悲観派が大きく乖離する理由をうまく言い当てているように思う。原発が爆発事故を起こすという事態は、「原発はおそらく安全」と漠然と思っていた(あるいは特に考えていなかった)人々にとって、言わば「太陽が西から昇る」のと同じぐらいの効果があったのではないだろうか。これによって長年の生活経験によって形成された「習慣」(思考と行動の様式)が破壊され、その結果、「常識」が混乱をきたしている。
これらの記事を読んでヒュームを思い出した人はいないだろうか。
問題は情報や知識自体にあるよりもむしろ、情報や知識の受け入れ、つまり信念のほうにある。ヒュームは「一つの対象から他の対象の存在を推理できるのは、ただ「経験」によってだけである」(『人性論』)と書いたが、放射線にはこの「経験」による信念の形成がなかなか通用しない。たとえば私自身は放射線の危害に明確な閾値はないという見解を認めつつ、流通している北関東の野菜を食べているのが、当然、後者を拒む人も多い。
ヒュームの懐疑論からは蓋然性という新たな種類の科学的知識が展開されたが、他方で信念は日常生活世界の問題、つまり常識の問題でもある。
一杯の水を飲むのにも、われわれは信念を必要とする。これほど現状と重なる言葉はない。これに対するハーマンの解決はまさしく「信仰」であった。つまり彼は、来世の平安ばかりでなく現世のそれもまた神の存在に対する揺るぎなき信仰=信念(belief)よって支えられていると考えたのである。
これを現状と比較してみると、われわれの「信仰」とは、まさしく「蓋然性」に根ざす科学の言葉を自分の信念体系に取り込み、「ただちに害はない」という権威者の言葉を(おおむね)是とすること、または自分で何らかの信仰に至り、諸信念間の衝突を調整して魂の平安を得ることである。このように考えると、日々を比較的平穏に過ごす人(楽観派)と不安・不信にかき乱される人(悲観派)が存在することをうまく理解できる。
来世への信仰などとは無縁の人々にあっても、目の前の水と食事に「疑い」を抱いてしまえば、地獄を怖れる人々と同じように、信仰と懐疑のあいだで激しく揺れることになる。いま両者のあいだに横たわる深い溝を目の前にして、そこを跳躍する決断を迫られていると感じている人もいるだろう。さて、カントの出番なるか。
福島ごみ「受け入れるな」 川崎市に市民ら苦情2千件超 - 47news http://bit.ly/hu3Bvr
川崎市の説明 http://bit.ly/evr7qZ
「デマ・パニックの原因は「書かれてない」こと」
- Parsleyの「添え物は添え物らしく」 http://bit.ly/gIA3Lv
通常、人はさまざまな危険に囲まれながらも、大体において日々平穏に生活している。われわれはそうした危険をまったく知らないわけではない。われわれは危険をある程度「認識」しつつも、それを意識の外にうまく追いやったり、意識にのぼる場合はそれを「引き受け」ていく術を身につけている。
他方、楽観派を「情弱」と呼ぶ2ch住民の懐疑には出口がない。彼らが言う通り、この問題において「絶対」安全なものはない。誰しも被曝や発癌の危険から「完全に」逃れることはできない。確実性を求めれば、文字通り、息もできなくなる。
「放射能という“目に見えない恐怖”がもたらすストレスの脅威」
- 日経ビジネスオンライン http://bit.ly/erPsUz
この記事は、放射線の健康被害に関する楽観派と悲観派が大きく乖離する理由をうまく言い当てているように思う。原発が爆発事故を起こすという事態は、「原発はおそらく安全」と漠然と思っていた(あるいは特に考えていなかった)人々にとって、言わば「太陽が西から昇る」のと同じぐらいの効果があったのではないだろうか。これによって長年の生活経験によって形成された「習慣」(思考と行動の様式)が破壊され、その結果、「常識」が混乱をきたしている。
これらの記事を読んでヒュームを思い出した人はいないだろうか。
問題は情報や知識自体にあるよりもむしろ、情報や知識の受け入れ、つまり信念のほうにある。ヒュームは「一つの対象から他の対象の存在を推理できるのは、ただ「経験」によってだけである」(『人性論』)と書いたが、放射線にはこの「経験」による信念の形成がなかなか通用しない。たとえば私自身は放射線の危害に明確な閾値はないという見解を認めつつ、流通している北関東の野菜を食べているのが、当然、後者を拒む人も多い。
ヒュームの懐疑論からは蓋然性という新たな種類の科学的知識が展開されたが、他方で信念は日常生活世界の問題、つまり常識の問題でもある。
一個の卵を食べ、一杯の水を飲むのにもヒュームは信念を必要としています。〔中略〕もし飲食にさえ信念が必要であるならば、なぜヒュームは飲食よりも高次の事柄を判断する際には彼自身の原理を裏切るのでしょうか。(J・G・ハーマン)
一杯の水を飲むのにも、われわれは信念を必要とする。これほど現状と重なる言葉はない。これに対するハーマンの解決はまさしく「信仰」であった。つまり彼は、来世の平安ばかりでなく現世のそれもまた神の存在に対する揺るぎなき信仰=信念(belief)よって支えられていると考えたのである。
これを現状と比較してみると、われわれの「信仰」とは、まさしく「蓋然性」に根ざす科学の言葉を自分の信念体系に取り込み、「ただちに害はない」という権威者の言葉を(おおむね)是とすること、または自分で何らかの信仰に至り、諸信念間の衝突を調整して魂の平安を得ることである。このように考えると、日々を比較的平穏に過ごす人(楽観派)と不安・不信にかき乱される人(悲観派)が存在することをうまく理解できる。
来世への信仰などとは無縁の人々にあっても、目の前の水と食事に「疑い」を抱いてしまえば、地獄を怖れる人々と同じように、信仰と懐疑のあいだで激しく揺れることになる。いま両者のあいだに横たわる深い溝を目の前にして、そこを跳躍する決断を迫られていると感じている人もいるだろう。さて、カントの出番なるか。
March 29, 2011
交通事故と原発事故
交通事故死者を引き合いに出して原発事故のリスクを語る人々
原子力発電はどれくらい安全か
http://www.enup2.jp/newpage38.html
放射線被曝のリスクについて http://t.co/mEddLxV
たとえば火力発電所も一定の危険を含む。作業員が被災することが当然にありうる。だが作業員が命を差し出してまで事故の終息を図らねばならないほどの重大事故はまずない。プラント火災と同じように、最悪の場合でも燃料が尽きてしまえば事態は収束する。
【東日本大地震】コスモ石油千葉、燃え尽きるまで | レスポンス自動車ニュース(Response.jp) http://t.co/Djg288C via @responsejp
自動車事故には気をつけなければならない。多数の死亡事故が発生している。だが屋内退避や避難とは無関係だ。原発事故に際して、避難は一つの安全策である。それは生命を守るかもしれない。だがそれは地域の生活基盤を根こそぎにする。人は単なる生命体ではない。
科学技術の発達の原動力は思考錯誤である。風力発電装置が低周波騒音公害を引き起こすことが分かった。われわれは装置を止めることができる。だが原発は装置を止めても終わらない。あるいは(冷却系という)装置を完全に止めることは大惨事を意味する。
科学技術や生活様式に関する多様な信念がある。党派的な信念を抱くことは悪いことではないし、誰もが中立ではありえない。多様性は「思想の自由市場」を介したイノベーションの条件である。だが原発事故は原子力発電にコミットするかどうかに関係なく、膨大な人々を否応なく巻き込んでいく。原発はリベラルではない。
原発は人間から尊厳を奪う。原発事故を前にわれわれは徹底的に無力である。「危険に対処する」自分の努力や注意が少しも報われず、権威者の指示命令に従うしかない状態は、人間から自由と道徳性の感覚を奪う。そこにおいてわれわれは完全に従順な動物と化す。
原発がわれわれに他の危険と異なる不安を与えるのは、それが生の希望を奪うことにある。それは生命自体を奪うことと同じくらい、あるいはそれ以上に残酷なことなのだ。まったく性質の異なる危険を同一尺度で測ることには、疑問を通り越して憤りすら覚える。
原子力発電はどれくらい安全か
http://www.enup2.jp/newpage38.html
放射線被曝のリスクについて http://t.co/mEddLxV
たとえば火力発電所も一定の危険を含む。作業員が被災することが当然にありうる。だが作業員が命を差し出してまで事故の終息を図らねばならないほどの重大事故はまずない。プラント火災と同じように、最悪の場合でも燃料が尽きてしまえば事態は収束する。
【東日本大地震】コスモ石油千葉、燃え尽きるまで | レスポンス自動車ニュース(Response.jp) http://t.co/Djg288C via @responsejp
自動車事故には気をつけなければならない。多数の死亡事故が発生している。だが屋内退避や避難とは無関係だ。原発事故に際して、避難は一つの安全策である。それは生命を守るかもしれない。だがそれは地域の生活基盤を根こそぎにする。人は単なる生命体ではない。
科学技術の発達の原動力は思考錯誤である。風力発電装置が低周波騒音公害を引き起こすことが分かった。われわれは装置を止めることができる。だが原発は装置を止めても終わらない。あるいは(冷却系という)装置を完全に止めることは大惨事を意味する。
科学技術や生活様式に関する多様な信念がある。党派的な信念を抱くことは悪いことではないし、誰もが中立ではありえない。多様性は「思想の自由市場」を介したイノベーションの条件である。だが原発事故は原子力発電にコミットするかどうかに関係なく、膨大な人々を否応なく巻き込んでいく。原発はリベラルではない。
原発は人間から尊厳を奪う。原発事故を前にわれわれは徹底的に無力である。「危険に対処する」自分の努力や注意が少しも報われず、権威者の指示命令に従うしかない状態は、人間から自由と道徳性の感覚を奪う。そこにおいてわれわれは完全に従順な動物と化す。
原発がわれわれに他の危険と異なる不安を与えるのは、それが生の希望を奪うことにある。それは生命自体を奪うことと同じくらい、あるいはそれ以上に残酷なことなのだ。まったく性質の異なる危険を同一尺度で測ることには、疑問を通り越して憤りすら覚える。
March 27, 2011
ホウレンソウを食べるということ
自分が持ち合わせている知識はWeb上に流れる一般的な水準を出るものではないので、この原発事故が今後どのような経過をたどるのか、現時点で私に何か確かな判断ができるわけではない。現在起こっている現象の因果関係を説明・推定すること、それに対してどのような対処が可能であり、人体への影響を抑制するにはどのような行動が有効であるかを推定し、防災計画を策定すること。これらは広い意味で専門家の領分に属する。
しかし、すでに説明されている事態について知るだけでも、われわれは原発問題(つまり、原発の建設と稼働を今後どうするか)に関してすでに十分な判断の基礎を得ているのではないか。そこにおける基本的な問いは、今このような事態が進行している世界を「よい世界」または「許容できる世界」と考えることができるかどうかということであり、これは技術的な問い(原発事故とその処理の進行表に関する)ではなく、生き方、生活様式(あるいは「物語」)に関する問いである。
大槻義彦教授が原発問題について発言している。そこで彼は、現在進行中の事実問題に関して説明を行うのみならず、「原発のある社会の物語」を生きることを自発的に選択しているように思われる。
http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-2004.html
基準値以下の野菜を食べるという行為は、自然科学の知見から論理的に出てくるものではない。科学者が基準値を算定してそれ以下と認めた上でホウレンソウを口にしないこともありうるし、そのようなことはしばしば起こる(逆に、原発に反対しながら、いま出荷されている野菜を食べることも可能である)。いま自分の目の前にある高い放射線量をもつ食物を口にするという行為は、科学的知見をその一部に含む彼の世界観・信念体系を背景にした選択である。人の信念・世界観は分野によってカテゴリカルに切り分けられているわけではない。そこにおいては自分の日常世界と自分の知る科学的知見が相互に交通している。
信念の問題においては道徳的なものと技術的なものは完全に別個のものとすることができない。信念は、事実認識に基づく価値判断を指す言葉である。信念の形成には事実認識が不可欠である。何でも任意に信じられるものではない。もちろん人によって事実認識もある程度異なるが、原発について異なる価値判断を下す人々の間でも、たとえば人体に対する放射線の影響に関する事実を共有することができる。避難指示によって町や村が放棄された事実、食品の流通が差し止められた事実、「風評被害」※の発生という事実、高速増殖炉もんじゅの現状について同意できる。また今回の原発事故に関して言えば、その報道が東北の被災地に割くべきメディア資源を確実に削いでおり、われわれの注意が逸らされていること。それらが自分の生きる世界に存在することを許容できるかどうかが各人の判断の基礎になる。
これらの事実を無視することは難しい。人間は習慣の生き物であるため、このような事態にあっても、以前の生活様式の慣性が思考と身体に働きかける。ここ数日、「日常」に戻ろうとする力を自分の内にも強く感じる。しかし以前の世界に戻ることはない。われわれの基本的世界観に原発関連の用語は今までにない形で深く刻まれたし、原発や放射性物質の隠喩がわれわれの思考様式に根を下ろしはじめている。原発事故の長期的影響から、これらを消し去ることはまずできないだろう。
「戦争を知らずに 僕らは育った」という歌がある。
武器を捨てるとき、戦争は終わる。その後の影響と記憶をわれわれは「戦争の傷跡」と呼ぶ。しかし原発の場合、傷口は相当期間にわたってふさがらない。いろいろなところから血を流しながら何とか生き延びるしかない。
仮に原発廃止の方向で政治が進行したとしても、その廃止処理にかかる膨大な物的・人的資源が投入され、そのために少なからぬ予算が費やされることになれば、その議論は当然に納税者の関心となる。また各地の原発跡は、「墓標」として長くわれわれの目に留まることで記念碑的効果をもたらす。これらは現に流れている情報から十分に予想できることである。
大槻教授は科学技術が万能ではないことを認めている。原発に相当程度の「危険(risk)」が存在することを認めている。そしてその危険を引き受けて、危険と共に生きることを選んでいるように見える。われわれは彼とこの「物語」を共有できるだろうか。ここに一つの選択がある。
原子力政策を進めてきたのは過去の世代である。彼らは政策推進と今回の事故に責任がある。いま原子力政策は転換の岐路にある。この選択が将来にもたらす結果に責任を負うのはわれわれである。
※ 「風評被害」という言葉の使用法には今後も十分に注意する必要がある。「実際の害がないものに対する害悪の流布」がこの言葉の通常の用法であるが、放射性物質の有害性の程度については論争がある。現行基準値以下の放射性物質の有害性を認識する者にとって、現状の問題は「風評被害」ではなく実際の危険である。つまり「風評被害」は現状の安全を肯定する人々が用いる言葉ということになる。繰り返すが、もちろん危険性を認識しつつも他の目的(農家の支援など)で野菜を口にすることはありうるし、自分を含む多くの人々が現にそうしている。
(青字は事後追加箇所)
しかし、すでに説明されている事態について知るだけでも、われわれは原発問題(つまり、原発の建設と稼働を今後どうするか)に関してすでに十分な判断の基礎を得ているのではないか。そこにおける基本的な問いは、今このような事態が進行している世界を「よい世界」または「許容できる世界」と考えることができるかどうかということであり、これは技術的な問い(原発事故とその処理の進行表に関する)ではなく、生き方、生活様式(あるいは「物語」)に関する問いである。
大槻義彦教授が原発問題について発言している。そこで彼は、現在進行中の事実問題に関して説明を行うのみならず、「原発のある社会の物語」を生きることを自発的に選択しているように思われる。
http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-2004.html
基準値以下の野菜を食べるという行為は、自然科学の知見から論理的に出てくるものではない。科学者が基準値を算定してそれ以下と認めた上でホウレンソウを口にしないこともありうるし、そのようなことはしばしば起こる(逆に、原発に反対しながら、いま出荷されている野菜を食べることも可能である)。いま自分の目の前にある高い放射線量をもつ食物を口にするという行為は、科学的知見をその一部に含む彼の世界観・信念体系を背景にした選択である。人の信念・世界観は分野によってカテゴリカルに切り分けられているわけではない。そこにおいては自分の日常世界と自分の知る科学的知見が相互に交通している。
信念の問題においては道徳的なものと技術的なものは完全に別個のものとすることができない。信念は、事実認識に基づく価値判断を指す言葉である。信念の形成には事実認識が不可欠である。何でも任意に信じられるものではない。もちろん人によって事実認識もある程度異なるが、原発について異なる価値判断を下す人々の間でも、たとえば人体に対する放射線の影響に関する事実を共有することができる。避難指示によって町や村が放棄された事実、食品の流通が差し止められた事実、「風評被害」※の発生という事実、高速増殖炉もんじゅの現状について同意できる。また今回の原発事故に関して言えば、その報道が東北の被災地に割くべきメディア資源を確実に削いでおり、われわれの注意が逸らされていること。それらが自分の生きる世界に存在することを許容できるかどうかが各人の判断の基礎になる。
これらの事実を無視することは難しい。人間は習慣の生き物であるため、このような事態にあっても、以前の生活様式の慣性が思考と身体に働きかける。ここ数日、「日常」に戻ろうとする力を自分の内にも強く感じる。しかし以前の世界に戻ることはない。われわれの基本的世界観に原発関連の用語は今までにない形で深く刻まれたし、原発や放射性物質の隠喩がわれわれの思考様式に根を下ろしはじめている。原発事故の長期的影響から、これらを消し去ることはまずできないだろう。
「戦争を知らずに 僕らは育った」という歌がある。
武器を捨てるとき、戦争は終わる。その後の影響と記憶をわれわれは「戦争の傷跡」と呼ぶ。しかし原発の場合、傷口は相当期間にわたってふさがらない。いろいろなところから血を流しながら何とか生き延びるしかない。
仮に原発廃止の方向で政治が進行したとしても、その廃止処理にかかる膨大な物的・人的資源が投入され、そのために少なからぬ予算が費やされることになれば、その議論は当然に納税者の関心となる。また各地の原発跡は、「墓標」として長くわれわれの目に留まることで記念碑的効果をもたらす。これらは現に流れている情報から十分に予想できることである。
大槻教授は科学技術が万能ではないことを認めている。原発に相当程度の「危険(risk)」が存在することを認めている。そしてその危険を引き受けて、危険と共に生きることを選んでいるように見える。われわれは彼とこの「物語」を共有できるだろうか。ここに一つの選択がある。
原子力政策を進めてきたのは過去の世代である。彼らは政策推進と今回の事故に責任がある。いま原子力政策は転換の岐路にある。この選択が将来にもたらす結果に責任を負うのはわれわれである。
※ 「風評被害」という言葉の使用法には今後も十分に注意する必要がある。「実際の害がないものに対する害悪の流布」がこの言葉の通常の用法であるが、放射性物質の有害性の程度については論争がある。現行基準値以下の放射性物質の有害性を認識する者にとって、現状の問題は「風評被害」ではなく実際の危険である。つまり「風評被害」は現状の安全を肯定する人々が用いる言葉ということになる。繰り返すが、もちろん危険性を認識しつつも他の目的(農家の支援など)で野菜を口にすることはありうるし、自分を含む多くの人々が現にそうしている。
(青字は事後追加箇所)
July 04, 2010
Vocaloidと商業的公共性(3)
Cultural Typoon 2010での報告が終わり、この話にも一区切りつきました。こういう思いつきのバカ話に貴重なイベント資源を割いていただけたことに感謝しています。
ガブリエル・アーモンドによれば、公共政策学の成立は1960年代のアメリカ政治学にあると言われるが、もちろん公共政策はそれ以前から行われてきた。とりわけ大恐慌以降のニュー・ディール政策は、アメリカ史上まれにみる政府が積極的に市場を管理した時期であると言われるし、第二次大戦中に生産・攻撃・物資補給の戦略的計画を作成するための科学的管理法であるオペレーションズ・リサーチ(OR)などもこの系譜を構成するものだろう。
そして現在の公共経営論の主流は新公共経営(NPM, New Public Management)と呼ばれる。これは1980年代イギリスのサッチャー政権が、混合経済にもとづく福祉国家体制を徹底的に改革するために行ったアイデアがもとになっている。
NPMの基本的な考え方はアウトソーシングである。第一に、公共サービスは行政自体により執行されるのでなく、政策決定者=「主人」は「代理人(agency)」と契約を結び、代理人が実施の一部始終を管理する。その契約は成果主義で、達成方法には柔軟性が与えられている。これは行政活動に市場原理を持ち込むこと、行政の執行部門をアウトソーシング(外部委託)すること、行政組織をエイジェンシー(独立行政法人)とすること、などの行政改革の原理となっている。第二に、NPMは行政組織の階層性を廃し、「ネットワーク理論」によって多様な組織の間に柔軟な関係性(必要に応じて必要なものを効率的な組織から調達)を構築する。政府は「管制高地(commanding heights)」として、意思決定および最適なパフォーマンスのための指令(執行ネットワークの編制と業務の分配)を行う。
他方でNPMの問題点として、「官から民へ」のスローガンが、採算性の低い公共サービスを切り捨てる口実となってきたことが挙げられる。たとえば国立大学への補助金の削減の根拠は、自立した財政を原則とする独立行政法人への移行に求められる。またボランティアの美名の下に人々を動員して「タダ働き」を正当化するという批判もある。それでも現在の苦しい財政事情のもと、非政府セクターの活用は徐々に国民的合意を形成しつつあるように見える。鳩山内閣の施政方針演説において「新しい公共」のスローガンが打ち出され、市民の社会参加に基づく「市民社会セクター」の活性化が謳われたことは記憶に新しい。
他方、商業的公共性のモデルは、NGOや独立行政法人によるサービス提供の構想とは異なる。NGOが主として家庭(個人)と行政の協働モデルに基づくのに対して、商業的公共性はハーバーマスの『公共性の構造転換』の中で描かれた18世紀の市民社会と同じく、家庭(個人)と市場(とりわけ企業体)との間にまたがっている。つまり、基本的には労働市場や財市場を構成するアクターと同じである。ただしその結合形態、および政府による規制がより重要な役割を果たす点で異なっている。通常の市場において、価値を生産するのは企業であり、それを消費するのが個人または家庭である。他方、商業的公共性モデルでは価値を生産・消費するのはいずれも個人であり、企業セクターは価値の生産を可能にする条件の整備と、生産された価値を流通・媒介するプラットフォームとしての役割を与えられる。
「企業の公共的役割」に関して、ケインズは早くも1926年に『自由主義の終焉』において、次のように指摘している。
現在、日本においてCSRとして認定される企業の社会貢献活動の多くは慈善の形態をとっている。そこにおいて支援の対象となる事業は、難民支援、熱帯雨林保全、障害者自立支援など、「慈善性がハッキリしているもの」が多数を占めており、逆に言えば、この国の多数を占める人々と直接の生活上の接点がほとんどないものに集中していることを意味している。もちろんこれらは重要な活動であり、同時に企業のイメージ向上にも一定の貢献をなしている。しかし、企業が真に公共的な存在となるためには、どこにでもいる「普通の人々」との具体的な結びつきが不可欠ではないだろうか。地域に根ざした経済は、地域に根ざした企業から生まれる。必要なのはおそらく、CSRを慈善の枠組から解放して、より広い概念に置き換えること、すなわち社会的責任概念の拡張である。
ここでこの「広義のCSR」を、「企業による市民活動やコミュニティへの支援」と定義しておこう。こうした定義には先例がある。国際標準化機構が現在準備しているISO26000の表題は「社会的責任に関する手引」である。
他方、「企業の公共的役割」とは、「社会的企業(social entrepreneurship)」の精神を指すものであるようにも思える。社会企業家は、高い道徳的意識を備えた人々である(彼らは、マックス・ウェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理」を文字通りに実践する、言わば現代のピューリタンである)。このような企業家が増加することは望ましいことである。しかし現状において彼らは少数であり、公共的活動を支援する側ではなく、支援を求める側にいる(John Elkington & Pamela Harrington, The Power of Unreasonable People, Harvard Business Press, 2008. 関根知美訳『クレイジー・パワー』英知出版、2008年)。少数の社会的企業に対して、彼らが現在取り組んでいる、主として人道的な活動以上の活動を求めることは、過大な要求であろう。それよりもむしろ、文化的活動の支援においては、社会における資本の大部分を構成する一般の営利企業、なかでも豊富な物理的資産を保有する大企業から、その社会的責任に応じた負担を引き出すことが望ましい。またこうした仕組みは、結果として社会企業家の活動を助けることになるだろう。企業の公益性を、少数のunreasonableな人々のミッションではなく、多数の、reasonableな企業活動とすることがここでの目的である。
通常、企業は競争に勝ち残るために内部の資源と情報をクローズにしている。もちろんこうした部分は今後もかなりの程度残存するだろう。すべてを無料の共有リソースに転換することは企業にとってまったく不合理である。しかし、共有にすることによって現在よりも自社の企業価値を高める部分が存在するはずである。それは部分的には共有経済の合理性によって、また他には共有経済の振興を促進する規制(緩和)政策によって推進されるだろう。
日本において個人の資産提供基盤は貧弱であり(大資産家が少なく、アメリカのような慈善モデルが通用しない)、他方で政府資産の利用には厳格な価値中立性が要求される。たとえばナイキパーク問題の基本的構図は、公有地である公園を資本が購入することで価値中立性が失われ、それまで無償の便宜を得ていた市民が排除されるというものであった。他方で企業は価値を財やサービスに変換する能力において優れており、土地や建物などの実物資産も沢山保持している。実際、企業が保有する資産の合計は政府のそれをはるかに上回る。そしてそれらは私有財産であるので、その利用方法に関して政府の財産の使用ほど厳格な手続きは要求されない。企業のインフラを公共的活動に一部提供するという考えは、通常は行政セクターに要求される厳格な価値中立性、無償性、説明責任を回避することができる。
この協働関係において、活動者やクリエイターは自分の活動が生み出す価値に対する若干の報酬を受け取り、企業はライセンスとプラットフォームの提供に対する見返りを、一部は消費者から、一部は税制上の優遇によって受け取り、そして一般消費者はコンテンツとプラットフォームの価値を無料で、または比較的安価な支払いで享受することになる。それがおよそ公共性と呼びうるものであるならば、特定のステイクホルダーが過剰な利潤を得ることは避けるべきだろう(ハイブリッド経済においては、当事者の一部が大儲けしないよう、「慎み(moderation)」をもつことが成功の秘訣であると言われる。Lawrence Lessig, Remix: Making Art and Commerce Thrive in the Hybrid Economy, Penguin, 2008, p. 235. 山形浩生訳『REMIX』翔泳社、2010年、225頁)。クリエイターはプラットフォームがあることではじめて創作活動が行えることを認識し、企業はプラットフォームの提供が企業の社会的名声を高めることを認識し、そして一般消費者はそのような協働構造により安価なサービスを享受できることを理解する。そのような認識に基づけば、互いが提供するもの(コンテンツ、プラットフォーム、資金)には平等な価値を認めることができる。そして多数の人々が容易にアクセスできる(easy to access)価格を設定することで、活動の裾野を広げることができる。
具体的な活動のあり方として、たとえば企業がコンテンツ製作環境の一部をとして市民に提供してそこで活動してもらうということもできる。具体的には、美術館などが行っている「アーティスト・イン・レジデンス」のやり方を用いて、書類選考などを経てアーティストに一定のリソースと製作環境を提供するなどの方法が挙げられるだろう。また無料の、または安価な料金による講習会の開催や展示、パフォーマンスの披露など、市民の自由な相互教育の場としても使用できるだろう。事業の種類によって提供されるプラットフォームは多様であって列挙することはできないし、プラットフォーム間の競争が存在すれば、そこから新たな構想が生み出されていくことが期待される。
企業のなすべきことは、コモンズの参加、企業自身の名声と知名度の上昇、事業の安定した継続の三つを同時に可能にするプラットフォームの構築である。それは必ずしも物理的なものでなくともよい。たとえば何もない空間(空き地や空室)を効果的に利用するためのルールだけでも可能である。契約に基づき、空間の使用者に対して一定の制約を与え、これによって企業のイメージ戦略に適した活動を実現する。もちろん市民はそこに参加してもしなくてもかまわない。魅力あるプラットフォームの提供者は人気を集めることができ、そこから一定の収益と、それ以上に知名度や名声を期待することができる。提供される空間は、本来の企業活動の隙間――「遊んでいる」リソース――である。もちろん、企業は本来の営利活動をある程度犠牲にしてプラットフォームを提供してもかまわない。それは採算性と企業の公共的価値の向上を秤にかけたうえで決定されるべきものである。
株主や投資家の役割は、商業的公共性を資本の側から支えることにある。彼らは企業の非営利部門の活動報告と収支報告を受け、株主総会で事業に意見を述べ、資本を売買して各事業を評価することで、この権力の抑制と均衡のメカニズムの一端を担う。現状において、社会企業家が株式公開によって経営のコントロールを失うことを危惧する傾向があるのとは対照的に(cf. Elkington & Harrington, op. cit, p.193-195. 邦訳289-293頁)、このモデルにおいては株主と株式市場が企業の価値を、その営業収益と社会的名声の側面から合理的に判断することが期待されている。
また商業的公共性の仕組みは、インターネットで現在主流となっている無料サービスの仕組みと異なることが明らかである。無料のサービスを広告収入によって運営する手法は、いまやどこででも見ることができる。しかし、われわれはすでにこの種の戦略にうんざりしている。派手な広告は、そのサービスが商業的動機によって運営されていることを否応なく明示する。また、利用者が「賢く」なるほど、広告の収益率は逓減するだろうし、それに対抗して広告をより巧妙に埋め込んだり、強力なアディクションに訴えたりすれば、それは有害サイトとほとんど見分けがつかないものになるだろう。他方、商業的公共性は、企業の公共活動部門を税制優遇(NPO法の準用)とプラットフォームの提供への小額の対価によって支えるものである。この方式なら、企業が広告主獲得に躍起にならずに済むし、コンテンツが広告に埋もれてしまうような状況も避けられる。商業的公共性のモデルにおいては、企業が当該事業に一定の採算性を見込めるため、参加者に他社の(しばしば「いかがわしい」)広告を見せる必要がない。それはコモンズから支持されるだろう。
さらに、こうした公共的な事業に企業が協力し、それが面白い「出来事」を生み出すならば、企業は莫大な費用をかけてマスメディアから広告枠を買わずとも、ジャーナリストの方から取材に来てくれる。そしてその事業が公共的な善であると報道されれば、企業にとってこの上ない“P. R.”(Public Relations)となるだろう。そうすれば、企業はCM枠や新聞の下部ではなく番組本編や本紙面に登場できる――しかも広告費なしで(こうした報道が活発かつ公正になされるかどうかは、市民メディアの充実と深く関係するだろう)。
世界的な競争圧力と目下の長期不況という状況のもと、法人税減税が議論されている。しかし、単に景気対策や国際競争の観点から企業を優遇するだけでは、適正な社会的負担の観点から批判が出るのは自然である。企業のステイクホルダーでない者にとって、法人税減税の恩恵はきわめて間接的で、それを自分の利益と考えるには限界がある。こうした批判は自由主義経済学から見れば粗野そのもの(「所得税減税が全体のパイを増加させる仕組みを理解できない愚か者」)であろうが、しかし政治の側から考えれば、個々人が暮らし向きの向上を実感できるかどうかは非常に重要である。他方、企業に公共性を要求する一方で、その見返りとして公益部門の減税または資産に対する非課税措置を行えば、負担と利得のバランスが保たれる。
これは言わば「合法的なスクウォッティング」の構想である。合法性はしばしば「リーガリズム」や体制順応主義のような害悪を生み出すが、それでも重要な社会的価値のひとつである。なぜならそれは社会の多数者を動かすために必要不可欠な道徳的資源だからである。それは社会道徳と人々の正義感覚に影響を与える。企業にとって重要なことは、自己の行為が明白な善だということの保証である。社会起業家のケースではよくあるように、個人的な信念や党派的価値は一部の顧客の反発を招き、それがしばしば損失を生み出す。多数者を相手にしなければならない「普通の」企業はそうしたリスクを取らない。だから通常は脱政治化された、「明白に善」とされている慈善事業のようなものだけを行う。しかし「明白な善」というマジノ線戦略を採用しているかぎり活動は拡大しない。「善」の概念の拡張、またさまざまな「善」の構想のあいだの競争が必要である。
「コモンズ事業」とでも呼ぶべき、拡大されたCSRの理念によって、企業は市民活動の支援が社会的善であるという指令を受け取り、それを促進する。日本の消費者文化および「企業文化」においては、企業が促進する善に人々は比較的共感しやすい。特に大企業は一般に高い社会的信用によって成り立っており、その指令は政治的に安全なものとして広く受け入れられやすい。また日本の、しばしば「臣民型」と言われる政治文化においては、企業の指令は政党や市民団体、さらには政府の指令よりも抵抗が少ない。これは一種の道徳的レバレッジである。すなわち、社会的信用という資本を持つアクターに指令を媒介させ、その普及力を何倍にも高めるという戦略である。その支点となるのは企業の公共性である。この「新しい公共」は、自由主義の装いのもと、民主的創造性の文化を涵養することを企図している。
*
ガブリエル・アーモンドによれば、公共政策学の成立は1960年代のアメリカ政治学にあると言われるが、もちろん公共政策はそれ以前から行われてきた。とりわけ大恐慌以降のニュー・ディール政策は、アメリカ史上まれにみる政府が積極的に市場を管理した時期であると言われるし、第二次大戦中に生産・攻撃・物資補給の戦略的計画を作成するための科学的管理法であるオペレーションズ・リサーチ(OR)などもこの系譜を構成するものだろう。
そして現在の公共経営論の主流は新公共経営(NPM, New Public Management)と呼ばれる。これは1980年代イギリスのサッチャー政権が、混合経済にもとづく福祉国家体制を徹底的に改革するために行ったアイデアがもとになっている。
サッチャー政権は、1980年代半ば以降、行政機関の担っている機能のうち政策形成以外の機能、とくに実施業務(運転免許・自動車登録、気象観測、政府刊行物の印刷・刊行など)を、当該行政機関から切り離し、それを新たに設立するエージェンシーと命名される組織体にゆだね、それらに高い自律性を認めると同時に、民間企業と同様の効率的な運営を要求する、エージェンシー化を行った。行政機関を切りきざむ改革であるだけに、当初、官僚の側からの激しい抵抗にあって、途中で挫折するであろうと予測されていた。しかし、意外なことに、1995年までに100を超える部局がエージェンシー化され、公務員の5分の4がエージェンシーに勤務するようになるなど、かなり高い成果をあげた。(伊藤光利ほか『政治過程論』有斐閣、2000年、258頁)
NPMの基本的な考え方はアウトソーシングである。第一に、公共サービスは行政自体により執行されるのでなく、政策決定者=「主人」は「代理人(agency)」と契約を結び、代理人が実施の一部始終を管理する。その契約は成果主義で、達成方法には柔軟性が与えられている。これは行政活動に市場原理を持ち込むこと、行政の執行部門をアウトソーシング(外部委託)すること、行政組織をエイジェンシー(独立行政法人)とすること、などの行政改革の原理となっている。第二に、NPMは行政組織の階層性を廃し、「ネットワーク理論」によって多様な組織の間に柔軟な関係性(必要に応じて必要なものを効率的な組織から調達)を構築する。政府は「管制高地(commanding heights)」として、意思決定および最適なパフォーマンスのための指令(執行ネットワークの編制と業務の分配)を行う。
他方でNPMの問題点として、「官から民へ」のスローガンが、採算性の低い公共サービスを切り捨てる口実となってきたことが挙げられる。たとえば国立大学への補助金の削減の根拠は、自立した財政を原則とする独立行政法人への移行に求められる。またボランティアの美名の下に人々を動員して「タダ働き」を正当化するという批判もある。それでも現在の苦しい財政事情のもと、非政府セクターの活用は徐々に国民的合意を形成しつつあるように見える。鳩山内閣の施政方針演説において「新しい公共」のスローガンが打ち出され、市民の社会参加に基づく「市民社会セクター」の活性化が謳われたことは記憶に新しい。
他方、商業的公共性のモデルは、NGOや独立行政法人によるサービス提供の構想とは異なる。NGOが主として家庭(個人)と行政の協働モデルに基づくのに対して、商業的公共性はハーバーマスの『公共性の構造転換』の中で描かれた18世紀の市民社会と同じく、家庭(個人)と市場(とりわけ企業体)との間にまたがっている。つまり、基本的には労働市場や財市場を構成するアクターと同じである。ただしその結合形態、および政府による規制がより重要な役割を果たす点で異なっている。通常の市場において、価値を生産するのは企業であり、それを消費するのが個人または家庭である。他方、商業的公共性モデルでは価値を生産・消費するのはいずれも個人であり、企業セクターは価値の生産を可能にする条件の整備と、生産された価値を流通・媒介するプラットフォームとしての役割を与えられる。
「企業の公共的役割」に関して、ケインズは早くも1926年に『自由主義の終焉』において、次のように指摘している。
多くの場合、支配と組織の単位の理想的な規模は、個人と近代国家の中間のどこかにある、と信じている。それゆえに、国家の枠内に半自治的組織の成長を図り、その存在を容認することこそ進歩である、と私は考えたい。〔中略〕私の提案は、分権的自治という中世的概念への回帰であるとも言えよう。しかし、とにかく、イギリスにおいては、「法人」はいまだに重要性を失ってはおらず、しかも、わが国の諸制度とよく調和した一種の管理様式である。〔中略〕最近の数十年間の変化のうち最も興味をそそる、しかし、あまり注目されていない発展は、大企業がそれ自身を社会化する傾向である。大企業……が成長してある一定点に到達すると、資本の所有者すなわち株主が経営からほとんど完全に分離され、その結果、多額の利潤を得ようとして個人が直接経営に示す関心は、まったく副次的なものになってしまう。この段階になると、経営によって払われる考慮は、組織の一般的安定と名声のほうにずっと傾くことになる。〔……〕とりわけ、会社の規模が大きいか、ないしは半独占的地位を占める場合には、公衆の目につきやすく、また、社会から攻撃を受けやすいため、なおさらそうである。(John Maynard Keynes, The End of Laissez-Faire, Hogarth Press, 1926, pp. 41-43.『世界の名著 ケインズ・ハロッド』中央公論社、1971年、152-153頁)
現在、日本においてCSRとして認定される企業の社会貢献活動の多くは慈善の形態をとっている。そこにおいて支援の対象となる事業は、難民支援、熱帯雨林保全、障害者自立支援など、「慈善性がハッキリしているもの」が多数を占めており、逆に言えば、この国の多数を占める人々と直接の生活上の接点がほとんどないものに集中していることを意味している。もちろんこれらは重要な活動であり、同時に企業のイメージ向上にも一定の貢献をなしている。しかし、企業が真に公共的な存在となるためには、どこにでもいる「普通の人々」との具体的な結びつきが不可欠ではないだろうか。地域に根ざした経済は、地域に根ざした企業から生まれる。必要なのはおそらく、CSRを慈善の枠組から解放して、より広い概念に置き換えること、すなわち社会的責任概念の拡張である。
ここでこの「広義のCSR」を、「企業による市民活動やコミュニティへの支援」と定義しておこう。こうした定義には先例がある。国際標準化機構が現在準備しているISO26000の表題は「社会的責任に関する手引」である。
序文
世界中の組織及びそのステイクホルダーは,社会的に責任ある行動の必要性,及び社会的に責任ある行動による利益をますます強く認識するようになっている。社会的責任の目的は,持続可能な開発に貢献することである。組織が活動する社会,及び組織が環境に与える影響と関係する組織のパフォーマンスは,組織の全体的なパフォーマンス及び有効な活動を続ける能力を測定する上で不可欠な部分となっている。これは,一つには,健全な生態系,社会的平等及び組織統治の確保の必要性に対する認識の高まりを反映するものである。長い目で見れば,すべての組織の活動は世界の生態系の健全性に依存している。組織は,顧客又は消費者,労働者1及び労働組合,構成員,コミュニティ,非政府組織,学生,資本家,資金寄与者,投資家,会社など,さまざまなステイクホルダーによるこれまで以上に厳しい監視の下におかれている。組織の社会的責任パフォーマンスの認識及び現状は,特に次の事項に影響を及ぼすことがある。
― 競争上の優位性
― 組織の評判
― 労働者又は構成員,顧客,取引先又は使用者を引き付け,留めておく能力
― 従業員のモラル,コミットメント及び生産性の維持
― 投資家,資金寄与者,スポンサー及び金融界の見解
― 会社,政府,メディア,供給業者,同業者,顧客及び組織が活動するコミュニティとの関係
(DRAFT INTERNATIONAL STANDARD ISO/DIS 26000 (2009.9.14 – 2010.2.14), “Guidance on social responsibility”: http://iso26000.jsa.or.jp/_files/doc/2009/iso26000_dis.pdf)
他方、「企業の公共的役割」とは、「社会的企業(social entrepreneurship)」の精神を指すものであるようにも思える。社会企業家は、高い道徳的意識を備えた人々である(彼らは、マックス・ウェーバーの言う「プロテスタンティズムの倫理」を文字通りに実践する、言わば現代のピューリタンである)。このような企業家が増加することは望ましいことである。しかし現状において彼らは少数であり、公共的活動を支援する側ではなく、支援を求める側にいる(John Elkington & Pamela Harrington, The Power of Unreasonable People, Harvard Business Press, 2008. 関根知美訳『クレイジー・パワー』英知出版、2008年)。少数の社会的企業に対して、彼らが現在取り組んでいる、主として人道的な活動以上の活動を求めることは、過大な要求であろう。それよりもむしろ、文化的活動の支援においては、社会における資本の大部分を構成する一般の営利企業、なかでも豊富な物理的資産を保有する大企業から、その社会的責任に応じた負担を引き出すことが望ましい。またこうした仕組みは、結果として社会企業家の活動を助けることになるだろう。企業の公益性を、少数のunreasonableな人々のミッションではなく、多数の、reasonableな企業活動とすることがここでの目的である。
通常、企業は競争に勝ち残るために内部の資源と情報をクローズにしている。もちろんこうした部分は今後もかなりの程度残存するだろう。すべてを無料の共有リソースに転換することは企業にとってまったく不合理である。しかし、共有にすることによって現在よりも自社の企業価値を高める部分が存在するはずである。それは部分的には共有経済の合理性によって、また他には共有経済の振興を促進する規制(緩和)政策によって推進されるだろう。
日本において個人の資産提供基盤は貧弱であり(大資産家が少なく、アメリカのような慈善モデルが通用しない)、他方で政府資産の利用には厳格な価値中立性が要求される。たとえばナイキパーク問題の基本的構図は、公有地である公園を資本が購入することで価値中立性が失われ、それまで無償の便宜を得ていた市民が排除されるというものであった。他方で企業は価値を財やサービスに変換する能力において優れており、土地や建物などの実物資産も沢山保持している。実際、企業が保有する資産の合計は政府のそれをはるかに上回る。そしてそれらは私有財産であるので、その利用方法に関して政府の財産の使用ほど厳格な手続きは要求されない。企業のインフラを公共的活動に一部提供するという考えは、通常は行政セクターに要求される厳格な価値中立性、無償性、説明責任を回避することができる。
この協働関係において、活動者やクリエイターは自分の活動が生み出す価値に対する若干の報酬を受け取り、企業はライセンスとプラットフォームの提供に対する見返りを、一部は消費者から、一部は税制上の優遇によって受け取り、そして一般消費者はコンテンツとプラットフォームの価値を無料で、または比較的安価な支払いで享受することになる。それがおよそ公共性と呼びうるものであるならば、特定のステイクホルダーが過剰な利潤を得ることは避けるべきだろう(ハイブリッド経済においては、当事者の一部が大儲けしないよう、「慎み(moderation)」をもつことが成功の秘訣であると言われる。Lawrence Lessig, Remix: Making Art and Commerce Thrive in the Hybrid Economy, Penguin, 2008, p. 235. 山形浩生訳『REMIX』翔泳社、2010年、225頁)。クリエイターはプラットフォームがあることではじめて創作活動が行えることを認識し、企業はプラットフォームの提供が企業の社会的名声を高めることを認識し、そして一般消費者はそのような協働構造により安価なサービスを享受できることを理解する。そのような認識に基づけば、互いが提供するもの(コンテンツ、プラットフォーム、資金)には平等な価値を認めることができる。そして多数の人々が容易にアクセスできる(easy to access)価格を設定することで、活動の裾野を広げることができる。
具体的な活動のあり方として、たとえば企業がコンテンツ製作環境の一部をとして市民に提供してそこで活動してもらうということもできる。具体的には、美術館などが行っている「アーティスト・イン・レジデンス」のやり方を用いて、書類選考などを経てアーティストに一定のリソースと製作環境を提供するなどの方法が挙げられるだろう。また無料の、または安価な料金による講習会の開催や展示、パフォーマンスの披露など、市民の自由な相互教育の場としても使用できるだろう。事業の種類によって提供されるプラットフォームは多様であって列挙することはできないし、プラットフォーム間の競争が存在すれば、そこから新たな構想が生み出されていくことが期待される。
企業のなすべきことは、コモンズの参加、企業自身の名声と知名度の上昇、事業の安定した継続の三つを同時に可能にするプラットフォームの構築である。それは必ずしも物理的なものでなくともよい。たとえば何もない空間(空き地や空室)を効果的に利用するためのルールだけでも可能である。契約に基づき、空間の使用者に対して一定の制約を与え、これによって企業のイメージ戦略に適した活動を実現する。もちろん市民はそこに参加してもしなくてもかまわない。魅力あるプラットフォームの提供者は人気を集めることができ、そこから一定の収益と、それ以上に知名度や名声を期待することができる。提供される空間は、本来の企業活動の隙間――「遊んでいる」リソース――である。もちろん、企業は本来の営利活動をある程度犠牲にしてプラットフォームを提供してもかまわない。それは採算性と企業の公共的価値の向上を秤にかけたうえで決定されるべきものである。
株主や投資家の役割は、商業的公共性を資本の側から支えることにある。彼らは企業の非営利部門の活動報告と収支報告を受け、株主総会で事業に意見を述べ、資本を売買して各事業を評価することで、この権力の抑制と均衡のメカニズムの一端を担う。現状において、社会企業家が株式公開によって経営のコントロールを失うことを危惧する傾向があるのとは対照的に(cf. Elkington & Harrington, op. cit, p.193-195. 邦訳289-293頁)、このモデルにおいては株主と株式市場が企業の価値を、その営業収益と社会的名声の側面から合理的に判断することが期待されている。
また商業的公共性の仕組みは、インターネットで現在主流となっている無料サービスの仕組みと異なることが明らかである。無料のサービスを広告収入によって運営する手法は、いまやどこででも見ることができる。しかし、われわれはすでにこの種の戦略にうんざりしている。派手な広告は、そのサービスが商業的動機によって運営されていることを否応なく明示する。また、利用者が「賢く」なるほど、広告の収益率は逓減するだろうし、それに対抗して広告をより巧妙に埋め込んだり、強力なアディクションに訴えたりすれば、それは有害サイトとほとんど見分けがつかないものになるだろう。他方、商業的公共性は、企業の公共活動部門を税制優遇(NPO法の準用)とプラットフォームの提供への小額の対価によって支えるものである。この方式なら、企業が広告主獲得に躍起にならずに済むし、コンテンツが広告に埋もれてしまうような状況も避けられる。商業的公共性のモデルにおいては、企業が当該事業に一定の採算性を見込めるため、参加者に他社の(しばしば「いかがわしい」)広告を見せる必要がない。それはコモンズから支持されるだろう。
さらに、こうした公共的な事業に企業が協力し、それが面白い「出来事」を生み出すならば、企業は莫大な費用をかけてマスメディアから広告枠を買わずとも、ジャーナリストの方から取材に来てくれる。そしてその事業が公共的な善であると報道されれば、企業にとってこの上ない“P. R.”(Public Relations)となるだろう。そうすれば、企業はCM枠や新聞の下部ではなく番組本編や本紙面に登場できる――しかも広告費なしで(こうした報道が活発かつ公正になされるかどうかは、市民メディアの充実と深く関係するだろう)。
世界的な競争圧力と目下の長期不況という状況のもと、法人税減税が議論されている。しかし、単に景気対策や国際競争の観点から企業を優遇するだけでは、適正な社会的負担の観点から批判が出るのは自然である。企業のステイクホルダーでない者にとって、法人税減税の恩恵はきわめて間接的で、それを自分の利益と考えるには限界がある。こうした批判は自由主義経済学から見れば粗野そのもの(「所得税減税が全体のパイを増加させる仕組みを理解できない愚か者」)であろうが、しかし政治の側から考えれば、個々人が暮らし向きの向上を実感できるかどうかは非常に重要である。他方、企業に公共性を要求する一方で、その見返りとして公益部門の減税または資産に対する非課税措置を行えば、負担と利得のバランスが保たれる。
*
これは言わば「合法的なスクウォッティング」の構想である。合法性はしばしば「リーガリズム」や体制順応主義のような害悪を生み出すが、それでも重要な社会的価値のひとつである。なぜならそれは社会の多数者を動かすために必要不可欠な道徳的資源だからである。それは社会道徳と人々の正義感覚に影響を与える。企業にとって重要なことは、自己の行為が明白な善だということの保証である。社会起業家のケースではよくあるように、個人的な信念や党派的価値は一部の顧客の反発を招き、それがしばしば損失を生み出す。多数者を相手にしなければならない「普通の」企業はそうしたリスクを取らない。だから通常は脱政治化された、「明白に善」とされている慈善事業のようなものだけを行う。しかし「明白な善」というマジノ線戦略を採用しているかぎり活動は拡大しない。「善」の概念の拡張、またさまざまな「善」の構想のあいだの競争が必要である。
「コモンズ事業」とでも呼ぶべき、拡大されたCSRの理念によって、企業は市民活動の支援が社会的善であるという指令を受け取り、それを促進する。日本の消費者文化および「企業文化」においては、企業が促進する善に人々は比較的共感しやすい。特に大企業は一般に高い社会的信用によって成り立っており、その指令は政治的に安全なものとして広く受け入れられやすい。また日本の、しばしば「臣民型」と言われる政治文化においては、企業の指令は政党や市民団体、さらには政府の指令よりも抵抗が少ない。これは一種の道徳的レバレッジである。すなわち、社会的信用という資本を持つアクターに指令を媒介させ、その普及力を何倍にも高めるという戦略である。その支点となるのは企業の公共性である。この「新しい公共」は、自由主義の装いのもと、民主的創造性の文化を涵養することを企図している。
April 26, 2010
講義の公的使用(2)
April 21, 2010
講義の公的使用について
最近のUstreamの流行は、完全に作りこまれていない映像や音声が、すべての人ではないにせよ、一部の人々にとっては十分に視聴に耐えうるものであることを明らかにしたように思う。また「ダダ漏れ」という言葉が伝える独特のライブ感は、それが通常のマスメディア視聴とは違った楽しみをわれわれに与えてくれることも伝えてくれたのではないだろうか。
大学の講義はどうか。それは特定の学生に向かって講師が毎週行うトークである。テレビ番組などと違って講師がひとりで行うものなので、これに多大な資源を投入することはできない。また出席者のもつ知識や学習段階を意識して話をするために、時に説明が冗長になったり、逆に不親切になったりすることがある。
またそもそも大学講師の多くは特別の教授法や話術の訓練を受けているわけではない。仮にそれが面白いと感じられるとすれば、それは話者の技量というよりも、それを聞く人の興味によるところが大きいだろう。
これは言い訳なのか。講義は一般の視聴には耐えられないものなのか。なぜ多くの学生にとって講義は眠いものなのか。多くの教室で他の人々の目に触れることなく行われている講義を公開して吟味してみる必要はあるのか。
私は、大学の日常的な講義(特別講義その他を除く一般的教育)がマスメディアの放送に適しているとは思っていない。それはむしろ一部の人に視聴されるオンデマンドやストリーミングと相性が良いように思える。そうしたレベルにおいて自分の講義にどのような意味や使用価値があるのか。これを考えてみたい。昨年度に試し撮りした自分の講義の音声とレジュメを以下にアップするので、これが講義という資源の公的活用に関する議論の肴になればと思う。
もちろん恥晒しであるのは覚悟の上。公開のもう一つの意味は授業改善。他の人の普段の講義を聴く機会がなかなかないので、授業改善の話をしても抽象的な議論に終始することが多い。現物を出せば話がより具体的になるだろう。
■ 2009年度 専修大学政治学(全学部向け教養講義、100人以上の大教室)
<テーマ>
政治的自由論の現在
<講義の目的・内容>
政治の存在理由はしばしば自由の達成と保全にあると言われる。歴史上、数多くの人々がこの「自由」の旗印の下に集い、議論し、政府に異議申し立てを行い、時に武器を手に革命を遂行した。自由はきわめて強力な政治的理念である。だが、一見、誰の目にも明らかと思えるこの言葉が実際に何を意味しているのかと問えば、その答えは一様ではない。自由とは自分の行為が物理的に妨害されないことなのか。それとも自由はそうした行為への「機会」ではなく、むしろ行為の「能力」を指すのか。奴隷が他者への服従であるとすれば、自由は他者を支配することなのか、等々。議論は錯綜しており、単純な図式を拒む。
本講義では政治理論および政治思想史の観点から、政治的自由論の伝統とその現在について考察する。自由は欧米の政治的伝統の中心を占める理念であり、自由をめぐる多様な議論を辿ることは、西洋政治思想の全体像を知ることに等しい。政治学の古典を読み解き、基本的な政治的理念について考えることを通じて、混迷する現代社会における個と共同体のあり方を理解し、進むべき道を見出す一助としたい。
■ 自由と共和主義(3)『公共性の構造転換』
・講義音声[WMAファイル](簡易録音につき、音量が小さく聞きづらいこと、あらかじめご了承ください。最初に大きなノイズが入るので音量に注意してください)【2011.8 公開終了しました】
・レジュメ[PDF]
※ 以上の資料については、個人的な視聴・利用以外の目的での使用はご遠慮ください。
・昨年度使用教科書はこちら
大学の講義はどうか。それは特定の学生に向かって講師が毎週行うトークである。テレビ番組などと違って講師がひとりで行うものなので、これに多大な資源を投入することはできない。また出席者のもつ知識や学習段階を意識して話をするために、時に説明が冗長になったり、逆に不親切になったりすることがある。
またそもそも大学講師の多くは特別の教授法や話術の訓練を受けているわけではない。仮にそれが面白いと感じられるとすれば、それは話者の技量というよりも、それを聞く人の興味によるところが大きいだろう。
これは言い訳なのか。講義は一般の視聴には耐えられないものなのか。なぜ多くの学生にとって講義は眠いものなのか。多くの教室で他の人々の目に触れることなく行われている講義を公開して吟味してみる必要はあるのか。
私は、大学の日常的な講義(特別講義その他を除く一般的教育)がマスメディアの放送に適しているとは思っていない。それはむしろ一部の人に視聴されるオンデマンドやストリーミングと相性が良いように思える。そうしたレベルにおいて自分の講義にどのような意味や使用価値があるのか。これを考えてみたい。昨年度に試し撮りした自分の講義の音声とレジュメを以下にアップするので、これが講義という資源の公的活用に関する議論の肴になればと思う。
もちろん恥晒しであるのは覚悟の上。公開のもう一つの意味は授業改善。他の人の普段の講義を聴く機会がなかなかないので、授業改善の話をしても抽象的な議論に終始することが多い。現物を出せば話がより具体的になるだろう。
■ 2009年度 専修大学政治学(全学部向け教養講義、100人以上の大教室)
<テーマ>
政治的自由論の現在
<講義の目的・内容>
政治の存在理由はしばしば自由の達成と保全にあると言われる。歴史上、数多くの人々がこの「自由」の旗印の下に集い、議論し、政府に異議申し立てを行い、時に武器を手に革命を遂行した。自由はきわめて強力な政治的理念である。だが、一見、誰の目にも明らかと思えるこの言葉が実際に何を意味しているのかと問えば、その答えは一様ではない。自由とは自分の行為が物理的に妨害されないことなのか。それとも自由はそうした行為への「機会」ではなく、むしろ行為の「能力」を指すのか。奴隷が他者への服従であるとすれば、自由は他者を支配することなのか、等々。議論は錯綜しており、単純な図式を拒む。
本講義では政治理論および政治思想史の観点から、政治的自由論の伝統とその現在について考察する。自由は欧米の政治的伝統の中心を占める理念であり、自由をめぐる多様な議論を辿ることは、西洋政治思想の全体像を知ることに等しい。政治学の古典を読み解き、基本的な政治的理念について考えることを通じて、混迷する現代社会における個と共同体のあり方を理解し、進むべき道を見出す一助としたい。
■ 自由と共和主義(3)『公共性の構造転換』
・講義音声[WMAファイル](簡易録音につき、音量が小さく聞きづらいこと、あらかじめご了承ください。最初に大きなノイズが入るので音量に注意してください)【2011.8 公開終了しました】
・レジュメ[PDF]
※ 以上の資料については、個人的な視聴・利用以外の目的での使用はご遠慮ください。
・昨年度使用教科書はこちら










