2005年12月22日
草鞋酒(わらじざけ)
婚礼の祝いごとや葬式の弔いごとなどにきた客が、帰ろうとして玄関で草鞋をはいているとき、さらにもう一杯の酒をすすめることをいう。海府方面では一升徳利で、茶碗になみなみついで飲ませることが、なにより歓待の意を表すものとされていた。ワラジザケは、両方のワラジ分だといい、飯茶碗に二杯ずつすすめられた。
【参考文献】山本修之助『佐渡民俗ことば事典』、浜口一夫『佐渡びとの一生』(未来社)
【執筆者】浜口一夫
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
渡辺七十郎(わたなべしちじゅうろう)
【生没】一八八三ー(没年不詳)
明治十六年二見村米郷の資産家渡辺家に生まれ、のち相川町羽田に住む。明治二十九年(一八九六)第四銀行相川支店の閉鎖に伴って、島民による銀行設立の動きが起こるとその発起人となり、翌三十年九月一日の相川銀行設立に努力した。同四十二年に相川銀行が取付け騒ぎを起こすと、翌四十三年専務取締役に就任して、銀行の再建を果たした。大正七年(一九一八)自動車を購入し、同十年五月二十八日、佐渡で最初の乗合免許を受けて佐渡自動車商会を設立、両津ー河原田ー相川と両津ー新町ー河原田間の、乗合自動車事業を開始した。同十二年には、両津ー馬首間の路線拡張を機会に社名を扶桑商会と改称し、昭和六年(一九三一)六月七日、扶桑商会・丸一自動車・前佐渡自動車の三社が合併して、佐州合同自動車株式会社が設立されると、社長に就任した。翌七年、会社の主導権争いに敗れて社長の席を去ったが、同八年十二月に社名を佐渡乗合自動車株式会社と改称し、翌九年七月再び社長に就任、「佐渡の自動車王」と言われた。
【関連】新潟交通佐渡営業所(にいがたこうつうさどえいぎょうしょ)・相川銀行(あいかわぎんこう)
【参考文献】『新潟交通二十年史』(新潟交通株式会社)、『第四銀行百年史』、高屋次郎『佐渡名鑑』
【執筆者】石瀬佳弘
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
2005年11月11日
若林玄益(わかばやしげんえき)
【生没】一八四一ー九五
天保十二年八月二十八日、夷町(現両津市夷)に生まれる。父は医師若林竹塢、母は二宮村鍛冶町の石塚甚五右衛門家の出である。諱は威、字が巌、朔汀と号した。万延元年(一八六○)三月京都に上り、医術を中山摂津守、儒学を大沢鼎斎、詩文を遠山雲如に学んだ。文久二年春帰郷、六月より医業を開業するかたわら、子弟の教育を行った。明治五年(一八七二)に歌代郷学校を設立して教師となり、同十年、県より漢方内科医の免許状を下付された。翌十一年、夷町の本間金五郎らと汽船を傭い、新潟・夷航路に就航させたが失敗した。明治十三年四月五日、新潟で開催された第一回国会開設懇望協議会へ出席し、以後自由民権運動の中心となって活躍、同十五年北辰自由党に入党した。明治十八年五月、相川の秋田藤十郎や梅津の市橋藤蔵らと越佐汽船会社を設立し、度津丸を新潟・夷航路に就航させた。また教育にも尽力し、明治十三年には日遷校(両津小学校の前身)を設立して教師となり、かたわら家塾も続けて、同二十六年頃には、北一輝も通って漢文を学んでいる。明治二十八年三月三日病没、墓所は湊の勝広寺にある。
【関連】佐渡の自由民権運動(さどのじゆうみんけんうんどう)・佐渡汽船会社(さどきせんかいしゃ)
【参考文献】若林甫舟『若林玄益翁履歴』、『両津町史』
【執筆者】石瀬佳弘
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
2005年11月04日
ワカメ(わかめ)
褐藻類の一種で、アイヌワカメ科に分類されているが、コンブ類に近い。北海道から九州や朝鮮半島まで、至るところの浅海の岩上に生息する。大きなものは、長さ一メートルにもなり、中肋の両側に幅広い葉が、羽状にたくさん広がっている。茎の両側にできるひだは「めかぶ」(芽株)と呼ばれ、ここが胞子を作る胞子葉である。春先に、めかぶから出る遊走子をロープなどに着生生育させ、これを養殖ワカメに利用する。天然ワカメを豊産する相川沿岸でも、養殖は盛んである。収獲は、五月を中心に春である。ワカメ(若布・和布)の名の通り、若い個体が日本人の食事に欠かせない食品となる。汁種、酢の物を主体に、めかぶのとろろや刻みわかめも喜ばれる。
【参考文献】『図説 佐渡島』(佐渡博物館)
【執筆者】本間義治
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
若宮遺跡(わかみやいせき)
真野湾に面した四日町砂丘の後背地で、真野町大字四日町字若宮に位置する復合遺跡である。標高は約四メートル、遺跡の範囲は東西約八○メートル、南北約一二○メートルで、弥生時代中期中葉から後期にかけての玉作遺跡にはじまる。昭和二十四年十一月に佐渡高等学校郷土部、昭和二十八年九月に新潟県教育委員会、昭和四十二年八月と四十三年八月に真野町教育委員会による発掘調査がある。弥生土器は、櫛描文をともなう壷・甕が多く、縄目文をもつ弥生土器もみられ、また、刷毛目整形の土器も出土している。土製品では紡錘車・土錘がある。玉類では勾玉・管玉・角玉・臼玉があり、石器では石鋸・砥石・石鏃・石斧・石錘・敲石・凹石・紡錘車などが出土している。弥生時代以降の遺物では、古式土師器・奈良時代から平安時代にかけての土師器・須恵器・ふいご羽口・かまど・墨書土器(周・万・千・百・十・三・一・伯・寺・成・衙・上・×・○○・キキ)、和銅開珎・承和昌宝・延喜通宝・乾元大宝の皇朝十二銭、布目瓦・粗鏡・鉄器・鉄滓などや、井戸枠(二基)の出土もある。また、中世陶磁器片・板石塔婆・渡来銭(北宋銭)も出土している。若宮遺跡周辺の四日町砂丘地一帯には、四日町新田遺跡・大願寺遺跡・四日町遺跡・高野遺跡・四日町上遺跡・四日町川端遺跡などの遺跡が広範囲にわたって展開している。古墳時代以降の若宮遺跡をそれらの遺跡のなかでとらえなければならなく、性格を特定づけることは困難であるが、佐渡国府に関する性格をもつ遺跡であることは間違いない(特に皇朝十二銭や布目瓦の出土により、氏寺の存在など)。
【参考文献】本間嘉晴「佐渡原始文化に対する二、三の考察」(『上代文化』第二十輯)、山本仁「若宮遺跡発掘調査報告」(『佐渡国府緊急調査報告書1』真野町教育委員会)、佐渡考古歴史学会「若宮遺跡の発掘調査報告」(『佐渡国府緊急調査報告書2』真野町教育委員会)
【執筆者】計良勝範
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
2005年11月03日
割間歩(われまぶ)
青盤脈をその西側でとらえたもの、諏訪間歩・間の山の諸間歩がこれに属する。慶長九年(一六○四)には、『年代記』に記事が見える。慶長十三年、味方但馬が割間歩を稼いだが、やがて豊部蔵人が稼ぐ。元和四年、豊部が排水の術なく割間歩を放棄すると、そのあと再び味方が割間歩を引き受けた。味方はスポン樋を用いて水を抜いたが、元和八年には、諏訪間歩から割間歩に向けて、高さ一丈五尺、横一丈三尺、長さ一九○間の水貫坑道を切った。その費用は銀一一二○貫匁であった。さらに寛永三年には、水金の沢に四八○間の坑道を穿ったが、竣功は寛永十五年であった。また明暦元年(一六五五)の『佐渡風土記』には、水学者宗甫が味方但馬に招かれて来国し、水上輪(アルキメデスポンプ)八○艘をつくり、排水に成功したとある。しかし永続せず、万治三年(一六六○)には割間歩は御直山となった。
【関連】味方但馬(みかたたじま)・水上輪(すいしょうりん)
【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』
【執筆者】田中圭一
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
渡辺湖畔(わたなべこはん)
【生没】一八八六ー一九六○
歌人・俳人・実業家。本名林平、のち金左衛門。明治十九年七月一日畑野町に生まれ、小学校卒業以後は、羽茂の美濃部禎について国漢を学んだ。家業の呉服商を営む一方、三○歳で佐渡電灯会社の社長に就任する実業家であったが、十代の頃から短歌に親しみ、山田花作主宰の同人誌「わかな舟」や、花作が選者をつとめる「新潟新聞」に寄稿した。また与謝野鉄幹主宰の「明星」にも参加し、作品の発表だけでなく、大正十三年(一九二四)八月と、昭和九年(一九三四)十一月の両度にわたって、与謝野夫妻を佐渡に招くなど、生涯にわたって親密に交際した。外にも詩人・彫刻家の高村光太郎や、画家の石井柏亭らを自宅に逗留させるなど、数多くの歌人・俳人・小説家との交際をもつ、芸術一般の理解者でもあった。さらに昭和十年からは、「彰」と号して「東華」によって漢詩を発表しつづけ、昭和二十年代からは、古半の号で俳句に転じた。著書に、歌集『草の葉』『若き日の祈祷』遺稿集『野思幽夢』『渡辺湖畔遺稿集』がある。昭和三十五年九月十六日没。
【参考文献】渡辺湖畔『草の葉』(天弦堂書店)、渡辺栄太郎『渡辺湖畔遺稿集』、酒井友二「佐渡歌壇史抄」(『佐渡郷土文化』六六号)
【執筆者】酒井友二
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
度津神社(わたつじんじゃ)
度津神社は羽茂町飯岡にあって、延喜式(九二七)神明帳に載る、式内社の筆頭神社なので、佐渡の「一の宮」とされてきた。祭神は五十猛命。素盞鳴尊の御子で、御父神と共に朝鮮に渡って来られ、航海・植林の神とされる。神社は、羽茂川を三キロ程遡った所にあるが、羽茂平野開拓の祖神として、遡航してきたと神話はいい、社殿は元、神体山の妹背山を背にしていたと伝えられる。現在地に遷座したのは、文明二年(一四七○)の水害によるといわれる。そのとき、羽茂城主勧請の八幡宮の境内へ移り、そのままになっているという。四月二十三日の祭礼に奉納される流鏑馬は、もともとは八幡宮の奉納神事だったものである。明治四年に国幣小社となり、宮司以下の神職が常置され、圓山溟北・美濃部 などの知識人が赴任して、地域文化に大きく貢献した。昭和十二年には、社殿が造営された。境内には、博物館相当の「佐渡植物園」や、ゆかりの歌碑・句碑等が多い。
【参考文献】『羽茂町誌』、矢田求他『平成佐渡神社誌』
【執筆者】藤井三好
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
和田十郎左衛門(わだじゅうろうざえもん)
【生没】(生・没年不詳)
あまり知られていないが、鉱山の有力山師の一人。武門の出らしく「佐渡奉行支配 山師 和田與太郎 由緒書」によると、先祖は大和(奈良)の筒井家の家臣で、三郎兵衛を称した。父の三十郎と父子ともに浪人して、本国の山城(京都)にひきこもり、元和元年(一六一五)に来島し、同五年鎮目奉行のとき山師に召抱られ、蔵米一○○俵を給される。代々山師職で、幕末まで相川に住んでいた。二代目与右衛門(元禄六年六月没)は、高運と号した。主要鉱床の割間歩の再興を願って、度々若林六郎左衛門に訴状を出し、投獄の上七年間の閉門を命じられた。寛文九年(一六六九)に洪水の対策で入国した二人の巡見使に、割間歩の再興と公儀からの三千両の拝借を願い出、出船間ぎわの両名に訴願した。寒さと疲労で磯ぎわに倒れている与右衛門を、家人が発見して命をとりとめたと『佐渡国略記』が伝えている。心願成就して三千両拝借し、寛文十二年から天和二年(一六八二)までに返済が終った。入川銀山・西三川砂金山、また高名な味方孫太夫(但馬)と協力して割間歩を稼ぎ、大盛りを得て莫大な上納をしたとされる。西三川砂金山は、元和元年(一六一五)から年に砂金「六十五枚」で片山勘兵衛らが請負っていたが、金策が尽きて金子どもから訴えられ、与右衛門が延宝四年(一六七六)から稼ぎ始めている。貞享年間にも三千両を公儀より拝借するなど、味方但馬に似て自力開発型の山師として、後世に名が記録された。和田家は最初海士町北側、いまの大日堂の上から下戸町西側にかけて広い屋敷を持ち、のち大工町南側、また左門町にと住居が変わり、明治以後長岡市へ移ったという。柴町の浄土宗専光寺(廃寺)に、一族の古い墓が残っている。
【関連】山師(やまし)・味方但馬(みかたたじま)
【執筆者】本間寅雄
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
和倉勘助(わくらかんすけ)
【生没】一八三八ー一九二三
天保九年八月十三日、雑太郡達者村に生まれる。戸籍名は勘八。大正十二年八月九日死去。沢根の五十里篭町の宮大工、初代明石近陽の弟子。同村生まれの弟子の中に、三浦弥右衛門の名もみえるが詳細についてはわからない。
【参考文献】「沢根村史編さんのための調査資料(謄写刷)」
【執筆者】本間雅彦
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
2005年11月01日
渡辺渡(わたなべわたる)
【生没】一八五七ー一九一九
安政四年七月、数学家渡辺真の長男として長崎に生まれる。明治二年(一八六九)父が大学南校(東京大学の前身)に招かれたのに従い上京、同校に入学して採鉱冶金学を学び、同十二年東京大学(明治十年改称)を卒業して理学士となった。卒業後同校理学部助教授となり、明治十五年六月ドイツのフライブルク鉱山学校に留学、イギリス・ベルギーの鉱山を視察して、同十八年十一月に帰国した。翌十九年三月、帝国大学工科大学教授に任ぜられ、同年七月農商務省四等技師を兼務して鉱山局に勤務した。明治二十年六月下旬佐渡鉱山に赴任し、大島局長が老齢のため東京に居ることが多かったため局長代理を拝命、主として製錬を担当して、神田礼治と共に事業の拡張に努めた。明治二十二年四月、佐渡鉱山が宮内省に移管されて御料局佐渡支庁となると、支庁長となってその事業を受け継ぎ、同二十三年には鉱山学校を設立して校長となった。その後官営八幡製鉄所に移り、その整備に貢献している。大正八年六月二十九日没。
【関連】大島高任(おおしまたかとう)・神田礼治(かんだれいじ)・鉱山学校(こうざんがっこう)
【参考文献】麓三郎『佐渡金銀山史話』、唐沢富太郎『教育人物事典』
【執筆者】石瀬佳弘
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
渡辺漁村(わたなべぎょそん)
【生没】一八五四ー一九一四
安政元年十二月八日生れ。圓山溟北門下の高弟で、一五歳のとき明治維新に遭遇し、参謀民政方として来島した奥平謙輔の「給仕」として仕えた。『佐渡幕末奇事』の著作で知られていて、謙輔の行状、功蹟を回顧した書物では詳細をきわめている。名は耿(正しくは”耿”冠に”衣”)。字は美中。父は奉行所の地役人で蘆舟(号)といい、祖父は友水。先祖は甲州武田家の家臣である。修教館に学んで、明治三年(一八七○)一七歳のとき同館の読師に登用された。同九年に修教館が廃止されたあと新潟に出て、新発田税務署長などを最後に官吏を退職し、明治三十三年ごろ当時の勝間田新潟県知事の推挙で、旧制新潟中学に漢文の先生として勤務した。李白・杜甫の詩を誦するかと思えば英会話を始めるというユニークな授業で、いつも和服姿で赤ら顔、白髪の伊藤博文に似ていたという。漢詩に秀でていて、勝間田知事はじめ坂口五峰らとも親交があり、佐渡では小崎藍川・大久保湘南らが、その教えを受けたとされる。祖父友水は、心働流の剣と田村流砲術の免許をうけた豪傑として知られ、父の廬水は無念流の剣士だったという。大正三年八月に六一歳で没した。漁村の墓は、新潟市四ツ谷町の共同墓地に、渡辺家代々の墓は、相川下山之神町の総源寺に残っている。
【関連】「佐渡幕末奇事」(さどばくまつきじ)
【執筆者】本間寅雄
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)