2005年07月28日

義足の騎手/高橋政次郎

肢体のバランスが問われる騎手業にあって、かつて我が国に義足の名騎手が活躍していたことはご存知であろうか。彼の名は高橋政次郎と言い、公認競馬の草創期から日本ダービーが創設された昭和7年まで騎手として活躍し、その後は調教師に転じて競馬界に多大な功績を残した人物です。
富山の寒村に生まれた政次郎は、小学校卒業と同時に上京して馬術を学び、陸軍の調馬師として採用され、皇族を始め乃木大将等の乗馬の調教に従事していましたが、安田伊佐衛門らの働きで公認競馬が興った明治39年、職を辞して横浜に走り、調教師神崎利木蔵の門を叩いた。19歳のときでした。以来、競馬界で活躍し続けました。ただ帝室御賞典には縁がなく、二着が5回という惜しい成績で終わっています。

(※注)競馬ブック連載「天皇賞の世紀」で明治44年秋季の帝室御賞典の勝ち馬ルリの騎手を高橋政次郎とあるのは誤りで、正しくは高橋諒平です。

政次郎は義足の騎手ということで全国にファンがいたそうですが(デヴュー当初から全国の競馬場で騎乗していて、広く競馬ファンに知られていたというのもあります)、ざっと調べたところ、どの事故が原因で義足となったのかが分からない(^−^)。如何せん彼は落馬事故が多く、引退に追い込まれたのも落馬(調教中に)による古傷の骨折が原因なくらいです。義足となるぐらいですから、余程の怪我でないと考えられません。大正4年7月20日付の『新潟新聞』に以下のような記事が掲載されていました。

> 第二競走に於て競馬に加はれるキルデアの騎手高橋政治郎(ママ)は疾走中、
> 後より駈け来たる馬の為、自己の右足を柵に打ち当て、膝下三分の二の個所を
> 骨折したるも落馬せず競走を終わりて、工藤嘱託医の応急を手当を受けたる後
> に医専病院に舁ぎ込まれたり。

柵に足を打ちつけるのは、かなりの損傷がありそうな気がします。
現にこれ以降、毎年の騎乗数が激減しています。恐らくこの事故だと思うのですが・・・まぁ、改めてちゃんと調べて見ることにします。
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以前に話題にした伊藤勝吉の生涯勝利数について。明治40年〜大正11年の勝ち数はまだ整理中ですが、現在の集計の時点で210勝を超えました。大正12年〜昭和17年の492勝と合計して700勝オーバーを確認しました!! まだまだ勝ち数は増えますよ!あと20勝ぐらいは上積みできるかなぁ〜。でも、伊藤勝吉が騎乗したと思われる大正期の京都競馬の成績が見つかりそうにない・・・。須知の山奥に移転してしまったために、新聞も相手にしてくれていないのです!! なにかよい資料がないかな・・・頭抱えています〜〜。
ちなみに佐藤勇(一般に知られる最初の500勝騎手)以前の500勝騎手としては、もう一人函館孫作がいます。言わずとしれた第一回日本ダービー騎手で、首位騎手も二度(大正13・14年)獲得しています。

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