2012年02月19日
2012/2/19、オカルト・私の思い8・人格
私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
2012/2/18、私の記事
「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。
「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。
「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。
「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。
「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。
「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。
人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。
両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。
両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。
2012/2/19、私の考え
これは、私だけの考えであり、同調することを求めない
脳細胞と無意識を考えるとき、脳細胞が衰退する方向が時間の方向であり、意識(情(zyou))で判断すれば「 過去と現在と未来 」という時制だろう。
脳細胞の新陳代謝が「 生命 」であり、新陳代謝のリズムがバイオリズムであり、無意識を生じ、呼吸が「 現在 」であり、エネルギーを生む「 気 」であり、バイオリズムが集中したのが「 行為 」であると思う。
他者から見れば「 行為 」が習慣となったものが「 人格 」だが、自分の内部では「 関係 」に対する無意識や意識を適用した「 実体化 」であり、過去や未来を行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在 」であると思う。
現在の中で、意識を行為に具現化するエネルギー(気(ki))が「 人格 」であると思う。
「 人格 」はエネルギーであるから無意識であり、「 魂 」であるかも知れない。
これを社会的に考えると人間の行為の総体である「 文化 」であり、社会の過去や未来を人間の行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在様式 」であると思う。
こんなことは私が言う前に、人類の全てが、既に行っている行為だと思う。
何かを考えるのは、行為の可能性を考えているのであり、行為の可能性は、どのような「 人格 」が好きかを選択しているのであると思う。
既に、人は「 人格 」を選択しながら生きているのだと思う。
人は食物でさえ、他の動物や植物を犠牲にしていて、その贖罪のため、常に「 人格の向上 」を義務づけられている。
それが、人が常に行為の可能性を考えている原因だと思う。
お金を選ぶ人や、肉欲を選ぶ人も、それぞれ、「 自分の人格を形成している 」のだと思う。
「 関係 」に、お金や肉欲を当てはめて満足する「 人格者 」である。
そんな人には、お金や肉欲が「 魂 」であるかも知れない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
2012/2/18、私の記事
「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。
「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。
「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。
「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。
「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。
「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。
人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。
両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。
両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。
2012/2/19、私の考え
これは、私だけの考えであり、同調することを求めない
脳細胞と無意識を考えるとき、脳細胞が衰退する方向が時間の方向であり、意識(情(zyou))で判断すれば「 過去と現在と未来 」という時制だろう。
脳細胞の新陳代謝が「 生命 」であり、新陳代謝のリズムがバイオリズムであり、無意識を生じ、呼吸が「 現在 」であり、エネルギーを生む「 気 」であり、バイオリズムが集中したのが「 行為 」であると思う。
他者から見れば「 行為 」が習慣となったものが「 人格 」だが、自分の内部では「 関係 」に対する無意識や意識を適用した「 実体化 」であり、過去や未来を行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在 」であると思う。
現在の中で、意識を行為に具現化するエネルギー(気(ki))が「 人格 」であると思う。
「 人格 」はエネルギーであるから無意識であり、「 魂 」であるかも知れない。
これを社会的に考えると人間の行為の総体である「 文化 」であり、社会の過去や未来を人間の行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在様式 」であると思う。
こんなことは私が言う前に、人類の全てが、既に行っている行為だと思う。
何かを考えるのは、行為の可能性を考えているのであり、行為の可能性は、どのような「 人格 」が好きかを選択しているのであると思う。
既に、人は「 人格 」を選択しながら生きているのだと思う。
人は食物でさえ、他の動物や植物を犠牲にしていて、その贖罪のため、常に「 人格の向上 」を義務づけられている。
それが、人が常に行為の可能性を考えている原因だと思う。
お金を選ぶ人や、肉欲を選ぶ人も、それぞれ、「 自分の人格を形成している 」のだと思う。
「 関係 」に、お金や肉欲を当てはめて満足する「 人格者 」である。
そんな人には、お金や肉欲が「 魂 」であるかも知れない。
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