2011年03月17日

命の価値

5.jpg  福島第一原発の放水。 警察と自衛隊が引っ張り出されましたが、本来なら、原発関係者が負うべき危険を押し付けられたわけで、同情に耐えません。 幹部の方は、「苦渋の決断」をすればそれで済みますが、実際に作業に当たる人間の方は、被曝を避けられないわけで、「死んでくれ」とまでは行かなくても、「健康被害を覚悟してくれ」と言われているのと大差無いです。

  自分達の責任で引き受けたのなら、警察庁長官や防衛相が、自分で行けばいいのに。 それが嫌なら、部下の命を預かる責任者として、はっきり断るべきでしょう。 総理や官房長官が、「どうしても、行かせろ」と言うのなら、「あなたが行って下さい」と、きっぱり、言い返してやればいいのです。 肩書きや立場に関係なく、命の価値に違いは無いのですから。

  警官や自衛隊員は、行けと言われれば行くでしょうが、それは、「誰かがやらなければ、大惨事になってしまう」という犠牲的精神や、義務感・使命感だけではありますまい。 特攻隊員の立場と全く同じで、断ったら世間から非難されるので、「臆病者扱いされるくらいなら、一か八か行って、英雄扱いされた方がいい」と、究極の選択を迫られるのだと思います。

  しかし、本来、彼らには、原発に対して、命を危険に曝さねばならないような責任はありません。 特攻隊のような、理不尽な死を強要されない社会を、戦後の日本は目指して来たんじゃないですかね? 66年間かけて、営々と積み上げてきた価値観を、ここで捨てるんですか?

  「それじゃあ、誰がやるんだ?」とは、誰でも思うと思いますが、東電の幹部や原発推進派の政治家など、原発に対して責任がある人達に、放水車の操作方法を教えて、やって貰うのが一番だと思います。 皮肉や嫌味で言っているのではなく、命が掛かっている以上、責任者が最初に犠牲になるのが、当然の筋だと思うのです。

  一般から志願者を募ったら、結構、手を挙げる人がいるかもしれませんな。 何の為に生きているのか分からない若者など、「自分の存在に何か意味を与えられるのなら」と考えて、出て来る可能性があります。 もっとも、彼らが犠牲になって死んだ後で、生き残った人々は、一ヶ月もしない内に、そんな事は忘れて、のうのうと日常生活を生きていくわけで、それを考えると、馬鹿馬鹿しくも割に合わない献身だと思いますが。

  そういえば、チェルノブイリ事故の時は、爆発した原子炉に砂をかけるために、ヘリコプターが何度も上空まで往復しましたが、パイロットは死を覚悟して任務に当たったそうです。 そして、実際に、ほとんどのパイロットは、大量被曝し、その後、死んだのだとか。 こう書くと、「犠牲は尊いな」と思いますが、今、どれだけの人が、彼らの犠牲に感謝して生きているかと考えると、ほとんど思い出す事さえ無いと思うのです。 それでは、ただの死に損になってしまうではありませんか。
 
Posted by mado at 23:41  | 世上観察 , 哲学

2010年07月11日

Justice L3

6.jpg  ≪ハーバード 白熱教室≫、マイケル・サンデル教授の講義、≪Justice(正義)≫の、第三回です。

  ところで、この講義、24コマあるわけですが、もしこのブログで、週に1コマずつ取り上げていくとすると、24週間かかるわけで、半年近く埋まってしまう事になりますな。 「いいのか、これで?」と、思わんでもなし。 最初は、「自分でテーマを探さなくても済むから、楽でいいわ」などと思っておったのですが、いざ始めてみると、録画を見直すのに結構時間がかかるし、分かり易く噛み砕かれているといっても、やはり、哲学関係の話は頭にかかる負担が大きいのです。 事によったら、いい加減かったるくなった所で打ち切るかもしれませんが、そうなっても悪しからず。


    さて、レクチャー3は、【ある企業のあやまち】です。 ベンサムの功利主義が正しいかどうかを検討し始めるわけですが、講義の誘導の方向を見るに、サンデル教授が、功利主義を間違っていると捉えているのは明白で、功利主義的な考え方の特徴が見られる血も涙も無い事例をいくつか挙げて、「さあ、これでも、功利主義は正しいと思うか?」と、学生達に問いかけます。

  槍玉に上がるのは、損失を回避するために企業が行なう、極端な、≪費用便益分析≫です。 ≪費用便益分析≫とは、ある事を行なおうとする時、かかる費用と、それによって得られる便益を天秤にかけ、やるかやらぬか決めるという判断方法で、それだけならば、一般的にも用いられています。 個人でも、何かを買う時に、この種の計算をしている人は多いと思います。 くれぐれも、≪費用便益分析≫自体が悪いわけではありません。 ここで、教授が取り上げているのは、それが、人命を軽視するほど、極端な方向へ振れてしまった場合の話です。 以下、要点だけ纏めた引用。

≪≪≪≪≪
  最近、チェコ共和国で、タバコの消費税率を上げようという提案があった。 そこで、チェコで大規模な事業展開をしている、アメリカのあるタバコ会社が、チェコに於ける喫煙の費用便益分析を行なった。 その結果、「チェコ政府は、国民の喫煙によって、得をする」という事が明らかになった。 喫煙により病気になる人々への医療費の負担は増えるが、タバコ関連商品の販売による税収と、喫煙者が早死にした場合に政府が節約できる、医療費、年金、住宅費用などを足すと、便益の方が高くなる。 人々が喫煙した場合、チェコ政府の純収入は、1億4700万ドル増加する。 その内、喫煙で早死にした場合、節約できる金額は、一人当たり、1227ドルである。
≫≫≫≫

  この例は、人間の命を計算に入れていないので、もう一つ別に、命に値段をつけた例が挙げられます。

≪≪≪≪≪
  70年代に、アメリカの自動車会社が発売した、≪ピント≫という車があった。 小型車で、とても人気があったが、燃料タンクが後方にあり、後ろから追突されると、炎上するという問題点があった。 事故で亡くなった人もいれば、重傷を負った人もいた。 被害者達は、このメーカーを訴えた。 その訴訟の中で、メーカーが随分前から、燃料タンクの弱点を認識していた事が明らかになった。 タンクの周りに保護シートをつける事を考え、それを実行する価値があるかどうか判断するために、費用便益分析を実施していたのだ。 車の安全性を向上させるためにかかる費用を一台当たり、11ドルとすると、1250万台の車の安全を向上させるには、1億3700万ドルかかる。 一方、それを行なった時に得られる便益は、死者が180人で、一人当たりの価値を20万ドル、負傷者も180人で、一人当たり、6万7000ドル、事故を起こして炎上する車は2000台で、一台当たり、700ドル。 これらを合計すると、便益は、4950万ドルにしかならなかった。 そこで、メーカーは、車を直さなかった。
≫≫≫≫≫

  前者の例では、世論の批判を受けて、タバコ会社は謝罪し、後者の例では、裁判で陪審員達が、巨額の和解金の支払いをメーカーに命じたそうです。

  教授は、二つの例を挙げた上で、学生達に、この極端な費用便益分析を弁護する意見が無いか訊きます。 ところが、ここで何を聞いていやがったんだか、ある女子学生が、「このメーカーは、遺族の苦痛や喪失感を考慮していない。 それは20万ドル程度のものではない」と、弁護どころか、反対意見を口にします。 だからよー、教授の話をよく聞けよ。 弁護する意見を求めているのに、なぜ、批判意見を言うかな? ボケとんのけ?

  この女子学生、教授から、「では、いくらなら妥当だと思うか?」と問われて、「数字で表せるものではない。 人の命をこの種の分析に利用すべきではない」と、保険会社の人が聞いたら、仰天するような事を、平気で言います。 ただの世間知らずか? そんな事を言い出したら、すでに何百年もの歴史がある、生命保険制度そのものが成り立たたんではないか。

  この後、男子学生から、「インフレを考慮しないと」という意見が出て、会場が大ウケします。 頓珍漢な提案だと思われたんでしょう。 しかし、インフレを考慮して、金額を今の価値に換算するのは、マジな話、大変重要な事でして、その男子学生が教授から、「今なら、いくらになると思う?」と訊かれ、「200万ドル」と答えると、会場の雰囲気は、だいぶ変わります。 今のレートで、日本円にすると、2億円弱ですか。 その程度なら、大概の遺族が、少なくとも、補償金額としては、納得すると思います。 一人の人間が、一生稼いでも、普通、2億円まで達しませんからのう。

  この後、別の男子学生が、命の値段を、「100万ドル」と言いますが、それでも、理不尽と感じる額ではありませんな。 問題は、こういう、現代の感覚で計れる金額が出て来ると、それまで、命の金額換算に反発していた学生達も、「そのくらいなら、妥当か・・・」と思い始めるという事です。 数字の魔力が発揮されているわけです。

  教授が、極端な費用便益分析の弁護意見を更に求めると、ある男子学生が、「もし、費用便益分析をしていなかったら、どの自動車メーカーも利益を出せず、倒産してしまうだろう。 そうなれば、何百万もの人達が、車に乗れなくなり、生活に支障を来たし、より多くの幸福が犠牲になっていた」と、ようやく、それらしい弁護意見を述べます。

  ここで、教授が、運転中の携帯電話に関して、「それが引き起こす事故による損失と、運転中に電話を使える事による便益を比較したら、ほぼ同じである事が分かった」と言い、それについて、同じ学生に意見を求めると、やはり、「満足には犠牲がつきものだから、仕方が無い」と答えます。 この学生は、教授から、「君は、完全な功利主義者だ」と言われ、少し照れながら、自分でもそれを認めますが、教授は功利主義を批判する立場ですから、別に誉められたわけではありません。

  この後、教授が、費用便益分析も含めた功利主義の問題点を指摘するよう、学生達に求めると、ある女子学生が、「少数派が蔑ろにされている点が問題だ」と言います。 これは、かなりテーマから外れているような気がします。 命に値段をつけられるかという話をしているのであって、「なんで、ここで、少数派問題やねん?」と首を傾げてしまうのですが、教授は、「面白い意見だ」と、一応、評価します。 それは、たぶん、後々の講義で、少数派問題が大きなウエイトを占めるようになるので、ここで邪険にしないように配慮したのでしょう。 

  この学生、事によったら、教授の著書を読んでいたか、前年の講義内容を知っていて、先回りして教授の自説に近い意見を述べ、気を引いて、≪いい子ちゃん≫になろうとしたのかもしれません。 もし、そうだとしたら、こういうズルい学生は、いつどこにでもいるものですが、そのズルさ故に、≪正義≫を語る資格があるかどうかは、大いに疑問です。

  ここで教授は、功利主義を弁護する学生に向かって、「古代ローマでは、娯楽のために、キリスト教徒をライオンと戦わせていた。 これを功利主義の理論に当てはめると、キリスト教徒の痛みや苦しみと、大勢のローマ人の集合的なエクスタシーでは、どっちが大きいだろう」と、問います。 これに対する学生の答えは、「それは昔の話で、今の為政者は、そんな事はしない」というものでした。 しかし、これでは答えになっておらず、この場合、時代は関係ありません。 教授に問い詰められて、この学生はそれ以上の答えに詰まってしまいます。

  この後、教授が、一つの調査を紹介します。 「1930年代に、ソーンダイクという心理学者が、人間が関る全ての行為を一律な基準で表す事は可能だと考え、それを証明しようとした。 政府から生活保護を受けている若い人達を対象に調査を行なった。 不愉快な行為のリストを渡して、いくら貰えば、それをしてもいいかを訊いたのだ。 たとえば、

・ 上の前歯を一本抜く。
・ 片方の足の小指を切断する。
・ 15センチのミミズを生きたまま食べる。
・ カンザス州の農場で残りの人生を送る。
・ 素手で野良猫を窒息死させる。

  などだった。 この中で最も高い金額が付いたのはどれだと思う?」

  答えは、カンザス州の農場で、30万ドル。 二番目は、15センチのミミズで、10万ドル。 一番安かったのは、前歯だったとか。 ソーンダイクは、この調査から、「人間の行為は、すべて、一律の価値基準で表せる」という結論を出したらしいのですが、サンデル教授は、どうもこの結論に懐疑的なようで、「馬鹿げた例を挙げて調査を行なった事で、それとは正反対の事が示されたのかもしれない」と言って、講義を締めくくります。


  で、以下は、私の意見ですが、

  まず、タバコ会社の費用便益分析ですが、「早死にするから、国の費用は却って少なくなる」という結果には、目から鱗が落ちる思いがしました。 なるほど、そうか。 それなら、悪い話ではありませんな。 私のように、喫煙者を心から恨んでいる者にとっては、非常に小気味よい話です。 ただ、タバコの規制を一切やめて、逆に奨励するような事になれば、受動喫煙で、非喫煙者も早死にするわけで、喜んでばかりもいられません。 もし、自分に火の粉が降りかからないのであれば、文句は無いんですが。

  いや、個人的な都合はさておき、一般常識で考えるなら、このタバコ会社の計算は、批判されて当然でしょうな。 基本的に、この世の中は、人命を最も尊いものとして成り立っています。 人命より尊いのは、人命だけなわけです。 それを軽んじているのは明白で、人類の普遍的価値観に対して、不適な挑戦をしていると言っても良いです。 理屈以前に、こういう考え方で商売をしている会社のタバコを、喫煙者が買わないでしょう。 費用便益分析で、チェコ政府は得をしても、この会社はイメージ・ダウンで損をするわけですな。 費用便益分析が有効だとしても、このケースでは、その効用を活かせていない事になります。

  燃料タンクを直さなかった自動車メーカーも、同じです。 誰が聞いても背筋が凍るような、冷血な計算をして、それで、陪審員や原告を納得させようというのが、土台、無理なのです。 結果的には、和解金の支払命令や、企業イメージのダウンにより、莫大な損失を出すのであって、これでは、ちっとも、得になっていません。 費用便益分析に問題があるというより、考慮に入れるべき範囲が狭すぎて、近視眼的な結論を出してしまっているだけなんじゃないでしょうか。 もし、裁判や企業イメージの事まで含めて、費用便益分析をしていたら、違う結果になっていたろうと思います。

  ローマ人が、キリスト教徒をライオンと戦わせていた話ですが、人命が失われる恐れが極めて高い場合、上に述べたように、人命の尊重は人類の普遍的価値観ですから、それに比較できる価値は人命以外に存在しないという事になり、ローマ人達の集合的なエクスタシーなど、端から天秤にかけられません。 なんで、ズバッと、そう答えてやらんのかのう? 簡単な答えだと思いますが。

  ソーンダイクの調査も面白いですな。 ≪カンザス州の農場≫がトップというのは、若者だから、そういう結果になったのでしょう。 私だったら、挙げられている例の内、唯一受け入れてもいいのは、そのカンザスです。 それ以外は、金の事など一切気にしなくて良い左団扇の生活と引き換えでも、御免被ります。 自分の体を傷つけるのは、問題外。 猫を殺すなど、以ての外。 ミミズはそれほど良心が痛みませんが、自分の健康の方が心配です。 カンザスの農場は、行った事も見た事も無いから、どんな所か分かりませんが、体力相応の仕事を割り振ってくれるのであれば、別に文句はありません。

  そういえば、最も嫌がられたのが、カンザスの農場であると教授が言った時、学生達が大爆笑しましたが、講堂の中には、カンザス出身の学生もいたと思われ、彼らの気持ちを考えると、この講義自体が、≪正義≫を語るに値しないような気がせんでもないです。 なぜ、笑う? カンザス州を田舎視しているからに決まってますが、カンザス州側にしてみれば、笑われる筋合いは微塵もありますまい。 サンデル教授、一緒になって笑ってましたが、一体、どういうつもりなのか? このネット時代、マサチューセッツにいようが、カンザスにいようが、知的活動に差が出るとは思えませんから、いっそ、ハーバード大学ごと、カンザス州に引っ越したらいかが?


  サンデル教授は、何とかして、功利主義の欠点を学生に印象づけようとしているようですが、私としては、功利主義そのものが間違っているのか、効用を判定する範囲の設定が間違っているだけなのか、今のところ判断しかねています。 もし、使い方を間違えているのだとしたら、ベンサムが草葉の陰で黙っちゃいますまいて。
 
Posted by mado at 07:20  | 哲学

2010年07月04日

Justice L2

5.jpg  ≪ハーバード 白熱教室≫、マイケル・サンデル教授の講義、≪Justice(正義)≫の、第二回は、【サバイバルのための殺人】です。

  まず、前回触れた、≪帰結主義≫の中で、最も大きな影響力を持っている、≪功利主義≫について、ざっと説明し、「正しい行いとは、効用を最大化する事だ」、「苦痛よりも快楽、受難よりも幸福」、「最大多数の最大幸福」といった言葉で表される、ジェレミー・ベンサムの思想を紹介します。 でも、そういう前置きはどうでもよくて、今回の眼目も、学生達に向けて出された質問です。 今回の問いの題材は、架空の設定ではなく、生々しい実話。 以下、引用します。


≪≪≪≪≪
  19世紀(1884年)、ミニョネット号というイギリスの船が、南大西洋の、喜望峰から2000キロ離れた所で沈没した。 乗組員は四人。 船長のダドリー、航海士のスティーブンス、船員のブルックス、この三人は人格的に申し分ない人達だった。 もう一人、給仕として乗り組んでいた、パーカーという17歳の少年がいたが、彼は孤児で身寄りが無く、それが初めての長い航海だった。

  船が沈没し、四人は救命ボートへ避難した。 食料は、蕪の缶詰が二つだけで、真水は無かった。 最初の三日間、何も食べずに耐えた。 四日目に蕪の缶詰を一つ開けて食べた。 翌日、海亀を捕まえた。 それから数日間は、もう一つの缶詰と海亀を食べて持ちこたえた。 それ以降の八日間、水も食料も無かった。 給仕パーカーは、ボートの底に横たわっていた。 他の者の忠告を無視して、海水を飲んだために具合が悪くなっており、死が近いように見えた。

  19日目に、船長ダドリーは、みなでくじ引きを行い、「残りの者を助けるために、誰が死ぬかを決めよう」と提案した。 しかし、船員ブルックスが拒否したため、くじ引きは行なわれなかった。

  20日目、船長ダドリーは、船員ブルックスに見ないように言い、航海士スティーブンスに、「パーカーを殺そう」と合図した。 船長ダドリーは祈りを捧げ、給仕パーカーに、「お前の最後の時が来た」と告げ、ペンナイフで頚動脈を刺して殺した。 船員ブルックスは、給仕パーカーが死んでしまうと、その死体を食べる事には加わった。

  四日間、彼らは、給仕パーカーの体と血液で生き長らえた。 三人の生存者は、遭難から24日目に、ドイツの船に救助されて、イギリスに連れ戻されると、逮捕され、裁判にかけられた。 船員ブルックスは国側の証人になった。 船長ダドリーと航海士スティーブンスは裁判にかけられた。 彼らは事実については争わず、「必要に迫られての行為だった」と主張した。 「三人が生き残れるのなら、一人の犠牲は仕方がない」と論じた。 検察官はその議論に惑わされず、「殺人は殺人である」といい、事件は裁判にかけられた。
≫≫≫≫≫


  サンデル教授は、そう事件の経緯を説明した後、学生達に向かって、「自分が陪審員だと想像して欲しい。 議論を単純にするために、法律的な問題は横において、君達は、彼らが道徳的に許されるか否かのみを判断する責任を負っていると仮定する」と、問いかけます。 この、裁判仕立ての質問の仕方がまずかったようで、学生達は、最初少し混乱します。 「法律的には無罪でも、道徳的には非難される場合がある」といった、わざわざ断るまでもない基本的な事を改めて口にしたり、「長い間、食べずにいたのだから、精神的に影響を受けていたと思われ、その点を弁護に使えるかもしれない」といった、道徳議論とは無関係な意見が飛び出したりします。

  ハーバードといえば、アメリカの大学の名門中の名門で、入学基準も国内で最も厳しいそうですが、そんな優秀な頭脳を持った学生達でも、議論の方向性、つまり、サンデル教授が何について話をしているのか、自分達にどんな意見を求めているのかを、すぐには呑み込めないようでした。 いつまでたっても、テーマと関係が無い頓珍漢な意見が出続ける、日本人の≪議論もどき≫ほどひどくはないですが、この後も、本道から逸れる意見が、ちょこちょこ出て来ては、サンデル教授に、やんわりと立ち退けられる場面が見られます。

  まず、「道徳的に、許されるか許されないか」について問うと、大多数の学生は、「許されない」と答えます。 割合は、8対2です。 この数字も面白いですな。 日本の学生だったら、もっと均衡するんじゃないでしょうか。 もし、「どちらなのか判断できない」という選択肢を追加したら、全体の半数は、それを選ぶと思います。 アメリカ人には、子供の頃から、道徳上の罪について、白黒はっきりさせるよう教育されているのかもしれません。 映画を見ているだけでは分からない、アメリカ社会の特徴ですな。

  次に、「殺される当人の同意を得ていたら、許されると思うか」が問われます。 ちょっと、不自然な仮定のように思えますが、この場合、プレッシャーをかけて迫る実質的な強制ではなく、あくまで、自発的な同意である事が前提になります。 この問いには、「許される」と答える学生が多かったです。 続けて、「もし、船長が提案したくじ引きが行なわれていて、給仕パーカーがそれに当たっていたとしたら、彼を殺す事は許されるか」と問うと、「許される」と答える学生の数は、更に増えます。 

  ここで、「そもそも、カニバリズムは、許されない」という意見が出ます。 カニバリズムとは、人間が人間を食べる行為の事です。 ただ、この意見は、重大な問題ではありますが、議論のテーマからは外れているせいか、賛同者が出て来ません。 教授が、「すでに死んでいたとしても、食べる事は許されないか」と問うと、「許されない」という答え。 「(この情況で)殺す事が許されるか許されないか」がテーマなのですから、もう完全な逸脱ですな。 食人不可を言い出したら、「遭難者は、餓死して当然」という事になってしまい、この議論そのものが成り立ちません。 大体、「なぜ、カニバリズムは許されないのか」について語り始めたら、この議論よりも遥かに大きな問題になってしまいます。 

  最後に、「くじ引きなどによる公正な手続きや、殺される当人の同意があったとしても、尚、この行為は許されない」と思う者の意見が訊かれます。

  ある学生は、船長ダドリーが、日記に、救助された時の様子を、「24日目に、私達が≪朝食≫を食べていると、ふいに船が現れた」と書いている点を指摘して、「良心の呵責が感じられず、許されない」と言います。 しかし、これも、テーマからズレていますな。 船長ダドリーが、どういうつもりで、≪朝食≫という表現を用いたかは分からないのであって、単に、昼食や夕食と区別するためだけに、そう書いた可能性もあり、それだけでは、良心の呵責が無いとは判断できません。

  別の学生は、「殺人は殺人であり、どんな情況であっても、例外を作るのは許されない」と言います。 教授が、「生き残った三人には、故郷に養っている家族がいた。 一方、給仕パーカーは、身寄りが無い孤児だった。 三人が死ねば、彼らの家族も路頭に迷う事になったが、それでも許されないか」と訊いても、「殺人は殺人です」と答え、「もし、これが3人ではなく、30人、300人、戦争中で3000人の命がかかっていたとしたらどうか」と訊いても、やはり、「殺人は殺人です」と答えます。 頑なですな。 あまり頑ななので、頼もしささえ感じますが、しかし、この「殺人は殺人」という言葉、事件当時の検察官の使った言葉でして、どうも、それに影響されているだけのような気もします。


  この講義、どこを切っても、実に知的で面白いんですが、学生達の意見が思い思いに広がってしまい、サンデル教授が進めたい方向になかなか纏まってくれないという弱みがあります。 この回で、最終的に教授が導きたかったのは、

1. どこから、基本的権利は来ているのか?
2. 公正な手続きは、どんな帰結も正当化するか?
3. 同意の道徳的な働きは何か?

  という三つの質問の提起だったらしいのですが、学生との議論だけ聞いている分には、話はそんな方向には進まなかったのであって、最後に教授一人が強引に引っ張って纏めたようにしか見えません。 しかし、もともと、難しい方法で講義を進めているのですから、あまり厳しい事は言うべきではないのかも知れません。 あくまで、講義が目的なのであって、学生の意見を聞くのは、その手段の一つに過ぎませんから。


  で、この、≪ミニョネット号事件≫に対する私の意見ですが、もし、私が陪審員だったら、答えは出せません。 こういう極限状況においては、その場にいたものにしか判断できない事柄があるのであって、陸で何の苦労もせず、たらふく飲み食いしていた人間に、彼らを裁く資格はないと思うからです。 当時のイギリスの法廷でも、陪審員達は、「違法性があるかどうか、判断できない」と評決したそうです。 妥当ですな。 ちなみに、当時の裁判は、その後、高等法院に持ち込まれて、有罪、死刑とされたものの、世論の反対が強く、女王の特赦で、禁固6ヶ月に減刑されたそうです。 まあ、さんざん苦労した上に、国に帰って死刑にされたんじゃ適いませんわな。

  しかし、陪審員としては判断不能ですが、もし、給仕パーカーの立場だったとしたら、船長と航海士を許しはしません。 冗談じゃねーす。 それでなくても苦しい思いをさせられているのに、その上、殺されてたまるもんですか。 その情況で犠牲にならなければならない理由など、ロボロフスキー・ハムスターの小指の爪の先ほどもありゃしません。 他の三人は、故郷に家族がいる? 馬鹿おっしゃい! 家族が困るといっても、餓死するわけでも殺されるわけでもありますまいに。 なんで、そんな見ず知らずの連中の生活を安んじてやるために、自分が殺されなければならんのよ?

  そもそも、家族なんて、職務と全然関係ないではありませんか。 ちなみに私は、扶養手当とか、育児手当とか、役所や企業が行なっている、そんな制度にも、根本的・全面的に反対です。 職場へはみな、仕事をしに来ているのであって、家でどんな生活をしていようが、知ったこっちゃありません。 そんな事は、互いに干渉されたくもないし、特殊な条件にある人間だけを、他の人間が助けてやる義務も無いと思います。 なんで私が、見ず知らずのおっさんの、輪を掛けて見ず知らずの家族の分まで働かなきゃならんのよ。 理不尽にも程がある! 責任者はどこか!

  他方、もし、船長の立場だったとしたら、とりあえず、給仕パーカーが死ぬのを待ちます。 死ぬ寸前でも、死んだ直後でも、食料としてのパーカーに、さほどの違いはありません。 死んだ後なら、障碍になるのはカニバリズムの問題だけで、法律的には、罪に問われる事はないと思われるからです。 もし、航海士や船員の立場だったら、船長に、「後々、厄介な問題になりかねないから、パーカーを食べるにしても、死ぬのを待とう」と進言します。 

  つまり、もし、私だったら、船長と航海士が取った行為は、選ばなかったという事になりますな。 ただ、だからといって、私は彼らの行為を裁く事はできません。 それは、陪審員の立場の所で述べた理由によります。

  この事件の場合、たまたま、三人が助かったから、裁判の対象になったわけですが、もし全員死んだ後でボートだけ発見され、最後の一人によって記録されていた事件の顛末が世に知れたとしたら、彼らが行なった殺人行為を非難する者がいたかどうか、大いに疑わしいです。 現在でも、こういう難波漂流事件は起こりますが、生き残った人間を罪に問う事はほとんど無いのではないでしょうか。
 
Posted by mado at 06:31  | 哲学

2010年06月27日

Justice L1

4.jpg  もう終わってしまいましたが、つい先週まで、教育テレビの日曜午後6時から、≪ハー4ード 白熱教室≫という番組をやっていました。 ハーバード大学の、マイケル・サンデル教授が、大きな講堂に千人以上の学生達を集め、彼らと議論しながら進めた政治哲学の講義、≪Justice(正義)≫の様子を録画したものです。

  ハーバード大学では、講義は非公開が原則らしいのですが、この講義はあまりにも面白く、人気があったために、特例として、テレビ・カメラが入るのを許したのだとか。 NHK教育は、それを買って、放送しただけなわけですが、おそらく、過去に日本のテレビで放送された番組の中で、最も知的レベルが高いシリーズになったと思われます。

  取り上げている対象自体は、政治哲学の講義として、さほど珍しくない内容だと思いますが、過去の著名な哲学者達の説をただ紹介するだけでなく、問題を身近な例に置き換えて、学生達に考えさせ、彼らの意見を聞きながら講義を進める形式が、実にユニークです。 単に風変わりなだけでなく、この形式の方が、学生達に与える印象は確実に強くなりますから、教育方法としても、優れているわけですな。 サンデル教授の、教育者としての高い能力の賜物でしょう。

  私の場合、たまたま、放送時間にチャンネルを回し見していて、「おや! 面白そうなものをやっているぞ!」と飛びついて、知る事ができたのですが、教育テレビですし、時間も夕方と中途半端で、見逃した人も多かった事でしょう。 新聞でも、関係書籍の書評が一度出た程度で、そんなに話題にはなりませんでしたし。 しかし、これを見なかったのは、知的な事柄に興味がある人にとっては、相当痛い損失だと思います。 もし、DVDが出たら、買って見ても、損は無いような内容です。 

  放送は、全12回でしたが、一回が前半と後半に分かれていて、それぞれ30分ずつ、講義のレクチャー数にして、全部で24回分ありました。 私は録画して、毎回、3度くらい見直しましたが、それでも、全部理解できたかどうか分からない程度のレベルでした。 学生達に向けて出された、身近な例の質問が面白いので、ここで紹介して、私も考えてみようと思います。


  ≪レクチャー 1≫のテーマは、【犠牲になる命を選べるか】です。

≪時速100kmのスピードで走っている路面電車を運転している時、ブレーキが壊れている事に気付いた。 前方には5人の労働者がいて、そのまま直進すれば間違いなく5人とも轢き殺してしまう。 しかし、その手前に待避線があり、そちらへ行けば、1人の労働者を轢き殺すだけで済む。 あなたならどうするか?≫

  この質問に対し、ほとんどの学生は、1人を殺す方を選びます。 まあ、単純な算数ですな。 どうせ犠牲が避けられないなら、その人数は少ない方がいいという判断です。 ところが、サンデル教授は、もう一つ、質問を付け加えます。

≪ブレーキが壊れて、時速100kmで暴走している路面電車の情況は同じだが、今度は、あなたは運転手ではなく、線路の上に架かる橋から電車を見下ろしている傍観者である。 ふと気づくと、自分の隣に物凄く太った人物がいて、欄干から身を乗り出さんばかりにして、突進して来る路面電車を見ている。 その人物を橋から突き落として、路面電車にぶつければ、1人を犠牲にするだけで、5人の労働者を助ける事ができる。 さて、あなたはそうするだろうか?≫

  「1人を犠牲にして、5人を助ける」という設定は同じなのに、面白い事に、この質問には、大半の学生が、「突き落としたりしない」と答えます。 「この違いはなぜか?」と教授が問うと、学生の一人の答えは、「隣にいた太った人物は、ただそこにいただけで、事件とは無関係である。 無関係な人間を犠牲にはできない」と答えます。 それに対して、教授は、「待避線にいた労働者も、ただそこにいただけで、無関係である事に変わりは無いのでは?」と、指摘します。 その学生は、返答に窮してしまいました。

  もう1人の学生の答えは、「第一のケースでは、自分が運転手という当事者だったが、第二のケースでは傍観者であり、隣の人物を突き落とさなければ、事件に関与しない。 二つのケースの情況は異っている」と答えます。 教授は、この件については、それ以上、話を進めず、また別の質問を繰り出します。

≪あなたは、病院に勤務する医者だ。 そこへ、事故にあった6人の患者が搬送されて来る。 1人は重傷、5人は中程度の怪我である。 重傷の1人をつきっきりで治療すれば、その人は助かるが、残りの5人は死ぬ。 対して、5人を治療すれば、5人助かるが、重傷の1人は死ぬ。 さて、どちらを助けるか?≫

  学生達の答えは、大半が5人を助けるというものでした。 これも、算数の問題ですな。 犠牲者は少ない方が良いわけです。 そこで、教授はもう一つのケースを質問します。

≪今度はあなたは移植医である。 生きるために臓器移植が必要な患者を5人抱えている。 それぞれの患者が必要としている臓器は異なっている。 その時、あなたは、隣の部屋に、健康診断を受けに来た健康な人物が一人いる事を思い出した。 彼は昼寝をしている。 彼を殺して、その臓器を移植すれば、5人を助ける事ができる。 さあ、あなたはそうするだろうか?≫

   学生達の答えは、「そんな事はしない」というものでした。 ちょっと考えると、この問題も、「1人を犠牲にして、5人を助ける」という、路面電車の問題と同じ情況を設定している事が分かります。

  「結果が良くなる事が、正しい判断である」という考え方を、≪帰結主義≫というらしいのですが、「5人が助かるなら、1人を殺してもいい」という判断が、常に人々に支持されるわけではなく、帰結主義とは違う考え方が、人々の道徳意識には存在するという事を、教授は伝えたかったようです。

  これらの問題には、教授から正しい回答が示されるわけではなく、講義初回の導入部として、学生達の興味を哲学の問題にひきつけるために撒かれた餌のようなものだったようです。 この一連の講義では、この後も、学生達の意見に対し、「それは間違っている」とか、「それが正しい」といった、教授の判断が下される事はありません。 学生達に考えさせる事が目的であって、定説をそのまま教えようとは望んでいないからでしょう。

  サンデル教授の講義方針はさておき、路面電車の問題ですが、一体、どの判断が正しいんでしょうかね? もし、私が運転手だったとしたら、待避線には入りません。 「犠牲者は、5人より、1人の方がいい」という計算自体をせずに、そのまま、電車の進むに任せます。 そして、事故の後で、「パニックに陥って、何の判断もできなかった」と、弁明します。 もし、「5人より、1人」という計算をして、1人を殺してしまった場合、その1人の遺族に合わせる顔が無いからです。

  いかにやむを得なかったといっても、計算した上で、故意に、その1人を殺す方を選んだ事に変わりは無いですから、遺族としては、運転手を恨まないわけには行かないでしょう。 一方、5人殺してしまっても、「パニックで、何もできなかった」と言われれば、遺族は納得しやすいです。 もっとも、サンデル教授は、哲学的問題の例として、この設定を考えたのであって、こういう現実的な、生々しい回答を欲していたわけではないと思いますが。 これはこれで、別の問題の回答ですな。

  太った人物を橋から突き落とす方ですが、これは、考えるまでも無く、そんな事はしません。 「いくら巨漢であっても、時速100kmの路面電車を止められるかどうか分からない」とか、「うまく、電車の前に落ちるか分からない」とか、「そもそも、そんな大きくて重い人物を、突き落とせるかどうか分からない」とか、不確定要素が多過ぎる事もありますが、たとえ、その人を落とせば、確実に電車を止められると分かっていても、それをやったら、殺人でしょう。 「労働者5人を助けるためだった」といって、納得してくれる人がいるとは思えません。

  1人の重傷者と、5人の中傷者の問題ですが、もし、私が医者だったら、6人とも、均等に治療をします。 結果的に、6人全員が死んでしまったとしても、その事で、批判される事はないと思われるからです。 「うちの人だけ治療してくれれば、助かったのに!」とは、遺族の方で言えんでしょう。 たとえ、結果が悪くなっても、最善を尽くしさえすれば、それで、医者の義務は果たせるのです。 

  ちなみに、大災害の時に、怪我の程度によって、治療に優先順位をつける、≪トリアージ≫という手法がありますが、私は、あれにも反対です。 もし、自分の親が大怪我をして、それを背負って、救護所に駆けつけた時、「重傷過ぎるから、治療しても無駄」と判断され、放置されたら、キレてしまいますよ。 事によったら、そう判断した医者を、どさくさ紛れに殴り殺すかもしれません。

  たとえ、結果として、一人も助けられなくなるとしても、治療は、全員に均等に施すべきだと思います。 生き残る権利は、誰にでも均等に存在するからです。 「怪我が重い者ほど、生き残る権利が少ない」なんて、よく考えてみれば、滅茶苦茶ではありませんか。 常識的に考えれば、全く、逆でしょうが。

  トリアージは、野戦病院で始まった手法だそうです。 戦場では、戦闘可能な者が多い方が、全員が生き残る確率が高くなるので、重傷者後回しに理由が無いわけではありませんが、災害では、全く情況が違います。 時間が経過すれば、外部から救援が来るのですから、優先順位をつけるよりも、救援が来るまでの間、全員をいかに生き延びさせるかの方が重要な目標になります。 どこの誰だ、戦場の手法を、そのまま災害に当てはめようとした、考え足らずの馬鹿は?

  話を戻します。 5人を助けるために、無関係の1人を殺して、臓器を移植するという問題は、これまた、考えるまでも無く、殺人ですな。 サンデル教授得意の、身近な雰囲気がある設定ではあるものの、実際には起こりえない情況でして、例として適当かどうか、大いに疑わしいところ。


  こうして見ると、≪帰結主義≫というのは、あまり現実的ではないようですな。 実際の社会では、「結果良ければ、すべて良し」というのは通用しないのであって、「経過がどうだったかが大事」というケースが多いわけです。 そして、私達はみな、哲学の問題の中にではなく、実際の社会に住んでいるのです。
 
Posted by mado at 06:07  | 哲学