2008年07月29日
寛徳院さまの話
寛徳院 真宮理子さま(かんとくいん さなのみや・まさこ、1691〜1710)
8代将軍・徳川吉宗公の正室で、伏見宮貞致親王の王女。
真宮さまは、紀州藩主となった徳川吉宗公の正室として江戸へ下り、紀州徳川家に嫁いだとされています。
紀州徳川家2代藩主・徳川光貞公(吉宗公の父)の正室である安宮照子(やすのみや・てるこ)さまも伏見宮家の生まれでして、真宮さまの伯母にあたります。
さらに4代将軍・徳川家綱公の正室である高巌院さまも伏見宮家のうまれで、安宮さまの妹であり、真宮さまにとっては叔母にあたります。
真宮さまは、姑が実の伯母であることから紀州徳川家にとてもなじんだともいいます。
紀州徳川家の上屋敷は、赤坂にあったといい、明治には「赤坂離宮」となり、現在は赤坂・迎賓館になっています。
吉宗公とのあいだに子供ができますが、死産だったとされていて、まもなく真宮さまも後を追って亡くなります。まだ20才だったといいます・・・・・。
死産した姫さま(種縁院さま)とともに東京・池上本門寺に埋葬されて、「寛徳院」と号されています。
真宮さまの死後、吉宗公は二度と正室を迎えることなく、紀州藩主から8代将軍として江戸城に入ります。
吉宗公の子で9代将軍となった徳川家重公の正室である証明院さまは、真宮さまの姪で伏見宮家から将軍家に嫁ぎ「御台所」となった比宮増子(なみのみや・ますこ)さまでした。
江戸後期、紀州藩主となった徳川慶福公は、伏見宮家の王女と婚約しますが、14代将軍・徳川家茂公として江戸城に入って伏見宮家の王女とは「婚約解消」となったといいます・・・・・。
真宮さまは、いまも東京に眠っています。
旧紀州徳川家屋敷だった東京・赤坂の迎賓館はこちら
//www8.cao.go.jp/geihinkan/photo.html
8代将軍・徳川吉宗公の正室で、伏見宮貞致親王の王女。
真宮さまは、紀州藩主となった徳川吉宗公の正室として江戸へ下り、紀州徳川家に嫁いだとされています。
紀州徳川家2代藩主・徳川光貞公(吉宗公の父)の正室である安宮照子(やすのみや・てるこ)さまも伏見宮家の生まれでして、真宮さまの伯母にあたります。
さらに4代将軍・徳川家綱公の正室である高巌院さまも伏見宮家のうまれで、安宮さまの妹であり、真宮さまにとっては叔母にあたります。
真宮さまは、姑が実の伯母であることから紀州徳川家にとてもなじんだともいいます。
紀州徳川家の上屋敷は、赤坂にあったといい、明治には「赤坂離宮」となり、現在は赤坂・迎賓館になっています。
吉宗公とのあいだに子供ができますが、死産だったとされていて、まもなく真宮さまも後を追って亡くなります。まだ20才だったといいます・・・・・。
死産した姫さま(種縁院さま)とともに東京・池上本門寺に埋葬されて、「寛徳院」と号されています。
真宮さまの死後、吉宗公は二度と正室を迎えることなく、紀州藩主から8代将軍として江戸城に入ります。
吉宗公の子で9代将軍となった徳川家重公の正室である証明院さまは、真宮さまの姪で伏見宮家から将軍家に嫁ぎ「御台所」となった比宮増子(なみのみや・ますこ)さまでした。
江戸後期、紀州藩主となった徳川慶福公は、伏見宮家の王女と婚約しますが、14代将軍・徳川家茂公として江戸城に入って伏見宮家の王女とは「婚約解消」となったといいます・・・・・。
真宮さまは、いまも東京に眠っています。
旧紀州徳川家屋敷だった東京・赤坂の迎賓館はこちら
//www8.cao.go.jp/geihinkan/photo.html
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この記事へのコメント
暑いですね〜〜(^^;)
素朴な疑問ながら、将軍家や御三家は御台所や御簾中を迎える時は、宮家の場合は、大抵、伏見宮家の姫君からお迎えしますが、他にも宮家はあったと思いますが、何故伏見宮家なのでしょうか?
素朴な疑問ながら、将軍家や御三家は御台所や御簾中を迎える時は、宮家の場合は、大抵、伏見宮家の姫君からお迎えしますが、他にも宮家はあったと思いますが、何故伏見宮家なのでしょうか?
Posted by A at 2008年07月30日 15:03
お暑うございます。
ご質問ですが、江戸中期まで「宮家」は伏見宮しかなかったからだとおもいます。
江戸中期に新井白石氏が皇族の「宮家創設」と「皇女降嫁」を奏上したことがきっかけで、有栖川宮家、閑院宮家、桂宮家など4つの宮家が創設されていますね。
それまでは、皇子、皇女はご出家、または一代、つづいても3代限りの宮で臣籍降下(臣下として公家となること)して、ほとんどご子孫が「皇族」として残ることができなかったからだとおもいます。
これは皇位継承者を除いて、経済的に扶養されるだけの資産が当時の朝廷にはなかったためといいます。
新井白石氏の奏上によって「伏見宮家」以外にも「宮家」ができて、時の天皇から「知行(いまでいう収入)」を与えられるようになったといいます。
(これには6代将軍正室の天英院さまの影を感じますが・・・)
伏見宮家は、室町時代から「家」として存続することができたために徳川将軍家、ご三家などにおこし入れができたのだと思います。
ご質問ですが、江戸中期まで「宮家」は伏見宮しかなかったからだとおもいます。
江戸中期に新井白石氏が皇族の「宮家創設」と「皇女降嫁」を奏上したことがきっかけで、有栖川宮家、閑院宮家、桂宮家など4つの宮家が創設されていますね。
それまでは、皇子、皇女はご出家、または一代、つづいても3代限りの宮で臣籍降下(臣下として公家となること)して、ほとんどご子孫が「皇族」として残ることができなかったからだとおもいます。
これは皇位継承者を除いて、経済的に扶養されるだけの資産が当時の朝廷にはなかったためといいます。
新井白石氏の奏上によって「伏見宮家」以外にも「宮家」ができて、時の天皇から「知行(いまでいう収入)」を与えられるようになったといいます。
(これには6代将軍正室の天英院さまの影を感じますが・・・)
伏見宮家は、室町時代から「家」として存続することができたために徳川将軍家、ご三家などにおこし入れができたのだと思います。
Posted by はなかたみ at 2008年07月30日 16:47

